考察…ラストシナリオ編




 このゲームはラストエンディング部以外については明確にされている設定も多く、いわば謎に包まれているのはラストエンディングのみ、とも言えると思います。

が、テキストがとにかく長いので前に語られていたことを忘れてしまいがちです。

 ここでは、いくつかの事項についてまず整理・検討したのち、ラストエンディングについて考えてみたいと思います。








第1章:翼人と呪い




 翼人についてシナリオ中で語られている特徴は、




・親から子へ、この星の記憶を無限に継いでいく存在である。

・不老不死ではなく、記憶は一種の呪文により引き継がれる。

 この際、当人にかけられた呪いもまた、記憶と共に引き継がれる。

・大地や海や空に住むものすべてに無限の恵みがもたらされるよう、幸せであり続けなければならない存在である。

・星の記憶を担う最後の子には、幸せな記憶が必要である。

 そうしなければ、星の記憶が幸せでありつづけることができないため、眠りにつくことができない。




 そして八百比丘尼は、以下のような呪詛を掛けられました。




・(相手が誰かは描かれていないが)人心と二度と交わらないよう、心を寄せてくる者を弱らせて死に至らしめる。
 神奈は、八百比丘尼の呪いを引き継いだ上に、さらに以下のような術を掛けられました。

・彼女の持つ思い出を、彼女の心と共に打ち砕く呪い。
 これは、結果的に彼女が幸せな記憶を持つことを許さなくなった呪いと考えられる。

・天空に彼女の魂を捕らえる術。
 こちらは「封術」であり、年月と共に朽ち果てていく。
 この封術が朽ち果てると、神奈の魂は地上に戻って輪廻転生することができる。




 八百比丘尼は、おそらく神奈が母親である自分と会わなければ、記憶を継がずに済む=呪いを継がずに済むと考えたのでしょう。

八百比丘尼は高野に捕われることによって生き長らえており、神奈が人と同様な幸せを見つけて先に死んだ場合、星の記憶を最後に持つ者は八百比丘尼となり、空に捕われるのは八百比丘尼となるでしょう。

 しかし実際には神奈は八百比丘尼の元にやってきてしまい、記憶を渡さざるを得なくなってしまったと考えられます。

八百比丘尼が、神奈と柳也と裏葉との間に幸せな絆があると考えたからかもしれません。







第2章:神奈が空に束縛される理由




 もともと、神奈は最後の翼人でした。
つまりエンディング直前に語られる話にあるように、神奈は星の最初の記憶と、幸せな記憶の二つを持って、眠りにつくはずの存在だったわけです。
ここで、眠りにつく、というのは、輪廻転生するのではなく大気(AIR)に霧散することを指します。
(これは、エンディング直前で語られる「わたしはいつまでも、あなたと共にあるのです」というセリフから分かります。)

 ところが実際には、神奈は掛けられてしまった呪いのために、霧散するための条件である「幸せな記憶」を持つことが出来ませんでした。
その結果、その魂は(封術が解けて束縛がなくなっても霧散することができずに)輪廻せざるを得ない状況に置かれてしまったわけです。

 翼人はすでに絶えてしまった以上、神奈が輪廻する先は人間しかありません。
翼人が翼人に記憶を継ぐには呪文を使いますが、人間は夢を見るという形でその魂を受け取っていく。
しかし、人間の魂の器では神奈の魂を受け取るには足りず、その結果、神奈が輪廻する先となるべき人間は少女のまま死んでしまう。

 つまり、神奈が空に束縛されているのは「輪廻の先となるべき人間の魂の器が小さいため」ということになります。
神奈の魂が別の生き物に輪廻することができたとき、初めて神奈は空の束縛から解放され、そして星の記憶を継ぐ使命は輪廻の先となる人間に託されるのです。







