宗教論争その2(掲示板 2007. 3. 20.〜3.30)
 
    なかむら氏の質問により始まった、私(ハンドルネーム「マッキー」)とたなか氏の宗教をめぐるホームページ掲示板上での論争は、2ヶ月近く続くこととなったが、最終的には対立したまま幕を閉じ、たなか氏は掲示板から姿を消した。過去ログが消滅してしまう無料掲示板なので、決着はさておき、膨大な時間を費やしたことを無駄にしたくないので、ここに忠実に再現する。ただし、掲示板は最新コメントが最も先に表示されるようになっているため、経過を遡って読むのが大変なので、読みやすいように、古いコメントが最初に来るように順序を逆にした。  また、余りに分量が膨大なので、7〜11日ごと、約3万〜4万字ずつ、5つに分割した。それぞれ、ちょっと分厚い文庫本くらいの文字数があるので、読むのには相当な覚悟がいると思う。しかし、仏教のことはともかく、キリスト教に関心はあるけれど疑問が多いという人や、神なんか信じるつもりはないという人には、ぜひとも読んでもらいたいと思っている。

幸徳のキリスト抹殺論
投稿者:マッキー(百姓)   3月20日(火)01時43分

   深川市の田中さんからいただいたメールに、下記のような内容の質問がありました。幸徳にそのような著書があることは知っていましたが、まだ読んだことがありませんでしたので、岩波文庫から出ている本をアマゾンで早速注文しました。読んでからまた感想を述べるつもりですが、もともと熱心なクリスチャンだった幸徳秋水が、キリスト教から離れてしまったことは、とても残念なことだと私は思っています。キリスト教を批判するのならば、トルストイのようにあくまでも信仰を捨てないままで、徹底的にラジカルにやって欲しかったと思うのです。私も、不合理な信仰は、持つべきでないと思います。しかし、合理的に説明はつかなくとも、直感的に正しいと思えるものが、信仰ではないでしょうか。それを、不合理だと言って否定することはできません。
   限られた資料から、イエスの歴史性を否定することには無理があるでしょう。イエスは生前、バプテスマのヨハネのような偉大なカリスマではなかったのです(弟子でさえ十字架刑の時に逃げて雲隠れするくらいですから)。初代キリスト教会と、最終的にはローマ帝国によって、イエスが神の子キリストに仕立て上げられた、ということには私も同意します。それでもなお、史的イエスの訴えた神への信仰による解放思想こそが、キリスト教の本質であると思っていますし、それはイエスを神の子と信じることでは、全くないのです。

(以下 田中氏のメールより引用)
 幸徳秋水が『基督抹殺論』で、キリストは実在しなかった、ということを論証していますが、あれについて牧野さんはどうお考えですか。トンデモ本でしょうか。それとも、フィクションでも拠り所になさりたいのでしょうか。差し支えなければ、ご教示ください。
 幸徳の先生であった中江兆民は、議会制民主主義を日本に根付かせることに努力した人ですが、医者に「もう長くは生きられない」と宣告されてから、病と闘いながら最後に書いた本が「続一年有半」といって、各種の信仰の不合理を訴える文章でした。幸徳の「基督抹殺論」も、大逆事件で死刑判決を受けたその獄中で書かれた、いわば遺著です。最後にこれだけは書き残しておきたかったという、強い思いが込められた作品です。あの状況で天皇についての文章を書いても、絶対に発表できなかったでしょうけれども、それをキリストになぞらえて、不合理な信仰から目を覚ましなさい、ということを伝えたかったのだと思います。(引用終わり)

ゆっくり語りましょう
投稿者:たなか@深川市  3月21日(水)21時18分

  マッキー様
デリケートなテーマなので、直メールにしましたが、掲示板のほうが、より生産的な議論になるかもしれません。
  「直感的に正しいと思えるものが、信仰ではないでしょうか」とのことですが、必ずしもそうとは言えません。よく考えて、合理的に納得して信じる信仰もあります。たとえば、わたしにとっては、テーラワーダ仏教は、合理的で納得できる、いい宗教です。
 周りに迷惑をかけないのならば、不合理な信仰を持つのも自由だと思います。ただ、わたし個人としては、その手のものは一切信じられません、というだけのことです。
 それと、石川三四郎の『浪』に、彼がポール・ルクリュに「アナーキストがどうして神を信じられるんだ?」みたいに問われて、しゅんとしてしまうような場面があったような記憶があるのですが、アナーキストを自称されるマッキーさんが、思想と「合理的に説明がつかない」信仰とを、どのように折り合いをつけておられるのか、そのへんも聞かせていただけると、ありがたいです。

合理的な信仰なんてある?
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 3月21日(水)23時23分

  田中さんは多分、誤解されていると思うのですが、私の言葉が舌足らずというのか、言い方がおそらくまずいのでしょう。私は、「不合理なものでも、直感的に信じられれば構わない。」と言いたいのではないのです。どこまでもよくよく考えることが大切で、不合理なものは、決して信じるべきでないと思います。不合理なものを信じれば、周りに迷惑をかけなくとも、本人が不幸になります。
 私が言いたいのはそういうことではなく、宗教というのは、合理的に説明のつくものなんかじゃないということです。科学というのは、合理性を追求するものです。しかし、科学では決して全てを説明しきれません。生命が、どのように誕生し、何のために存在するのか、そのことを科学によって説明することは、決してできないのです。それは、宗教のテリトリーです。私は、進化論を否定しているのではありません。もっと根源的なことです。
  田中さんは「合理的に納得できる」と仰っていますが、おそらく「不合理ではないと納得できる」ということに過ぎないのではないでしょうか。そうであれば理解できますが、これは論理の問題ですが、「不合理ではない」=「合理的」ではないと思います。私は、合理的な宗教など、絶対にあり得ないと思います。
  イエスは「敵を愛せ」と言ったのですが、これは矛盾した言葉です。愛せない対象、憎むべき存在のことを「敵」というのですから。しかし、これはつまり、「全ての人は敵ではない」という意味だと理解すべきなのです。この言葉は、当時の民衆にとって衝撃的でした。イエスの語った言葉はほとんど、衝撃的で革命的なものばかりでしたが、この言葉ほど、多くの人にとって受け入れ難い不合理な言葉はなかったと思います。敵を愛さなければならない合理的な理由などあるでしょうか? もちろん、憎しみは憎しみを生むだけです。だから、敵を憎むことは不合理です。しかし、だからと言って、敵を愛することなどできるでしょうか? これは、合理的かどうか考える問題ではなく、受け入れるかどうかという、信仰の問題であると思います。
  神がいるかどうかということも、合理的に説明などできません。私は、神が存在せずに、このような偉大な宇宙が生まれたはずはないと思いますが、それは直感的に思うだけです。もし、神がいるのなら、どうして世界はこんなに不平等で、不幸に満ちあふれているのか、と言って神を否定する人だって大勢います。しかし、私は神がいるかいないか分からないけれども、どちらか分からないのだったら、いる方に人生を賭けようと思うだけです。これは、合理的な信仰ではありません。しかし、私は決して不合理なものを信ずるつもりはない。そのことだけは、断言しておきます。だから、ギャンブルや占いは、大嫌いです。神がかりみたいなことも、信じません。最近のテレビでも、スピリチャルカウンセラーだか何だか怪しげな人物が、偉そうに適当なことを言っているけれど、私はあういうのも一切信じません。

ほかの宗教を知るのもいいかも
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月22日(木)16時40分

マッキー様
「宗教というのは、合理的に説明のつくものなんかじゃない」
「合理的な宗教など、絶対にあり得ない」
とのことですが、テーラワーダ仏教は、合理的で、しかも宗教です。日本テーラワーダ仏教協会のホームページを見て、確かめてみてください。合理的だと宗教ではなくなる、なんて話は、わたしは初めて聞きました。
 科学では「全てを説明しきれません」とのことですが、これは、科学で説明できない領域で、宗教ならば説明できることがある、という意味だと思いますが、言葉を使って説明する以上、宗教による説明も、科学による検証が可能になります。もし宗教による説明が科学に反していたら、その説明は、やはり不合理なのです。不合理な説明というのは、常識的には、説明ではなくて、こじつけと呼ばれます。
「不合理ではない」=「合理的」ではない」
とのことですが、たとえば、わたしは今まで、テーラワーダ仏教で、不合理だと思う説明に出会ったことがありません。こういうのを合理的と言わなくて、何を合理的と言うのでしょうか。ゲーデルの言う、論理における無矛盾の話と混同していませんか。
「敵を愛さなければならない合理的な理由などあるでしょうか」
は、「敵を愛さなければならない直感的な理由などあるでしょうか」の間違いではありませんか。敵を愛さなければならない合理的な理由は、マッキーさんご自身が、 「憎しみは憎しみを生むだけです。だから、敵を憎むことは不合理です」
と、答えを出しておられます。敵を憎むことは不合理です。よって、敵を愛することは合理です。証明終わり。
テーラワーダ仏教でおこなう「慈悲の瞑想」で念じる言葉の中には、
「 ……
 私の嫌いな人々も幸せでありますように
 私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
  ……
 私を嫌っている人々も幸せでありますように
 私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
  ……」
というのが含まれています。この「慈悲の瞑想」をすると、人をきらうことの無意味さが分かって、問題解決の糸口が発見できるようになります。どうでしょうか。非常に合理的な方法だとは思いませんか。
神がいるかいないかということについては、初期仏教では、基本的には、考えないようにします。どちらかに人生をかけたりはしません。なぜならば、神がいるかいないかという問題は、人の悩み苦しみを解決することには役立たないからです。神がいるかいないかとか、生命がなぜあるのかとか、宇宙のはじまりはどうだったかとか、そのようなことを考えるよりも、人の悩み苦しみを解決するのに、はるかに有効な方法をブッダは知っていたので、遠回りをやめさせて、近道を教えました。

