ごあいさつ ごあいさつ
   本日はお寒い中を、北海道農民管弦楽団の演奏会にご来場下さり、誠にありがとうございます。今や、全国にアマチュアの市民や学生オーケストラが数百とあり、欧米にもこれほどの数の団体はありません。この函館の地でも、いくつかのオーケストラが活動しています。しかし、現代において、農民が主体となったオーケストラというのは、北海道農民管弦楽団が日本ではもちろんのこと、おそらく世界でも唯一のものでしょう。かつて19世紀ロシアには、農奴により編成されたオーケストラがあったとのことですが、一体どのようなレベルのものだったのでしょうか。大変に興味のあるところです。日本では、かつて宮澤賢治が、『セロ弾きのゴーシュ』で農民オーケストラを描き、現実にも農民を集めて練習したのですが、4〜5名だけでオーケストラと言えるようなものではなく、活動期間も1年余りに過ぎませんでした。
 もちろん、このオーケストラも、純粋な農民は10数名に過ぎないのですが、そこに農業を支える様々な職業の人〜農業試験場の研究員や、道の農政に携わる人、農協の職員、農学関係の教職員や学生などが加わり、さらにこの楽団の主旨に賛同する純粋な消費者も加わって、古今東西の管弦楽作品を演奏できる規模と技量を備える楽団に成長しました。それでも、農民が主体であることにこだわりを持ち、農閑期だけに限定して活動しています。1995年1月の札幌芸術の森での旗揚げ公演以来、毎年公演地を変えて演奏会を開いて来ましたが、道南での演奏会は、記念すべき第10回の今回が初めてです。従来は道南方面のメンバーがほとんどいなかったのですが、これを機会に道南のメンバーが増えることも期待しています。
 今回とり上げた曲は、ロシアの2作品と、アイヌへの思いをこめて作曲した新作ですが、これらの曲をこの函館の地で演奏できることは、大変に意義深いことだと考えます。函館とロシアは、歴史的に大変深つながりがありますし、アイヌはもちろん北海道の先住民であり、開拓の最前線にあった函館の地でアイヌについて思いを寄せることは大切なことでしょう。和人による開拓とは、アイヌ民族にとっては侵略であったわけで、アイヌの自然と調和した生き方や文化を再認識することは、ほんの1世紀ほど前に開拓された土地で農業を営む我々にとっても、必要なことであると考えます。
 我々は、大地を耕す農業を行いながら、人の心を耕す音楽をしたいと考えています。英語の文化(カルチュア)という言葉は、耕す(カルチュア)という言葉から来ています。中国で生まれた芸術の芸という文字は、園芸という言葉にも使われるように、人が作物を育てることを意味する文字でした。大地と向き合う労働の中から生まれた音楽が、皆様の心に届くことを願って、本日は一生懸命に演奏したいと思います。

交響詩『中央アジアの草原にて』        ボロディン 1880
 ボロディンは、西欧中心の音楽に対抗して民族的な音楽を志向していたロシア5人組の中でも、ムソルグスキーと共に、最もロシア的色彩の濃い作品を書いている。この5人組は、皆アマチュア作曲家であって、ボロディンはペテルブルグ医大の有機化学の教授を続けながら作曲活動をし、専門の化学方面でも数々の業績を残した。日曜作曲家だったために作品数は少ないが、この曲以外にも、交響曲第2番や、オペラ「イーゴリ公」、弦楽四重奏曲第2番「ノクターン」など、現在でもよく演奏される名曲が揃っている。
 この曲は、ロシアの民族的な材料に基づく映画の伴奏音楽として作曲され、中央アジアの隊商が、ロシアの兵隊に護衛されて進んでいく様子を描いたものである。最初のクラリネットの旋律はロシアの歌で、しばらくして現われる東洋的な音色のイングリッシュ・ホルン(コール・アングレ)で奏でられる旋律が、中央アジア(トルキスタン)の旋律である。これが交互に、または混じり合って演奏され、荒漠とした草原の遠くからやって来て、また遠くへ去って行く様子を実にうまく描写している。この曲は、農民の音楽というわけではないが、大地を感じさせる音楽として、我々にふさわしいのではないかということで、選曲されることになった。

弦楽セレナーデ『カムイ・ユカル』            牧野 時夫 2003
