天地創造の神と人類に課せられた使命

     旧約聖書の冒頭、創世記第1章に記された天地創造の順序は、宇宙と地球の歴史に関する最新の科学的研究成果と驚くべき一致をみています。この物語を、単なる神話と考えていた過去の人々に比べて、現代の我々は聖書をよりいっそう真理の書と認めることができるのかもしれません。私は聖書を一字一句正しいと考えるファンダメンタリズム(原理主義)には同意できませんが、宇宙自然を創造し、民衆の視点による歴史を支配する神について書かれたこの聖書には、神の意志が働いていて、人類を救う鍵も隠されていると思うのです。その天地創造の7日間を現在の言葉に直せば以下のようになるでしょう。
(もっとも、この創造神話はメソポタミアの洪水後に現れた乾いた土地において、支配者=神々が原住民に対して、農耕牧畜という労働を命じたものに過ぎないという説もあり、事実、他のオリエント地域の神話はまさにそのような内容のもので、ここで神が聖書の中で唯一自らに対し我々という複数型の単語を用いていることからも、それらの神話が混入しているとみることは正しいでしょう。しかし、それでもなお現代の科学的宇宙史観に酷似していることは否定しようもなく、単なる偶然にしてはでき過ぎています。)
第1日目.宇宙の始まり(ビッグ・バン)。その後、原始地球の誕生(濃いガスと水に包  まれた暗黒の世界)に続いて光が地表に届き、夜と昼の交替が始まる。
第2日目.大気の生成。海と雲の生成による水循環。広い大陸の出現。
第3日目.陸生植物、種子植物の出現。
第4日目.太陽、月、星が大気を通して識別できるようになり、季節の推移が始まる。
第5日目.恐竜、海獣、鳥類の出現。
 そして、野生の、また飼い馴らされる陸の哺乳動物(草食のみ)の出現。
第6日目.人類(ベジタリアン)の出現と、生態系管理の人類への付託。
第7日目.天地万物の完成と、創造者の安息。
 この第6日目については、人間は神に似せて造られ、神からすべての生物の支配を任されたと記されています。この言葉を、好き勝手に自然を利用しむさぼり、神の創造の秩序を破壊する行為の正当化として使うことが間違っていることは、もちろんのことです。キリスト教会が、この創世記の理解を誤って現代に至る環境破壊に加担してきたことは否めません。今日の危機をもたらした文明が、仏教やイスラム教、ましてやアニミズム・シャーマニズムのような宗教の中から生まれてきたものではないことは確かなことです。
 しかし、もはやすべての生命の未来が、人類の手にかかっていることは明らかあって、この言葉が人類の責任を示していることを理解するのは、現代科学文明がもたらした地球的規模の生態学的破局を目の当りにしている現在の我々にとっては、それほど困難なことではないでしょう。
 おそらくは、ローマ帝国によるキリスト教迫害政策から積極的容認政策への転換において、聖書解釈が様々にねじ曲げられたことが、現在の正統派キリスト教神学の中に連綿と受け継がれているのだと思われますし、聖書そのものの成立時点で、すでに様々な形で刺を抜かれたものになってしまっていることも事実と思われます。しかし、それでもなお疑いようもなく、聖書は支配し搾取する者を裁き、貧しく弱く虐げられ蔑まれる者を解放する神について書かれた書物でありますし、聖書の神が決して人間による自然の搾取を容認するような神でないことは、聖書を一貫して読めば理解できることなのです。ノアの箱船で有名な創世記第6章において、すでに人類の行為が地上の生態学的平和を乱していることを神は戒めているのですし、詩編の第104篇は、神の被造物としての生態系の中で、人間はその一つの部分でしかないことをよく示しています。イエスも語っています、「栄華をきわめたソロモンでさえ、この野の花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と。


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