私がイエスを信じる理由
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月22日(木)20時13分

  田中さんは、まだ誤解されているようです。私の使っている「合理的」という言葉は、田中さんが使っている意味とは違い、もっと厳密なものです。だれにも決して否定できないように論理的であること、つまり「A=B、B=C、よってA=C」という結論が出るように説明がつくという意味で言っています。しつこいようですが、「不合理ではない」だけで、厳密に「合理的」であるとは言えません。
  もし、テーラワーダ仏教が、厳密な意味で合理的な宗教だとすれば、誰にもそれを否定することなどできないし、すべての人はそれに従うべきです。でも、私は、そのような宗教など、どこにも存在しないと思います。もちろん、テーラワーダ仏教は、決して不合理な宗教ではないし、尊敬に値するものと思いますが、誰もがその教えに帰依すべきであると思うことはできません。
  田中さんが、いみじくも仰ったように、問題解決の方法には、様々なスタンスやアプローチがあるでしょう。答えは、一つではないのです。ブッダの教えもすばらしいけれど、イエスの教えもすばらしい。私は、どちらが優れているかと、比較しようとは思いません。私は、イエスという存在に、教会や聖書を通して出会ったのです。そして、生き生きと生きる道を得ました。キリスト教に過ちがあることや、聖書に偽りがあることは、十分承知しています。それを、隠そうとは思わないし、逆にそのような罪を徹底的に洗い出して反省すべきだと思います。仏教にだって、同じようなことがあるでしょう。
  しかし私は、イエスに偽りはなかったと、信じています。イエスも人間ですから、迷いもあれば、悩みもあったでしょう。でも、十字架で殺されても自分の信念を曲げなかった、そのような人間を私は信じたいと思います。私は、そのようなイエスという人間を知ってしまったのです。イエスという人間に、従って行きたいと思うのです。イエスが唯一の神の子であると、信じるからではありません。そんな子供だましのような教えは、まっぴらごめんです。そのような正統的キリスト教の教えは、きっぱりと否定します。これは、幸徳秋水のように合理的な考えによるものです。しかし、私は幸徳と違い、イエスを否定はしません。イエスを信じるということ、これは決して、合理的な信仰ではないでしょう。だから、誰にも強制できることではありません。私は、誰にもキリスト教の信仰を強制しようとは思いません。田中さんが、ブッダにとらえられたように、私はイエスという男にとらえられたのです。

合理的という言葉
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月22日(木)21時07分

 神や宗教を信じるかどうかという話をするのに、こんな例えが適当かどうか分かりませんが、ツチノコがいると信じることは、不合理でしょうか? 私は不合理ではないと思います。沖縄にいる飛べない鳥のヤンバルクイナだって、1981年にやっと発見されたのです。では、ツチノコがいると信じることは、合理的でしょうか? いないと思うことの方が合理的ではないですか? いないとは言い切れませんが、いる可能性は極めて低いでしょう。不合理でないからといって、決して合理的とは言えないということの説明には、なりませんか? 

今現在の合理性、ってのはどうですか
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月23日(金)01時58分

    マッキー様、すっきり整理してくださって、助かりました。「厳密な意味で」というのが分からなかったのですが、ツチノコのたとえで、やっと分かりました。
 要するに、マッキーさんは、過去に不合理が見つかり、未来にも不合理が見つかる可能性があるものを、合理的だと信じることを不合理だと言っていて、だから、合理的な信仰はない、という結論になるのではありませんか。それに対して、わたしは、今現在不合理がないのだから、自分の信仰は合理的だ、と主張しているわけです。過去や未来を含めて考えるか、現在だけについて考えるかの違いだったのです。どうでしょう。わたしはまだ誤解していますか。
 過去の不合理は、考えを改めて、合理的なものにしたのですから、今の合理性には影響しません。また、未来というのは常に空想ですから(現象した未来は過去になります)、わたしとしては、未来に見つかるかもしれない不合理は、問題にしません。
以下、合理的か不合理かの判断は、現在についてだけを対象にする、という、わたしの考えに基づいて述べます。

ツチノコの場合、それがいることを証明するのは、簡単です。実物を持ってきて、「これがツチノコです」と、指し示せばいいのです。逆に、それがいないことを証明するのは、限りなく困難です。本当はいるのに、探し方が足りなくて、見つけられないだけかもしれないからです。
 神の存在は、「これが神です」というものを持ってくることのできる人がいるでしょうか。そういう人がいないから、なやましいのですよね。神が存在しない、ということを証明するのも、限りなく困難です。これまで見つからないのは、探し方が足りないだけかもしれないのですから。
 ビトゲンシュタインが、神の存在を信じながら、神について語らなかったのは、神を、言葉を超えたものだと考えていたからです。神は言葉を超えたものだから、神について言葉で語れば、うそになる。だから彼は、神については、沈黙を守ったです。ビトゲンシュタインの態度は、つじつまが合っています。つまり、合理的です。
 神の存在を信じても、信じなくても、合理的でありえます。合理的な宗教が複数あることも可能です。合理的だからだれもが信じなくてはいけない、ということはありません。信じたい宗教を選んで信じればいいのです。
矛盾する二つの考え方があれば、少なくともどちらか一方は、間違っています。しかし、矛盾しない二つの考えがあれば、もしかしたら、両方とも正しいかもしれません。合理的な考え方、正しい考え方は一つしかない、とは限らないのです。いえいえ、正しい考えは、絶対にたくさんあるはずです。世界の多様性が、その証拠です。
 何にしても、マッキーさんのイエスへのほれこみようが、よく分かりました。わたしも、ブッダがすきですので、似たようなものかもしれません。
 ものすごく唐突なことを言いますが、わたしは、ブッダにもうちょっと現実性を持たせると、エピクロスになるのではないかと思っています。ブッダは、在家信者からもらった物を食べて、生産活動を一切しませんでしたが、エピクロスは、当時のギリシャの哲学者の中では、例外的に労働をしていました。それも、仲間たちと農業をやって、自給自足の生活をしていたのです。方法論的にはブッダのほうが徹底していますが、エピクロス的な生き方も、親しみやすくて、捨てがたい魅力があります。すきな人たちを、二また、三またかけても、彼らは不快がることはないでしょう。いや、むしろ面白がってくれるのではないかと、わたしは思っています。

主観/客観 内へ/外へ
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月23日(金)07時35分

続けて失礼します。誤解王のたなかです。
 「今現在の合理性」と「過去から未来への合理性」、ということで分けてみたのですが、もう一つ言い換えると、「主観的判断を信じる」と「客観的判断を求める」の違いとも言える気がします。客観的というのは、権威に頼ることことでもあります。神の視点を求めてしまう。公正な判定をしてくれると信じる何かを求めてしまう。このへんは、ポール・ルクリュの、「何でアナーキストが神を信じられるんだ?」という疑問につながります。
 それで、判断の拠り所が主観であるか、客観であるかの違いは、実践の形にも影響します。初期仏教では、自分の心を整える、という方向、つまり内へ向かうことになります。キリスト教の場合は、外的な要素を変えようとする、つまり外へ向かうことになります。マッキーさんが「弱者、しいたげられる人のため」と、よくおっしゃるのが、その表れだと思います。強者、しいたげる人にぶつかっていくのです。仏教的には、「人は病むもの、死ぬもの」などと言って、ぶっちゃけた言い方をすれば、とりあえずは、あきらめます。比喩的に言うと、短期戦で負けて、長期戦で勝とうとしているのですが。外見的には負けても、気持ちが穏やかになれればいいことにします。
ルクリュの疑問にもどると、キリスト教の場合は、神の権威に支えられて、安心して神以外の権威にぶつかっていけます。初期仏教だったら、神も含めて、あらゆる権威を無視するでしょう。
 「神への信仰による解放思想」というのを、もう少し説明していただけますか。

