徒食の人

かれらの欲するところのものは文明にして、文明の元素にあらず、
かれらの策(もと)むるところのものは道徳にして、道徳の基礎にあらず、
かれらは現世を楽しまんと欲する者にして、来世を嗣(つ)がんと欲する者にあらず。
ゆえにかれらの文明は進まず、かれらの道徳は日々に廃頽し、
かれらは現世について不平を唱えてやまず。かれらはただ実を食わんと欲する者にして、
樹を植えんと欲する者にあらず。 かれらは労働を好まざる徒食の人なり。
      (内村鑑三『内村鑑三所感集』岩波文庫より) 

 1901(明治34)年は、田中正造が足尾銅山の鉱毒について天皇に直訴した年であり、内村鑑三もそれに先立ち鉱毒被害地を視察している。彼もまた、渡良瀬川流域の農地を死滅させ、30万人農民の健康をおかし困窮におとしめている資本家の暴虐にたいして、痛烈な怒りの言葉を発している。この頃から、日本は急激に国家全体主義化していくことになるが、彼はそんな流れのなかでまさしく孤高の預言者としての生涯を貫徹する。

 彼の言葉は、まさに現代日本人に向けて発せられているかのようである。銀行がつぶれ、企業が次々に倒産する時代がふたたび到来しつつあるが、人々は何をおいても景気を回復させるべきだという。また中学生までが凶悪犯罪を次々と起こすようになり、人々は学校でも命を尊ぶ道徳教育をしなければならないという。便利で豊かな暮らしのためと、多額の赤字国債を発行してでも山河を削って土木工事をおこない、必要のない山奥にまで立派な自動車道路をつくり、何万年と放射能を発しつづける廃棄物の管理を子孫におしつけてまで原子力発電をおこない、必要のない深夜にまでテレビ放送をして電力の消費をさせようとする。多くの人は、そんな世の中を享受できればそれでよいと考えている。

 しかし、預言者はいうのである。それは、樹を植えずに実を食おうとすることであると。実を採るために樹を育てるものには、文明も景気も関係がない。いかなる文明も、いかなる景気も、いずれ崩れ去る泡に過ぎないことを知るべきである。景気によらなければならないような生き方は、破滅への道でしかない。また樹を育てる者は、実を採るために命を育まなければならないことをよく承知している。命が尊いものであることは、教科書で学べるようなことではない。ましてや、刀狩りをして犯罪がなくなるものでもあるまい。生存のためには、ナイフの正しい使い方こそ教育すべきなのである。そして、何億年の遺産である天然鉱物資源を百年あまりで使いつくすことにより成り立っている現代消費文明は、環境破壊を地球規模でおこない、化学物質の濫造、遺伝子操作などによっても生態系を攪乱し、未来をも飲み込もうとしている。これらの科学技術文明は、不労徒食の輩により考え出された、悪魔の知恵といってもよいのである。

 そんなものは捨てて、実のなる樹を植えようではないか。土を耕し、種を蒔こうではないか。誰もがそうやって生きるべきなのである。鑑三がいっている樹とはキリストに他ならぬが、人が罪を知ったとき、人は土を耕して生きる務めを負ったのであるから、そのように生きることによってのみ、神との関係を回復する救いが得られるのである

(「愛農」1998年4月号 巻頭言)  

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