蚊の意味


 蚊がばしんとぺしゃんこになりました。
蚊をぺしゃんこにした手には黒い染みが汚く残り、蚊は床に落ちます。
もう飛べず、血も吸えません。
蚊の彼女は、歩こうにも足は細すぎ元より歩けず、何よりも足もぺしゃんこになっていて、のたうつだけです。
子供を生むこともできなくなりました。

 その蚊は母親になろうとしていました。
ですが母親になるためには、子を生むためには血が必要だったのです。
血には多くの栄養があり、蚊にとっての子を生むエネルギーはそこにあるのです。
 ですから、母親となる蚊は血を吸うのです。
ですが、吸われる方には嫌なだけ。
かゆみは酷く、時に病を移します。
蚊はそんな迷惑を顧みずに血を吸うように思えます。
ですから蚊は、ぺしゃんこにされるのです。
もう飛べないよう、飛べなくされるのです。
たとえ、蚊がこのようにしか生きていなくても。

 今、ぺしゃんこにされ床に落ちた蚊は、別にその事を嘆いてはいませんでした。
彼女はただ、蚊として生きていただけなのですから。
人が食べ、人が歩くのと、人が生きるのと同じ事です。
血を吸う蚊も蚊をぺしゃんこにした人も悪くないのです。
実に当たり前の事ですから。
子を生むのが目的で、それには血を吸うしかないのです。
たとえ他の命に多大な迷惑を掛けても、このためにぺしゃんこになっても。

誰がこうしたのかわかりません。どうして、蚊をこうとしか生きていけなくしたのか、わかりません。
蚊はただ単に、生きただけです。
生きることしかできない蚊は、生きただけです。
悲しい事に蚊は蚊でしかないのです。


蚊は動きません。
お腹に貯めた血をぶちまけて。
か細い体が風で動くだけです。
ただ、その目は今まで見た事の無い視点でした。
その光景を、生きる目的から解き放たれたかは静かに見ていました。
 最後の時、初めて見る光景を見ていました。





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