初期仏教も勉強してみたい
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 3月23日(金)08時14分

 やっと田中さんから理解してもらえたようで、うれしいです。仏教の経典の中には、難しいものもありますし、ヒンズー教の神様だったようなものが、否定されずに残っていたりします。でも、ブッダの本来の教えと思われるものは、もっとラジカルで合理的なものであったと私も思います。(ここで私は合理的という言葉を使うことに違和感がないけれど、合理的な宗教とか、合理的な仏教とかいうことには、やはり違和感があるので、悪しからず。)
 聖書も同じです。ラジカルなイエスの教えを、ラジカルでないものにしてしまっている部分が多すぎるのです。でも、聖書から読み取るしかないのです。というよりも、それだけ歪められ脚色されてもなお、その輝きが失われないほど、イエスという人間の生き方はラジカルなのですね。だから、多くの人々をとりこにするわけです。
 ブッダとイエスは、生まれた国も時代も違う。だから生き方が違って当然です。しかし、共通することも、非常にたくさんあると思う。今の日本人にとって、どちらが必要かというと、イエスよりもブッダかもしれない。イエスの教えは、貧しい者、虐げられた者、苦しむ者への福音です。豊かな者、飽食をむさぼる人間に、イエスは必要ない。もちろん、どんな人間にも弱さがあるので、イエスの教えは普遍的です。けれど、イエスは豊かな者は救われないと断言しているのです。イエスの言葉は、時には非常に厳しい。今の日本では、キリスト教を広めることは無理だし、そうしようとも思いません。今の日本人には、ブッダのような生き方こそ必要かもしれない。宮沢賢治は、法華経までしか知らなかったけれど、初期仏教を知っていたら、もっと違っただろうなと思うところもあります。私も時間があれば、初期仏教を少し勉強してみようと思います。

解放の神学
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月24日(土)08時22分

 中南米のカトリックから生まれた「解放の神学」というものがある。キリスト教社会主義の一種とも認められるもので、ヴァチカンからは認められていない。しかし、私はこの「解放の神学」、また民主化以前に韓国で生まれた「民衆の神学」といったものに、イエス回帰の原始キリスト教の持っていたであろうキリスト教の真髄を感じる。
 「解放の神学」は、同時に「神学の解放」あるいは「神学からの解放」でもある。イエス自身は、民衆(虐げられた者)の解放のために、ユダヤ教神学からの解放を説いたのだ。つまり、「目には目を、歯には歯を」という掟に対し、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ」と言い、ユダヤ教で最も重要な掟の一つである「安息日に労働してはならない」ということに対し、「安息日は人のためにある、だから安息日に畑に入り麦の穂を拾うことは罪ではない」と言った。これは、ユダヤ教の律法主義を批判したのである。法律は本来人のためにあるのだから、人のためにならない法律は、守る必要がない、と宣言したのである。法律よりも人間の方が偉いと言ったのであり、当時のユダヤ教のリベラル派であったファリサイ派からも、保守派であったサドカイ派からも、神に反逆する者として攻撃された。なぜなら、法律(戒め)は神の定めたものとされていたからだ。しかし、エコロジー派であるエッセネ派、急進派である熱心党の中には、イエスに理解を示し、弟子になる者もいた。イエスの語る神は、まじめな息子ではなく放蕩息子を優しく受け入れる父であり、99匹の羊を放り出して1匹の迷える羊を探しに行く羊飼いである。
 イエスの死後、イエスの教えについて書かれた様々な文書から正しい教えというものを選び出して、新約聖書というものが編纂され、さらにそれに基づいて正統的キリスト教神学というものが確立した。これをカトリック、東方正教会(オーソドックス)、プロテスタント(聖公会を含む)、すべての宗派が受け継いでいる。しかし、新約聖書に選ばれた様々な文書には、矛盾も多いし、決して一つの思想で書かれた文書を集めたものではない。解放の神学や、プロテスタントの急進的な神学の中には、このような正統的な神学を超えるものが生まれてきていると思う。  本来、非暴力を説くべきキリスト教国がこぞって戦争を行い、様々な法律を作っている。イエスの教えに帰るのならば、そのようなキリスト教神学からは、解放されなくてはならない。イエスは暴力を否定し、法律を否定したのだ。これは、私に言わせれば、アナーキズムである。しかし、単なるアナーキズムではない。神への確固たる信仰があるからだ。
 イエスは、唯一の神を決して否定しなかった。唯一絶対なる神に拠り頼むために、常に祈っていた。そして、神以外の権威は一切否定したのだ。ユダヤ教の権威も、ローマ帝国の権威も、認めなかった。それらが、民衆を不幸にしていることが分かっていたからだ。それらから民衆を救うことができるのは、神だけであることも。
 この点は、仏教と矛盾する点かもしれない。唯一絶対の神がいるかいないか。いや、そうではなく、田中さんの説明のように、神がいるかいないかは問わないで、一切の権威を否定するというのが、仏教本来の姿なのだろう。
 キリスト教と仏教と、どちらが正しいかと、これは議論しても仕方のないことだ。神がいるかいないかという問いには、答えがないからだ。信じるか信じないかだけである。キリスト教的な世界観が、今の不幸な文明社会を作り出した。だから、アジア的な仏教的世界観を復活させる必要があるという考え方もあるだろう。しかし、そのようなキリスト教的世界観とイエス本来の思想は、全く正反対の性質のものであると私は考えていることを、最後に主張しておこう。

律法の変遷を教えてください
 投稿者:たなか@仏教徒?  投稿日: 3月24日(土)10時18分

神への信仰の実践の仕方の面で、イエスによって、また解放の神学によって、律法の革新があったことが分かりました。キリスト教については、わたしは無知なので、間違っていたら申し訳ないのですが、律法の古い形は、モーゼの十戒といわれるもの、と理解していいでしょうか。これを守ることが、ユダヤ民族のアイデンティティーなのですよね。その十戒がイエスによって、また解放の神学によって、どのように変化させられたのか、非暴力と安息日については挙げられていますが、具体的な言葉で参照できるものがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。
仏教ですと、在家信者が守ったほうがいい五戒というのがあります。1.生き物を殺さない。2.与えられていないものを取らない。3.みだらな行為をしない。4.嘘を言わない。5.酒を飲まない。…の、5つです。戒律を破っても罰せられることはありませんが、自分を支配できないふがいなさを自覚するのには、役立ちます。

『基督抹殺論』、とどきましたか。アマゾンは外資系なので、こういう内容の本の配送は遅くなる、…かどうかは分かりません。でも、もし幸徳が今のアメリカで、英語でこの本を出版したら、命をねらわれるであろうことは、疑えません。アマゾンの購入履歴データって、ずーっと蓄積されていて、利用者側からは消せないのですよね。

権威を否定したのではないような
 投稿者:たなか@仏教徒?  投稿日: 3月24日(土)15時41分

わたし、「仏教は権威を無視する」って、書いてますね。マッキーさんは、それを「仏教は権威を否定する」って、言い換えているのですが、そこまで言うと、ちょっと違うような気がして…。
初期仏教に限りますけれど、仏教が権威と喧嘩するようなことは、ありませんでした。ブッダは、貧しい人にも、犯罪者にも、豊かな商人にも、権力者にも、だれにでも説法しました。特に、豊かな貿易商の間に支持者が多かったようで、弟子たちのための精舎を寄進してもらったりしていました。ブッダの教えの、普遍的で土着の習慣から離れた自由な発想が、インターナショナルな仕事をしている人たちのセンスに受けたのだと思います。
どのような種類の人たちにも、悩み苦しみはあるのであって、その解決の方法を、だれにでも、ブッダは教えました。階級闘争をそそのかすようなことは、しませんでした。初期仏教の教団は、世俗的な力関係を超越したような領域で活動していたので、権威を無視できたわけです。権威を否定したり、喧嘩したりしたのではないと思います。悪い行為をなくすことは考えても、悪い人を想定して、その人たちと対決する、という発想はしません。たとえば、戦争をやめさせようと説得することはしますが、戦争をやらせる人たちを憎んだり、自分たちが戦争に勝っていい国をつくろう、などとは考えません。ニュアンス、伝わりますか。