第3章:神奈と観鈴の関係




 ここで一度、神奈と観鈴の関係を再整理すると、




・神奈の魂は、空の封術が解けた段階で地上に輪廻することができるようになる。

・輪廻後の肉体は最初から前世の記憶を持っているわけではなく、あたかも後から記憶が脳に注ぎ込まれるかのごとくに追加されていく。

・このとき、輪廻後の肉体(脳)のキャパシティを越える記憶が流し込まれてしまうと、その記憶が壊れると同時に、精神崩壊が起きてしまう(=全てを忘れていく)。




 そらが往人の記憶を取り戻していった際の状況と、観鈴が神奈の記憶を取り戻していった際の状況とを併せて考えると、




・輪廻が上記のような形で起こった場合(本人たちの意識する形、すなわち産まれた直後などではなくある程度人格が形成されてから起こった場合)、前世の魂が自身の魂の一部に取り込まれる。




と考えられます。

つまり、




・観鈴は観鈴の人間としての魂を持って最初に生を受けたのち、神奈の魂を夢という形で少しずつ受け取っていく。

・神奈の夢を観鈴が見終えた場合(=神奈の魂が観鈴にすべて入り込んだ場合)、そのとき神奈は空から解放され、観鈴は神奈と一体になる。




と考えられ、最後の夢(地球の最初の記憶である、恐竜の夢)を見終えた段階で神奈の魂は観鈴に取り込まれ、結果、空から解放されたと思われます。







第4章:往人の役割




 柳也と裏葉は、神奈が助かる方法を見つけることができませんでした。

これは、つまるところ、人間の魂の器の大きさを変えることができないことに起因しています。




 観鈴は、夢を見始めたのち、往人が消える直前に一度死にかけています。

これは、今までの少女がそうだったように、観鈴自身もまた、神奈の魂(記憶)をすべて受け取れるだけの魂の器を持たなかったからです。

その魂の器を大きくしたのが、往人の持っていた人形(正確にはそれに籠められていた、今までの往人の先祖たちの力)だったと考えられます。




 観鈴が病んでいくのと、往人が病んでいくのは一見似てはいますが、事情は多少異なると考えるべきでしょう。

というのは、翼人に掛けられた呪いは翼人に心を寄せる人間に対して降りかかるものであり、輪廻先の人間が病んでいくのは、魂の器が壊れていくためです。

だから、輪廻先の人間は、肉体が病んでいくのと同時に記憶を失っていくわけです。

このため、魂のキャパシティが増えれば観鈴は一時的には具合がよくなります。

翌日、観鈴がふらつきながらもジュースを買いに行けたのはそのせいと考えられるでしょう。




 往人はいわばプレイヤーの分身であるため、往人がカラスに輪廻してしまった時点で物語の主役から外れてしまったことや、観鈴に対して何にも出来ていないことのふがいなさなどに疑問や不満を感じられる方々も多いようですが、それはこのゲームに対して自分を往人に投影したり、恋愛成就をこのテーマの主題と勘違いしてしまったことに由来するものです。

しかしこのゲームが、人間の営みの繰り返しの最小単位として「家族」(母子の絆も含む)を捉えていることは、他のシナリオで繰り返される描写を見ても明らかと思います。




 神奈の魂を受け取るということは観鈴にしかできないことです。

このとき、往人の役割は「観鈴の彼氏」でいることではなく、観鈴のそばにいて、観鈴を温かく見守る「家族」でいることなのです。

このことを描くためには、往人は観鈴にとって勇気を与えてくれる人ではあっても、彼氏としてそばに居続ける人であってはならない。

彼氏が入り込んでしまうとテーマとしての「家族」が薄れてしまい、恋愛色が強くなって作品のテーマがボケる危険性がある。

シナリオの必然から考えると、往人が鳥に輪廻するというのはごく自然ななりゆきと思います。




 だから、往人の役割は、どんなときでも観鈴のそばにいること、そして観鈴がくじけそうになったときに彼女を笑わせてあげること(=彼女に幸せな記憶を作ってあげること)なのです。

それが家族であり、引いては彼女の幸せ、彼女のゴールにもつながるのです。







第5章:観鈴のゴール




 ではシナリオ中に出てくる観鈴の「ゴール」とは何でしょうか?

