「農民芸術学校」とは
 
    北海道に「ニューカントリー」(北海道協同組合通信社)という農家向けの月刊誌がある。その来年の新年号で農民芸術家特集をやるということで、私のやっている音楽活動のきっかけと、主な活動内容、今後の展望などを書いて欲しいと頼まれて書いたのが、以下の文章である。

 1926年、宮澤賢治は30歳で、花巻国民高等学校の教師を辞めて百姓を目指し、羅須地人協会というものを作り、そこで農家に色々な講義をし、農民オーケストラを作るため自らも東京まで行ってチェロを習い、農家数名で楽団を作り練習もした。しかし、周囲の無理解や、当局から社会主義的な運動と見なされ危険視されたこと、肉体的な衰えなどからその活動は1年余りしか続かず、その後は肥料会社に勤め、詩の創作活動や、無償での農民への肥料相談なども続ける が、病に勝てず37歳でその短い生涯を閉じた。
  私は、幼少の頃からヴァイオリンやピアノなどを習っていたが、大学に入ってオーケストラの楽しさを知り、また農業に関心を持つようになり農学部に進み、 自ら有機農業を営むことを志すようになった。その頃、宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」に出会い、またその活動についても知り、賢治の果たし得なかった農民オーケストラを現代に蘇らせようという夢を持つようになったのである。
  宮澤賢治が生きていた時代と比べると、現代日本は物質的には考えられないくらい豊かになったが、精神的には極めて貧しい状況と言えるのではないだろう か。都市への文化一極集中は当時より一層ひどくなり、農村文化は宮澤賢治が憂えた当時よりさらに寂しくなっている。音楽は、CDなどでいくらでも手に入るようにもなったが、生の音楽を楽しむことは、農村地帯では未だに難しい。私は百姓になりたかったし、オーケストラも続けたかった。そのためには農民オーケストラを創るしかないという単純な発想もあった。
  大学院を卒業し、すぐに農家になる経験も資金もない私は、本州のワイン会社に勤めてブドウの栽培試験などを担当し、市民オーケストラの活動も続けていたが、1992年、賢治と同じ30歳でサラリーマンを辞め、北海道の余市町に農地を得て百姓になった。農民オーケストラの実現までには最低10年を要するだろうと覚悟していたが、道内の有機農業仲間にオーケストラ経験者が何人かいたことから、とんとん拍子に話が進み、95年の1月15日には北海道農民管弦楽 団の旗揚げ公演が実現し、ベートーベンの『田園交響曲』を演奏した。また、地元余市には室内楽協会というグループがあり、5名ほどしかメンバーがいなかったが、私はここにも参加して地元の人にヴァイオリンも教え、現在は20名以上にメンバーが増えている。
  北海道農民管弦楽団は、農閑期だけに全道からメンバーが集って練習し、年1回の公演を道内各地で続けており、今年(注:2009年)2月1月には第15回の演奏会を岩見沢市民会館で開き、混声合唱団と共演してカンタータ「土の歌」等を演奏する予定である。団員約70名のうち、農家は20名弱、他は農業試験場や道庁農政部職員、農協職員、農業関係の学校の先生や生徒など多くが農業に関わるメンバーである。
  しかし、私にはまだ夢がある。それは、『農民芸術学校』を創ることである。賢治の羅須地人協会に通っていた農民たちは、そこを「農民芸術学校」と呼んでいた。賢治が農学だけでなく芸術についての講義を多くしたからである。私の目指す『農民芸術学校』は、芸術を学ぶよりもまず、農業により自立する技術を身につけるためのものだ。それは、芸術をするための経済的な必要からの自給でもあるし、そのような大地と共にある生活からこそ、真の芸術が生み出されると信じているからでもある。また、混迷を深める世界を救うためには、危機に瀕している自給的農業を復活させなければならないし、真の芸術がそのための大きな力になるとも考えるからであり、世直しとしての意味もある。『農民芸術学校』の構想は、経済一辺倒の大量生産大量消費の時代を終わらせ、真に人間的な生き方のできる世界を実現するため、という壮大な目的を持ったものでもあるのだ。

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