天皇とは何か
・・・農業との深いつながりと、天皇制廃止論の根拠

 
   天皇家は、もともと朝鮮から渡来した豪族の一つに過ぎなかった。天照大御神直系の神武天皇以来、万世一系であったなどというのは、創作神話に過ぎないことなど、今では誰でも知っている。記紀の記述が事実であると確実に言えるのは、天皇一族には近親相姦と親兄弟殺しの謀略がうずまいていたという点くらいであろう。
 分裂した「新しい歴史教科書を作る会」など復古主義的右翼は、未だに皇国史観のようなものを復活させようとしているが、今時そのような非科学的な教育をしようという魂胆にはあきれる。もともと、そういった血統のようなものに価値を見出そうとする思想自体が間違っているのであって、万世一系であろうとなかろうと、そんなことには大した意味はない。かつての教育勅語のように、日本人は天皇の赤子(子孫)であるというような事実無根のでっち上げに基づいて、天皇に忠誠を尽くすべきであるというような思想を復活させるようなことは、決して許されない。
  しかしながら天皇家が、稲作の進んだ技術や、雅楽のような優れた芸術文化などを、朝鮮から日本に伝えた渡来人の子孫であることは、ほぼ間違いがないのである。アキヒト天皇も言っているが、桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されているし、現在の日本人の中においては、先住民族であった縄文人と血のつながりのほとんどない、稀有な血筋と言えるだろう。雑多な民族の混血であることがDNA解析で明らかにされている一般の日本人とは全然違うのであり、DNA的には全く純粋な朝鮮族であると言っても良いのである。
  まあ、そのような血筋のことなど、どうでもよい。天皇家は古代以来、国家統一の象徴であり、稲作の祭司としての宗教的存在でもあったということが重要だ。昭和天皇以来、今上天皇も皇太子も生物学をやっていることは、決して偶然ではない。新嘗祭、神嘗祭といった宗教儀式は、皇居内の生物学研究所の水田で行なわれているのである。
  コメというものは、民衆支配の道具として実に有効なものであった。カロリーだけでなく必須アミノ酸も豊富に含み単独で十分な主食となるほど栄養価が高く、長期にわたり貯蔵可能な穀物でもあるコメは、年貢(=税金)としても非常に価値の高いものだった。そして、このコメを作る稲作農業というものが、日本を始めアジア・モンスーン地域の社会というものを決定づけている。稲作には新田開発、水利権の問題などがあって、個人主義というものには簡単になじまない。生産を上げる(=年貢によって支配者の力を大きくする)ためには、強固な結びつきの共同体が要求される。そこが、乾燥した荒地で、集約的な労働を投入せずとも十分に収穫が可能な小麦栽培や酪農とは、決定的に違うところである。
  私が天皇制の最も問題だと思う点は、古代以来、明治憲法下においても、現在の日本国憲法下においても、変わらずに一貫して持っている体質についてである。つまり基本的に象徴的な存在であって責任を問われない存在という点である。かつての豪族や貴族、そして武士が実権を握った時代、そして明治時代になり地主や資本家、そして軍部がそれに変わっても、天皇の権威というものは、彼らの責任をうやむやにするのに大いに利用されてきた。昭和天皇の戦争責任などというものは、元よりなかったと言っていいのかもしれない。天皇ではなく、天皇制に戦争責任があったことを左翼は追及すべきであった。東京裁判でも昭和天皇は裁かれず、絶対天皇制から象徴天皇制に変わったのであるが、それは全く不十分であったと言うより、天皇制の本質をより強固なものにした本末転倒なことであったと言うしかない。天皇に責任をとらせないという、その天皇制の本質こそが裁かれなかったからである。
  戦勝国アメリカは、非常に賢かったと言えるだろう。責任の所在をうやむやにする、悪しき日本の伝統である天皇制の本質である象徴性という点を残すことによって、日本が真の民主的な独立国になることを阻止したのである。そうしてアメリカに楯突くことのできない、現在のようなアメリカへの隷属国日本を作り上げたのである。
  ヒロヒト、アキヒト、ヒロノミヤは、天皇家でなく普通の人だったら、とてもいい人たちであると言って済ませることが出来る。もし彼らが悪辣な人間だったら、みんな天皇制などやめようと言い出して、フランスのように王様の首をギロチンではねて、共和制にしてしまうこともできたかもしれないのだ。だが、いい人だからこそ天皇制の恐ろしさに国民は気付かないままである。あれだけ戦争で大きな犠牲を払いながら、まだ天皇制が悪いということに気付かなかった日本人は、大馬鹿者と言ってよい。
象徴天皇制とは、支配者にとって都合の良い制度であるに過ぎない。絶対天皇制のように、ひどくはないように思えるが、これはまやかしである。人間を象徴としておくなんてことは、象徴とされる人間にとっても迷惑なことである。民衆にとって、天皇制など何のメリットもない。たとえ象徴であろうとも、それが人間を差別することに変わりはない。差別こそ、悪の根源であり、人間を分断し支配する元凶である。すべての人間を愛すのであれば、差別を憎まなければならないし、悪を憎まなければならない。そして差別を助長し悪を助ける制度は壊さなければならない。象徴天皇制を廃止することで、天皇制によって差別を受ける民衆にとってだけでなく、皇室に生きる人間も、真に解放されることができるのである。
