開基百年 上湧別町史173~309
第三編 行 政      第四編 財 政

昭和の小漁師top
開基百年上湧別町史top   町 政 選 挙 人 口 栄 典 広域行政 まちづくり計画 過疎対策計画 土地開発公社 総合庁舎落成 広報・公聴活動 ふるさと会 
                                     祝 典 町民憲章 町花・町木 財 政  


第一章    町 政 
  第一節  地方自治行政の移り変わり   
    オイル(石油)ショックの影響   昭和48年(1973)に始まった中東戦争をきっかけとして起こったオイル(石油)ショックは、わが国のGNP(国民総生産)を戦後初めてマイナスにさせた。 それは、国・地方の税収減をもたらすことでもあった。 そこで、歳出を大幅に減らすことは、地方公共団体の事業量の低下をもたらし、不況感を一層増幅させるので、市町村では、とりあえず地方債の発行を増やして、これに対処せざるを得なくなった。

過疎の進行  上湧別町でも、昭和49年(1974)度の財政は引き締めたものとなった。 また、このころ北海道内の多くの市町村は、人口と資本が集中する札幌市とその周辺の市町村を除くと、不況ばかりでなく過疎化が進行していた。
 上湧別町でも、昭和45年(1970)の国勢調査の人口は9292人であったが、同50年(1975)には8324人へと減少し、それ以降も減り続けている。
 過疎化は、単に人口減少だけでなく、市街地商工業者の売り上げ減少につながるなど、町村の経済力が低下したり、地域コミュニティとしての機能が十分になされなくなるという影響をもたらした。


過疎対策  そこで、行政としても、過疎化で機能できない地区の再編や学校統合、商工業の振興と地域活動充実のための積極的な補助施策の推進を迫られるようになった。
 上湧別町でも過疎対策として、国鉄湧網線(昭和62年)、JR名寄本線(平成元年)廃止後の中湧別駅跡地の再開発、各地区の集会施設の建設等がなされた。


行財政改革  厳しい財政状況下にあっても町の行政量は、医療、教育、社会福祉などは増大する一方で、諸施設の管理の面からも、職員数、人件費、管理費なども増やさざるを得なくなった。 そこで、いかにして譜代化する行財政を、合理的経営によって節約し、かつ経営効率を高めるかが自治体の課題となってきた。
 国レベルでは昭和50年代(1975~)の半ばころ、地方自治体では同50年代後半から、いわゆる行政改革によって行財政の引き締めが検討されるようになってきた。
 こうして、昭和61年(1986)に、全国の各地方自治体では、「行政改革大綱」を定め、事務と事業処理の見直し、組織の合理化、給与の適正化、コンピューターの積極的導入、議会議員定数減などを行うようになった。
 上湧別町でも、同様の行財政改革が進められ、その中でも、町議会議員定数減は2度にわたって行われた。
  第二節  議決機関 
    (1)議会の権限  
権 限  わが国の町村議会の権限は、「地方自治法」によっておおむね次のとおり定められている。
 ①議決権、②選挙権、③検査権、④監査請求権、⑤意見表明権、⑥調査権、⑦請願受理権、⑧懲罰権、⑨会議規則制定権、⑩同意権、⑪決定権、⑫承認権、⑬諮問答申権、⑭報告、書類受理権


議決権  これら議会の権限の中でも一般的に行使されているのは議決権である。 その議決権は、次の15項目に分類されている(「地方自治法」第96条)がこのほかにも既括的に町村議会が「条例で普通地方公共団体に関する事件につき議会の議決すべきものを定めることができる」としている。
 なお15項目の議決権は、次のとおりである。
 一、条例を設け又は改廃すること。
 二、予算を定めること。
 三、決算を認定すること。
 四、法律又はこれに基づく政令に規定するものを除く外、地方税
  の賦課徴収又は分担金、使用料、加入金若しくは手数料の徴収
  に関すること。
 五、その種類及び金額について政令で定める基準に従い条例で定
  める契約を締結すること。
 六、条例で定める場合を除くほか、財産を交換し、出費の目的とし、
  若しくは支払い手段として使用し、又は適正な対価なくしてこれ
  を譲渡し、若しくは貸し付けること。
 七、財産を信託すること。
 八、前二号に定めるものを除く外、その種類及び財産の取得又は
  処分をすること。
 九、負担附きの寄附又は贈与を受けること。
 十、法律若しくはこれに基づく政令又は条例に特別の定めがある
  場合を除くほか、権利を放棄すること。
十一、条例で定める重要な公の施設につき条例で定める長期括独占的
  な利用をさせること。
十二、普通地方公共団体がその当事者である審査請求その他の不服申
  し立て、訴えの提起、和解、斡旋、調停及び仲裁に関すること。
十三、法律上その義務に属する損害賠償の額を定めること。
十四、普通地方公共団体の区域内の公共的団体等の活動の綜合調整に関
  すること。
十五、その他法律又はこれに基づく政令により議会の権限に属する事項。


(2)議長と副議長  
 議長と副議長は、議員の中から選ばれることになっていて、一般選挙後の初議会において、年長議員が行う臨時の議長のもとで選挙で選ばれる。 議長及び副議長の任期は、4年である。

議 長  議長の権限は、議会の権威を維持し、かつ議事が円滑に運営されるように議員、傍聴人等の発言・講堂を規制して議会の秩序を維持することである。
 議事は、開議の宣告、議事日程の説明、議題の宣告、提案理由の説明、議員の質疑、委員会への付託、委員長報告、質疑、討論、採択と運ばれていくが、これらを執り成すのが議長の権限である。
 また、議長は、議会運営に伴う事務を統括する権限を持つが、これは、議事日程の作成、議案の整理、会議録の整理等の事務を処理することであり、事務局長あるいは書記を指揮監督して行っている。
 議長には議会を代表する権限もあり、外部から議会に対する意思表示は議長あてになされる。 なお、議会の対外的な意思表示は議会の名においてなされる。
 また議長は委員会に出席し、発言することができる。 この出席権は、議会の総括的主宰者としての議長の職責を全うするために特に認められた権限である。


副議長  副議長は、議長がその職務を行っている場合には、法的に格別の活動余地がない。 しかし、議長に事故あるとき、例えば、病気、旅行のためその職務を取り得ない場合、副議長が議長の職務を行う。 また、議長が欠けたとき、例えば、死亡、辞職、失職等により議長が欠員になったときも副議長がその職務を行う。

戦後の議長・副議長  戦後の議長、副議長(議会議員の中からの公選)は、次のとおりである。
【議長】 
初代  出口助次郎   旅館業  昭和21年10月10日~同22年4月28日 
二代   林 要作   農 業  同22年6月5日~同26年4月29日 
三代  遠藤 清治  農 業  同26年5月2日~同30年4月29日 
四代  遠藤 庄吉  会社社長  同30年5月7日~同42年4月29日 
五代  大滝 敬二  司法書士  同42年5月8日~同46年4月29日 
六代  渡辺 正喜  会社社長  同46年5月11日~同58年4月30日 
七代  村上 清司  会社社長  同58年5月2日~平成3年4月30日 
八代  出口一三郎  会社社長  平成3年5月1日~同7年4月30日 
九代  渡辺 正利  会社社長  同7年5月1日~現在 

【副議長】  
初代  斉藤 準平  農 業  昭和21年10月10日~同22年4月28日 
二代  高橋 源六  農 業  同22年6月5日~同25年9月5日 
三代  井上 捨治  農 業  同25年9月5日~同26年4月29日 
四代  宮川駿一郎  畜産業  同26年5月2日~同30年4月29日 
五代  東山鷹次郎  農 業  同30年5月7日~同31年2月28日 
六代  平野  毅  農 業  同31年3月26日~同42年4月29日 
七代  渡辺 正喜  会社社長  同42年5月8日~同46年4月29日 
八代  大滝 敬二  司法書士 同46年5月11日~同50年4月30日 
九代 辻  正夫  商業  同50年5月7日~同54年4月30日 
十代  手塚  一  会社社長  同54年5月8日~同58年4月30日 
十一代  原  昭二  国鉄職員  同58年5月2日~同62年4月30日 
十二代  出口一三郎  会社社長  同62年5月1日~平成3年4月30日 
十三代  渡辺 正利  会社社長  平成3年5月1日~同7年4月30日 
十四代  八巻  貢  農 業  同7年5月1日~現在 
(3)議会議員  
議会議員  町村議会の議員は、住民の選挙によって選出され、直接住民に対し責任を負う。 議会が任期中に解散される場合を除いて、4年ごとの選挙で信を問われることになる。 しかし、任期中でも、議員が住民の信頼を失ったとみられる場合は、住民から直接解職(リコール)を請求され、その地位を失う場合がある。
 わが国の政治は、いわゆる代表民主制をとっているが、この直接解職請求は、ギリシャ以来の直接民主制をどうにゅしたものである。
 町村議会の議員は、「地方公務員法」上の特別職の公務員であり、条例によって地方公共団体から報酬を受けている。
 わが国において町村議会の議員は、市制・町制の制定以来、地域の名望家が、その教養と経済的・時間的ゆとりから、公務を担ってきたという実態があり、その地位は名誉職とみなされがちであった。
 しかし、町村の事務が広く深く複雑となってきた戦後、特に昭和30年代(1955~)囲碁は、議会で調査活動や政策研究を行うようになり、一種の専門職と化してきた。


議会活動  昭和50年(1975)以降、平成8年(1996)に至る22年間の間、議会開催回数は、定例議会が88回、臨時議会が110回、合計198回であり、同期間の不義件数は15件、一般質問件数は566件である。
 その内容は、条例、予算、決算、専決処分、請願、陳情、意見書、決議、選挙など依然と比べて著しく増加している。


(4)委員会制度  
委員会  一般に議会は、本会議で活動するのが原則である。 ところが現在のように審議事項が多くなり複雑多岐にわたるようになると、本会議に一切の審議をゆだねることが困難になってきた。 そこで、「地方自治法」では、その内部組織として部門ごとに、議案・陳情などを調整するために条例で委員会を置くことができるとしている。
 委員会には、地方公共団体の特定の事務を審査するために常置される常任委員会、特定の事項を審査するために設けられる特別委員会、議会を円滑にしかも効率的に運営するための議会運営委員会がある。 各委員会の議事手続きは条例で定められる。


常任委員会  常任委員会の数は「地方自治法」第10条で、町村にあっては4委員会以内と定められている。 上湧別町では、昭和46年(1971)まで4委員会で会ったが、同年5月から、総務財政・社会文教・産業工営(昭和55年4月から産業建設)の3常任委員会となった。

特別委員会  特別委員会は、上湧別町では、「地方自治法」第110条の規定に基づいて、「上湧別町議会委員会条例」を制定して、必要がある場合に議会の議決によって設置することになっている。
 特別委員会は、会期中に限り、付議された事件を審査する権限を融資、また、閉会中は、議会の議決によって付託された特定の事件について審査することができるものである。
 議会が特定の不義事件の審査、調査のため、議会の議決によってその都度特別委員会を設置されるものであることから、その審査、調査権限も付議事件に限られる。
 上湧別町各種会計歳入歳出決算認定は、銘年、上湧別町各種会計歳入歳出決算認定特別委員会を設置し、同委員会で審査している。


議会運営委員会  平成3年(1991)3月26日に成立し、同年4月2日から施行された「地方自治法」の改正(第10条の2)で、議会運営委員会が法定化された。
 これを受けて上湧別町では、平成3年9月19日の町議会で議会会議規則と委員会条例の一部改正がなされ、議会運営委員会を置くことになった。
 議会運営委員会は、多数の議員で構成される議会を円滑にしかも効率的に運用するための委員会である。


(5)重要案件  上湧別町では、町政の遂行にとって、慎重な審査、調査を必要とする案件については、通常の常任委員会に付託することなく、特に条例に定められた規定によって、町議会の議決により、特別委員会を設置し、同委員会に付託して審査を行ってきた。
 したがって、特別委員会の審査の対象は、しばしば町政にとって重要案件であることが多い。
 昭和50年(1975)以降、町議会が特別委員会を設置し、審査した事件の典型的な事例としては、同54年(1979)6月15日に設置された雪印跡地再開発促進特別委員会、同年12月20日に設置された水道事業調査特別委員会、同57年(1982)3月18日に勢治された上湧別町役場庁舎建設調査特別委員会などがある。


雪印跡地対策  雪印跡地再開発促進特別委員会は、過疎が進行する中で、雪印乳業(株)中湧別工場の撤退による跡地再開発のために設置された。
 同特別委員会は、昭和54年(1979)10月29日、雪印跡地対策として、①町議会が町外からの企業の誘致活動を進める、②その後、町内企業の移転問題を決める、③土地の取得作業を急ぐ、の3点を方針とし、翌55年(1980)3月まで、企業誘致の可能性を検討したが、その見通しは立たなかった。 
 そこで、昭和55年8月19日、議員協議会に対し、同特別委員会は、工場跡地買収交渉の経緯を説明し、「跡地については建物を壊し、更地にしたあとで買収する」こととした。 また、同年12月8日には、土地2万8172.37平方㍍を土地開発公社が4050万円で購入、建物を250万円で町が、一般会計で購入することとし、地場産業育成のため、町内外を問わず、企業誘致(工業団地形成)の努力を行うこととした。 そして、12月8日の審議結果を委員会から町議会に報告した。 この議会側からの活動に即応して、翌56年(1981)3月12日には、庁内に助役を室長とする雪印跡地再開発対策室が設置され、協議の結果、土地をA、Bブロックに分割し、っぶろっくを地元企業に分割、Aブロックに町外企業を誘致することとし、企業誘致の優遇措置について検討した。
 この後も審議が行われたが、昭和56年6月15日に、Bブロックは1坪当たり6000円とし、町内企業に分譲すること、Aブロックは1坪当たり9000円とし、1年間町外企業の誘致に努力し、企業誘致ができなかったときは再検討することにした。 そして、同56,同57年(1982)に分譲された企業については、4%の地場産業誘致特別利子補給を行うことにした。
 その結果、委員会は、6月15日の審議の結果を19日、町議会に中間報告、その後、これが町議会で了承された。


水道の取水地点と浄水場位置の決定  昭和50年代(1975~)の前半期、上湧別・中湧別両市街地に水道給水を行っていた中土場川の水源の渇水が深刻な問題となった。
 このため、水道の整備が急務となり、新たな水源をどこに求めるか、伏流水か湧別川の表流水か、また、財源、水利権などについても検討が必要となった。
 そこで町議会では、昭和54年(1979)12月20日に水道事業調査特別委員会を設置した。
 同特別委員会では審議を重ね、町議会に対して特別委員会報告を行った。 そして翌昭和55年(1980)11月12日、同委員会は、町から上湧別町の計画給水量を3009平方㍍/日として、全量を表流水から取水する計画(A)案と、計画給水量を2720平方㍍/日として全量を表流水から取水する計画(B)案および同じく計画給水量2720立方㍍/日で地下水を一部使用する計画(C)案の3つの比較案の提示を受け、これについて町長、助役などから説明があり、慎重に審議を行い、全委員一致をもって、(B)案が適当であると決定した。 なお、現有施設(水源も含む)の取扱処置については、理事者に一任することもあわせて決定した。
 この決定は、12月24日の町議会に提出され、了承された。 
 その後、昭和56年(1981)6月16日、取水地及び浄水場の位置についても同特別委員会と町が協議、取水地点については、「流心の向かってくる地点で、表流水の取水に最も良い地点」を定め、浄水場の位置については経済性から「概設浄水場に隣接」する地に決定した。 6月19日、この決定を町議会に報告、同日町議会で了承された。


