2015/5/17━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 幽玄の森羅万象の散歩道 動物行動学からの性♂♀の話・動物・植物・環境・宇宙・時間・哲学 興味のおもむくまま“みかりん”の しゃべりんぐ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━目指せ1万部! ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆         やまねこ通信 E=MC二乗                                vol.223 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ こんにちは。 みかりんです。 今年の札幌の桜の開花は、観測史上2番目という早い開花宣言でした。 例年だと今は八重桜の時期なんですけれど、 今年の花々は前倒しで急いで駆け抜けています。 さて。桜といえばお花見です。 お花見の起源は千年前に京が都だった頃の平安時代、貴族たちが酒や肴を携えて 花を愛でて歌を詠んだことに遡ります。 当時は桜ではなくて梅や桃でした。 まぁ、どちらにしても庶民にはお花見は縁遠いものでした。 その花見というものが庶民に広がったきっかけは 「太閤さんの醍醐の花見」からです。 豊臣秀吉が主催した、京都の醍醐寺の桜を見ながらの大宴会が始まりです。 これを機に庶民にもお花見が広まっていきます。 秀吉から日本人の桜好きが始まったんですね。 この盛大な宴から5ヵ月後に秀吉は他界します。 今日はそんな秀吉の話をしたいんです。 でも桜と秀吉の話ではなく、地震と秀吉の話です。 実は秀吉は人生の重要な節目に2度の大きな地震にあっています。 戦国時代と幕末が好きな歴史ミーハーのみかりんです。(にこっ) ここに↓バックナンバーがあるよ。『内容一覧』という所をクリックしてみて。 http://www.phoenix-c.or.jp/~daichi-m/yamaneko/yamaneko.htm 「ラジオ山猫通信」も、ここから聞くことができます。↑ ━■秀吉と地震の話━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 現在の暦でいう所の1586年1月18日の夜11時頃に、大きな地震がありました。 当時の年号でいうと天正十三年です。 震源地は今の岐阜県の白川郷あたり。 震度は6とか7です。マグニチュードは8です。 活断層による直下型の大地震です。 後に天正地震と呼ばれます。 時は戦国時代。 大きな地震なのでたくさんの記録が残っています。 それでは当時の武将がその時何をしていたか記録を拾い集めてみましょう。 山内一豊は、信長、秀吉、家康と主人を変えながら戦国時代を生き抜いた武将です。 貧乏時代に一豊が馬を欲しがり、 その時、奥方が持参金だかヘソクリだかで名馬を用意して、 その馬が信長の目に留まり、出世の糸口とした話が有名です。 天正地震が起きたとき、山内一豊は今の滋賀県にある近江の城主でした。 城は長浜城です。 この長浜城は、信長の家臣であった頃の秀吉が琵琶湖で物資を運ぶために築いた城です。 水辺の軟弱な地盤に杭を打って基礎固めをしています。 でもこの地震で長浜城は一瞬で潰れ、地盤は沈み、城下町ごと崩壊してしまいました。 一豊自身はこの時不在で、城には妻と娘がいました。 夜中の十一時の大地震です。 暗闇の中、一豊の妻はかろうじて脱出したけれど この時、幼い娘は乳母と共に助かりませんでした。 城下町は半分が倒壊して人々が亡くなり、 あとの半分の家屋は火事で炎上してすべて灰になってしまったという大惨事でした。 あまりの惨状は宣教師によってヨーロッパにも伝えられています。 後日談としてですけど、この地震は興味深い影響を後の世に与えています。 一豊とその妻は愛娘を失ったショックのまだ冷めやらぬ時に、 震災で孤児となった男の子の捨て子の赤ちゃんを育てます。 この子が後に大変高名な学者となり、土佐藩を学問の藩とする礎になります。 