長 葱

 六畳一間の狭い部屋に、けたたましくチャイムの音が鳴り響く。万年床から気だるく起き上がり、目覚し時計に目をやった。まだ、深夜の二時だった。こんな時間に非常識な来客だ。性質の悪い友人の嫌がらせに違いない。
 枕元の、電気スタンドを点けると、狭くて小汚い室内がオレンジ色に照らされる。
 「そんなに、鳴らさなくても、今出るよ…」
 呼び鈴の電子音は、止まなかった。一度や二度で、鳴り終えれば、知らぬ存ぜぬで、狸寝入りを決め込むつもりだったが、客は俺が出るまで、押し続ける気であるらしい。こんな深夜にチャイムで騒がれては、大家に何を言われるか分かったものではない。
 施錠を解いてドアを開ける。そこに立っていたのは、悪友ではなかった。見たこともない少女が、人差し指で呼び鈴のボタンを押していた。
 「なんか用でしょうか…」
 十五、六才くらいであろうか…薄緑色のワンピースを着て、肩まで伸ばした髪はうっすらと緑色に染められている。うつむいた彼女の顔は、前髪で隠れて見えなかったが、薄緑色の肌から一種妖艶な雰囲気が漂っている。しかし、一心不乱にチャイムを押しつづけている姿は、正気ならざるものが窺えて、不気味だった。
 「近所迷惑になるから…」
 俺が苦笑いを浮かべると、指はボタンから離れ、足元に置いていたバスケットを抱え、差し出した。その時、少女の前髪の隙間から瞳が見えたが、表情は無く冷たい視線を放っている。背筋に冷たい物を感じた。
 俺の狼狽に気づいたのか、少女の口元に笑みが浮かんだ。しかし、瞳はあくまで無表情だった。反射的に彼女の瞳から目をそらした。
 「俺にくれるのかい?」
 バスケットを手に取って中を覗いた。すると、異臭…この世の中で一番嫌いな臭いが鼻腔に絡みつき、思わず吐き気をもよおした。バスケットから顔をそむけると少女の姿は、もう無かった。裸足で玄関を出て、周囲を見回したが、彼女の姿は薄暗い住宅地に見つけることはできなかった。
 俺は、首を傾げて、バスケットを部屋に持ち込んだ。中には、二十本ほどの長葱の束が納められていた。まさか、捨てるわけにもいかない。もしかしたら、少女が届け先を間違ったのかもしれないし、後日、取りに来ることだって考えられる。
 いつの間にか、少女への違和感は薄れ、現実的な思考に至っていた。長葱に対する嫌悪感の方が、遥かに強烈だったのだ。
 俺は、鼻をつまみながら、バスケットを冷蔵庫の中に入れた。中に食品は皆無だったので臭いが移る心配はない。
 すぐに窓を明け部屋にたまった葱臭を希釈した。大袈裟のようだか、これくらいしなければとても我慢できない。好き嫌いは、ほとんどないのだが、長葱だけは天敵なのだ。あの下品な緑色、青臭い臭い。あれを生で食べる人間がいるなんてとても信じられない。それに、火の通った長葱のいやらしい甘味ときたら…想像しただけで胃液が逆流する。
 冷蔵庫内に密閉されているとはいえ、同じ部屋に長葱が存在していると思うだけで、鳥肌が立つのだ。俺は、布団を頭から被ると、なるべく葱の存在を忘れるように努めて就寝した。
 