上湧別町役場庁舎建設  上湧別町では、庁舎の老巧化、行政事務の増大に伴う事務室の狭隘化などから、庁舎の改築が話題となり、昭和55年(1980)度から「庁舎建設基金」が積み立てられることになった。
 そして、昭和57年(1982)3月18日、上湧別町役場庁舎建設調査特別委員会が設置された。 同特別委員会では、12月14日まで、深刻な争点があり短い期間に13回もの審議が行われた。
 まず、3月18日に第一回特別委員会が開かれ、委員長に村上清司、副委員長に福田保信が互選された。 3月29日の第二回特別委員会では、新しい庁舎の場所・規模・予算の範囲、着工・竣工年度の調査を進めることを確認した。 また、役場庁舎と消防庁舎を併設することのメリット(長所)とデメリット(短所)について検討していくことにした。
 5月8日の第三回特別委員会では、事務所は、オープンスペースのワンフロアとし建物は2階建てが望ましく、消防庁舎併設については、消防関係者の意見を聴くことにし、教育委員会事務局も新庁舎に入れることにした。
 7月28日には、第四回特別委員会が開かれ、消防支署を庁舎に併設し、庁舎等の敷地面積を合計で約8000~1万平方㍍とすることに決まった。 さらに、意見が分かれている建設位置の決定を現委員の任期中に行う意向をあらかじめ確認した。
 これにより、9月6日の第六回特別委員会から第十二回特別委員会まで、7回の特別委員会が開かれたが、新庁舎の位置を現在地とするものと中湧別地区とするものとに意見が分かれ、それぞれの主張のこんっきょについて論議が重ねられるとともに、町営野球場の場所に新庁舎を建設すべきだという提案も行われた。
 12月14日、第十三回特別委員会が開かれ、役場庁舎の位置について、10人の委員中6人が現在地に賛成、多数を占めるに至った。
 引き続いて、町長から予算の範囲について、建築費が7億円程度、外構工事、備品その他で1億円、号駅8億円程度が必要であるという説明があり、特別委員会として「町長の考えを尊重し、8億円以内(現時点で)とする」ことを決めた。
 その結果、12月18日、特別委員会の委員長村上清司より、町議会に委員会の調査報告が行われた。
 調査結果の改築規模について、建築延面積を消防庁舎を併設して3000平方㍍以内とすることを全会一致で決定した。 また、建設位置を条例で定められている現在位置とすることについて賛成多数でこれを決定し、予算の範囲を8億円とすること、着工年度は資金その他の条件整備が完了次第早期とすることを全会一致で決定した。


(6)議会議員の報酬  議会議員の報酬は、町長の諮問機関である上湧別町特別職報酬等審議会に諮問し、その答申を受けた町長が議会に諮って改定されている。
 昭和51年()1976)以降の議会議員の宝珠額の改定状況は、次のとおりである。
【議員報酬の推移】
改定年月日  議  長   副議長 常任委員及び
議会運営委員長
 
 議 員 
昭和51年10月1日   120,000   100,000  90,000  80,000
昭和52年10月1日  140,000  140,000  100,000  90,000
昭和54年12月1日   158,000  128,000  116,000  107,000
昭和57年7月1日   190,000  150,000  130,000  120,000
昭和60年12月1日   210,000  167,000  145,000  135,000
昭和63年12月1日  225,000  185,000  163,000  149,000
平成 3年12月1日   250,000  198,000  175,000  160,000
平成 6年4月1日   268,000  212,000  187,000   171,000
平成 9年4月1日   300,000  236,000  213,000  198,000

(7)議会議員の定数減  
議員定数  わが国の市町村議会議員の定数は、「地方自治法」第91条によって、町村では人口2000人未満は12人、2000人以上5000人未満は16人、人口5000人以上1万人未満は22人、人口1万人以上2万人未満は26人、人口2万人以上は30人としている。 しかし、同条第2項で、議員の定数を条例で特にjこれを減少することができるとしている。
 上湧別町では、昭和45年(1970)の国勢調査人口が9292人のとき、町議会議員定数を「地方自治法」の規定どおり22人としていたが、同46年(1971)の選挙から減少条例によって2人を減らし20人とした。


昭和57年の定数減  昭和56年(1981)5月、町議会改選後の総務財政常任委員会において、委員長から、国の財政改革が実行されると、市町村財政にも大きな影響があるのが必至だとして、行財政改革の一環として、議員定数の見直しが必要ではないかということが示唆された。
 さらに、昭和57年(1982)1月7日に開かれた町民と町議会議員との懇談会においても議員定数の削減について意見交換が行われた。
 引き続き、昭和57年2月8日、町長と常任委員長とも懇談において「議員定数の削減問題については、6月ぁ明治でに結論を出すよう努める」ことが合意された。
 その後、3月11日から招集された第一回町議会定例会においても、議員の一般質問で、上湧別町の人口が、前回議員定数2人の削減があった昭和45年(1970)9292人の1万人台近くから8000人台に減ったこと、さらに、昨今、議員定数に関する町民の関心が強くなっていることが話題となった。
 また、9月17日、総務財政常任委員会が議員定数問題ついて、審査・調整を行ったが、その内容は、①人口、財政の状況から、この際、2人程度の削減をすべきという意見、②やむを得ないという意見、③住民の声を議会に反映させるために、現状通りで良いという3つの意見があり、結論を出すまでには至らなかった。
 どう常任委員会は、昭和57年9月28日招集の第三回町議会定例化に定数削減について「一応保留」とする見解を報告した。 
 しかし、町議会では、これを納得せず、追加議案として、一番議員ほか2人から議案第10号「上湧別町議会議員の定数を減少する条例の一部を改正する条例」案が提出され、定数「20人」を「18人」とする案を可決した。


平成2年の定数減  平成2年(1990)に行われた議員定数減の経過は、まず、昭和62年(1987)12月16日議員定数問題について審議する特別委員会の設置をもって始まった。
 同特別委員会は、平成2年5月24日の第七回に至るまで、現行定数維持か、減員かをめぐって長時間、調査と協議を重ねたが、第七回委員会において、「現在の本町の著しい人口の減少に伴い町民の多くは議員定数を削減すべきとの声があり、これを無視することはできない。 これらを総合的に判断するとき、本町議会議員定数18人を2人削減して16人にする」との結論を得た。
 同特別委員会の意思決定は、平成2年6月26日の町議会の本会議に報告された。
 この後、6番議員ほか3人から、議案第10号「上湧別町議会議員の定数をを減少する条例の一部を改正する条例」案が提出され、原案通り、議員定数を2人削減して16人とすることが可決された。
  
topへ  第三節  執行機関 
    (1)首 長  
首 長 地方公共団体の長として、市町村には市町村長が置かれている。 地方行政は、これらの首長の権限と責任で実施される仕組みである。
 首長である市町村長は、「地方自治法」に明治のと付いて地方公共団体である市町村を統括し、これを代表して、市町村の事務を自らの判断と責任で処理し、かつ国や北海道から委任された機関委任事務の執行に当たる。「地方自治法」(183条の2)で「自らの判断と責任」が特に定められているのは、執行危難に関する事務の執行については、他の機関、とりわけ議会からの干渉にとらわれないことを目的としている。
 市町村長の任期は4年で、その主な権限には職員の任命権、議会への議案提出権、予算編成権、規則の制定権などがある。
 歴代町村長は、次のとおりである。
【歴代町村長】
兼重浦次郎  村長  明治43年4月1日~大正7年7月 湧別村より分村 
本多 国彦  村長  大正7年8月6日~同8年11月 遠軽村を分村 
新野尾国之  村長  大正8年11月~昭和6年1月 
酒井 佐一  村長  昭和6年1月~同21年11月7日、公職追放で退職 
今野 和七  臨時代理者  昭和21年11月8日~同22年4月5日 
今野 和七  村長  昭和22年4月6日~同28年9月28日 
今野 和七  町長  昭和28年9月29日~同29年11月 町制施行 
石田 勝喜  町長  昭和29年12月10日~同40年8月26日 
渡辺  要  町長  昭和40年10月10日~同52年10月9日 
出倉 定夫  町長  昭和52年10月10日~同56年10月9日 
佐々木義照  町長  昭和56年10月10日~平成5年10月9日 
松田  隆  町長  平成5年10月10日~現在 

(イ)出倉町政

経 歴 出倉定夫は、佐々木義照と町長選に立起し、昭和52年(1977)9月11日の選挙で、出倉が3046票を獲得、2588票の佐々木を抑えて当選した。
 出倉定夫町長は、昭和52年10月10日から同56年(1981)10月9日まで1期4年町政を担当した。
 出倉は大正7年(1918)名寄町(現、名寄市)に生まれ、渚滑尋常高等小学校卒業後、昭和8年(1933)下渚滑村(現、紋別市)に奉職。 同22年(1947)上湧別村総務課長、同23年(12948)若佐村助役となった。 同31年(1956)若佐村が佐呂間町と合併後は、同町助役となった。
 その後、北海道町村議会議長会事務局長等の職を経て、昭和42年(1967)渡辺要町長に招かれ、上湧別町助役に就任、同52年(1977)6月までその職にあった

所信表明 町長当選後、出倉は次のような所信表明を行った。
     (前・後略)
 昭和52年度の町行政の執行については、前任者の施策を受け継ぎ、遺憾のないよう適切に対応してまいる所存であります。
 この町が、屯田兵によって拓かれて81年、いよいよ充実発展を目指してまい進するとき、永い歴史を誇りとし、大切にしながら生産と、生活環境の調和を図り、住みよい豊かな町づくりを目標に、件名の努力を払う考えであります。
 そして、町懸案の多くの課題を町民の皆様と共に考え、手を取りあって、その解決に最善をつくしたい所存であります。
 私は町民参加による町政を、行政の指針としております。
 町民1人ひとりの町づくりへの参加、住民との対話をとおして行政に対する町民意識を的確にとらえ、また、理解を一層深めていただき連帯と強調の中から、激動する社会に対応した施策を推し進めたいと思います。
 国の財政が硬直する中で、地方自治体の財政もまた、厳しい情勢に置かれており、町行財政は極めて重大な試練に直面しておりますが、、この試練を乗り越え、明るい未来への基礎を着実に築きあげていくことが、私に課せられた責務であることを痛感しております。
 私はこのために誠心、誠意、勇断をもって対応してまいる所存であります。
 選挙中に掲げた5つの施策
 一、新設で、清潔な明るい町政
 一、産業振興で豊かな町を
 一、青少年と婦人に夢と希望を
 一、老人に思いやりを
 一、きれいな住みよい町を
 は、私の任期中における諸政策推進の柱であります。

業 績  出倉は、昭和56年(1981)までの任期中、わが国のオイル(石油)ショックによって起こされた不況の余波にさらされることになった。 特に同50年(1975)から国も地方も税収減となり、上湧別町も例外でなかった。 また、国が税制再建を図り、歳入歳出の見直し、国債発行の縮小、行政改革を断行するなど、思い切った税制対策を打ち出したため、上湧別町の財政にも影響を及ぼした。
 このため、町長は、自治会の町政懇談会において、ゆずり合い、助け合い、がまんのし合いを強調し、相互理解の中から、公平な選択のもとに行政を推し進めたいと力説した。 そして、昭和50年代半ばには、役場を中心とする一般行政費の「徹底した切り詰め」を推進した。
 しかし、それでもなお、自主財源確保の一環として公共施設等の使用料、各種負担金等の一部改正に踏み切り、なお不足する財源の補填を、町債と財政調整基金の取り崩しに求めた。
 このような状況の中でも昭和55年(1980)度から、役場庁舎建設のため、準備基金の積み立てを開始した。
 ところで、上湧別町の人口が昭和45年(1970)から同50年の間に10%以上減少したため、初めて「過疎地域対策緊急措置法」(過疎法)の適用を受けることになった。 これは、町が公債を起こし、その元利の支払いについて国が一定の補助を行うこと、国から様々な特別補助、助成を受けられることを意味した。
 後年、町長は、国の過疎対策によって、町がケナンとしていた諸種の事業が具体化・実現化したことを「非常に助かりました」と回顧している。
 町長が行った中湧別小学校、上湧別小学校、上湧別町農村環境改善センター、特別養護老人ホーム「湧愛園」の完成などは、直接、間接に国の過疎対策がもたらしたものである。
 出倉町長の業績の中に、行政の近代化の促進がある。 中湧別地区住民の生活不便解消のため、中湧別出張所に電話ファックスを導入し、戸籍及び照明事務の窓口を広げたり、一般経常費を節減する中にあっても、小・中学校の需要費を増額して、教育機器の導入を進めたり、さらに、塵芥処理のためゴミステーションの仕丁や収集体制の合理化を図るなど町政では先駆的な行政課題に取り組んだ。
 また、役場職員の執務と住民に対する応接とサービスの向上にも努めた。


(ロ)佐々木町政
経 歴 佐々木義照町長は、昭和56年(1981)10月10日から平成5年(1993)10月9日まで、3期12年にわたって町政を担当した。
 このうち選挙が行われたのは昭和56年9月13日に、前町長の出倉定夫と争い、2899票を獲得し、2668票を得た出倉に雪辱を果たしたときだけで、同60年(1985)9月、平成元年(1989)9月の改選には無投票で当選した。
 佐々木は昭和5年(1930)生まれ、同21年(1946)に北海道庁立旭川第二工業学校(現、旭川商業高等学校)を卒業したのち、同22年(1947)5月、上湧別村に奉職、同37年(1962)教育次長、同42年(1967)に税務課長、その後財政課長、産業課長を経て同50年(1975)3月、教育長に選任された。 同52年(1977)6月同職を辞職し、町長選に臨んで敗れたが、同56年9月の選挙で町長に当選した。

所信表明  町長として佐々木は、7つの基本政策を掲げ次のような所信表明を行った。
 (前略)
 就任に当たって、私の町政執行にかかる所信を表明いたしたいと思います。
 近年、国の景気不況から一層国家財政も硬直化し、行政改革が叫ばれている今日、町村財政も誠に厳しい立場に置かれ、難事の時に遭遇いたしておりますが、町民全体の英知と力によって、打開の道を求めていかなければならないと思います。
 さて、顧みるとき、本町が屯田兵の入地により開拓が進められ、先人が血と汗と涙の結晶のなかから、今日の上湧別町八十五年の発展の歴史を築いてまいりました。
 私は先人の残された尊い遺産を受け継ぎ、より発展させるため町民皆様方の”和”を大切にして心の通う町政を目指しながら農業を基調とした”活力ある産業の振興”を重点に、生活環境と調和のとれた町づくりを進めるため町の懸案課題の解決と併せ、最善の努力をいたすことが、私にあたえられた責任であると深く感じております。
 (中略)
 町議会議員各位をはじめちし、町民の皆様方の暖かいご理解とご協力を切にお願い申し上げ、町長就任に当たってごあいさつと初心の表明をいたした次第です。
 なにとぞ、よろしくご指導ご鞭撻くださいますよう、お願い申し上げます。

行政サービスと行動的町政 第一は、「町民に親切なサービスと行動力のある町政」であった。
 地方財政が硬直し、地方行政改革が加地となっていたときであり、町長は、職員の採用を抑制し、現業部門の民間委託を実施した。 この中で町長は、職員と膝を詰めて話し合いを行い、職員数を抑制した場合、行政サービスが低下するかどうかを詳細に点検した。
 さらに、地方公務員の給与は、民間企業の給与を参考にして支払われていることから、町職員は行政のプロとして知恵を出し、住民の付託に応えるよう強く求めた。 発想の転換を図り、些細なことでもできるかできないか速断せずにアイディアを出すことを要望して研修の機会を増した。
 また、現業部門を民間に委託することによって、その部門の町職員を学校の用務員などに配置転換を図った。
 また後年、上湧別町総合庁舎が完成すると、昭和63年(1988)から窓口業務に事務機器やコンピューターの導入により多様化する行政需要に対応した町民サービスの向上に努めた。

産業振興と雇用の促進  第二は、「活力ある産業振興と働く人びとの雇用の促進」であった。
 農業・商工業の振興に地場差企業の強化を図り労働人口の定着化に心がけた。
 農業分野では、果樹生産安定緊急対策事業を新たに導入し、上湧別名産のリンゴの再活性化や梅・さくらんぼ等の苗木を配布して、畑の面積を減らさずに、農家の広い庭などに植栽することにした。 これは少しでも高齢者の収入の道を開くとともに、将来的に生産や加工関係に結びつけることを目的としていた。 町民のなかには、町長を「梅町長」とあだ名する者も現れた。
 町長が力を入れた施策に酪農対策がある。 当時、酪農は、乳価の抑制、牛乳の生産調整、経営規模の拡大に伴う負債の累積に苦しんでいた。
 これに対し町長は、町営牧場の草地改良、優良牧草の導入を図り、さらに牛乳消費拡大運動を推進し、また、酪農家の管理強化と技術の高度化を進め、体質の強い経営を確立することを強く訴えた。
 酪農の経営管理の向上のために、昭和60年(1985)には酪農大学(江別市)の協力を得て「上湧別町農業経営短期大学」講座の開設、同61年(1986)には東京農業大学の学長、学部長らと話し合い、上富美小学校跡地を利用した酪農研究施設の開設を夢見て、産・官・学による農畜産進行に熱意を傾けたが開設には至らなかった。