イエスは権威と闘った
 投稿者:マッキー(園主)  投稿日: 3月25日(日)08時16分

 田中さん。私も誤解していました。というか、言葉の遣い方を間違いました。無視と否定は違いますよね。その通り、イエスはブッダと違い、権威を無視することはなく、否定するのです。それは、権威や権威によって作られている権力に対する怒りのストレートな表現です。イエスは、どんな権威も持たずに権力から苦しめられている人たちの立場にしか立たなかったので、不正義な構造を温存することに我慢がならないのです。ありもしない権威というものに対しては、怒りをぶちまけるのです。
 イエスは、商人が神殿で貧しい者からなけなしの金を巻き上げて金儲けをしていることに我慢がならず、誰の許可もなく彼らの商売道具をひっくり返し、商人を神殿から追い払ったりしました。イエスは行動の人です。非暴力主義だけれど、無抵抗ではありません。実力行使に出ます。だから、危険人物だったのです。この事件が引き金となり、のちにイエスが十字架刑に処せられることになったとも言われています。
 また、イエスはこうも言っています。「私が(地上に)平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。敵対させるために来たのだ。人は父に、娘は母に、嫁は姑に。こうして家族のものが敵となる。(私よりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。自分の十字架を担って、私に従わないものは、私にふさわしくない。)」(マタイによる福音書、第10章34〜38節)
 聖書には、科学的・文献学的研究が必要です。この言葉の元になったものは、イエスが語ったことと思われますが(新約聖書の中でイエスの真性な言葉と認められるものは、それほど多くはないが、その一つ)、それが語られた場面は、聖書は歴史的事実を示していませんし、イエスの言葉自体も相当歪められています。少なくとも(括弧内)の部分は、明らかに後世の教会によって付け加えられたものです。(ルカによる福音書では、イエスの言葉は、剣ではなく火となり、敵という言葉はなく分裂をもたらすためとなっていて、後の余計な付け加えはないが、やはり教会的な解釈が多少施されている。)マタイにおいては、イエスの語った場面と、その意味を大きく逸脱し歪めて、全く違った神学的解釈を施しています。イエスの余りにも過激な言葉に、どう説明してよいか困り、勝手にイエスをカルト的な信仰の対象とするための言葉にすり変えているのです。しかし、それにしても、これは普通の穏やかな信仰を持ったクリスチャンからすると、つまづきの言葉となりやすく、理解されにくいいものの一つです。
 では、イエスはどのような場面で、どのような意味でこのような言葉を語ったのでしょうか。私は、牧師の説教で、正しい解釈を聞いたことがありませんし、本で読んだこともありません。しかし、イエスの言いたかったことは分かるような気がします。「偽りの平和なんかいらない。身内を愛するだけだったら、自分だけを愛するのと大して変わりはない。本当に苦しんでいる者のために闘うことこそ、人を愛するという行為なんだ。」どのような場面でこの言葉が語られたのか、残念ながら分かりませんが、イエスはそう言いたかっただけだと私は思います。イエスの生き方が、そういう生き方でしたから。福音書における、イエスを神の子に仕立て上げるための、余りにも明らかなイエスの言葉の改ざんは、数え上げたらきりがありません。しかし、イエスという歴史的人物の生き様は、消し去ることが出来ません。イエスの真の言葉を、復活させなくてはならないでしょう。

解釈する人、伝える人
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月25日(日)14時55分

だいぶ「人間イエス」の像が見えてきたような気がします。
器物破損ですか。気性の激しい方だったのですね。おっとり型のブッダとは対照的です。
イエスは、処刑されて埋葬されたあとに、復活して、さらに昇天したと言われていますが、この復活と昇天について、マッキーさんはどのように考えておられますか。捏造でしょうか。
「科学的・文献学的研究」とありますが、聖書のオリジナルって、どのようなものなのですか。昔は活字なんてないですから、手書きですよね。科学的研究というと、書かれたものの材質やら、筆跡やらを調べるのですか。
経典に書いてあることを鵜呑みにできない、という、似たような事情は、仏教にもあります。現代人の感覚でひっかかるのは、「輪廻」と「解脱」という言葉が、経典の中に、あたりまえのように出てくる、ということでしょう。仏教は「諸行無常」「諸法無我」とよく言われるように、あらゆる現象に実体がない、という立場を取るはずなのに、それでは、「輪廻」したり「解脱」したりする主体は何なんだ? という疑問が出てきて当然だと思います。
この点については、わたしが生半可な知識で論評するのは、控えさせてもらいます。みなさん、それぞれに考えてください。(今さらとぼけても遅いか。下のほうで、「まぎれこんだごみ」って、発言してしまいましたし…。)
わたしは、仏教でもキリスト教でも、経典を伝える人(僧)は、保守的であってほしいと思っています。「教祖はきっとこう言いたかったんだろう」というのは、一般信者が推測するべきことで、教えを伝える役の人が自分の解釈で経典をいじりはじめると、二千数百年もたつうちに、元がどうだったのか、わけが分からなくなってしまうからです。たとえば、大乗仏教諸派の教義は、ブッダのオリジナルの思想からは、別物と言っていいほど、かけ離れたものになっています。

新約聖書の写本
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月25日(日)20時38分

 新約聖書にある文書の多くは、イエスの死後数十年のうちに書かれました。その当時の原本はおろか、写本も残念ながら一部の断片(パピルス)しか残っていません。つい昨年のこと、ユダの福音書なる断片が発見されて、ユダはイエスを裏切ったのではなく、一番弟子だったという話のようですし、今までそのような福音書の存在は全く知られていませんでしたから、非常に興味があります。現在の新約聖書の元になった写本の最古のもの(羊皮紙)は4世紀のもので、何種類かあります。そして、もっと後の写本を含めると、非常に多種類の写本が存在し、それらの写本の比較研究を行い、原本の文章を科学的に類推するという学問を、「正文批判(テクスト・クリティーク)」と言います。写本によっては、同じ箇所で全く逆のことを言っている場合までありますから、この学問は非常に重要で、新約聖書に関しては20世紀に入ってから、格段に進歩しました。日本語で聖書を読む場合には、さらに翻訳という問題がありますし、新約聖書の原本で使われたギリシャ語と現代ギリシャ語にもまたかなりの隔たりがあるわけですから、原意を100%忠実に伝える聖書というのは存在しません。できる限り諸異読を併記したり注釈を施した聖書を読まなければ、本来の内容を正しく知ることは、困難なのです。プロテスタントの福音派(新改訳)やエホバの証人が使っている聖書(新世界訳)のように、かなり勝手な意訳を施した聖書というものも出回っています。今のところ最も正文批判が行なわれているのは、最近岩波書店から出た新約聖書で、注釈もかなり施されています。今までは新共同訳(プロテスタントとカトリック共同で翻訳したもの)が一番でしたが、これは注釈がほとんどないので、その点ではかなり不十分です。そしてカトリックのフランシスコ会の注釈付きの分冊ものも、正文批判を試みていて信頼性があります。
 イエスの復活については、最も古く書かれたと言われるマルコによる福音書では、イエスの死体が墓からなくなったことだけしか言及されていません。そこには復活のイエスに弟子たちが会うであろう、という未来型の言葉があるだけです。その後に続いて復活物語が付け加えられた福音書がずっと使われていましたが、これは古い写本には存在しないので、この部分は新共同訳聖書では括弧書きで加えられています。
 イエスの復活というのは、イエスの精神の復活に他なりません。それは弟子たちによって実現しました。多くの弟子たちが、イエスと同じように迫害され十字架にかかる道を歩んだのです。処女降誕もそうですが、肉体の復活や、昇天の物語は、イエスが神のひとり子であるという説明をするための、捏造以外の何物でもないでしょう。
 イエスが、ダビデの子孫から生まれると言い伝えられていたキリストであると説明するために、長たらしい系図の紹介で始まる新約聖書ですが、イエスがダビデの何代も後の子孫のヨセフの子であると書いたすぐあとに、マリアはヨセフを知る前に聖霊によって身ごもり処女でイエスを生んだという話があるのですから、こんな矛盾したアホらしいことを、信用する方がどうかしています。

