絶対音感と絶対平和主義
この文章は、「えこふぁーむ」ホームページの掲示板上でのK氏と私の論争をきっかけにして、新たに書き起こしたものです。

 私には、絶対音感がある。これは先天的な能力ではなく、楽器を演奏することのできない母が私に与えてくれた賜物であり、この能力には自信がある。絶対音感とは、耳にした音程(ドレミ)を即座に言い当てることができるという能力で、単音だけでなく、絶対音感を身に付ける過程で、瞬間的に響いた多くの音を分離して聴き取り、すべて判別することができる能力も自然に備わる。そして、音楽的にはこの後者の能力の方が一層重要である。私は、ピアノで7〜8個くらいの音を無作為に選んで鳴らしても、大体言い当てることができるし、ヴァイオリンのA線を、チューナーを使わずに442〜3ヘルツにチューニングすることができる。ここまで微妙な絶対音感が身についたのはオーケストラをやっていたおかげで、440ヘルツのAの音(アメリカの一般的オケのA)は、私には低いと感じるし、445ヘルツ(ドイツの一般的オケのA)では高いと感じることができる。
 現在、絶対音感教育の第3次ブームと言えそうで、絶対音感教育用のCDがベストセラーになったりしている。第一次ブーム(と言って良いものかどうか)は、太平洋戦争中のことであり、全てが戦争のためであった時代、学校教育の中で絶対音感の訓練がなされたことに驚く。しかし、その目的は爆撃機の種類を判別するためという愚かなものであり、エンジン音の周波数により、B29だとかグラマンだとかを即座に判別するためのものであった。第2次ブームは昭和30年代末、私の母もその頃やっと買ったテレビの番組でたまたま絶対音感なるものを知り、笈田光吉「聴音訓練」(1961、音楽之友社)を書店から取り寄せ、3歳の私に毎日30分ピアノの鍵盤をたたいて、2年がかりでこの能力を私に植え付けてくれたのである。私の妻も、今は絶版となったこの本を母から受け継ぎ、2人の子どもに絶対音感を身に付けさせた。
 この能力は、3歳から6歳までの間に訓練すれば身に付くが、6歳を過ぎると身に付くのが極めて困難という代物であり、プロの音楽家でも絶対音感のある者は3%に満たない程度だろう。この能力を身に付けさせるのは、システム通りやれば、誰にでもできるのだが、しかし非常に根気のいるものであり、また音楽的環境のないところでやっても何の意味もないし、子どもにとっては苦痛以外の何物でもない。
 絶対音感があると、よいことばかりではなく、絶対音感のない人には分からない苦労をすることがある。絶対音感のある人が楽譜を読む場合、絶対音で読むことになるので、移調して歌ったり、移調楽器の演奏をするのが非常に困難になる。しかし、これは訓練で克服できる。また、バロックピッチなどはAでも415ヘルツと約半音低いので、普通に聴くと半音低い調に感じてしまう。昔のカセットテープでも、装置によって回転数が微妙に違って半音くらい狂っていることがよくあったが、そうすると全く別の曲に聴こえてしまう。ハ長調の曲が半音低く聴こえると、ないはずのシャープが5つもあるように感じて気持ち悪くなってしまうという、馬鹿げたことが起こるのだ。これは、絶対音感のない人には全く分からないことだろう。でも、私はバロックピッチに関しては何とか意識することにより克服できる程度になった。しかし、半音以上低いと、もうかなり厳しくなり、異なる調性としてしか認識できない。
 ベストセラーになった最相葉月「絶対音感」(1998、小学館)には、絶対音感のある人がインタビューに答え「どんな雑音でもドレミで聴こえてしまうのが難点」と書かれていたが、私にはそんなことはない。ただ、上質の磁器とかワイングラスなど、叩いた時に音程が判るものもある。この本は、音楽には素人のルポライターの手になるものだが、非常によく調べ上げられた優れた本であり、音楽に興味のない人が読んでも十分に面白いと思う。
 絶対音感の弊害というのも、このように確かにあるのだが、では、何のために絶対音感の訓練をするのだろうか。絶対音感があれば、どんなことができるのだろうか。その第一は、あらかじめどんな音も聞かずに、即座に正しい音程を声に出すことができることだ。これは絶対音感がなければ、絶対にできない。もし、たまたまできても、それはまぐれでしかない。それができるということは、とりもなおさず、絶対音感があるということである。そして、フレットのない弦楽器で高いポジションの音を出す場合にも、絶対音感がなければ、正しい音程かどうかを自分では判断できないのである。また、譜面通りに正しい音程で歌うことや、録音されたものを聴いて、楽譜に書き取ることは、相対音感が完璧であれば可能なことだが、絶対音感があれば、極めて容易な作業である。
