一

 

 僕が化学室のドアを開けると、菊池さんが頬杖をついてケミカルガーデンを眺めていた。ケミカルガーデンは、一週間前の部活動で僕達が作った物だ。僕と菊池さんは、たった二人の化学部員なのだ。

「ケミカルガーデン、できてるよ。」

 僕を見るなり菊池さんは言った。僕は菊池さんの隣に立って、ビーカーを覗き込む。五つビーカーにそれぞれの色で植物のように枝を伸ばすケミカルガーデンがあった。

 水ガラス(ケイ酸ナトリウム)の水溶液中に重金属の塩を入れて放置すると金属の種類によって異なる色のケミカルガーデンができる。今回作ったケミカルガーデンは五種類。硫酸銅の青白色、硫酸ニッケルの淡緑色、塩化鉄(V)の褐色、塩化コバルトの紫色、硫酸アルミニウムの白色。植物の様だけれど、植物にはあり得ない色で伸びるケミカルガーデン。

「綺麗だね。」

 言って菊池さんは、ぽんと身体を起こす。そのまま窓辺まで歩いていって、ガラガラと窓を開けた。淀んでいた空気が、風に動き始める。僕も菊池さんに倣って窓を開けて風を入れる。化学室の窓からは、グラウンドと中庭が見える。陸上部が揃いのジャージを着て列になって走っている。

「ユーコ。」

 菊池さんに向かって中庭から工藤さんが手を振っている。菊池さんは笑って大きく手を振り返す。

 工藤さんは赤い髪をしている。炎のように真っ赤な赤だ。工藤さんの肌や眼の色も普通の色とは違う。何か違和感を感じさせる色。工藤さんはアルビノだと、誰かが言っていた。

 工藤さんは僕達に背を向けて歩き出した。校門の陰に消えて、化学室からはもう見えない。

「菊池さんと工藤さんってどうして友達なの?」

「よく訊かれる、その質問。私と真由美って、そんなに不思議な組み合わせ?」

 薄く笑って菊池さんは言った。

「うん、意外。」

「どうしてって言われてもな。木村君は、宮田君達とどうして友達なの?」

「うん、気が合うからかな。」

「私達も同じよ。真由美とはすごく気が合うの。」

 菊池さんは風に揺れる髪を手でかき上げる。きっちりと顎のラインで切り揃えられた菊池さんの髪。

「先生、遅いね。」

 僕は化学室のドアを見やりながら言う。

「職員会議、長引いてるんじゃない。」

 菊池さんは窓際の席に腰掛ける。僕も隣の席に腰掛ける。

「菊池さんって、なんで化学部入ったの?」

「実験が好きなの。スポーツは好きじゃないしね。」

「文芸部は?」

「うん、入ろうと思ったんだけどね、なんか部員の人達と合わなさそうだったから。それに本を読むのも小説を書くのも一人でできるし。」

 菊池さんは本をよく読んでいる。昼休みや放課後、ぽつんと文庫本を読んでいる菊池さんをよく見かける。学校にいる菊池さんは大抵、工藤さんと話をしているか本を読んでいる。

 騒々しい靴音をたてて、山葉先生が化学室に入ってきた。僕達は前の席に移動する。

「いやー、ごめん、会議がなかなか終わらなくてな。」

 ガタガタと音をたてて先生は教卓につく。

「ケミカルガーデン見たか?上手くできてただろう。」

 先生は快活に笑う。

 山葉先生はまだ若くて大学生のように見える。親しみやすくて人の良さがそのまま出た顔をしている。

「来週は海水を取ってきて水酸化ナトリウムを作ってみよう。今日は実験計画と講義な。」

 山葉先生は海の話を始める。海の主成分、海水の利用、海と人間の歴史、滑らかに先生は話す。僕はすぐに先生の話に引き込まれる。

「そうだ、話は逸れるけど、地球上の動植物すべてが海から来たことは知っているよね。人間もそれにもれずに海から来た。その証拠に人間はカリウムとかナトリウムとか濃度は違うけれど海が含んでいるのと同じ組成で身体に持っているんだ。原始の海は今よりもっと濃い濃度でそういった物を含んでいたと言われているから、僕達は身体に原始の海を持っているんだ。」

 原始の海。僕達の身体が内包する原始の海。

 僕は自分の掌を眺める。僕の身体の中に原始の海がある。炭素、水素、窒素、酸素、燐、そういった物から僕達が作られている不思議。人間は何も特別な物からできているわけではない。地球上のありふれた物から僕達はできている。

「来週は海水を電気分解して水酸化ナトリウムを作るから、装置を描くからノートとって。」

 言って先生はチョークを持って真っ直ぐな線を引いた。

 

                   二

 

 CDショップに行こうと街を歩いていると、向こうから赤い髪の女の子が歩いてきた。スーツ姿の中年の男の人と並んで歩いてくる。

「工藤さん。」

 工藤さんは、あぁ、と小さく言って、何?と言うように僕を見た。ただでさえ白い工藤さんの顔が、今日はことさら白く見える。夏が来るというのに青みを帯びたように白い工藤さんの肌。

「お父さんと食事にでも行くの?」

 きょとんとした顔をした後、工藤さんははじかれたように笑った。

「本気で言ってるんだよね。」

 訊かれて僕はきょとんとする。笑われるようなことを僕は言ったのだろうか。

「ごめん、友達と会っちゃたから、やっぱり行くの止める。」

 僕についてこいと言うように顎をしゃくって身を翻して、工藤さんは歩いていく。どうしようか少し迷って、僕は男の人に軽く会釈をして工藤さんを追う。男の人が呆然と立っている横をすりぬけて。