基督抹殺論を読んで
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月26日(月)07時38分

 アマゾンから、注文した「基督抹殺論」すぐに送られてきました。同じ幸徳の「帝国主義」と中村元訳「ブッダのことば(スッタニパータ)」も一緒に来ましたが、今はまだ全部を読んでいる時間がありません。岩波文庫は、古典が安く読めるので重宝しますが、幸徳の文章は旧字体のままで、耶蘇基督(=イエス・キリスト)や希臘羅馬(=ギリシャ、ローマ)とか固有名詞もほとんど漢字ですし、文章も「吾人何の辭を以て辯す可き乎」なんて必要以上に漢字が多くて、少し読むのに疲れます。それでも、一応さっと目を通して読み流してみました。
 そこで、私の感想を述べます。幸徳は当時の最新の文献や研究成果をふまえ、聖書の記述が誤りだらけであること、キリスト教の教義が確立した時に権力の介入があったこと、三位一体の教義や十字架崇拝などは、キリスト教独自のものではなく、世界各地にある太陽崇拝、生殖器崇拝などからの借り物であることを明らかにして行きます。そして科学的唯物論の立場に立って、キリスト教を否定します。洗礼や処女マリア崇拝なども、キリスト教が否定する古代異教の遺物であることを明らかにして行きます。ここまでは、私も知らなかったことが多く書かれていて、よく調べ上げたと関心します。少しこじつけと思われるところもありますが、ほとんどはその通りといって良いかと思います。
 しかし、納得いかないのは次の点です。メシア(=キリスト)と称する人物が歴史上幾多となく登場しては消えていった事実がある中、イエスに関する記述は聖書以外の歴史的文献の中には、ほんの軽く触れられているだけであることをもって、イエスという歴史的人物は存在しなかったと結論付けるのです。しかし、これはどう考えても非科学的な態度です。イエスの公生涯と言われるのは、聖書の記述でもほんのわずかな年数であり、イエスの存命中において、イエスは小国ユダヤの中でさえ決して有名人ではなかったし、ましてや世界に知られる人物でなかったのは当然です。イエスが唯一の偉大なるキリストであったなら、もっと有名であったはずなどと考えるのは間違っています。それは、幸徳自身が否定していることですから、イエスを否定するために、自ら否定したことを持ち出して理由にしているようなものです。幸徳は、イエス=キリストが存在しなかったので、キリスト教は全くのでっち上げであり、これを信仰するのは愚かなことだと述べているのですが、この一番の前提が間違っているので、この書物自体は、彼の目的に反し(?)、キリスト教に対して全く打撃になっていません。日本における社会主義者としては、キリスト教を批判しても仕方がなく、本当は天皇制こそを撃つべきだったわけですが、そのために捕らえられ処刑される前に獄中で書くことを許された文章ですから、本当は天皇をこそ否定したかったという田中さんの意見は正しいと思います。
 本当にキリスト教を批判するのであれば、イエスというとるに足らない人物が、なぜキリストとされるに至ったか、そしてキリスト教信仰の本質について語らなければなりません。しかし、そのことにこの書物は触れていません。まだよく分かっていない原始キリスト教がどのようなものであったのか、そしてそれが権力によってどのように変質させられたのか、そのことが私にとって一番知りたいところです。 

仏教のテキスト・クリティーク
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月26日(月)11時14分

マッキーさん、ていねいな解説を、ありがとうございます。イエスは実在したけれども、当時の歴史家も記録しなかったほど、「とるに足らない人物」であった、というのが、真相のようですね。
中村元訳「ブッダのことば(スッタニパータ)」をお買いになったとのことなので、一言述べさせてください。
インド人には、物事をならべて整理するときに、大切なものから順にならべる習慣があります。「スッタニパータ」は、パーリ語で記録された5274ある経典の中で、5254番目に位置しています。これは、この経典は、あまり重要だと考えられてこなかった、ということを意味します。これに、「ブッダのことば」などと、まるでブッダの「代表作」のような日本語のタイトルをつけて出版するのは、何か「意図」があると勘ぐられてもしかたがないと思われます。
仏教のテキスト・クリティークの第一人者である松本史朗さんが、「仏教の批判的考察」という文章を書いています(溝口雄三他編『アジアから考える[7]』東京大学出版会、所収)。この文章によると、ブッダの思想の核心は縁起説であるのに、中村元は「仏教には特定の教義がない」、「仏教は現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとする実践哲学だ」などと言って、仏教以前からある宗教哲学と混同している、のだそうです。松本さんの結論は、「私は、『スッタ・ニパータ』は、仏教思想を説くものではなく、ジャイナ教的な思想を説く苦行者の文学の一種ではないかと考えている。」です。
中村の訳した仏教経典、中村の書いた仏教解説書を読むときは、松本さんの指摘を心にとめて、そうとうに用心して読んだほうがいいです。
仏教の原典的なものを読みたくなった人には、わたしは、片山一良訳『パーリ仏典長部戒蘊篇I』(大蔵出版)をお勧めします。この本の中には、パーリ語仏典の第1、第2、第3、第4番目に位置付けられた、重要な経典が含まれています。8500円もするので、図書館に頼んで取り寄せてもらうといいと思います。

ゴータマ・ブッダの本当の言葉はどのくらいあるの?
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月26日(月)12時09分

 パーリ語の経典だけで5274もあるとはびっくりですね。「ブッダのことば」の表紙に、「数多い仏教書の中で最も古い聖典」と書いてあったので、よほど重要なものかと思ってしまいました。阿含経が最も古いのだという話をきいたことがありましたが、阿含経にも色々あって、その中には必ずしも初期仏教のパーリ語の経典の漢訳ではないものもあるということで、複雑ですね。大乗仏典に関しては、これはずっと後代の経典ですから、歴史上のブッダの言葉からは、かなり遠ざかっているのでしょうか。ブッダの思想を知ることは、イエスの思想を知ることよりも、さらに難しそうに思えます。
 キリスト教において、かなり歪められてるとはいえ、イエスの直接の言葉を知ることができるのは、新約聖書の中の4つの福音書だけ(他にも偽典とされる福音書がいくつかあるが、さほど重要ではない)ですが、ブッダの本来の言葉と考えられるものを解説したような入門書みたいなものがあれば、教えていただけますか?

自分で見つけるしかない
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月26日(月)16時28分

ブッダは、文字を書き残していません。弟子たちはどうしたかというと、膨大な量のブッダの発言を、ひたすら覚えて、口伝えに伝えてきました。
ブッダの死後、現在までの間に、4回、おおぜいの僧が集まって、ブッダの教えの内容を確認し、整理する作業がおこなわれています。口伝えする過程で、書きとめられるようにもなっていくのですが、比較的早い段階(それでも、ブッダの死後 100年はたっていると思います)で書きとめられた経典の一つに、「スッタニパータ」があります。『ブッダのことば』の表紙に書いてあったという「最も古い聖典」というのは、そういう意味です。
ただ、早い段階で書きとめられたから重要なのか、と言えば、そうとも言えません。松本史朗さんは、「仏教の批判的考察」の中で、ブッダが、「スッタニパータ」にあるような、韻文(詩)の形で教えを説いたとは思えない、という意味のことを言っています。
仏教教団は、分派していきましたが、書き残された経典が、まとまった形で残っているのは、テーラワーダの部派が伝えるものだけです。伝えられていくうちに、ブッダの教えの大切な部分と矛盾するような内容がまぎれこんでくることもあったと思われますが、残されたものを手がかりにして、それを読むそれぞれの人が、ブッダの思想を推察するしか、ほかに方法がないようです。
仏教の解説書は、星の数ほどありますが、はずれているのが多いです。直接経典を読んで自分で考える、それも、重要だとされる頭のほうから順に、梵網経、沙門果経、アンバッタ経、ソーナダンダ経…、と読んでいくのが、迷わないですむ近道ではないかと思います。あ、あと、在家信者用の五戒を守ってみたり、慈悲の瞑想やビパッサナー瞑想をやってみたりするのも、いいと思います。
仏教入門書は… むずかしいですね。増谷文雄『釈尊のさとり』(講談社学術文庫)あたり、どうでしょうか。525円です。

参考書、追加
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月27日(火)09時16分

マッキーさん、
わたしは、経典を伝える人は、できるだけ保守的であってほしいと思っています。そして、そうやって伝えられた経典を解釈するのは、一般の人が持つ自由だと思っています。ですので、まずは、伝わっているとおり読んで、考えてみるのがいいと思うわけです。
テキスト・クリティークでいい仕事をしていると思うのは、先にあげた松本史朗さんと、袴谷憲昭さんです。「批判仏教」という方向性を示しました。同じ方向性も持つ人で異色なのは、ジョアキン・モンテイロさんです。『天皇制仏教批判』(三一書房)という本を出して、本来の仏教の立場から、日本の精神文化を批判しています。
仏教は、インドでは滅ぼされてしまいましたが、それを復活させようとした人がいます。B.R.アンベードカルさんです。思想的には、「それ、仏教か?」と、疑問を感じるところもありますが、弱い人のため、しいたげられた人のため、という心意気は、ひしひしと伝わってきます。マッキーさんは共感できると思います。彼の『ブッダとそのダンマ』という本が、光文社新書から出ています。

