北海道の開拓初期を支えた産業の一つがニシン漁。春になると産卵のため大量に回遊してくるニシンを求め、北海道西岸各地はにぎわった。中にはニシン漁で巨額の財を手に入れる人がおり、そうした人々が築いた大きな番屋の一部が現在も保存され、当時の面影をしのばせている。後志を中心に渡島や利尻島、礼文島では番屋がある海岸に、袋澗(ふくろま)という建造物が存在した。
袋澗を一言で表すと、個人所有の小型の漁港といえる。石を積み上げ、間を初期は漆喰、大正以降はコンクリートで固めた構造になっており、小型船の係留や魚が入った袋網の陸揚げに用いていた。
袋間の建造は夏期の短期間に集中して行われた。海中に設置するため防水堤防を作って海水を汲みだし、干拓地を作ることから始まる。海底面を一メートルほど掘り下げ堤体を築き、袋澗内をコンクリートで仕上げた。最後に防水堤防をはずして完成となる。この土木工事には現在の貨幣価値に換算して、億単位の資金を必要としたことからも、当時のニシン漁の繁栄をうかがい知ることができる。また巨大な袋澗を建設するためには防水堤防も、より強固なものでなくてはならず、天候悪化による防水堤防の破壊などの損害もあったという。
袋澗は三百ほど作られ、とくに積丹半島には百二十ほどが存在した。しかし大正以降、ニシン漁の衰退が始まり、昭和の初めには漁を行うことができなくなるほど、ニシンが減った。ニシン漁を生活の糧としていた人たちは去り、多くの袋澗は放置された。袋間の堤体上部は、冬の時化や台風などの強い波の力で破損することがあり、その度に修理されてきたが、放置されて以降は修理されることもなく崩れ、袋澗の内側は壊れた堤体に用いられた石で埋まっていった。また国道二二九号線など道路建設に伴って消失したり、波消し用のテトラポットで埋められた袋澗も数多い。
写真・資料提供:北海道酪農学園大学教授 北海道産業考古学会会長 山田 大隆さん
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