夕張鉄道

 

 夕張本町と江別市野幌を栗山経由で結んでいた夕張鉄道。北炭夕張鉱や平和鉱等の石炭を小樽港に運ぶ使命を持っていました。また夕張から札幌へ国鉄より短距離で結んでいた事もあり、夕張-札幌間の旅客輸送にも力を入れていました。気動車の導入は早く、特にキハ250型は北海道で最初の液体式変速機を採用した車両で、国鉄が借入して千歳線で試験をしたことで知られています。
 しかし炭鉱の斜陽と共に経営は悪化し、夕張-札幌間の輸送も野幌(北海鋼機前)での乗換えを必要とした事から自社の直行バスに客が移行し、昭和46年には栗山-夕張間の旅客営業を廃止、残った栗山-野幌間の旅客営業も昭和49年に廃止となり、北炭の輸送部門となりました。ただそれも長くは続かず翌年昭和50年3月31日北炭平和鉱の閉山と共に全線廃線となりました。

 鹿ノ谷の車庫で休む夕張鉄道のDC達です。この時にはすでに夕張鉄道では旅客営業を終了しており、運用を持っていませんでしたが、時折動かされて引き取り手を待っている状態でした。残念ながら彼らが営業運転している姿を私は撮る事が出来ませんでしたが、幼稚園の頃の錦沢遊園地への遠足など、またバスが便利になる以前に札幌へ行くときなどにこれらのDCにお世話になりました。254号は鹿島鉄道のキハ715となった後営業運転の姿を撮る事が出来ました。すでに夕張鉄道が廃止されて30年以上経ちますが、この建物は今も残り当時の面影を今に残しています。

 続いて夕張鉄道の251です。やはり栗山-野幌間の運行が廃止された後嫁ぎ先を待つ姿です。まだサボが下がっているのが現役時代を彷彿とさせます。この251号は北海道で最初の液体変速機を装備したDCとして有名で、当時の国鉄千歳線で試験運転をしたことでも知られています。また海水浴臨として国鉄函館線の蘭島まで営業運転されました。
 また夕鉄廃止後は茨城県の鹿島鉄道に移り、つい最近2007年3月の同線廃止まで夕張鉄道最後の生き残りとして走り続けたのは記憶に新しいところです。

夕張鉄道が廃止されたのは昭和50年(1975年)の3月31日でした。特別の列車の運行はなく定期列車に「さよなら」マークを取り付けただけのあっさりとしたお別れでした。「おわかれ列車」の運行前に9600型の26号機にさよならマークを付けてお披露目されました。今でしたらこのように子供が車両の前に立って記念撮影しようものなら心無いマニアの罵声が飛び交うところでしょうが、この時はそんな事もなくのんびりとしたお別れの時間が流れていました。この子達も今は40歳以上のはず。夕張鉄道は想い出の中に残っているのでしょうか。

夕張鉄道の廃止は昭和50年3月31日でしたが、これは最後の大荷主だった北炭平和炭鉱の閉山に伴うものでした。鉄道自体はこの時すでに夕鉄の手を離れて平和炭鉱の一部門となっていたので当然と言えば当然の事でした。野幌までの定期列車がさよなら列車となり、牽引機であるDD1002に飾りつけが行われました。
 この写真は変な構図で非常に見ずらいのですが、この時期意味もなくこう言う構図で撮るのがマイブームでした。今となっては何しているのだろうと言う感じです。

 夕張鉄道(夕鉄)廃止約1年半ほど前の鹿ノ谷機関区の風景です。手前の9600型21号は夕鉄の自社発注機で数少ない昭和生まれの9600で、しかも9600としては最後に生まれたカマです。夕鉄の9600型は平和駅から栗山方面へ向かう貨物列車の後押しをした後自動的に連結器を開放する装置を付けていて正面デッキの上に付いている二つの縦型の筒状の物がそのシリンダーです。

 右後ろにいるディーゼルカーはキハ201号。元々は機械式のDCでしたが、後に(北海道最初の)液体式のの250型が増備されると併結できるように液体式に改造された物です。とっくに旅客営業は止めていた(休止)していたのですが、路線の廃止まで、これと251と254の3両が残されていて(車庫の扉の奥にチラッと見えていますね)、時々位置が変わっていたので、いつでも動ける状態には整備されていたのだと思います。

 この時は、特に事務所に許可を得るでもなく、つかつかと入っていって撮影していたのですが、作業の邪魔にならなければ職員にも特にとがめられもせず、おおらかな時代でした。今ではまったく考えられません。まあ、今の時代でしたらこんな所に入って行く人種はろくな事をしないと相場が決まっていますからね。悲しい時代になった物です。