お邪魔します。お二人の会話はたいへんおもしろく、興味深いものです。
 投稿者:なかむら  投稿日: 3月28日(水)06時50分

特にテーラワーダ仏教というものを初めて知ったので、これから勉強したいと思います。突然ですが、お二人は浄土教、法然、親鸞についてどのようにお考えでしょうか?法然と親鸞は私の大好きな人物なのでお二人の考えを聞かせてください。

キリスト教の核心
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 3月28日(水)06時58分

 田中さんは、ブッダの教えの核心は、縁起説だと仰いましたね。では、イエスの教えを一言で言えば、何でしょうか。それは、「人を愛しなさい。神はあなたを愛しておられる。」ということだと思います。キリスト教は、愛の宗教とも言われます。この愛は、エロースではなくアガペーという、無償の愛です。仏教で言うところの慈悲という言葉に近いのではないでしょうか。
 イエスは、縁起というか、因果応報みたいなことを否定します。あなたの苦しみは、あなたの故ではない。あなたは罪人であるにも関わらず、神に許され、無条件に愛され許されている。というところから、すべてが出発するのです。だから、あなたも神と同じように人を愛しなさい、と説くのです。仏教において、親鸞の説いた悪人正機説は、ほとんど同じものであると私は理解しています。そういうわけで、私は浄土真宗には、非常に親近感を感ずるのです。イエスの教えと余りにもそっくりですから。
 親鸞の教えも、ブッダの言葉に、その源流を遡れるはずだと思うのですが、どうなのでしょうか。縁起説がブッダの教えの核心であるとすると、縁起説と悪人正機説は、矛盾しないのでしょうか? イエスは、「天国に入るために善行をする=戒めを守る」ということを否定しました。そもそも、天国も地獄も存在はしないのです。人間にとって必要なことは、神の国をこの世に実現することだけなのです。

仏教の核心
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月28日(水)18時36分

以下の見解は、わたし個人の考えで、テーラワーダ仏教とは、関係ありません。
仏教以前からインドに支配的だった宗教観念は、魂は清らかで、肉体は穢れている、という考え方でした。修行者は、苦行をとおして肉体を痛めつけて、魂だけになろうとしました。それに対して、ブッダの縁起説は、魂も肉体も、その他あらゆるものごとをひっくるめて、すべての現象が生起するしくみを説明しました。それが縁起説です。
縁起説の、いちばんまとまった説明の形は、十二支縁起といって、現象が生起するしくみを12の概念をたどりながら説明します。いちばん元の原因としては、「無明」というものをあげます。無明というのは無知ということですが、何についての無知かというと、この縁起説についての無知だ、ということになります。ここが、入れ子構造になっているのが、ミソです。すべてのものごとが、何か実体的な根源のようなものから発生した、とは考えないのです。
仏教を理解するときにポイントとなるのは、仏教は、悩みや苦しみをなくすことを目的としている、ということです。三法印と呼ばれるものがあります。これは、ある考え方が仏教であるかどうかを判定するための、3つの基準です。この3つの要素が含まれていれば、その考え方は仏教だと言えます。3つの要素とは、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」です。
最後の「一切皆苦」に注目してください。現象する物事で、苦でないものは何もない、と言っています。
仏教の用語に、四苦八苦という言葉があります。生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の8つのことを言います。現実世界は、苦しみであふれています。仏教では、楽というのは実体ではなくて、苦の一時的な空白にすぎない、と考えます。
仏教では、縁起という言葉は、縁滅という言葉とセットにして使われます。無明を原因として、この苦しみに満ちた現象界が結果しています。これが、縁起の説明です。最初の無明を滅すれば、言い換えれば、上で説明した縁起説を理解すれば、この現象界が滅して、苦しみも根源的に滅することになります。これが縁滅の説明です。
長くなるので、十二支縁起の12の概念の漢訳の名称と、一般的な現代語訳だけを、紹介しておきます。くわしいことは、解説書を読んでください。
無明(無知)→行(潜在的形成力)→識(識別作用)→名色(名称と形態)→六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の6感官)→触(接触)→受(感受作用)→愛(渇愛・妄執)→取(執着)→有(生存)→生(生れること)→老死(老い死にゆくこと)
十二支縁起の第8支が「愛」と訳されていますが、原語は「渇き」という意味の語です。仏教では、愛は、渇きのような、根源的な衝動であって、苦しみの原因と考えられています。ただ、これを滅するために、ジャイナ教の苦行者のように、「穢れた」身体を傷めつけるようなことはしません。ブッダは、縁起説を理解すれば、すべての悩み苦しみが滅すると、教えています。
法然については、阿弥陀如来に頼んで、死んだ後で、浄土に行かせてもらって、そこで仏教を学んで、やがて苦しみを滅することができるという、二段階式の救済説いたと、わたしは理解しています。土着の浄土信仰と、仏教を接合した考え方です。法然自身の仏教理解がどのようなものであったとしても、一般の信者に向かって仏教のことをほとんど語っていない点から考えて、法然は、わたしには、面白みに欠けるように感じられます。
親鸞については、阿弥陀如来を念じたそのときに、すでに救われていることに気づく、という考え方を説いたと、わたしは理解しています。マッキーさんが指摘されていますように、現実を苦しみのない世界にしていこう、とする考え方だと思います。でも、どうして阿弥陀如来を念じるだけでそれが可能になるのか、わたしには理解できません。
法然にもありますが、親鸞の「悪人正機」に端的に表れている平等主義は、仏教の平等主義を継承しているとは思います。しかし、平等主義は、仏教だけが主張するものではありませんし、仏教の中心思想でもありません。
ついでに言うと、法華経信仰も、親鸞の方法論の「南無阿弥陀仏」を「南無妙法蓮華経」に置き換えただけのもののように、わたしには思われます。法華経は、はまる人は、激しくはまるみたいです。わたしも現代語訳をざっと読んでみましたが、何が面白いのか、分かりませんでした。法華経の中で法華経を自己宣伝しているあたりで、しらけてしまいました。
というわけで、なかむらさん、すみません、たなかは、法然と親鸞のよさが、よく分かっていません。どのへんがいいのか、教えていただきたいです。
マッキーさん、原罪については、どのようにお考えですか。

訂正
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月29日(木)04時47分

すぐ下に、「以下の見解は、わたし個人の考えで、テーラワーダ仏教とは、関係ありません」と書いたのですが、正確に言うと、「以下の見解は、テーラワーダ仏教に基づいていますが、これが仏教の核心だ、とするのは、わたしの解釈ですので、そのことは、テーラワーダ仏教とは関係ありません」となります。訂正します。
縁起説は、パーリ語仏典ランキング第1位の「梵網経」にも出てきます。「生起」「消滅」の語も出てきます。それ以外の仏典にも、繰り返し出てきます。仏典の中には、ブッダでなくても言いそうな、常識をなぞるだけのような記述もありますが、縁起説のような考え方は、他のだれも言っていないので、これこそブッダのオリジナルの思想なのだと、わたしは考えます。
中村元訳『ブッダのことば』が、5254位の「スッタ・ニパータ」の訳だということには先にも触れましたが、中村訳で同じ岩波文庫で出ている『ブッダの真理のことば感興のことば』は、5261位の「ダンマパダ」と、5262位の「ウダーナ」の訳をいっしょにした本です。また同様に、『仏弟子の告白』は、5257位の「テーラーガーター」の、『尼僧の告白』は、5258位の「テーリーガーター」の訳です。中村は、ランキングの後ろのほうの、あまり重要とされてこなかった経典群を選んで訳しているのが分かります。
日本語のタイトルのつけ方もおかしいです。「スッタ・ニパータ」が、何で『ブッダのことば』になるかなあ。『尼僧の告白』なんて、ポルノ小説じゃないんだから。「ガーター」は「告白」ではないだろ。
中村は、無知で間違えているのではなくて、よく分かった上で、わざとああいうことをしているので、「困ったちゃん」なのです。中村のような人が、仏教の中に非仏教的な要素をまぎれこませてきたのだと思います。
お坊さんとか、研究者とか、時間をかけられる人は、5274巻のパーリ語の仏典を全部読めばいいのですが、一般人はそうもいかないので、重要だとされて伝えられてきた、ランキング上位の経典から読んでいくのがいいと、わたしは思います。

なるほど、仏教あるいは宗教全体の中での法然、親鸞の位置付けというのは考えたことがなかったです。
 投稿者:なかむら  投稿日: 3月29日(木)09時57分

私は法然、親鸞それぞれの人生と二人の師弟関係が好きです。親の仇討ちという凄まじい憎しみとたたかいつづけた青年法然、真理をきわめようとしつつも煩悩に悩みつづける青年親鸞。先日、子供たちと人形劇『桃太郎』を創りましたが、テーマは仇討ちで法然の青年期をモデルにしたものです。(前回は仏弟子キサー・ゴータミーの物語『芥子の実』を演劇にしました)私は仏教と浄土信仰との関係がイマイチ理解できていないので、法然と親鸞の位置付けを意識しつつ勉強したいです。またキリスト教と浄土真宗との類似についても整理したいと思います。

