ユートピアとアナキズム
 
    「ユートピア」は日本語に直せば「理想郷」であるが、その語源は「どこにもない場所」というギリシャ語であり、「理想」の反対語は「現実」?というわけで、現実に存在することが不可能な社会と考えられたり、個人の自由を奪う恐ろしい世界であるかのように「アンチ・ユートピア(ディストピア)」論者から否定的に語られても来た。しかし、では「現実に存在する社会」こそが、肯定できる世界なのか? それは否である。現実は、常に変化している。そういう意味では、「現実」こそが、最も「現実的でない」世界と言ってもよい。
 私は前号で、イスラエルのキブツのことを共同体として最も上手く行っているものではないかと述べたが、現実にそこに暮らす人たちにとっては、決して理想的な世界とばかりは言えないだろう。だから、キブツが最もよい社会というつもりもないが、学ぶべき点は多々あるのではないかと思う。キブツに問題があるかといって、それだけでキブツの理想を否定することにはならないだろう。
  過去にユートピアを目指した社会主義や共産主義、そしてアナキズム的共同体の多くは、失敗に終わっている。しかし、それでは資本主義は成功したのだろうか? 社会主義だろうが資本主義だろうが、理想を実現できない限り、人々は社会の変革を望み、必ず変化せざるを得ない。変化を必要としなくなった社会だけが、理想社会と言える。罪を犯すことを避けられない人間が作る社会であるから、完全な理想社会など永久に実現できないことは百も承知である。しかし、21世紀の現実に存在している社会、このグローバル経済が支配する高度資本主義社会が、理想的な社会であるとは、とても言えない。これを理想と言う人々は、ごく一握りのエリートや資本家と、そのおこぼれに預かって満足している先進国中流の、世界から見れば極めて少数の人々だけであろう。世界中で、飢えに直面し、戦火に怯え、圧制に耐えている民衆は、歴史上かつてないほどたくさんいるのである。資本主義を享受しているこの豊かな日本においてさえ、悩み苦しむ人は多いし、自ら命を絶つ人さえ大勢いる。こんな社会のままで、よいはずはない。
  では、どのような社会を目指したらよいのだろう。農業を中心とした自給共同体と言うと、否定的に思う人は多いかもしれない。封建的なムラ社会の村落共同体や、閉鎖的な宗教共同体、逆にモラルの崩壊したようなヒッピーのコミューンなどを思い描くなら、たとえ格差があろうとも自由資本主義社会の方がましだと思う人は少なくないだろう。
  しかし、そういう人たちは、資本主義にだまされていると私は思う。人は多くのものを求めるが、それが達せられない時に自分が不幸だと思うのだ。人が多くのものを求めなくなった時に初めて、その人は幸福を得ることができる。従って、需要を喚起することこそが経済の維持に必要である資本主義というものは、決して人を幸福にすることができない。資本主義とは、見えざる手により理想に近づくものなどでは、決してない。だから、資本主義をなくさない限り、理想社会が現実になることはないのである。資本主義は必要悪だと信じている人が多いかもしれないが、私は資本主義こそ世界に悪をもたらす根源であり、これをなくさない限り人類は幸せにはなれないと感じている。資本主義など所詮人間の作ったものであり、なくすことはできるはずである。
 そこで、資本主義でも社会主義でもない、ましてや封建主義に逆戻りするのでもない経済、つまりアナキズム経済を、どうやって打ち立てるかである。資本家や地主という存在はもちろん否定しなければならないが、社会主義では国家がそれに変わるだけのことである。あくまでも全ての人が生産手段を所有し、自分の意志に従い経営し、自ら労働を行うということが、大原則となる。この原則を徹底することにより、アナキズム社会が実現できるだろう。
  もちろん、所有には制限が必要である。地球上の土地は有限であるし、土地条件も千差万別であるから、これを無制限の自由としたら、収拾がつかないわけだ。しかし、個人の所有を否定して社会主義にしてしまったのでは、理想は実現できない。個人で管理可能な土地と生産手段のみ、所有を認めればよい。それは、無制限であろうはずがない。私は、4haの土地を所有しているが、小型トラクターを使ってさえ、とても管理しきれるものではない。自給的生活には広すぎると実感している。かつて北海道開拓使では、明治政府がアイヌから奪った土地を、資本家には500ha、開拓者には5haまで無償で与えた。開拓を試みた自作農の多くは、資本主義によって小作農に転落せざるを得なかったが、敗戦によりGHQの画期的な政策である農地解放を受け、すべての農民が自作農として生きることができるようになった。農業の世界に限れば、この時点で日本はもう理想をほぼ実現したと言っても良い。その後の基本法農制による自給農業の破壊ということさえ、なかったらである。
