宗教論争その4(掲示板 2007. 4. 10.〜4. 17. web only)
 
    田中氏の一神教(キリスト教)に対する拭い難い不信感と、一神教(キリスト教)の正当性を主張しようとするマッキー(私)。かなりすれ違いの多い論戦になって来るが、すれ違いの原因をはっきりさせようと、言葉の意味するものを厳密にしようと試みる。

必然に従うことには何の必然もない
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月10日(火)09時35分

   これ↑は、釈尊ではなくて、エピクロスの言葉です。
 王朝の正統性を根拠づけるものに、神話があります。神話というものは、人びとが社会を形成して生きていくための拠り所として、「作られた」ものだったのでしょう。ですから、わたしたちは、自分たちの社会のありように責任があるのと同じように、その社会を根拠づける神話に対しても、責任を持つ必要があります。問題は、一度作った神話は、なかなか変更しにくい、ということです。アンベードカルが、「神や霊魂を認めることは宿命論につながるとし、そのことが社会的不平等を認め、社会の変革を阻害する」と言ったのは、そのような事情をふまえてのことだったのだと思います。マッキーさんならば、「ほんもの」の神だけは例外だ、と主張されると予想しますが、今は、あくまでも一般論としての話をしています。数ある神がみのうち、どれが「ほんもの」であるかは、少なくとも、わたしには判別できません。釈尊は、「絶対的なもの」を想定しないで、しかも平和的な社会生活をおくれる方法を考えて、仏教という理念と、出家僧と在家信者によって形成される社会形態を創案しました。
 怒りにまかせてした行為が、よい結果を生むことはありません。何が問題なのか、どうしたら解決するのか、それを冷静に、知性的に考えて行動したほうがいいと思います。イエスのくだんの行動にしても、「神殿で商いをする人」というのがどういう人か、わたしにはよく分かりませんが、そのような問題が解決したわけではありませんでしょう? わたしからすると、イエスと、それにならおうとする人たちの行動は、神という大きな権威の威を借りて、小さな権威に当り散らしているだけのように思えます。ストレス発散ですか。
 紛争がはじまるきっかけは、たいていの場合、その紛争を望む側が仕掛ける陰謀です。「敵」が、ある日突然、何かとんでもないことをしてきた、けしからん、仕返ししてやれ、というわけです。戦っている人たちは、どちらの陣営も、自分たちは正義だと信じているのです。そんなことで傷つき、命を落とすのは、ばかばかしいことです。どんな理由があっても、人殺しはよくありません。紛争に巻き込まれないためにも、そして、紛争が起こる原因をなくすためにも、日頃から感情的にならない、落ち着いた精神生活をおくる習慣をもったほうがいいと思います。
 感情を滅っするというのは、怖ろしいニヒリズムではないか、というご指摘は、感情を喜びとして、感情を拠り所として生きている人からすれば、そのとおりだと思います。逆に、感情に振りまわされて、感情に傷めつけられている人からすれば、感情の滅は、救いと感じられるだろうと思われます。
 なお、感情を滅っするというのは、最初の原因にまでさかのぼって消す、なくす、ということで、感情を押さえつけて殺そうとすることとは、まったく違います。

> 無限の欲望はよくないが、人間にとって最低限必要な欲望というものもある。食欲を失えば、栄養失調で死ぬだろうし、性欲を失えば、子孫を残せなくなるだろう。そのような欲望まで、滅しなくてはならないのだろうか。

 欲望に従って食べるのではなくて、食べる必要があるから食べる、と考えればいいのではないですか。以前、ちょっと用があって、市ヶ谷にある日本山妙法寺を訪ねたことがありました。妙法寺は、法華経系の宗派で、大乗なのですが、生計の立て方は托鉢だけに依っていて、テーラワーダと同じという、変わったお寺です。そのときに、わたしが、「托鉢に回って、何ももらえなかったら、どうするのですか」と、質問したのですが、住職さんの答えは、「何も食べません」でした。「もし、ずっと何ももらえなかったら、どうするのですか」と、意地悪な質問をしたのですが、住職さんは、ほほえみながら、「そのときは、死ぬだけです」と答えました。
 子孫を残すことに関してもそうです。在家信者には、子どもを作ることを禁じていませんから、必要に応じて作ればいいのです。必要とされて生れてくるほうが、欲望に従った結果として生れてくるよりも、生れ方としては幸せな気がします。出家僧でも、必要があれば、一時還俗(げんぞく)すれば、子どもを作ることができます。そんなことよりも、「子どもがいなくてはいけない」という考え方や、自分の子どもに対して、「わたしの」子どもである、という思いを強くいだくことのほうにこそ問題がある、とわたしは思います。
 マッキーさんは、罪=人間の倫理的な不完全さ、という考えを繰り返されています。もちろん、人間は間違えますが、考えて、その間違いを正す能力も、人間には備わっています。わたしは、そういう、人間の知性的な能力に、希望を託したいと思います。最後まで、あきらめたくありません。

滅すること・精神分析・憲法改「正」
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月11日(水)11時38分

 仏教というのは、がまんしろとか、辛抱しろとか、そういうことを言う宗教ではないのですが、マッキーさんは、「貧乏人は麦を食え」と一緒にしておられます。間違ったこと、無駄なこと、苦しみの元になることをしなくなるから、結果として、浪費しなくなる、ということなのですね。
 縁起説が分かりにくいとのことなのですが、精神分析のことを思い浮かべると、分かりやすくなるのではないかと思います。精神分析では、自分の無意識を理解する(意識化する)と、神経症の症状が消える、と言います。縁起説では、ものごとが生起する原因とプロセスを理解すると、そのものごとが滅する、と言います。精神分析の考えの適応範囲を限界まで広げて、理論的に徹底させたようなものではないでしょうか。
 精神分析の考え方で近代の歴史を分かりやすく読み解くことで定評のある岸田秀さんが、きょうの東京新聞で、一神教のことや、日米関係のことについて語っていますので、リンクを貼っておきます。

一神教とは何か?
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月11日(水)23時18分

  私は、岸田氏の言っていることの、かなりの部分に同意できる。憲法は改正すべき(どこを改正すべきかということは別問題)だが、現在の日米安保という不平等条約の下で九条を変えれば、自衛隊は米国の傭兵と化する。従って、現時点での改正には反対ということは、その通りであると思う。
  しかし、正しいかどうかではなく、押し付けられた憲法だから変えるべきだという考え方には同意しない。また、彼には一神教というものが、多様性を認めず排他的なものであるという認識があるようだが、私はそこにも異論を唱えたい。私の認識においては、一神教というものは、つきつめるところ、唯一の神以外の権威を一切否定する思想である。戦前の天皇制というものは、擬似一神教であると同時に、一神教の思想に真っ向から逆らう思想であると言うべきである。
  田中氏は、キリスト教というものが、より大きな権威の威を借りて、小さな権威に当たり散らしているようなものだというが、より大きな権威なのではなく、絶対的な権威のみを認め、それ以外の権威を一切認めない思想と言わなくてはならない。そのような絶対的な権威というものは存在しないという考え方が、田中氏の考え方であろうし、仏教の根本思想なのだろう。いつまでたっても、この議論は堂々巡りであるけれども、そのような絶対的権威(=神)は、存在しないかもしれないが、存在するかもしれないのである。
  私は、唯一の神という存在は、神以外の権威を否定するためだけに必要なのだと思っている。これこそが神だと言って押し付ける思想や宗教すべてを否定する力を持っているのである。私に言わせれば、排他的である神は、すべて偽りの神であって、唯一の神ではないのだ。これは、パラドックスのようなものであるが、信じるものだけを救ったり、差別をするような神は神ではない。私の信じる神は、真理という言葉の別名である。
  必然に従うことには、何の必然もない、という理解困難なパラドックスのようなエピクロスの言葉に、私も賛同をする。常に科学的であるべきだということは絶対に正しい真理だと言えるが、科学の力を信じることは、決して科学的ではないと私は言いたい。