「工藤さん?」

「バス停まで一緒に歩いて。」

 抑揚のない声で工藤さんは僕を見ずに言った。

「いいけど、あの人はいいの?」

「別に、知らない人だし、いいんじゃない。」

 ぴしゃりと言われて僕は黙る。話しかけることもみつからなくて、僕は黙って工藤さんの隣を歩いていく。

「焼肉一緒に食べたら、五千円くれるって言うから、食べに行くところだったの。」

 バス停に辿り着いて、工藤さんはバス停のベンチに腰掛ける。

「木村君さぁ、真面目に私の父親だと思ったでしょう。高校生にもなって、父親なんかと歩くわけないじゃん。」

 小馬鹿にしたような口調で工藤さんは言った。黙って僕は工藤さんの言うことを聞いている。

「真面目同士でユーコと気が合うわけだ。」

 バスがやってくるのが見えた。

「ねぇ、木村君って、ユーコのこと好きなんでしょ。」

「いや、別に。」

「ユーコは木村君のこと好きじゃないわよ。」

 悪意に満ちた声で工藤さんは言った。僕は訳が分からなくて怒りもこみあげてこない。

 バスのドアがしゅっと開いて、工藤さんの赤い髪がバスの中に消えた。

 バスを僕は呆然と見送る。赤い髪が残像のように僕の眼の中に残った。

 

                   三

 

「ユウちゃん見てるの?木村。」

 休み時間、工藤さんを眼で追っていたら、江波と宮田がにやけた顔で寄ってきた。

「違う、工藤さん見てる。」

「またまた、とぼけちゃって。」

 言って宮田は僕の首を腕で絞める。グェッと大袈裟に苦しがると、すぐに宮田は腕をゆるめてハハハと笑った。

「なぁ、俺って、冗談抜きで菊池さんのこと好きだと思われているわけ?」

「うん、違うの?」

「違う。部活同じだからよく喋るけど、それだけ。そういう風に考えたことない。」

「でも、そういうんだとその気になるだろう。ユウちゃん地味だけど可愛いし、清楚な感じでいいじゃん。結構ユウちゃんのこといいと思っている奴多いんだぜ。」

「ふーん、じゃあ工藤さんは?」

「工藤、あいつはヤバイだろ。」

 アハハと二人は声を合わせて笑う。

「木村、マジなのか?あいつは本気で止めとけよ。」

 急に真顔になって宮田は言った。

「そんなんじゃねーよ。」

 笑ってみせると二人はあからさまに安心した顔をした。

 そんなにヤバイ人なのか、と僕はもう一度工藤さんを眼に映す。明らかに赤い工藤さんの髪。教室の中で工藤さんだけが異星人のように浮き上がって見える。

「あいつアルビノなんだろ。眼とかも黒くないもんな。やっぱ髪とか染めて化粧して肌の色とか隠しても隠しきれないもんなんだろうな。」

「そのせいで根性も曲がっちゃたんだろ。かわいそうっちゃかわいそうだよな。」

 二人の話を聞きながら、昨日の工藤さんを思い出す。悪意に満ちた工藤さんの眼つき。僕はあんな悪意を投げつけられるような事を工藤さんにしたのだろうか。

 

                   四

 

 海は青くて、きつい潮の香りがした。もう空はくっきりと青く、夏の色をしている。

 学校のある高台から、海は車で十分もかからないところにある。けれど高台にあるせいか、学校までは潮のにおいは届かない。

「先生、わざわざ海水採りにみんなで来ることなかったんじゃない。」

 菊池さんがポリタンクに海水を汲みながら言う。

「みんなで来た方が楽しいだろ。せっかく海だし。」

「えー、そうでもないよ。」

 言って菊池さんは声をたてて笑った。

「先生、海のないところで生まれたんでしょ。」

「おぉ、だから、海はいいと思うぞ。」

 先生は言いながら、菊池さんの手からポリタンクを受け取る。

「いいですよ、先生。」

 菊池さんがポリタンクを持とうと先生の方に手を伸ばす。いいからいいから、と菊池先生はひょいひょい歩いていく。僕もポリタンクを持って先生の後を追いかける。

 菊池さんが山葉先生を好きなことは、工藤さんなんかに言われなくても、僕はとっくに気がついている。だから僕が菊池さんを好きになるはずがないと半ば腹立だしい気持ちで、僕は歩く。砂に足を取られて、身体が前にのめる。

「大丈夫?」

 気遣わしげに菊池さんが僕の顔を覗き込んだ。僕は黙って頷く。

 工藤さんに、菊池さんが好きなのだろう、と言われてから、僕はなんだか前のように菊池さんと話せない。菊池さんを見ると工藤さんを思い出すからかもしれない。

 いつもと違う僕の様子に気がついたのか、きょとんと菊池さんは立っている。僕はその場を取り繕うように笑って、ごめん、何でもないんだ、と言ってみせる。菊池さんは納得したように、ふうん、と笑った。

 砂がスニーカーの中に入って気持ちが悪い。

 気付かないふりをするのが菊池さんの優しさなのだ、と、何となく思った。

 鴎が高い声で鳴いていたので、僕は空を見上げた。

 

