AIRのテーマとは?




 まずはじめに、佳乃シナリオ、及び美凪シナリオは、AIR全体の構造という意味では他のシナリオとの関連性を持ちますが、設定に関しては他シナリオとの関連性はほとんどありません。

ですので、「佳乃シナリオをプレイしたときに観鈴はどうなったのか」といった、Kanonの時のような発想は無意味であることをお断りしておきたいと思います。








第1章:作品のテーマは『本当の幸せ』?




 この作品のテーマに関して、一部の雑誌などで『本当の幸せ』だと書かれていたこともあり、ネット上での通説として、「AIRのテーマは『本当の幸せ』である」という主張・御意見がよく聞かれます。

しかし、これは本当に正しいのでしょうか?

 確かにこのゲームでは、(表面的にも内面的にも)さまざまな形で「幸せ」をキーワードとして織り込んだストーリーが展開されており、その観点から『本当の幸せ』が重要な意味を持っていることは間違いがありません。

しかし、作り手側は『本当の幸せ』を描き、伝えることが目的だったのでしょうか。

もしくは、ユーザーに対して願ったことは、『本当の幸せ』を理解してもらうことだったのでしょうか。




 もしそうであるとしたなら、なぜエンディングはあのような形になったのでしょうか。







第2章:美凪シナリオが提示するもの




 多くの解釈論が触れているように、AIRの全体構成を考える上では美凪シナリオが非常に重要な役割を果たしていると私も考えています。




 しかし美凪シナリオは、いわゆるギャルゲーの文法に沿った選択肢を選ぶことが誤りである(=美凪に情欲を寄せるような選択肢を選ぶとBADルートに流れてしまう)ことを示したに過ぎないのでしょうか。

美凪シナリオは、もっと大きな、ラストエンディングの理解の仕方、受け止め方そのものを提示しているのではないかと私は考えています。







■夢から覚める




 美凪シナリオでは、母親も美凪も「夢」を見ており、そこから現実へ回帰するというシチュエーションを描いています。

この構図において、「夢」=ユーザーがゲームという心地よい世界で遊ぶこと、と置き換えると、「夢から覚める」=ゲームを終わらせる、ということと読み替えが可能です。




 これは比較的使い古された読み替えの一つと言えますが、美凪シナリオの中で何度となく出てくるセリフである『夢の終わり』を「ゲームの終わり」と読み替えると、美凪シナリオの中での美凪や往人の境遇(みちるが消失することをどうすることもできない)は観鈴シナリオのラストをプレイするユーザーの境遇に極めて似ていると言えます。

美凪がどのようにしてみちるの消失を受け入れていったのか、その過程のいくつかは、ユーザーが観鈴シナリオのラストをどのように受け入れるのかという際に役立つのではないでしょうか。







■TRUE or BAD




 後になってその意味を考えれば、確かに必然とも言える選択肢群だったとはいえ、プレイ中にはそれらの選択肢がどのような意味を持つかをあまり考えることなく、気軽に選択肢を選んだ人も多かったと思います。

しかしその結果として訪れるエンディングは、美凪TRUE/BAD解釈にある通り、あまりにも違いすぎるものだったと言えるでしょう。




 もちろんゲームという世界だからこそ、各選択肢を選んだ場合の最後の結果がそれぞれ分かるのであって、現実世界では両方の選択肢を試してみることは不可能なわけですが、『何気なしに、ずるずると選んでしまった選択肢』が大きな失敗を導いてしまったという経験は、比較的多くの人が実体験として持っているものではないでしょうか。







■美凪のBADルート




 美凪のBADルートのラストに救いがないのは、彼女と往人がこの夏のこの体験で、大きなトラウマを作ってしまったということであって、それから先にこのトラウマを克服するという予感なり希望なりといったものが一切示されなかった点にあると思います。

しかしこのトラウマは「ちょっとしたきっかけ」が膨らんで、一歩の勇気が踏み出せるかどうかが決まり、さらに後から大きな後悔としてのしかかることによって作られたものです。




 この美凪シナリオにおける美凪または往人をプレイヤーに置き換えて考えると、ラストエンディングをどう考え、どう受け止めるのか。

このAIRという物語のラストエンディングを受け止める勇気や、現実世界へ置き換えていくための勇気が持てるかどうか(それをちょっとしたことと言ってよいのかどうかは難しいところですが)によって、我々ユーザー自身の、TRUEルートとBADルートが分岐すると言ってもよいのではないかと思います。




