資本主義を終わらせ、自給主体の新しい社会を作ろう!
 
     米国発の金融危機に端を発した世界同時不況により、世界中で失業者が増え、企業の倒産が相次ぎ、経済が行き詰まっている。誰も彼も、緊急事態であるから、経済活性化のために景気浮揚策が必要だなんて言っている。しかし、もうそんなことで経済が立ち直ることもないし、そうするべきでもない。
 景気の変動は資本主義につきものだが、基本的に右肩上がりでなくてはならない資本主義が、永久に続くことはない。本当は資本主義がもう終焉を迎えようとしていることに、そろそろ気付くべきである。有限な地球において、資源の枯渇や生態系の破壊も、これ以上の経済成長を許さない段階に達しているし、資本主義に基づく現在の社会経済システムを、この辺でもう壊さないことには、取り返しのつかない大変なことになる。
 社会主義体制は、資本主義体制より先に破綻してしまったけれど、それは経済システムとして破綻したというより、人間の自由を束縛する社会体制が行き詰まり自滅してしまったのであり、資本主義が正しかったことを証明したわけではない。資本主義をこのままにして、多少景気がよくなったところで、無駄遣いをして借金を増やし、ゴミを増やして環境を破壊するだけのことである。一時しのぎでツケを後世に残してしまっては、ますます未来は暗いものとなるだろう。

 資本主義とは何なのか。それは、資本家が労働者に賃金を払い、労働者が生産したものを資本家が高く売ることで利益を得て資本を増やすことができ、また利息をつけて資本を貸し出すこともできるという制度である。従来の社会主義国は、労働者の国家ではなく官僚国家であり、国家が資本家の役目を担っただけであり、根本的な資本主義の克服にはなっていなかったことこそが問題だったのではないだろうか。現実には、社会主義国(ナチス・ドイツやソビエト連邦など)は資本主義以上の人間疎外を生んだという歴史に学ぶべきであろう。
 資本主義を終わらせるということは、労働者自身による経営だけを認めるということであり、利息というものも禁止するということでなければならない。利息の禁止は、イスラム社会では当然のことになっている。そのようなシステムこそ、平等で自由な社会を保障し、永続的に維持できるものではないだろうか。また、デフレ・スパイラルからの脱出のためにも、ゲゼルの提唱したマイナス利子(放っておくと貨幣の価値が下がるシステム)も検討に値すると思われる。

 さて、我々の日常生活は、資本主義のおかげで便利な暮らしにどっぷり浸かっているが、よく考えてみると本当に必要なものなんて、非常に限られているのである。現代の最も大きな問題は、様々な便利な物にとり囲まれてはいるが、それらなしには生活が成り立たなくなっていることだ。昔は、何もなくても生活できていたのが、今は生活に必要なものが増えすぎてしまっているのである。昔と今と、どちらが本当に豊かな生活と言えるだろうか? 気がついてみれば、資本主義の罠に、まんまとはまってしまっていたという訳だ。自給したくても、できない社会構造になってしまっているのである。いざ、石油がない、お金がない、という時に、もはや生きていくことさえできない。そういう世の中になってしまっているのである。
 本当は、自動車もパソコンも、携帯電話も携帯プレイヤーも、全く必要ない。自動車は、日本では高度成長期から普及するようになったが(中国ではごく最近)、パソコンや携帯電話などは、まだ普及しはじめて10年ちょっとくらいのもの。ほんの少し前まで、そんなものがなくても誰も困ってはいなかった。
 パソコンなんかなくたって、紙と鉛筆、そろばん、本があればいいし、移動手段は徒歩か自転車でいい。重いものを運ぶのには馬車を使えばいい。馬は草で生きていけるから海外から石油を運んで来る必要もない。馬や牛で耕せばトラクターもいらない。電話はあった方がいいが、常に持ち歩かなくてはならない生活なんて、どうかしている。音楽は、生の楽器で演奏する方が感動するし、常にイヤホンで聴いている必要は全くない。
 しかし、今では私もパソコンがなくては事務作業ができない。農産物を消費者に買ってもらうのにも、電子メールによる通信がなければやって行けなくなっているし、販売の大半はトラックによる宅配便に依存している。自動車なしには、仕事もできなければ、子どもを学校にも通わせられないし、買い物もできないような状況だ。表面的には便利になったようだが、自由を得たというよりは、不自由になったと言うべきだろう。
  私にとってこういう状況は、望んだものではない。食糧だけでなくエネルギーも、教育も医療も福祉も文化も、みな自給できることが理想だ。「大草原の小さな家」のような生活に、ずっとあこがれている。小さなコミュニティーの中で全て自給できれば、都会は必要ないし、高速道路も新幹線もジェット機もいらない。私は、そういうコミュニティーを作ることが昔からの夢だったし、今でもそういう夢を捨ててはいない。

 キューバという国は、現在でも社会主義を堅持する数少ない国だが、ソ連が崩壊するまでは大型機械や化学肥料・農薬を大量に使って換金作物を大規模栽培するような国だった。いわゆるプランテーション というやつである。しかし、ソ連が崩壊し、アメリカの経済封鎖によって燃料も肥料も農薬も手に入らなくなったことから、自給的有機農業に転換した。キューバはもともと、教育に非常に力を入れていたので、有機農業も微生物やミミズなどを利用した科学的合理的なもので、医療なども世界のトップクラスで世界中に医師を派遣しているほどだ。教育や医療は高度なものに至るまで全て無料で、経済的には最貧国でありながら、世界でも最も国民の満足度の高い国になっている。もっとも、キューバからアメリカに多数の亡命者がいるのも事実で、キューバの全てを肯定するつもりはない。
 日本も、銀行や大企業にお金を遣うのはやめ、自給率40%という危機的状況の農業を建て直し、教育や文化・福祉に、もっとお金をまわすべきだ。防衛費や原発に使うお金をなくせば、大学まで教育費無料にすることも簡単なはずだ。景気を良くすることで暮らしが良くなると考えるのは、幻想であり、間違いだ。無駄をなくし、格差をなくし、自給的に平和に暮らす世の中を目指さなければ、明るい未来はないだろう。

 現代社会は、分業が極度に進み過ぎたことによって、様々な弊害が起きている。農民はかつてのように多数派ではなく少数派となり、一人一人の農民は、かつての農民の何倍もの食糧を生産しなければ生活できなくなった。しかし、決して生産量に比例して豊かになったわけではないし、ほとんどの農民は借金に追われ、芸術や文化とはほど遠い生活をしている。国は、未だに農民をさらに減らして規模拡大を進め合理化すべきという政策を変えていないが、これは経済学の理論から言えば正しいかもしれないが、人間が人間らしく生きるという考え方から言うと、全く逆行している。
 私は、農民一人一人は生産量をどんどん減らすべきだと思う。しかし、そのことで自給率が下がってはいけないし、逆に低迷している自給率は何としても上げなくてはならない。そのためには、農民をかなり増やす必要がある。そうすると、農民は生活できなくなると考えるのが経済学の理論だが、農民は食糧を生産しているのだから、自給すればいいのである。もちろん、農産物を売るだけで、生活の全てを満たすことは出来ない。しかし、自給するだけであれば、それほどの労働時間はいらないのだから、農業以外のことにも多くの時間を割くことができるわけで、その時間を食糧以外の必要を満たすための活動や、芸術などの創造的な文化活動をすればよいのである。皆がそうやって、自給しながら得意分野のことをすれば、経済論理では切り捨てられてしまうような文化も守ることができるし、何よりも現代のように景気が悪くなって失業者が増えるなどということもないわけである。

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