今月のメッセージ


<当サイトにおける聖書の引用は次によっています。『聖書』新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会,(c)日本聖書協会 , Tokyo 1999>



2012年4月29日 復活節第4主日 主日礼拝説教要旨

「弟子への委託」 田中真希子牧師

<聖書>

「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」 (ヨハネによる福音書21章17節)

<説教要旨>

 イエス様の三度の問いは、ペトロが、三度イエスさまの弟子であることを否定したことと関係があるようです。彼は自分を守るためにイエス様を知らないと言ったのですが、やはり悔い、自分を責めていたのではないでしょうか。主は、ペトロの心に潜む自責の念を取り除き、ペトロを赦し、あらためて大切な働きを委託しようとされました。しかし、さすがのペトロも三度目には悲しくなったとあります。どうして、自分のイエス様への思いを認めてくれないのかという思いかもしれません。
4月は教会にとって忙しい時期です。イースターを迎える喜びの季節ですが、同時に、教会総会があり、役員選挙があり、教会という組織の体制を整える時です。どんな奉仕ができるのか、できないのか問われるときでもあります。喜んで奉仕ができる時もあれば、諸般の事情のため、どうしてもできない時もあります。それ、誰も同じです。そんな時、心の片隅に、できないことへの自責の思いが残ることもあります。
 イエス様の復活を体験したペトロたちは、本来ならすぐにでも、宣教の働きを開始するところです。ところが、故郷のガリラヤに戻りました。今少し、準備の時が必要でした。そんな弟子たちのところに、イエス様のほうから近づき、不漁を豊漁にするように状況を改善し、暖かい食事で心を養い、彼らの過ちを赦し、自責の思いから解放し、果たすべき使命を示し、新しい生き方へ出発する備えをすべて整えて下さったのです。
 イエス様は、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と命じます。イエス様の愛される羊たちを、私と同じように愛しなさいということです。神様によって造られたすべての人は、神様に属する羊です。復活の主がペトロに託されたことは、また、私たちに託されたことでもあります。イエス様は私たちに、「あなたは私を愛するか」と問いかけ、「わたしの羊を飼いなさい」と召してくださっています。私たちも、その声に応えたいと思います。イエス様が必ずその道を整え、新しい力を備えて下さるはずです。


2012年4月22日 復活節第3主日 主日礼拝説教要旨

「湖畔の出会い」 田中文宏牧師

<聖書>

(ヨハネによる福音書21章1~14節)

<説教要旨>

 復活の主と共に「主を喜び祝う」の教会目標を掲げて新年度がスタートしました。
 さて、ヨハネによる福音書21章1節以下にはティベリアス湖畔でのイエス様の復活顕現が記されています。エルサレムから故郷の湖に帰ってきたペトロたちは、どのような思いで日々を過ごしていたのでしょうか。復活の主と出会い、大きな喜びに満たされますが、彼らにとって新たな再出発には、いましばらくの猶予が必要ではなかったでしょうか。それはもう一度、イエス様との出会いの原点に立ち帰ることです。その中でペトロは久しぶりに漁に行くことを提案し、他の弟子たちもそれに追随しました。ところが、一晩中、網を打っても一匹の魚も捕れなかったのです。イエス様を信じたのだから、復活の主に出会ったのだから、すべてがうまくいったかというと決してそうではありませんでした。一匹の魚も取れないままに夜が白々と明けていくのを見ながら、弟子たちは何を考えていたのでしょうか。そこには、イエス様を信じても、復活の主と出会っても、何ら変わらない手ごわい現実がありました。私たちも信仰生活の中でこのような手ごわい現実に直面させられるのではないでしょうか。
 ところが、この手ごわい現実に突破口が開かれます。岸に立っていた復活の主が弟子たちに呼びかけました。「子たちよ、何か食べる物があるか」(5節)彼らが、「ありません」(5節)と答えると、復活の主は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)と言われたのです。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができませんでした。しかし、不思議なことに、最初弟子たちはイエス様に気づかなかったのです。いわば、見知らぬ人の言葉に従って再度、網を打った時、思いがけない大漁になったのです。そのとき、弟子の一人がイエス様であることを叫びました。
 私たちにとって、人生の岐路で出会った人が、思いがけずクリスチャンであることは希ではありません。イエス様は、私の名によって二人、三人が集うところに私もいると約束されました。悲しみや嘆き、寂しさや空しさの波が押し寄せる時も、ともにみ言葉に聞き、ともに祈りをあわせる時、復活の主は共にいてくださるのです。


2012年4月15日 復活節第2主日 主日礼拝説教要旨

「平和があるように」 田中文宏牧師

<聖書>

「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネによる福音書20章29節)

