ヤスクニとイエス…人間は神になり得るか
 
  8月15日敗戦の日(マスコミは相変わらず、終戦記念日と言っている)に、小泉首相が公約を果たすと言って靖国神社に参拝した。彼はいつものように自分勝手な論理で、「A級戦犯も一般の戦死者も霊に差別はない」とか、「二度と戦争が起きないようにするためお参りする」などと言っているが、とんでもない誤解をしている。靖国神社は、現人神とされた天皇のために戦死した者のみを神として祀る、明治政府によって作られた実に特殊な神社である。最初に祀られたのは、明治維新時の戊辰戦争で王政復古を目指した薩長中心の官軍で戦死した兵士であり、幕府側についた会津藩などの兵士は祀られてはいない。明治10年に起きた西南戦争で官軍と闘った西郷隆盛率いる反乱軍の戦死者も、当然祀られてはいない。太平洋戦争において天皇の名において戦死した300万以上の兵士はすべて、当時日本に併合されていた朝鮮や台湾で日本軍に徴用され戦死した者であろうが、クリスチャンであろうが、遺族の意向を無視して合祀している。A級戦犯の遺族も、実は合祀に合意していない。一方、日本軍の侵略で殺されたアジア2千万の民衆と兵士は全く祀られていないし、靖国神社が今後もそれらの霊を追悼することは決してないだろう。小泉首相が、参拝を非難している中国や韓国に対して「心の問題に立ち入るべきでない」と言うことは一見もっともだが、靖国神社とは、天皇への忠誠によって人間の霊を差別しているものであるということを、果たして彼は理解しているのだろうか? 中国や韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されているということを理由に参拝を非難しているということだが、A級戦犯が祀られていなくとも、靖国神社は侵略した側の死者だけを祀るという点において、存続する限りアジアの和解と平和にとって障害であり続ける。
 また、実にタイミングよく、小泉首相の参拝直前、昭和天皇はA級戦犯が合祀されたことに不満を抱いて靖国への参拝を辞めたことを明らかにするメモがスクープされた。しかし、小泉首相は「昭和天皇の個人的意見は関係ない」と言って参拝した。天皇の考えを無視するとは立派な見識であるが、靖国神社自体が、天皇のために死んだ者を祀るところだということが、彼には分かっているのだろうか? 果たして、今上天皇アキヒトも、自分の意志で参拝しないのだろうか?
 昭和天皇ヒロヒトは敗戦後、人間宣言をした。当たり前のことであるが、自分は神ではなかったと(GHQに言わせられてだが)自ら言った。ついでに、私のために死んだ者も決して神になることはないと、宣言すべきであった。昭和天皇は、自分の戦争責任を問われて「文学的な言葉のアヤ」などとはぐらかしたが、彼が基本的に平和主義者であったかどうかには関係なく、彼のために2千万人以上の人間が殺されたという事実において、彼に責任がないということは決してあり得ない。彼は単に、日本の共産主義化を防ぐという目的において、占領軍によって免責されただけである。彼の責任は、日本人自らが追及すべきであったし、遅過ぎるが今からでも追求すべきである。
 さて、靖国への理解においては、次期首相が決まったも同然の安倍晋三は、小泉よりもはるかにやっかいだ。安倍晋三の父は、首相候補と目されながら早世してしまった安倍晋太郎、そして母方の祖父は、A級戦犯容疑の獄中生活から首相の座に登りつめた「昭和の妖怪」岸信介だ。岸は、中国で最も悪名高き旧日本軍の731部隊を統括する立場にあった人物である。731部隊の関係者らは、東京裁判により多くが処刑されたが、彼自身は731部隊が残酷な人体実験を行って得た細菌兵器のデータをアメリカに売り渡し、A級戦犯になることを免れたのではないかと言われている。真実であれば、まさに売国奴である。安倍晋三は、岸の念願であった自主憲法制定ということを、自らの最大の政治目標としており、彼には日本が植民地支配と侵略を行ったという認識はない。あの戦争は間違っていたのではなく、アジアを欧米列強から守るための自衛の戦争であり、負けたことが悪いと考えているのだ。東京裁判は、戦勝国による一方的な不当なものであるとし、侵略された側が決して忘れることのない南京大虐殺や従軍慰安婦をも否定する彼の屈折した歴史観は、「あの戦争においてアジアに迷惑をかけた」との反省を述べている小泉首相よりも、明らかに危険なものだ。おそらく本当は票欲しさに靖国に参拝していたに違いない小泉と違い、今では首相になるために靖国問題にはダンマリを決め込んでいるが、元々「靖国参拝は首相の義務」と主張している。そして、自衛隊を正真正銘の軍隊とし、核武装もすべきだと主張する超タカ派である。彼は外見も言動もスマートだし、外見はパッとせず嫌味たらしくしゃべる福田康夫より人気があるのは当然としても、彼のような危険思想の持ち主が首相に推されるというのは、彼が悪いと言うより、時代が悪い方向に向かっているとしか言いようがない。