矛盾点
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月12日(木)01時44分

 マッキーさんが、ご自身で矛盾点をまとめてくださったので、確認しておきます。

(引用はじめ)
私は、唯一の神という存在は、神以外の権威を否定するためだけに必要なのだと思っている。これこそが神だと言って押し付ける思想や宗教すべてを否定する力を持っているのである。私に言わせれば、排他的である神は、すべて偽りの神であって、唯一の神ではないのだ。これは、パラドックスのようなものであるが、信じるものだけを救ったり、差別をするような神は神ではない。
(引用終わり) 
整理すると、
 ● 唯一の神は、それ以外の権威を否定する
 ● 唯一の神は、それ以外の思想や宗教を否定する
 ○ 排他的な神は、唯一の神ではない
   → 唯一の神は排他的ではない
 ○ 信じる者だけを救ったり、差別をするような神は、唯一の神ではない
   → 唯一の神は、それを信じない者も救う 
   → 唯一の神は差別しない
となります。
●と○が矛盾しています。これらが矛盾でなくなるような説明をしていただくことはできないのでしょうか。
エピクロスの「必然に従うことには、何の必然もない」という言葉には、直前に、「必然は悪である」という短い一文がついています。この言葉には矛盾はありません。いわゆる「必然」とされて押し付けられてくるものに従う必要はない、と言っているのです。必然を押し付けてくるやり方を逆手にとって、のしをつけて返しているわけです。

> 常に科学的であるべきだということは絶対に正しい真理だと言えるが、科学の力を信じることは、決して科学的ではないと私は言いたい。
 これ↑は、何をおっしゃりたいのか、判然としません。科学という方法が有効だと信じるから、科学的でいるのではないのですか。
 マッキーさんは、「ほんもの」を求めて、信仰を純化していらっしゃるように見受けますが、それにもかかわらず、「キリスト教徒」であり続けることができる理由は、何ですか。また、多くの「にせもの」の「キリスト教徒」のふるまいについて、同じ「キリスト教徒」として責任を感じることはあるのでしょうか。

矛盾ではない
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月12日(木)07時46分

  矛盾のように感じる、それを私はパラドックスと言ったのですが。それが矛盾でなく真理であることを理解するためには、言葉の意味が、使う場所によって微妙に異なることに気付かなくてはなりません。
  つまり、エピクロスの「必然に従うことは、何の必然もない」という言葉においては、最初に必然と言っているのは「必然と言っておしつけられてくること」という意味であり、後者の必然は「本当に必然」であって、全く同じではありません。だから、矛盾していないのです。
  田中さんは、私の論点を4つに整理しましたが、2つ目の「唯一の神は、それ以外の思想や宗教を否定する。」という風には、私は言っていません。あとの3つは、その通りです。私は、「唯一の神という存在は、神以外の権威を否定するためだけに必要だ」と言ったのであって、思想や宗教を否定するための存在ではない、と考えます。もちろん、思想や宗教が、唯一の神以外の何らかの権威に基づくのであれば、当然それを否定することもあるでしょう。しかし、あくまでも否定するのは権威であって、思想や宗教そのものではない。だから、排他的ではないのです。ここでの「排他的」という言葉は、思想や宗教に対してです。権威に対してではありません。だから、矛盾してはいないのです。
 「科学の力を信じることは、科学的ではない」という言葉はつまり、「科学ですべてが解決できると信じることは、正しい考えではない」ということです。常に科学的であろうとする「姿勢」は正しいと思いますが、それによって解決できないことも、非常にたくさんあると思います。現実の社会においては、科学的かどうか分からないけれど、判断を下さなければならないということが、いくらでもあります。その時に、何をたよりに判断するのか、それが私にとっては「唯一の神」です。それは、私の良心に訴える直感のようなものであって、決して科学のように分析を試みた結果の理論ではありません。
 私は人類が、原子力や遺伝子組み換えのような技術を使うことに、賛成しません。それは、人間が決して科学的に判断を下しうる存在であると信じていないからです。つまり、人間に、そのような技術を使う能力が備わっているとは思わないからです。化学農薬を使わないのも、それが安全だとする科学者の判断を、決して科学的とは思わないからです。科学的であろうとすることは正しいことです。しかし、科学的になれると信じることは科学的な正しい考えではないと思います。

なるほど! 矛盾ではないですね
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月12日(木)11時56分

やっと分かりました。確かに矛盾ではありません。聞いてみるものですね。
 要するに、神の権威に反しない限り、神は誰でも(神を信じない人まで)救うし、差別もしない、ということですね。国家神道が、みずから「神道は宗教にあらず」としたのと同じです。天皇の権威に反しない限り、どのような宗教も思想も共存できましたし、平等に保護されたのでした。神道は宗教ではないので、共存しても矛盾しないのだそうです。
 マッキーさんは、天皇教は「にせもの」だと思われるでしょうし、天皇を唯一の神と同列に扱うことを不謹慎だと思われるでしょうが、わたしからすれば、両者の違いは本質的ではなくて、たんに現在、優勢であるか劣勢であるかの差にすぎないと思われます。このようなことを言うのは、唯一の神に対して「不敬」になりますか。
 わたしには、「絶対的なもの」を想定しない仏教の考え方のほうが、確からしく思われるので、このまま仏教を信じていようと思います。
 科学についての説明は、もう少し言葉を整理されたほうが、分かりやすくなると思います。
わ たしは仏教徒であって、科学教徒ではないので、どんな問題も解決してくれる「万能の科学」のようなものがどこかに存在している、とは信じていません。わたしはただ単純に、科学的な思考は役に立つ、と考えているだけです。実際、物理学の知識は、仏教の「無常」の概念を説明するときに、おおいに役立ちます。
 仏教に、すべての問題を即座に解決してくれることを期待する人は、現実を知ると、がっかりすると思います。仏教には、それぞれの問題に関して、ひとつひとつ解決(滅する)していくことしか、できません。そうやって、ひとつひとつ解決していくことが、人間にとっての課題なのだと思います。
 ところで、マッキーさんは、「ほんもの」を求めて、信仰を純化・普遍化していらっしゃるように見受けます。たとえば、「神は真理である」とする考えなどに、それがよく表れています。しかし、それにもかかわらず、マッキーさんが「キリスト教徒」であり続けることができる理由は、何なのでしょうか。また、多くの「にせもの」の「キリスト教徒」のふるまいについて、同じ「キリスト教徒」として責任を感じることはあるのでしょうか。

唯一の神は宗教にあらず?
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月13日(金)04時41分

下の発言の意味がよく分からない方がいらっしゃるかもしれないので、補足しておきます。
 国家神道では、「神道は宗教に非ず」と言われました。宗教ではないならば何なのかと言えば、それは「臣民の義務である」と続きます。「神道は宗教に非ず」で検索をかけると分かると思いますが、これは昔の古い考えではなくて、現代でも、たとえば公共施設を建設するときの地鎮祭の経費を公費で出したりしたときに、問題になります。宗教行為なのか、慣習的謝礼なのかと。それで、明治憲法下でも信教の自由は保証されていたのですが、ただし書きがありまして、それが「臣民の義務に反しない限り」なのです。どんな宗教・思想を信じるのも自由だよ、だけどもそれは、神道式に生きるという前提に反しない限りの話だよ、というわけです。ここでいう「神道」とは、古くからある宗教としての神道ではなくて、天皇を神とする天皇教の国家神道のことです。天皇の権威に反しない限り、どんな宗教・思想を信奉することも自由だったのです。もちろん、天皇の権威に反した宗教・思想がきびしく弾圧されたことは、言うまでもありません。宗祖の言葉の中に、天皇の権威に反する文言がある宗教団体は、あわててそれらの文書をかくしました。
 もう一度、マッキーさんの言葉を引用します。唯一の神は、それ以外の思想や宗教を否定するのではない、唯一の神の権威を否定しない限り、何を信じても自由だ、という主張のようです。 国家神道が日本国民に対してとった態度と同じだということが、お分かりいただけると思います。
(引用はじめ)
田中さんは、私の論点を4つに整理しましたが、2つ目の「唯一の神は、それ以外の思想や宗教を否定する。」という風には、私は言っていません。あとの3つは、その通りです。私は、「唯一の神という存在は、神以外の権威を否定するためだけに必要だ」と言ったのであって、思想や宗教を否定するための存在ではない、と考えます。もちろん、思想や宗教が、唯一の神以外の何らかの権威に基づくのであれば、当然それを否定することもあるでしょう。しかし、あくまでも否定するのは権威であって、思想や宗教そのものではない。だから、排他的ではないのです。ここでの「排他的」という言葉は、思想や宗教に対してです。権威に対してではありません。だから、矛盾してはいないのです。
(引用終わり)