 学校に戻って、化学室にはいると、僕達はまず白衣を身につける。

「じゃあ、先週の話通り、イオン交換膜法で水酸化ナトリウムを作る実験な。」

 先生の声に返事をして、僕達は準備にとりかかる。

「僕、装置のほう作るよ。」

「じゃあ、私、海水の濃縮と飽和食塩水を作るね。」

 言って菊池さんは手際よく動き出す。

 イオン交換膜法は陽イオンだけを通過させる膜を用いて、食塩水から塩素と水酸化ナトリウムを電気分解によって作る実験だ。陽極には炭素電極、陰極には鋼電極を使う。

 僕は同じ装置を三つ作る。一つは純水用、一つは飽和食塩水用、一つは海水用だ。実験では必ず対照実験を行う。ここでは食塩(NaCl)の含まれていない純水を用いた実験だ。今回の対照実験は食塩が含まれていなければ、塩素も水酸化ナトリウムも作られないことを確認するためのものだ。

「木村も菊池も随分手際が良くなったな。やっぱり二年生になると違うな。」

 先生が感心したように言う。

「そうですか。」

 僕はお愛想笑いをする。

「木村君、できたよ。」

 菊池さんがビーカーを二つ持ってくる。

「こっちもできたよ。」

 装置に食塩水、海水、純水をそれぞれセットして電流を流す。ほどなく食塩水と海水を入れた装置の陽極から泡が発生する。

 しばらく電流を流したまま装置を放置する。

「食塩水から塩素と水酸化ナトリウムができるなんて想像もつかないよね。」

 菊池さんの言葉に僕は頷く。化学の世界では不思議なことが頻繁に起こる。

 塩素と水酸化ナトリウムができたことを確認して今日の実験は終わる。

 菊池さんと二人で実験器具を洗って片付ける。流し場に立つと、窓から中庭にいる赤い髪が見えた。

「げっ。」

 誰にも聞こえない声で呟く。

「真由美。」

 菊池さんが窓から身を乗り出して工藤さんを呼んだ。工藤さんはすぐに気がついて手を振る。菊池さんも手を振って、乗り出していた上半身を引っ込める。

 工藤さんは僕にもちらりと視線を投げてから元通り視線を落とす。本を読んでいるようだ。化学室のある二階の窓からは工藤さんの赤い髪だけが見える。

「工藤さんは菊池さんのことを待っているの?」

 眼に赤い髪を映したまま僕は訊く。

「うん、一緒に帰るの。」

 微笑んだ菊池さんに僕は、ふうん、と不機嫌な声を返した。乱暴にビーカーを洗う。

「ねぇ、真由美に何か言われた?」

「いや。」

 どちらともとれる返事をして、僕は口ごもる。菊池さんは眉間にしわを寄せる。

「真由美は傷ついてばかりいた娘だから、自分が傷つく前に人を傷つけようとするの。それで結局、自分も傷つくんだけど、どうしようもないみたい。大目にみてあげてくれない。」

 僕が洗ったビーカーをすすいで菊池さんは丁寧に蒸留水をかけている。

 僕はまた曖昧な返事をして、窓の外を見る。微動だにしない工藤さんの赤い髪が見えた。

 あの髪は警戒色だ。

 風が吹いて赤い髪が揺れた。

 

                   五

 

    『赤い娘』

                                 工藤 真由美

 

  赤い娘が通りを歩くだけで

  街の人々は大騒ぎなのだ

  店は娘の鼻先でシャッターを閉め

  人々は物を盗られやしないかと

  ぎゅっと鞄を持ち直す

 

  人は

  薔薇が美しいのは赤いからだと言い

  桜ん坊が美味なのは赤いからだと言う

  けれど赤い娘は異形の娘

  口の端にのせることもおぞましい

 

  人と話すことも許されず

  赤い娘の言葉も

  やがて赤く染まって

  誰も聞き取れない

 

  毎夜毎夜 月に向かって

  赤い声で祈りを捧げ

  赤い娘は一粒赤い

  涙を流す

 

 その詩を読んだ時、僕は少なからず驚いた。

 現国の時間に配られたプリントには、六編の詩が載っていた。今やっている現代詩の授業で何日か前、詩を書いた。プリントにはその時の詩の優秀作が載っているのだ。

 まずその中に、工藤さんの名前がある事が意外だった。工藤さんは成績も学年で一番下の部類に入る。菊池さんが常にトップクラスの成績を保っているのと丁度反対だ。

 そして工藤さんの詩。その内容に僕は驚かされた。赤い髪をした工藤さんは、傷ついたり泣いたりする事がないと、僕はどこかで思っていたのかもしれない。髪をあんな風に赤く染めて、工藤さんは苦しいのかもしれない、と、僕は初めて思う。

 ゆっくりと顔を上げる。教室はしんと静まっていて、先生の声がよく響く。窓が開いていて、時々風が吹いてくる。暑いな、と、額の汗を掌で拭う。

「じゃあ、菊池さん、自分の詩、読んで。」

 先生に指されて、小さくハイと返事をして菊池さんは立ち上がる。落ち着いた声で、一つ一つの言葉を区切るようにして、菊池さんは詩を読んだ。

 

    『約束』

                             菊池 優子

 

  「約束をしよう」

  そう言ったきり

  私達は何の約束もしなかった

 

  蟻が一列になって歩いていく先には

  蟻の家もしくは食料がある

  何の無駄も不安もないように見える蟻を

  追跡する気持ちなんて私達にはさらさらない

 

