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ある晩阿懿は、兄に「寝所を別にしよう」と特別穏やかな声で言った。
狭い家であったし、兄弟仲も良かった。
それと阿懿がその病弱さから夜魘【うな】される事も多いので、二人は今まで寝台を並べて寝て居た。
然しそれも今の阿懿には堪え難い事であった。自分を喰おうとしている男の横で寝るなど!
そうした感情は覚【さと】られない様努めて平静に阿懿は提案したつもりだ。
だが兄は聞いた。「何故だ」
阿懿は血の気が引く様な気がした。
どうして言えるものか、食べられるからだ、などと。
それこそ兄は逆上して今直ぐにでも俺の躯を引き裂き食べてしまうかもしれない。兄に力で勝てよう筈も無い。
そういう感情が阿懿を黙らせた。だが然し阿懿の兄は阿懿の異常な目の色に勘付いた。
そもそも兄は兄でとっくに阿懿の変異には気付いていた。阿懿の熱が下がってからの挙動は傍目に見てもおかしいのだから。
何処か他所他所【よそよそ】しいし、かと思えば常にこちらを窺[うかが]っている様でも有る。
目には畏怖をあからさまに湛[たた]え、何時も落ちつかず、自分、兄と目を合わせるのさえ避けようとしている様な。
そんな様子だから心配で、何故離れたいか態々[わざわざ]理由迄尋ねたのだ。が、今、
これ以上阿懿を追い詰めるのは危険の様にも兄には思えた。
だから、阿懿と離れて寝るのを許した。そして阿懿を奥の部屋に遣【や】り、有り合わせの戸板で仕切りを作った。
それで阿懿は、その部屋には窓が無かったものだから、とりえず、隔離された、とも呼べる状態に在り、こう思った。
隔離。
やはり兄は昔の様に俺を愛してくれては居ないのだ。
やはり兄は俺を食べるつもりなのだ!
翌朝兄は阿懿より六時間早く起き、とは言え阿懿は元々性格上体質上起床が遅く、
兄は仕事が有るので早起きなのだがそれでも何時もより一時間早く起きて医者を呼んだ。
阿懿が日も高くなった頃目を覚ますと、待ち構えていた兄が仕切りの向こうから顔を出した。
「この間の熱は酷かったから念の為、もう一度診てもらおう」
これが兄の言い分ではあったが、阿懿には言い訳も甚だしかった。
俺には解っている。二人で俺を食べる為、俺の太り具合と殺し方調理法とを、綿密に話し合う為であろうが。
「阿懿…。このお医者さん、韓さんて言うんだけどなぁ、何日か家に滞在されるから」ほらみろ。
そんなにおれが喰いたいか。食人鬼め食人鬼め。阿懿はそう思い乍[なが]らも韓医師の質問に答えたり神妙にしていた。
それでも、終わると早くこの危険な場所から逃げ出そうとでも言う様に、散歩に出ると一言言って、走り去った。
阿懿が完全に見えなく成ると韓医師は兄に阿懿の病名を告げ、兄は愕然とした。
顔面蒼白肩は小刻みに震え、それでも目の前の現実には耐えねば成らぬよ、
と唇を噛んで気を持ち直した。阿懿への哀れみと先への不安とが心中を駆け巡ってはいたが。
ウワアと一声大声をあげると眉間に皺[しわ]を寄せ外へ走り出し、
邑を統べる者に住民の召集を頼み、皆の前で悲痛そうに言った。
「俺の弟は気が狂った」
〜続劇〜
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