 ア・カペラ(無伴奏)で合唱をする場合、絶対音感のある人がいないと致命的と言ってよいほどで、絶対音感のある人がリードすれば、極めて安定したハーモニーを作れる。少なくとも、楽器なしに出だしの音をとることは、絶対音感のある人でなければできない。合奏においても、絶対音感があれば、ピッチの修正を常に意識的に行うことができるので、非常に有利である。演奏開始時にチューニングしても、ピッチは時間の経過と共にずれてしまうものだが、自分の楽器がどれだけ狂ってきたのかということを、絶対音感のない人は、ほとんど気付くことができず、音程のズレを修正するのに時間を要して、失敗する場合が多いのである。
 しかしながら、絶対音感を持っていても、ピアノの平均律音階に毒されていては、美しいハーモニーを作ることができないことには注意が必要だ。絶対音感の上に、純正律音階(金管楽器の倍音による音階、3度の和声が響く)とピタゴラス音階(弦楽器の音階、4度の和声が響く)のハーモニー(注:後述)を理解してこそ、真に美しいハーモニーを作ることができる。この2つの音階はかなり異なり(特に移動ドにおけるミの高さは相当違う)、オーケストラで音程のずれるのは、この音階のとり方の間違いによることが、しばしばある。相対音感があれば、絶対音感がなくてもハーモニーを作れるが、相対音感だけでは困難なのが現代の無調曲である。しかし、絶対音感のある人にとっては、全く困難なものではない。
 このように、絶対音感は、音楽に必要不可欠とは言えないが、音楽家を目指すならば、できるならば身に付けたいものと言える。そして、そのための訓練は、3歳から6歳の間になされなければならないのである。また、絶対音感のある人は、音楽と関係のないことにも能力を発揮できるという説もある。例えば、絶対音感のある人は、人の話を注意深く聴くことができると言われている。これは、絶対音の訓練に、音を聞き分けるための相当な集中力と粘り強さとが必要だからと考えられる。本当だとすれば、思いがけない効能と言うことができるだろう。いずれにしても、これは自ら身に付けるものではなく、親でなければ身につけさせることのできない、極めて特殊な能力ということができるだろう。
 さて、絶対音感の説明を長々としてきたが、ここからが本題である。私はある時、この絶対音感的な認識というものは、実は音楽以外にも必要ではないかということに、ふと気付いたのである。絶対音でファ・ソ・ラと演奏しても、ソ・ラ・シと演奏しても、相対音感ではどちらもド・レ・ミと感じてしまう。(これを移動ドという)しかし、ファ・ソ・ラも、ソ・ラ・シも、ド・レ・ミではないのだ(これを固定ドという)。絶対音感がない人は、正しいド(固定ド)を聴いてからでないと、ファ・ソ・ラがド・レ・ミでないことを認識できない。
 絶対音感的な認識とはつまり、比較などしなくとも、それがどのような位置にあるかを正確に知ることができるということである。それは、自分自身の中にはっきりとした基準が存在しなければ、できないことなのである。
 例えば、社会制度とか、善悪の判断とかも、この基準がなければ何でもOKということになる。相対的な認識では、王制であろうが、封建制であろうが、資本主義であろうが、大した違いはないということになる。そこに生きていた人間にとっては、いつの時代にも自由はあったし、制限もあったのだから。しかし、それは同じに見えるだけで、全く同じではない。歴史的に大きな変革によって、それだけ変化して来たのだ。絶対的な基準なしには、どのような社会を目指すべきなのかということも判断できない。
 では、社会に対する絶対的な基準とは何か。それこそは、人間を超えた存在、または仮定としては存在する完全な人間、言い換えれば全知全能の神(人格神)であり、仏様と言ってもよいが、そのような存在ではないだろうか。つまり、宗教であり哲学である。そして、その基準に照らし、どのような社会を目指すべきか、何が善で何が悪かを、考えなくてはならないと思う。
 例えば、経済とか社会体制において、かつては資本主義か社会主義とどっちがいいかというようなことが論議されたものだが、現在ではそのようなことが話題にもならず、目先の利益だけで経済も社会も動く情けない世の中になってしまった。資本主義を変えようとして現われた社会主義国家は、体制としては世界中で自滅してしまったが、では資本主義を超える制度はないのであろうか。私は、資本主義は修正してもダメであり、破棄すべきものであると考える。もちろん、お金まで否定するつもりはない。交換手段として、お金はなくてはならない。しかし、お金がお金を生むシステムは必要ないし、よいシステムではない。マネーこそが全ての基準になっている資本主義は、帝国主義以上の人間疎外を発生させているし、現代の危機的な環境破壊にも対応しきれない。有限である自然とか、人間の労働というものこそが、基準にならなければいけないし、また人道ということに最大の価値がおかれるべきだ。そのような基準に照らし、資本主義は失格である。資本主義であっても、資本家が人道的に経営をすればよいと言うかもしれないが、そんなことはあり得ない。富というものは、搾取とか貧困があってこそ存在できるものなのだ。人道的に資本を蓄積するなどということは、虚構に過ぎないのであって、資本主義は滅びるべきなのだ。フジテレビとライブドアの争いは、どっちもどっちだったが、哲学のないホリエモンに喝采を送るのはどうかと思う。