 昭和61年から新農業構造改善事業を始め、町長は、生産性の高い土地利用型農業を展開するための基礎的条件である生産基盤を整備し、あわせて地場産業の育成と雇用機会の創出を図った。 具体的にはアスパラガスの作付奨励、低温貯蔵による野菜のチルド冷却の技術開発、玉葱の生産奨励と冷却貯蔵、馬鈴薯の貯蔵施設、小麦の乾燥施設、上湧別町農業協同組合との連携のもとにバイオテクノロジーの導入による先端技術の開発、優良農作物品種の改良と増殖などの施策を進めた。 さらに、例年畑作が干害に見舞われることから、農地、農作物の効果的有効利用を図るため、平成5年(1993)度から国営による南兵村、北兵村地帯の畑地灌漑排水事業に着手した。 
 林業対策では、林業不況の中ではあったが、資源の未来と森林が環境に及ぼす影響を念頭に、長期的視野に立って森林造成の計画的推進に町有林の造林や民有林の保全育成に努めるため、昭和63年(1988)度から3ヶ年計画で北兵村地区に林道の開設や治山事業を導入しての緑化事業を進めた。
 商工業対策では、消費人口の減少、消費者の流出により厳しい経営状況に対処するためには、変化する消費者ニーズに適合した経営、魅力のある商店街の形成が必要であった。 このため、上湧別町商工会が行う経営指導事業に対する援助を強化するとともに、商工振興資金、商工整備資金等に対する貸付利子補給を行った。 町長は商工振興の基盤に観光開発や中湧別駅跡地再開発の推進、リバーサイドゴルフ場などの消費環境基盤の整備に努め、過疎による人口流出対策に力を入れた。
 また、中湧別公営住宅団地をさくら団地として再生させ、さらに、泉団地、いちい団地を完成させるとともに、中湧別国鉄跡地に町職員住宅4戸と教員住宅2戸の建設をしたほか、初めて開盛に公営住宅を建設した。 また、上湧別団地の増棟を行ったほか、俗称、樺太官舎跡地を国鉄から買収し、勤労者宅地太平団地としての分譲と中湧別地区に単身者住宅チューピットハイツを建設した。

過疎対策 第三は、「生活防衛のための過疎防止と人口増加対策」であった。
 これについては、①生産性の高い農業の実現、②地場産業の振興と新製品の開発、③魅力ある観光地の形成の3つの具体的方針を挙げた。
 観光はこれからの時代に重要な産業と考え、隘路ではあったが「造る観光」によって、網走支庁管内町村のくぼみにならぬよう考えた。 町民からも五鹿山には、樹齢90年といわれるエゾヤマザクラの老木80数本があって、以前から町民にとって桜の名所とされていた。 昭和29年(1954)から上湧別町商工会主催の「五鹿山さくら祭り」が行われ、同30年代(1955~)には遠軽・紋別方面から3万人の人手でにぎわったこともあった。 ところが、この土地は民有地で牛が放牧され、土地の借用には問題があった。 町長は「上湧別で唯一の観光資源ともいえる五鹿山を町が買い取り、本格的な観光開発を進めよう」という声の中、売却に積極的ではなかった土地所有者に対し粘り強く交渉した結果、合意を得て、同58年(1983)、町議会で買収の議決がなされた。
 これにより、中湧別駅に近く、標高125.5㍍のこの丘陵の約55.1㌶が町有財産になったのである。
 昭和58年、北海道の緑のふるさと整備事業が開始され、町長は、この事業を同60年(1985)に上湧別町に導入することにした。
 そして最大限の自然を残した公園として5ヶ年計画で、総事業費1億5000万円を投じ、その2分の1を北海道からの補助金を充て事業を始めた。
 昭和60年の初年度には、450万円で全体計画の調査設計を実施、さらに、この地に初めて大型リフトを入れて五鹿山スキー場を整備した。 スキー場完成後、パークゴルフ場の造成も行った。
 上湧別町では、昭和30年代に小麦とともにチューリップの球根栽培を町の産業として定着させるため、各農家に球根を配布し作付を進めた。 ところが、同41年(1966)チューリップの生産主要国のオランダが球根のダンピングを市、農業としての目途が絶たれた。 しかし、同51年(1976)に町花となり、球根を少しは残そうと同年老人クラブが、北湧尋常高等小学校跡地に2㌃程度の球根栽培を行った。 校庭跡地の表土は既に統合上湧別中学校のグランドに移され、役場の資材置き場に変わっていて、コンクリートの破片や石がたくさんあった。 畑地として再生できるか疑問であったが、逐次、破片や石を除去、土を探しながら改良し、観光への夢をふくらませていった。
 どうにか畑らしくなり花が咲くようになって、予想以上の人々の関心を集め、面積も8㌶に拡大し、花園となってきた。 平成年代(1989~)に入ると町外からの観光客などの入込は10万人台に達したので、トイレ、駐車場を整備し、動力で回るオランダ風車、チューリップ館を建設し、町立チューリップ公園として体裁を整えるようになった。
 この外、中土場川大改修による残土を湧別川河川敷に敷設して、河川敷の緑化と併せてリバーサイドゴルフ場の造成を進め、上湧別町振興公社の設立に努力した。 同公社は、このほかアスパラガスを原料とした食物繊維健康食品や馬鈴薯を原料としたベークドポテトの加工を手がけたが、試験研究の域で実を結ばなかった。 また、上湧別バーボンウイスキー(株)にもかかわった。

教育と人づくり  第四は、「明日を拓く創造性豊かな人づくり」であった。
 教育面で老巧化した開盛小学校と富美小学校の廃校論があったが、両校とも地域の文化の拠点として残すことにして昭和58年(1983)度に開盛小学校、平成元年(1989)度には富美小学校をユニークな僻地小学校として改築した。 そのほか、国際社会に対応する人づくりを目指し、語学教育を進めるため町属託職員としてアメリカ人を迎えたり、外国人英語指導助手の派遣を受け入れて学校の英語指導や、町内中学生・高校生のカナダでの現地研修に派遣する道を開いた。
 交通安全のために昭和58年に小学生、同59年(1984)に中学生へのヘルメット購入費の助成を網走支庁管内で初めて行った。
 平成5年(1993)度からは社会教育の推進強化のため、道社会教育主事の派遣を受け入れ、図書館整備、成人文化教室の開設、湧別高等学校開放講座の開設、スポーツの振興などを行った。 また、郷土資料保存事業を始めた。

スポーツと文化の振興   第五は、「スポーツと文化の振興」であった。
 町長の大きな業績として昭和61年(1986)からの湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会の開催がある。
 昭和57年(1982)に網走支庁管内のスポーツイベントとしてインターナショナルオホーツクサイクリングが始まった。 しかし、このイベントは、雄武町から斜里町に至るオホーツク海沿岸市町村の行事で、上湧別町は一時休憩の通過点に過ぎなかった。 これに対し内陸部には、これというイベントがなかったことから、内陸部の振興を目指し、白滝村、丸瀬布町、遠軽町、上湧別町の4町村共催による冬のイベントとして北大切スキー場から「谷越え、山を越え、沢、川(川には氷橋をつくる)を超え」というコースで、壮大なスキーレースを行い、地域活性化の躍動的イベントにしたいと関係町村に働きかけ、最終ゴールを上湧別町として、事務局を上湧別・遠軽両町で隔年毎に実施することで合意した。
 佐々木町長は、「ところがレースが始まると、スキー技術の差による選手の遅着が続き、これらの人々を確認したり探したり、ゴールした選手には食事、入浴、宿泊施設の世話など、多くの地元の町民有志、町職員の筆舌に尽くせぬ献身的なサービスによってこのイベントは支えられ、今日に至っている。 感謝の気持ちでいっぱいである」と語っている。
福祉事業  第六は、「思いやりのある町政」であった。
 この施策は、主として高齢者や障害のある人々に対するきめの細かい仕事として個々に進められた。 手話技術の学習、上湧別歯科診療所の診療機器の更新、上湧別町社会福祉会館と上湧別町農村環境改善センターのトイレを一部洋式化、「老人保健法」による関係保健事業の充実強化、重度身体障害者向け福祉住宅の建設、上湧別町内の言語障害児のため小学校に「ことばの教室」を開設したり、肺癌、乳癌などの健康診査事業の強化・推進、救急医療体制の強化など逐次事業を進めた。 また、第二次救急医療機関として、遠軽厚生病院の建設にも尽力した。
 さらに、平成2年(1990)には、上湧別町が蠕動平均の約2倍近い高齢者(65歳以上)率となったことから、高齢者生活実態意識調査を行いこれに基づき人生80年型社会にふさわしい具体的な高齢者福祉施設の推進を図る方針を示した。

生活環境と町づくり 第七は、「住みやすく、環境のよい町づくり」であった。
 町長に就任した早々、第一の課題は新しい上水道の建設であった。 上湧別・中湧別両市街の水道給水は中土場川の水源を使用していたが、渇水するようになった。 その上、送水管も石綿管や塩化ビニール管で、埋設も浅く古くなり、車両等の振動でも破裂して水漏れが起こり、断水が絶えず、自衛隊第二師団(旭川)に派遣要請などしてきゅすいする状態で、水道整備は急務であった。 水源をどこに求めるか、伏流水か湧別川の表流水か、財源と水利権の許可のいずれも真剣に論議された。 町の土地改良区に水田用水の農業水利権があったので、使用許可を北海道開発庁・開発局や建設省河川局に陳情したが認可するまで10年はかかるといわれた。 そのため実情を訴え日参し、最終段階で建設省の河川局長に直訴を数回行い「早く局長の”はんこ”を押してほしい」という願いが通じて異例の早期許可を受けることができた。 申請2年後には工事に着手し、当時、湧別町においても上水道の整備が求められていたことから、湧別町への給水を併せて行うこととして上湧別・湧別両町の共同水道事業が完成した。 開盛地区も水の汚染に困っていたので、遠軽町に対し水道水の給水を依頼し、開盛に上水道を完成させ、さらに、富美地域に営農雑用水の整備を行うことにより、全町の水道給水事業がすべて完成した。
 昭和60年(1985)度からの懸案のごみ処理の投棄可能地の選定で東山の手の用地を決定し、2ヶ年計画で一般廃棄物最終処分場の建設をしたほか、中湧別の泉・花園、白揚の3団地の共同雑排水処理施設も整備した。
 町内の名木とされる樹木が枯れたり、伐採されたりして緑がなくなるため昭和59年(1984)に「上湧別町緑豊かな環境基本条例」を制定して、名木の保全と街路樹などの植栽を奨励し、町の景観形成に努めた。
 佐々木町長が12年にわたる在任中、最も苦労したのは湧網線、名寄本線の鉄路の廃止問題であった。 両線の存続には本当に体を張って、昼夜の別なく、沿線市町村と連携し、北海道内はもちろん、中央の政官界、目白の田中角栄元総理の私邸まで押しかけて援助を要請したが、行政改革の前にはあまりにも障害が大きすぎた。 いろいろ運動を展開して来たが、鉄道問題の悔しさは今だに強く心に残っているという。 しかし反面、廃止に替わる交通体系の確保として高規格道路や紋別新空港の整備促進運動を進め、着工にこぎつけた。
 過疎の進む町は、雪印乳業(株)中湧別工場が移転、池内工業株の大幅縮小で働く場が少なくなり、さらに、鉄道の廃止は過疎に拍車をかけた。 人口の流出、店舗の閉店、そして町税の減収、残ったのは国鉄跡地の荒廃で、中湧別市街の場合は、各種鉄道施設とその自治会のあった鉄道官舎跡の空洞化であった。 このままでは中湧別市街の今後の発展に期待が持てないことから中湧別駅跡地再開発構想の実施を決断した。

 日ごろの行政懸案事項を含めて、広大な中湧別駅跡地にいかに人を集められるかにあった。 まず、屋内ゲートボール場と屋外ゲートボール場10面の施設を建設した。 次に文化、経済、行政、交通を柱に、鉄道で栄えた町の歴史として駅のホームの一部と桟橋を当時の姿で保存利用するなどした鉄道資料館を整備した。 中核の文化センターTOMは多目的施設にして、ホール・図書館・漫画美術館・役場出張所、上湧別町商工会・バスターミナルを併設してオープンした。 巨額の投資であったが、幸い国の助言と強い援助を受け、常に町財政の健全化に努力した。 漫画文化の振興にも時代認識の差があって、漫画を情報化時代の文化として理解してもらうのに苦労した。 文化センターTOMの有効利用が予想をはるかに超え、漫画も継続され国際的な情報文化の基地として、「オホーツク国際漫画大賞」には世界各国から多数の応募がある。 「やはり決断したことが良かったんだなと思う今日です。と回顧している。
 役場庁舎の建設については、旧庁舎は昭和3年(1928)に建設され、土台も腐り、2階での開議は危険を避けるため人数制限をするありさまであり、また、狭隘で事務能率を低下させていた。 庁舎改築は”町長になる20年も前からの懸案”であった。 ところが、南兵村、北兵村に由来する2つの地区から庁舎の位置をめぐる対立があり、そのため問題解決の先送りが続いた。 庁舎改築という総論では町民に異論はなかったので、庁舎建設基金が年5000万円から1億円に増額された。 建設促進に議会では①をめぐり激論が続き、解決の糸口はつかめなかった。 町民の要望は日増しに、町長の決断を求める声が強まってきた。 若き日、教育次長として統合上湧別中学校建設の位置決定に、経験不足から当時の理事者に適切な助言をすることができなかったことへの反省から、その繰り返しはしないと腹に決めていた。 道60年の暮れには、これ以上の建設計画の遅れは、町民感情の悪化や調整混乱を招くと判断した。 「地方自治法」第四条第三項では、庁舎移転には町議会議員の3分の2以上の同意が必要だが、その見通しはなかった。 「町長の職を賭け現在地で理解してくれ」と要請した。 結局、辞表を胸に秘め、翌61年(1986)の御用始めの年頭の訓示、”現在地”との見解を述べた。 同年1月17日、麟自町議会で正式に意思表示し、理解を得て調査設計費の計上、事実上庁舎問題の解決をみたもので、生涯忘れられない思い出であり、新しい町政であった。
 町政の要請は「町民と行政が距離を設けないこと、とりわけ”知らしめ理解してもらう”努力を重ねることだ。 そうすると必ず町政の新しい力が生まれてくる」と、さらに、「2期目の昭和62年2月に突如心筋梗塞で旭川医大に緊急入院以来、体調が悪かったが、町民、町議会、町職員の方々の温かい協力によって3期12年、自分の意図する町政執行ができた」と心から感謝の気持ちを込めて語っている。


(ハ)松田町政
経 歴  平成5年(1993)9月19日に行われた町長選挙には、新人の松田隆と松原祐治が立候補したが、松田が2795票を獲得、2147票の松原を破って当選した。
 松田は昭和9年(1934)生まれ、北海道上湧別高等学校卒業、その後、道立自治講習所を修了した。 同24年(1949)4月、役場に奉職、同47年(1972)産業課長に昇任、道52年(1977)総務課長となり、道54年(1979)企画財政課長を兼任、同57年(1983)4月教育長に選任された。 その後、同58年(1983)、同62年(1987)、平成3年(1991)と再任されたが、同5年(1993)4月17日、町長選立起のため退任し、同年10月10日、町長に就任した。

所信表明  松田は、就任後、初めての町議会において、次のように所信表明を行った。
 (前略)
 私はこのたびの選挙で5つの公約を掲げ、町政に対する私の考えを訴えてまいりました。
 その第一は、「のびやかで、いきいきした福祉と健康のまつづくり」であります。
 今本町には一人暮らしのお年寄り198名がおられます。 また老巧化はげしい住宅に入居している方、病弱で通院または入院し、ご苦労されている方、体が不自由なため日常生活にも支障を来されている方等々、お年寄りに対する対策が重要なことは、論を待たないところであります。
 高齢化が進む中で70歳を超える方が936名、これは人口の14.1%に当たり、管内でも老齢人口の上位になっております。
 また、特別養護老人ホームへの入園を希望されても空きがなく、待機状態の方が数人いる等、温かい福祉の手をお持ちになっている方々を思うとき、福祉の諸政策が本町の重要課題であると考えております。
 第二には、「未来に向かって夢と希望がいっぱいの活力ある産業のまちづくり」であります。
 農業にも解決を急ぐ課題があります。 また、国鉄廃止後5年、商工業も大きな影響を受け、地場産業の育成、発展は町政上、大事な問題であり、さらには観光開発と市街地商店街の効果的な結びつきも考えなければなりません。
 第三には、「二十一世紀を担う人材の育成とふるさとの文化を想像するまちづくり」であります。  生涯学習時代を迎えた今日、文化やスポーツを含め、私たちの一生は学習活動によって支えられるものと考え、今後一層の環境整備に努めなければなりません。
 また、国際化時代にふさわしい、人材の育成も大切なことです。