神への信仰は宗教です
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月13日(金)06時40分

  キリスト教は、確固とした宗教です。神を認めない仏教は、もしかしたら宗教ではないのではと、思ったりもしますが・・・
   私は、キリスト教以外の思想や宗教を否定する必要はないと言いたかったのであって、国家神道のように、キリスト教はすべての思想や宗教を超えるものだとような、馬鹿なことを言うつもりはありません。唯一の神というのは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では共通していて、もちろんこれらの宗教では、他の神々を信仰するようなこと否定しますが、それはその宗教を信じる限りにおいてのみ絶対です。しかし、他の神々を信仰するような様々な宗教、あるいは神を信じない仏教や、無神論に対して、それを間違っていると否定するような、そのような権利はどの宗教にもないでしょう。そのような権利があるとしたら、それはその宗教によって苦しめられている人がいる時だけです。
  田中さんの仰る「唯一の神の権威に反しない限り」という条件は不要でしょう。唯一絶対の神は、無条件に差別をしないと考えます。その点において、絶対天皇制とは、本質的に違うのです。天皇制は、それが象徴天皇制であろうとも、明らかに差別の思想です。なぜならば、天皇を権威として認めないものを、差別して許さない制度だからです。また天皇制とは、生まれによって人間を差別する制度でもあり、私はこのようなものを決して認めません。
  神に対して、不謹慎とか、不敬とかいう表現は、不適切であると思います。神は、そのように人間に対して絶対的忠誠を要求するような存在ではないからです。神はもちろん、神の御心にかなった生き方を、人間に求めています。しかし、それを強制することはないのです。唯一の神は絶対的な権威であると同時に、他のどんな権威よりも、権威主義的ではないのです。
  神からみれば、人間はすべて罪人です。罪が多いから救われないとか、罪が少ないから救われるとかいうことではありません。すべての人が救われています。救われるために戒めを守る必要はなく、こんな罪人でも神は救ってくださる、と考えることが、キリスト教の基本でしょう。キリストを信じれば救われる、ということではないのです。

なぜキリスト教を信じているのか
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月13日(金)07時00分

  私は小学5年生の頃、たまたま近所の教会にあった牧師が日曜学校の子どもたちを集めていて、妹と一緒に日曜礼拝に通うようになり、キリスト教の教えが非常にすばらしいものだと思うようになって、中学1年で洗礼を受けました。牧師も、尊敬できるとてもすばらしい人でした。その頃は純粋だったのです。キリスト教の犯してきた罪など考えもしませんでした。
  大学に入って、急に色々なことに目を開かれました。歴史的にみてキリスト教が犯してきた罪はすさまじいものです。現在でもキリスト教を信じる人たちが平気で戦争をしていることは、理解しがたいことです。しかし、それが現実です。キリスト教の牧師にだって、残念ながら権威主義的な人が少なからずいます。非常に排他的なキリスト教の宗派がたくさんあることも、承知しています。彼らには間違っている点があるとは思いますが、しかし私は彼らを、「にせもの」だと全面的に否定するつもりはありません。
  聖書を神の言葉と信じる姿勢に、大きな問題があるのだと思いますが、そこに真理を探そうということであれば、私は聖書ほどすばらしい書物はないと思います。何千もある仏典とは違って、価値の高い書物だけを厳選したものであることも確かです。そして、私が聖書をすばらしいと思うのは、決して権力者の立場で書かれた書物ではないことです。旧約の律法書は、本来は民衆の権利を守るために書かれたものですし、預言書というものは、この世の権力者を批判するための書物です。それらを神の言葉としたのは、この世の権力から犯されないための手段であったと考えてもよいでしょう。しかし、新約聖書の多くは、決して民衆の立場というわけではなく、万人にとっての救い主キリストということに焦点が当てられています。そこに、権力者につけ入れられる隙があるわけです。
  ローマ帝国において、権力に反する思想だったはずの原始キリスト教が、権力とは関係のない心の救いということに還元されてしまったことと、新約聖書の成立とには大きな関わりがあるでしょう。権力にとって危険でない思想するために、イエスの言葉もかなりねじ曲げられてしまっているのです。だからこそ、聖書をただ神の言葉と信じて読むことは、間違っているのです。私は、聖書を科学的・批判的に読み取ることにより、本来のキリスト教=イエスの思想が蘇ると考えます。  キリスト教会が、多くの罪を犯してきたことは、否定しようのない事実です。中世ヨーロッパにおける、王権神授説だとか、十字軍だとか、魔女狩りのような思想は、神の権威を借りて、この世の権力を強化しようとする企てであり、この世の権力を否定するための神を、逆手にとって利用したものです。神とは、そのように利用されるものであるから、否定した方がいいという考え方を、仏教や無神論、唯物論ではとるのでしょう。しかし、イエスの思想の原点に戻るのならば、神とは決して、この世の権力・権威とは相容れないものです。最も小さな者、最も虐げられた者こそが、神に最も近い位置にいるからです。この逆説=パラドックスこそが、イエスの思想の真髄です。
  私は、もはや真っ当なキリスト教徒ではなく、イエスの思想と行動を高く評価し、私もそれにならいたいと思っているだけです。もちろん、キリスト教会の犯してきた罪を、追求する必要はあると思いますが、イエスに責任はないと思います。
  私が洗礼を受けた時、十字架による贖罪を素直に受け入れたのですが、今考えると未熟な信仰でした。しかし、完全に間違っていたとは思いません。やはり、神によって救われていることを知る、そういう生き方に変えられたことを、幸運なことであったと思っています。今は、もっとイエスのことを深く理解できるようになり、一層信仰は強められたと思っています。

なぜキリスト教を信じられないか
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月13日(金)11時03分

> 神に対して、不謹慎とか、不敬とかいう表現は、不適切であると思います。神は、そのように人間に対して絶対的忠誠を要求するような存在ではないからです。神はもちろん、神の御心にかなった生き方を、人間に求めています。しかし、それを強制することはないのです。唯一の神は絶対的な権威であると同時に、他のどんな権威よりも、権威主義的ではないのです。

 信じる人にとっては、この説明で納得できるのですか。絶対的権威がその心にかなった生き方を人間に求めても、強制していることにならない、と言うのですか。いいですか、「絶対的」権威ですよ。そういうのに従うことを、ちまたでは権威主義と言います。

>神からみれば、人間はすべて罪人です。罪が多いから救われないとか、罪が少ないから救われるとかいうことではありません。すべての人が救われています。救われるために戒めを守る必要はなく、こんな罪人でも神は救ってくださる、と考えることが、キリスト教の基本でしょう。キリストを信じれば救われる、ということではないのです。
信じても信じなくても救われているのならば、ふつうは信じません。前にも言いましたが、いくら帳消しにしてあげると言われても、借金した覚えがないのですから、ありがたくありません。問題の解決は、人間が考えて、ひとつひとつ片付けていく以外に、方法はないと思います。
 唯一の神」を信じる人って、ほかの、ビシュヌを信じる人や、天照大神を信じる人や、ラーを信じる人や、ボードゥンを信じる人たちなんかのことを、どのようにとらえているのか、気になってしかたがありません。自分が信じる神以外の権威を認めないわけでしょう? 「いろいろあって、みんないい」ではないわけですから。
 「唯一」というところを強調するから、喧嘩になりやすくなるのだと思います。それとも、喧嘩をしたいから「唯一の神」を信じるとか? どんなに弱くて小さな人でも、怒ることに合理性はありません。弱くて小さいからといって、その怒りを正当化することはできません。怒ったら、問題の解決は遠ざかります。
  仏教については、「神を信じない仏教」というのは、当たっていると思いますが、「神を認めない仏教」というのは、微妙です。神の存在を否定はしていませんから。考えない、というだけです。
  ただ、仏教の特徴として、「祈らない」ということは、挙げられると思います。「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのも、自分の心を整える瞑想法としてそう思うだけで、高いところにいる強いなにものかに向かって「かなえてください」とお願いするわけではありません。
仏教は宗教なのか、ということについては、わたしは宗教なのだと思います。釈尊が考えた一連の思想を信じて、それを自分が生きていくための指針として活用する、そして、釈尊が作り出した出家僧と在家信者で構成される社会形態を支持する、ということは、まぎれもなく宗教行為だと思います。
                           マッキーさんが「歴史的にみてキリスト教が犯してきた罪」を認識なさって、切り捨てることなく引き受けていらっしゃるのは、すばらしいことだと思います。みずからの宗教に対して批判的な態度をつらぬいていただきたいと思います。
  理想のキリスト教を語るときには、現実のキリスト教の姿をきちんと示した上で、どうやったらそのような理想に変えていくことができるかを、説得力のあるやりかたで説明してください。現実が現実なのですから、よほどがんばってもらわないと、困ります。よろしくお願いします。

