農民芸術の原点

    ブラジルに弓場(ユバ)農場という日系人の共同体がある。ユバ・バレエ団と言えば、ブラジルでは知らぬ人のいないくらい有名な団体で、普段は百姓をしている母ちゃんたちが、農作業を終えた夜にレッスンを積み、ブラジル各地での公演活動をしている。先日、テレビ番組「世界ウルルン滞在記」で紹介されていたが、農場では果樹、しいたけなども栽培し、大豆からは豆腐、味噌、醤油まですべて手作りして日本食を守っている。バレエの他にも合唱やミュージカルをやり、子ども達は手作りのヴァイオリンで合奏の練習をしていた。この農場のことは、本やホームページ(「ありあんさ通信」、「YUBA」)でもすでに知っていたが、実際に映像で見て、私のやりたいことを既にやっている場所がブラジルにはあったんだと、改めて認識した。ただ、音楽的な内容には、私はちょっと物足りなさを感じた。少しばかりの映像では分からないが、素人がやっているからということで許されるような音楽ではなく、音楽そのものが、純粋に感動できる力を持っていなくてはならないと思う。
 このユバ農場には、すでに80年ほどの歴史があり、70名ほどの大所帯が一つ財布で自給生活をしている点では、日本に何ヶ所かあるヤマギシ会とも似ている面がある。しかし、大きく異なるのはその理念である。ヤマギシ会は、80年代頃までは全共闘世代などの左翼陣営にも受け入れられて、うまく行っているコミューンだったが、最近は硬直化してオウムの次はヤマギシかというほど危険なカルトの一つとなってしまった。ユバ農場が、今でもうまく行っているのは、そこに一切の規約を設けず、しかし根本には確固たる信仰を持っているというところにあると思う。しかし、テレビでは宗教色は全く消されていて、あえて報道しなかったのかもしれないが、大変残念に感じた。
 信仰というものは、哲学と言ってもよいが、生き方の基本であって、最も大切なことのはずである。それを追求せずに、目に見える結果だけで物事を判断すると、大きな間違いを犯す。良い種がなければ、良い実はならない。良い実を成らすためには、良い土壌、肥料、天候、農夫の世話など、多くのことが必要であるが、最初に良い種がなければ、あとが全て揃っていても、良い実はならないのである。だから、最も重要なことは、良い種を手に入れることである。それが、人間にとっては信仰や哲学に他ならない。カルトになってしまったヤマギシ会とオウムは似ているところもあるが、ある意味では正反対だ。ヤマギシ会は宗教ではないから、信仰がない。つまり種無しだ。一方、オウム真理教の方は、相当いかがわしいのだけれども、確固たる宗教である。とてもとても悪い種である。どちらも、よい実を結ぶはずがないのである。
 日本からブラジルに移住して弓場農場を創設した弓場勇(1906〜1976)は、「宗教すること、百姓すること、芸術すること、この三つがハーモニーした生活こそ、人間の求める本質的な生き方である。」と語っている。彼は私と同じ聖公会の信徒であったそうだが、農場のメンバーに宗教は強制せず、キリスト教他派はもちろん、仏教徒も認めた。ただ、朝晩の祈りの時間は欠かさないようにし、仏教徒のために、食事の時は黙祷にしたという。当時は、トルストイの影響もあり、国内でも武者小路実篤の「新しき村」のように、そのような農業共同体を目指した取り組みがいくつかあった。しかし、「新しき村」には宗教色はなく、今でも埼玉で30名ほどの共同体として存続してはいるが、かつてのような勢いはない。宗教に基いている農業共同体は、決してキリスト教の専売特許ではなく、仏教でも西田天香の始めた京都の一燈園のように、すばらしい共同体がある。イスラエルに300近くあるキブツは、そのような共同体としては最も成功しているものだろう。規模も数百人から数千人単位と大きいものが多く、学校や公共施設も備え、現在では農業も大規模化し、工場を持っているところも少なくない。しかし、メンバーが無給で労働し共同生活を営んでいるれっきとした農業共同体であり、ユダヤ教の宗教共同体とも言える。キブツはイスラエルの総人口の約3%を占めるが、農業生産の40%をまかなっている。パレスチナとの関係ではイスラエルという国は問題があり過ぎるけれども、資本主義国家でありながら多数の社会主義的コミューンを抱えているという点では、非常に興味深いものがある。
 祈り、耕し、芸術する、この3つをどれも欠かさなければ、とてもすばらしい生き方ができる。逆に、どれか一つが欠けても、人生はとてもつまらないものになってしまうだろう。現代日本の農家の中には、祈りや芸術が、一体どれほどあるだろうか。ほとんどなくなってしまっているようにも思える。そのような農業に、どれほどの魅力があるだろうか。農業は、生きるための手段に過ぎない。祈りこそは、生きる力の源であり、芸術は、生きていることの表現である。一人の人間が、これらをすべて備えることが求められるべきではないだろうか。そういう意味では、現代は不完全でいびつな生き方をしている人が余りにも多い。祈ることも、耕すことも、芸術することも知らず、現金を得るために自らの心と時間を命を削り、レジャーで稼いだお金と時間を費やす、そんな現代人のいかに多いことか。人間らしい真っ当な生き方とかけ離れれば離れるほど、様々な歪みが身体と精神に現われる。現代日本において、ガンや脳卒中、引きこもりや凶悪犯罪などがどんどん増えているのは、当然の成り行きである。
 祈りや芸術は、人間らしく生きるためにとても重要なことである。しかし、それを生きるための手段にすることは、本来のあり方ではない。だからこそ、百姓として生きることが必要なのである。分業化の進んだ現代では、宗教は宗教家、農業は農家、芸術は芸術家のやるものと決めつけてしまっている。本職(プロ)に任せておけば、それが一番ということかもしれない。しかし、僧侶は葬式で稼ぎ、牧師は結婚式で稼ぐか副業で幼稚園を経営するようなことで、生きた宗教が伝えられるだろうか。宗教の本質は、冠婚葬祭ではなく、生き方の指針となる個人の心の問題である。それは、宗教家に任せておけるようなものではない。農業も、農家に任せておけば安心とは、残念ながら言うことができない。輸入農産物は安全性に疑問があるから、高くても国産をという消費者運動があるが、安全性をいうなら、日本ほど多量の農薬を使用している国はないのである。既存農家は、大型機械、化学肥料、農薬の3点セットで規格に合った作物を大量生産しないとやっていけない(と思い込んでいる)。このようなやり方で、まともな人間の食べ物が生まれるはずもないし、環境も保たれない。また、芸術家は何をやっているか。芸術家として通用するには、高いお金を払って有名な師匠につき、一流の芸術大学に行き、コンクールやコンテストで受賞し、そういう肩書きや派閥があれば、認められるという世界である。しかし、それらのことは芸術の本質と何の関係もない。聴いて感動する音楽、見て感動する絵というものだけが、本物である。それらは、芸術家にならなければ生み出せないというものではない。
 信仰だけでは、人間は生きていけない。農業だけでは、生きている価値がない。芸術だけをやろうとすると、最もそれを必要としている人たちに届けられない。分業化は効率が良いが、人間は機械の部品とは違う。多少効率が劣ろうとも、一人一人が輝いて生きられる世界であってほしい。

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