 町づくりは「人づくり」の理念に立って、本町教育の推進に努力して参りたいと思っております。
 第四には、「快適でやすらぎのある生活環境基盤の整備を目指すまつづくり」であります。
 住宅環境や下水道問題、消防体制、幼児教育、中湧別駅跡地の効果的活用など、手をつけなければならない課題も多く、その解決が急がれております。
 そうして最後のは、「個性ある健全な行財政の確立」であります。 全職員が力を合わせ、町民のためのサービスに徹し、町民一人ひとりが健康で明るく豊かなものになるよう努力しなければなりません。
 厳しい財政事情にありますが、将来をみつめた堅実な財政運営で本町の明日を創造して参りたいと考えております。
 以上が5つの公約ですが、今後、議会の皆様と十分なご相談の中で煮詰め、具体化して参りたいと思います。
 また、これまでの調整の路線を十分承知しながら、既存の諸計画との調整を図り、着実に実りのある町づくりの方向を見定めて参りたいと存じます。
 近年、景気が底冷えし、明年度の税収の延びは期待できない状況にあると聞いております。
 限られた収入で、限りない要望を一度に満たすことはできません。 しかし、町民の英知と関係者の努力で必ずや本町の明るい未来が約束されるものと信じております。
 まもなく本町は開基百年を迎えます。
 先人の残した百年に及ぶ尊い遺産を受け継ぎ、一層発展させ、後世に引き継ぐことは私たちの大切な責務であります。
 「豊かで明るい町」「やさしく温かい町」「上湧別に住んでよかった、上湧別にぜひ住みたいと思える町」、町民一人ひとりに陽のあたる町づくりを目指して「公平・清潔」をモットーとして力いっぱい努力いたします。
 議会議員の皆様の温かいご指導とご支援を心からお願いを申し上げ、ご挨拶とします。
 松田町長は、平成6年(1994)第一回町議会定例会で、この年の町政執行方針を述べたが、このときも、またこれ以後も、先に町長就任の所信表明で掲げた5つの柱を基調に、これに肉付けをし、また新しい魚王政課題に対応して多少の変容を行いつつ、ほぼ一貫した行政を展開した。

福祉事業  まず第一に掲げた柱は、町長の公約であった「のびやかでいきいきとした福祉と健康のまちづくり」であった。
 これを進める事業としては、特別養護老人ホーム「湧愛園」にショートステイ、デイルームを増築し、さらに、デイサービスセンター建設、在宅介護支援センターを設置し、お年寄り、身体障害者の方々を支援している。 人的には保健婦、ヘルパー、介護福祉士などの増員が行われた。
 また、上湧別町社会福祉協議会への補助を進めるとともに、行政主導の事業ばかりではなく、民間からの活力を発揮してもらうために、事務所を上湧別町社会福祉会館に移し独立させた。
 このほか、重度の人々を含む心身障害者、高齢者、児童および母子家庭などに対する様々な対策事業が進められた。
 なお、地元出身の町長は「現在の80,90歳代のお年寄りは、かって何事も手を執って指導をしていただいた大先輩であります。 今度は私たち町職員が主体となってお世話をさせていただき、これら大先輩の方々へ恩返しをさせていただいているのです」と述べている。

産業の振興  町政の第二の柱は、「未来に向かって夢と希望がいっぱいの活力ある産業のまちづくり」である。
 上湧別町の基幹産業は農ぢょうで、ユベツ川西岸の酪農と東岸の畑作で構成される。 酪農地帯は道営草地改良などの基盤整備が進み、畑作農家に比べると後継者もいて、経営が安定している。
 しかし、上湧別町の特色である野菜・園芸作物の作目も徐々に変わり、かってのアスパラガスは病菌発生により収量減と価格の低迷で生産が振るわず、玉葱や各種の園芸作物栽培に移行しつつある。

 この状況下、町長が特に強調したのは畑地灌漑排水事業で、国営畑地灌漑排水事業や兵村地区道営畑地帯総合土地改良事業による畑置換外事業の整備を推進した。
 また、農業振興事業として、後継者対策、高収益野菜生産施設整備、先進的地域農業確立推進、玉葱貯蔵施設整備、野菜加工施設整備等の事業を推進してきた。
 商工業については、後継者難が深刻である。 また、市街地の商業活動に深刻な影響を与えたのは国鉄の廃止であった。 しかし、最近これもようやく一段落し、既存の焦点、企業の活性化をさせることとし、「上湧別町企業振興促進条例」に基づき企業が投資を行う場合に費用の4分の1を町が補助したり、商店が店舗の改築を行う場合も4分の1の補助を行っている。 この制度を積極的に活用する町民も現れていると町長は指摘している。
 観光については、チューリップ公園が、かっては考えられなかった入込客の増加と商業に対する波及が出てきたが、20日間ほどの花期をいかに伸ばすか、あるいは、他の花と組み合わせるかを検討したいと語った。 それから、特に平日に、バスツアーで本州を含む比較的遠距離の地から観光に訪れる団体、個人が多くなっていること、これらの人々との交流が深まってきていることを喜んでいた。

人材育成と文化  町政の第三の柱は、「二十一世紀を担う人材の育成とふるさとの文化を創造するまちづくり」であった。
 人材の育成という点では、上湧別町ではかねて中学生・高校生のカナダ、ホワイトコート町への派遣事業を進め、国際化に適応する教育の機会をつくってきたが、平成6年(1994)には、ホワイトコート高校から引率者1名と4名の生徒を招き、上湧別町の各家庭にホームステイしながら、町民と交流を深めるとともに日本の文化や習慣を学んでもらう機会をつくった。
 ふるさとの文化を創造し、町の活性化と農業の振興をはかるための大きな事業としては、平成8年(1996)8月1日に開館した「上湧別町ふるさと館JRY」の建設がある。
 上湧別町には開拓の鍬を入れた当時の農機具や生活用品などの貴重な資料が数多く残され、町民からもその保存について強い要望があった。 この種の事業に対する国からの補助は措置されにくいものであった。 しかし、国の農業振興予算の中で補助の措置がされ開基百年事業として、綜合交流促進施設ふるさと館JRY建設の道が拓けた。
そして、建築様式は、建物を眺望した人が思わず近寄って入ってみたくなるような意匠をこらしたものである。 町では、新たに専門の学芸員を配置し、「わが町の開拓の歴史を後世に伝える」とともに上湧別町の新しい観光施設として観光客を誘致するため、チューリップ公園に隣接して建設した。
 町長は今後、鉄道線路跡地を道路とし、このふるさと館JRYと漫画美術館、図書館を併設している文化センターTOMの利用を結びつけ、上湧別と中湧別の距離的感覚を互いに身近なものに近づける構想を練っている。

生活基盤整備
  第四の柱は、「快適でやすらぎのある生活環境基盤を目指すまちづくり」である。
 これに関する実績としては、ごみ処理事業と下水道整備がある。
 ごみ処理については、昭和63年(1988)度に設置した廃棄物処理場が7年を経過し、年々ごみの量が増大しているため、その対策も必要になって来ている。
 しかし、新たに廃棄物処理場を設置するには多額の費用が必要とされるので、平成7年(1995)度から当面のごみ処理減量化対策として、生ごみの自家処理、リサイクル運動の奨励やごみの分別回収の協力を町民に求め、さらに、中型焼却炉を設置した。 当面、廃棄物処理場の使用を延ばすため、可燃物と被可燃物の分別収集を徹底し、今後の課題としては広域共同化によって環境保全を重視した設備が必要となるとしている。
 また、引き続きごみ収集業務の民間委託とごみの減量化推進のため、生ごみ処理容器やごみ焼却炉の購入に対する助成を行っている。 下水道整備は湧別町との共同事業として平成7年に全体計画策定業務に着手し、早期着工を目指している。

健全な行財政の確立  第五の柱は、「個性ある健全な行財政の確立」であった。
 この点で町長が特に推進したのは、バブル経済崩壊以後、行財政の改革の中でも行政量が増大していく状況下、特に職員の資質の向上が行政活動の展開に不可欠であることを常々強調し、職員の研修を積極的に実施した。 また、新たな行政課題に対しては、その都度、組織と人員を配置していたのでは人件費が増加することになり、行政活動の見直しと点検を行い、行政機構が肥大化しないよう配慮を払うことが必要であるとしている。

新しい時代に即応した行政  このほか、新しい情報化社会に目を向け、各種の情報を読み取り、かつ適切な発信を行うことが今後の行政活動の向上につながることを強調している。 これからは家庭で役所の情報を読み取る時代が来るので、そのためにも将来へ向けてのガラス張りの行政をするようにしなければならないことをも示唆している。
 町長はまた、「私一人では決して行政が進まないので、職員が力を合わせてしっかりと仕事をしていただきたい」とし、平成7年(1995)度には、まちづくりについて管理職の職員の提言を積極的に求めた。 そして同8年(1996)度にこの提言から生まれたのが、「まちづくり女性会議」であった。
 これによって町政について発言の機会が少なかった女性に参加の機会を提供したが、日ごろ気づかない意見が多く出され町長は極めて有益であったとしている。
 町長が特に強調したことは、「多くの町民の声を基に、全町民が仲良く、話し合いの中から町づくりに当たりたい。 皆さんと心を合わせなければ町政は決して進まない」ということであった。


(2)補助機関  
助 役  助役は、町長の最高補佐機関として職員の担当する事務を監督し、また町長の職務を代行する者で、町長が議会の同意を得て選任する特別職で任期は4年である。
 昭和50年(1975)以降の歴代助役は次のとおりである。
【助役】
出倉 定夫(昭和42年7月5日~同52年6月3日)
秦野 兼夫(昭和52年12月20日~同56年11月1日)
井尾 悦也(昭和57年4月1日~平成2年3月31日)
宮口 正則(平成2年4月1日~同6年3月31日)
長谷川末広(平成6年4月1日~現在)


収入役  収入役は、町の現金や物品の出納などの会計事務を担当する。 町長が議会の同意を得て選任するもので、町長、助役とともに3役と呼ばれる特別職で、任期は4年ある。
 昭和50年(1975)以降のの歴代収入役は、次のとおりである。」
【収入役】
秦野 兼夫(昭和50年3月19日~同52年12月19日)
野田  博 (昭和52年12月20日~同56年12月19日)
小井田宗重(昭和56年12月25日~平成元年12月24日)
宮口 正則(平成元年12月25日~同2年3月31日)
渡辺 恍三(平成2年4月1日~同6年3月31日)
松本  勝 (平成6年4月1日~現在)


(3)行政機構
職員定数  上湧別町の職員定数は、昭和48年(1973)3月19日、条例第27号によって制定、翌20日公布されたが、その後、平成7年(1995)3月20日、条例第1号に至るまで13回の改正を経ている。
 したがって、平成8年(1996)現在の定数は、次の「上湧別町職員の定数条例」第2条のとおりである。
 (職員の定数)
 第2条 職員の定数は、次に掲げるとおりとする。
  一、町長の事務部局の職員
  二、議会の事務部局の職員
  三、教育委員会の事務部局の職員
  四、教育委員会の所管に属する学校の職員
  五、農業委員会の事務部局の職員
  六、選挙管理委員会の事務部局の職員
  七、監査委員の事務局の職員
  八、水道事業の企業職員

 なお、「上湧別町職員の定数条例」公布以後の条例改正による町職員の推移は、次の表のとおりである。
 交付年月日  町長
部局 
議会
部局 
教委
部局 
教委所管
学校職員 
農委
部局 
選管
部局 
監査
部局 
水道企
業部局 
合計 
昭和49年 3月20日  77  2  8  9  2  1  1  2  102
昭和49年 7月 9日   76  2  8  9  2  1  1  1  100
昭和50年 3月24日   83  2  8  8  2  1  1  1  106
昭和53年 3月20日   83  2  9  5  2  1  1  2  105
昭和53年12月15日  92  2  9  5  2  1  1  2  114
昭和54年 2月23日   92  2  10  5  2  1  1  2  115
昭和56年12月24日   92  2  10  5  2  1  1  4  117
昭和57年10月 5日   91  2  10  5  2  1  1  5  117
昭和59年 3月22日   91  2  10  4  2  1  1  6  117
昭和61年10月29日   92  2  10  4  2  1  1  6  118
平成 2年 3月22日   88  2  10  4  2  1  1  6  114
平成 6年 3月17日   87  2  12  3  2  1  1  6  114
平成 7年 3月20日   91  2  12  3  2  1  1  6  118

行政機構と事務分掌の変遷  昭和50年代(1975~)、わが国では、地方公共団体においても、行政改革が唱えられながら、住宅、道路、土木建設、保健、社会保障、地域開発など、行政の果たす役割を拡大せざるを得なかった。
 上湧別町でも、昭和50年代ごろから新たな課が設置されたり、一つの課を分割したり、さらに、部制を導入して組織の編成を拡大強化するなど行政機構はいくつかの改革をみた。
 昭和58年(1983)6月30日開催の第二回町議会定例会において、「上湧別町課設置条例」(昭和29年条例第6号)の全部を改正し、「開発審議室」を設置し、課名を変更した。
 また、昭和61年(1986)10月27日開催の第六回町議会臨時会で、「上湧別町課設置条例」(昭和58年条例第15号)の全部を改正し、開発審議室を廃止、開発課を新設した。
 その後、昭和63年(1988)6月21日開催の第二回チュ議会定例会において、行政需要の増大に対応するため部制を導入し、管理部・振興部の2部を設置するため、「上湧別町部設置条例」(昭和63年条例第29号)を制定した。
 また、平成6年(1994)4月1日から、社会福祉課を「福祉課」と「住民生活課」に分割変更した。

 表3 行政機構の変遷
昭和51年
 4月1日 
同54年
6月16日 
同58年
7月1日 
同 61年
10月29日 
  同63年
7月1日 
平成2年
3月22日 
同 4年
4月1日 
同 6年
4月1日 
総務課   総務課   総務課  総務課 
  






  
  
総務課   総務課   総務課  総務課 
開基百年記念
事業準備室 
開基百年記念
事業準備室    
仮称文化センタ
ー開設準備室 
12月10日
廃止 
民生課   町民課 住民課   社会福祉課   社会福祉課   社会福祉課   社会福祉課  福祉課 
福祉課  住民生活課 
税務課  税財課  税財課  税財課 




  
 税財課 税財課  税財課  税財課 
企画財政課  企画財政課  廃止    企画財政課   企画財政課   企画財政課  企画財政課   企画財政課  
産業課  産業課  農政課  農政課  農政課  農政課  農政課  農政課 
工営課   建設課 建設課  建設課  建設課  建設課  建設課  建設課 
    商工林務課 商工林務課  商工林務課  商工林務課  商工林務課  商工林務課 
農業共済課   農業共済課 農業共済課 農業共済課  農業共済課  廃止     
    開発審議室  開発課  開発課  開発課  廃止   
   