神は一切を強制しない。
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 4月13日(金)23時38分

  唯一の神を信じたら、他の神の存在は否定することになりますよね。でも、人間が神を創り出したのではなく、神が人間を創り出したのですから、矛盾しているのは人間の方で、神はどこも矛盾はしていないのです。
   どんな民族にも神話があって、創造神というものが存在します。それが日本では天照大神であり、アイヌではコタンカラカムイという神です。多くの神話では、他にも色々な神々がいるわけですが、ユダヤ教ではそれを一つに統一してしまったというわけです。あるいは、神々という並列を避けて、天使という位に格下げしたというわけです。合理化を徹底するのなら、天使も否定したらよかったのですが、そこまでできなかったようです。新約聖書にも、天使が出てきますが、私にはちょっと理解できません。異端とされたグノーシス主義とか神秘主義の文書には、天使が無数に出てきて、天使にも階層があったりするのですが、大乗仏教に出てくる何々天といった、古代インドの神々であったものと同じで、私はそのようなものを一切信じませんし、イエスも信じていなかったと思います。
   ユダヤ教の神は、唯一の神とはいえ、もともとユダヤ民族の神にしか過ぎなかったわけですが、あらゆる差別を否定したイエスによって、そこから民族を超えたキリスト教という宗教が生まれたわけです。それが、ローマ帝国という民族を超えた超大国の宗教として、取り入れられたわけです。イスラム教は、そのキリスト教に対抗するような形で、そこから生まれたものです。だから、同じ神を信仰しながら、イスラム教は本来的に、キリスト教に敵対する要素があると私は思っています。
   キリスト教は、ローマ帝国の国教となることによって、権威主義的なものとなりました。しかし本来は、そういうものではなかったと私は考えています。権威を認めることと、権威主義とは違います。権威を認めることとは、権威に対してへりくだることですが、権威主義とは、他人にそのような態度を強制することです。
   私は、本当に唯一の神に対してへりくだることができる人間は、決して権威主義的にはならないと信じます。権威主義的な人間とは、ありもしない権威を無批判に受け入れ服従するような人格の持ち主です。

田中さんはなぜ百姓になったのですか? 
投稿者:マッキー  投稿日: 4月14日(土)08時15分

私は、宗教哲学として最も共感できるのは、トルストイとかソローの考え方です。彼らはアナキズムという言葉を自ら使いませんでしたが、キリスト教をこの世の権威を一切否定するアナキズム的なものととらえ、差別に反対し絶対平和主義の立場をとると共に、自給的農業を行なうことを、そのような思想を実践するためにふさわしいものと考えたのです。
   私も農家になることを決心した根底には、有機農業を広めたいという考えと共に、そのような宗教観があったことは間違いありません。田中さんも、確固とした宗教哲学を持っておられますが、そのことと自給的農業をやろうとされたことには、何かつながりがあるのでしょうか。その辺のことを、教えていただけたらと思います。
   田中さんの仏教観は、唯心論的な哲学と思います。唯物論のように神を否定するのではなく、それを想定しないというだけということでしょう。それに対して私は唯神論的と言えるでしょうか。しかし、理神論(神は自然を創造する時だけに働き、自然界の外に存在すると考える)ではなく、どちらかといえば汎神論(森羅万象、人間にも神が宿る)的な存在として神を捉えています。キリスト教というのは唯一の神を信仰し、人間は原罪を持った存在と考えるのだから、汎神論を否定するものと思われるかもしれませんが、私は決して両者は矛盾するとばかりは言えないと思います。私は神をそのようにどこか遠いところにあるのではなく、自然界や人間の心の中に直接働きかえる力のような存在として理解しています。だから、アニミズム的な信仰にも共感できるのです。アイヌの宗教や、古来の神道のようなものは、自然を尊重し自然と一体となって生きることを正しいとする信仰であって、それは尊重すべき宗教であると思うのです。しかし、唯物論=無神論には共感できません。唯心論も、私としては、よく分からないのです。

権威と罪
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月14日(土)13時07分

> 唯一の神を信じたら、他の神の存在は否定することになりますよね。でも、人間が神を創り出したのではなく、神が人間を創り出したのですから、矛盾しているのは人間の方で、神はどこも矛盾はしていないのです。

矛盾している人間がうだうだ考えてもしかたがない、黙って絶対的権威に従っていれば万事うまくいくのだ、ということなのでしょう。つくづく信じる人は強いと、感心します。

> イスラム教は、そのキリスト教に対抗するような形で、そこから生まれたものです。だから、同じ神を信仰しながら、イスラム教は本来的に、キリスト教に敵対する要素があると私は思っています。

で、自分たちのほうは、「何も強制しない絶対的権威(←信じている人には、こういうのがあるらしい)」だから、敵対的な行為があるとしたら、その原因は相手側にある、と。いかりや長介の言葉をかりれば、「だめだ、こりゃ」な世界ですねえ。

> 権威主義的な人間とは、ありもしない権威を無批判に受け入れ服従するような人格の持ち主です。

「もしかしたらあるかもしれない権威(←「もしかしたらないかもしれない」とまで、マッキーさんご自身がおっしゃっています)」を無批判に受け入れ服従するのは、権威主義ではないというのですか。まじめに対話するのがばかばかしくなってきます。
  こういう、煙に巻くような言い方がされるのは、マッキーさんに防衛体制が発動されてるときです。「投稿者:マッキー…」の後ろに「(管理人)」とか「(園主)」とかがつくときが、そういうときです。「いいかげんにしろよ」という、メッセージなのでしょう。
  理屈でつきとめられないものなら、ビトゲンシュタインのように、沈黙しているのが首尾一貫していますし、人のふるまいとしても美しいのに、と思います。
  権威主義についての参考として、「世界大百科事典」の「権威主義」の項目から引用します。

(引用はじめ)
  権威はみずから有する価値を社会の大部分の人に自発的に承認されることによって成り立つ。人々は権威者に自発的に信従するだけでなく、自己を対象に積極的に同一化することによって、自己に欠如していると思われる威信を獲得し、補うことができると錯覚することがある。そこでは,権威者の価値体系に疑惑をもったり、不同意であることは反逆とみなされ、大部分の人から冒済(ぼうとく)であり罪悪であるとされる。このような思考様式を権威主義という。
  (引用終わり)

  この説明を読むと、権威と罪がセットで生起するしくみがよく分かります。それで、「人間はすべて罪人だ」、ということを、繰り返し言うのか、と納得です。
  わたしは、罪について、身に覚えのない借金にたとえましたが、この「罪」と似たようなことを言う人に、わたしはずいぶん出会ってきました。「あなたには悪い霊が取り付いているから、お払いしてあげましょう」と言う男の人がいました。「あなたの血は汚れています。わたしが手をかざして浄化してあげます」と言う女の人もいました。断ると、こちらを気の毒そうな眼で見るのですよ。そういう人たちは、本人たちは純真で、思いやりのある、いい人たちなのですけれど、正直言って、そういう「ごっこ」に付き合っているひまはないのです。
  こういう宗教に関する議論をしていて、責任を感じるのは、こういうのを読んだのがきっかけで、興味を持って、宗教の世界に入っていく人がいることです。入り口はまともそうでも、見えにくいところで闇の世界につながっている宗教は、掃いて捨てるほどありますから、どうかくれぐれも自分で判断すること、批判的精神を失わないことを、忘れないでいてほしいと思います。伝統があるとか、おおぜいの人が信じているとか、立派な施設を持っているとか、そういうことは、正しいことの根拠にはなりません。特に、へんなことを繰り返し繰り返し言ってくるときは、あやしいと思って、注意してください。

