今から遠い昔、深い森に娘が一人、住んでいました。
娘は十二の年まで、母親と一緒に暮らしていましたが、母親はその年の春にあっけなく亡くなってしまいました。
娘はそれからもう5年も、誰とも喋ることなく生きていました。
決まって7回夜が明けると、どこからか老婆がやってきて、食物や衣類を娘においていきましたが、老婆はいつも押し黙っており、娘が話しかけても、とろりとした眼で娘を見返すばかりでした。
なんの変わり映えもない毎日を繰り返し、もう淋しさを実感することもなく娘は淡々と生きていました。目覚めているのか眠っているのかわからない、なんの境目もなくなってしまった毎日。娘の世界は狭く閉じていて、寒く満ち足りていたのです。
ある日、いつものように娘が湖に水を汲みに行くと、黒い美しい生き物が湖の畔で水を飲んでいました。娘はその美しい姿に眼を奪われ、思わずその方に歩を進めました。刹那、娘が草を踏む音が静まり返った辺りに響いて、黒い生き物が娘を見ました。美しい黒い馬。黒く濡れた瞳。なめらかに黒く光る毛並み。
馬はきびすを返し、軽やかに駆けていきました。娘は立ちつくし、馬が駆けていった方をずっと眺めていました。
それから度々、娘は湖の畔で馬に出会うようになりました。馬は娘を見ても、もう逃げたりはしませんでしたが、いつも一定の距離を保って水を飲んでいました。娘も馬が水辺にいる時は、距離を保ったままその場に座って、黙って馬を眺めたり、歌をうたったりしました。
いつしか馬と娘は毎日、湖の畔で会うようになりました。雨が降れば雨にそぼぬれて、晴れれば太陽の光をまぶしく照り返して、馬と娘は毎日湖の畔で会いました。娘と馬の距離は縮まりませんでしたが、娘は馬に会うのを楽しみに毎日を生きるようになりました。 それはとても幸せな毎日でした。なんの変哲もない穏やかで幸せな毎日。
しかし、変化というのは突然訪れるものです。ある日娘のもとに老婆の代わりに立派な身なりの男がやってきて、娘の名を呼びました。エレーン、と。
5年前に母親に呼ばれたきりだった娘の名前。娘すら忘れていたその名前の響き。
立派な身なりの男は、自分が娘の父親であると名乗り、自分は一国の王であると言いました。そして、娘を迎えにきたのだ、と言うのです。
「エレーン、美しい娘になって。」
立派な身なりの男は、そう言って娘の肩に手をおこうとしました。娘は反射的に身をかわし、深い森の奥へと駆け出しました。娘は何故駆けているのか、逃げているのか、わけもわからずに深い森の奥へ奥へと進んでいきました。息が切れて、あんまり苦しくなっても走り続けていると、娘はいつしか黒いかたまりのようになっていました。そうして気がつくと、あの黒い馬の背に娘はしがみついているのでした。疾風のように馬は走り、娘はさめざめと馬の背で泣きました。
やがて娘と馬は深い森の彼方で、黒くあたたかいひとかたまりの風になりました。