第二章  選 挙 
  第一節  各級選挙 
     わが国の各級選挙は、昭和25年(1950)4月15日公布、5月1日施行の「公職選挙法」に基づいて執行される。 すなわち、「公職選挙法」第2条に「この法律は、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員および長の選挙について、適用する」とされている。
 昭和58年(1983)6月26日に行われた参議院議員選挙から「全国区」が「比例代表」、「地方区」が選挙区」と改正された。
 また、平成8年(1996)10月20日に行われた衆議院議員選挙から「中選挙区制」が「小選挙区比例痔票並立制」(全国300の小選挙区)に改正された。 北海道は以前の5区から13区に分割され、1選挙区1人の議員を選び、比例代表の北海道選挙区では得票数に応じて9人の政党別議員を選ぶことになった。 なお、比例代表では全国を11選挙区に分け200人の議員を選ぶことにした。
 昭和50年代(1975~)から平成年代(1989~)にかけて、国政選挙、北海道知事、北海道議会議員選挙をみると上湧別町内においても投票率の低下が目につく。 これは国民の政治不信と政治離れを意味している。
 衆議院議員選挙での投票率は、90%台から平成に入ると80%台となり、平成8年10月20日の選挙では76.3%となっている。
 参議院議員選挙での投票率は90%台から70%台までの間で、ばらつきが見られていたが、平成7年(1995)7月23日の選挙では61.65%とかなりの低投票率となった。
 北海道閉じ選挙での投票率は、90%台から平成に入ると80%台となり、平成7年4月9日の選挙では81.57%となっている。
 北海道議会議員選挙での投票率は、90%台から平成3年(1991)4月7日の選挙では88.9%とやはり低下している。
 しかし、地方選挙の町長選挙と町議会議員選挙は依然として関心が高く90%台の高投票率を示している。

 
  第二節 選挙管理委員会 
     「地方自治法」台81条によって、普通地方公共団体は必ず選挙管理委員愛を置くことになっており、4人の選挙管理委員をもってこれを組織している。
 同法第182条で、選挙管理委員は、選挙権がある者で、人格が高潔で、政治および選挙に関し公正な識見を持つ者のうちから議会において、これを選挙することが規定されている。 議会では、委員と同数の補充員を選挙しなければならず、委員に欠員を生じたときは、選挙管理委員会委員長が補充員の中からこれを補充することが決められている。
 また、委員または補充員が同一の政党に所属するということでは選挙の公正が期待できないということで、昭和50年(1975)に、この点の規制が明確にされ、「委員又は補充員は、それぞれの中の2人が同時に同一の政党その他政治団体に属する者となることとなってはならない」ことになった。
 昭和51年(1976)以降の歴代選挙管理委員および補充員は、次の表のとおりである。
 歴代選挙管理委員および補充員  ◎印は委員長
就 任 年 月 日  委  員  名 
昭和51年12月23日 委員
◎柴山正一、結城弘道、村田豊彦、
高田幹夫
補充員
沢口勝男
(昭和54年1月委員に補欠)、堀下
英雄、高橋誠意、中川祐治 
昭和55年12月24日  委員
◎柴山正一、風紀弘道、高田幹夫、
沢口勝男
補充員
堀下英雄、高橋誠意、中川祐治
(昭和5
6年8月委員に補欠)、秦野哲男 
昭和59年12月24日  委員
◎柴山正一、結城弘道、高田幹夫、
秦野哲男
補充員
亀田道男、城岡隆至、矢口テル子
(平成
2年12月委員に補欠)、亀田道男 
平成 4年12月24日  委員
◎高田幹夫、結城弘道、山口啓司、
藪 正志
補充員
横幕広志
(平成4年12月委員に補欠)、森谷
重俊
(平成6年4月委員に補欠)、三品 勲、
横山幸輔 
平成 8年12月24日  委員
◎山口啓司、藪 正志、森谷重俊、
名取忠信
補充員
高橋直司、花木英紘、湊 和憲、
緑川光雄 
 
第三章  人 口 
  第一節  人口動態 
    人口の推移  上湧別町(村)の人口が大正9年(1920)から行われた国勢調査における1万1354人である(住民基本台帳によると昭和31年の1万1429人である)。 同35年(1960)の1万人台から同50年(1975)の8000人台まで、上湧別町の人口は徐々に減少した。 これは、わが国経済の高度成長による労働力需要の増大が農村の若年層を都市に吸引した結果である。 なお、遠軽分村前年の大正7年(1918)には上湧別村の人口は最多の2万1076人を数えた。
 昭和50年8324人であった人口は、一応横ばいに近い緩慢な減少で、平成7年(1995)の国勢調査では6511人となった。 特に、昭和60年(1985)の7670人から平成2年(1990)に6852人へと818人の減少は、国鉄の廃止による中湧別鉄道自治会の消滅の影響である。


世帯数の推移  国勢調査で上湧別町の世帯数が最多であったのは、昭和55年(1980)の2449戸であったが、同44年(1969)から同62年(1987.住民基本台帳による)まで、上湧別町は2400戸台を維持していた。 しかし、平成7年(1995)の国勢調査の戸数は2340戸となった。 つまり世帯数は、ほとんど増減することなく、4半世紀を経過したことになる。 このことは、1世帯の家族構成員が減少し、核家族化(2世代家族の減少)が進み、家族のうちの青年層の町外流出、配偶者に他界されたあとの単身者世帯の存続によるものである。
 昭和50年(1975)以降の戸数および人口の推移は、表1のとおりである。
 
表1 戸数および人口の推移
  区分

年 
国  勢  住民基本台帳
  9月末 
住民基本台帳
12月末 
戸数  人口  戸数  人口  戸数  人口 
 昭和50   2,382   8,324   2,438  8,669  2,436  8,661
 51  -  -  2,442  8,552  2,439  8,571
 52  -  -  2,461  8,508  2,446  8,471
 53  -  -  2,442  8,382  2,452  8,385
 54  -  -  2,457  8,255  2,447  8,239
 55  2,449  8,133  2,468  8,190  2,445  8,178
 56  -  -  2,497  8,097  2,486  8,054
 57  -  -  2,477 7,954  2,471  7,964
 58  -  -  2,483  7,858  2,479  7,857
 59  -  -  2,481  7,806  2,472  7,791
 60  2,389  7,670  2,457  7,720  2,455  7,729
 61  -  -  2,436  7,590  2,423  7,564
 62  -  -  2,409  7,415  2,402  7,402
 63  -  -  2,384  7,272  2,378  7,257
 平成元  -  -  2,360  7,084  2,362  7,062
 2  2,275  6,852  2,339  6,901  2,341  6,897
 3  -  -  2,344  6,825  2,345  6,814
 4  -  -  2,344  6,716  2,344  6,722
 5  -  -  2,355  6,644  2,349  6,629
 6  -  -  2,372  6,619  2,368  6,597
 7  2,340  6,511  2,395  6,564  2,389  6,562
 8  -  -  2,386  6,488  2,377  6,473

産業別就業者数の推移
  上湧別町では、昭和50年(1975)の第一次産業従事者は、前作業従事者の28.2%であり、第二次は31%、第三次は40.8%であった。 これが平成7年(1995)には、それぞれ19.8%7%、47.5%となった。
また、就業者総数は、人口減少などの影響を受けて昭和50年の3985人から平成7年に3437人と減少した。
 とりわけ、運輸・通信業の就業者数が昭和55年(1980)には350人であったが、平成7年には120人と、かっての約3分の1になった。
 
表2 産業別就業者数の推移
産業別  年  昭和50  55  60  平成2  7 
 総  数  3,985  4,160  3,883   3,596   3,437




農      業  1,016  945 928  786  625
 林 業・狩猟業  101  83 70  54  41
 漁業・水産養殖業  5  11 12  8  14
 計  1,122  1,039 1,010  848  680




 鉱      業  6  5 4  6  7
建  設  業   414  564 509  494  541
製  造  業   817  726 626  674  575
計   1,237  1,295 1,139  1,174  1,123




 卸売業・小売業  592  671 645  569  611
金融・保険・不動産業   44  44 47  63  53
運輸・通信業   370  350 265  132  120
電気・ガス・水道業   4  3 9  5  9
サービス業   502  607 639  660  695
公     務   111  150 129  143  145
自  由  業   0  0 0  0  0
分類不能の産業   3  1 0  2  1
 計  1,626  1,826 1,734  1,574  1,634

明らかに国鉄の合理化、縮小、さらには廃止の影響である。 また、農業就業者数も昭和50年には1016人を数えたが、同55年946人、平成7年625人と減少の一途をたどっている。 これは、農業経営の大型化による経営規模の拡大・集約と離農などの結果である。
 昭和50年以降の産業別就業者の推移は、表2のとおりである。


男女別・年齢別人口の推移  上湧別町の総人口の男女別、年齢構成は、1歳から14歳までの幼齢人口が昭和50年z(1975)の2074人から平成7年(1995)の956人へと急速に減少している。 この減少率は、上湧別町の総人口の減少率より高く、昭和50年の幼齢人口の総人口に対する比率が24.9%であったが平成7年には14.7%に低下している。 これは、少子化が確実に進み、小・中学校、保育所の運営にも影響を与えている。
 また15歳から64歳までの生産年齢人口は、昭和30年(1955)から同45年(1970)まで、すなわち高度成長期には6000人台を保持し続けてきたが、同50年に5000人台へ、同60年(1985)に4000人台へと減少、現在に至っている。

 これに対し、65歳以上の老齢人口は、昭和50年の801人、総人口に対する比率9.6%から同55年(1980)1020人、12.6%へ、同60年1201人、15.7%、平成2年(1990)1300人、19%、同7年1492人、平成8年(1996)10月1日現在の網走支庁管内の町村の65歳以上の人口比は17.2%であり、全道平均では15.3%である。 上湧別町の高齢化の波は、同2年の時点で19%で、管内町村の平均よりも高くなっている。
 昭和50年以降の男女別・年齢階層別人口の推移は、表3、表4のとおりである。
 表3 男女別・年齢別人口の推移
       年
年齢階層
  
  昭和50  昭和55    昭和60   
総数 総数 総数
総  数   8,324  3,905  4,419  8,133  3,912  4,221  7,670  3,642  4,028
0   ~   4
5   ~   9
10  ~  14
(幼齢人口)
15  ~  19
20  ~  24
25  ~  29
30  ~  34
35  ~  39
40  ~  44
45  ~  49
50  ~  54
55~59~381
62  ~  64
(生産年齢人口)
65  ~  69
70  ~  74
75  ~  79
80以上
(老齢人口) 
 678
684
712
(2,074)
545
500
596
599
645
625
588
511
448
393
(5,449)
331
247
124
99
(801)
 329
361
378
(1,068)
257
168
260
278
305
322
272
217
199
172
(2,450)
169
116
62
40
(387)
 349
323
334
(1,006)
288
332
335
321
340
303
316
294
249
221
(2,999)
162
131
62
59
(414)
 503
673
624
(1,800)
550
384
527
588
576
591
604
561
670
262
(5,313)
366
302
203
149
(1,020)
 262
336
324
(922)
292
164
240
279
273
283
309
264
291
124
(2,519)
163
156
90
62
(471)
 241
337
300
(878)
258
220
287
309
303
308
295
297
379
138
(2,794)
203
146
113
87
(549)
 429
461
616
(1,506)
517
366
407
488
527
554
565
577
716
246
(4,963)
420
326
252
203
(1,201)
 220
247
304
(771)
255
168
190
236
249
261
268
283
335
101
(2,346)
190
138
118
79
(525)
 209
214
312
(735)
262
198
217
252
278
293
297
294
381
145
(2,617)
230
188
134
124
(676)
      年

年齢階層
 
   平成2     平成7   減少率
(平成7年同2年対比:%) 
総数 総数 総数
 総  数 6,852  3,240  3,612  6,511  3,065  3,446  △5.0 △ 5.4 △ 4.6
0   ~   4
5   ~   9
10  ~  14
(幼齢人口)
15  ~  19
20  ~  24
25  ~  29
30  ~  34
35  ~  39
40  ~  44
45  ~  49
50  ~  54
55~59~381
62  ~  64
(生産年齢人口)
65  ~  69
70  ~  74
75  ~  79
80以上
(老齢人口)
 
 292
397
430
(1,119)
464
273
338
360
464
468
501
532
727
306
(4.433)
401
360
252
287
(1.300)
 158
215
222
(595)
225
113
175
167
223
220
224
250
366
134
(2.097)
168
155
98
127
(548)
 134
182
208
(524)
239
160
163
193
241
248
277
282
361
172
(2.336)
233
205
154
160
(752)
 288
285
383
(956)
327
281
305
347
346
443
465
494
719
336
(4.063)
460
370
307
355
(1.492)
 139
150
209
(498)
167
123
145
183
165
212
221
223
339
171
(1.949)
212
153
127
126
(618)
  149
135
174
(458)
160
158
160
164
181
231
244
271
380
165
(2.114)
248
217
180
229
(874)
 1.4
△28.2
△10.9
(△14.6)
△29.5
2.9
△9.8
△3.6
△25.4
△5.3
△7.2
△7.1
△1.1
9.8
(△8.3)
14.7
2.8
21.8
23.7
(12.8)
 △12.0
△30.2
△5.9
(△16.3)
△25.8
8.8
△17.1
9.6
△26.0
△3.6
△1.3
△10.8
△7.4
27.6
(△7.1)
26.2
△1.3
29.6
△0.8
(12.8
)
 11.2
△25.8
△16.3
(△12.6)
△33.1
△1.3
△1.8
△15.0
△24.9
△6.9
△11.9
△3.9
5.3
△4.1
(△9.5)
6.4
5.9
16.9
43.1
(16.2)
                            (国勢調査)
自治会別世帯・人口の推移  町内自治会別世帯数および人口は、昭和55年(1980)から平成2年(1990)にかけての池内鉱業(株)の縮小と国鉄の縮小、廃止の影響がはっきり現れている。
 また、昭和50年(1975)から平成7年(1995)まで、農業地区の離農による世帯の転出、人口の減少が明らかである。 しかし、農業地区の中でも開盛と北兵村一区については、世帯数は増加を示している。 これは宅地化の進行によるものである。
第四章  栄 典 
  第一節  名誉町民   
     上湧別町では、昭和29年(1954)10月16日、「上湧別町名誉町民条例」を制定して以来、「①本町に十年以上居住している者、若しくは居住していた者、又は本町出身者であること、②産業の振興、社会福祉の増進又は学術技芸の進展に功績があったこと、③町民が郷土の誇りとしてひとしく尊敬する者であること」の要件を満たした人物を名誉町民に推してきた。 同50年(1975)までに、庄田萬里、酒井佐一、熊沢助三郎、三浦清助、石田勝喜に名誉町民の称号が贈られた。 その後、同58年(1983)3月17日に渡辺要、平成3年(1991)11月23日に渡辺正喜、曽我耕作に名誉町民の称号が贈られている。 その略歴と功績は、次のとおりである。

渡辺 要   上湧別町字屯田市街地、明治37年(1904)11月15日生
 町議会への提案理由(昭和58年3月17日)は、次のとおりである。
 渡辺氏は永年本町に在住し、首長として地方自治の振興、農業振興、教育の振興並びに社会福祉の振興に貢献し、更には町内外に本町の名声を高め、本町の発展に寄与し、その功績が大きいので、名誉町民の称号を贈りたい。
 主たる功績は次のとおりである。
 市は、屯田兵の長男として南兵村三区に生まれて、上湧別村に奉職、9年間勤めたのち、興部、上斜里(現、清里町)、白滝各村長を歴任し、以来12年間上湧別町発展に大きな業績を挙げられた。
 昭和46年(1971)、第一期上湧別長総合計画を策定された。 また、住民の町政参加を進め、同46年、北海道からコミュニティ地区の指定を受け、住民の自治意識の向上に尽くされた。
 さらに、普通化せんの整備はもとより、中土場川の切替事業について早期実現に努め、治水事業に貢献された。

 町の基幹産業の農業分野では農業基盤整備で総合的な土地改良事業を推進する一方、第二次農業構造改善事業などで農業経営近代化を図るとともに寒地園芸営農センターを設置、栽培技術の向上を図った。
 昭和44年(1969)、上水道事業を進め、給水を開始したほか、ごみの無料収集、屎尿の共同処理を実施するなど生活環境の基盤づくりに尽力された。
 また、上湧別厚生病院の存続について粉骨砕身、存続を図り、さらに、昭和52年(1977)、近代的総合病院落成に寄与された。
 教育については、昭和40年から町内5校の中学校を3ヶ年で1校に統合、同52年に中湧別小学校の全面改築にちゃくしゅするなど学校教育施設の整備に精魂を傾けられた。 同43年(1968)から町内全校児童生徒に学校給食を実施した。 また、野球場、テニスコート、青少年会館、プール、郷土資料館などの建設を行い、社会教育環境の整備に大きな業績を残された。
 社会福祉については、保育所を4ヶ所に設置、児童館の建設、児童遊園地の確保、老人クラブの育成、寿の家、憩いの家の建設、老人農園などを設置した。 また、特別養護老人ホームの建設許可認定に献身的な努力を傾注され、その実現をみた。