 そのために必要なこの物語の読み取り方の一例を、美凪シナリオにおける美凪や往人の行動から読み取ることができるのではないでしょうか。







第3章:観鈴シナリオ




 このゲームは、佳乃シナリオ、美凪シナリオ、観鈴シナリオの3本立てとはいえ、このうち観鈴シナリオはDREAM、SUMMER、AIRという3部構成で綴られる、壮大な物語でした。

特に観鈴シナリオはヒロイン本人の死という、極めて重たいテーマを取り扱っており、決して安易な、お涙頂戴的な物語にすることは出来ないという思いが、おそらくKeyスタッフにはあったことだろうと思います。




 ではどうやったら観鈴の死というものを、真摯に扱い、描くことができるでしょうか。

そのためには、まず、『死』というもの、そしてその対極にある『生』というものに対する、作者自身の見解・考えが必要になると思います。

もちろん、その見解や考えが周囲の同意を得られるものであるのかどうかはまた別の話になりますが、持論もなしにキャラクターを殺すことは、少なくともシナリオライタである麻枝氏は強固に反論することと思います(※Kanonビジュアルファンブックのインタビューから推測)。




 さてAIRという作品を見てみると、輪廻に関する話が出てきたり過去に時間を遡ったシナリオを併用するなど、『死』というものを『本人自身の死』という、小さな単一視点で捉えるのではなく、人間の営みという大きな視点からも捉えていることが分かります。

(家庭というモチーフが繰り返して出てくるのも、人間の営みの基本単位として家庭があるという考え方に基づいているからと思われます。)




 死というものが、本人の消滅でありマイナスなものと捉える考え方は昔から根強くあり、それに対して何らかのプラスな意味合いを持たせるためのさまざまな解釈が加えられてきました。

それは死への不安を和らげるなどいろいろな効果があり、宗教などはまさにこの分野でも力を発揮してきたのではないかと思います。




 しかし、今の世の中の科学全盛の時代においては、本人の生まれ変わりという意味での輪廻転生はあまり考えにくいでしょう。

このゲーム中でも『本人が生まれ変わって、次の世代で幸せになる』という描かれ方はしていません。

そうではなく、ある人が残した想いを次の世代の人間が引き継ぎ、それを「(別人格である)その人の意志として」果たしていき、それによって前の世代の人間の魂が癒される、という描かれ方がされているように思います。




 ある別のメーカーのゲーム中の言葉なのですが、人がこの世に生を受け、過ごしていくのは、この世に何らかの『想い』を残すためだと言います。

AIRにも、これと非常に似た思想があるように私には感じられます。




 いずれにせよ、観鈴シナリオの物語の壮大さ、大きさというのは、死というものを小さな観点から捉えることによっても前向きな解釈を与えようとする、Keyスタッフによる一つの思想であると考えています。

(この思想と似た発想は、宗教や哲学においても存在しており、その類似性を議論していくことも出来ると思います。)







第4章:ゲームの全体構造




 観鈴シナリオは上述した通り非常に巨大な、壮大なシナリオだったわけですが、この大きさは、死というテーマを扱う上ではある意味必然とも言える大きさです。

言い換えると、シナリオのサイズが佳乃<美凪<観鈴という関係になるのは、ある意味必然とも言えることです。

ですから、観鈴シナリオがラストに来ているからとか、観鈴シナリオの分量が大きいからという理由で、観鈴シナリオばかりにウェイトを置いた全体解釈論というのは果たしてどうだろうか、という気がします。




 つまり、観鈴シナリオが最後に来ていたり分量が多かったりするために、




『本当の幸せとは、死の対極としての生をどう生きて、死ぬときにどう感じるかである』




とするテーマ解釈をよく見かけるのですが、果たしてそうなのでしょうか。

また同様に、美凪や佳乃のシナリオの存在意義を、観鈴シナリオを語る上での前提条件だと捉えている解釈も多いのですが、果たしてそうなのでしょうか。




 このゲームを振り返ってみると、ゲーム中で非常に饒舌に描かれているのは、




 『各キャラクターが歩んできた軌跡そのもの』




であって、何か道徳的なテーマを淡々と語っているわけではありません。

そして、ラストシーンで饒舌に描かれているものも、




 浜辺の二人の子供が『歩き出すシーン』




であって、その後の二人の子供たちの行く末の顛末ではありません。

もし、『幸せな死を迎えられることが本当の幸せである』ということを語りたいのであれば、より具体的で直接的な描写である、観鈴の死のシーンをラストエンディングとして持ってきていたはずです。

このことから、Keyスタッフは、『本当の幸せ』として人の死を扱い、『死ぬときに幸せに死ねることが本当の幸せである』ということを理解してもらうことを願ったわけではないと考えます。




 では、観鈴の死の後に加えられている、残されたそらへの晴子の語りや、浜辺のシーンは一体何なのでしょうか?

