農民芸術学校を作りたい!

     宮澤賢治は、『農民芸術概論』で自分の理想を著し、それを具体化するために学校教師を辞めて羅須地人協会を設立した。そこで彼は、農民を集めて色々な講義をしたり、セロやオルガンを使って西洋音楽も演奏した。しかし、その働きはわずかに2年で頓挫してしまう。彼自身もだんだんと健康を損ね、私の現在と同じ年齢で息をひきとった。
 彼は、少し早く生まれ過ぎてしまったのかも知れない。天才とは往々にしてそういうものだ。その時代や、周囲からはなかなか理解されず、急速に燃えつきた生涯を送ってしまう。しかし、そういう人がいなければ、世の中は変わらない。
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 私は、なぜこの「えこふぁーむ」を創ったのか。そして農民オーケストラを創ったのか。早くも前者は8年目、後者は6年目になるが、ちょっとマンネリになってはいないか。初めの理想は、まだまだ高い処にあったのではないか。自由を得るための自給であったはずだが、どれほど実現できているか。食はもちろんのこと、エネルギー、衣、住、教育、医療、文化…自給すべきものは山ほどある。なぜ、そんなに自給にこだわるのかって? 人間は、もともと自給する動物だから。自給をやめて、他人にたよるようになった瞬間、そこに生まれるのは支配と被支配の関係だ。私は、支配されることが大嫌いで、だから支配することも嫌いだ。だったら、自給するしかないじゃないか。みんながそういう方法をとれば、世界はもっと早く変わるだろう。
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 宇宙空間にロケットを打ち上げ、コンピューターの通信網で世界中が瞬時にコミニュケーションできるようになった現代においても、人間の生命は土から穫れたものを食うことでしか維持できないし、その生命も寿命が来たら土に戻るしかない。数百万年の人類の歴史の中で、ロケットやコンピューターはわずか100年前にも空想物語でしかなかった。それを実現した人類の可能性は大したものだが、生物としての人間はちっとも変わってはいない。土に根差して生きてこそ、真の喜びを味わえるし、コンクリートやプラスチックに囲まれた空間で、薬浸けのものを食べていて心身ともに健康であることはできない。土に根差して生きる農民による、真の幸福を得られる社会を築くべきではないだろうか。
 ピラミッドを築いた古代エジプト文明が滅んだように、高層ビルを競って建て、核エネルギーと遺伝子操作という神の領域に踏み込んでしまった現代文明も、いずれ滅びの時を迎えるだろう。20世紀ほど、大量殺りくが行なわれた時代もなかった。その最後の年に、コンピューターで情報を交換し合っていたアメリカの優秀な高校生のグループが、マシンガンで同級生を大量に殺すことを考え、それを実行した。テクノロジーの力が最も有効に働くのは、残念ながら暴力と妄想においてである。彼らは、ヒトラーの思想と、ハードロック音楽に魅かれていたらしい。両者とも、今世紀の産物である。聖書を読み、ベートーベンの田園を聴いていたら、あんなことにはならなかっただろう。
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 なぜ、クリントンは、ヨーロッパ最後の独裁者ミロシェビッチをやっつけるために、ユーゴを空爆して民間人を多数殺し、石油コンビナートを破壊して毒ガスによる最悪の環境汚染を招くことを承認するのだろうか。テクノロジーの粋を極めたNATO軍という暴力装置を支配下においていることが、判断を誤らせているのだと思う。道具を持つと、何でもできるような気がしてくるものである。「銃が人を殺すのではない。人が人を殺すのだ。」とアメリカ人は言うが、じゃあ素手で人を殺せるかと言えば、そんなに簡単ではないはずだ。アメリカの軍隊は世界の警察を気取っているが、日本の自衛隊は自衛のための軍隊なんだろうか。そんなのは妄想に過ぎない。軍隊は暴力装置以外の何物でもない。決まったばかりの日米ガイドラインによれば、日本は自国防衛だけでなく、周辺国の戦争にも関わる義務を負うことになった。これは大変に危険な兆候である。自衛隊と米軍基地がある限り、日本には平和はやって来ない。ついでに言えば、天皇制がある限り、真の平等もあり得ない。君が代に反対する前に、はっきり天皇制にNOを下すべきである。
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 話がだんだんそれてきてしまったが、私の理想は、すべての人が自由に生き生きと暮らせるということに過ぎない。そのために、有機農業を実践し、音楽活動をやっているのだ。そのことが自己満足で終わらないようにするために、若い人たちに伝えて行けるような場がなくてはならないと思う。それが農民芸術学校というわけだ。どうしたら、学校が創れるか。これは一人の力ではどうにも無理だ。まだその具体的なイメージはつかめていないけれども、個人の力ではできない自給も、少人数の学校くらいの規模になれば可能になるだろう。そうすれば、私のやりたかった理想にもっと近づくことができると思う。
 学校教育も行き詰まっている。塾で学力をつけ、学校では管理されることだけを学び、社会に出て行く子どもたち。そんな子どもたちは、かわいそうである。学校で道徳教育をやろうということには、私は絶対反対である。学校は、勉強するために行くところであってほしい。もちろん友だちと遊ぶ場でもあり、体や心は自然に鍛えられるだろう。それを上から押しつけてやるのであれば、子どもたちだって反発するだろう。そんな子どもたちや青年が、自らやりたいことを見つけて学べるような学校が欲しい。
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 農民芸術学校ができれば、そこでは自然の中での労働と、社会への奉仕ということが2つの大きな柱になる。働かずに食うことはできないことを、まず理解しなければならないし、そのような勤労なしに芸術などということは許されないのである。アリとキリギリスの話ではないが、好き勝手なことをやって芸術だなどというのは間違っているし、かといって、ただ労働だけがあるのでは余りにも空しい。
 現在の日本では1割に満たない人たちが、農業に携わっているに過ぎない。このことは農家にとっても、非農家にとっても不幸なことである。なぜなら、農家は大量の農産物を効率よく生産しなければ経営が成り立たず、自分の人件費も出ないような過重な労働を強いられているし、一方で消費者は少しでも安い食料品を買おうとして海外の農産物や農薬浸けの作物を食べている。経済的に余裕のある人たちだけが、高価な有機農産物などを手に入れることができるような状況だ。農家が半分くらいいた時代にはそうではなかった。農家もちょっと頑張れば、もうけることもできたし、そうでなくとも自給を主体にすれば生活できた。消費者も、新鮮で安全な食材を身近に調達することができた。戦前の農本主義を復活させようと暴言ではない。少なくとも3〜4割の農家人口がいるような社会に戻る必要があると思う。そして、農家もサラリーマンも、等しく文化や芸術を享受できるようになるべきだろう。
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 問題は、どのようにしたらこのような学校ができるかということだ。農民オーケストラの方は、当通信の第2号で10年以内に作りたいと宣言して3年目に始めることができた。賛同する人たちの協力により、私の考えに全くなかった方向でのスタートであった。この農民芸術学校がどのように実現できるのかも、現在の私には全く分からない。このヴィジョンに賛同できる方は、ぜひご意見をお寄せ下さい。お待ちしています。


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