ブッダは保守的か?
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月30日(金)02時10分

少し挑戦的なタイトルにしましたが、田中さんが経典を伝える人は保守的であって欲しいと述べられた意味が、あまりよく分かりません。テーラワーダ仏教というのは、ブッダの死後に仏教が上座部と大衆部に分かれた時の前者を引き継ぐものであり、南インドからスリランカを中心にして、タイやビルマなどに伝わった教えであると理解してよろしいでしょうか? 中国や日本に伝わった大乗仏教は、上座部仏教を小乗仏教という蔑称で呼び、ブッダの教えはもっと違うものであったと考えて、多くの経典を作ったのではないかと思います。法華経なども、そのようにして後世に作られたものだというのが、テキスト・クリティークの結論であろうかと思いますが、日蓮はパーリ語の経典にはない(?)法華経こそ仏教の核心であるとしました。
 田中さんは、早い段階で書かれたからといって、重要だとは言えないと仰いましたが、だとすると、何をもって重要度を決定するのでしょうか? 大乗仏教の経典よりもパーリ語の経典が重要なのは、早い段階で書かれたという以外に理由があるとすると、それは何でしょうか? また、テーラワーダ仏教において定めた重要度(順番)というのは、ゴータマ・ブッダの思想への接近度と言い切れるのでしょうか?
 まだ仏教についてかなり無知な私が、分かったようなことは言えませんが、中村元氏の「ブッダの言葉」のあとがきを読む限り、テーラワーダ仏教において余り重視されていなかった「スッタニパータ」という経典をこのようなタイトルで翻訳した彼の意図は、明確に示されています。この経典が、歴史的に最も早い段階で書かれた経典と考えられるからであり、ゴータマ・ブッダ本来の思想を知る手がかりになると考えたからです。それ以外の「意図」があるのでしょうか? 田中さんが勘ぐりたくなる「意図」というものが分からないので、もしあれば教えていただけるでしょうか。
 キリスト教においては、新約聖書の4つの福音書が、イエスの言葉を今に伝えているわけですが、そのうちで「マタイによる福音書」が、新約聖書の一番最初に置かれて、伝統的には最も正統的な教えとされてきた経緯があるわけです。それに対して、最近の研究では最も初期に書かれたことが分かっている「マルコによる福音書」は、どちらかというと余り重視されて来なかったのです。しかし、テキスト・クリティークによれば、4つの福音書のうち「マタイ伝」、「マルコ伝」、「ルカ伝」の3つは、どれも同じ資料(発見されていないので、Q資料と呼ばれる)に基づいていて、イエスの死後にそれぞれの宣教意図をもって書かれたものです。マルコ伝は、最も古く書かれたとはいえ、すでに初期キリスト教成立以降に書かれており、しかもその初期教団を批判する意図を持っており、イエスの真実の姿を知らせようとして、この福音書を書いたのだということも読み取れます。マタイの方は、ローマ帝国内にいるユダヤ人向けに、ユダヤ教を否定せずに超克するような形で書かれています。ですから、これはもうイエスの言った言葉を、本来の意味をほとんどねじ負けて、都合の良い教えを説くために、こねくり回してとんでもないものにしてしまっています。ルカ伝の方は、イエスの言葉は、一番本来のものに近いと私は感じるのですが、神のひとり子として生まれたイエスが人類の罪を贖うために十字架にかかったのだというパウロの思想に基づいて、かなり脚色している面が否めません。新約聖書の後半のパウロが書いたものが、実は新約聖書の中で最も古いのですが、彼はイエスが何を言ったかとか、何をしたかということには全く関心がなくて、そしてもちろん生前のイエスに会ったこともないわけで、元々はキリスト教の迫害者であったわけですが、劇的な回心をした後に、ただただイエスをキリストと宣べ伝えるためにあれだけ多くの文章を書いたというわけです。
 ゴータマ・ブッダもイエス・キリストも、書物を残しませんでした。彼らは、宗教をつくろうとしたのでしょうか? 彼らは、既存の宗教を否定したのです。彼らは、全く保守的ではなく、革命的でした。そして、弟子はたくさんいましたが、新たな教団を作ろうとしたのではなく、救いに至る生き方を説こうとしただけであると思うのです。それを、後世の教団が、色々な教義を作って、また彼らが否定したはずの宗教の遺物をいっぱいくっつけて、保守的な宗教にしてしまったのです。違いますか?(つづく)

キリスト教と仏教の違い
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月30日(金)08時05分

 キリスト教の信者になる儀式で、水による洗礼(バプテスマ)というものがありますが、イエスはこれを聖書の中でも明確に否定しているのですね。それなのに、キリスト教会では、この儀式をどこでもやっています。クリスマスなんかは、ユダヤの農業のお祭りである過ぎ越しの祭りとイエスの誕生日を、くっつけたものです。洗礼はイエスの教えとは何の関係もないし、イエスの誕生をクリスチャンが祝うのは当然としても、クリスマスは史実に基づいたものではありません。
 仏教とキリスト教は、本質的に何が違うのでしょうか? 唯一絶対の神を認めるかどうかという違いなのでしょうか。真言密教における大日如来というものは、キリスト教の神に近いものです。少なくとも、八百万の神々とは全く違います。だから、江戸時代一番最初に聖書を日本語に訳したとき、創世記において天地創造を行なったのは「大日」様だったのです。キリスト教の神は、神道の神よりは仏教の仏に近いものです。大日如来が父なる神であるとすれば、釈迦如来や阿弥陀如来というのは、神のひとり子なるイエスであり、再臨のキリストであるわけです。こんな風に、色々な宗教の共通点をみつけて、くっつけてしまう新宗教はたくさんありますが、私はそんなことをしようとは思いません。
 ブッダもイエスも、生き方を示したのです。しかし、この二人は、大分違います。王子として生まれたゴータマと、大工のせがれのイエスでは、所詮違うわけです。おっとり型のブッダと、気性の激しいイエスというのは、生まれつきの性格もあるかもしれませんが、環境の違いが大きいと思います。イエスも最初は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、修行もしたりしたのですが、そういうやり方にはついて行けなかった。イエスは、とにかく宴会好きなんです。イエスが譬え話で語る神は、まじめな息子には何もしてやらず、散々心配をかけて放蕩三昧してきた息子を暖かく迎え入れるだけでなく、彼のために大宴会を開いてやるんです。これは、ちょっとやり過ぎですよね。まじめな息子がスネるのは、あまりにも当然です。でも、イエスは、まじめに戒めを守る人間よりも、罪を悔いて心を開く人間の方がよいと、悟っていたのですね。イエス自身が、思想を大乗化させたのです。
 私は、テーラワーダ仏教がどのようなものか、まだほとんど分かっていません。ブッダの教えがどのようなものだったかも、余りよく分かっていません。人々を悩みや苦しみから解放させようという目的を持っていることは間違いないでしょう。イエスもブッダも、教祖とされる以前より、当時の苦難の中にあった多くの人を救っていたのです。イエスは、教えを説いただけでなく、病気を治癒したことが聖書に書かれています。現代では、治療行為は宗教の範疇ではなく、医療によってなされるべきこととされ、そのようなことをする宗教は御利益宗教といって低く見られる傾向もあるわけですが、当時においては珍しいことではなかったでしょうし、苦しみからの解放ということで言えば、立派な宗教的な行為であると言えなくはありません。キリスト教に、そういうことをやるのは少ないのですが、アメリカにはクリスチャン・サイエンスといって、予防接種や外科手術などを拒否してスピリチャル・ヒーリングで治癒させるという新宗教があって、結構大きな組織です。でも私には、こういう宗教を信用することはできません。病気の原因が、精神と不可分であることは認めます。だから、宗教によって病気を治すことも不可能ではないでしょう。しかし、科学的な治療を拒否することで、治るはずの病気を治せなくなることの方が多いと思いますから、宗教により科学を否定することは、どうかと思います。
 話が随分と長くなり、とりとめがなくなりました。とりあえず、もう少しブッダと仏教についても、勉強してみます。

キリスト教と浄土真宗との類似
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月30日(金)10時46分11秒

