デンマークと北海道
 
 2月11日から18日にかけて、北海道農民管弦楽団はデンマークへ演奏旅行に出かけました。詳しくは次号にて報告することにいたしますが、ここではなぜ農民オーケストラがデンマークへ行くことになったのかを説明します。
 デンマークは北海道と似た冷涼な気候で、人口500万人余りで周囲を海で囲まれているなど、よく似た条件を持っています。そして、農業が主要な産業になっているということも共通しますが、このデンマークの農業は、北海道農業の一つのモデルになっているとも言えるものです。明治政府は、アメリカからのお雇い外国人によってアメリカ式の開拓農業を北海道に導入しようとしましたが、多くの民間人(酪農学園や雪印の創立者である黒澤酉蔵など)がデンマークの農業に注目し、札幌農学校で学んだ内村鑑三も、アメリカではなくデンマークに理想の国家像を求めました。デンマークは、ヴァイキングの時代には、広大な国土を有する大国でしたが、独立したスウェーデンやノルウェー、ロシア、ドイツなどに次々と領土を奪われ、(グリーンランドを除いて)現在のような小さな国土になりました。そこは冷たい風の吹く、荒れ果てた土地でした。しかし、デンマークの人々は、そこにせっせと木を植え、豊かな産物を生み出す農地に変えて行ったのです。そして、そのようにして豊かな国土を生み出した国民は、ヨーロッパで最も古い王室を持ちながら、国の政治は民衆の手により行うという民主主義を確立したのです。
 そして、現在デンマークは、世界で最も生活満足度が高い国になっています。教育・福祉・医療などが全ての国民に保障され、環境(自然エネルギー)やデザインなどの分野においても、世界でもっとも進んだ国になっています。クラシック・ジャズなどの音楽文化も非常に盛んです。そして、このような国造りの基本になっているのは、日本の明治以降のような資本主義的・官僚主義的な考え方とは正反対の思想、民衆=農民自らが主体となって自立した国家を作るべきだと考えたグルントヴィらの「フォルケ オプリスニング」(=民衆の自覚)という考え方です。
  日本で最初に農民オーケストラを創ろうとした宮沢賢治も、このような思想や、イギリスの芸術家であり社会主義者でもあったラスキンやモリスの思想に、強く影響されています。彼が教師として最後の授業「農民芸術概論」を受け持った「岩手国民高等学校」は、デンマークのフォルケホイスコーレをモデルにして、花巻農学校内で一般の農家向けに教養科目を講義するために設けられた学校でした。宮沢賢治の遺志を継いで60年後にできた北海道農民管弦楽団が、デンマークに行くということは、いわば原点に帰る旅でした。
 それにしても、いくつかの偶然がなければ、この旅行は実現しませんでした。デンマーク式の農業を学ぶためのグルントヴィ式の学校を目指して70年前に黒澤酉蔵が創った酪農学園に、室内オーケストラが数年前に誕生し、その酪農学園大学の教授に学生オケ時代の金田先輩が教授として迎えられました。1年半前、 その酪農学園の特任教授であるデンマークのオーフス大学農学部の高井先生が来道されるということを金田先輩から伺い、ヨーロッパに演奏旅行をしたいと考えていることをお話しすると、デンマーク中部のシルケボー室内オーケストラに在籍する木下さんをご存知で、彼女は酪農学園とわの森三愛高校の酪農科のデンマーク研修旅行のお手伝いもされていることが分かりました。これで、この旅行は実現に向けて明るい道筋が見えてきたのです。
  しかし、そこから先はそんなに簡単ではありませんでした。渡航メンバーが揃うかどうか、会場のことや楽器の運搬・借用のことなど、色々な問題があり、渡航日程もメンバーも、昨年の11月くらいまで、なかなか具体的に決まりませんでした。しかし、酪農学園の学生たちが積極的に協力してくれたおかげで、足りないメンバーも揃い、楽器の運搬などの力作業も、若い力でスムーズに行きました。また、酪農学園大OBで、学生時代に農民オケに参加し、その後デンマークに農業研修に行き、デンマーク語の勉強も続けている酪農家の永井さんが、久々に参加してくれることになり、酪農学園とわの森三愛高校酪農科の学生を毎年デンマークに農業研修で連れていっている日通旅行社の山本さんと共に、旅行の準備から遂行まで大きな力になってくれました。また、デンマーク日本人会の役員で北海道出身の君子さん、北海道開発局から在デンマーク日本大使館に出向している武田さんなど、多くの人の協力によって、実にすばらしい演奏旅行が実現しました。というわけで、旅行記は次号のお楽しみ。

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