<説教要旨>

 ヨハネによる福音書20章19節以下には、復活の主と弟子たちの出会いが記されています。それはまず復活の日の夕方に起こりました。弟子たちはローマの官憲やユダヤ人たちを恐れて、暗い家の中に息をひそめていました。家の戸にはしっかりと鍵がかけれられています。弟子たちは内と外に恐れを抱いていました。外なる恐れは、自分たちもイエス様と同様に捕らえられ、厳罰に処せられるのではないかということです。内なる恐れとは、イエス様を裏切り、見捨てて逃げ去ったことに対する強い罪責感でした。
 そこへ、復活のイエス様が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(19節)と言われたのです。弟子たちは、到底すぐには信じられない光景でありました。他の福音書には、幽霊ではないかとおじ惑う弟子たちの姿が記されています。それゆえ、イエス様は手と脇腹の傷跡を見せたのです。「あなたがたに平和があるように」という言葉は、当時の日常の挨拶の言葉で、シャロームであったと推察されます。それは主なる神様が共にいてくださることによって与えられる平和であります。そして、この言葉には、弟子たちの抱いてた恐れや罪責感を一掃する力がありました。弟子たちは、復活の主の命の息である聖霊に満たされて、罪のゆるしと救いの恵みの証人として遣わされていくことになったのです。
 ところで、弟子たちに復活の主が最初に表れた時、その場に居合わせなかった弟子がいました。トマスです。彼は、他の弟子たちの言葉を信じようとはしませんでした。一人だけのけ者にされて悔しかったのではないでしょうか。それゆえ、イエス様の手と脇腹の傷跡に触れて確かめるまでは決して信じないと言い張ったのです。それから八日が経ちました。復活の主は、再び弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに、平和があるように」(27節)と語りかけました。今度はトマスも一緒です。するとイエス様はトマスに手の釘跡と脇腹の槍の跡を示して、触れてみるように行ったのです。トマスは復活の主の現臨に接し深い畏怖の念に満たさて、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と告白しました。それは心からの信仰告白です。トマスは、イエス様の十字架が自分の罪の身代わりであり、イエス様の復活が永遠の命を与えるためであることを知ったのです。そこにこそ、信じることの幸いがあります。  


2012年4月8日 復活節第1主日 イースター主日礼拝説教要旨

「キリストの復活」 田中文宏牧師

<聖書>

「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」 (ヨハネによる福音書20章18節)

<説教要旨>

 ヨハネの福音書20章1節以下には、復活の朝の物語が記されています。週の初めの日、朝早くマグダラのマリアたちはイエス様の遺体の納められた墓地へ向かいます。彼女たちの手には香料が携えられていました。しかし、彼女たちを待ち受けていたのは空の墓でした。最愛のイエス様のご遺体が失われ、彼女たちの驚きと悲しみはいかばかりであったかと思われますが、このマグダラのマリアに復活されたイエス様が現れたのです。
 最初、マリアの眼は悲しみと嘆きによって閉ざされていました。それゆえ、目の前に立っている復活の主を墓地の園丁と思い込んでいます。私たちも、悲しみや嘆きが深い時に、自分の目の前のことさえ、しっかりと認知できないことがあります。しかし、マリアの眼が開かれます。それは、復活の主の呼びかけに依ります。「マリア」(16節)との呼びかけに、「ラボニ(先生)」(16節)とマリアは答えました。信仰とは、このようなイエス様の呼びかけに応えるところに生まれるのです。マリアだけでなく、復活の主は、私たち一人一人の名前を読んでくださっているのです。
 喜びのあまり、すがりつこうとしたマリアを制して、イエス様は彼女に大切な使命を告げます。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」(17節)それは、イエス様の復活を弟子たちに伝えることでありました。このようにして、マグダラのマリアは、使徒となったペトロたちに最初に主の復活を伝える使徒の使徒、すなわち原使徒となったのです。
 ところで、なぜ、イエス様はマグダラのマリアを、最初の復活の証人として選ばれたのでしょうか。聖書には、彼女はイエス様から七つの悪霊を追い出していただいたとあります。そこには、この世の最も小さく、低くされた一人の女性の姿があるのではないでしょうか。神様は、クリスマスにおいても、マリアという一人の名もなき女性を救い主の母として選びました。それと同様に、神様はこの世において小さく、低くされた一人の女性を復活の主の最初の証人として選ばれたのです。私たちは、ここにキリストの復活に証しされた神様の愛を示されます。クリスマスが神様の愛の生まれた時であるとすれば、イースターは神様の愛の不滅性が宣言されたときであります。


2012年4月1日 受難節第6主日 主日礼拝説教要旨

「十字架への道」 田中文宏牧師

<聖書>

「イエスはペトロに言われた。『剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』」(ヨハネによる福音書18章11節)

<説教要旨>

 イースターおめでとうございます!この世の罪と死の力に打ち勝って復活された主イエスを仰ぎつつ、ともに希望の人生を歩みましょう。
 さて、ヨハネによる福音書18章1節以下には、裏切られ、逮捕された受難の物語が記されています。その際に手引きをしたのがユダでした。12弟子の一人としてイエス様から選ばれ、会計の担当をしていたユダは、周囲から厚い信頼を寄せられていたと思われます。それゆえ、ユダの裏切りについて納得のいく答えを得ることは容易ではありません。後世に裏切り者の汚名を着せられることになったユダの心情を察すると、憐れにさえ思われます。聖書には、ユダの心に悪魔が入ったと記されています。そこには、ユダに限らず、弱く罪深い人間の現実が示されているのではないでしょうか。イエス様は愛と信頼を裏切ったユダのためにも十字架への道を歩まれたのです。ローマの一隊や下役たちに対する毅然とした態度には、自ら進んで十字かへの道を歩もうとされたイエス様の揺るがない愛の心が示されています。
 ところで、剣をふるおうとしたペトロに対して、イエス様は十字架への道は父なる神様から与えられた飲むべき杯ではないかと語っています。私たちも人生の中で様々な盃を飲みます。喜びや楽しみの杯もありますが、時にはつらく悲しい苦難の杯の場合もあります。しかし、飲むことをためらうような苦難の杯を前にしたとき、私たちはイエス様と出会うのではないでしょうか。ある方が、長寿と物の豊かさに目をくらまされ、死を思う心を忘れたところに日本人の不幸があると指摘しています。十字架の主を仰ぐところにこそ永遠の命の道が備えられるのです。  


◇過去の礼拝メッセージ要約

※2012年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月

※2011年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2010年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2009年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2008年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2003年の礼拝メッセージ要約
※2002年の礼拝メッセージ要約
※2001年の礼拝メッセージ要約




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