農地を守る闘い

    前々号に引き続き、農地について述べたい。前号にてアリスファームの藤門氏の意見を掲載させていただいたが、よくよく読み返してみると、藤門氏は私の文章を誤って読んだのではないか。指示代名詞が何を指しているかが、分かりにくかったのではと反省しているが、私は三里塚の農民の闘いはエゴによるものではないと言いたかったのである。藤門氏はエゴの質を問うべきだと言われたけれど、私の使ったエゴは、自己中心主義(エゴイズム)のことであり、人間の生き方として、これは最もレベルが低い。もちろん、かといって戦前の天皇中心主義に代表される全体主義(ファシズム)のように、個人の価値をおとしめることは許されない。しかし、個人の自由を尊重することと、自己中心主義とは全く相容れるものではないのだ。現代若者の不幸は、誤った個人主義に冒されていることにある。完全な自由は、他者への愛によってしか得ることができない。それを理解せずに、現代社会の乱れを正すため、戦前の教育勅語の世界を復活させようという森首相のような連中が自民党などには相当いるが、そのような道徳は、権力者にとってのみ都合の良い道徳である。
 三里塚(成田)空港反対運動が権力の策動により分裂させられる以前、反対同盟委員長として農民から強い信頼を得ていた今は亡き戸村一作は、熱心なクリスチャンであった。彼はエゴイズムとは正反対の、絶対者である唯一の神を中心とする世界観に基づき、この世の権力と鋭く対立した。彼は、単に神から与えられた肥沃な農地を守るということだけでなく、それが国家独占資本との闘いであり、天皇制との闘いであり、アメリカ帝国主義との闘いでもあることを理解していた。そして政治的に偏ることはできないと言い訳し、この世と妥協して結果的に反動を助ける既成キリスト教会とも鋭く対立し、合法闘争という欺瞞的な反革命立場に伍してしまった日本共産党とも対立せざるを得なかった。
 新国際空港が造られることになったのは、もちろん農民による要請ではなく、資本による要請があったからだが、三里塚という土地が選ばれることになったことには、天皇と米軍が深く関わっている。そこは戦前、北海道新冠と共に天皇家の牧場である4000haの下総御料牧場があった土地であり、敗戦時にアメリカ独占資本の利益のため天皇を裁かなかった占領軍GHQは、農地開放時に300haも、そのまま残した。それがあったから、残りのわずかな農地を買収すれば空港が造れると権力者は踏んだ。時の権力者に対して無力かつ無能であったために数千万人の人命を奪う太平洋戦争を招いた重罪人であるヒロヒト天皇は、この時にも権力者に無力にも御料牧場を差し出し、再び三里塚の農民の血を流させるという犯罪に手を貸したのであった。この闘いには全国の市民や特に学生運動が力となり、機動隊の側にも死者が出る事態も招いてしまったが、農民の武器はよくて鍬であり、飛び道具は糞爆弾という本来は平和的なものであった。機動隊のような暴力装置がなければ、農民も決して暴力を振るうことはなかったのにと思う。それより本当の戦争を起こした張本人がなぜ裁かれなかったのか。ヒロヒトが死んで広大な陵に納まってしまった今となってはどうしようもないが、太平洋戦争は天皇の名により宣戦布告され、天皇の軍隊は天皇の名の下にアジア民衆を殺りくしたのであり、天皇ヒロヒトがいかに平和を望んでいたとしても、そのような犯罪を生んでしまった天皇制を残している日本という国が私には理解できない。天皇制に比べればオウム真理教なんか、ちゃちなものである。
 さらに、空港に三里塚が選ばれた最大の理由は、東京近郊には横田、厚木、立川、府中、百里といった米軍基地がひしめき、米軍飛行空域が優先される日本の空で、過密な羽田空港をそのままにして民間機が自由に飛べるところが、関東周辺ではその辺しかなかったからである。自民党政権は、天皇には都合良く言うことをきかせるが、米軍には一言も物が言えず全く頭が上がらなかったのである。これは、今でも全く変わらない。