そして優秀な弟子を育て、その中の一人がこれまた大変な学者となって 会津藩に仕えることになります。 江戸の初期では学者が少なくてひとりの学者の存在はとても大きいのです。 幕末を動かした土佐藩と会津藩の学問の水準の高さは、 遡ると山内夫妻の震災孤児支援がそもそもなんですね。 この話ってヘソクリで馬を買った有名な話よりも、ずっと良い話だと思います。 それでは家康と秀吉を見てみましょう。 この天正の大地震は、本能寺の変から4年後です。 信長が殺されて次の天下人をまだ決めかねている不安定な時期に起きました。 本能寺の変から4年、秀吉は天下を取るため着々と足固めをしていきました。 しかし家康は秀吉にくみする事を潔しとせず、 秀吉と戦いになって一度は秀吉軍を退けています。 これを長久手の戦いといいます。 ややこしくなるので当時は使っていなかった今の暦でお話しを進めていきますね。 【1月2日】 家康側の家臣の一人が秀吉に寝返ります。 その事で家康の他の家臣に動揺が広がります。 【1月7日】 勢いに乗った秀吉は、徳川攻めの前線基地となる大垣城に兵糧蔵を建てさせます。 そこに5千俵の新米を用意しました。 古米だったのを秀吉の命令で新米に入れ替えさせるという気の入れようです。 【1月8日】 秀吉は家康討伐を宣言します。 この時秀吉は毛利、宇喜多、四国を平定して 十万の大軍で攻めるという用意がありました。 家康軍は多く見積もっても4万がやっとで、 この形勢不利でさらなる家臣の裏切りもありえるという危機的な状況でした。 【1月17日】 家康は岡崎城で秀吉の使者と激しくやり合っていました。 「なぜわしが秀吉に従って京に上らねばならないのか」と家康が言えば、 秀吉の使者は 「ならば大軍をもって攻めるまで」と脅します。 家康、絶体絶命です。 秀吉の使者を追い返したあと、家康は援軍の要請などの戦争の準備に明け暮れます。 【1月18日】 深夜に天正の大地震。 (震度は6とか7 マグニチュードは8 震源地は今の岐阜県の白川郷あたり) この地震の時、秀吉は今の滋賀県の坂本城にいました。 この時の坂本城は震度5です。 秀吉は家康討伐の準備を投げ出して、馬を乗り継いで飛ぶように大阪へ避難しました。 そして大阪の秀吉の元に信じられない報告が続々と届いたのです。 家康討伐の前線基地の大垣城が全壊し、出火。 すべて何も残らず焼け落ちたという報告が届きました。 この大垣城は震度6です。 最初にお話した山内一豊の長浜城も倒壊、 圧死者多数で城下は大火事で出陣どころではないという報告も届きました。 今の三重県、伊勢の織田信雄の長島城も焼け散ったという報告も届きました。 震度5から6に達した近江、伊勢、美濃、尾張では 戦争どころじゃなくなってしまったんです。 秀吉は一夜にして前線基地をすべて失いました。 一方、家康の領地の三河から東は震度4以下でほとんど被害を受けなかったんです。 この地震で流れが変わりました。秀吉が折れてきたんです。 秀吉は自分の妹を家康へ人質として送り、和解を申し入れて、家康の上洛を促しました。 結局家康は豊臣政権下でナンバー2の座を確保して次に繋げたんです。 秀吉側に立って言えば、この時地震の復興をじっくりやってから ゆっくり家康を攻めて息の根を止めておけば 徳川政権は樹立しなかったんですね。 そうしたら秀吉の子、秀頼の運命も変わっていたでしょう。 秀吉はせっかちで成功し、せっかちで失敗したといえるかもしれませんね。 この天正地震は福井県の丹後半島から若狭湾のかなり広い範囲に津波が襲いました。 海岸の町は痕跡をとどめないまでに破壊されて、人家をことごとく押し流して 数知れない死者行方不明者が出たとされています。 現在、若狭湾は原発銀座と呼ばれて原子力発電所がとても多い所です。 東日本大震災のあと、旧原子力安全保安委員会は、 天正地震の若狭湾の津波はごく小規模なものとしてネットに公開しています。 天正地震は大規模な地震で、津波も伴って大変な被害を及ぼしました。 だから多くの人が記録として書き残しています。 それを読むととても小規模な津波ではないんです。 