農業は、環境にとってプラスかマイナスか?

 このような問いを発すること自体が不自然なことであるが、今世界において一番重要な問題は何かといえば、環境問題ということになるだろうし、それに対して一番大きな鍵を握っているのが農業ということを訴えたかったのである。
 ここ数年、環境とかエコロジーということが、新しい時代のキーワードであることがはっきり見えてきた。従来の経済効率一辺倒では、何事も許されない時代が到来しつつある。自動車一つ開発するにしても、排ガス規制はもちろん、リサイクル率の向上、地球温暖化防止のためCO2排出量を抑えることなど、様々なことが要求される時代になってきた。
 環境とは、生命を育むために最低限必要なものであり、経済よりも環境が優先されるということは、あまりにも当然なことであるはずなのだが、現在の経済システムは、まだこの環境優先ということに対応できるものにはなっていない。そのため、なかなか環境破壊の速度は緩んだとは言えず、刻一刻と地球環境の危機的状況が目の前に迫りつつある。
そして、地球環境に対して最も大きな負荷を与えているのは、実は工業ではなく農業である。世界中で、砂漠化がどんどん進行している。日本の国土くらいの面積が、毎年新たに砂漠となっているのだ。これには化石燃料消費による温暖化などの影響もあるが、灌漑農業のための地下水汲み上げとか、草原地帯への過放牧とかが大きな要因となっている。「そもそも農業は、人類が最初に行った自然破壊である。」ということを主張する人も、少なからずいる。確かにそれは間違いとまでは言えないが、環境を守る形の農業があることも、否めない事実である。例えば日本を含めたアジア各国にある棚田であるが、これは機械化が難しいために経済効率の面からは、消え行く運命にある。しかし、水田で裏作に麦なども栽培した場合には、光合成による有機物生産と二酸化炭素の吸収では人工林などより能力が高く、熱帯雨林に匹敵する実力があると言う。また、土壌の流出防止、水害防止などの面では、巨大なダム以上の効果を発揮している。これらの経済効果を計算すれば、棚田というのは非常に有意義なもののはずだ。しかし、単に米の生産性だけが問題にされて存在できなくなってしまう経済の仕組みにこそ、欠陥があると言わざるを得ない。
狩猟採取で生活できるのでない限り、農業は人類にとって必要なものであるが、それをどのような形で行うかは、エコロジーの観点で問い直されるべきであろう。しかし日本では、農業基本法以来、新農業法が制定された今も、経済効率優先の考え方は変わらず、選択的規模拡大によるコスト削減と農産物の輸入拡大が同時に推進され、農業生産の現場では大型機械によるエネルギーの多投とビニールなど石油製品の多用、農薬や化学肥料、畜産においては抗生物質など薬剤の大量使用が当たり前のことになっている。
環境とか生命を経済効率に優先するならば、無農薬有機栽培は当然のことである。生産量が多少減ることなど、問題にする方がおかしい。農家にとっては、生産過剰による価格暴落こそが、最も打撃なのだから。世界の人口が養えるかどうかなんて議論は全くのまやかしだ。現代において人口が増える原因は貧困にあり、貧困がなくなり食糧生産も抑えられれた状況で、人口の爆発的増加はあり得ない。貧困をなくすことにより、逆に安定した食糧生産が可能となるのであり、そうなれば、人々は余剰食糧を生産することよりも(それは人口を増やす以上の意味がない)、余暇を有意義な創造的芸術的な生産行為に充てることを選ぶはずである。
自給率の極めて低い日本において、減反して農地を荒らすくらいなら、減農薬で収量を減らして農地を守った方が、よほど有意義なことは誰にでもわかる。それをさせないのは農薬関連企業の陰謀が働いているからに過ぎない。そして有機栽培では、通常の化学肥料を使った栽培よりも、平年作はやや劣るものの、冷害の年には一般栽培より打撃が少ないというようなメリットもある。有機農業は、決して不安定でリスクが大きいばかりのものではない。それは、有機農業に関する研究や、それに向いた育種などの条件が整っていないからに過ぎない。
現在、畜産とか水産の有機廃棄物の大半が、単に埋め立てとか焼却とかされてしまっていることも、もったいないというよりも、エコロジーの観点から非常に大きな問題である。有機農業を当たり前の農業にすることにより、農業だけでなく色々な環境問題が一挙に解決することになるし、労働生産力の小さい有機農法であるからこそ、失業問題や労働問題までも根本的な解決に導くことになるはずなのである。環境破壊を伴う景気浮揚策など、未来に禍根を残す政策を許してはならない。
  改めて言うまでもないことだが、農業と工業の論理は違う。農業は自然の摂理に基いて、永続的に営まれるべきものであり、工業の発展を促してきた競争原理には本来馴染まないものなのだ。外国と競争して生き残る農業を育てようという考え自体が、大きな間違いなのである。
食糧は、できる限り狭い地域において自給するべきである。その理由については、食糧安保という考え方を待つまでもなく、他国の食糧自給を破壊しないという社会倫理的な意味からも、食糧輸入が輸出国の土壌と水を奪っていることに他ならないという環境倫理的な意味からも当然なのであり、食糧自給は国家としての義務であるとも言えるだろう。
有機農業による自給を国家のよりどころにし、経済封鎖をはねのけ成功したキューバのように、より恵まれた自然条件の日本において有機農業による自給をすることは十分可能である。もちろん、そのためには、現在のような食生活ではだめである。外食産業の食べ残しや賞味期限切れで捨てられるコンビニ弁当、日本人の健康維持に向かない肉食過多の傾向などを続けていては、もちろん自給などできはしない。伝統的な米と野菜、大豆や雑穀などを中心にした日本食を取り戻し、外食や中食を減らす努力を一方でしながら、有機農業による自給運動を地方から進めて行くことが必要であろう。国の政策も転換しなければならないが、それを待っていては世の中は変わらない。まず一人一人が、主体的にそのような運動に着手すべきである。

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