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六月七日
この家(王学者の家)に辿り着く迄に俺って何度冷や汗をかいたろう。
誰かに見られている、付け狙われて居る様な気がする。
けれどもそれも当然と言えば・・・当然だ。何故なら俺は事実狙われているんだ。
俺の命!この躯を!
俺は今食人って危機に晒されている。然も実の兄によって。
何時食べられるかと思うと気が気でならない。
俺は腕力で兄に勝てない。いざって時どの様にして難を逃れれば好いのか?
それを考え乍ら、この先生きて行かねばいけない・・・。
六月八日
昨日帰宅した俺を見る兄の目の他所他所しかった事!必死で何かを隠そうって様な。
だが残念。俺はもう気付いている。
要するに兄は俺に、自分が弟を食べようとしているって事実を覚られたく無いんだ。
あの目の色!俺をまるで物かのように見ている。勿論共謀者の韓も、だ。
知ってるか?医師面して「今日の具合は?」等と聞いて来る。
虫酸が走る!
全ては俺の体を旨く喰らう為ではないか。
あの二人を見ていると気が滅入る。鉛で出来たかの様な、重く、鈍く光る目・・・。
畜生。
六月十日
なんて事だ!落ち着いてられるか!邑の奴らまでもが俺を見る目を変えた!
あの目だ。あの目だ!
六月十一日
邑の奴等は依然として俺を見る目を変えない。相変わらず俺を喰おうって様だ。
皆、俺の様な痩せっぽちの人間を食べでもしなければ腹を満たせないんだろうか。
今日は少し散歩をした。家の中で静々として肥え太る訳にはいかない。
何故ならそれは当然であるが、俺が太ればそれだけ俺は、つまり
奴等に、俺を食べたい、という念を、そう、強くさせてしまい、
結局は俺の死期を早める事に成ってしまうからである。そうだとも。
俺は歩くと、見た。
一人の女が俺を見た途端やけに吃驚した様な怯えた様な目つきで俺を睨んだ後、
隠れる様に逃げる様にして走り去った。
知らない女だったが、あの女までもが俺を食べたがっているかどうかって言うのは、
まあ、そうだろうと言う事にして置くとして、何故吃驚されるのか?
六月十二日
昨日女が俺を見て驚いたろう?
困惑しきったのは、自分達が俺を喰おうとしている事を気付かれては不味い、
或[ある]いは
気付かれるかも知れない、
って思ったからである。
何故この様な事が言えるかって言うと、俺は聞いたからだ。そうとも。
夕べ数人の女共
―その中には昼間の女も入っていた―
が兄にこう言っていた。
「何であの子を野放しに歩かせておくの?こっちは気を使って大分まいっているのよ。
家に閉じ込めておけば好いじゃないの。どうせそう長くはないのでしょう
(実際には阿懿の病気の事を言っているのだが阿懿には自分の命の話に聞こえた)」
兄は答えた。「解らない」と。「韓医師の話では最悪一生この状態かも知れない」と。
この会話によって俺が得る事の出来た情報は二つ。
先ず、邑人達は俺が外出する事によって自分達の、俺を喰うって思索が露見するやも知れぬと怖れてい、
であるから今後も先の女の様に取り乱す奴が出てくるかも解らぬ、って事。
もう一つ。これは極めて有益な情報って様に思えるが、
このまま行けば俺は、少なくとも直ぐには食べられる事は無いかも知れない。
一生続くかも知れない。
この緊迫した日常が死ぬまで続くかと思うと心底ゾッとするが、それは向こうも同じらしい。
何にしても今の様に散歩をしたり、何も知らぬような顔をしていれば直ぐには食べられぬと言う事だ。
大変喜ばしい。分かるかい?
六月十四日
呉さんの家の犬が目に入ったので暫く見て居た。(阿懿は散歩をしていたらしい)
普段人間には忠義面して居るこの動物も、やはり必要に迫られたらば人を喰うんだろう。
それどころか己の肉親だって喰うだろう。
事実戦火を浴び死人の村と成った所には、犬やら烏[からす]やらが集まると非常に好く聞くし、
多くの動物は共食いを厭[いと]わない。 同じ動物たる人間のみがどうしてこの自然界の掟から逃れられようか!
六月十九日
俺は考えた。食人と言うのは、確かに排除すべき悪習だ。
では、その様なものを今、この邑に蔓延[はびこ]らせておいて好いのだろうか。
否[いや]、好い筈が無い。では矯正しなくては。
六月二十日
俺は努めて穏やかに兄に言った。
「動物の中でも下等な物は、何ら気にも止めず同種の物達を食べます。それに対して一つの罪悪感だの後悔だのも存在し得ないのは、それら中に法や道徳心ってものが無いからです。少しばかり知恵の発達した生き物達は、やや考えを改め、共食いを危急の時のみで使う様に成ります。然し未[いま]だ法って高等なものが産まれやしません。それなら、法、道徳心、更には知恵の全てを併せ持った動物の長たる人間が、未だに共食いなんぞを続けて居て好いものでしょうか。兄よ、貴方が飢えたなら私は山へ入り山菜をとって来ましょう。貴方が飢えたなら私は川へ入り魚をとって来ましょう。ですから、私を喰うって事は止めて下さい・・・!」
始めは穏やかな風で聞いて居た兄の顔が見る見る内に変貌して行った。
眉間には深い皺が刻み込まれ、顔色は紅潮したかと思うと直ぐに青ざめた。
だが兄は俺から顔を逸らし何も言わなかった。
兄の肩は小刻みに震えてい、どうやら泣いて居るらしかった。
俺の話が少しでも兄に感銘を与えたんなら、それは実に喜んで然るべき事だ。
然し。
兄は泣いている。
(ここで王欣は注釈を入れている。
『この言葉を放った時、阿懿は非常にバツが悪そうで在った。
阿懿にとって己の兄とは揺るぎない父の様な者で在り、
その兄をどんな理由であれ落涙にまで至らせてしまったのが、阿懿にとっては、
きちんと自覚して居たかどうかは疑わしいが、一つの罪であったのだろう』
後に阿懿は語るが、阿懿にとって、
いかなる時も根をあげず、愛情を持って自分を育ててくれた兄とは最早、崇拝対象である。
その兄を泣かせてしまった事が、阿懿にとっては悪事に他ならなかった。
平たく言えば己の行動によって神が悲しむのである。この事が阿懿にただならぬ衝撃を与えた)
阿懿の手記は以上で終わった。王欣は手記の最後を
『二十日、意気消沈して帰った後は六日間阿懿の姿を見なかった。
邑へ出て様子を窺うと、 阿懿は完全に妄想から解き放たれて、
以前と同じ様にだらりとした日々を送って居た。この手記も最早必要とはされないであろう。
この手記に《狂人日記》という題をつけて残す』
として締めている。
〜続劇〜
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