  さて、普通の人間が天皇のために死ぬと神になれるという靖国神社は、イカサマ宗教であると言うべきであるが、では十字架という極刑で死んだイエスという人間を神と称えるキリスト教はどうなのか? 釈迦は生きたまま仏となったが神ではないし、マホメットも単なる預言者であってアラーの神のように讃えられることはない。イエスの場合は、人が神になったのではなく、神が人となって遣わされたということであるが、大酒のみの大食らいと揶揄された人物が、神であるなんてことがあるだろうか? 旧約聖書では、創造主である神自身が、私以外の者を決して神と認めてはならないということを、最大の戒めとしている。それなのに、キリスト教ではイエスは神のひとり子であるとし、つまり子なる神であり、父なる神、聖霊である神と共に三位一体の神であるという実に難解な教義を持っている。これは、旧約聖書を乗り越えつつ矛盾しないよう、辻褄を合わせるためだけに生まれた何とも理解し難い教義である。三位一体は、聖書に書かれた教義ではなく、ローマ・カトリックによって確立されたもので、プロテスタント教会も大半が踏襲している。しかし、この教義を持っている限り、キリスト教もイカサマであり続ける。
  イエスは人間であり、神ではない。キリスト教は、そう宣言すべきだ。ものみの塔(エホバの証人)は、カルト宗教として既成のキリスト教派からは異端視されているが、イエスを神と認めていない点においては、既成の宗派よりもはるかに正しい。しかし、エホバの証人は、聖書に基づいてそのように主張する原理主義をとっている。だが、それは間違っている。イエスが神でないのと同じように、聖書は神の言葉ではないとも言うべきである。それでは、キリスト教の全否定だと言うかもしれないが、そんなことはない。イエスという人間によってキリスト教が生まれたことは事実であり、それはイエスが神であったからでも、聖書が神の言葉であったからでもない! 一般的にキリスト教(特にプロテスタント)では、聖書に神の全てが語られていると言うが、私は決してそうは思わない。聖書は、限られた歴史の産物であり、そこに全てが書かれているというのは、キリスト教の思い上がりでしかない。神は絶対であるが、聖書は絶対ではない。
  そもそも、神とは何なのか? キリスト教において神は、絶対者であり、創造主にして自然を支配する者であり、すべての生物に生命を与え、人間の心に働き、歴史を動かす主体である。複数の神を認める宗教もあるが、そのような絶対的な創造神の存在を認める考え方は、何もキリスト教に限らず、世界中のほとんどの宗教に共通した認識だ。
  信ずべきものは、聖書という本ではない。信ずるに足るのは、自然の摂理と、すべての人間が持っている良心だけである。それこそが絶対的なものであり、神の声である。私がクリスチャンであるのは、イエスが聖書(旧約)を否定して、神の声だけに従ったという、その姿勢に打たれたからだ。イエスは、聖書に書かれた律法をことごとく破った。律法のために人間があるのではなく、律法は人間のためにあるべきだと宣言し、神を冒涜したとして死刑になった。十字架上では、苦しさの余り、「神よなぜ私をお見捨てになったのですか」と語るどこまでも普通の人間だ。そのようなイエスを、私は尊敬する。私は、いわゆるキリスト教徒ではなく、キリスト者として生きようと思う。
  イエスは神ではないし、聖書は神の言葉ではない。天地創造の物語やイエスの復活は、真実であるかもしれないが、歴史的事実ではない。聖書は、神がどのような者かということを知る手がかりになるが、つまづきにもなる。そのつまづきは、聖書を記した人々が、決して神のことを正しく理解していなかったにも関わらず、聖書を盲目的に神の言葉と信ずることから来る。聖書は、すばらしい書物であるが、それは批判的に読まなければならない。そうしなければ、真実のイエスは見えないし、真実の神も見えない!