ともあれ、天正地震は、歴史の流れを変え、 震災孤児支援が巡り巡って幕末の動乱にも影響を与え、 この時の津波の記録が原発立地条件に適しているのかの判断材料として、 現代にも影響を与えている地震とも言えますね。 天正の大地震からちょうど十年後の1596年、残暑厳しい9月5日。 京都伏見にある伏見城で秀吉は裸で寝ていました。 かたわらには愛児秀頼がいました。 ここを震源地として地震が起きました。 マグニチュード7から8の内陸型直下型地震です。 京都でも多くの寺院が倒壊して、被害は京阪神、淡路島、大阪・堺・兵庫、 四国の香川県までも強い揺れを伴いました。 「城が崩れる!」と感じた秀吉は秀頼を抱えて裸で走り逃げて、 かろうじて命が助かったのです。 秀吉は庭に逃げ出て伏見城が崩壊していく様子を見て呆然自失です。 伏見城は台所一棟を残して全壊しました。ここに自ら行って一杯の水を求めています。 最初に駆けつけてきたのは細川ガラシャの夫の忠興です。 次に加藤清正が到着。 この時の太閤秀吉の姿は、女物の着物を羽織り、 正室の政所さまや、側室の松の丸殿や高級女官らと一緒にいて、 真ん中に座って秀頼を抱いて助けを待っていたといいます。 この記録を知ると天下人太閤秀吉も普通に被災者ですね。 この時の秀吉は晩年で、日本を平定して無茶な朝鮮出兵をしていた時期でした。 中国の紫禁城に劣らないほどの軍勢と美女を揃えて、 朝鮮の明の使者の度肝を抜くつもりで、 城のすぐそばの長屋に美女たちを押し込めていたのです。 そこを地震が襲っています。 当然、長屋はお城よりも粗末な作りです。 全壊して女たちは全員建物の下敷きになって亡くなっています。 この建物の圧死者数は、記録によってまちまちで 三百人から七百人の幅がありますけれど、いずれにしても女ばかり数百人の規模です。 当時の京都の人口は推定四十万人です。 伏見地震は京都市だけでも死者4万五千人にのぼったと記録にあります。 そしてその後、美女狩りが始まりました。 死んでしまった女たちの代わりを探せとの命令です。 京、大阪、伏見の遊女から容貌の優れたものを採用して 異国からの使者が来たらお酌させよと命じたんですね。 この地震のあと秀吉は伏見城を再建します。 この時代これまで板葺だった屋根の簡素な建物にも、瓦が普及しはじめた頃でした。 京の町が地震で倒壊した原因のひとつが、 安普請の建物に瓦を載せたことが被害を大きくしていた面もあったんです。 建物の強度が弱かったんですね。 それで秀吉は再建した伏見城の地震対策は徹底したものにしました。 天守閣ややぐらなどの耐火性が求められる軍事施設は瓦だけれど、 御殿は檜皮葺(ヒノキの皮)にして、 城の基礎も今までより二倍三倍の耐震構造に作ったのです。 でも、再建した伏見城はやはり火に弱くて、後の関が原の戦いの前夜に、 甲賀忍者が放った火で燃え上がって落城しました。 この伏見地震の時、同じ伏見でありながら犠牲者が下男下女に至るまで ひとりの怪我人すらなかった所がありました。 上杉謙信の養子の上杉景勝の屋敷です。 景勝の奥方は武田信玄の娘で菊姫といいます。 地震が起きたときに使用人がたくさん寝ている長屋が倒れそうになって 中にいる人たちはパニックに陥りました。 その時、菊姫が現われて建物の出口の梁(はり)を支えて、 鬼の形相で「出でよ出でよ」と大音声で叫んだのです。 火事場のバカ力というか驚くべき怪力で支えたその下を使用人たちは潜って、 全員が脱出したのを確認して姫が手を放した途端、建物が崩壊しました。 さて、話を秀吉に戻します。 地震が起きる直前の状況を説明します。 豊臣政権下の大名たちは朝鮮出兵で疲弊していて、 経済的にも困窮して不満を募らせていました。 このままでは秀吉の甥の秀次に政治の求心力が移ってしまう事を恐れた秀吉と 側近の石田光成は、先手を打って秀次とその妻子と側近を丸ごと処刑してしまいます。 この事は秀次と縁を繋げた多くの大名たちの家族も殺されたという事でもあります。 朝鮮出兵の不満とあいまって、秀吉と光成に多くの家臣の心が離れていってしまいます。 そういう状況の時に伏見地震が起きたのです。 秀吉は「地震で倒壊した伏見城をもっと豪華にそして頑丈に再建せよ」と同時に 「朝鮮に再度攻め込め」と命じたのです。 地震直後、ホントは明と講和がまとまりかけていたのに再び出兵命令です。 