米と日本人

     食品としての米は、日本人の健康にとってかけがえがなく、まぎれもなく主食と言えるものである。欧米には主食という概念がなく、パンだけではカロリーも蛋白質も十分に取ることはできず、勢い肉食に傾くことになる。パンの蛋白質含量は米よりやや多いが、米の蛋白質には人体に必要なアミノ酸が9割近く含まれるのに対し、小麦には3割ほどしか含まれていない。従ってパンで蛋白質を採ろうとしたら一日に1.5kgも食べなければならないが、それはちょっと無理である。ジャガイモなどは、カロリーはあるのだが蛋白質をほとんど含まないので、パン以上に肉食を必要とする。米は、1日3合食べればカロリーの必要量を満たすことができるし、蛋白質も5合食べれば(食べ過ぎだが)大半を満たすことができて、大豆とか魚で米に含まれないアミノ酸を少量補えば足りる。米(これが玄米ならばなおさらよい)と大豆(豆腐、味噌など)、野菜に少量の魚と海藻(昆布やワカメ、ヒジキ)、わずかな塩があれば完璧な長寿食の完成である。肉や牛乳、卵も栄養価は高いけれど、日本人の体質に必ずしも合っているとは言えないし、日本の伝統食はヒトの食性から言っても理に叶って健康的であり、世界的にも注目されてきている。すでに明治時代、石塚左玄は食養論で伝統食の正しさを科学的にアピールし、それを受け継いだ桜沢如一のマクロビオティック(玄米正食)運動も世界に広まっている。
 作物としての稲も、日本(を含むアジア・モンスーン地帯)の気候に適した非常に生産性の高いものであり、単位面積当たりのカロリー生産では小麦など足下にも及ばない。しかも、小麦と違って連作により生産性が落ちることもないし、裏作に麦を植えて2毛作とした時の光合成量は、熱帯雨林のそれに匹敵するものとなる。そのような食糧生産における価値だけでなく、水田の国土保全機能にも見逃せないものがある。傾斜地の多い日本列島において浸食防止の効果、洪水防止や地下水供給の機能にも驚くほど大きいものがある。川をせきとめ村を沈めて巨大なダムを築いても、いずれ土砂で埋まってしまうのであり、水田を守ることの方がよほど効率がよく、環境にも優しい。
 さて、以上のように米と水田の優れた点を列挙したが、歴史的、社会的にみると否定的な側面というものを見い出すこともできる。それは、民衆つまり農民の立場にとってのことであるが、米の生産というものが支配と搾取の道具として、とても都合の良いものであったということである。日本における米の生産は、最近では縄文時代からあったことが各地の遺跡で確認されているが、組織的に生産されるようになった弥生時代以来、戦中戦後の食管法の時代を経て現在に至るまで、常に支配者によりコントロールされ民衆支配の要として用いられてきた。米は生産性が高く貯蔵性もあるが故に、その余剰生産力は支配階級を生みだし、支配階級はさらに生産力を高めるために土地や水をコントロールし、百姓は敗戦によりアメリカの統治下で農地解放を受けるまで、常に高率の年貢米を取り立てられ土地に縛り付けられ、搾取される階級に甘んじてきたのである。百姓に自由が多少なりともあったとすれば、それは米の生産においてでなく、縄文時代と同様にイモや雑穀を作って食べる自由であり、ドングリやトチといった木の実を加工して食べる自由であった。米を作ることに、一切の自由はなかった。米を作りながら、米を食うことさえできない百姓が、いくらもあったのである。日本の支配階級の頂点にあった天皇が、古代天皇制の時代から現在に至るまで変わらずにあるのは、稲作の祭司であるという点であり、はんこを押すことが仕事ではなく、新嘗祭(ニイナメサイ)を執り行なうことが最大の務めであって、日本において米が支配の道具であるということは、このことからも明らかである。江戸時代には天皇の支配力が相対的に低下し、徳川氏が300年もの長きにわたり強大な中央集権国家を維持したが、この封建制も石高(こくだか)つまり米の生産量によって権力の大きさが決まる幕藩体制により支えられていた。徳川氏が京都ではなく江戸に居城をおいて政治を行なったのも、当時はまだ辺境に近かった関東での新田開発を、権力を築くために最も重要なことと考えたためであろう。
