三位一体の農民を目指して
 
 クリスチャンであり、農民であり、音楽家であること、この3つは私にとって、分けて考えることができない。私が洗礼を受けクリスチャンにならなかったら、おそらく農民になろうとは思わなかっただろうし、趣味として楽しんでいた音楽を自分のためだけにするのではなく、人に聴いてもらうために演奏活動をしようという決心もしなかっただろう。クリスチャンになったことで、自分は神から何のためにこの生命を授かったのか、どのように生きるべきなのかということを、常に考えるようになった。神を知らなかったら、「自分は何をしたいのか」とか、「自分には何が向いているか」ということを考えはしただろうが、「何をなすべきなのか」というように考えることはなかっただろう。そして私は農民音楽家を目指し、その道を歩み始めてからは、より多くの人にそのような生き方を選択できる学校を作るという新たなヴィジョンを与えられた。
 現在の私にとって、自分を表現するこの3つの姿は、「神を愛し、土を愛し、人を愛す」という、三愛精神にそっくりそのまま当てはめて考えることができる。三愛精神は、デンマークのグルントヴィの思想を受け継いだクリステン・コルが説いたことで、「神を愛し、人を愛し、国土を愛す」というものであった。それが日本に伝わり、酪農学園を創立した黒澤酉蔵らによって、国土は土という言葉になり、より現代にも受け入れられるものとなった。私は、この言葉の順序を、さらに神・土・人という順番にした。それは創造の順序に一致させたからだが、それだけではない。この3つの愛の形はもちろん、決して分離して考えることはできない。神を愛して人を愛さないということはあり得ないが、土を愛するということも、神を愛するならば必然であり、人よりもさらに大きな存在としての大地への畏敬の念を尊重しなければならないと思うからである。残念ながら、「土を愛す」ということは、多くのクリスチャンにとって重要視されていないし、新約聖書がローマ帝国の都市住民への宣教を中心としたため、創世記の神が人類に与えた生き方の基本である農は、キリスト教会にとってあまりにもないがしろにされて来た。しかし、キリスト=イエスは、農民であった。釈迦のように王子ではない。大工とされているが、大工仕事もした百姓と言ってよい。イエスの譬え話には、農業や農民の話がたくさん出てくる。イエス自身、生まれながらの農民であって、農民を搾取する商人や宗教家を嫌ったが、農民よりさらに弱い立場にある人々には強い共感と連帯の意識を持っていた。
 さて、父と子と聖霊なる三位一体の神という概念が、ニケア公会議以来の正統的キリスト教の神概念ということになっているが、聖書にそのようなことが書かれているわけではない。創世記に示された神の概念は、世界中にある神話の姿と、ほぼ共通すると言ってよいだろう。神は大地を作り、人類は大地から神によって作られた。これが、創世記の伝えることである。そして、アダムという人物が、神の作った楽園を追われて農業を始めた最初の人類であり、それが罪の始まりでもあった。旧約聖書は、農業を営む民族によって伝えられた書物なのだ。農業というものは、ある意味で自然破壊であり、神の作った生態系を壊さなければできないものである。そして人類は、農業の発展により文明を進歩させ、神を忘れて傍若無人の限りを尽くし、それが現代の危機を招いていることを知らねばならない。人類に与えられた最大の課題は、農業をいかに神の作った永続的な自然の姿に近づけて行くかということではなかろうか。神が人類に、地を支配せよと言ったことは、そのように解釈しなければならないのである。
 聖書は、天地を創造した神を父なる神としてあがめ、それ以外の神を認めることを許していない。イエスという人間は、新約聖書によって神の子とされ、ローマ教会により子なる神とされるに至ったが、イエスは父なる神を信じきっていた一人の人間なのである。イエスが、罪のない神に等しい存在で、彼が死ぬことで人類の罪が贖われたということを信じるべきなのか、私は大いに疑問に思っている。イエスは百姓であったし、女を見て欲情を抱くこともある男であっただろう。そういう普通の人間が、庶民を苦しめる権力や偏見などに対して、決して諦めることなく果敢に立ち向かって行ったのである。そして、そのイエスを神は決して見捨てなかった。私はそれを信じることで、クリスチャンとして生きることができる。だから私は、イエスを神とは信じない。それでは、正統的なキリスト教徒とは認められないかもしれないが、そんなことはどうでもよい。イエスが現代に生きていれば、きっと私の考えを支持してくれると思う。
「地のおくりもの」(北海道農民キリスト者の会会報)に投稿

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