地震をきっかけに政治の潮目が変わった瞬間でした。 実はこの伏見地震直後、家康の家臣のひとりが 「今、秀吉を討てば勝てますよ」と言ったんです。 でも家康はここでは動かなかったんです。 本能寺の変を起こした明智光秀の末路を見ているからなんですね。 当時はまだ前田利家などの強力なライバルが健在です。 ここで下手に秀吉を討つと、徳川討伐という大義名分を与えてしまって、 かえって天下は遠のきます。 それよりももっと確実な道を家康は選びました。 秀吉は耄碌しています。 家康は6歳年下で健康オタクな所があって、自分の長生きに賭けたんですね。 秀吉の病死を待って自然崩壊させたほうが得策と考えたんですね。 さて、この頃すでに奈良には15mの高さの大仏がありました。 秀吉はこの奈良の大仏より大きな大仏を京都の方広寺に建立していました。 高さ18mです。 金属製の奈良の大仏と違って秀吉の建立した大仏は木製でその上を漆喰で塗り、 その上から漆をかけてさらに上から金箔を施しものでした。 伏見地震で、奈良の大仏は無事でしたが、秀吉の建立した大仏は割れて砕けたんです。 でも大仏殿は建物の柱が数センチ沈んだだけで無事でした。 そして秀吉は大仏に怒りをぶちまけたんです。 「国家泰平を願って金銀を使い数年かけて大仏を建立したのに、  図体ばかり大きくて自分の身体を保つことができないとは何たることか!  こんな役立たずの仏など余は信じない!」 と言いたい放題の悪口を叫んで、みずから弓矢引いて大仏を射ったと伝えられています。 まぁ、普通に冷静に考えれば、奈良の大仏のように金属製で作れば壊れなかったんです。 金属製の大仏はお金がかかりすぎるのです。 ケチった秀吉のせいで大仏が悪いわけではありません。 この大仏は秀吉の死後、その子どもの秀頼によって莫大な費用をかけて 金属製で建立しています。 この時大仏殿も一緒に再建しました。 そのため大阪城の軍資金は大幅に減ってしまったのです。 この時、秀頼は、この寺に新しく釣鐘を作ってその釣鐘に 国家が安泰でありますようにという願いをこめて「国家安康 君臣豊楽」と 漢字八文字を入れたんです。 この文字が家康を貶めて豊臣の繁栄を祈るという意味に取れるんじゃないかと、 家康に戦争をする口実を与えてしまうことになります。 まぁ、難癖ですよね。そうして豊臣家は滅びました。 家康は天下を取ったあと、この大仏を溶かして寛永通宝という通貨を作って 全国に流通させてしまいました。 こうやって俯瞰して歴史を見てみると、 豊臣政権崩壊は伏見地震が引き金になってもいるんですね。 今日は天正地震と伏見地震のふたつの地震が、 豊臣秀吉の天下取りの人生に与えた影響のお話しました。 次は、幕末の日本を襲った安政の大地震のお話をしますね。 時は1800年代中ごろ。 家康が江戸幕府を樹立してからおよそ250年後の安政年間。   いくつもの巨大地震が続けて起きています。 ペリーの黒船が浦賀沖にやってきて開国を迫り、 前例のないこと尽くめで幕府は対応に大わらわになりました。 そして日米和親条約を結ぶことになります。 世の中はやれ倒幕だ尊皇攘夷だと騒然としていました。 【1854年7月9日】<伊賀上野地震> 震源地は三重県北部。活断層で発生した内陸型直下地震。 マグニチュード7 震度6から7 【1854年12月23日】<安政東海地震>※ マグニチュードは8.4、震度は7 震源地は今の静岡県沖、そして大津波が押し寄せその高さは23mです。 周辺の町や村は壊滅的な打撃を受けました。 【1854年12月24日】<安政南海地震>※ ↑この巨大地震から32時間後に、まや巨大地震が起きます。 マグニチュード8.4、震度6で津波を伴った巨大地震です。 震源地は、紀伊半島から四国沖。 フィリピン海プレートがユーラシアプレート下に沈み込む 南海トラフ沿いで起きた海溝型地震。 ちょうど夕飯時だったので火災の被害も大きく、高知県でも甚大な被害がでました。 江戸にいた坂本龍馬はこのニュースに慌てて帰国しました。 今、心配されている南海トラフ地震です。 【1855年11月11日】<安政江戸地震>※ それから1年も経たないうちに江戸の町に直下型の地震が起きました。 