    *    *    *
マッキーさん、
わたしが栽培をはじめたのは、ひとつには、それがすきだからです。もうひとつは、生き延びるためです。仏教と栽培は関係がないと思います。
唯心論(心だけがある)というのは、心というものの存在を前提としているので、何か実体的な根源のようなものに支えられているので、仏教的ではないと思います。
アナーキズムというのは、一切の権威に従わない、という思想です。絶対的な権威に従いながらアナーキストである、というこはありえないと思います。

強いのはどちら?
 投稿者:マッキー(百姓)  投稿日: 4月14日(土)19時19分

   田中さんは、信じる人は強いと仰いましたが、私は田中さんの方がよほど強いと思います。説明できないものは信じない、という田中さんのような生き方は、本当に強い人にしかできないでしょう。
   私は、自分の弱さを知っています。それこそが、原罪なのです。そのように罪を認めてしまうことを、権威主義的だと言うのならば、そうだと認めてもいいでしょう。神がいるから信じるのではなく、強く生きるために神を信じているのだと言ってもよいです。私は、別にこれ以上、弁解するつもりはありません。神を信じて、万事うまくいくかどうかなんて、そんなこと分かりはしません。そこまで強い信仰を、私は持ち合わせてはいません。
   私は、キリスト教がイスラム教と敵対しているのは、イスラム教の方に一方的に原因があるのだなどとは一切思っていません。どちらかが悪いのではなく、どちらにも悪いところがあるのでしょう。イスラム教に、そういう要素があると言ったのは、コーランにそういうようなことが書いてあったから、そう言っただけのことです。
   多くの人に尊敬されるクリスチャンがいます。最も小さい者のために人生を捧げた、マザー・テレサだとか、黒人の公民権運動の先頭に立って凶弾に倒れたマルチン・ルーサー・キング牧師のような人たちです。神を語って、権威をふりかざすような人たちではありませんでした。人を愛するために、自分のすべてを捧げた人たちです。
   マザー・テレサに対しては、貧困が生まれる構造を、何一つ変えることができなかったと言って批判することもできます。でも、今苦しんでいる人のためにしてあげられることをするのは、決して悪いことではないし、必要なことです。私は、そのような生き方に人生を変えることのできるキリスト教というものを、決して悪いものだというようには思いません。

信仰する人の責任
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月15日(日)00時55分

異教徒や異端者に対する戦いを「聖戦」と呼ぶのは、キリスト教の習慣です。現代でも、アメリカの大統領が自国の軍事行為を「十字軍」になぞらえて、ひんしゅくを買いました。
  そもそも、キリスト教とイスラム教の対立は、キリスト教の側が、最後の予言者ムハンマドを予言者と認めなかったところからはじまっているわけですよね。
  キリスト教とイスラム教の対立について、キリスト教徒のマッキーさんが、自分たちのことには触れないで、相手の聖典にある言葉だけを取りあげるというのは、不穏当だと思います。
 マザー・テレサやマルチン・ルーサー・キングの例を挙げていらっしゃいますが、たまにはそういういい方もいらっしゃるのかもしれませんが、大勢としては、一神教を信じている人たちは、血なまぐさい紛争を繰り返してきた、というのは、歴史的事実です。原爆を使ったのも、枯葉剤を使ったのも、劣化ウラン弾を使ったのも、紙幣に「わたしたちは神を信じる」という言葉を刷り込んでいる、そして、小中学生が毎朝学校で「わたしたちは神のもとに一つになった自由と正義の国に忠誠を誓います」と唱えている、そいういう国の人たちです。グローバリズムなどといって、はた迷惑な経済活動を大々的にしているのも、おもに同じ宗教を信じる国の人たちです。そして、それらは、たまたまそうなのではなくて、彼らを精神的に支えている一神教が持っている性質が、そのような形で表れたものなのです。
  マザー・テレサやマルチン・ルーサー・キングを尊敬したのがきっかけで、キリスト教に入信したのだけれど、気がついたら「聖戦」に加わっていた、なんてことにもしなったとしたら、くやみきれないのではないですか。そんなことにならないためにも、マッキーさんには、キリスト教の内部にとどまっていただいて、同教徒の暴力的・破壊的な傾向に歯止めをかける役割りをはたしていただきたいと思います。そうすることは、外から批判するよりも、効果があるような気がします。
  納得できないことを信じないのは、当たり前のことです。批判的に考えることについては、わたしは釈尊の思想から大きな影響を受けました。釈尊は、強いものに頼るのではなくて、自分で考えなさいと教えています。
  マッキーさんと意見のやりとりをしているうちに、自分の考えを整理することになって、わたしにとって有意義であったと思います。

深い議論ありがとうございます。ちょっとお邪魔します。私は以前、アイヌのシャーマンと話していて、自然を畏敬する彼らの文化や宗教観に感動を覚えたものでした。考えてみますと、宇宙の誕生、地球46億年の歴史、生物の進化、恐竜時代なんかに想像をめぐらせたり、はたまた、 
投稿者:なかむら  投稿日: 4月15日(日)05時52分

ヒトへの進化、人類三万年の歴史に思いをめぐらせるならば、たかが二千五百年の仏教も二千年のキリスト教も単なる流行に過ぎないのではないだろうか。アイヌやインディアンの宇宙や自然に対する考え方こそが不易であり、真理なんじゃないか、と思ったりもします。「八百万の神」も納得できますし。とにかく、柔軟な姿勢をキープしたまま釈迦、イエス、ムハンマドを読んで、感じていきます。しつこいようですが、私はこの掲示板を知ることができてよかったです。私は頭が悪いのでお二人についていけないときや飛ばし読みもしますが勉強になります。

多様な文化・宗教が共存できるように
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月15日(日)07時03分

なかむらさん、
多様な文化・宗教が共存できるといいと思います。
そのためにも、自分たちの宗教だけが正しいと信じる狂信的な宗教には、反省をしてもらいたいのです。アステカ文明やインカ文明をほろぼしたのは、キリスト教です。キリスト教への改宗をせまって、従わない人たちを皆殺しにしていったのでした。ほろぼされてからでは遅いのです。

一神教は好戦的であるか?
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月15日(日)07時50分

  田中さん、あなたは誤解していると私は思います。キリスト教には、聖戦という思想は、本当はないのです。それは、戦争をする権力者が、利用しているのに過ぎないのです。90%以上がキリスト教の神を信じていて、進化論よりも創世記の天地創造を信じる人が多いという日本人の常識では考えられないような国であるアメリカが、第2次大戦後も、世界中で戦争をやってきたことは事実です。しかし、それはキリスト教の名の下でやった戦争ではなく、多くのキリスト教会はイラク戦争にもはっきりと反対を表明していますし、ブッシュを批判している教会だってたくさんあります。キリスト教が、戦争に利用されやすいのは認めなくては成りませんが、その責任をキリスト教に還元してしまうことは、本質を見誤っていると思います。
   神を信じる姿勢が、聖戦という考え方を植えつけることになりやすいということは確かです。天皇を絶対と認めた日本人が、正義を信じて死をも恐れず勇敢に戦ったのも、そのような絶対的な権威に従ったからなのでしょう。明治政府が、富国強兵のためにキリスト教の一神教的な要素を天皇制に取り込んで絶対天皇制を作ったことが、そのように効果を発揮したわけです。
 だから、田中さんは、絶対的な権威など認めるから、戦争をするのだと仰っているのですよね。でも、私は、それは間違っていると思います。絶対的な権威でないものを、絶対的な権威と思い込むから、戦争をするのだと考えます。
 田中さんは、私が何を言っているか分からないでしょう。私のことを、滅茶苦茶なやつだ、パラドックスか何か分からぬが、煙にまくようなことを言って、かたくなになっていやがると。しかし私は、絶対的な権威である神は、決して戦争を認めないと信じています。そのような神が絶対であるはずはありません。
   田中さん、私はあなたのような仏教を信仰すれば、人は絶対に戦争など起こさないと思います。それは認めます。わけのわからないものを信じて、人を否定するようなことはないでしょうから。しかし、唯一の神を信じるということは、信じない者を否定し、差別し、戦いを挑むためにするのではないのです。キリスト教に、そういう歴史があったことは確かです。アメリカもアフリカでも、先住民に改宗を迫り、さもなくば虐殺し、侵略の地ならしをしました。そのような歴史は、反省しなければなりません。
   しかし、キリスト教が戦争を起こしたのは、この世の権力と結びついた時だけです。あるいは、教会自体がこの世の権力となった時です。それは、決して唯一の絶対的な神の権威に従ったのではなく、そうでないものを権威とした時なのです。キリスト教が、この世の権力と対峙する姿勢を堅持する限り、戦争を阻止することはあっても、戦争を起こすことはないでしょう。戦争の原因が一神教にあると考えるのは、間違っていると思います。

