アナキズムは21世紀を救う!

 アナキズムは、日本語では無政府主義と訳されているが、これは本質を言い表した翻訳ではない。アナキズムの理想とする社会は、完全に自由で平等な共産社会であって、江戸時代の思想家、安藤昌益はそれを自然世と呼び、直耕という自給農によって、そのような文明以前の理想的社会が実現できると考えた。アナキズムを一言で言えば、反権威主義、反中央集権(反ヒエラルキー)である。アナキズムは、議会制民主主義ではなく直接民主制を志向し、順法闘争ではなく直接行動を好む。法律は権威であって、権威に従がって権威を倒すことなど矛盾しているからである。その点、律法(旧約聖書)を引用して律法を否定しようとしたパウロは、論理的に破綻している。
 アナーキストは、決して無秩序や暴力を肯定するものではない。そのような不届き者もいたが、それはキリスト教徒にも過激な原理主義者がいるのと同じで、決してアナキズムの本質ではない。アナキズムの王道は、ガンジーのような非暴力直接行動である。もっとも、アナーキストはもともと蔑称として使われた言葉なので、多くのアナーキストがリバータリアン(自由主義者)という呼称を好んで用い、ガンジーもリバータリアンと見なされた。しかし、アナーキストとリバータリアンは、本来全く同じものを指す。
 しかし今では、必ずしもリバータリアンは、アナーキストの別名ではない。アメリカには、リバータリアン党という政党があり、かなりの右翼である。その主義主張は、アナーキズムと似て非なるもので、リバータリアニズムと呼ばれる。左派リバータリアン(リバータリアン・ソーシャリスト)が、どちらかといえばリベラルな民主党よりであるのに比べて、共和党を支持する保守層だ。しかし、同じ共和党でも国家による福祉政策を支持するネオコンとは全く思想的に違い、ナショナリズムやグローバリズムに反対し、極端な個人主義と言える。
 リバータリアニズムは、資本主義の自由競争を信奉している。小さな政府を目指し、経済活動に対する国家の介入を最小限にすることを求める。この点で、民主党のリベラリズムとも相容れない。国家が個人に介入することを嫌うので、国家が大きな軍備をもつことには反対するが、個人で武器を持つことには賛成する。平和主義者には何かと評判の悪い全米ライフル協会も、リバータリアン党を支持している。リバータリアニズムは、イギリスの帝国主義から脱却した当時の、アメリカ独立精神に立脚しているのだ。
 1980年代になってアメリカで生まれた思想に、コミュニタリアリズム(共同体主義)というものもある。これは個人主義(リバータリアニズム)や自由主義(リベラリズム)に対抗する思想として、しかも共産主義(コミュニズム)や社会主義(ソーシャリズム)とも異なる新しい思想として生まれた。家族とか地域といった小さなレベルでの共同体ということを意識しているようだが、隣組と同じで結局は全体主義に行き着いてしまうような気がする。自由というのは結局個人の問題で、共同体は大切だが、優先順位から言ったら何よりも先ず個人であるべきだと思う。
 リベラルという言葉は、もともと「自由な」ということであり、アメリカでは保守的な価値観を持つ共和党に対して、自由で多様な価値観を認める民主党がリベラルである。しかし、自由といってもリバータリアニズムのように個人主義に走ると収拾がつかないので、「リベラル」は社会的公平さということを尊重する民主的な立場をも意味していて、社会民主主義的なスタンスということだろう。日本の民主党は、保守的(リバータリアニズム的?)な自由党も一緒になってしまったし、自民党の中にもリベラルな人たちは残っていて複雑だが、アメリカの2大政党も赤白はっきり分けられるようなものではない。大体、十人十色の思想をたった2つに分けることの方に、無理がある。私はアナーキストであって、当然保守よりはリベラルを選ぶ。