マグニチュード6.9、震度6が江戸の人口密集地に起きました。 大名屋敷が崩れて江戸城も半壊して火災が発生して、死者は四千人を超えました。 つまり東海地方で巨大地震が起きて翌日に関西にも巨大地震が起きて、 一年経たないうちに首都が壊滅状態になる大地震が起きているんです。 安政年間は日本列島で大地震が頻繁に起きますが 特に※印の3つは「安政三大地震」と呼ばれています。 大地震はこのあとも続きます。 【1856年8月23日】<安政八戸沖地震> マグニチュード7.8〜8 東北沖で繰り返し発生しているプレート境界型の固有地震。 津波もともなっています。 東日本大震災と同じタイプの地震です。 東北北海道がかなり揺れています。 【1858年4月9日】<安政飛越地震> マグニチュード7.3〜7.6 震度6 震源地は富山・岐阜県境 この地震をwikiの説明を引用します。↓     ===========   ===========   ===========   立山連峰では鳶山崩れ(大鳶崩れ)が発生し、鳶山が崩壊した。  これにより立山カルデラに大量の土砂が流れ込み、  常願寺川に河道閉塞が起き堰止め湖が形成された。  この堰止め湖は4月23日(旧暦3月10日)、6月8日(旧暦4月26日)の余  震及び近隣で発生した誘発地震(大町付近 推定M5.7)により二度にわたり決壊し  下流の平野部に大きな被害をもたらした。  3万石以上に相当する田地が土砂に埋まり、多数の死者と流失家屋が出た。  一度目の洪水で農業用水が埋まり、その復旧工事にあたっていた人が二度目の洪水に  襲われて溺死したところもあった。  この地震は岐阜県北部、富山県境に近い跡津川断層の活動によるものと推定され、  この断層沿いでは家屋の倒壊率が50%を越え、  中沢上および森安では100%の倒壊率であった。     ===========   ===========   ===========  今日のお話はこれでおしまいです。 私たちは地震とともに歴史を作ってきているのだなぁと、 そして乗り越えてきたのだなぁと、先祖の奮闘ぶりが想像できます。 そしてこれからも地震の多いこの列島で生きて行きます。    * * * * *  * * * * *         秀吉も龍馬も縄文人も       平安貴族も名もなき庶民も       みんな揺れる地面の上で暮らしてきた       うねる地面に逃げ惑う       津波の引き波に引っ張られる       何万年も何千万年も       ゆれる地面の上で命を繋いできた       私たちは弱くて強い       壊れたら立て直す       燃えたらまたつくる       時に戦争を中止して復興事業もする       震災孤児を育てましょう       その子がまた歴史を作る       木を植えましょう       その木が家になる       私たちは弱くて強い   ━■みかりんの叫び━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「反 奇跡の一本松」 地震の歴史を調べてみると、 日本はしょっちゅう大型の大地震や地震による津波の災害に見舞われている事が よくわかります。 戦国時代って普通に戦争ばかりしているイメージがあります。 教科書でもそう習うし、歴史ドラマでも、あっちに攻め入り、こっちで防戦と 諸国の武将たちは存亡をかけて戦ってばかりいます。 でもね、本当はちょっと違うと思います。 日本は自然災害がとても多いんです。雨が降り続けば河川は決壊し、 山崩れは起きますし、そこらじゅう水浸しで田畑家屋は流されています。 たびたび起きる大地震で城や家屋は倒壊し、 時に地震は津波を伴い何もかもなくなってしまいます。 領主はずっと復興事業をしているんです。土木作業ばかりしています。 戦っている相手は自然災害です。 どちらかというと、土木事業の合間に戦争をしているイメージです。 災害復興事業が最優先なんです。 武田信玄は、一流の武将でした。 織田信長がもっとも恐れていたのが武田軍です。 