それは、神奈と翼人のことを考えると答えが出てくると思います。




 神奈の魂は、自分の魂を受け取ることに耐え切れる少女に出会うことが出来ずに空に束縛されている。

観鈴はその不幸な神奈と、今まで神奈の魂を受け取れずに死んでいった女の子たちの不幸な物語を終わらせることを望んでいます。

つまり、一つには、『神奈の魂を自分に受け取り切ること』を目的としています。




 しかし、神奈の魂を観鈴が受け取ったとき、観鈴には翼人の使命をも受け取ることになります。

最後の翼人は、幸せな記憶と共に眠りにつかなければならない。

つまり、幸せな記憶を持てずに観鈴が死んでしまった場合、観鈴の魂は神奈と同様に、また再び輪廻を繰り返し、同じ不幸が繰り返されることになるのです。




 だから、観鈴は決意するのです。




 「わたし、がんばるからね。お母さんと一緒に。」




と。

神奈と観鈴が憧れたものは、ささやかな幸せ、暖かな母のぬくもり、そして家族だったから。




 神奈のすべての魂を受け取って神奈を空の束縛から解放し、さらにその不幸が繰り返されないよう、自ら幸せな記憶を作り、そして眠りにつくこと。

それが観鈴のゴールなのです。

だから、観鈴は最後の3歩を踏み出したのち、眠りにつくのです。







第6章:そして僕らには始まりを




 AIR最大の謎にして解釈が難しいのは、やはり最後の二人をどう考えるか、でしょう。

このシーンをどう捉えるかは、以下のセリフとシーンをどう解釈するのかに依存しています。




・そらが空に旅立つときのセリフ「そして、いつの日か僕は彼女を連れて帰る。新しい始まりを迎えるために。」

・そらが空に飛び立った最後のセリフ「帰ろう、この星の大地に。」

・エンディング前の「別れの時が来ました」以下の一連のセリフ

・二人の子たちが語る「この先に待つもの…無限の終わりを目指して」




まず、この二人が誰かの生まれ変わりと考えるべきなのか、それとも単なる子供と考えるべきなのか、という議論があると思いますが、「彼らには、過酷な日々を」「この先に待つもの…無限の終わりを目指して」といったセリフは偶然出てきたものとは考えづらいので、往人や観鈴と何らかの関係を持っていると考えるべきだと思います。

もちろん、それが生まれ変わりという関係である必然はないと思いますが(例えば観鈴を悲劇の運命を背負った少女、浜辺の女の子を悲劇の運命を持たない人間の少女の代表(象徴)、といった捉え方でも作品のテーマを考える上では十分でしょう)、ここでは誰かの生まれ変わりである、という仮説の元に考えを進めてみたいと思います。




 さて、具体的に誰の生まれ変わりなのかを考える前に、まずこのゲームにおける「転生」が何なのかを考える必要があると思います。

 このゲームにおいて、明確に転生(別の生き物への生まれ変わり)が描かれているのは2回だけです。




・神奈が、幸せな記憶を掴むことができずに眠りにつくこと(大気に霧散すること)ができず、果たせなかった思いを観鈴に託すケース。

・往人が、観鈴のそばで彼女を笑いつづけさせることが自分の幸せだと気付いたものの、それを果たせなかった思いをそらに託すケース。




 しかしこれらの場合に関しても、AIRにおいては通常の『転生』という言葉が指す「生まれつき記憶を持って別の生き物に生まれ変わる」のとは異なり、後天的に他者の記憶が産まれてくることから、例えば観鈴のケースでは最初の段階では観鈴だけの魂が存在していると考えられ、輪廻前後の人格(魂)そのものは別個であると考えられます。




 また一方、裏葉は柳也にこう語ります。




 「子をお残しになれば、柳也さまのご意志も残せましょう?」




と。




 このゲームでは、死や別れが避けがたいものとして描かれていますが、たとえ本人が死んでもその子孫が意志(翼人の場合は記憶も含む)を継いでいくものとして描かれています。

しかし、子供がいなかった場合、つまり意志を引き継げるものがいなかった場合は?