 共和党のブッシュ大統領を支えているブレーンは、政治的にはネオコン(新保守主義)であり、宗教的にはキリスト教右翼のエヴァンジェリカル(福音派)とファンダメンタル(原理主義・根本主義)である。彼らは世界を正しい方向へ導こうという使命観に満ちているのだが、正しい者だけが生き残り、それ以外の者は滅びるべきだと考えている。イラクに戦争を仕掛けた目的が、民主的で自由な国家を建設するためというのだから、欺瞞以外の何物でもない。ネオコンは、半世紀前の世界同時革命を目指していたアメリカ社会主義労働者党に端を発するが、これは反ナチズムという点でスターリンと対峙したトロツキーの理論を借り、反ソヴィエト思想を固めることが目的であったと言えるだろう。しかし、現在のネオコンは、トロツキーではなくレオ・シュトラウスの政治理論を基盤としている。彼はユダヤ系アメリカ人で、反ナチズムの政治学者だったが、その思想的源泉は、カール・シュミットというユダヤ系ドイツ人にある。彼は最終的にナチスに追われるが、元々ナチス(ドイツ国家社会主義労働者党)の法学体系を築いた法学者である。このような背景からネオコンは、シオニズムとナチズムという表層的には相反するが、内面的には似通った思想を受け継いでいる。そして、ナチズムとエヴァンジェリカル、シオニズムとファンダメンタル、トロツキズムと高度資本主義、これら相反する思想を都合の良いように継ぎ合わせ、軍産複合体の利益のために政治を動かしているのが、ネオコンの実態だ。
 アナキズムは、資本主義にも社会主義にも組みしない。現代では反グローバリズムということが中心命題となるだろう。しかし、反資本主義である点で、社会主義の一種と見なされることもあり、議会制を認めるアナルコ・サンジカリズムというアナキズムと社会主義の合いの子みたいなものもある。アナキズムは完全な自由を理想としているが、社会的な動物である人間が、完全に自由であるということなど、あり得ない。現実には、共同体をうまくやっていくため何らかの妥協が必要である。どこまで妥協するかということは、個々のアナーキストによって見解は様々だ。多数決がよくないからと言って、全員一致(コンセンサス)主義では暗黙の強制が働き、余計に自由はなくなってしまう。アナキズムにとっては、多様性の尊重ということこそが、最も重要なのである。
 アナキズムによる国家というものは存在しない。それは自己矛盾であり、アナキズムは国家を否定する。しかし、アナキズムによる自治が実現したり、アナキズムの思想をある程度採り入れた国家が存在することはあった。パリ・コミューン(1871)は、不完全ながらアナキズムによる自治政府であったし、1930年代のスペイン革命では、カタロニア地方で様々な自主管理共同体が実現し、アナキズムによる自治が最も成功した例である。しかしどちらも長続きしなかった。1989〜93年までポーランドで政権をとった「連帯」は、カトリックを基盤とする自主管理労組でありソ連型社会主義に反対する自由なアナキズム運動だったと言えるが、これも国家運営の面で失敗した。
 権威を否定するという意味では、権威を権威ならしめている力を否定することが肝要である。その意味では、国家権力の最大の基盤である軍隊こそ、廃止しなければならない。それを実現した唯一の国は、コスタリカである。最近、パナマもコスタリカにならって、軍隊を廃止した。コスタリカは、日本と同様に常備軍を否定する平和憲法を持ち、戦車や戦闘機はおろか機関銃一丁も持たずに、テロやクーデターの頻発する中米にあって50年近くも非武装で平和を維持してきた。しかし、レジスタンスの場合の武装闘争まで禁じているのではない。日本は同じく平和憲法を持ちながら、朝鮮戦争をきっかけに憲法違反の再軍備がなされ、今や世界第3位の軍事費を支出し、何より世界最強の米軍基地が全国各地にあるのだから大違いである。
 日本国憲法第9条は、アメリカに押し付けられたものではない。社会主義には、もともとマルクス主義と共にキリスト教社会主義の流れがあり、またその中に宗教的アナキズムというべき流れがあった。田中正造や内村鑑三などもその潮流に位置し、彼らは国家と対峙して戦争や軍備増強に反対した。しかし、戦前の日本は天皇制の下で軍国主義に突き進み、アジアで2千万人の命を奪い、日本人も兵隊だけでなく原爆や空襲で数百万人が犠牲となり、沖縄では人口の3分の1の数十万人が集団自殺に追い込まれたり、米兵よりも残虐だった同胞であるはずの日本軍によって殺されたりした。そのような反省に基づきできたのが平和憲法であり、アメリカの指導により作られたとはいえ、アメリカ人だけで勝手に作ったわけではないし、この第9条にはアナキズムの思想が色濃く反映されている。憲法制定直後の「新しい憲法の話」では、文部省は高らかに非武装論を謳い上げている。アメリカに押し付けられたのは、朝鮮戦争後の再軍備化の方であり、アメリカ軍駐留の恒久化である。旧社会党には、アナルコ・サンジカリストも含まれていて、再軍備に常に反対し自衛隊廃止を目標としていたが、今の民主党は、自衛隊容認はおろか、憲法第9条も廃止しようとしている。今でも軍備廃止を求めているのは、社民党にわずかに残ったアナキスト(?)くらいである。