理想と現実は違う
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月15日(日)11時19分

  たとえば、軍事費を削って福祉と教育を充実させる、消費税は撤廃して累進課税を重く課する――けっこうそうな政策ですよね。けれども、これにさまざまな条件を加味して、実現可能かどうかシミュレートしてみなければなりません。実現できない政策は、絵にかいたモチです。言うだけなら、どんなきれいごとも言えます。
  同様に、理想のキリスト教を考えるときには、まず現実のキリスト教の姿をしっかり認識する必要があります。そして、どうしたら理想のキリスト教に変えていけるかを、説得力ある言葉で語らなくてはいけません。理想を夢見るのは、マッキーさんの自由です。しかし、実現の可能性のないような甘い空想を軽々しく語ることは、しばしば人びとを間違った方向へ導きます。
  マッキーさんが理想を持っていることは、分かります。でも、現実は全然違う。あまりにも違う。その間をどうやって埋めるのですか。現実から理想への橋渡しを、説得力ある言葉で語れますか。それができなければ、だれもあなたを信用しません。
  キリスト教には二千年以上もの歴史があるのですから、いいかげんそこから教訓を学び取らなくてはいけません。一神教というのは、実質的には、キリスト教と、イスラム教と、ユダヤ教です。それらの宗教が信仰されている国ぐにに血みどろの戦争が多かったのは、歴史的事実です。
  教会が戦争に反対することは、あるのかもしれません。しかし、現実には、キリスト教徒が戦争を遂行していますし、戦争を遂行する政権を、教会が支持し続けています。戦争を支える精神構造にこそ問題があるのですから、そのことにキリスト教も責任を持たなくてはいけません。
  「聖書」に出てくる神は、怒りに満ちています。洪水や地震で生き物たちを殺したり、人を病気にしたり、復讐を約束したり、一つの町の住民を散り散りにしたり……などなど。あまりの激しさにへきえきして、「聖書」を読み続けられなくなる人は少なくありません。このような激しくきびしい神を絶対的権威としたら、それを信じる人にまで怒りが伝染することは、十分想像されます。世俗的権威が神を利用したとかしないとか言う前に、あなたの神は、そもそもが十分に暴力的なのです。
  「唯一の」とか「絶対的」とか言いはるから、トラブルになるのです。いろいろな神様がいてもいいではありませんか。あなたはその神様、わたしはこの神様と、それではいけないのですか。どうして仲よくやっていけないのですか。
  「聖戦」という言葉は、聖書にはありませんが、たとえばブッシュ大統領が言った「クルセード」は、聖戦という意味で、キリスト教の伝統の中で使われてきた言葉です。キリスト教徒が「聖戦」の意味で習慣的に使ってきた言葉です。

キリスト教だから悪いのか
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月15日(日)22時03分

  田中さんの追及が余りに厳しいので、このところ防戦一方ですけれど、あえて抵抗します。唯一絶対と言い張るから、トラブルになるということを、一歩下がって認めるとしましょう。しかし、別にトラブルを起こすために信じているのではありません。それを信じることのマイナス面があったとしても、プラス面だってあるわけです。
   唯一絶対の神は、私の考えではこの世の権力に抵抗するための手段です。イエスも、そのようなものとして唯一の神をわが父と呼び、この世の権力に抵抗したのです。唯一の神は、そのように権力に抵抗するためには、有効な手立てであり得ますし、エゴイズムから解放される手段となり得ます。もちろん、仏教的な信仰によっても、それが得られるかもしれませんが、キリスト教はエゴイズムやニヒリズムを拒否する強力な手段です。
 聖書、特に旧約聖書の中に、すさまじく暴力的で侵略的な神の姿が散見されるかもしれません。しかし、それは聖書を記した人間(決して神ではない)が、神とはこういうものだと、勝手に想像して書いたものに過ぎません。私は、唯一絶対の神はいると思いますが、聖書に書いてある神こそが、唯一絶対の神だと信じているのではないのです。
 田中さんは、キリスト教が悪いことをいっぱい行なってきたから、キリスト教は反省しなければならないと言いますが、キリスト教が反省すべきなのではなく、キリスト教をそのようなものにしてきた人たちが、反省しなければならないのです。キリスト教は、別に悪いものではないと私は信じています。では、何が悪いのでしょう。私は、聖書が絶対だと言い張る人たちは、反省すべきだと思います。聖書が唯一絶対の神の言葉だという証拠など、どこにもありません。私は、そのような信仰を持つ人を、にせものとまでは言わないけれど、本当のクリスチャンだとは認めません。限りなくにせものに近いということです。しかし、聖書の中に、唯一絶対の神を見つけ出そうということであれば、それは正しい行いであると私は思います。そして、聖書が全くなくても、真実の神に出会うことは可能であるとも、私は考えています。平和に暮らしている先住民に、キリスト教を伝えなくてはならない必然性など、どこにもないのです。きれいごとを言っているんじゃないんです。戦争をするようなクリスチャンは、偽物のクリスチャンなんです。
   イエスは、「私を神の子と信じなければ救われない」などと、一言も言ってはいません。だから、そんなことを信じる必要は微塵もないのです。もちろん、そんなことを言ったとしたら、私はイエスのことを全く信用しません。イエスが言ったことは、神の国をこの世に実現しなければならないということだけでした。イエスの語った神の国とは、つまり最も小さいものが最も尊ばれる世界のことです。唯一絶対の神など想定しなくても、いや想定しない方が、それが実現できると田中さんは仰りたいのでしょうが、私には実現できると信じるのであれば、それは唯一絶対の神を信じているのと同じであると思いますし、何も信じないのであれば、ニヒリズムに陥るだけであるとしか思えません。
   アメリカでは、徴兵制がかつてありました。徴兵制とは、この世の権威に従って、戦争をしろという命令です。しかし、アメリカでは南北戦争の時代から、良心的兵役拒否というものは認められていたのです。つまり、絶対平和主義を信奉するクエーカー、ブレズレン、メノナイトなどの信者は、その信仰の故に、兵役につかないことを許されたのです。ものみの塔(エホバの証人)もそうです。しかし、現在も徴兵制を敷く韓国や、かつての日本は、そのような信仰によりこの世の権威に逆らうことを許していません。
   ブッシュの支持団体となっている福音派やキリスト教原理主義は、「クルセード」的な思想を持っているでしょう。しかし、それはキリスト教や一神教だけに特殊なのではありません。仏教でも日蓮系の諸派や、神道系の新宗教にも、他の宗教を敵視して外に向かってどんどん宣教して行こうとする宗教はいくらでもあります。キリスト教や、一神教がことさら悪いと決め付けることは、間違っていると思います。

キリスト教の問題です
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月16日(月)03時01分

(引用はじめ)
 唯一絶対の神は、私の考えではこの世の権力に抵抗するための手段です。イエスも、そのようなものとして唯一の神をわが父と呼び、この世の権力に抵抗したのです。
(引用終わり)
マッキーさんの考えでは、神は権力に抵抗するための「手段」なわけですね。
かつて、権力に抵抗するために爆弾闘争を展開した過激派がありましたが、神は爆弾のようなものなのでしょうか。兵士に残虐なことをやらせるときに、良心を麻痺させるために麻薬を使うことがあるそうですが、神は麻薬のようなものなのでしょうか。
唯一絶対の神が怒りの要素を多く含むものであることは、すでに指摘しました。目標の是非は置いておくとしても、問題解決の手段として、怒りの要素を多く含むものを使うことは、不適切です。実際、問題は解決するどころか、怒りが怒りを呼んで、際限のない争いになっています。

