餓鬼の説話



濃い物陰を見て、私は幻視した。

辺りはひどく真っ暗で、一筋のの光さえなかった。
そこから何も出ては来なかった。

しばらくその状態が続く。何も無い状態が続く。
居心地悪さを強烈に感じ始めた時、何か、影が見えた。
小さな人の様な影が。
それを視覚したら、少し赤い、不気味な赤い光が二つその人影の目の辺りに付いた。
その人影は、私と向き合っているようだった。
何か、声がしてくる。目の前の人影から聞こえるようだ。
「うぅぅぅぅ……、うぅぅぁぁぁ……」と、苦しむような、痛い、苦しいと言いたげな声が。

その小さな人の影は少しかがんだ。
物音がするものの、暗く何をしているのかわからない。
「ぎゃあぁぁぁ……」
不意に、叫び声が聞こえてくる。
その人の口から何故か火が発生し、その熱さのあまり叫んだのだ。
一瞬の間、暗闇に光が灯り、人影を照らした。
その人影の主は、毒々しい赤い体の、腹ばかり膨らんだ痩せこけた醜い男だった。

私の視点はずれてゆく。私は、意思なくこの醜い男の中に入ってゆく。
そして、私は彼の記憶を感じる。異常なまでの空腹とともに。
最初の記憶は人々から忌み嫌われるものだった。罵倒の言葉だった。
それから、逃げるようにこの闇の中に入っていた。
いつしか何を口に運んでも、その食べ物はたちまちの内に燃え上がるようになってしまい、ただ口と手を焼くだけになっていた。
それでも暗い最中、この空腹を癒そうと嗅覚だけで食べられる物を探す。
自分が劣悪だと思う暇もなく、ただただ空腹を癒そうとしていた。満たそうとしていた。

そこで灯される光は、物を口にしたときに出る火だけだった。
孤独に、永久に続くような孤独に、彼は暗闇をさまよう。


まだ、私は彼の中にいる。
何度か彼は食べ物を探し当てていた。この暗闇の中ではかなりの回数だろう。
もちろん、何一つ食べられはしなかった。熱く燃え上がり、口と手を焼いただけだった。
記憶の奥底で、食べられたのは糞便と蛆のわいた死体だけだった。
飢え死にしそうな時に食べた、それらだけだった。
そんな物をいつも食べるわけではない。
卑しいのはわかっている。
だがそれらしか、食べられる物はそれらしかなかった。喉に入り、腹に入るのはそれらだけ。
食べるしかなかった。


彼にとっての日常であろう、痛烈な空腹感の中、食べ物を探している途中、ふと立ち止まった。
そよ風が吹くだけで倒れそうな弱りきった体で、立ち止まった。
上を向いた。何も見えはしない。ここが一体何なのかわかりはしない。
首はすぐに痛くなる。いつも下を見ている彼には大変なようだ。
でも、上を見る。
じっと、見る。

一つの言葉が、静寂の中響く。彼の、私がはじめて聞いた言葉。
「なぜ、俺は、こんな境遇になったのだろう………」
彼の思考に無かった、明瞭な言葉だった。
声が来た。

声が来た。どこからか声が来た。
彼の耳は久しぶりに機能する。
「神の御技があなたに現れたのだ。」
確信に満ちた声が、聞こえてくる。
どこから聞こえてくるのだろうか?

言葉は続く。
「行きなさい。あなたはもう許された」
光が辺りを包む。
私が入っていた彼の体が崩れていった。
光の中、なくなってゆく。彼の言葉はそれ以上無く、ただ戸惑っているような、歓喜の様な感情が心を占めた。
そして、それもなくなっていった……。

気がついたら、私はどこにでもある、物陰を見ていた。
奥に妙に暗い陰を持つ物陰を。




(新約聖書の一節から発想を得ました)


back