信玄が京にのぼる途中に病いに倒れていなければ、 武田が天下を取っていたでしょう。 信玄が天下取りに名を上げられなかった理由のひとつに、 生まれた落ちた土地に暴れ川がいくつもあったからだと思います。 信玄は近隣の武将と戦いながら、ずっと治水事業をしていたのです。 その跡は信玄堤として現在に残っていますね。 秀吉は戦上手として知られていますけれど、私は土木工事上手という印象があります。 なんかいつも土嚢(どのう)を積んでいるイメージです。 土嚢は災害復旧にも使いますけれど、城を水責めするときも使います。 今回のメイン記事を書くのに参考にした本が 「天災から日本史を読みなおす」著/磯田道史 中央新書 これ↑、すごく良い本でした。 私が今回のメイン記事に参考にした部分は、この本の人寄せ的な冒頭部分で、 この本の本当に言いたいのは別の所にあります。 過去の地震災害を紹介しながら、現在とこれからの地震災害を見ています。 地震だけじゃなく高潮や土砂崩れなどの自然災害全般が範疇です。 古い文献から現在の問題点と対策をどんどん指摘しています。 興味のある方は手にとって欲しい本です。 東日本大震災。もう4年も前の事になるんですね。 あの震災後の事でひとつ私がとても気に入らなかったことがあったのです。 私が気に入らなかったその事に、この本の著者は指摘していました。 それは「奇跡の一本松」と言われる松の木の事です。 岩手県陸前高田市の陸中海岸公園の7万本の植林された松が津波でなくなってしまって 奇跡的に1本だけ残った松に過剰な期待を寄せている様子が私は嫌でした。 しかも結局枯れたんですよ。 それなのにレプリカをあそこに立て、象徴にしました。 そしてまた植樹してもとの松林を作るとか。 市政はどうも観光資源としての松林に期待しているそうです。 津波で流された松林がどんなに危険なものかを著者は訴えています。 海岸の松林が町を守ってくれたというイメージらしいんですけれど 事実は違います。 ここの松林は、江戸時代前期1667年に地元の豪農が植林をはじめました。 松林は、明治の三陸津波、昭和のチリ津波には松林は町を守った側面があります。 でもこれはわずか100年の時間でみた歴史の知恵です。 でも10mを越える巨大津波になると松林は凶器になるんです。 航空写真をみると松林があったところは住宅が破壊されて、 松林がなかったところが住宅が残っているんです。 巨大津波では、松はすぐに根こそぎ抜けて流れて、人や住宅に襲いかかるんです。 「奇跡の一本松」は、松が防潮林の役割を果たせなかったの象徴です。 流されて凶器になってしまったものを何故再現しようとする? 三陸沖を震源地とする津波を伴う地震の被害は繰り返して起きています。 ここ100年の松の防潮林は役立っていたけれど、311のような巨大地震規模の大津波には 逆に凶器になるという事がわかったのです。 わかっていながらどうして「以前のような景観を取り戻して、以前のような生活を」と 望むのでしょう。 「奇跡の一本松」は、7万本の松がたった1本しか残らなかった、 しかもその一本すらも枯れてしまったという現実を見なければならないと思うのです。 ━●編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ★今、これを書いている所に、箱根の山の活発な地震活動がニュースになっています。  蒸気が勢いよく噴出している映像をみると、この下に熱いエネルギーがあるんだと  いうのがよくわかります。  小笠原諸島の西ノ島も今も溶岩が流失していて成長しているようです。  私、この西ノ島を時々ネットで成長の様子をチェックしています。  実際に災害となってしまって被害が出るようなニュースには、  人一倍心が痛むのですけれど、こう、なんていうか、  ただもくもくと蒸気を噴出しているとか、そういうのを映像でみると、  ちょっとわくわくするんです。  地球の鼓動を見れたような気がして。   ★このメルマガを編集しているのが5月13日なんですが、  この日は地震学者インゲ・レーマンという女性の研究者の生誕127周年とのこと。  グーグルのロゴで知りました。  グーグルのロゴは歴史的な出来事や偉人の誕生日などに時々変ります。  