  「明日なんてないってかんじ」

  言い捨てて 駆け下りた坂

  駆け下りた先に海

 

  私達の不安がなくなったら いつか

  言わなかった約束をはたそう

 

 何の感情もはさまない声で、菊池さんは朗読を終えた。

 菊池さんと工藤さんが友達である理由が一つ分かった気がした。

 

                   六

 

 期末テストが近いので、街の図書館まで勉強をしに行く。家に居ても気が散って、少しもはかどらないから。

 自転車で坂を下る。ブレーキがキーキー高い音をたてる。

 曇っていて灰色の空。それでも空気は高い温度を保っていて、肌にぺたりとまとわりついてくる。

 図書館はコンクリートむきだしの古い建物で、僕が生まれる前から同じ姿でここに建っていたのだろうと容易に推測させる。いつ取り壊されてもおかしくないぐらい古いのに、夏も冬も変わらぬ様子で図書館は建っている。

 自転車を図書館脇に立て掛けて、図書館の中に入ると冷房が利いているのかひんやりと気持ちの良い空気があった。

 日曜のせいか、館内はわりあいに混んでいて、備え付けの机はどれも埋まっている。僕は空いている机がないか、館内をゆっくり一周する。たくさんの人がいるのに、図書館はしんとしている。館内にいる人は皆、気配まで消してしまっているようだ。

 眼の端に何か赤い物がひっかかって、僕はそちらに首を回す。やはりというか、そこには工藤さんがいた。黒白フィルムにそこだけ赤く彩色したかのように印象的な工藤さんの髪。工藤さんは熱心に何かの本を読んでいる。

 僕は声をかけないことにして、そこを通り過ぎる。奥に一つ空席を見つけて、僕はそこで数学の教科書を開いた。

 数学は得意科目だから、考え込むこともなしにすらすら解ける。復習程度に教科書の問題を解いていく。世界が狭く閉じたように、僕は数学だけに集中した。

「触んないでよ。放して。」

 投げつけるような声が図書館の静けさを破った。僕は反射的に立ち上がって駆け出していた。男に腕を掴まれてもみ合っている赤い髪が見えた。

「工藤さん。」

 もみ合っていた二人は動きを止めて、僕を見た。図書館は静けさを取り戻して、僕は言うべき事もするべき事も分からずに、あ、と言ったまま黙った。男がばつの悪そうな顔をして、工藤さんの腕を放して図書館を出ていった。

 僕は工藤さんに近づく。ちらちらと僕達を盗み見る視線を感じる。

「工藤さん、大丈夫?」

「変な所で会うよね。運命の赤い糸でもあるのかもね。」

 ハハハ、と、白けた声で工藤さんは笑った。生気のない顔を工藤さんはしている。

「誰、あの人?」

「金返せだってサ。知んないわよ、もう。」

 工藤さんは自分の髪を手でぐしゃりと掴む。僕はそれ以上何も訊けずに立っている。どしんと後ろも見ずに、工藤さんは勢いよく椅子に腰掛けた。

「あんたってサ、正義の味方みたいね。タイミング良く現れちゃってサ。」

 ハハハ、と、また乾いた笑いを工藤さんはした。僕は笑えずに工藤さんを見下ろす。工藤さんは笑い止めて、僕を見る。やけに白い気のする工藤さんの眼。

「平気よ、もう。だけど今日の事、ユーコには言わないで。他の誰に言ってもいいけど、ユーコには言わないで。言いたくなったら自分で言うから。」

 やけにドスのきいた声で、工藤さんは言った。

「言わないよ、誰にも。」

「そう、ありがとう。」

 安心したように工藤さんは俯いた。

「送っていこうか?」

「いいわ、あんな奴ぐらい自分でどうにかする、構わないで。」

「でも。」

「平気だって言ってんでしょ。」

 僕を睨みつけながら工藤さんは言った。僕は黙ってその場を離れる。これ以上僕が側にいても、工藤さんの神経を逆なでるだけだ。

 僕がその場を立ち去る時、工藤さんは傍らの本を手に取った。本はヘッセの『車輪の下』だった。

 席に戻って数学の続きをやる。全く集中できなくて、僕は諦めてペンを置く。机にひろげている物を全部鞄に押し込んで、僕は席を立つ。

 工藤さんを見ずに、工藤さんの横を通り過ぎる。

 貸し出しカウンターの隣にある公衆電話の受話器を外して、菊池さんの家の番号を押す。すぐに菊池さんが出て、木村君、どうしたの、と明るい声が受話器から流れてきた。

「図書館に工藤さんがいるんだけどさ、会いに来てあげてくれないかな。」

「どうかしたの?」

 僕は口ごもる。

「うん、分かった。今から行くね。教えてくれて、ありがとう。」

 沈黙を打ち消すように、きっぱりと菊池さんは言った。じゃあ、と僕は受話器を置く。

 図書館を出て、自転車に乗って、斜め向かいのハンバーガーショップに行く。

 ハンバーガーとポテトとコーラを買って、窓際の席に座る。そこから、図書館の入り口がよく見える。まるで探偵にでもなったような気分で、図書館の入り口を凝視しながらハンバーガーをかじる。

 ハンバーガーを食べ終わって、ポテトをコーラで流し込んでいると、通りを小走りにやってくる菊池さんが見えた。菊池さんは僕に気付くこともなく足早に図書館の中に消えていった。