観鈴のシナリオは、観鈴のゴール(観鈴の死)をもって完結したと考えると、それ以降のシーンは、観鈴シナリオに対するエンディングではなく、AIRという作品全体に対するグランドフィナーレだと捉えることができます。

そう考えると、このゲームの全体構造は、




佳乃シナリオ:恋愛成就と、安らかな家庭を築く。

美凪シナリオ:迷いや悲しみ、凪の中から抜け出す、一歩の勇気。

観鈴シナリオ:人間が最後に辿り着く、死の場面。

グランドフィナーレ:3つのシナリオを受けた、作品全体からのメッセージ




という形になっており、人間の営みという大きな枠組みの中での『シーン』を切り出した3つのシナリオと、それをすべて総括するためのグランドフィナーレという構造になっていることが分かります。




 このように考えると、このグランドフィナーレ中に語られる言葉(形式上はゲーム中におけるキャラクター同士の会話になぞらえていますが)には、ゲーム全体から(Keyスタッフから)ユーザーへ向けてのメッセージとしての別の意味合いがあることが明確になってきます。




 「せやから、あんたは飛ぶんや」

 「翼のない、うちらの代わりに…」

 「ひとの夢とか願い…ぜんぶ、この空に返してや」

 「そうすれば、うちらはきっと…ずっと穏やかに生きていける」




 「翼のないうちら」というのは、定められた運命(シナリオ)に従って行動し、自由を許されなかったゲーム中のキャラクターたち。

「うちら」というのは、晴子と観鈴の二人を指しているのではなく、美凪や佳乃までをも含めたすべてのキャラクターのことを指していると考えると、彼女たちの夢や願いをユーザーが受け止めて、空にはばたく(=現実の世界で束縛なく自らの意志で進む道を決める)ことを望んだセリフだということができます。

 (悲劇を辿ったのは観鈴だけだと思われがちですが、定められたシナリオに沿って行動せざるを得なかったという意味においては、美凪や佳乃も悲劇といえます。

だからこそ、ここでは『翼』のあるそらに願いを託すという表現を取ったのだと考えられます。)




 今も恐かったけど…

 でも飛べる。そう信じる。飛ぼう。

 僕は駆け始めた。




 しっかりと風を受け止めて、羽ばたく。

 どこまでも、どこまでも高みへ…。

 帰ろう、この星の大地に。




 どうしても飛べなかったそらが、意を決して空へ飛び出すときの想い。

怖くても飛べると信じて飛ぼう、という表現は、ユーザーに対して一歩を踏み出す勇気を持って欲しい気持ちの現れでしょう。

また、「帰ろう、この星の大地に」という表現も、ゲームの世界から現実の世界への回帰と読み取れます。

そらという存在が、もともとユーザーのゲーム中での代理人であることを考慮に入れると、これらの意味も強化されると思います。




 「君がずっと確かめたかったこと」

 「この海岸線の先に、なにがあるのか」




 今なら、その先に待つものがわかる。僕らは。




 彼らには、過酷な日々を。

 そして僕らには始まりを。


 「この先に待つもの…」

 「無限の終わりを目指して」


 ただ、一度、僕は振り返り呟いた。

 その言葉は潮風にさらわれ、消えゆく。

 「さようなら」




 無限の終わりというのは、ゲーム中の輪廻の繰り返しの終結という意味での「無限の終わり」であると同時に、ゲームの終わりという意味での「『夢幻』の終わり」にひっかけた言葉であると思います。

そう考えると、他のセリフとの対応関係も分かりやすくなります。

「彼らには過酷な日々を」というのは、ゲームのシナリオという定められた運命を辿らなければならない者たちの悲劇を指した言葉。

そしてそれを糧にして踏み出す僕ら、すなわちユーザーには、新しい明日への始まりを。




 そして、ユーザーの、過去(観鈴・美凪・佳乃の3つのシナリオ)への強い決別のセリフとして、最後の一言「さようなら」があります。

(ただし、ここで言う決別というのは「忘れる」という意味合いでの決別ではありません。このことは美凪シナリオで描かれています。)