 さて、三里塚と並び農民運動の鑑と言われたのが、私の故郷は山梨県の北富士演習場の忍草入会(しぼくさいりあい)組合と忍草母の会である。こちらは敗戦直後から、ずっと権力と闘ってきた。ここは厳密には農地ではなく、農民になくてはならない堆肥や飼料、建築材などを得るための自主管理の共有財産としてあった入会地であるが、演習地として農民の立入りが禁止されていたにも関わらず、この入会組合だけは金銭と引き換えの条件闘争を拒否し、着弾地のどまん中に次々と入会小屋を建て、ばあちゃんたちが一日も欠かさず立てこもるゲリラ闘争を続けた。ここでも、不発弾等による死者が何人も出た。この土地も、天皇と米軍が深く関わっている。この入会地は江戸時代からのものだが、明治11(1878)年、一方的に大半が官林とされ、明治22(1889)年には御料林、つまり天皇家の私有財産とされ農民の立入りが禁止された。しかし、農民は生活の糧を失うわけにはいかないからゲリラ的に盗伐し、火を放って証拠を消した。手を焼いた政府は明治44(1911)年、山梨県内の御料林の大半を恩賜林として県に払い下げる。そこで、再び農民は入会地として公に利用したのも束の間、軍靴の響きも高まる昭和11(1936)年、ここは陸軍の演習場となる。そして敗戦後はGHQにより接収され米軍の演習場となるわけだが、忍草の長い闘いの成果もあって、昭和48(1973)年には日本に返還されることになる。ところが、忍草の求めていた平和利用ではなく、そのまま自衛隊の演習場となり、さらに米軍との共同演習も行なわれるようになり、現在に至っている。全く政府のやり方は汚いが、それを許す知事、県民もなっていない。沖縄も、大田知事を再選できなくて、基地開放が遠のいた。条件闘争や合法闘争では、本当の勝利を得ることはできない。条件闘争は魂を売ることであり、合法闘争は敵の論理を認めることであり、どちらも最初から敗北だ。
 さて、北海道ではどうなのか。北海道にも自衛隊の演習場がわんさかある。沖縄の基地を減らす代わりにという名目で、全国で米軍との共同使用も行なわれるようになり、道東の矢臼別演習場では沖縄の海兵隊が来て実弾演習をやっている。その中でも、てこでも動かない酪農家が頑張っている。爆弾の音で人間はもちろん牛のストレスも相当なもので乳量は少なく、補償金をもらえば生活は楽になるだろうが、農民魂はそれを許さない。
 かつて島松・千歳・恵庭にまたがる北海道大演習場では、1967年に演習場を分断する位置にあった野崎牧場の兄弟が自衛隊の通信線を切断する実力行使に出た。これは、恵庭事件として裁判闘争となったが、北海道平和委員会、北海道キリスト者平和の会など、市民、宗教者、学者らが強力な支援をして、明らかに違法行為だが無罪を勝ち取ることができた。さらに1970年からは北方をにらんだミサイルを配備するための長沼ナイキ基地の誘致に対して反対運動が起こり、これは地主の農民が原告となる裁判闘争を上記の裁判を闘った人たちが中心に支援し、1973年には裁判史上画期的な自衛隊違憲判決が札幌地裁で出された。自衛隊は憲法で禁止された陸海空軍であるとし、従ってその基地を認めないという判決を出す裁判官がいたことに感銘する。現在では望むことすらできないことである。
 最後に、日本の農地を守る闘いにおいて、忘れてはならない人物について述べなければならない。日本初の公害問題でもあった足尾鉱毒のために、命を賭けて闘った田中正造である。明治中期、古川財閥の足尾銅山により丸裸になった山から鉱毒が流れ頻繁に水害が起こるようになったため、渡良瀬川下流の谷中村が遊水地として葬り去られようとしていた。富国強兵の国策のため、美しい山河は荒らされ、民衆の声は封ぜられた。次々に農地が買収される中、国会議員であった彼は天皇直訴なども試みるが成功せず、最後には議員を辞めて村に入り、農民と共に最後まで農地を守り、そこで生涯を終えた。彼を支えたのは、獄中手にした一冊の新約聖書であった。聖書の神、そしてキリスト=イエスは、この世の権力と鋭く対峙するが、その本質は、あくまでも愛である。それは、偏りのない愛ではない。富んだ者、力ある者はひきずり降ろされる。いと小さき者、つまりこの世的には力のない貧しい者こそが、神の御心にかない、救いを得るということが記された書物である。この書物こそ、田中正造を、戸村一作を、農民と共に闘わせしめた原動力であった。


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