なかむらさん、(中村元とまぎらわしくて、ごめんなさい。)
法然、親鸞の生きざまの、人間的な魅力、ということですね。それは、分かります。
わたしも以前、祖父江省念さんの節談説教で、カセットテープで発売されていた「親鸞聖人御一代記」のシリーズで、法然と親鸞の師弟関係の味わい深いことについては、よく聞いていたものでした。
キリスト教と浄土真宗との類似については、そもそも浄土思想がキリスト教をベースに作られたものなので、似ていて当たり前なのです。
わたしは歴史にうといので、間違っているかもしれませんが、浄土思想の起源は、1世紀半ばから3世紀前半にかけて、インドから中央アジアにかけての地域で作られたのではないかと思います。クシャーナ朝は、王朝の成立構造的な性格があるのでしょうか、諸文化に対して折衷的な態度をとりました。キリスト教のエデンの園や、インド・イラン・ギリシャの神話なども取り入れて、浄土のイメージが作られました。
死後に浄土といういいところに行かせてもらう、というだけならば、仏教とは関係ないのですが、環境のいい浄土で仏教を教わると、飛躍的に理解が進む、というふうにうまく接続すると、ちょっと仏教っぽくなるわけです。
浄土思想は、仏教からも、色いろな要素を取り入れていますが、仏教の核心的な思想が伝わっていないという意味で、わたしは仏教の本筋からははずれている、と考えます。死後に浄土へ行けると説く法然はともかく、親鸞のように、阿弥陀仏を念じたら即救われてしまうというのでは、仏教の出番がなくなってしまいます。

いいかげんな革新より、まじまな保守のほうがずっといい
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 3月30日(金)10時48分

マッキーさん、わたしも挑戦的なタイトルをつけてみました(笑) わたしが釈尊を尊敬するのは、彼が、縁起説を核心とする独自の思想を考えついて、それをわたしたちに説いてくれたからです。釈尊をやみくもに、神のようにあがめているのではありません。そして仏教の教義は、神を想定していません。
釈尊が亡くなってから100年ぐらいたつと、仏教教団に分派が起きます。釈尊の名声を利用しようとする人が現れてきたのです。分派した人たちが一般信者を自分たちにひきつけようとしたときに、主流派との違いをアピールするために、非仏教的な、伝統的な土着信仰の要素を取り入れたのだと、想像します。そして、土着信仰の要素と矛盾することの少ない、「スッタニパータ」のような経典を選んで、これこそ「ブッダのことば」だとまつりあげ、注目させたのだと思います。そのころ、それらの経典が書きとめられるようになりました。
縁起説の内容に触れていない経典は、仏教の主流派からすれば、あまり重要ではありません。書きとめられた時期が早いから重要な経典だ、とは言えないのです。ブッダの思想の核心部分を後世に伝えたくない、できればなかったものにしたいと考える人たちは、仏教徒を名乗りながら、非仏教的なことばかりを宣伝します。中村元も、「仏教には特定の教義がない」とか「仏教は現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとする実践哲学だ」とかいったことを、繰り返し言い続けていました。
マッキーさんのご質問の、「保守的」という言葉については、評価する基準によって、意味が変わってきます。仏教は、それ以前の伝統的な土着信仰に対比すれば、すぐれて革新的ですが、仏教の主流派は、仏教を革新すると称して現れた分派に対比すれば、保守的です。そして、この場合、保守的であることが正しいのです。なぜらなば、保ち守る対象である釈尊の思想が正しいからです。テーラワーダには、まとまった形で書き残された経典が残っていますが、他の分派には、断片しか残っていません。つまり、分派たちは、最初から自分たちに都合のいいところだけしか利用しなかったのだと思います。
いわゆる「大乗仏教」も、時代はだいぶ下りますが、おおざっぱに言えば、分派の一種と考えてかまわないと思います。ただ、釈尊の思想に触れていないものまで「仏教」を名乗るというのは、いかがなものかと思います。自分たちに都合が悪い思想を「小乗」などと呼んで一方的におとしめるのは、みずからの思想の脆弱性をおおいかくそうとする、強がりの行為だと思います。権威に弱い人は、この手の、威勢のいい(がらの悪い?)宗教にひっかかるものです。
マッキーさんのご質問の、仏典の重要度についてですが、「梵網経」「沙門果経」…といった、圧倒的分量を占める散文の経典と、「スッタニパータ」「ダンマパダ」といった少数の韻文の経典を読み比べてみれば、どちらが釈尊の思想をよりよく伝えているかは、すぐ分かると思います。後者は、全経典の中にあって、非常に異質なものです。松本史朗さんの言葉を繰り返しますが、「『スッタ・ニパータ』は、仏教思想を説くものではなく、ジャイナ教的な思想を説く苦行者の文学の一種ではないか」ということです。
マッキーさんは、「あなたの苦しみは、あなたの故ではない。あなたは罪人であるにも関わらず、神に許され、無条件に愛され許されている。というところから、すべてが出発するのです。」と、さらっと言っておられますが、何でわたしは罪人なのですか。イブがアダムに知恵の実を食べさせたというお話は、どういう意味を持つのでしょうか。キリスト教になじみのない人が聞くと、びっくりすると思いますが。

縁起説を、噛み砕いて教えてください。
 投稿者:マッキー  投稿日: 3月30日(金)12時47分

 浄土思想がブッダの思想とは関係がないということは、よく分かりました。全く同様に、イエスの思想とも関係がありません。イエスは天国など認めていないし、終末思想は遠い未来のことを予言したものではありません。
 縁起説は、私にはまだちょっと難しくて分かりません。一方、原罪と赦しということは、私にはすんなりと理解できます。もしかして、無名(無知)というのは、原罪のことではと思ったりもします。キリスト教で言う罪は、この世的な犯罪のことではありません。神から離れた状態のことを言うのです。完全な神から比べれば、どんな人間も不完全であり、必ず過ちを犯すものです。それを罪と言っているだけであり、人はすべて生まれつき地獄に落ちるような悪人であると言っているわけではありません。
 アダムが、イヴにそそのかされて罪を犯したという話は、神話に過ぎませんし、女性蔑視の要素もあるわけですが、知恵の実を食べようとしたということは、神に逆らって、自分が神のようになろうとしたという、罪の本質を表わしています。そして、その報いがエデンの園を追われて土(アダーマ)を耕さなくてはならなくなったという話は、文明論的な罪というものの象徴です。つまり、アダム以前の人類(聖書においてアダムは最初の人間であるが、楽園追放の神話は、それ以前の未開人=農耕を主としない先住民から、農耕主体の民族が誕生したことを象徴している)には、文明論的には罪がなかったのです。つまり、アダムが罪を犯す前の罪のない人類(先住民)は、神の創った楽園という生態系の中で、狩猟採取を主体としてエコロジカルに永続的循環的に生きてきたのです。つまり神から離れない罪のない状態だったと言えます。それに対し、アダムは神の創った生態系を逸脱した農耕文明を作り、さらに都市国家を作り出し、階級社会を作り、産業革命を生み出し、大規模な戦争や環境破壊を行なうような、神から大きく離れた罪深い文明を作り出して行ったのです。そのような文明に対し、神はノアの洪水や、ソドムやゴモラの滅ぼし、そしてエルサレムの滅亡、ヨハネ黙示録の審判(これはローマ帝国の滅亡を預言したものに過ぎない)など、裁きを行なったと考えるのが、ユダヤ・キリスト教的な考え方です。キリスト教でいう罪は、そのような文明論的な罪と、個人の倫理的な罪がごちゃまぜになっていますが、それらは決して不可分のものではないので、どちらも罪は罪です。
 どんなに修行しても、神のように完全になることはできません。だから、キリスト教では、人間はすべて罪人であると考えます。救われるためには、自分の努力によって罪を克服するのではなく、神にすべてより頼む、ということを重要だと考えるのです。ユダヤ教でいう神という概念は、創造主であり、自然や社会を支配し、裁きを下す存在です。しかし、イエスは恐ろしい父としての神ではなく、罪人を受け入れ、最も小さい者を慈しむ優しい存在としての神を示してくれました。イエスは父なる神と言いましたが、父でもあり母でもあるような神です。私は、そういう神の存在を信じることが、よりよい生き方、そしてよりよい社会の実現に繋がると信じていますし、もし神が存在しなくても、決して後悔はしないと思います。

田中さん、ありがとうございます。概要がつかめました。
 投稿者:なかむら  投稿日: 3月30日(金)16時27分44秒

田中さん、牧野さん、お二人の会話・対論はほんとうにおもしろいしスゴイです。宗教の核心、釈迦とイエス、ブッダとキリストの真実に迫るようで読んでいてドキドキします。対論集を出版するべきですよ! たいへん失礼ながら、田中さんとは何者なのですか?(ほんとうに失礼な言葉ですみません)お二人のおかげでこの数週間、私の宗教に対する考えが飛躍的に進歩しました。
これからもいろいろ教えてください。よろしくお願いします。対論の最中にお邪魔しました。

 

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