 世界において、かつて絶対王政だった国々でも、現在はほとんど選挙で選ばれた議会によって政治が行なわれている。それでも共和制にならず、立憲君主制として王制を残している国は、ヨーロッパにもアジアにもまだまだたくさんある。そういった国々でも、王というものは日本の天皇と同様に象徴としての意味を認めて残していると言える。王制=君主制を残した方がよいか、やめた方がよいか、決める権利を持っているのは国民であり、他の国が文句を言っても仕方がないことではある。
  しかし、第二次世界大戦で負けたドイツではヒトラーが自殺し、国民は第一次大戦後以来の共和制を復活させ、ナチスの復活を決して許さない体制を守っている。イタリアではムッソリーニがパルチザンに処刑され、戦後に国民は投票で王制を廃止した。しかし、世界大戦で大きな敗北を帰した国で、日本のみが天皇制という君主制を残存させている。日本人が歴史に学ばなかったのではない。天皇制を残したのはアメリカである。あの時に天皇制が廃止されると考えた日本人は決して少なくなかった。その可能性を奪ったのは日本人ではなく、アメリカである。
  天皇が国民にとって、現在のように日本国の象徴として認識されるようになったのはそう古いことではない。古来より天皇は高貴な存在として認識されてはいたが、それをどれだけの民衆が日本の象徴として認めていたかというと、現在ほどではない。江戸時代までは、天皇のことなどほとんど知りもしない民衆がいくらでもいた。まぎれもなく日本国の象徴として理解されるようになったのは、天皇を神聖にして侵すべかざるとして憲法に定めた明治時代になってからである。日本の歴史の中で天皇制は、権力そのものであったのは初期の頃だけであり、後はずっと権力に利用されるものとして存続してきた。絶対天皇制の明治時代から第二次大戦までも、純粋に権力そのものではなかった。絶対天皇制が、天皇自身の意志によって作られた物ではないからだ。天皇制が、国家統治機構として極めて有効であるから国家運営の道具として使われただけである。旧憲法下で絶対的な権利者であったはずの昭和天皇でさえ、絶大な権力をふるって国家を戦争に巻き込んだのではない。戦争を望むものに利用されていただけである。
  日本人は、天皇制を破棄することで、初めてアメリカから真に独立できると私は思う。もちろん、今の日本人で天皇制を廃止することに賛成する人は極めて少数だ。だから、現時点ではこのことに可能性はほとんどないが、粘り強く運動することで、廃止させることはできるだろう。アメリカから真に独立するためには、軍隊の保持さえ禁じた憲法第9条を廃棄すべきだという意見もあるが、私は世界の理想であるこの第9条を守ることで、日本は世界の模範国となることができると信じている。そして、真の独立国となるためには、第1〜8条を廃棄することが有効であると考える。日本は、日本人の意志で君主制をやめるべきなのだ。
  高貴なものが存在すること自体は、必ずしも悪くはない。家柄とか血筋とかいうことにこだわれば差別であるが、伝統を守ることということが目的であれば、決して天皇が悪いとばかりは思わない。しかし、国家で莫大な税金をかけて皇室を維持する必要があるとは思えないし、そんな金があるのなら、やるべきことはもっとたくさんある。私は、天皇家を解体する必要はないと考える。天皇は王そのものではない。国家体制と関係なく存続できる余地は残っている。天皇家には京都御所に戻っていただき、税金は投入せず国民の自由意志による寄付のみで生活していただけばよい。そして、照葉樹林を残した現在の皇居は、エコロジー・パークとして市民に開放するべきだ。
  天皇は、聖なるものとされてきた。他方で、被差別部落やアイヌ、在日朝鮮人といった、天皇にまつろわぬ民は、穢れた存在とされてきたのである。そのような存在を、国家の元首にすえるということは、たとえそれが象徴であろうとも、差別を固定化することになる。差別を認めないためには、天皇制を廃止するしかないのである。
  靖国神社に祀られるのは、天皇のために戦死した者だけである。それなのに、朝鮮人やクリスチャンまで、勝手に合祀されていることに対し、本人の遺志を無視したことであると訴えが起こされている。天皇制を残したいと願う人々や、靖国神社を国家護持すべきだと考えるような人たちには、日本民族というものの理想像があるのだろうが、それは非常に偏狭な民族主義に過ぎず、天皇制の本質というものが理解されていない。
  日本に在住するすべての人民、アイヌや琉球人も、在日外国人も、天皇制を嫌いな私のような日本民族も、等しく生きる権利を認められるべきであり、そのためには天皇を国家制度と切り離す必要がある。象徴天皇制は、妥協の産物であろうし、天皇から実質的な権利を奪うものだ。しかし、現憲法下においても、権力は様々な場面で天皇制を利用している。マスコミの天皇に対するタブーなどは、全く日本には言論の自由などないと断言してもよいほどだ。昭和天皇の死んだときのマスコミの戒厳状態などは、ひどいものだった。日本に北朝鮮のことを非難できるような資格はない。日本が本当に自由な国になるためには、象徴天皇制を廃止するしかない。

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