キリスト教・クラシック音楽の民衆化を!
 
    3月からホームページの掲示板で続いた宗教論争は、2か月で20万字くらいにもなり、結局田中氏とは論点が噛み合わないまま、中村氏との憲法論争に移って行った。この論争については掲示板には記録が残らないので、膨大な量であるが、ホームページの「えこふぁーむ・にゅーす」の今月号のところで、閲覧できるようにした。宗教について深く考えたいという方には、ぜひご覧いただきたい。
  色々な考え方を一つにまとめることなどできないし、唯一の正解などありもしないのだが、私の考えははっきりとしている。何事にも、最高のものを目指すべきということだ。宗教であろうと、芸術であろうと、社会体制であろうと、理想を追求するべきなのだ。しかし、現実を見なければならない。現実から遊離した理想など、何の意味もない。それは、妥協することとは違う。現実を見据えて、何を変えるべきかを悟り、実現できる理想を信じることだ。
  世界は、変革を信じる者たちによって、変えられて来た。それこそが、人間のすばらしさでもあるが、同時にまた危険性もある。永続的な自然や文化とどのように調和をとっていったらよいのかを考えなければならない。常に独善的にならぬよう、傲慢にならぬような姿勢が必要だ。
 キリスト教徒であり、クラシック音楽愛好家でもあるというと、何か西欧かぶれで、貴族趣味というか上流志向のようにも思われ、敬遠されがちである。日本におけるキリスト教やクラシック音楽に、そういう要素がないかというと、もちろん大いにあるわけだし、子どもの頃からそういうものに慣れ親しんだということは、農村出身者でないことの証しみたいなものである。もともと農家なら、どこかのお寺の檀家で、かつ地域の神社の氏子にもなっているというのが普通だし、慣れ親しむ音楽と言えば、民謡か演歌だったはずである。しかし、確かにうちはそういう家庭ではなかった。
  でも、誰も自分の意志で生まれる家庭を決めることなんかできないわけだし、身につけたものを消し去ることはできない。しかし、大人となって自分の意志を持つようになれば、どのように生きるかということは、自分自身で決定できるわけだ。私は、消し去ることのできない過去を否定するよりは、それを超えることの方が大きな意味のあることだと考えている。だから、キリスト教や、クラシック音楽について、批判する人の言葉は素直に聞くべきだと思うが、それを否定するよりも、私はその欠点を超克する道を探りたいと思う。
  私は、キリスト教や、クラシック音楽について、歴史的な社会的機能から捉えて批判することは、本質を見誤ることになると思う。それは、支配階級が、キリスト教やクラシック音楽を、そのように利用してきたということに過ぎないのであって、キリスト教やクラシック音楽の本質が、そのようなものであるということは、短絡的に過ぎるのだ。もちろん、本質的な批判であれば、それは大いに問い直すべきである。しかし、問題となる現象が本質から発したものであるかどうかは、十分に吟味しなくてはならない。ワーグナーの音楽がナチスによって戦意高揚に使われたからといって、またワーグナー自身も反ユダヤ的な言動を繰り返していたからといって、イスラエル・フィルはずっとワーグナーの音楽を禁止していた。しかし、それはワーグナーの音楽の本質を捉えてのこととは言えない。ワーグナーの音楽は、ユダヤ人にとっても十分に共感できるものであるし、今ではワーグナーの音楽を愛し演奏するユダヤ人音楽家も少なくはない。その音楽自体が、聴く人に不快感を及ぼすのであれば、それは演奏すべきではないだろう。しかし、不快感を及ぼす理由が音楽自体にあるのではなく、他にあるのであれば、その音楽自体を批判するべきではない。ナチスの行為や、ワーグナーの言動こそ、批判すべきなのである。
  キリスト教やクラシック音楽というものは、明治時代に教養として西欧から日本に入ってきたわけである。そして、上流階級にはそれを取り入れるものもいたわけだが、それはなかなか大衆化することはなかったわけである。しかし、最近は少し違ってきているかもしれない。従来から日本でキリスト教が大衆化していたのは長崎のカトリックぐらいだったが、最近では都市に限られているが福音派の台頭や、若い世代におけるゴスペル・コーラスのブームによって、少し大衆化の兆しがないとも言えない。また、クラシック音楽では、ヴィジュアルで売るJクラシックや、バカ売れしたマンガ「のだめカンタービレ」効果によるポピュラー化という今までになかった聴かれ方も出てきている。
  そのような、どちらかというと商業主義的な方法によっての大衆化というものも、今まであった敷居を取り払うためには、悪くはないかもしれない。しかし、私としては、キリスト教も、クラシック音楽も、大衆化するのではなくて、民衆化したいのである。
  大衆と民衆は、何が違うか。大衆とは、個性のない群れに過ぎない。しかし、民衆とは、個の集まりなのである。そして、大衆とは多数派ということでもあるが、民衆とは、社会の底辺に生きるもののことでもある。私としては、民衆の宗教、そして民衆の音楽というものを、追及して行こうと思うし、キリスト教やクラシック音楽が、民衆のものとなる可能性は、わずかではあるかもしれないが、ゼロではないと信じているのである。

>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