 北海道の鉄道には自社発注したSLがずいぶんとありましたが、大体は国鉄型を基本とした物で、給水温め器が無かったりとか、シリンダーケースの形が違うなどと言う程度の物でしたが、夕張鉄道では完全なオリジナルの機関車を持っていました。昭和元年、日立製の10型がそれです。全部で4両製造されたようで、同型機は他には見られません。8620型のボイラーに9200型の足回りを組み合わせたような格好になっていて、私が夕鉄に接していた時期に主力だった9600型よりもスマートなスタイルが好印象でした。気が付いたときにはすでに12号だけが残っていて、入れ替えなどに働いていました。現在夕張石炭の歴史村SL館(休館中)で14号の姿を見ることが出来ます。写真の12号も江別の会社社長さんが購入されたのですが、ご本人が亡くなられて暫く経ち、一緒に保管されている何両かのSL共々行方が気になります。

 かなり古いしかもあまり写りの良くないネガから起こしたので上手く色の調節が出来ませんでした。申し訳ありません。
 夕張鉄道の9600型25号と26号の重連です。元々夕張鉄道では平和から錦沢方面に向かう貨物列車に発車の時だけ後補機が付くことがありましたが、普通の重連と言うのはありませんでした。これは廃止間際の栗山から鹿ノ谷に向かう貨物列車で、通常DLのところ特別に9600型の牽引として、新二股からは重連となったのでした。私が記憶しているのは夕鉄の末期の頃だけですが、その範囲で9600型の前補機の重連は後にも先にもこの時だけでした。新二股―錦沢間にて。

 「鉄道ファン」誌2004年7月号の「門デフ調査レポート」(ネコパブリッシングより2010年単行本発売)でも取り上げられていた夕張鉄道28号です。元国鉄49650で長岡第一機関区が最終配地でした。夕鉄で作成された門デフタイプのデフが有名ですが、テンダーもご覧のように切り取られていました。このタイプのテンダーは青森機関区所属の入れ替え用9600に見られたのですが、この28号機の場合はっきりしませんが夕鉄で改造された物のようです。また動力自動逆転機を装備していた結構な変形機でした。この28号機の走っているところは実は私は1度しか見たことが無くて、あまり使われていなかったように記憶していますし、夕鉄の末期には蒸気ドームのカバーをはずされて車庫の中に収まっていました。
 夕鉄廃止後28号機は鹿ノ谷で解体されたのですが、その際上に書いた動力自動逆転機を私は譲り受けました。譲り受けたのはよいのですが、あまりの重量で家にもって帰ることが出来ず、そのまま夕張市の郷土資料館に寄贈(正式には無償永久貸与)してしまい、今では石炭の歴史村・SL館(休館中)に展示されています。

 この3枚は続けて撮影された物です。平和近辺かという感じもありますが、どう考えても錦沢としか思えません。何となく行ったかもと言う記憶もあります。ただこの頃は記録をとっていないので定かでないのが悔やまれます。撮影順のまま並んでいます。もしも分かる方がいらっしゃいましたらお知らせください。

 この3枚も続きの撮影です。1枚目は若菜駅構内。2枚目と3枚目は若菜から出ていた北炭化成工業所の引込み線です。21号機が入換をしています。本来この入換は10型12号の仕事でしたが、結構頻繁に9600も入っていて、その中でも一番頻度が高かったのはあまり調子の良くない28号機だったと記憶しています。だからと言って他のカマも入らなかったわけではなく、この時は21号機でした。

鹿ノ谷駅構内です。夏ですねぇ。後ろの機関庫は移転のため2011年の10月に解体されてしまい、夕鉄の機関区の名残を残すものは無くなってしまいました。
21号機は上でも紹介しましたが、斜めになったデフのステーが特徴です。

鹿ノ谷構内を走る25号機です。流し撮りに挑戦してみましたが、あまりそれっぽくないですね。

若菜駅構内の27号機です。鹿ノ谷方向を向いているので、平和の補機ではなく、これも北炭化成工業所の入れ替えをしていたものと思われます。よく見ると連結器の開放装置は21号機とは違うシステムのようです。27号機はあまり撮影した記憶がありません。この時が唯一だったのかもしれません。

ちょっと遠いですが、ちょうど中央部分に平和駅の駅舎がありそこに9600が停まっているのが分かります。実は夕鉄現役時代私は平和駅に行った事がありませんでした。その気になればいつでも行けたのですが、なぜなのか自分でも不思議です。

平和駅から若菜方向に向かって築堤を上る9600です。いまはこの区間の築堤は運動公園となり失われています。私は今もある道々から撮影していますが、手前の柵の向こうは全て北炭平和炭鉱の敷地内となります。

夕鉄廃止の1年半ほど前、栗山駅の裏にあった建物の影にひっそりと置かれていた駅名標です。これはその後どうなったのでしょう?

 

続く・・・