渡辺正喜  上湧別町字北兵村一区 明治44年(1911)3月28日生
 町議会への提案理由(平成3年11月23日)は次のとおりである。
 渡辺氏は、永年上湧別町に在住し、町議会議長および議員として地方自治の振興、農業、土木、建築等の産業振興に貢献し、さらに、多くの機会に多額の金品を寄せられ、本町の発展に挙されたその功績が大きいので、名誉町民の称号を贈るものである。
 主たる功績は、次のとおりである。
 氏は、屯田兵家族、渡辺喜三郎氏の長男として生まれ、若年にして土木建築業渡辺組を設立した。 昭和34年(1959)上湧別町議会議員に初当選以来、6期24年間上湧別町の発展に業績を挙げられた。 同46年(1971)から同58年(1983)まで、12年間町議会議長として町の発展に貢献された。 議長として、町の基幹産業である農業の基盤整備の遅れに注目、明渠排水事業、農地開発事業をはじめ多くの施設づくりを行い、今日の近代農村の基礎づくりに貢献された。
 保健衛生については、上湧別厚生病院の存続と改築に努力を傾注し、昭和52年(1977)近代的な総合病院の落成をみるに至った。 また、湧別町を含めた広域的水道施設の建設に尽力され、同59年(1984)に完成に至った。
 社会福祉については、特別養護老人ホームの必要を力説、昭和53年(1978)、ついにその開設をみた。
 教育振興については、町内に散在する5校の中学校を1つの統合中学校とし、昭和52年に中湧別小学校、同54年(1979)に上湧別小学校、同58年(1983)に開盛小学校などの計画的改築を推進された。 また、綜合体育館、社会福祉会館など多くの社会教育施設の整備に尽力された。
 また、簡易水道事業の促進、寒地園芸営農センターの設置、各種道路の整備のほか、湧別川架設の中湧別橋の永久橋化を達成するのに尽力された。
 このほか、網走支庁勘内町村議会議長会会長、北海道町村議会議長会理事として、開発予算枠の獲得、国鉄地方路線問題、道東地域開発問題など広域にわたって難問と取り組まれた。
 湧別地方高等職業訓練協会長として、地域の職業訓練を進め、特に若年技能者の専門技術化を進められた。
 このほか、上湧別町建設協会の設立を提唱し、昭和37年(1962)の設立以来、会長として20有余年、上湧別町建設業界の発展に尽力された。
 昭和60年(1985)(株)上湧別振興公社の設立を働きかけ、設立後は代表取締役社長に就任、地域活性化を図られた。 公社の目的である農、畜、水産物の製造加工販売、上湧別リバーサイドゴルフ場などのスポーツ施設や公園の管理運営などは氏の営業手腕の成果である。


曽我耕作  上湧別町中湧別中町 明治42年(1909)7月26日生
 町議会への提案理由(平成3年11月23日)は、次のとおりである。
 曽我氏は、永年湧別町に在住し、高度な医療技術をもって本町の医療の充実と発展に貢献し、町民をはじめ当地域住民の健康増進に寄与されたその功績が大きいので、名誉町民の称号を贈るものである。
 主たる功績は次のとおりである。
 氏は、昭和医学専門学校卒業後、北海道大学医学部に勤務、昭和14年(1939)9月、30歳の若さで上湧別厚生病院の院長として赴任された。 午前チュは外来患者の診療に当たり、午後は手術や往診と東奔西走された。 
 昭和22年(1947)、不慮の火災で病院の大半を焼失したが、4ヶ月後に診療を再開、同23年(1948)に多くの寄附と国、北海道の補助を受けて再建、医師6人体制で、内科、外科、小児科、耳鼻科、歯科の5科をもって診療を始めた。
 昭和24年(1949)、全道一の羅患率で死亡率の高い上湧別町の結核病の対策に取り組み、結核撲滅対策委員会を設置、さらに、同30年(1955)から遠軽保健所結核診査協議会委員に就任、その医療と予防に努力された。 また、同31年(1956)から国民健康保険事業運営協議会の委員として永年事業の振興発展に尽力され、又、町の乳幼児検診、インフルエンザなどの各種予防接種や伝染病対策など保健、衛生業務に当たられた。
 これとともに、昭和31年から中湧別小学校のほか4校の学校医として、児童生徒の健康管理に当たられた。
 厚生病院定年退職後は、時の町長の強い要請により中湧別市街に中湧別診療所を開設、内科、外科、小児科、婦人科と幅広い診療に当たり、さらに、診療所を改築して病床を増床、曽我病院として医療の充実を図った。 特に莫大な施設投資をして人工腎臓透析施設をつくり、年中無休で治療に当たられた。
 昭和25年(1950)4月、(社)遠軽医師会が設立されて以来、裁定委員、理事として、同35年(1960)から4年間、副会長として、広域医療体制の向上発展のため尽力された。
 さらに、昭和56年(1981)からは北海道医師国民健康保険組合会議員を務められた。
  第二節  町功労者の表彰 
     上湧別町では昭和32年(1957)2月29日に公布された「上湧別町表彰条例」により、上湧別町の発展のため功労があった者、または町民の模範となるべき篤行のあった者を表彰している。
 表彰には、特別功労表彰、功労表彰、善行表彰、奨励表彰の4種類がある。
 特別功労表彰は個人表彰とし、町勢の発展に尽くし、町の名誉を著しく高め、町民が郷土の誇りとして、尊敬に値する功績があった者としている。
 功労表彰も個人表彰とし、表彰は自治功労、納税功労、消防功労、教育文化功労、社会功労(社会福祉の増進に寄与)、健民功労(保健衛生の増進に寄与)、産業経済功労の7部門となっている。
 善行表彰と奨励表彰は、個人および団体表彰としている。 善行表彰は、町の公益事業に50万円以上の金品を寄附した者、百万円以上の金品を寄附した団体、人命財産の救助保護や町民の模範となる善行に対してとなっている。
 奨励表彰は、納税思想の普及に努め、5年以上農期内に完納した納税組合、交通安全指導、防火・消防活動、文化・スポーツ活動、社会奉仕などに著しい成果を収めた個人・団体に対してとなっている。
 表彰の決定については、上湧別町表彰審査委員の答申により、町長が表彰する。 ただし、特別功労表彰については、町議会に諮って決定する。
 上湧別表彰委員会は、「上湧別町表彰条例」に基づき、表彰の適否を診査するため、町長が議会の同意を得て任期3年の委員を選任し、設置されている。
 昭和50年(1975)度以降の町功労者の表彰は、次のとおりである。

特別功労表彰  
井上 正志(昭和52年 9月22日)
遠藤 庄吉(昭和56年12月17日)
一戸 秀麿(昭和60年 4月15日)
遠藤 清司(昭和61年 9月30日)
平野  毅 (昭和61年 9月30日)
高柳 清治(昭和61年 9月30日)
花木今日松(昭和61年 9月30日)
村上 清司(平成 4年 1月16日)


功労表彰  
【自治功労受賞者】
渡辺 要(昭和52年)
田中正、中川幸一、前川美夫、吉田早一、竹内孝一、黒川一郎、道下道行、因二夫(以上昭和53年)
北原良男、手塚一(以上昭和54年)
結城弘道(昭和56年)
国枝守(昭和57年)
佐藤吉一、福島憲次郎(以上昭和58年)
大沢順英、深坂日出夫、石田静夫、安藤国夫、井上徳俊、上家幸雄、東山一保、鈴木洋三、坂田淳子(以上昭和59年)
沢口一雄、田中重一、神成良行、新妻栄子、加藤富士子、奥谷進、長谷川末広、細川正美(以上昭和60年)
出倉定夫、林功、高柳友五郎、村田豊彦、三浦昭二、片岡秋美、上松二雄、沢口勝男、松岡武雄、郵便局間口宏幸、成瀬徳雄、本間幸雄、区道重二、松原祐治、長嶋勝次、松本勝(以上昭和61年)
片岡隆雄、八巻貢、頓西国一夫、出口一三郎、中津川稔、坂本堅弥、長谷川好雄、加藤政紀(以上昭和62年)
穴田寿之、城岡隆志、斉藤治右衛門、井尾啓子、高橋信也(以上昭和63年)
高橋誠意、高田幹夫、横幕正美、松橋秀雄(以上平成元年)
小池寿治、木村久、工平恵造(以上平成2年)
高木喜六、上松芳男、平間勝義、三宅悟(以上平成3年)
斉藤昭三(平成4年)
深見信之、佐伯勉、野田英巳、片岡正寛、白石徹夫、近藤忠勝、嘉野勝雄、熊野貞雄、増田柾子(以上平成5年)
池田隆喜、木村新市、佐藤与作(以上平成6年)
小野寺幸男、渡辺正利、岩瀬昌俊、鎌田三子雄(以上平成7年)

【納税功労受賞者】
樋口雄幸(昭和54年)
高柳友五郎、因二夫、須藤茂(以上昭和56年)
横倉昇、山田勉、阿部太(以上昭和61年)
横山美治(昭和62年)
渡辺正利、頓西国一夫、中津川稔(以上昭和63年)
出口一三郎、高柳善次(以上平成元年)
三品正吉(平成2年)
此下清一、石垣義治、小野寺信寿(以上平成4年)
斉藤昭三(平成5年)
小野九十九(平成6年)
牧野正美(平成7年)
田中辰吉(平成8年)

【消防功労受賞者】
鈴木登、小池健三(以上昭和50年)
長谷川拓次、松浦太郎、中島重次、服部良吉、松本馨(以上昭和51年)
秋山昭七、秦野哲男、野田寿幸、長谷川尚行、小関静弘、高田幹夫、結城弘道、野村昌宏、滝田尚正、三沢滉、元木茂(以上昭和52年)
福田英晴、山口啓司(以上昭和53年)
坂口秀一、小倉一雄(以上昭和54年)
福本信夫、和田敏男、遠藤博雄(以上昭和55年)
小野寺良司、高桑通行、中川祐治、中川哲夫(以上昭和56年)
斉藤勝利(昭和57年)
谷本八州男(昭和58年)
兼田義弘、水野義明、高柳忠史(以上昭和59年)
岩井一郎、安藤英夫(以上昭和60年)
牧村貞夫、竹部行義、昆紀彦、藪正志、荒木一雄(以上昭和61年)
山本芳一、西川仁史(以上昭和63年)
北村茂、横幕広志、中村直樹(以上平成元年)
吉田耕造、柴田節男、北村加一、浅井博行、西出正彦、加茂正徳、井上正徳(以上平成2年)
池田信貞、木村衛、島泉、湊和憲(以上平成3年)
高橋茂、木下敏彦、出口博徳、岩橋貞夫(以上平成5年)

【教育文化功労受賞者】
松村康(昭和50年)
上田佐代子、遠田隆一郎(以上昭和51年)
浅井好(昭和57年)
樋口雄幸(昭和59年)
北川年枝(昭和61年)
古川正道(平成2年)
梨沢稔(平成3年)
藤井秀明、柴山希郎(以上平成4年)
山田福蔵、西川仁史(以上平成5年)
柴田寿子(兵士6年)
羽根田光夫、清水浩(以上平成7年)

【社会功労受賞者】
佐藤島三郎、北村耕蔵、梶田要吉(以上昭和50年)
斉藤準平、宍戸与太郎、伊藤すえ、浅井イソ(以上昭和51年)
二瓶さわ、井上吉三郎、藤島ソメ、我妻かめの、加藤タミ(以上昭和52年)
佐藤ユキ、近江ちよの(以上昭和53年)
新妻あさ(昭和54年)
佐藤ツヨ(昭和55年)
四戸スエ、中西タツノ、斉藤賢、菊地みよの(以上昭和56年)
武藤弘、村田利雄(以上昭和57年)
橋本二郎、塚本義親、山田新蔵、土岐政太、熊勢終、阿部フチ(以上昭和58年)
高橋ヤシエ、相原重太郎、安本スケヨ、我妻とめよ、篠原弥市、青野常三郎、青野はる(以上昭和59年)
星川昌司、水戸カン、高松伝蔵、岩瀬定助、成田熊次郎(以上昭和60年)
木村輝、山田テツイ、清水龍彦、上松千馬蔵、片岡幹雄、麻植くに(以上昭和61年)
高橋誠意、秦野喜代、秦野馨、細川稔男、千葉敏男、塚本義親、井上繁敏、遠藤清治、野口重福、宮島サダ、三宅スミエ、高柳清治、本間ハル(以上昭和62年)
花木今日松、片岡あさ江、田中サキ(以上昭和63年)
曽我由仁子、福島よね子、松原ジュ、中山チトセ、浜口マツエ、井上ハルヨ、此下千丸、加茂みさを(以上平成元年)
樋岡秀樹、本多ユキ、加茂崇四郎、三谷うめ、池田憲弥、東山フデ、須藤わくり(以上平成2年)
富井寛、牧野正美、松浦時、池田きよ、平野毅、小野ヨシノ、片桐マツエ(以上平成3年)
穴田澄子、石塚ヲヨ、出口キソ、藪ハツ、平間円左ヱ門、坂口秀一、林つるの、八巻敏雄、岩瀬ふづ、志鎌松治、山口志づよ(以上平成4年)
新国二三雄、高柳セイ、小野寺ヤスノ、星川たか、川端ハツエ、長谷川マツエ、中橋ステ、山口長蔵、四戸キン、成瀬その、横倉セキ、熊谷わき、池端トシ、藤本トミエ(以上平成5年)
新国寿雄、村瀬新作、柳橋キクエ、酒井宗太郎、田中辰吉、石田さん、片岡ヲエツ、片平みどり、タブきみゑ、大泉君代、加藤富三郎、花木とくよ、松本キク、渡辺キネ、三沢てるこ(以上平成6年)
安藤シマ、山口ミヱ、増田春江、長倉きみゑ、古庄幸夫、沢崎武信、河村ミツ(以上平成7年)
岩崎ミツ、古山スイ、金子秀二郎、佐藤正一、河村藤吉、石塚ヲヨ、水野金松、加藤勇治、松田八州、本間セキ、八百坂ツヤ、佐藤春吉、佐々木佐蔵、渡辺静(以上平成8年)

【健民功労受賞者】
松田禅(平成2年)
伊藤昭夫(平成5年)
【産業経済功労受賞者】
佐藤八郎(昭和50年)
片岡時雄、中田米作(以上昭和52年)
堀下武(昭和53年)
大野明(昭和57年)
手塚一(昭和58年)
西潟明男、小林博(以上昭和63年)
佐藤馨(平成3年)


善行表彰
【善行受賞者】

渡辺要、遠軽信用金庫(以上昭和53年)
長谷川好雄、牧野裕司(以上昭和55年)
曽我耕策、花木清治(以上昭和56年)
北海道農協乳業(株)(昭和57年)
高柳清治、高柳喜重、(株)渡辺組、石沢剛、西野昭(以上昭和58年)
宮澤晋次、井上光雄、曽我耕策、遠軽舗道(株)、上湧別町農業協同組合、山崎光吉、井上英子、吉田吉蔵、山本芳雄、長谷川尚富(以上昭和59年)
一戸洋麿、遠軽舗道(株)、宮沢晋次、手塚一、中湧別ロータリークラブ、藤本武一、奥原肇子、西坂正(以上昭和60年)
遠軽舗道(株)、小林友志、高柳勝次、細川稔男(以上昭和61年)
遠軽信用金庫、㈲横幕石材工業、遠軽舗道(株)、上湧別町農業協同組合、(株)渡辺組、(株)村上組、(株)北海道銀行、北見興農土管(株)、曽我病院、佐々木歯科医院、(株)赤塚商店、上湧別建設業協会、渡辺要、三井甚五郎、宮嶋静子、熊沢権寿、小池寿治、岩井喜一、長岡京(以上昭和62年)
斉藤利正、渡辺正喜、森谷大勝、宮嶋静子、遠軽舗道(株)(以上昭和63年)
曽我耕策、小堀喜代栄、樋口雄幸、遠軽舗道(株)(以上平成元年)
遠藤清喜、佐藤八郎、石村志郎、石村ヨネ子、遠軽舗道(株)、(株)近藤商店(以上平成2年)
遠軽舗道(株)、村上清司、平間勝義、斉藤力雄、松浦紀之、後田豊治、伊藤博、加藤道吉、丹野友一、松田禅、稲垣政義(以上平成3年)