 満州国を建設し、そこにアジアの理想郷を体現しようとした石原莞爾は、敗戦後は非武装平和主義を掲げ、都市解体・農耕一体・簡素生活を日本再生の柱にしようとする。しかし、現実の日本は正反対の道を歩むことになった。宮沢賢治と同じ国柱会の思想を信奉していた石原莞爾の考え方には、私としては必ずしも共鳴できない部分も多いが、理想とする社会のあり方には共感できるものがある。
 戦後の日本は、工業による経済発展という道を選び、農業による自給という政策を捨てた。この政策転換により、アナキズムの担い手となり得るはずであった専業農家は激減し、兼業化や離農により労働者が日本の人口の大半を占めるようになった。警察予備隊を経ての自衛隊設立という再軍備政策とともに、アナキズム的な理想国家を目指した新憲法下での国家再建の方針は、アメリカ資本家たちの陰謀により、たった数年で大きく転換させられてしまうことになったのである。そして、農家は補助金漬けの行政に屈服して自給的農業を放棄し、資本家と共に自民党政治を支える道を歩むのである。
  農家がここまで少数派になってしまった現代では、アナキズム社会を構築するためには、労働者がどのように生産手段を所有するのかということが大問題である。自主管理労組や、ワーカーズ・コレクティヴなどの方法で、生産手段を共有化するという方法もあるだろう。しかし、重工業の世界で、そのようなことを行うことには、非常に難しい面がある。
  古典的な零細自営業を再び活性化し、新規就農や帰農を推進することなしには、アナキズム的な経済は実現できないだろう。GHQが農地解放をやったように、土地だけでなく一定以上の資本を個人で所有することを禁止する法律などができれば、アナキズム社会は実現できるのではないだろうか。アナキズムとは、決して無秩序な社会とか、無政府状態を望むものではない。個人の自由を奪う権力を否定する思想なのである。自由こそ最高の価値であるが、他人の自由を奪う無制限の欲望を認めては、自由な社会は実現されない。
 スターリン時代のソ連で反動的として粛清され流刑地で死んだチャヤーノフという農業経済学者が1920年に書いた「農民ユートピア旅行記」(1984年和田春樹訳、晶文社)という小説がある。トーマス・モアの「ユートピア」やウィリアム・モリスの「ユートピア便り」と同じスタイルで描かれた未来小説で、1948年に書かれたジョージ・オーウェルの「1984年」と全く同じ1984年の世界(ソヴィエト)を舞台にした小説である。自立農民が主体となった理想国家を描き、社会主義革命が成功した直後という時代のソヴィエトにあって、すでに労働者独裁による国家集産主義(社会主義)を否定する農民主導の未来を描いている。しかし、決して何もかも理想的に描いているわけではなく、自立農民による社会というものにも、様々な問題が存在することを指摘してもいる。それでも、古典的な個人的農業経営こそが、人間にとって最も健康的で創造的に生きることのできる最高の生活であるというポリシーは、堅持している。
  一方、ジョージ・オーウェルは、スターリンの恐怖政治や核兵器の開発競争による東西冷戦時代の始まりという背景の中で、個人の自由やプライバシーなど全く無い完全なアンチ・ユートピアを描くことにより、科学技術と結びついた重工業主体の国家政策がもたらす社会主義の恐怖を描いたものだった。現代のコンピューター社会の危険性を予見しているとも言え、この小説は未だ決して古ぼけてはいない。北朝鮮の社会主義が、あのような独裁的恐怖政治をもたらしたのも、北朝鮮が重工業偏重の経済政策をとり続けてきたことと、決して無関係ではないだろう。
  チャヤーノフの農民ユートピア国は、このようなアンチ・ユートピアを描くのではなく、基本的には自らが理想とする世界のシステムを描いて見せたものである。それはモリス的な田園主体のもので、大都市は否定され、商工業は協同組合として存在し、エネルギーや交通機関などは国家が管理しているが、地方分権が進んだ社会となっている。チャヤーノフは、小説のモデルを1984年のソヴィエトに設定したのだが、彼を殺したソヴィエトは、実際にはそのような社会を実現することなく崩壊してしまった。現実には、北欧など社会主義革命の起こらなかった民主社会主義政権の国家の方が、そのような理想社会に、より近づきつつあるように思える。民主的な農業立国を成し遂げたデンマークを始めとして、北欧には学ぶべき点が数多くある。