 安心して僕はコーラを飲み干す。コーラは氷が溶けて薄まっていた。

 トレーを下げて、店を出る。背後から、ありがとうございました、と声が追いかけてきた。

 もう一度図書館に寄ることはせずに、僕は自転車をこいで家に帰った。

 

                   七

 

 期末テストも終わって、後はもう夏休みを待つばかりになった。季節は加速度をつけて夏を増していく。

 パラパラと採点されて返ってくる答案用紙は、いつものように理数系の得点が高くて、文系が低い。

 何も変化することがなく毎日は過ぎていく。

 放課後、化学室のドアを開ける。今日は一学期最後の部活の日だ。掃除が終わったばかりの化学室には誰もいない。がらんと広くて音のない教室に入って窓を開ける。全ての窓を全開にする。それでも暑くて僕はシャツを手でバタバタさせた。

 壁時計を見る。まだ部活が始まるまでに二十分もある。僕は椅子に腰掛けて、作ったまま置きっぱなしになっているケミカルガーデンを眺めた。

「水兵リーベ 僕の船 七曲がりシップス クラークか。」

 意味もなく言って伸びをした。ふぁーっとあくびをして、椅子の背に顎をのせて眼を閉じる。グラウンドの喚声が蝉の声に紛れて遠くに聞こえる。野球部が練習しているらしい。

 ガラリとドアの開く音がして、僕は反射的に眼を開けてそっちを見る。菊池さんがドアを閉めながら、ごめん、起こしちゃった、と訊いてきた。

「寝てなかったから。」

 僕は頭を左右に振って、首をゴキゴキ鳴らす。

「この間は、どうもね。」

 菊池さんは僕の隣に椅子を持ってきてカタンと座る。僕は後ろ向きに座っていた身体を前に向き直す。向き直りながら、え、何が、と訊き返す。

「真由美が図書館にいるの教えてくれて。」

 菊池さんはきちんと両手を膝にのせて、改まった感じで言った。

「あぁ、大丈夫だった?」

「うん、まぁ。」

 ふうん、と僕は気のない返事をする。興味がないわけじゃないけれど、踏み込んで良いことではなさそうだから。

「真由美、何か言ってた?木村君に。」

「なにも。」

「そう。」

 何かを言い淀んでいるみたいに菊池さんは俯いた。なんとなく黙り込んで、二人でそれぞれ前を見ていた。山葉先生が現れるまで、僕達は黙って工藤さんの事を思っていた。

 

 今日の実験は、ボルタ電池、ダニエル電池、塩化亜鉛乾電池を作って電圧を比べるというものだった。装置を組み立てて電圧を計るだけの、簡単でつまらない実験だった。

「先生、今日の実験、つまんなかったよ。」

 菊池さんが実験器具を片付けながら言った。

「つまんない実験でもやらないと駄目なの。理系の大学行くなら色々やっておくと受験でも入ってからでも役にたつし。」

「私、文系に行くし、それに、いつもの部活ならいいけど、今日は一学期最後なのに。」 甘えた口調で菊池さんは言った。意識か無意識か分からないけれど、山葉先生の前ではいつものしっかりした菊池さんではない。

「そうだな、打ち上げでもやるか。蕎麦、食べに行こう。今日は二人とも空いているのか?」

 僕と菊池さんが頷くと、先生は僕達の家に連絡を入れて、ついでに所用を済ませてくるからちょっと待っていてくれ、と、理科室を出ていった。

 僕達は洗い物も済んで、実験台も片付け終わり、なんとなく並んで椅子に座って先生を待った。

 