 エンディングテーマ曲であるfarewell songは、ラスト4行が端的なので、歌詞カードで確認してみて下さい。

これらの歌詞は、ラストの浜辺の夕暮れのシーンから、夜、そして朝へと続いている歌詞であることが見て取れます。




 まず、最初の2行にある、「朝には消えたあの歌声」と「僕らが残したあの足跡」というのは、幸せな過去の温もりの記憶や、運命の繰り返しといった、作品のシーンをなぞったものだと考えられます。




 これに対して、続く1行は「(ゲーム、夢の)終わりは(観鈴などのキャラクターたちとの)別れとあるもの。

だから、(ゲームのキャラクターたちは)すべて置いていく」と読み取ることができます。

 そして、「(次の)朝には、日差しの中、(過去の歌ではなく)『新しい歌』(=昨日までとは違う新しい何かを)口ずさんでる」と、夢の中から戻った現実の世界で、新しい一歩を踏み出すことを歌った歌詞になっています。




 このように、しつこく繰り返されるメッセージを総じて言えば、




 『ゲームを終わらせたら、明日へ向かって新しい一歩を踏み出して生きて欲しい』




と、新しい一歩を踏み出すことを強く訴えていることになるのですが、これだけでは不十分だと思います。

グランドフィナーレで描かれているメッセージは確かに上記の通りなのですが、そこまでに描かれている3つのシナリオは、あくまで『シーン』を切り出した3つのシナリオ、いわば「本当の幸せの形」の『例示』でしかない、ということです。

つまり、グランドフィナーレで語るところの『新しい明日』『新しい一歩』というのが、具体的に作品中で「これ!」という形で示されているわけではないのです。




 ですから、整理すると、




・生きていく中で、『本当の幸せ』を目指して自分がどう生きていくかを『考えて欲しい』

・そしてそれを現実の世界の中で実践していって欲しい




ということがこの作品からのメッセージ、テーマであると言えるのではないでしょうか。







第5章:明日を目指す、幸せを願う




 ただし、このテーマを「ゲーマーやオタクたちに対して、ギャルゲーからの卒業と、現実への回帰を促すメッセージ」と捉えるのは、間違いではないかと思います。

グランドフィナーレで示されている現実回帰というのは、あくまでプレイヤーが過ごした『AIRというゲームをプレイしていた時間』から、日常生活へ戻る『タイミング』を示しているに過ぎず、むしろ主題はfarewell songのラストに示されるように、日常生活に戻ったときに新しい歌を口ずさんでいる、すなわちAIRというゲームから何かを得ていることを期待したものではないでしょうか。




 このことは、作品中で繰り返し語られる輪廻(正確には意志や記憶の引継ぎと言うべきでしょうが)という要素でも語られています。

裏葉や柳也の意志は子孫に引き継がれ、神奈の魂は観鈴へ、往人の魂はそらへと引き継がれています。

肉体が滅んでも、意志や想いが何らかの形で他人に影響を与えているわけです。

また観鈴と晴子の関係や、みちると美凪の関係においても、直接的な記憶や魂の引継ぎ関係は存在していませんが、その後の人生において、観鈴やみちるが残した「何か」が、晴子や美凪にとって大きなものになっていることは確かです。




 では、観鈴たちゲーム中のキャラクター全体の意志や記憶を継ぐ者、想いを継ぐ者は誰かといえば、それは言うまでもなく我々ユーザーであると言えます。そしてグランドフィナーレは、我々が現実の世界の中で明日への一歩を踏み出すことを期待しているわけです。




 このゲームから何を受け取り、どう明日へ生かしていくのか。

次に自分に訪れるものが、佳乃のような恋愛なのか、美凪のような自分に対する克服であるのか、それとも観鈴のような一生の終わりであるのか。

それは、人それぞれ違うはずだと思います。

ユーザーはそれぞれ年齢も性別も違うし、人生の中で生きているフェーズ(段階)もそれぞれ異なるからです。




 しかし、彼女たちが生きたそれぞれの『シーン』から、我々が何かを学び取れば、それは我々ユーザーにとって、明日に向かって生きていく上での何らかの糧になるのではないでしょうか。

 定められた運命を辿った彼女たち、そしてそれを作り出したKeyスタッフは、この作品がユーザーにとって悲しみやトラウマとなることを望んだわけではないでしょう。

それは、グランドフィナーレのラストにあるように、「さようなら」と彼女たちに告げる勇気を出して欲しい、というメッセージからも読み取ることができます。

彼女たち、そしてKeyスタッフの想いを受け取るのには人によっては時間がかかることでしょうが、しかしこれから私たちが人生を過ごしていく上で訪れる様々なシーンにおいて、彼女たちが残した足跡や歌声、想いを糧にして、歩んでいきたいものです。