 時代背景も文化も全く異なる現在の我々が、聖書を解説なしに正しく読むことは不可能に近い。批判的に読むということは、字句通りでなく裏を読むことであり、そのように書かれた意図を読み取り、真実がどこにあるかを知ることである。福音書を批判的に読めば、マルコ伝が他の福音書に比べて最もイエスの真実をよく伝えているということが分かる。しかし、マルコにも脚色があるし、後世のキリスト教会においてさらに、マルコ伝も色々と書き変えられてしまっている。
 キリスト教の真髄は、十字架と復活にある。これには私も同意する。しかし、パウロの言う、罪なき神のひとり子であるイエスの、十字架による死によって人類の原罪が贖われたという考え方に、私は同意できない。新約聖書、特にパウロは、イエスの思想を歪めてしまっているのだ。原始キリスト教は、決してパウロ教ではなかった。パウロの思想を信じなければキリスト教ではないかというと、決してそうではないと思う。少なくとも原始キリスト教は、新約聖書以前のものである。キリスト教は、イエスの生き様から誕生したのであって、死に様から誕生したのではない。イエスの生涯がなかったら、十字架の死も、復活にも、何の意味もない。だとすれば、大切なことは、イエスが死んだことではなく、イエスがどう生きたかということなのだ。イエスは、決して中立に人を愛したのではない。常に虐げられた者、最も弱い立場にある者を愛した。旧約の神も、常に彼らの権利を守るように戒めていたが、イエスはそれを徹底させた。彼らにも権利があるということではなく、彼らのような最も小さい者こそ最も神に近いと宣言し、価値観の逆転を図った。そしてイエスは、政治、宗教、因習などの一切の権威を否定し、それらにがんじがらめにされている現実の社会に真っ向から立ち向かった。暴力的手段は全く使わず、しかしバプテスマのヨハネのように現実の社会から逃避するのではなく、現実を認めつつ、それを革命的に乗り越える道を示したのである。それが、この世的な価値観の逆転である。弱いものこそ強く、後のものほど先になる、これこそがイエスの教えだ。
キリスト教は、イエスの復活の意味もちゃんと説明すべきだ。マルコ伝は決して肉体の復活を書いてはいないし、復活は未来型としてしか語っていない。死人が蘇るということがもし歴史的事実であったなら、こんなことはあり得ない。復活を信じるということは、十字架刑で殺されたイエスの生き方を肯定するということであって、決して死んだ肉体が蘇ったというオカルト話なのではない。どんなウソも、いつまでも誤魔化し続けることはできない。マルコ以外の福音書には、復活に関して大きく偽っている。
  そして、イエスの起こした数々の奇蹟についても、説明すべきだろう。彼は、あり得ないことをやったのではなく、あり得ないと思い込んでいる頭の固い人々の心を打ち砕いたのである。その究極が復活であって、肉体が蘇らなくとも精神は復活できる、不死身であることをキリスト教は教えているのである。イエスは、良心のために殺されることを、敗北ではなく勝利とするために、時が来るまで辛抱強く弟子たちの成長を待ち、そして自ら十字架に架かる道を選んだ。弟子たちは、そのことにイエスの死後やっと気付いた。それこそが復活である。そして誰もが、イエス=キリストのように無償の愛に生きることができる。それは、イエスが神ではなく、人間であったからなのだ。 

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