北の大地から生まれる芸術
(嵯峨御流イケバナ「ニッポンノケシキin北海道」シンポジウム特別講演要旨)

 
  生け花と音楽、この2つの芸術は、余り接点がないように思われますが、嵯峨御流北海道支部の南先生は、音楽をバックに生け花をライブで生けるという、この2つの芸術を融合するユニークな試みをされています。切花はいずれしおれてしまいますし、音楽は演奏された瞬間だけに存在する芸術です。この両者は、非常に短い限られた時間で表現される芸術である点で、似通っています。そもそも芸術とは、何でしょうか。ストレスのたまる生活の中では、息抜きであったり、癒しとしての働きもあります。しかし、それだけならば、単なる娯楽と変わりありません。芸術というものは、もっと人々の精神を高める作用を持ったものです。人間の心を動かし、生きる力を与えることもできる、すばらしいものです。まだ、教育が不十分で文字の読めない人々が多かった時代、音楽や美術といった芸術は、宗教を人々に伝えるのに、言葉以上の力を持っていました。現在でも芸術は、言葉の通じない世界中の人々とも、心を通じ合わせることができる、コミュニケーションのすばらしい手段です。
 忙しい農業をやりながら音楽をやっていると、周りの農家の目は、決して余り好意的なものとは言えません。日々あくせく暮らす人にとってみれば、芸術なぞ、余裕のある人間の道楽と、とらえられがちです。しかし芸術は、決してそのようなものでなく、すべての人にとって、生きるために重要なものです。どんな芸術でも、必要かと言うとそんなことはなく、時間と労力の無駄としか思えないような芸術作品、いわゆる駄作も沢山ありますが、芸術すべてが無駄なのではなく、本当に人の心を動かす芸術作品には、すごい力があります。
 もっとも私は、イソップ寓話の「アリとキリギリス」のように、「アリ」が忙しく働いている間に、のんびり音楽をすることには賛成できません。この「アリとキリギリス」の話は、日本では働かなかったキリギリスにアリが食べ物を恵んでやるという結末になっていますが、元々の話は、働かなかったキリギリスは飢えて死んでしまう、という単純で冷たい話です。アリがキリギリスの音楽を必要としなくても、キリギリスが自分で働いて食糧を得ていれば、キリギリスが死ぬことはありません。だから、私は農業をやって自給する生活をした上で、音楽をやろうと考えました。
 芸術をお金にしようと思うと、堕落したものになりがちです。芸術で生計を立てようとしたら、金持ちに仕えるか、大衆に媚びるか、という選択になりがちです。しかし、お金がなくても、生きていく方法があります。それは、自分で食べ物を作る、自給自足の生活です。自給自足すれば、お金に関係なく、純粋な芸術活動ができます。宮澤賢治も、「農民芸術概論綱要」の中でそのような理想を語り、それを実践するため、教師の職を捨て百姓になりました。西欧音楽にも魅かれていた賢治は、チェロやオルガンを習い、農民オーケストラも作ろうと仲間を集め練習もしました。しかし、現実には百姓で生活することはできず、たった2年足らずで活動は打ち切られました。私は、宮澤賢治が70年前に果たせなかったことを、この北海道で実現しようと学生時代に考えました。そして、農家になる資金を作り経験を積むため、ワイン会社に就職し、本州で6年間ブドウの栽培と研究に携わりました。そして、今から14年前、そのワイン会社とブドウの契約栽培をしていた余市の農家が離農することになり、その農地を引き継ぎ百姓になったのです。
 農業をやりながら芸術をすることには、自給できるということの他に、もっと大きな意味があります。それは、芸術の本質に関わることです。人々の精神を高め、生きる力を与えるような本物の芸術は、どこから生み出されるのでしょうか。嵯峨御流イケバナでは、自然の姿をそのまま現すことを、特徴としています。それは、芸術の本質に近づくことであろうと思います。人間が作ったどんな美しい芸術作品であろうとも、神の創った自然の美しさには適いません。花や蝶、鳥の美しさには、人間も心を奪われます。山や海、空の美しさや壮大さに人間は圧倒され、自分自身がいかにちっぽけなものかということが分かり、人間自身も、神の創った自然の一部であるということに、思い至ることができるのです。