 昨年、アイヌの天才詩人と言われる知里幸惠の生誕100周年であったことから、それを記念して、彼女がローマ字と日本語の対訳で残した『アイヌ神謡集』(岩波文庫刊)から、作りかけていた弦楽合奏のモチーフに合う4編を選んで曲に当てはめた。どちらかというと、曲の方が先にできていたのであって、決してアイヌユーカラそのものを音楽にしたのではない。  知里幸惠は、弱冠19歳で早逝してしまったが、滅び行く民族というレッテルを張られていた当時の偏見と差別に抗して、大自然のなかで幸福に暮らしていたアイヌの文化を高らかに歌い上げた。その民族としての誇りに共感を抱いて、私もこの曲を今は亡き彼女に捧げようと思い立った。
 この曲には、アイヌ的な音遣いも所々あるのだけれど、伊福部昭(『ゴジラ』の音楽で有名。私にとって北大農学部の大先輩でもある日本の誇る作曲家)の作品のように、強烈なものではない。アイヌ音楽よりも、私が今までに聴いてきた、西欧を主とする様々な音楽の要素の方がずっと強いと言えるだろう。でも、これはもはや西欧音楽ではないし、民族的かつ普遍的なものの表現を試みた。
 以前に、やはり弦楽合奏で、民衆的舞踊組曲という、全4楽章からなる合奏協奏曲風の作品を農民オケの演奏会で発表したことがある。当初、私が地元でやっている余市室内楽協会での演奏を想定して作曲したので、演奏も聴くのも比較的容易に受け入れられるものを目指し、その試みはある程度成功したと思う。
 しかし、今回は同じく弦楽器のみの作品ながら、演奏技術的も相当に難度の高いものを要求し、当然、聴き手にもかなりの負担をかけるかもしれない。これが、どのように評価を受けるか分からないが、分かりやすい音楽ということは多少犠牲にして、書きたいものを書きたいように書かせてもらった。このような無理をきいていただいたことを、演奏者の皆さんには特にお許し願いたい。全編にわたって、決して聴き易くはない現代音楽的なところが出てくるけれど、いわゆる前衛的なものでは全くなく、基本的には古典的な作りである。

交響曲 第6番 『悲愴』        チャイコフスキー 1893
 チャイコフスキーは、ロシア5人組と同時代に活躍したが、彼らと違いプロの作曲家であることを誇りにして沢山の作品を残した。彼も元々は法律学校を出て官僚として働いていた時期があったが、音楽をあきらめ切れずにペテルブルグ音楽院でアントン・ルービンシュタンに学び、のちアントンの弟ニコライ・ルービンシュタインの創立したモスクワ音楽院の教授となり、5人組らのペテルブルグ楽派に対して、モスクワ楽派と呼ばれた。モスクワ楽派は、後にスクリャービンやラフマニノフといった作曲家を輩出し、ロシア的であると同時に西欧的ロマン的な色彩も強いが、一方のペテルブルグ楽派は、プロコフィエフ、ストラビンスキーといった、新古典主義的な現代音楽の流れを作ることになった。
 チャイコフスキーは、この『悲愴』を自己の最高傑作と自負していたが、彼自身の指揮による初演は不評であったため、ひどく落胆している。しかし、現在ではベートーベンの『運命』、ドボルザークの『新世界より』等と並んで、日本人にも最も人気の高い交響曲の一つとなっている。
 彼は、この初演からわずか5日後に、53歳の生涯を閉じた。そして、死後12日後に再演され、聴衆はこの時初めてこの曲の内容を理解し、偉大なる作曲家の死を悼んだのである。 彼が死んだのは、生水を飲んでコレラにかかったためとされているが、コレラが流行していた時だったのに不用意に生水を飲むのはおかしいし、当時から自殺説もささやかれていた。彼が精神を病んでいたことや、ホモセクシュアル(あるいはバイセクシュアル?)であったことは、今ではよく知られているが、当時のキリスト教倫理観からは同性愛は受け入れ難いものであった。そこで、ホモセクシュアルであることを皇帝に密告されそうになり、芸術家としての名誉を保つために自殺したのだとか、彼の出身校である法律学校の密室裁判により自殺を強要されたのだという説などもあるが、確かなことは分からない。
 いずれにしても、彼が自分に同性愛の傾向があることを悩んでいたのは事実で、少年時代に母親と引き離されたトラウマがあったり、暖かい家庭を望みながら、結婚してもついにそれを得ることができなかったことなど、彼の個人的な苦悩がこの曲に表現されていると考えることは難しいことではない。
