神は存在するか?
 
 先月号で、私と同じように北海道で自給農業を目指しながら、日本では珍しいテーラワーダ(上座部)仏教を信仰する田中氏と、キリスト教信仰としてはかなり異端に属する私の、掲示板上での論争のさわりを紹介したが、3日間だけで約8千字に及び、この通信に細かい字でびっしりと3頁分以上であった。その後、田中氏からの新たな質問に答えるために、私は幸徳秋水「基督抹殺論」、中村元訳「ブッダのことば=スッタニパータ」、アンベードカル「ブッダとそのダンマ」などの本をネットで購入し、急いで飛ばし読みして論旨を整理したが、かなり過激な宗教論争に発展して、約2週間で何と10万字超の分量になってしまった。(まだ続いている!)それを、ここではとても紹介しきれないことを残念に思うが、この掲示板は一定期間で消えてしまうため、ウェブ上では何らかの方法で、この論争をそのままの形でずっと見られるようにしておこうと思う。
 論争が進むと共に、揚げ足とりみたいなことでお互いを非難しあう場面も多少あったが、お互いの疑問をぶつけ合う中で、釈迦やイエスの真の教えということについて、かなり深い議論ができたと思う。一般的に仏教やキリスト教の教えと考えられていることについて、田中氏も私も、その多くは、本質を覆い隠すために後に作られた勝手な教義であるとして否定した。そして残った核心部分は、当初私はそれほど違わないのではと思っていたのだが、実際にはかなり違うものであることが分かったというのが正直な感想である。どこが違うかということについて、ここで私が一方的にまとめることは適当ではないが、私個人の意見を述べさせていただく。
 釈迦もイエスも、既存の宗教を批判し、救いに至る真の教えについて説いたということは共通しているのである。しかし、その信仰の方法論というものが、あまりにも違うのである。釈迦は、認識のできない絶対神のようなものを信仰することを否定し、イエスはそれを純化させる形で肯定した。イエスはユダヤ教の律法主義を否定したが、ユダヤ教の基本的な思想である絶対的な唯一神の存在については、決して否定しなかった。
 唯一絶対的な神が存在するかどうかは、残念ながら永久に証明できない。誰も見たことがないし、見ることのできない存在を証明しようとしても無理なのだ。しかし、それは存在しないことの証明にはならない。では、そんなものを信じるのはやめておいた方がいいのだろうか?
 私はこの論争において最終的に、神が存在するかどうかを問うことが重要なのではなく、それを信仰することが意味を持つかどうかを問うことが重要であるということに気付いたのである。キリスト教の核心であるキリストの復活とは、歴史的事実ではないのであって、復活を信じるかどうかということこそが重要なのである。イエスの遺志を引き継ぎ復活させるという信仰こそがキリスト教の原点であり、それを肉体的復活という超自然的現象の物語にしてしまっている新約聖書は、キリスト教の真実の信仰を覆い隠し誤解させる偽りの言葉に満ち満ちている。しかし、矛盾に満ちた聖書であるからこそ、その中に真実も発見できるということも言えるのだ。
 宗教が哲学としてどのように機能するかということを考えると、根本仏教とラジカルなキリスト教はかなり違う。かなり独断ではあるが、ずばっと結論を下せば、神を信じない仏教は、世界を平和に過ごすための哲学であり、神を信じるキリスト教は、平和でない社会を変革させるための哲学である。しかし、仏教でも大乗仏教、特に浄土真宗や日蓮宗は、この点では根本仏教よりも、キリスト教により近いのでは、と思わせるところもある。
 それはそうとして、日本においてキリスト教徒が増えない(人口の1%を超えたことは、江戸時代のキリシタン禁教令の時以来ない)のは、やはりそれだけ平和であって、神を必要としていないのからだと思う。いや、神を信じる者の立場から言えば、本当は平和ではないのに、平和だと思っている人たちが多いと言うべきなのかもしれない。同じアジアにおいても、お隣の韓国では仏教徒よりもキリスト教徒の方が多いくらいであるし、フィリピンなどはキリスト教徒が圧倒的である。それは、それだけキリスト教が必要とされて、解放を求める民衆が多く存在していたからだという説明ができるのかもしれない。

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