 目覚めたのは、昼過ぎだった。大学の夏季休暇はまだ始まったばかりだ。気がね無く惰眠をするのは、たまらなく気持ちいいが、空腹にはかなわない。俺は、買いだめしていたカップ麺を戸棚から取り出すと、お湯を注いだ。もう少しマシな物が食いたかったが、炎天下を歩く気はしない。
 寝そべったまま、まだ固い麺を勢いよくすすった。しかし、濁った甘い味覚が舌に絡みつく。長葱の味だ。俺は、麺を吐き出し、蛇口から直接水を口に含んですすいだ。
 カップ麺には、乾燥した長葱などか入っているので、具の内容を確認して買っている。第一、麺自体に長葱の味がするなどありえない。
 戸棚のカップ麺を全て取り出すと蓋をめくって臭いを嗅いだ。どれからも、葱臭がするではないか。
 ゴミ袋にそれらを詰め込むとしっかり口を縛って、玄関先に出した。きっと猛暑で麺の味がおかしくなっただろう。そう、結論を下して、近所の食堂に向かった。
 しかし、注文した焼肉定食のからも、葱の臭いがした。肉を噛んでいるはずなのに食感は、シャキシャキとしていた。白米すらも、葱の食感がするのだ。とても食べられたものではない。定食のほとんどを残して、席を立った。いぶかしげに俺を眺める店員をよそに、千円札をテーブルにおいて釣りも受け取らず足早に店を出ると、路地裏で嘔吐した。
 口元の汚物を袖でぬぐい、自販機でコーラーを買った。口直しのはずだったのに、それすらも長葱汁にしか感じられない。俺は、缶を地面に叩きつけた。どうやら、味覚が完全に狂ってしまったようだ。
 
 ニ、三日経っても、味覚は元に戻らなかった。近所の内科病院を訪れたが、原因は分からない。医者は、低血糖ぎみの俺に栄養剤を点滴してから、精神科に行くように薦めた。俺が精神的な病気であると勘繰っているようだ。何を食べても葱の味がすると患者に言われは仕方が無いだろう。
 だが、精神科を訪れる気にはなれなかった。断じて俺は、精神異常ではないのだ。だが、処方された吐き気止めや栄養剤が葱味なるのに、さして時間はかからなかった。
 姿を見せなくなった俺を心配して、友人たちが訪ねてきた。その気遣いはうれしかったが、彼らからも葱の臭いがするのだ。これでは、俺は友人を追い返すしかなかった。何度かそれを繰り返すうち、誰も見舞に来なくなった。寂しかったが、その方が良かった。異臭を撒き散らされては、たまったものではない。
 
 一週間が経過した。口にできるものは、自宅の水道水だけであった。何故かそれだけは葱の味がしないのだ。だが、一週間も食物を摂取してないと、鏡に映る自分の姿に危機感を覚え、紹介された精神科病院に行くことを決意した。なりふりをかまってはいられなかった。
 医師から渡された精神科の名刺を手にして、俺は外に出た。久々の外出だったので、外の空気を大きく吸う。しかし、その空気すらも葱の臭いがした。俺は、素早くアパートに舞い戻り、ドアを固く閉じた。そして、玄関にペタンと腰を落とした。
 
 十日が経過した。次第に葱の臭いが室内をも侵食し、ついに布団の中だけが安全な空間となってしまった。
 便意をもよおし、おぼつかないない足取りで、便所に向かう。俺は水を飲む時とトイレ以外は、モグラように布団に潜り込んでジッとする生活に陥っていた。
 ふと、横目で洗面台の鏡を見た。鏡に反射する俺の顔色は、葱色だった。うっすらと緑がかった皮膚に長葱のような繊維筋が走っている。頬がこけ細くなった俺の顔は長葱そのものだった。
 絶叫して顔面に爪を立てた。爪先に、葱の表皮が削りとられる感触が伝わる。俺はがむしゃらに顔面を掻き毟った。
 
 水道水が葱味になってから三日後に俺は死んだ。多分餓死だったのだろう。万年床で動かなくなった俺を最初に見つけたのは、家賃を徴収しに来た大家だった。通報で駆け付けたパトカーや救急車で学生街はちょっとした騒ぎになった。
 冷蔵庫が空で、全く食料が無かった事、内科の医師が精神科を紹介していた事から、俺は拒食症による餓死と判断され遺体は故郷に帰った。しかし、それは俺の抜け殻でしかない。

 あの、バスケットは何処に行ったのかって…。俺が抱えてます。今、チャイムのボタンに指をあてがったから、呼び鈴が鳴ったらドアを開けてください。今度はあなたの番ですからね…

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