「天ざる蕎麦、三つ。」

 先生は僕達の希望も訊かずに、店に入るなりそう注文した。高校二年の一学期の化学部の打ち上げは天ざる蕎麦三つ、分相応かもな、と僕は思った。

「菊池は文系のどういう大学に行くんだ?」

 水を飲みながら先生は言った。

「国文科のあるところ。」

「なんで?」

「なんとなく。私の今の成績の偏り具合と受験科目を照らし合わせると一番楽して入れそうだから。」

「化学の成績だっていいだろ。」

「うん、でも、数学はいまいちだし、国語が一番得意だし。」

 そうか、と先生は残念そうな顔をした。化学を教えていれば、やはり教え子にはその道に進んでもらいたい、と思うものなのかもしれない。

「木村はどうするんだ。」

「僕は、理系の大学に行くつもりでいますけど。」

 そう言うと先生は、そっかそっか、と満足そうに頷いた。

 蕎麦が運ばれてきて、話が少し途切れる。

「いただきます。」

 菊池さんと二人で言って、箸を割る。

「ここの蕎麦は上手いぞ。」

 言いながら、先生は蕎麦にもう手をつけていた。

 僕は頷いて蕎麦を啜る。僕には蕎麦の味がよく分からないから、そんなに上手いとは思わなかった。

「先生はどうして先生になったんですか?」

「教職に受かったからかな。」

「そんな簡単な理由で、先生になっちゃったんですか?」

 菊池さんは海老の天ぷらにそばつゆをつけながら大袈裟に驚いてみせた。

「案外職業なんて、そんな風に決まっちゃうもんなんだよ。なってから頑張って働けば、それで良いんだよ。」

 先生は言い訳ともとれるような口調で言った。

「じゃあ先生、大学とか行く時は?」

 先生は国立の理系大を卒業しているはずだ。

「もともと化学は昔から好きだったんだけど、高校の化学の時間に利己的遺伝子の話を聞いて感動して化学の道に進もうと思ったんだ。」

「利己的遺伝子って、人間もその他の動植物もただの遺伝子の運び屋であるっていうあれですか?」

 先生は頷いて、蕎麦湯を飲んだ。

「遺伝子のために僕達は生きている、と分かった途端、目が覚めたような気がしたんだよ。いろんな事の辻褄が合った気がした。」

「へぇー。」

 菊池さんは感心したように頷いた。

「僕は、将来の夢なんて持てない高校生だったからね。どこか後ろ暗い気がしていたんだ。でも、利己的遺伝子という説を知って、遺伝子のために生きているんだったら、それでもいいんじゃないか、と思った。急に肩の荷が降りたみたいに楽になったんだよ。」

 将来の夢を持てない高校生、それは僕にもあてはまる言葉だった。

 

                   八

 

   正義の味方の木村君へ

  どうして君に手紙を書こうと思ったのか分からないけど、どうしても君に手紙を  出しておきたくなったので、こうしてペンを取っています。

  とりあえず謝っておくよ、ごめんね。

  それからお礼も言っておく、ありがとう。

  この手紙を君が受け取る頃には、私はたぶんいなくなってる。この世から。

  私は、この間、子供を堕しました。

  図書館の男は、その子供の父親の可能性がある何人かの内の一人です。子供を堕  す金をあいつから貰って、その時はへこへこしてたくせに、私が他の男ともセック  スしてたと分かった途端に横暴になって金返せとか言うような、あいつは最低野郎  です。

  あんな奴のために、私は死ぬんじゃ全然ありません。

  でも、もう道は、なくなってしまったみたいです。

  私にはユーコがいるから、ユーコという友達がいるから、ユーコのためだけに、  絶対に生きていようと思ってました。(私の家族はクソみたいな奴等なので、信頼  できるのは私にはユーコだけなのです。)でもそれも、限界みたいです。

  世の中には死のうと一度も思ったことがない人がたくさんいるらしい、と、私は  今日知りました。だったら、死ぬことばかり考えている私は、もう死ぬしかないみ  たいです。

  私が死んだら、ユーコをよろしくお願いします。木村は正義の味方だから、大丈  夫だよね。

  それでは、さようなら。

                                工藤 真由美

 

 その手紙を読み終えて、気がついたら僕は自転車をこいでいた。

 街中をがむしゃらに走り回る。でも、どこにも赤い髪は見当たらない。

 緑色の公衆電話が眼に入って、僕は自転車を止めた。自分が何をしようとしているのかもよく分からずに、僕は菊池さんの電話番号を押した。

 何回かのコールの後、菊池さんの母親らしき人が電話口に出て菊池さんの不在を告げ、菊池さんの携帯番号を教えてくれた。呂律が回らない舌で礼を言い、受話器を置いて、今度は菊池さんの携帯電話にコールする。

 長い呼び出し音の後、はい、と短く返事があった。

「菊池さん、工藤さんが・・・。」

 僕はそこで口ごもる。気ばかりが焦って、何と言ったらいいのか分からない。

「工藤さんが自殺しそうなんだ。」

「もしもし、木村君なの?真由美なら大丈夫よ。いま、私と一緒にいるから。」

 それを聞いた途端、僕は身体の力が抜けて電話ボックスのガラスの壁にもたれ掛かった。気がつくと僕は声を出さずに笑っていた。菊池さんが何かを喋り続けているけれど、何を言っているのかよく分からない。

「もしもし、木村君、聞いてる?今、四丁目の歩道橋の上に二人でいるから・・・。」

 そこまで聞いて僕は受話器を置いて自転車をこぎだしていた。四丁目の歩道橋なら、ついさっき通り過ぎた。どうして気がつかなかったんだろう。

 歩道橋に辿り着いた僕は自転車を乗り捨てて階段を駆け上った。もつれる脚。カンカンと階段が高い音をたてた。

 道路からは工藤さんの姿も菊池さんの姿も見えなかった。本当にここなのだろうか。

 階段を上りきると、歩道橋の真ん中にぺたりと座り込んでいる二人の女の子の姿が見えた。顔は見えないけれど一人の髪は燃えるように赤い。

 安心して僕は肩で息をする。蝉の声や自動車の走る音が僕の耳に甦る。ゆっくりと二人の方に近づいて、掠れた声で、工藤さん、と呼びかけた。工藤さんは僕を見上げる。工藤さんの眼は不思議な色をしていた。僕を見ても工藤さんは表情を動かさず、また俯いた。そしてぎゅっと菊池さんとつないでいる手に力を入れた。

 フッと息を吐き出して僕は声のない笑いをする。自分がダラダラと汗を流しているのに気がついて、僕は腕で顔を拭った。

「真由美、ちょっと涼しいところに行って落ち着こう。」

 促すように菊池さんは言って立ち上がった。菊池さんと工藤さんのつないだ手が力無く揺れる。工藤さんは赤い髪を風に揺らしてまだうずくまっている。

「真由美、ここは暑いでしょ。」

 菊池さんの優しい口調に工藤さんはフラフラと立ち上がった。

 黙って僕らは歩道橋を降りるアスファルトの上の空気がユラユラと揺らいでいる。僕らは黙って一番近くの喫茶店に入る。

 店内は心地よく冷房が利いている。菊池さんは工藤さんの手を引いて、さっさと店の一番奥の席を陣取る。僕は黙って二人の向かいの席に座る。工藤さんは人形のように菊池さんと手をつないだまま椅子に座って動かない。菊池さんがメニューを見せて、何にする、と訊ねても答えない。三人で黙り込んで、重たい空気が僕達にのしかかる。

