芸術の担い手
 
    歴史上、自給共同体が崩壊して階級社会が出現し、そこで一般身分からさらに下方におかれ穢れた者(アンタッチャブル)とされた身分の者、障害者、異邦人など、共同体の枠から外され排除された者たちの生きる道は、3つほどあった。これは、全世界でほぼ共通している。その1つは、穢れたこととされた仕事(屠殺業など)、2つ目は芸術、そして3つ目は神とのコンタクトを行なうシャーマンである。
  障害者、特に盲人が音楽をやる例は、ほとんど世界中で普遍的に存在する。日本では、琵琶法師に始まり、津軽三味線、筝曲に至るまで、盲人(視覚障害者)の専売特許だった時代が長かった。アイルランドでもアイリッシュ・ハープは盲人のやるものだった。クラシックの世界では、視覚障害者がやるようになったのは比較的最近の傾向であるが、ヴァイオリニストでは、かつて和波孝禧、最近では川畠成道、ピアニストとしては梯剛之、声楽家としては新垣勉などが、第一線で活躍しているし、他にも大勢いる。海外でも、バッハの鍵盤曲をすべて暗譜してしまったオルガニストのヘルムート・ヴァルヒャのように、天才的な音楽家がいる。楽譜が読めないというハンディを差し引いても、人一倍鋭い聴覚的世界を生かすことができる音楽家になることは、触覚を生かしたあんま師(マッサージ指圧師)などと共に、一般の就職が難しい状況の中で盲人にとっては、数少ない職業の一つということなのだろう。音楽家の中でも声楽家の場合には、身体障害者という場合が少なくなく、サイトウキネン音楽祭のマタイ受難曲でイエスを演じたクヴァストホフや、ゴスペル歌手のレーナマリアのように、両手を失って楽器が演奏できない条件であっても、すばらしい歌声をきかせてくれる。
  かつては、差別が厳然としてある中で、屠殺業や、音楽芸能、あんま師などを、彼らの専売特許とすることで、彼らの生活を守ったという一面があるわけだ。しかし、現在は身分や障害によって差別することは許されない社会になっているので、逆に、彼らが社会で生きる上で障害が存在する限りは、かつてのような身分社会よりも一層生き難い社会になっているということも言えるだろう。
  一流音楽家にユダヤ人が多いことや、一流スポーツ選手に黒人が多いのは、そのDNAに高い能力があるということ以上に、そのような職業を選択せざるを得ない社会的環境が大きいということを、認めなければいけないと思う。日本でも、在日朝鮮・韓国人は、パチンコ店や焼肉店を経営する者が多かったが、本名を隠してプロ野球選手(金田=金、張本=張)や格闘技選手(力道山、長州力etc.)を目指した者もいたし、ヤクザになる者も少なくなかったが、戸籍制度という日本特有の制度により、被差別部落民(かつて新平民とされた)やアイヌ(つい最近まで旧土人と法律で規定された)と共に一般の就職が閉ざされていた状況では、いたしかたのないことだったのだと思う。
  スティーヴィー・ワンダーやレイ・チャールズは、盲人である上に黒人であるという2重の差別を受けた中で、あのような力強い音楽が形作られて行ったと言えるだろう。逆に、差別がない状況の中では、あのような音楽は生まれなかったかもしれない。黒人霊歌、ジャズ、最近のゴスペルやヒップ・ホップに至るまで、彼らが差別された状況にあったからこそ、そのような音楽が生まれたということは、歴史的な真理と言ってよいと思う。
  私は、そのような逆境から生まれた音楽に、音楽としての力があるということを、否定はしないし、全くその通りであるとも思う。しかし、だからといって、そのような苦しみや怒りを生み出す社会を温存しようとは思わないし、理想的な社会になれば、正義や解放を求める力強い芸術は無くなってしまう、だから理想社会は実現しない方がいい、などという本末転倒な空論に与するつもりもない。理想社会は永久に追い求めるものでしかないということは真理であり、だからこそ理想を追い求める芸術が消滅することも決してないのである。

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