 自然こそは、創造主である神の手による芸術作品であり、人間の芸術は、自然から学ぶことなしには生み出されないのです。自然から学ぶことのない芸術作品は、まがいものです。芸術的かどうかということは、自然に即しているかどうか、と言い換えてもよいでしょう。そうならば、自然の恵みによって日々生活している農民には、優れた芸術を生み出すことができるはずです。都会のコンクリートに囲まれた空間で、楽器の技術だけをいくら学んでも、人の心を動かす音楽はできません。だから、農民オーケストラには、他のどんなオーケストラにもない魅力があるのです。
 北海道農民管弦楽団は、結成13年目です。全道の音楽好きな農家が中心メンバーですが、農家でオーケストラの楽器を演奏できる人は少ないので、農家以外にも農業関係の仕事をしている人を中心に協力してもらい、今では70名以上の大オーケストラです。農民の、農民による、農民のためのオーケストラを目指していますが、農民であるかどうかということには必ずしもこだわっていません。ただ、メンバーは各地にちらばっており、農繁期には集まれないので、秋の収穫が終わってから集中的に練習して演奏会をします。北海道では長い農閑期があるので、この時期に農家が芸術などの文化活動をするということは、意義のあることでしょう。
 巷には、騒々しい音楽が氾濫しています。サッポロの街中でも、BGMが絶えず流れています。しかし、それは芸術としての音楽ではありません。花に例えれば、プラスチックで大量生産された造花みたいなものです。整った色と形のコピーがいくらでもできますが、野に咲くちっぽけな一輪の花の美しさに、決して適うことができません。芸術は、封建時代において、特権階級に仕えていましたが、現在はコマーシャリズムに仕えています。流行歌手のCDは、発売から数ヶ月で何百万枚と売り上げる体制が出来上がっていますが、本当に価値のある音楽はそれほどあるとは思えません。ただ商売として、どんどん作られては消えて行くだけです。クラシックの世界でも、一握りの有名演奏家だけが、法外なギャラを手にし、CDによって世界中いつでもどこでも同じ演奏を聴くことができます。しかし、ウィーン・フィルのCDより、アマチュア楽団の稚拙とも思える演奏が、時にはずっと大きな感動を人に与えることがあるのです。農民オーケストラの演奏は、プロのオケのように洗練されていません。技術でプロに適うわけはないのですが、心意気はプロに決して負けてはいませんし、聴いてくださった方からは、いつも感動したと言っていただいています。だからこそ、毎年演奏会のために準備を重ねる苦労も、決して苦痛ではなく喜びなのです。
 でも、私は決して現状に満足はしません。音楽的には、これで十分ということは決してありません。どうしたら、もっとよい演奏ができるのかと、いつも考えています。また、どんな音楽をやるべきかということも、いつも悩んでいます。単に、西欧の楽器で西欧の古典音楽を演奏するのならば、なぜ日本人がやらなければならないのでしょう。このオーケストラという道具や西欧の音楽は、もはや西欧だけのものでも、金持ちだけのものでもなく、世界中の人々が共有するだけの価値のあるものです。まだまだ、生の演奏を聴く機会の少ない農村地帯で、農民自身の手により演奏活動をするということには、十分な意義があることですが、それだけでは決して満足できません。日本人として、というより、この北海道の大地でしか生み出せないものを作らなければ、本当の芸術にはならないと考えています。芸術は、ものまねでなく、創造的でなければならないからです。だから、私は日本の伝統音楽やアイヌの音楽からも学んで作曲を試み、農民オーケストラでいくつか作品を発表もしてきました。今後は、さらにその方面に力を入れたいと思っています。