 ウェイトレスが伝票を持ってやってきて、お決まりですか、と僕達に訊く。

「アイスティー二つと、」

 そこで区切って菊池さんは僕を眼で促す。

「あ、えっと、コーヒー。」

「アイスティー二つとコーヒーお一つでよろしいですか?」

 はい、と菊池さんが答えると、かしこまりました、とウェイトレスは礼をした。

 コクリと水を飲んで、今、何時?と菊池さんは言った。

「四時十八分。」

「私、ちょっと銀行に行って来る。木村君、真由美のこと、よろしくね。すぐ戻ってくるから。」

 てきぱきと言って、菊池さんはもう立ち上がっている。

「すぐに戻ってくるから。真由美、大丈夫だから。」

 なおも手をつないでいる工藤さんに、菊池さんはささやくように言った。言われて工藤さんは、不安な顔をしながらも、つないでいた手を放した。

 大丈夫だと言うように菊池さんは工藤さんの肩に手を置いた。それから、菊池さんは僕を見て声になるかならないかの声で、お願いね、と言った。僕はコクリと頷く。それを確認してから菊池さんは足早に喫茶店を出ていった。

 店内には聞き慣れたクラシックの曲が流れている。客は僕達の他には四人連れ主婦らしきグループがいるだけだ。先ほどから熱心に喋る主婦達の声が聞こえてくる。どうやらママさんバレーの仲間同士らしく、聞こえてくる会話はバレーの話だ。

「お待たせしました。」

 ウェイトレスが銀色のお盆を持ってやってくる。僕の前にコーヒーを工藤さんの前にアイスティーを置いて、これはどちらに?と僕にもう一つのアイスティーの置場所を訊ねる。

「あ、そこに。」

 僕が工藤さんの隣を指すとウェイトレスは滑らかな手つきでアイスティーをテーブルに置き、無言で一礼して立ち去った。僕はウェイトレスをなんとはなしに眺めながら、なんだって菊池さんはこんな時に銀行に行ってしまったんだろう、と思う。こんな所に二人で残されても、僕は工藤さんに喋る言葉がない。僕はコーヒーに口をつける。工藤さんは先ほどから俯いたまま動かず、運ばれてきたアイスティーにも手をつけようとしない。

「飲んだら。」

 口から出た言葉が乱暴に響いた気がして僕は慌てる。工藤さんは僕に言われてストローをグラスに入れてアイスティーを啜った。

「顔色、悪いみたいだけど、大丈夫?」

 場を取り繕うように僕は言った。実際、今日の工藤さんの顔は生気が失せているせいか異常に白い。

 工藤さんはストローから口をはなして、喫茶店に入ってから初めて僕を見た。

「ファンデーション、塗ってないから。」

「え?」

「化粧してないから。私、アルビノだから、これが本当の肌の色と眼の色。いつもはカラーコンタクトと化粧で隠してるのよ。私の髪もね、本当は真っ白なの。気持ち悪いでしょ。」

「そんなことは・・・。」

「いいの、誰だって私のこと気持ち悪いと思うから。私の親でさえ、私のこと気持ち悪がって愛してくれないぐらいだから。」

「そんなことないだろ。」

 僕の声にきつく首を振って工藤さんは、事実なの、と笑った。淋しい笑顔だった。

「髪を黒く染めて、化粧をして、黒いカラーコンタクトを入れても隠せない。人間ってサ、自分とは違うものは徹底的に苛めて排除しようとするの。私はどんなに頑張っても人間だって認めてもらえない。だから、もう、人間でいるの止めようと思ったんだ。」

 そこまで言って工藤さんはアイスティーを飲む。それから、椅子の背もたれに頭と背中を押しつけて黙っている。まるで人形になろうとでもしているかのように。

 僕は黙ってコーヒーカップを見ている。僕の胸は何かに押しつぶされそうに軋んでいる。

 突然、現実味のある足音が店内に響いて、菊池さんが現れた。ずっと走ってきたのか顔は上気して息はすっかりあがっている。菊池さんは無言で席に座ると、ストローも使わずにアイスティーを一息に飲み干した。そして鞄の中から銀行の名前の入った白い封筒を取り出して工藤さんの前に置いた。

「二十六万七千円あった。」

 訳が分からずに僕と工藤さんは菊池さんを見る。菊池さんは工藤さんだけを見据えて言葉を続ける。

「これ、ちゃんとした私のお金だから、これ、真由美にあげる。このお金で真由美は生きて。病院代を男に返すんでもいいし、これ使ってどこか遠くの街に逃げるんでもいい。もうこれ真由美のお金だから、好きに使っていいから、足りないかもしれないけど、とにかくこれで生きて。」

 言い終わって菊池さんは唇をぎゅっと一文字に結んだ。ぴんと空気が張りつめて、一瞬後に工藤さんが崩れ落ちるように泣いた。横にいる菊池さんの肩に顔を押し当てて、工藤さんは泣いた。工藤さんの背中を手でさすりながら菊池さんの眼からもぼろりと涙がこぼれた。僕はぼんやりとその光景を眼に映す。