今では地球の核(コア)に内核と外核があるのはよく知られています。  これはレーマンが明らかにしたことなんですね。  ニュージーランドで発生した地震のP波が地球の内部で反射しながら  地球の裏側に届く様子をヨーロッパから観測することで、  地球の核は一層ではなくて、固い金属でできた内核と液体でできた外核の  二層構造から成ることを突き止めたんです。  1888年生まれのレーマンは、1993年に誕生日前の104歳で亡くなっています。  長生きだぁ。     ★ラジオ山猫通信がリアルタイムで、  パソコン、スマートフォンから聴けるようになりました!  http://www.radiokaros.com/simulradio/  ↑ここがカロスのサイトの「インターネット放送聴取方法」のページです。  パソコンからスマートフォンから、カロスの放送を聞く方法が載っています。  http://www.simulradio.jp/  ↑ここがサイマルラジオのサイトです。  ここから全国のコミュニティーラジオが聞けるようになっています。    このサイトを開いたらちょっとスクロールすると「北海道」という場所があって  その下の方に「ラジオカロスサッポロ」という場所があります。  そこの「放送を聴く」をクリックするとメディアプレイヤーが立ち上がって、  リアルタイムに放送を聴くことが出来ます。  サイマルラジオは数分時間がズレて聞こえることがよくあります。  ラジオ山猫通信は、第一月曜日と第三月曜日の19:00〜19:30です。  明日の月曜日19:00に「食う食われるの話」が  リアルタイムで聞くことができます。  バックナンバーは、「やまねこ通信 E=MC二乗」のサイトの「ラジオ山猫通信」の  場所から、いつでも好きな回のお話を聴くことが出来ます。   ★今回のこの「秀吉と地震の話」は、  ネットでいつでも好きな時に聞くことができます。  http://www.phoenix-c.or.jp/~daichi-m/yamaneko/yamaneko.htm  ここの右側「ラジオ山猫通信」をクリックしてスクロールして  「秀吉と地震の話」をクリックすると聞けます。  すぐに聞けない人は、じっと待ってみて。きっと聞けます。  http://crashlanding.under.jp/rajiyama0420.mp3  直接URLはここです。  今回の文は、おおむねラジオ原稿そのままです。  ラジオ用原稿をメルマガ用に書き換えているけどね。 ★vol.223の参考書籍&参考サイト       天災から日本史を読みなおす    著/磯田道史 中央新書       安政の大地震       http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大地震       幕末の日本人 三連続大地震、コレラを克服し明治維新を達成       http://www.excite.co.jp/News/society_g/20110604/Postseven_21998.html       奇跡の一本松       http://ja.wikipedia.org/wiki/奇跡の一本松       societas       インゲ・レーマン生誕127周年:地球の核の構造を解明した地震学者       http://societas.blog.jp/archives/1027258284.html ★予告です。 5月18日放送「食う食われるの話」  (ネットにUP予定は5月31日)(収録終わった) 6月1日放送「チョウとオサムシが教えてくれた話」  (ネットにUP予定は6月14日)(書き終わった) 6月15日放送「流れ星と隕石の話」  (ネットにUP予定は7月5日)(書き終わった) 7月6日放送「保護の罪の話」  (ネットにUP予定は7月19日)(書き終わった) 7月19日放送「トマトと植物の毒の話」  (ネットにUP予定は8月3日)(書き終わった) ★ラジオ放送が月二回隔週であります。  最初はメルマガを元に原稿を書いてたけど、  今は、書き下ろし原稿です。  