新国二三雄、茶川嘉尚、佐々木三知夫、松田キヨ子、大嶋昌子、村上寿子、渡辺正喜、オホーツク二十一世紀を考える会、高柳友五郎、遠軽舗道(株)(以上平成4年)
曽我由仁子、赤塚重盛、加藤コハル、藤枝キリ子、茶川嘉尚、尾美政市、伊藤重雄、山下幸夫、㈲牧野商事、遠軽信用金庫(以上平成5年)
曽我湯仁子、茶川嘉尚、三井甚五郎、田代晴巳、鷲見憲治(以上平成6年)
茶川嘉尚、渡辺洋、高柳友五郎(以上平成7年)
井上昌二、因二夫、湧愛園家族会「泉の会」(以上平成8年)


奨励表彰
【納税奨励受賞者】
北町第三納税貯蓄組合、中湧別電報電話局納税貯蓄組合(以上昭和50年)
五の三納税貯蓄組合、中町納税貯蓄組合、北町第10納税貯蓄組合、東町納税貯蓄組合、南町西納税貯蓄組合、中町第三納税貯蓄組合(以上昭和52年)
東町公住納税貯蓄組合(昭和55年)
村上組納税貯蓄組合(平成元年)
納税貯蓄組合南町第二新生、納税貯蓄組合五の一中央、納税貯蓄組合ホクユウ(以上平成4年)
平成納税貯蓄組合(平成8年)

【交通安全奨励受賞者】
沢口一雄、神成良行(以上昭和50年)
田中重一、牧野豊、渋井慶一、高橋誠意(以上昭和51年)
本間幸雄、山本功(以上昭和52年)
加藤富士子、新妻栄子、大野明(以上昭和54年)
横幕正美、井尾啓子、渋井礼子、(株)横山サーブスセンター(以上昭和57年)
工藤重二、斉藤治右衛門、上田虎雄、木下茂、穴田澄子(以上昭和59年)
此下律子、三宅栄子(以上昭和60年)
(株)渡辺組、遠藤和子、中川永子(以上昭和61年)
高柳友五郎、松本馨(以上昭和63年)
鎌田三子雄、上湧別町商工会青年部(以上平成2年)
橋本二郎(平成3年)
鎌田正祺(平成7年)


【教育文化奨励受賞者】
柴山鈴子(昭和61年)
柴田寿子、横幕正美、上湧別町青年団体協議会、湧別高等学校放送局、藪知美(以上昭和62年)
山田福蔵(昭和63年)
神田ヤエ子(平成6年)
中湧別小学校金管バンド(平成8年)

【青少年教育奨励受賞者】
矢萩末次郎(昭和57年)
【スポーツ奨励受賞者・団体(代表者)】
梨沢稔、杉本留吉(以上昭和50年)
藤井正博、村上秋雄(以上昭和54年)
藤井勇一(昭和56年)
中湧別野球スポーツ少年団(昭和58年)
藤井秀明、細川泰男(以上昭和60年)
柴田嘉好、上湧別ママさんバレーボールクラブ(以上昭和61年)
鳥羽正紀(昭和62年)
清水浩(昭和63年)
羽根田光夫(平成2年)
黒川毅一、福本信夫(以上平成3年)
毛利忠義、奥谷進(以上平成4年)
松本勝(平成5年)
村上美明、湧別高等学校サッカー部(以上平成6年)
佐野宣雄、北村茂(以上平成7年)
中島孝則(平成8年)


【社会奉仕奨励受賞者】
古川正道(昭和59年)
成田正勝(平成3年)
山本芳雄(平成4年)

【健民奨励受賞者】
永田兼雄、野村しづ、北島トシ子、村瀬新作(以上昭和54年)
岡泉あきの、遠藤雛子(以上昭和56年)
渡辺秀雄、大野武志(以上平成元年)
瀬古田鶴子、西川忠良(以上平成2年)
相原ツル(平成3年)
斉藤ミナト(平成4年)
米谷竹並清(平成5年)
蒲清子(平成7年)

【文化奨励受賞者】
市崎義雄(平成3年)
三好勝秀、上湧別混声合唱団(以上平成4年)

  第三節  叙勲および褒賞 
     上湧別町において、昭和50年以降国から勲功を表彰して勲位、勲等およびこれに伴う勲章を授与された者は、表1のとおりである。
 表1 叙勲受賞者

受 叙 年 月 日 氏  名  住 所  叙位 叙   勲  功績内容  生 年 月 日
昭和50年 4月29日 村松 康  中湧別    勲四等瑞宝章  教育の振興  明治35年4月15日 
昭和50年 4月29日  一戸 秀麿 中湧別    勲五等双光旭日章  僻地医療の振興  明治35年4月4日 
昭和50年 6月30日
昭和50年 6月30日 
石田 勝喜  南兵村一区  従六位 勲五等瑞宝章  地方自治の振興発展  明治33年6月12日 
昭和50年11月 3日  花木今日松  屯田市街地    勲五等瑞宝章  地方自治の振興発展  明治33年4月23日 
昭和52年 2月 6日  石田 友一  屯田市街地    勲六等瑞宝章  地方自治の振興発展  明治31年6月2日 
昭和53年 5月10日
平成 7年 3月 2日 
渡辺 要  屯田市街地  正六位  勲四等瑞宝章  地方自治の振興発展  明治37年11月15日 
昭和53年11月 3日  鹿野 祐次  中湧別    勲五等双光旭日章  学校教育の振興  明治36年11月12日 
昭和53年11月 3日  小池 正躬  中湧別    勲五等双光旭日章  郵政業務の発展  明治41年5月28日 
昭和54年11月 8日 三宅 悟  中湧別    勲六等単光旭日章  消防活動に尽力  大正6年7月23日 
昭和55年11月 1日  塩田 輝正 中湧別    勲六等瑞宝章  消防活動に尽力  大正5年11月26日 
昭和57年 5月 3日 福田 保国  屯田市街地    勲六等双光旭日章  地方自治の振興発展  明治35年6月5日 
昭和57年 5月12日  平野 毅  南兵村二区    勲五等瑞宝章  地方自治の振興発展  明治36年6月23日 
昭和57年 5月12日  伊藤 左近  南兵村二区    勲五等瑞宝章  学校教育の振興  明治34年1月20日 
昭和57年 6月27日  大滝 敬二  中湧別    勲六等単光旭日章  地方自治の振興発展  明治36年3月13日 
昭和59年 5月16日
平成 3年11月27日 
曽我 耕策  中湧別  従七位  勲五等双光旭日章  僻地医療の振興  明治42年7月26日 
昭和59年11月 3日  吉田 寅一  北兵村三区    勲六等瑞宝章  河川監視に尽力  大正3年3月23日 
昭和60年 4月29日  渡辺 正喜  北兵村一区    勲五等双光旭日章  地方自治の振興発展  明治44年3月28日 
昭和63年11月 3日  佐藤 八郎  中湧別    勲六等瑞宝章  職業訓練校の振興  明治42年4月24日 
平成 元年 4月29日  樋口 雄幸  南兵村一区    勲六等単光旭日章  福祉の振興  大正元年12月14日 
平成 2年 4月 1日  池田 憲弥  南兵村二区    勲六等瑞宝章  地方自治の振興発展  明治35年3月11日 
平成 2年10月23日
平成 2年10月23日 
西  与作  中湧別  従五位  勲五等瑞宝章 教育の振興  大正2年4月20日 
平成 2年11月 3日  花木 清治  屯田市街地    勲六等単光旭日章  消防活動に尽力  大正14年11月1日 
平成 3年10月17日  大野 明  北兵村三区    勲六等単光旭日章  地方自治の振興発展  明治43年 5月28日 
平成 3年11月 3日
平成 4年 1月15日 
村上 清司  北兵村一区  正六位  勲五等双光旭日章  地方自治の振興発展  大正 2年 9月 8日 
平成 3年12月 1日  山口 長蔵  開 盛    勲六等単光旭日章  地方自治の振興発展  明治36年11月 2日 
平成 4年 4月29日  久保 吉一  中湧別    勲六等単光旭日章  消防活動に尽力  大正14年10月31日 
平成 4年12月 1日  新国二三雄  北兵村三区    勲五等瑞宝章  郵政業務の発展  明治37年11月24日 
平成 6年 3月15日  酒井 孝  中湧別    勲六等瑞宝章  地方自治の振興発展  大正 7年 3月31日 
平成 6年 4月29日 曽我由仁子  中湧別    勲五等瑞宝章  人権擁護委員  大正12年 5月 3日 
平成 7年 5月13日 因 芳民  中湧別    勲六等単光旭日章  消防活動に尽力  昭和 6年 5月26日 
平成 7年11月12日 辻 正夫  紋別市    勲六等単光旭日章  地方自治の振興発展  明治42年10月19日 
平成 8年 4月29  新妻 保長  中湧別    勲六等単光旭日章  消防活動に尽力  大正14年 6月 9日 
平成 9年 4月29日 本間 一郎  中湧別    勲六等単光旭日章  消防活動に尽力  大正15年11月30日 
平成 9年 6月 6  平間 勝義  屯田市街地    勲六等瑞宝章  地方自治の振興発展  昭和 7年 6月20日 
平成 9年 8月 1日 坂田 直光 中湧別    勲六等単光旭日章  地方自治の振興発展  明治42年 7月27日 

第五章  広域行政 
topへ    概 説  昭和40年代(1965~)、わが国の交通通信の発達は、人々の地域生活における行動の範囲を著しく拡大させた。 通勤、通学、医療、買物、レクリエーションなどの住民の正上湧別津権は、それまでの町村の区域を越えて広域化し、特に車社会の発達がこれを一層助長した。
 このような状況に対処し、自治省では昭和44年(1969)から「広域市町村圏振興整備措置要網」をつくり、全国的な規模での広域圏域の設定に乗り出した。 この要網に基づいて設定された圏域を広域市町村圏というが、設定に当たっては、自治省、都道府県、関係市町村の協議の上決められた。
 同一圏内の市町村は、「地方自治法」上の協議会または一部事務組合を設立して、様々な協力、機能分担を行うが、設立された県域には、国からの特例的な助成が行われることになった。
 上湧別町は、昭和45年(1970)設立の「遠紋地区広域市町村圏」に属することとなった。
 上湧別町とともに、紋別市、遠軽町、佐呂間町、生田原町、白滝村、丸瀬布町、湧別町、滝上町、興部町、西興部村、雄武町の1市11町村が県域を構成した。
 昭和46年(1971)には広域市町村圏振興計画が策定され事業が開始された。
 この振興計画は、県域市町村が地域の特性を生かし、各市町村の自主性と自立性を損なうことがないように、広域的な視野のもとに長期的かつ総合的観点から策定され、平成9年(1997)度まで度々計画を更新してきた。


振興計画と実施  遠紋地区広域市町村圏振興協議会が策定した第三次遠紋地区広域市町村振興計画実施計画(平成元年度~同9年度)は、「①基礎的条件の整備(交通・情報・防災体制)、②住宅と生活環境の整備(環境衛生・保健・医療)、③社会福祉の向上(老人福祉・障害者福祉)、④教育・文化の振興(学校教育・社会教育)、⑤スポーツ・レクリエーションの振興)、⑥コミュニティづくりの推進、⑦産業の振興(農業・林業・商業・観光)など」圏域市町村で事業の協力と分担を行っている。 
第六章  まちづくり計画 
     上湧別町では、昭和46年(1971)に第一期上湧別町総合計画が策定されて以来、同55年(1980)に第二期上湧別町総合計画を、平成2年(1990)に第三期上湧別町総合計画を策定した。 いずれも10年間を目標とする長期の行政計画である。 
  第一節  第二期上湧別町総合計画 
    概 説  上湧別町では、昭和54年(1979)8月に設立された総合計画審議会に、「町民一人ひとりがしあわせな暮らしをつづけることができる町づくり」を目標とした第二期上湧別町総合計画の策定について諮問した。
 審議会では、昭和46年(1971)に同55年(1980)を目標年度として策定した第一期上湧別町総合計画の総点検を行い、上湧別町の課題や将来の発展方向について審議を重ねるとともに、町民意向調査や町民との懇談会を実施するなど、町民の意向を把握、同55年12月12日、第二期上湧別町総合計画案を答申した。 これが12月25日の第四回町議会定例会に提案され、原案どおり議決された。
 まず、基本構想では、上湧別町発展の基本目標として、次の4項目を設定した。

基本目標  
 一、めぐまれた自然を愛する、美しいまちづくりをめざす。
 二、たがいに助け合う、あたたかなまちづくりをめざす。
 三、開拓の心をうけついだ、高い文化のまちづくりをめざす。
 四、働くよろこびを育てる、のびゆくまちづくりをめざす。
基本計画  この総合計画の基本計画では、計画期間は、昭和56年(1981)度から同65年(1990)度までの10ヶ年とした、 そして、この計画の策定に当たっては、既に国において策定された第三次全国総合計画および新北海道開発計画、北海道において策定された北海道発展計画による地域政策の基本的方向を見定め、上湧別町の地域特性と発展的要素を踏まえ、将来の進めべき方向を確立することとした。
計画の主要指標  計画の主要目標として、人口については、昭和55年(1980)の基準年次の実数8133人を目標年次には8200人と見込み、年齢構造と世帯規模、就業人口についても次のような目標を樹立した。
人 口  
区 分  基準年度(55年度)  目標年度(65年度)  65年度・55年度
  対比(%) 
実数(人) 構成比(%) 総定数(人)  構成比(%)
総人口   8,133 100.0 8,200  100.0  100.8 
年齢構造と世帯規模   
幼 齢 人 口
(0~14歳)
 1,804  22.2  1,451  17.7  80.4
 生産年齢人口
(15~64歳) 
 5,321  65.4  5,437  66.3  102.2
老 齢 人 口
(65歳以上) 
 1,008  12.4  1,312  16.0  130.2
総 世 帯 数   2,448    2,457    100.4
世 帯 規 模   3.3    3.3    100.0
就業人口  
総   数   4,139  100.0  4,387  100.0  106.0
就 業 率   50.9    53.5    105.1
第一次産業   1,026  24.8  926  21.1  90.3
第二次産業   1,215  29.3  1,557  35.5  128.1
第三次産業   1,898  45.9  1,904  43.4  100.3
 
  第二節  第三期上湧別町総合計画 
    概 説 二十一世紀に向けた上湧別町まちづくり計画の指針となる第三期上湧別町総合計画は、平成2年(1990)12月20日に、第四回町議会定例会で正式に決まった。
 昭和55年(1980)度に策定された第二期上湧別町総合計画によって、町の特性と将来の発展方向を見据えて、総合的かつ計画的な町政の推進を図ってきた。 しかし、この間、経済や行政、地域社会は大きく変容した。
 第三期上湧別町総合計画は、平成3年(1991)度から同12年(2000)度を目標とする10ヶ年計画で、基本構想と基本計画によって構成されている。 基本構想は、来るべき二十一世紀を展望して上湧別町の将来あるべき姿を描き、それを達成する大綱を定めている。 基本計画では基本構想を実現するために、各分野での10ヶ年で実施する施策や事業をより具体的にしている。


計画策定の意義  第三期上湧別町総合計画の策定の意義は、次のとおり示された。
 この間、経済は高度成長から低成長へと移り、産業構造は重厚長大型産業から軽薄短小型産業・知識集約型産業へ、国民生活は物の豊かさから心の豊かさを求める方向へ、さらに、量より質を求める方向へ、行政や地域づくりは中央主導型から地方主導型を求める方向へと変化し、町民参加意識の高まりなど内外の諸情勢は大きく変貌しています。 二十一世紀をめのまえにして、高齢化・国際化・情報化・技術革新などの進展に伴い、生活の質的変化や価値観の変化とともに、文化的要求が高まるなど町民の意識はいっそう変化しつつあります。
 さらに、余暇時間の増加に伴い観光・レクリエーション産業が発達し、サービス産業の比重がますます高まってきています。
 一方、行政においては「行政の文化化」が進み、これまでのような機能や効率重視型の行政から、アイデンティティあるいは個性を重視する方向へと変化しています。
 このような中にあって、上湧別町の人口減少は依然として続いています。 高齢化の急速な進行と地域活力の減退・産業雇用面での条件も劣弱化してきていて、今なお解決しなければならない多くの行政需要や課題が生じてきています。
これらの情勢をふまえ、適切に対応しながら、町民生活のより一層の向上を図るために、平成12年(2000)を目標年次とする新たな基本構想をここに策定し、本町の目指す将来像とこれを実現するために必要な施策の基本的な考え方を明らかにしようとするものです。