 憲法九条についても、色々な考え方があり、自衛のための戦争は認めるべきだというべき人や、アメリカのように正義のためには他国に軍隊を派遣することも正しいと考えるような人たちもいる。しかし私は、絶対平和主義(パシフィズム)の立場をとる。これは、現在の世界では少数派であるが、憲法九条はこの立場であって、一切の武力を否定する考え方である。では、他国から侵略されたらどうするのかというと、その時はもちろんゲリラ的に抵抗するべきだろう。しかし、侵略されないような国になればよいのであり、それは武力以外で世界に奉仕する国になることで実現できるのである。
 いかなる戦争も悪であり、そのために軍備は廃棄すべきだ。もちろん悪に屈するべきではないが、悪に悪をもって抗することは矛盾であり、絶対的非暴力主義に裏打ちされた憲法第九条こそ、これからの世界基準となることであろう。

  注) ドレミファソラシドには、色々な種類(音律と言う)がある。現代のピアノは大体、12平均律(オクターブを12の半音で均等に割る)で調律される。これは、5度の和音がかなりよく響くが、3度や6度の音程は純正律のように美しく響かない。しかし、ピアノにおいては、この不響により生じるうなりがビブラート効果をもたらし、心地良く響いて聴こえるとも言える。  純正律というのは、ドミソの和音が美しく響くように作った音律で、和音は美しいが、音階としてはとても音痴に聴こえ、決して美しいとは言えない。純正律というのは、大全音(ドとレ、ファとソ、ラとシ)、小全音(レとミ、ソとラ)、半音(大全音の半分よりも広い)の3つの音程で音階ができている。純正律の最大の欠点は、転調ができないことで、ハ調の純正律では、レとラの5度は小全音を2つ含むので極めて濁った響きになってしまう。
 これに対し、ピタゴラス音律というのは大全音と半音のみでできており、半音(ミとファ、シとド)はかなり狭い。ピタゴラス音律での音階は、平均律と比較して、さほど違和感がない。私はこのピタゴラス音律を、最も美しい音階として感じることができる。音階として最も古いのはピタゴラス音律で、グレゴリア聖歌などは、この音律で歌われる。この音律では5度と4度の響きは純正律と同じだが、3度や6度は平均律以上に、純正律からかけ離れている。したがって、古典派〜初期ロマン派のドミソの音楽にはピッタリ来ない。
 弦楽器で、旋律を弾く時と和音を鳴らす時では、このピタゴラス音律と純正律を使い分けることが必要であり、ピアノと合わせる場合には、平均律に合わせることも必要となる。コンチェルトをピアノ伴奏でやってからオケと合わせると、音程の違いに愕然とすることがある。ヴァイオリンという楽器はフレットがないために、そのような器用なことも、可能なのである。もちろん、それだけ耳が良くなくては、どうしようもない。ちなみに、長3度の和音を常に純正律でとるべきかというと、そんなことはない。長3度と短3度の和音が交互に出て来るような場合、長3度はピタゴラス音律で弾いた方が、きれいに聴こえる。明るく快活な曲では、ほとんど純正律は必要ないとも言える。
 純正律で調律された鍵盤楽器では、一つの調性しか演奏できず、転調もできない。ピタゴラス音律では、純正律よりも転調が楽だが、それでも遠い調に転調することはできない。バロック時代、チェンバロ(ハープシコード)は曲ごとに調律し直し、曲の中では転調しなかったが、オルガンやピアノは曲毎に調律などできないので、転調可能な音律が数々生み出された。それが、中全音律、プレトニウス音律、ヴェルクマイスター音律、キルンベルガー音律、シュニットガー音律などの古典調律である。いずれも一長一短があり、曲によってはひどく調子外れに聞こえてしまう。
 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」というのは、現代の12平均律ではなく、中全音律と言って、全音が全て大全音と小全音の半分の幅でできた調律のために作曲されたものである。この音律によって3度の響きを維持しながら転調することも随分と楽になったが、5度の音程は少し狂っている。また、この音律で調律した鍵盤楽器で演奏すると、調性によって雰囲気がかなり異なる。ハ長調は明るいが、変ホ長調は落ち着いているとか言うのは、中全音律ならではのことで、現代の12平均律ではどの調に移調しようが雰囲気が変わることは決してない。  


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