「違うの。」

 泣きながらはっきりと工藤さんは言った。顔を上げて、菊池さんの顔をしっかり見て、工藤さんは言葉を続ける。

「私ね、私、自分だけは、子供を堕したりしないと思ってた。」

 工藤さんの声に菊池さんはうんうんと頷いた。

「でも、死んだりしないで、お願いだから。」

 工藤さんは声にならない声で頷いて、また泣いた。

 

                   九

 

 それから何事もなかったように日常は戻ってきた。あんな騒ぎがあったのが嘘のようだ。 工藤さんも菊池さんも、何もなかったように学校に通ってきている。けれど、僕はまだあれから工藤さんとも菊池さんとも話をしていない。誰がどこで聞き耳をたてているか分からないから、僕はあの日の事を口に出さずにいる。

 あと四日で夏休みが始まる。このまま夏休みが来たら、僕はあの日の事を昔観た映画か何かのように思い出すのかもしれない。

 結局あの日、僕は喫茶店で二人と別れた。工藤さんは相手の男を喫茶店に呼び出して金を返した。男は無言で金を受け取って、それで終わりだった。いつか絶対に返すから、工藤さんは菊池さんに真剣な声で言っていた。

「木村、今日、ラーメン食いに行かない?」

 江波がやってきて僕に言った。

「いいけど、江波、部活は?」

「こんなに雨が降ってちゃやらないよ。」

 窓の外を見る。確かにひどい雨だ。

「雨でもやるんじゃないの、室内とかで。」

「やんない、やんない。やる気ないもんサッカー部。宮田も行くってサ。ラーメン食ったら、宮田ん家行こうゼ。」

「オッケ。」

 笑って僕は思う。あり得ない話だけれど、もし僕が工藤さんのような状況に陥ったら江波と宮田はどうするだろうか。それ以前に僕がアルビノに生まれていたら、こいつら二人とは友達なのだろうか。

 考えるだけ無駄な気がして僕は考えるのを止めた。少なくとも僕は江波も宮田もいい友達だと思っている。それで十分だ。友情なんて計れない物を計ろうと思うのは間違っている。

 

                   十

 

 夏休み中の化学部の宿題を渡すから、と山葉先生に言われて、放課後、僕は化学室に行く。

 化学室には菊池さんがいて、僕を見て手を振った。軽く笑って菊池さんの隣に座る。

「この間、なんで木村君、真由美のこと分かったの?」

 何でもないことのように菊池さんは言った。

「学校から帰ってきたら手紙が来てたんだ。宛先もなくて切手も貼ってなかったから、変だなぁ、と思って読んだら工藤さんからで、自殺するみたいなことが書いてあってサ。」「ふーん、家にも来たよ、手紙。あの日真由美、学校休んでたじゃない、だから、すごく焦った。真由美、もう死んじゃったんじゃないかって。」

「工藤さんの居場所、すぐに分かった?」

「うん、超能力みたいにあの歩道橋だって思って行ったら、真由美がやっぱり居た。じっとね、車道を流れる車ばかり見ててね、真由美、私に気付かないから、私、歩道橋に上がって、後ろから真由美の手を引っ張ったの。真由美、すごく驚いた顔してね、そのままそこに二人でへたりこんで、動けなくなっちゃった。」

 フフフと菊池さんを笑った。

 その時ドアが開いて、山葉先生が厚いプリントの束を抱えて現れた。

「これ、夏休みの宿題な。きちんとやってくること。」

 きちんと綴じられたプリントの束を僕達に渡しながら先生は言った。

「先生、これ厚いよ。」

 不服そうに菊池さんが言った。

「作るの大変だったんだから、ちゃんとやってこいよ。二学期の実験にも関わってくるんだからな。」

「はーい。」

「じゃあ、良い夏休みを。二学期に元気に会おう。それじゃあ、解散。」

 そう言って先生は慌ただしく教室を出ていった。取り残された僕達は帰るために教室の窓を閉める。

 今日は中庭に工藤さんの姿はない。

「今日は工藤さん、待ってないんだね。」

 僕の言葉に菊池さんはちらりと中庭に視線を送って、いつも一緒に帰るわけじゃないわ、と言った。

「それに今、真由美はテネシー・ウィリアムズにはまっていて、全集を読破するって、図書館通いをしてるのよ。」

 へぇー、と僕は中庭に眼を落とす。誰もいない中庭は、夏の光を浴びて緑がくっきりと濃く繁っている。

 

                   十一

 

 夏休みはだらだらと続く。僕は時々勉強をしたり、時々宮田達と遊んだりしながら夏休みを過ごしている。

 一度図書館に行って、工藤さんを見かけた。相変わらず工藤さんは赤い髪をしていて、熱心に本を読んでいた。僕は結局、工藤さんには声をかけずにヘッセの『車輪の下』とテネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』を借りて帰ってきた。

 『車輪の下』も『ガラスの動物園』も、僕は二、三ページ読んだだけで決まって眠ってしまう。魔法でもかかっているのかと思うぐらいだ。

 そうやって眠ると、何度か工藤さんの夢を見た。目覚めるといつも赤い髪しか覚えていなくて、あぁ、工藤さんだったな、と思う夢。

 『車輪の下』も『ガラスの動物園』も結局読み終えることなしに、図書館に返すことになりそうだ。

 僕に文学は無理らしい。

 

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