 コスタリカが軍隊を廃止した理由が、ふるっている。国際紛争に巻き込まれないためではない。軍隊というものが、しばしば国民を弾圧(=治安維持)するために使われるから、ということなのだ。軍隊の本質を、よくとらえている。軍隊とは、外国の脅威に対するより前に、国民を支配するために存在するのである。いかなる支配をも認めないアナキズムにとって、軍隊を持たず、教育に国家予算の3分の1を使い、豊かな自然を守るために力を入れているコスタリカという国は、理想的な国家!と言えるだろう。
 すべての人が自由で平和に暮らすことが理想であれば、そのためにやるべきことは決まっている。つつましく働き、多くのものを望まずに生きて行くことだ。それを実現しつつある国がキューバである。キューバはカストロの元、未だに社会主義体制化にあるが、ソ連崩壊とアメリカからの経済封鎖によって、計らずも有機農業による自給体制を実現した。政治的には社会主義、経済的には資本主義を導入して工業化を計ろうとする最近の中国などの方向とは違うアナキズム的な自主独立路線には、好感がもてる。
 アメリカは世界で最も裕福な国になっているが、それは世界中の労働と資源をかき集めているからに過ぎない。犯罪の多発、ドラッグの蔓延など、精神的には荒廃しているし、アメリカ国内にも最低限の生活が保てない貧困層が4千万人もいる。日本でも最近はホームレスが増えていて数十万人はいるだろうが、公的社会保障の少ないアメリカでは桁違いである。日本も、アメリカに追随し世界から富を集めている。富というものは、労働と資源の搾取なしにはあり得ない。「世界がもし百人の村だったら」という本があるが、百人が百人とも金持ちになることは絶対にない。貧乏人を作ることなしに、金持ちは生まれない。富というものはそういうもので、資本主義とは富によって生産活動を行うので、必ず貧乏人を作る。だから、私は資本主義に反対する。私が、自給的農業を営むことを理想とするのは、私自身が自由に生きたいというのはもちろんだが、他人の自由を奪うのもいやだからである。
 こういう私のことを農本主義者だという人がいるので、農本主義者にはどんな人がいるか調べてみたら、はっきり2種類に色分けされた。一つは、宮澤賢治、北一輝、橘孝三郎、権藤成卿、石原莞爾、井上日召・・・という人たち。彼らは民族主義、(超)国家主義、天皇主義に走り、侵略戦争を思想的に支えた。彼らの共通項は日蓮の思想に基づいているということである。賢治は、少し違うようにも思えるが、彼の信奉した国柱会(日蓮系)の田中智学は、天皇制国家主義を支持し、石原莞爾らに影響を与えて、日本の中国侵略を推進する思想的基盤となった。
 もう一つの農本主義者は、石川三四郎、加藤一夫、田中正造、徳冨蘆花、武者小路実篤、有島武郎、江渡狄嶺・・・という流れだ。オーウェン、フーリエ、トーマス・モア、トルストイの流れを汲んでおり、彼らの思想は個人主義、人道主義、反戦主義、反国家主義的であって、キリスト教的アナキズムの思想家(リバータリアン)と言える。
 私は、もちろん後者の思想に、大きな影響を受けた。宮澤賢治には、共感できるところも多々あるが、その少し神秘的なところは、私の心にピンと来ない面がある。そういう意味では、現在の日本にも多くの信奉者がいるルドルフ・シュタイナーに対しても、有機農業を重視するなど非常に共感するところが多いのに、キリスト教の流れを汲んでいるにも関わらず、その東洋的というか神秘的なところが、私の感性に合わない。
 ソ連型の社会主義は20世紀の終わりに崩壊したが、アメリカ的資本主義も、今後数十年の内には確実に崩壊するだろう。21世紀においてアナキズムは、エコロジーと協働して新しい世界を築く基本理念となるに違いない。  

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