 その徳川幕府も明治維新により倒されると、西欧風の近代化が進められ、天皇も祭司というより西欧風の絶対的なものに作り変えられるが、地主(国内最大の地主は天皇)と資本家の連合による権力掌握により、相変わらず農家は高い小作料をまき上げられ、また生産した米は米穀商の投機の対象として買い占められたりして、大正時代には米騒動に発展した。昭和に入り国家全体主義が色濃くなると、米の生産は国力を支えるものとして農本主義が台頭し、外交的には満蒙開拓という建て前で天皇の名の下での侵略戦争が行なわれることになる。徴兵により農村の労働力が失われた戦中には、配給制度と食糧管理制度ができたが、戦後の混乱期を経て食糧管理制度は、生産調整(減反)などで変質させられながらも最近まで生き残ることになる。しかし、コメの輸出をもくろむアメリカの外圧と輸出産業中心の資本家によりそれはついに解体させられ、コメだけは完全自給するという政策も放棄された。戦後、アメリカ進駐軍が「コメを食べると頭が悪くなる」という宣伝をしてパン食を普及させようとしたことがあったが、もはやパン食がある程度普及した現在は、米国(皮肉な当て字)もついにコメを日本に向け輸出しようということだろう。コメの輸入解禁は、GATTウルグアイラウンドで決定され、93年の平成米騒動が一つのきっかけともなり、自民党政権が倒された細川連立政権下で決定されたが、それ以前より周到に仕組まれたものでもあった。かつて資本家とともに自作農民の支持により成り立っていた自民党政権は、食糧管理法において消費者価格より生産者価格を高く設定する逆ザヤにより農民の利益を誘導していたが、食管赤字がかさみ、賃金を抑えるために主食であるコメの価格を下げよと言う資本の声にも屈して86年から逆ザヤを解消し、同時に備蓄用の古米在庫を大幅に減らし始めた。そこに到来した93年の冷夏での凶作は、起こるべくして起きた作られた凶作と言える。タイ米が急きょ輸入されたが日本人の口に合わず売れ残り、米屋ではタイ米を買わないと日本の米を売らないという抱き合わせ販売の措置まで採られたが、タイ米はいらないと路上に捨てられる事態が起きた。小麦と違い、貿易流通量の少ない米の国際価格をつり上げてまで米の緊急輸入をし、食糧難の貧しい国に迷惑までかけておきながら、その米を捨てるなどというのは、全く非道なことである。しかし、日本人の口に合わないことがわかっている長粒種のタイ米を主食用に輸入すること自体に、問題があったとみるべきだろう。
 さて、このように常に国家権力に利用されてきた米であるが、現在では正々堂々と国を通さずに販売することができるようになり、価格は生産費を割るほどに低下してきているものの、有機栽培米などは消費者との直接売買が主体になってきている。これは、望ましい傾向であると思う。このような方法が流通の主流となることは難しいかもしれないが、工業製品同様に、農産物も生産者が自分で価格を決められるようにならなければ、いつまでも農家は搾取される対象である。有機農産物認証制度も、それに伴うコストをかぶるのが生産者であれば、有機農業を広めることには結びついていかないに違いない。
 北海道の稲作農家は次々と淘汰され、内地のように自給用稲作を主体とした兼業農家はもうほとんど残っていない。ここ余市や仁木などは、過去に水田だったところの多くがブドウなどに転作されてしまい、もう水田はわずかしかない。そんな中で我々新規就農の仲間「しりべしなんでも百姓くらぶ」では、今年から小麦に続いて米も共同で作ってみようということになった。仁木の山川さんのように、すでにブドウ棚を倒して1反ばかりの水田を作って自給している人もいる。こんな効率の悪いことは、北海道の一般農家ではありえない。今では10町歩(100反)以上なければ北海道の稲作経営は成り立たないと言われているのである。酪農でも50頭以上いなければ成り立たないとか、とにかく規模を大きくすることが合理化であると言われ、北海道はEU諸国以上の規模拡大を推し進めている。そんなにアメリカの方ばかり向いてどうするのだろう。もともとアメリカの指導のもとで北海道の開拓が始まったとはいえ、ここはやっぱりアジアであり、アメリカもいいけれど、少しはヨーロッパを見習ってもよいのではないだろうか。


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