(引用はじめ)
 聖書、特に旧約聖書の中に、すさまじく暴力的で侵略的な神の姿が散見されるかもしれません。しかし、それは聖書を記した人間(決して神ではない)が、神とはこういうものだと、勝手に想像して書いたものに過ぎません。私は、唯一絶対の神はいると思いますが、聖書に書いてある神こそが、唯一絶対の神だと信じているのではないのです。 (引用終わり)
聖書以外に神を描写するものがありますか。現実のキリスト教徒は、聖書を頼りにして神を知り、その神を唯一絶対の権威として生き、行動してきました。マッキーさんが、聖書を書いた人が間違って想像したと考えているらしい、聖書の中の、すさまじく暴力的で侵略的な神の描写は、人々の心に刻み込まれて、歴史の中でずっと模倣されてきました。ですからこそ、キリスト教徒は聖書に責任を持たなくてはいけないのです。逃げないでください。

(引用はじめ)
 田中さんは、キリスト教が悪いことをいっぱい行なってきたから、キリスト教は反省しなければならないと言いますが、キリスト教が反省すべきなのではなく、キリスト教をそのようなものにしてきた人たちが、反省しなければならないのです。キリスト教は、別に悪いものではないと私は信じています。
(引用終わり)

これは、違います。わたしは、キリスト教の問題点を二つ指摘しました。一つは、怒りの要素を多く含んでいるということです。神が、すさまじく暴力的で侵略的な神だということです。 もう一つは、「唯一絶対」の神である、ということです。この原理のために、強烈に排他的になるのであって、これがトラブルのもとになっています。
「キリスト教をそのようなものにしてきた人たち」の問題なのではなくて、はっきりと、キリスト教の問題です。自分たちの問題だと考えない反省なんて、反省ではありません。

(引用はじめ)
イエスが言ったことは、神の国をこの世に実現しなければならないということだけでした。イエスの語った神の国とは、つまり最も小さいものが最も尊ばれる世界のことです。 (引用終わり)
「神の国」が何なのか、抽象的すぎて、分かりません。よく分からないものを実現させようとしている気持ちも、分かりません。また、それを実現させる方法も、分かりません。
仏教では、苦しみをもたらす諸問題を、一つ一つ解決していく、ということだけを考えます。すべての問題を一気に解決することなど、できないと思います。やれることをこつこつとやっていく、という現実性が、仏教にはあります。

(引用はじめ)
 ブッシュの支持団体となっている福音派やキリスト教原理主義は、「クルセード」的な思想を持っているでしょう。しかし、それはキリスト教や一神教だけに特殊なのではありません。仏教でも日蓮系の諸派や、神道系の新宗教にも、他の宗教を敵視して外に向かってどんどん宣教して行こうとする宗教はいくらでもあります。キリスト教や、一神教がことさら悪いと決め付けることは、間違っていると思います。 (引用終わり)
  一神教の残虐さは、他の宗教とは桁が違います。キリスト教国が侵略した国は、アフリカ・南北アメリカだけではなくて、アジアやオーストラリアにも広がっています。一国・一文明をほろぼすところまで、残虐さにブレーキがきかないのは、一神教に特徴的な現象です。異教徒を人間と認めていないのではないかと思えるほどです。イギリスには娯楽としての「狩り」の文化がありますが、オーストラリアでイギリス人は、アボリジニー(先住民)狩りをして楽しんでいたそうです。
なにせ唯一絶対の権威ですから、それに従わないのは、とんでもない罪になるのです。人間以下と思われることもあるのでしょう。「唯一絶対の権威」なんて、危険なものを取り扱うときには、よくよく注意しなくてはいけません。

無信心者の憂鬱
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月16日(月)07時04分

どうもおじゃまします。なぜかループしているような気配がいたしますが気のせいでしょうか? 現実をどう捉えるのかは人それぞれなのでしょうが、より現実的にキリスト教の果たしてきた役割について日和見の立場から異なる意見を述べてみたいと思います。
  それは、キリスト教が血みどろの戦争のみならず内ゲバを繰り返して多くの犠牲者を出して来たということに対して、現実主義というか日和見という立場からは、罪ですとか、正しいですとか、悪ですとか、そのような判断は留保するだけ、と言いますか悩みます。
  少くともキリスト教は、腐敗した教会を糾弾したルターの宗教戦争以降、我こそが神の言葉を正しく解釈しているのだという立場が争いを引き起こしているのだという事実と向き合い始めたように思えるのです。そこから出発して現実との折り合いをつけんがために世俗化への道を選択してきた。そして、キリスト教内部のゲバは中世の社会システムに大きな変革をもたらしました。そしてローマ教皇による封建領主の領域内における信教に口を出すべからずという消極的な自由を手に入れています。また後の世に英国では、国家権力が押しつける宗教から、まさにホッブスが恐怖した「リバイアサン」からの信教の自由という、言わば民主制の胎動への下地が用意されております。
  つまり、現在日本で民主主義的な傾向を維持することとなっているこの社会システムの原型は、他ならぬキリスト教の内ゲバ故の産物が周りまわって辿り着いたと考えても、おそらくそう遠からぬ考えではないかと思うのです。 
  また、西欧社会は、神、そして統治権力からの自由を求めて敢然と立ち上がり、それこそ長きに渡る血みどろの戦いを乗り越えることによって自由を手に入れました。その経験が民主制を絶え間なく持続させようとする近代的立憲主義をもたらすこととなりました。ですから、キリスト教が歴史から学んでいないとは言えないと思います。政教分離は民衆とキリスト教との間で交わされた現実的な折り合いという約束事ですし。
  ただ、日本では日中戦争から太平洋戦争へ至るなかで自由民権運動は遠いものとなり、民衆が統治権力を打ち負かして自由を勝ち取るという民主制成立には無くてはならない経験を積む機会を逸してしまっています。それ故に戦前からの統治の構造をそのままに持ち込んだ憲法をお上意識と島国根性で拝するより他に手立てはなかったのだと思うのです。いや、お上意識と島国根性という土壌があったからこそ、何とか今日まで奇妙なバランスを採ってこられたとも考えられます。なにせ、日本では長らく憲法の上に民衆が在するということの意味、日本国憲法第97条

<"日本国憲法第97条">この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

から欠落している経験「自由獲得の努力」そのものを理解するにもそのような事実性を持たないのですから、自らも戦前の構造をソックリ受け継いでいることに無自覚なままになるのも致し方の無いことだと思うのです。そしてどういうわけか天皇だけが近代憲法の機能性に忠実であろうとしたという切ない物語。ですから日本的色眼鏡を通して欧米の国家形態を評価してしまうと、統治権力と民衆との緊張関係という相克を乗り越えてきているという事実性を見逃してしまう。神の権威も統治権力の権威も、民衆にとってはユスリとして機能しているんだと言う合意が横たわっているのであります。
牧野さんも田中さんも原理を求めるあまり、各宗教の積み上げて来た現在に至る妥協の産物を見逃しておられるのではないでしょうか? ついでに、日本では宗教に頼ることも天皇に頼ることも民主制に頼ることもできないものなのかもしれませんよ。宙ぶらりんのままに茨の道を歩むしかない。その苦しさのなかで悩み右往左往七転八倒するのが筋かと存じます(笑)。