  トーマス・モアのユートピアでは、私有財産は否定され、必要な物があるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ、空いた時間に芸術や科学研究を行う。しかし、衣装や食事、就寝の時間割まで細かく規定され、市民は安全を守るために相互に監視しあい、社会になじめないはぐれ者は奴隷にされるなど、現代の感覚からすれば、とてもユートピアとは言えないかもしれない。これを、アンチ・ユートピア小説のはしりと見ることさえできる。しかし、資本家に虐げられ貧困にあえいでいる民衆からすれば、まさしく理想郷に違いなかったのである。人間は、常に自由を求める存在であるが、他人の自由を奪う自由を認めたら社会は成り立たない。だから、無制限の自由資本主義が認められるはずはないし、完全なユートピアが決して存在しないということも、人間に欲望がある限り真実だろう。
  農業共同体として最もうまく行っているようにみえるキブツでも、現実には色々と問題が起きていると述べた。日本にも、ヤマギシ会によるヤマギシズム実顕地という農業共同体(別名、金の要らない仲良い楽しい村)があり、これはキブツよりももっと徹底した共産社会(無所有一体で、財産は全て共有)である。ヤマギシ会は1953年、山岸巳代蔵によって作られた山岸式養鶏普及会に始まり、現在では日本各地に32か所、ブラジルやスイス、韓国、アメリカなどの海外にも6か所の実顕地がある。キブツを別とすれば、世界最大の農業コミューンと言うこともできる。1970年前後のヒッピー世代にカウンターカルチャーとして脚光を浴び、80年代には循環型農業のモデルとしても受け入れられ伸張したが、オウム事件以降90年代後半には、無所有思想をたたきこむ研鑽が洗脳であるとされ、財産返還訴訟などを各地で起こされて第二のオウムかと騒がれ、カルト扱いされるに至った。しかし、ヤマギシ会には、オウムのような危険思想があるわけではない。私有財産を否定した共産社会を実現したものの、組織が大きくなり内部で権力を持つものが現われたために起きた問題であって、これはソヴィエト型の社会主義が崩壊したのと、相似形の問題であろうと私は考える。すべての人が労働し、財産は共有のものとして必要なものだけを自由に使うというヤマギシズムの思想自体は、現代社会に対するアンチテーゼとして十分価値のあるものであり、それが徹底できていれば、決してあのような様々な問題は起きなかったのではないかとさえ思う。
  しかし、ソ連でもコルホーズという共同農場は、極めて生産性が低かった。わずかに個人所有が認められた数アールの土地で作られた自由販売可能な自家農産物のものに、コルホーズの生産者が力を注いだためだと言われている。人間とは、本来エゴイスティックなものであり、それを否定することには、無理があると言わざるを得ないだろう。だから、ユートピアを実現するためにエゴイズムを否定しようとすれば、自ずとそこには人間性の否定という問題が出てきてしまう。だから、共同体であっても、私有財産を完全に否定したら成功はしないだろう。有島武郎は、クロポトキンなどのアナキズムに共鳴して大地主であった自己を否定し、1918年に自らの農場を小作人に解放した。しかし、自作農にしたら資本主義の餌食になると考え、個人での土地の所有を禁じ農民共有の土地とする狩太共生農場を作った。有島は、共産農場という名称にしたかったようだが、叶わなかった。この農場は、決してうまく行かなかったわけではないが、安泰というわけでもなかったので、戦後の農地解放の時には、農民自身の意志で土地は個人のものに変わってしまった。
  資本主義のような弱肉強食でも、共産主義のような個人否定の全体主義でもない、そういった理想的な共同体をいかにしたら作れるのだろうか。1918年に、武者小路実篤はそのような共同体を創るべく「新しき村」を九州宮崎に拓き、それは現在も埼玉に移転して連綿と続いているが、共同体としてみれば、これはかなりコミューン的なものになっている。私の考えでは、個々は自立した経営を保ちながら、個人では難しい労働を共同作業で行ったり(結い)、貨幣を伴わない労働の交換(手間買い)などを行うことで、地主と小作、資本家と労働者というような主従や搾取・被搾取の関係、階級の区別のない理想社会を実現することが可能になると思う。 

>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