 しかし、この曲に現われた、絶望的なまでの深い悲しみと共にある、苦悩に立ち向かおうとする情熱とか怒り、そして悲しみの中に見える一筋の光明など、それは彼自身の人生を回想しただけのものとは到底思えない。この曲は何よりも、当時のロシア全体を包んでいた重苦しい空気を表現したものであろう。当時のロシア帝国では、封建的農奴制の名残が大多数の大衆を悲惨で自由のない状態に閉じ込め、ツァー(皇帝)を頂点とした一握りの富豪だけが西欧にもないほど優雅な生活を享受していた。それが世界で最初の社会主義革命を成功させることになるのだが・・・。チャイコフスキーは「我々が今日、身をもって味わっている、この陰惨極まりない時代には、ただ芸術だけが、重苦しい現実から注意をそらせてくれる・・・」ということを書いている。彼は、甥に宛てた手紙に「今度の交響曲には表題がある。それは、誰にとっても謎であるべきである。」とも書いているが、後のショスタコーヴィチしかり、圧制に抗議するためには、謎めいた形で行うことしか方法はなかったのだと思う。私が思うには、これは、『音楽による黙示録』である。
 4楽章形式の、交響曲の基本的な姿をとってはいるが、第1楽章が極端に長大であり、最終楽章は短調の緩徐楽章という特異なもので、レクイエム(死者のためのミサ曲)の形式に近いとも言える。
 第1楽章は、ファゴット(バスーン)の不安げな旋律で静かに始まり、そしてヴィオラによりその旋律を変化させた落ち着きのない第1主題、そしてヴァイオリンとチェロによる対照的で甘美な第2主題が現われる。展開部は、全楽器による強烈な一撃で開始され、すさまじい激情の嵐、激しい闘争が繰り広げられる。そして提示部と異なる構造の再現部があり、宗教的なコーダで静かに終わる。
 第2楽章は、何と5拍子のワルツ。でも、この拍子はロシア民謡では、決して珍しいものではない。優美でありながら、何か暗い影もある曲想。中間部では短調になり、ティンパニのリズムが葬送の行進を刻み、哀歌が奏でられる。再びワルツに戻り、この楽章も静かに終わる。
 第3楽章は、ベートーベンにより交響曲に取り入れられたスケルツォ(テンポの早いおどけた感じの3拍子)で始まり、それが徐々に4拍子の行進曲に変化して行く。スケルツォは、それまで交響曲に用いられていた上品で因習的なメヌエットに反して、個人的感情を直接的に表わす音楽であるが、このスケルツォ(タランテラとも言える)は、徐々に打ち消されながら、執拗なまでに繰り返す熱狂的なマーチにとって替わられ、最後はほとんど現われなくなる。この楽章は華やかな勝利で終わるようにも聴こえるが、最後は下降音階で音域を下げ、高音の華やかな楽器が取り残されたまま終わる。この終わり方は、雰囲気は正反対だが、実は第1楽章とそっくりの音列である。そして、これもこのシンフォニーの結末ではなく次の楽章に続く時、この威圧的な力が、実は虚しいものであったことを悟るのである。
 第4楽章は、むせび泣くような弦楽器の悲しい旋律で始まる。しかし、実はこの旋律はどのパート譜にも出てこない。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが一音ずつ交互に演奏して始めて旋律に聴こえる、パズルのようなものである。そのため、途切れ途切れになりそうでもあり、不安定な感じが強調されている。中間部にヴァイオリンとヴィオラによる甘美な旋律が現われ、過ぎ去った青春の日々を回顧するようであるが、ホルンが不整脈のような不安なリズムを刻み続け、甘美さは徐々に悲しみに打ち消されてしまう。再び冒頭と同じ悲しい旋律が現われるが、今度は第1ヴァイオリンだけで確固に演奏される。そしてドラが鳴り響き、幕切れが近づいたことを知らせる。もう一度青春の回顧が現われるが、長くは続かない。そして、徐々に低音だけになって行き、鼓動も段々と途切れ途切れになり、最弱音で息を引き取るように終わる。
 この曲は、これ以上ないくらいに悲しい気分で終わる。でも、これは決して絶望の音楽ではないと思う。少なくとも、甘ったるい音楽ではない。戦争とか権力とかいったものの虚しさを、感じさせずにはおかないのである。そのような暴力的な力によって失われてしまう、美しいもの、かけがえのないものに対する、いとおしみの気持ちが、心が痛くなるくらいに伝わってくるのである。
 封建時代が去った今も、グローバリゼーションという美名の下に資源(自然)と労働(人間)を搾取する自由主義経済が世界を覆い尽くし、反抗する勢力には軍事力にものを言わせる暴力的な支配がまかり通っている。現代にあってもこの交響曲は、人間にとって本当に大切なものは何か、ということを訴えかけているのではないだろうか。

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