政教分離ということ
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月16日(月)08時29分

 Yabukogiskyさん、助け舟を出していただいて、ありがとうございます。私は、教会が権力を批判しなくなった時、あるいは権力そのものになった時に、キリスト教は死ぬと考えています。
 私がキリスト教は悪いものじゃないと思うと言ったのは、厳密にはイエスの教えということで、それはあくまでも反権力を貫く思想だと信じているからです。怒りに満ちているようにも思える旧約聖書も、基本的には反権力で、戦争や暴力を空しいものと考えています。しかし、現実のキリスト教は、権力と結びついたり、権力的になって多くの罪を犯してきたし、今でもなお反省しなければならない点がたくさんあることを認めます。
 昨年は教育基本法が改悪され、現在は憲法改悪に向けて着々と法整備が行なわれていますが、日本における民主主義は、風前のともし火ですね。政教分離や民主主義が、キリスト教が馬鹿なことをやってきた反省の上に勝ち取ったものだということは、正しいかもしれません。だから、キリスト教が土壌にない日本は、これからどこに行くのか、不安にもなりますね。最近の若い人の言動、2チャンネルとか読むと、排他的で民主的考え方のかけらもないような言葉で、ほとんど占められています。良心的な人は、そのような掲示板に、あまり関わりをもたないのだと思ってはいますが、それにしても右翼的なオピニオン誌が本屋の棚を占めて山積みされているのを見ても、私の学生時代とは大分違うので、何だか心配ですね。
 権力が権威をふりかざすようになれば、本物のクリスチャンはそれに戦いを挑まなくてはなりません。その時には必ず迫害があります。どうか、再びキリシタンが迫害されるような国にだけはならないように、祈りたいものです。

歴史的展開からはずれた場所で考える
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月16日(月)21時36分

キリスト教が歴史から学んでいない、というよりは(わたしは「マッキーさんが歴史から学んでいない」と言いたかったのですが…)、一宗教の中に歴史があることが、キリスト教的だと言えるのではないでしょうか。キリスト教がその内部に矛盾した要素を含んでいて、さまざまに展開していくという意味では、同じ一神教でも、イスラム教とはだいぶ性質が違います。
教会と国家が分離したのが、政教分離ですが、これは権力をもって権力を制す、という発想なのでしょう。国家の中に民主主義が持ち込まれるのも、恨み・妬み・復讐心に満ちたキリスト教の性格を反映しています。後に作られる共産主義も、宗教を否定しているように思われていますが、歴史的法則という権威を掲げて権力に復讐を果たしていく、という精神構造は、キリスト教の分派と言ってもいいと、わたしは思います。
マッキーさんは、キリスト教は悪くなくて、それが権力と結びついたときに悪くなる、と言いますが、反権力は権力に対する復讐であり、それ自体が権力を目指しています。ですから反権力は、権力を倒して自分が権力の座についたとたんに、手が付けられないほど横暴になるのです。
明治時代に、日本も強い国家を作ろうとしたのですが、キリスト教の神を使ったら欧米列強に飲み込まれてしまうので、天皇を担ぎ出しました。昨今、天皇の権威は低下して、代わりになる権威も見つからず、民主主義は、キリスト教的な考え方がしみこんでいて、なじめませんし、共産主義は立ち直れそうもないですし、日本はこの先どうなるか、ああ憂鬱!――と思うのは、歴史的展開に自己同化してきた、キリスト教的な発想に慣らされてきた人ぐらいのもので、多くの日本人にとっては、人間のやることは変わらない、ばかばっかりやっている、と思うならば、へんな誇大妄想(「神の国」とか)に振り回されることなく、いつの人間にも共通して問題となることがらをとらえて、それを一つ一つ解決していくというような、やれることをこつこつやっていくというような、そのような、たとえば江戸時代の庶民だったら言うかもしれない、しごく当たり前な結論に落ち着くのではないかと、仏教的な方向に我田引水してみました。
権力も反権力もどちらも、戦争や暴力がすきな人をとりこにします。そして、恨みが恨みを呼んで、血みどろの闘争になります。憎悪のループから抜け出られなくなります。このことこそ、わたしが歴史から学んでほしいと思うことです。反撃・復讐ではなくて、対立の解消に努力してほしいのです。
暴力的で排他的な思想・宗教が疎まれるのは当たり前なのに、侵略の地ならしのようなことをすれば反発を食らうのは当たり前なのに、逆切れして、「迫害された」叫んで、被害妄想となって、自分たちの「反撃」を正当化する手口は、大昔から変わりませんね。歯止めのきかない残虐さほど、恐ろしいものはありません。
死への恐怖は、しばしばわたしたちを混乱させますが、気持ちを落ち着けて、最後まで平和的共存への努力をあきらめないでいたいと思います。

田中さんも私からみれば矛盾しています。
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月16日(月)23時08分

 (引用はじめ)
 教会と国家が分離したのが、政教分離ですが、これは権力をもって権力を制す、という発想なのでしょう。国家の中に民主主義が持ち込まれるのも、恨み・妬み・復讐心に満ちたキリスト教の性格を反映しています。
 (中略)
 権力も反権力もどちらも、戦争や暴力がすきな人をとりこにします。そして、恨みが恨みを呼んで、血みどろの闘争になります。憎悪のループから抜け出られなくなります。
 (引用おわり)

 田中さんが、こんなことを言う人とは思いませんでした。無茶苦茶です。権力という言葉や、反権力という言葉が、何を意味しているのか、これじゃさっぱり分かりません。
 私は、仏教はキリスト教と対話できると思っていますが、田中さんは、そう思っていらっしゃらないようですね。残念です。キリスト教ではなく、私と対話できないということなのでしょうか? どちらにしても、言葉尻を捉えて、とにかくキリスト教や私を否定しようとしているとしか思えません。
 田中さんは、神はいないと結論づけるのではなく、単に想定しないと仰っているのですから、私は共通の認識に立てると思っていましたが、このようにキリスト教を全面否定されると、たまりません。
 キリスト教が、恨みだとか、権力への復習だとか、そういう精神構造に基づく宗教だと思ったら、大間違いです。仏教が、心の修行によって、幸福を導こうとする宗教だということは、よく分かります。キリスト教だって、全くその通りなのです。ただ、何が違うかと言えば、絶対的な神というものを認めるかどうかです。そのことが、憎しみを生むとか、分裂をもたらすとか、そのように決め付けるのは、いいかげんに止めていただきたいのです。
 私は、キリスト教を弁護しようとしているのではありません。キリスト教が、仏教より優れているなどとは、一言も言うつもりはありません。どちらにも、優れたところがあるし、欠点というか弱点もあると認めます。私の「えこふぁーむ・にゅーす」4月号の巻頭言「神は存在するか?」を読んでいただきたいと思います。イエスも釈迦も、人間です。完全ではありません。キリスト教は、イエスという人間そのものではないし、仏教も、シャカという人間そのものではありません。どちらの宗教も、色々な哲学を含んでいます。完全な哲学など、どこにもないのです。憎しみが良くないと仰るのでしたら、キリスト教に対して、どうしてもっと寛容になれないのでしょうか。私には田中さんの言っていることにも、かなりの矛盾を感じます。

もう一言
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月16日(月)23時39分

 「迫害」ということについて、田中さんは完全に誤解しています。田中さんこそ、歴史をよく学んだ方がいいのではないでしょうか。仏教徒も、迫害を受けた歴史がたくさんあります。法然や親鸞も、島流しにあっています。あれは、侵略の地ならしのようなことをしようとしたからですか? それとも、あれは本当の仏教ではないから、迫害を受けて当然だとでも言うのですか?
 権力に逆らった人間が、新たな権力を作り出してしまうことはよくあることですが、反権力も権力と同じだというのは、全く見当違いだと思います。

さらに一言
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月16日(月)23時45分

 私は、権力こそ悪と考えています。権力とは、人が人を支配する力のことです。権力とは、差別です。権力とは、暴力です。
 反権力とは、人が人を支配することを、絶対に認めないということです。

話せば分かると思います
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月17日(火)00時47分

マッキーさんの疑問点には、全部お答えします。
ただ、わたしにも時間的制約がありますし、この掲示板は、一度に4000文字しか書き込めません。あわてないで、ゆっくり、ていねいに話しましょう。
マッキーさんの下の疑問点には、全部お答えします。誤解されているところは、分かりやすく言い直してみます。
その前に、お願いがあります。
「政教分離」の話になる前の、「助け舟」が来る前の、16日の、わたしの「キリスト教の問題です」という発言の各項目に、マッキーさんが同意なさるのか、反対なさるのか、どう反論なさるのか、聞かせてください。重要なテーマが含まれていて、このまま流れてしまうのはおしいのです。
そのお答えを踏まえて、復讐のこと、権力―反権力のこと、憎悪のループのこと、迫害のこと、などを、ごいっしょに考えていけたらいいなあ、と思います。
よろしくです。

 

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