神奈や往人のように、想いだけが残る。




 つまりこのゲームにおいては、意志や記憶を引き継ぐ方法には子孫へその意志を継ぐ方法と、魂の輪廻(他者への意志の引継ぎ)という方法の二つがあり、魂の輪廻とは子供が意志や記憶を引き継げなかった場合に起こるものだと考えられます。




 こう考えると、柳也、裏葉、八百比丘尼、往人の母たちは子に継ぐことによって自身たちの魂は成仏できたと考えられますが、神奈(観鈴)と往人(そら)の二人の魂は、それを継ぐものがいないのです。

そらが空へ旅立つとき、「帰ろう、この星の大地に」と願うのに。

この願いは、輪廻という形でしか満たされることはないのです。




 しかしここで問題が生じます。

神奈の記憶をすべて観鈴が受け取ることができたのは、柳也と裏葉の一族が残した人形による奇跡により、観鈴の魂のキャパシティが増えたからです。

つまり、神奈の魂を受け取った観鈴の魂は、やはり人間の魂の器には入りきらないものなのです。

観鈴がそのまま眠りにつき、大気に霧散するのであれば問題はないのですが、もし仮に人間に転生したとしたら、その人間はやはり魂を受け取りきることができず死んでしまう。




 また、観鈴は神奈の魂を受け取らざるを得ないが故に、本来、人間として普通に得られるはずの幸せを掴むことができなかった。




 だから、最後に神奈の魂は観鈴に向けて言うのです。

一体となった魂を再び分けるために、「別れの時が来ました」と。

神奈は観鈴と魂を共有することで、幸せな日々の記憶を手にすることができた。

そして一体となった魂が、本来の人間の観鈴だけの魂に戻れば、観鈴は人間に再び輪廻することができる。




 それでも観鈴は、一族の宿命を背負って大気に霧散しなければならない神奈のことをかわいそうだと想うでしょう。

一体となれた神奈の魂のことを。

だから神奈は観鈴に向かってこう言います。




 「悲しむことはありません。わたしはいつまでも、あなたと共にあるのです。」




神奈は、星の最初の記憶を持って大気へと帰っていく(これが最後のCG)。

最後には二つの意志が残ります。




 「そして、いつの日か僕は彼女を連れて帰る。新しい始まりを迎えるために。」




というそらの意志。

そして、




 「だから…あなたには、あなたの幸せを。その翼に、宿しますように。」




という意志。

最後のこのセリフは、『観鈴は一つのゴールを迎えることができたけれども、あなたには、私の束縛のない、人間としての母親とのぬくもりに満ちた幸せな日々を送って欲しい』という、神奈から観鈴へ向けての願いであったと考えられ、観鈴と往人は、二人の子供として輪廻したのではないでしょうか。




 ラストの海岸のシーンで、女の子はこう言います。




 「わたし、そんなこと言ったっけ…」




 このセリフからすると、男の子とは違って女の子には記憶がありません。

そう考えると、あの女の子は(神奈の魂を受け取ることによって捻じ曲げられてしまった観鈴ではなく)本来ただの人間として産まれるはずだった、観鈴の純粋な魂だけを持った女の子なのではないでしょうか。




 それは、神奈の想いであり、また往人の願いでもある。

『新しい始まりを迎える』。

晴子との、新しい『家族』を作る始まり。




 つまり、最後の女の子は、実質的に観鈴の魂を引き継いでいたとしても、もともと極めてカラに近い魂であったが故に、(男の子の方は明確に往人の意志や記憶を引き継いでいるにもかかわらず)まったく普通の、澄み透った魂を持つことになったのではないかと思うのです。




 しかし、輪廻した後の海辺の二人は、たとえ往人や観鈴の記憶を持っていたとしても、往人や観鈴たち自身ではない。

つまり往人や観鈴は、悲劇の繰り返しを終わらせる存在ではあっても、往人や観鈴たち自身が報われるわけではないのです。




 だから、転生した後の二人は、往人と観鈴に向かって言い放つのです。「彼らには、過酷な日々を」と。

そして、「さようなら」と。




 観鈴と往人の先に待つもの。

それは悲劇の断絶であっても、二人が生き長らえる幸せではない。

だから二人にとってそれがHappy Endだったと安直に言うことはできないでしょう。

しかし、観鈴が往人と過ごした日々は本物であり、晴子と共有した時間も本物であり、そらと共有した時間も本物であり、ゴールに辿り着くことができたのです。




 「最後(最期)には、幸せな記憶を。」




……それが、この物語の結末であり、新たな物語の始まりだったのだと思います。