それをメルマガに転用するという逆転現象が  最近のメルマガ版「やまねこ通信 E=MC二乗」であります。 ★どうぞお時間のある時に「ラジオ山猫通信」も聞いてみてください。  2009年9月から始まった「ラジオ山猫通信」  どこまで続くんだ?  ここまで来たらいける所まで行ってしまえ!  最近は、トチらずスラスラよどみなくしゃべっているように聞こえます。  慣れてきたのです! ウソです。(笑)  編集で直して貰っているんです。 そのためずいぶん聞きやすくなっています。  決して私のしゃべりが上達したのではありません。  編集がうまくなったのです!(キッパリ) ★私はいつも「やまねこ通信 E=MC二乗」の事が頭の隅にあります。  次回テーマは何にしようかと常に思っています。  「やまねこ通信 E=MC二乗」は、私みかりんを構成している大事な要素です。 ★「やまねこ通信E=MC二乗」では、あなたからの投書を受け付けています。  動物・植物・環境・宇宙・時間・哲学このメルマガの趣旨に合うような投書を  気軽にメールに書いてね。  過去に取り上げた記事からの話題も歓迎しています。 蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹     ★彡★彡★彡★彡★彡『蟹屋 山猫屋』★彡★彡★彡★彡★彡 生まれも育ちも北海道育の“みかりん”が、北海道の味覚を全国の方に広めるために 『蟹屋 山猫屋』を立ち上げました。一級品の道産品をお手ごろ価格でネット販売! 読み物としても楽しめるものを目指しているよ。    登録はここ→ http://www.phoenix-c.or.jp/~daichi-m/kani/   山猫屋の蟹は冷凍ガニではありません。ボイルしたてを食卓に直送! 蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹    ↑↑↑  私、みかりんのもうひとつのメールマガジン。  北の味覚。海産物。蟹おいしいよ〜。海水ウニもありますよー。  予算はこれくらい。食べる人数はこれくらい。と教えてくれたら、その中で  できる限りのご提案をします!山猫屋の蟹は冷凍物は扱っておりません!  さぁ、タラバ食べたいよう、毛ガニ食べたいようのメールをみかりんに書こう。  毛蟹の良いのが入荷してきています。  北の食材たちは脂が乗っておいしいです。  この機会に、どうぞ冷凍ではない蟹を!  ご贈答に、山猫屋の海産物を。 それじゃ、今回はここまで。 あなたのお便り待ってます。 daichi-m@phoenix-c.or.jp じゃね。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 小さな女の子と目が合った。 にこっと笑ってきて「こんにちは」って話しかけてきたから 「こんにちは。何歳?」って聞いたら 「よんさい!」と得意げに言った。 そばにいた母親が「あなた三歳でしょっ」とたしなめていた。  そうか、そっち側にサバを読むのか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ○ やまねこ通信E=MC二乗 vol.223  2015年5月17日発行 http://www.phoenix-c.or.jp/~daichi-m/yamaneko/yamaneko.htm ○発行編集者 みかりん daichi-m@phoenix-c.or.jp ○発行システム: インターネットの本屋さん「まぐまぐ」ID:0000052530 http://www.mag2.com/ ○登録/解除 http://www.phoenix-c.or.jp/~daichi-m/yamaneko/yamaneko.htm ○やまねこ通信は、素人みかりんが趣味で発行しているもので、情報の正確さには  まったく自信がありません。引用して弊害が起きても責任は持てないよ。  それから誤字脱字変換ミスは大目に見てね。気を付けるけれどさ。えへ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━