 私自身の暮らしぶりに関しても、少しお話しします。農業による自給ということを目標にしていますが、これも決して満足にできているわけではありません。宮澤賢治よりはうまくやっているつもりですが、無農薬での果樹栽培などというとても難しいことにこだわっていることもあり、14年たっても経営的にはとても不安定です。周りの農家は、無農薬で果物ができるはずないと言いますが、それは病気や害虫を農薬以外でコントロールする方法が分かっていないだけです。しかし、ある意味で正しいのは、無農薬では一般の市場に流通する商品を作れないということです。無農薬で、ほんの少しのキズも許さない市場規格に合ったものを作るのは、不可能です。そこで私は、見栄えにはこだわらず安全でおいしいものを手に入れたいという消費者に直接買ってもらい生計を立てています。しかし一般の農家は、市場に大量に出荷して生活しているので、農薬が健康や環境のためには良くないと分かっていても、農薬を使わざるを得ません。そして、安全基準を守れば大丈夫という指導を信じ、かなりの農薬が使用されています。本当は、基準を守ったからと言って、決して安全とは言えません。急性毒性がなければ安全だという理屈で使われていますが、ほとんどの農薬は、微量でも環境ホルモンといって長期的には生命にとって脅威を与えています。経済よりも生命が優先されるべきです。どんなにお金があっても、命を失えば何にもなりません。現代は、そんな当たり前のことが、当たり前でなくなっている異常な世の中です。
 私がやっている農業は、大規模農法とは全く違う、自給的な有機農業ですが、本来の芸術も、同じように手仕事の世界です。現在の世界は、大量生産の工業社会に牛耳られていますが、これからは手仕事中心の芸術の時代に戻らなければ、人類に未来はないでしょう。大量生産は、地球上に商品を溢れさせましたが、人々から多くの職を奪い、自給自足的な社会は破壊されました。また、人々から物を大切に扱う心を奪い、かけがえのない地球の豊かな自然環境を破壊し続けています。このままでは、人類だけでなく地球の未来も危ういでしょう。これからは、すべての産業が芸術的な方向に向かわなければなりません。
 真の芸術は、日々の労働によって支えられ、神や自然の霊性に触れるところに存在します。大量生産される「娯楽」ではなく、労働と無関係なところにある自称「芸術」でもない、本物の芸術が、今こそ求められています。人々に自然や神に対する畏れの心を抱かせ、憎しみや争いをなくし全ての人が平和に交われるような、そんな本物の芸術が生み出されなければなりません。それを実現するためのヴィジョンが、『農民芸術学校』です。それは、芸術を学ぶだけでなく、自給的生活を行う技術を身に付けるための学校です。経済的な必要からの自給というだけではなく、そのような生活こそ真の芸術の源泉であることを自覚するための自給です。そこは、神の創られた自然という最高の芸術にならい、人間の手仕事による美を追求する場です。経済合理性一辺倒の社会に抗し、すべての生命が輝ける社会を目指すために、そのような学校がぜひとも必要だと考えています。まだ、具体的には資金も人材も満たされていませんが、昨年土地だけは手に入れました。これから、賛同者の協力を募り、このような学校を実現したいと考えています。
 最後に、「北の大地から生まれる芸術」についてですが、北海道の自然はとてもダイナミックで四季のめりはりがあります。そして、自然と共に豊かに生きて来たアイヌの歴史、さらに和人による開拓の苦労の歴史があります。アイヌに対する和人の侵略行為、囚人労働や朝鮮人・中国人の強制労働というような、反省すべき負の歴史も多くありますが、1世紀余りの短期間でこれだけ農業を発展させてきた道産子の力には、誇りを持ってよいでしょう。これからは、このすばらしい北の大地にふさわしい、円熟した芸術文化が、育って行かなくてはならないと思います。音楽、イケバナと、ジャンルは異なりますが、目的は同じです。自然から学び、人間を愛する芸術を、これからもお互いに創って行きましょう。

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