まちづくりの課題  次に、この計画の課題を「まちづくりの課題」として、次のようにまとめている。
 昭和30年(1955)に、1万1354人を有していた人口も、現在は減少の一途をたどっていますが、これは主として湧網線・名寄本線の廃止や若年層の流出による社会減、出生率の低下に伴う自然減によるものです。
 一方、世帯数は横ばいの状態にありましたが、最近は減少の傾向にあります。
 ○今後も人口は一時のような急激な落ち込みはないものの、減少は続くものと予想されます。また、高齢化の進行や出生率の低下のほか、生産年齢層の減少もあり、町の活力減退の大きな原因となっています。
 ○今後、第一次産業では農業の基盤整備を図り、バイオテクノロジーなどの昭和んたんぎじゅつを導入すると共に、人材の育成に努めて経済の安定化を推進する必要があります。
 第二次産業においては、地場産品を利用した農産物や水産物の加工業の育成を図り、新産業を創造し、あわせて企業誘致を進め、雇用の場を確保し人口増に向けた対策が必要です。
 第三次産業では、観光・レクリエーションの開発を推進すると共に個性的で魅力あるまちづくりを進め、滞在型観光客の増加を図る必要があります。


基本構想  この計画の基本構想は、つぎのとおりである。
 一、町の将来像
  「ふれあいと文化性豊かなまち かみゆうべつ」
  花と漫画・SKI かみゆうべつ
  (花 花につつまれたまちづくり)
  町全体が花につつまれ、緑豊かな美しい街並をつくりあげ、心と心のふれあう生き生きとしたまちの実現を目指します。
  (漫画 創造性豊かで魅力のあるまちづくり)
  漫画はだれでも親しみをもち、様々な表現力のなかに夢と希望を与えてくれます。この漫画文化を文化村構想の柱として位置づけて、わがまちの固有の文化として育てます。 そして、その定着により観光産業の創出、地場産業の振興など経済的普及効果をもたらし、活力あるまちの実現を目指します。
  (SKI 人間性豊かなまちづくり)
   100kmクロスカントリースキー大会
   全国に誇れるイベントとして定着した湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会をとおして、人々が集い冬の生活を楽しみながら、自然を愛し、健康で人間性豊かなまちの実現を目指します。
  これら「花」「漫画」をキーワードとしてSKIを加え、花と漫画がSKI(好き)になるまちづくりをCI戦略(Cはコミュニティ(地域)・Iはアイデンティティ(個性)として推進するものです。
 ○まちの主役はそこに住む人々です。
  まちは住民が豊かな人間生活を営むことができる、文化的で快適性・利便性をもった機能を備えなければなりません。 二十一世紀を目指すまちづくりは、住民が生活を向上させるために、豊かな文化を享受することができ、温かい心と心のふれあいに満ちあふれ、うるおいのある生活空間の確保が重要な条件です。
 「ふれあいと文化性豊かなまち かみゆうべつ」はこのようなまちになることを願うわがまちの目指す姿です。 来る二十一世紀は、文化的機能が充実され、町並・道路。・公園・広場などうるおいのあるまちと景観づくりなど、文化の視点に立ったまちづくりが進められ、個性豊かな生活文化の定着が展開されます。
 ○わが国の経済、社会環境は大きく変わろうとしています。
 産業構造の側面をみると、テクノポリス構想に代表される先端技術産業を中心とした工業の再編・再配置が進められており、産業構造の転換はわが国独自の地域開発の一つと考えられます。
 今後の産業に必要とされることは、先端技術産業の育成を図りつつ地場産業の高次化・高度化を促進し、国際化・情報化・多様化といった市場の辺ぁ上湧別に対応できる産業構造の育成を図ることです。
 ○また、人々の価値観・生活の様式の変化という側面から見ると、技術革新を背景とする高度情報化・輸送方法のスピード化・高度化は、人々の行動選択を多様化させ、生活様式に変化をもたらしました。
 さらに、余暇時間の増加と生活水準の向上は、少品種大量販売から他品種少量販売に移行し、人々の価値観に多様性を与え、高学歴化の進行は人々の情報受容能力を増大させています。 また、観光関連産業においても高次化と情報化が進行し、素材生産型から高付加価値産業へと移行することが予想されます。
 ○今後、二十一世紀に向かって先端技術分野の技術革新が進み、工業の機械化や職場へのOA機器の普及が進めば、人々は文化・情緒・感性など、よりいっそう人間的なものへの志向を強め、人と人とのふれあいや、うるおいのある生活空間が重要な意義を持つようになります。
 さらに、自然に親しみ、日常生活では味わうことのできない体験を要求する傾向が高まることが予想されます。 人々は緑豊かな大地を愛し、文化に親しみをもち、日ごろ忘れかけた自然と共生する感覚がますます脚光を浴びてくると思われます。
 (中略)

 二、まちづくりの重点施策
 まちづくりの理念に基づき、本町の各種施策の中から優先的にとり組むべき重点施策として次のプロジェクトを設定し、生産基盤の整備・生産体制の強化。生活基盤の整備など暮らしを豊かにするハード事業やソフト事業を組み合わせて魅力あるまちの実現を目指します。
 
(1)中湧別駅跡地リゾート計画
 JR名寄本線廃止に伴い交通機関はバス輸送に転換されました。
 この中湧別駅の消滅は、町の存在感を薄くした要因の一つでもあります。
 中湧別駅構内跡地は、当市街地の中心に当たり、まちづくりという観点からこの広大な敷地を、町民や来訪者をひきつける広場として整備し、既存商店街と有機的に結びつけることが需要です。
 そこで、この跡地の開発のあり方としては、人々が楽しみくるろぎ、コミュニケーションの円滑化を図る環境づくりと、最新の情報が得られるような機能を備え、さらに交通・商業・スポーツ・文化・レクリエーション等の生活の拠点づくりを進めます。 すなわち地域の活性化に結びつくための整備を進めることが重要です。
 
(2)カルチャータウン構想
 「ものから心」へと価値観が移りつつある中で、人々の文化に対する要求はいっそう高まりを見せています。
 町民の方々が生き生きとした豊かな生活をおくるために、新しい文化の創造、伝統文化の伝承など、地域に根ざした町民の自主的な文化活動を活発にすると共に、各種文化やサークルの育成と文化施設の整備を図り、美しいまちづくりなど文化的環境を醸成していくことが必要です。
 上湧別町が名実ともに文化の香るまちとなるためには、まず町民一人ひとりに「文化の心」を育ていることが重要です。
 ①漫画によるまちづくり
  漫画資料を収集、保存し、活用を図ります。
  ○オホーツク国際漫画大賞の実施
  ○漫画資料の収集・保存
 ②漫画美術館の建設
  漫画美術館を建設すると共に国内の漫画情報発信基地を目指します。
 ③文化人による創作の場つくり
  著名な芸術家や文化グループを本町に招き、他都市との交流を進め、芸術家に創作活動を提供し、芸術・文化活動の向上を図ります。
 ④陶芸によるまちづくり
 本町の豊富な粘土資源を有効に活用し、陶芸技術を育てると共に、体験学習のできる陶芸館の建設を目指します。
 ⑤文化活動の拠点づくり
 町民自らの活動はもとより日ごろ鑑賞のできない中央の優れた音楽や演劇グループ等を招き、鑑賞会を開催すると共に、それらの活動の場を提供します。

 (3)国際交流の推進
 国際化が進展する中で、世界に目を向けた正しい理解と判断をする能力を養わなければなりません。 また、私たちは国際社会の発展に寄与する責務も負わされています。 このためには経済・文化・人の交流など各分野での国際交流を活発化する必要があります。
 今後、国際交流を活発にする場づくりや国際的情報の機能を高めていく体制づくりなど、国際化に対応できる条件整備を推進します。
  ○国際交流の推進と姉妹都市の提携
  ○海外研修への派遣事業
  ○語学指導助手招へい事業
  ○外国人嘱託職員の採用

 (4)二十一世紀を目指した個性豊かな人づくり
 時代の進展と共に、活力ある人材が求められていいます。 豊かな自然に親しみ、心のふれあいを深め、自立と開拓精神を高め、いきいきとした地域社会を支える行動力ある人づくりに努めます。
 急激な社会の変化に伴い、地域の産業を支える人材が求められています。 そのためには、企業など経営者に対する研修の充実、異業種間の交流・研修開発の体制を整備し、新しい分野の仕事に取り組む産業人の育成を図ります。
 近年、教育やスポーツなどに関心が高まっています。 人々が個性・能力を生かせる環境をつくり、生涯をとおりて学習や文化・スポーツ活動に取り組めるよう努めます。
 新しい知識や技術の習得、生きがいの追求のために、学習や文化活動への要求が高まっています。 生涯学習の体制を整備して様々な教育機会を拡充し、いつでもどこでも学ぶことのできる開かれた学習社会の形成を目指します。
  ○生涯学習推進体制の整備
  ○時代に即応した人材の育成
  ○職業教育の充実

 (5)余暇社会に対応した観光・レクリエーションの開発  
 国民の余暇活動のニーズがますます拡充し、オホーツク紋別空港から千歳空港経由で東京への接続もでき、オホーツク紋別空港のジェット化、旭川・紋別間の高規格道路という高速交通網など、新たな交通体系が考えられている中で、観光関連産業は大きな進展が期待されている分野です。
 観光産業は産業面のみならず、住民の余暇の充実、さらに、地域のイメージアップや住民の郷土への愛着心を高めていく上でも大きな効果をもたらすものです。 上湧別は自然景勝地の少ない町ではありますが、近年チューリップ公園、五鹿山公園など観光客は増える傾向にあります。
 また、歴史・文化の創出は、観光の魅力を演出できる資源としての可能性をもっています。 これらを効果的に生かして地域の経済効果を発揮できる観光産業の開発を促進します。
  ○チューリップ公園の整備拡充
  ○五鹿山公園整備拡充
 
(6)先端技術を導入した農薬の推進
 本町の農業はこれまで幾多の困難な課題を克服して、いまや、わが町の経済を支える基幹産業となっています。 近年、生活水準の向上により、人々の食生活は大きく変化し、消費ニーズも高級化してきています。
 また、農産物自由化に伴いわが国の農業は、ますます厳しい情勢下にあり、大きな問題を抱えています。
 このため、本町の農業がこの難局を乗り越え、来たるべき二十一世紀に向けてよりいっそうの発展を期するためには内外の社会的情勢をふまえ、本町の農業の可能性と進めべき方向を見定めて上湧別町ならではの特色ある農業づくりに挑戦していかなければなりません。
  ○畑地灌漑事業の導入とそ菜園芸型農業の確立
  ○バイオテクノロジーを導入した農業の確立
               (※ 施策の大綱略)

 三、計画の主要指標 
 
(1)想定人口
 昭和30年(1955)に1万1354人を有していた上湧別町の人口は、JR名寄本線の廃止、企業の合理化や撤退、農業後継者不足による農業従事者の減少、若年層の流失等の社会減や出生率の低下に伴う自然減などの要因により減少の一途をたどっています。
 このような人口減少は地域の活力を低下させ、産業基盤を弱め、町全体の衰退をもたらしかねないと思われます。 この減少傾向を抑制させ、活力をもたらせるための方策を講じることが本町の最重要課題です。
 今後、町の基盤整備や人材の育成に努め、企業の立地、新しい産業の育成、観光開発を進めながら雇用機会の拡大を図る必要があります。
 若年層の流失を最小限にし、Uターン希望者の受け入れや転入を促進して、人口増を目指したまちづくりが必要です。
 これらをふまえ、本計画の目標年度平成12年の人口を想定し、上湧別町の目標人口とします。
  ○総人口   7500人
  ○世帯数   2500世帯
  ○世帯規模  3.0人

 (2)産業構成
 就業者数は、昭和55年(1980)には4160人、同60年(1985)に3883人、この5年間を比較すると6.7%の減少となっています。
 今後、女子や高齢者の就労意識が高まることから、企業の誘致を積極的に推進し、人口の転入促進と定着化を進めることにより、産業振興等による就業機会の増加が予想されます。
 産業別構成は、第一次産業の減少傾向、第二次産業の振興政策の展開、第三次産業の増加傾向をふまえ、昭和60年で大知事産業26.0%、第二次産業29.3%、第三次産業44.7%を、平成12年(2000)では、第一次産業22.4%、第二次産業26.7%、第三次産業50.9%と設定します。
       (基本計画略)
  
第七章  過疎対策計画 
     昭和40年代(1965~)の上湧別町では、人口が減少しつつあったが、その減少率が5年間に10%に達せず、同45年(1970)公布の「過疎地域対策緊急措置法」(以下「旧過疎法」という。)による過疎地域の指定を受けることができなかった。
 その後、昭和51年(1976)に「旧過疎法」による過疎地域の指定を受け、4ヶ年計画(昭和51年度~同54年度)を立て、農業基盤の整備をはじめ、農業近代化施設の整備、町道整備、生活環境施設の整備、教育文化施設の整備などが進められるようになった。
 昭和55年(198093月31日に新しく公布された「過疎地域振興特別措置法」により、上湧別町は、振興計画(昭和55年度~同59年度)を立て、次のような事業が展開された。
①主要路線の改良舗装の促進(道道上社名淵・上湧別線、緑陰・中湧別停車線などの全線改良舗装の早期完成要請)と冬季交通の確保、②幼児教育の推進と教育文化環境、社会体育施設の充実(綜合体育館の建設、学校教育施設の整備など。)、③生活環境施設など厚生福祉施設の整備(簡易水道の拡張と整備、公営住宅の建替促進など。)、④産業基盤の確立で経営の安定化と地場産業の振興による高収益性の確保(農業経営規模の拡大、商業経営の近代化、観光資源の開発など。)が進められた。


上湧別町過疎地域振興計画 (昭和60年度~同64年度)
 昭和59年(1984)度に、上湧別町では、同60年(1985)度から同64年(1989)度に至る5ヶ年の過疎地域振興計画を定めたが、策定に当たって、人口や産業構造などの現状分析を行った。
 これによると、上湧別町の人口は、国勢調査でみる限り、昭和35年(1960)から同40年(1965)で5.5%減、同40年から同45年(1970)で8.9%減、同45年から同50年(1975)では10.4%減で、10ヶ年で著しい減少をみた。 しかし、その後の推移では4.7%と減少率が低下、(昭和55年~同59年の住民基本台帳)、これより後は、若干の減少をみつつもおおむね現状で推移するものと推計した。
 しかし、年齢階層別胴体の推移の中で65歳以上(高齢者)の割合をみると、昭和40年609人、同45年687人、同55年(1980)1020人と年々漸増の傾向にあった。
 今後の老人問題を考えるとき、これまでの保護型老人福祉対策のみならず、老人の経験、知識、技能を活用した主体性ある老人福祉の施策も検討する必要がある。
 当時の上湧別町の産業別就業構造については、昭和35年から同55年にいたる20年間に、第一次産業人口58.9%減、第二次産業人口31.2%増、第三次産業人口15.5%増となっている。
 第一次産業人口の減少は著しく、第二次産業、第三次産業人口は、昭和45年を頂点に増加率が低下の傾向を示した。
 第二次産業の人口増は、建設業および製造業の増加によるものであり、第三次産業では、小売業、運輸通信業、サービス業等の増加によるところが大きい。
 この計画の期間は、昭和60年4月1日から同65年(平成2年・1990)3月31日とされたが、町の社会経済的発展の方向と振興の基本方針(重点施策)を次のように定めた。

 ○町の社会経済的発展の方向
 酪農、畑作を中心とした農業の振興を期して、農業構造改善事業の導入による経済の近代化と国営・道営による土地基盤の整備を促進してきたが、農業を取り巻く経済変動は激しく各作目とも余談の許されない厳しい状態にある。
 今後は、更に経営近代化の追求と生産基盤条件の整備を推進するとともに、適地作物の厳選により、むだを省いた高収益農業を確立すると事と、収穫物の附加価値を高めるため、第二次産業との有機的関連性を確保していくことが必要である。
 このことが、地場産業の振興と雇用機会の拡大につながり、社会経済の発展となるものである。
 ○重点施策
 ①町道主要路線の改良舗装整備および舗道・側溝の整備
 ②学校教育の推進と教育文化環境・社会教育施設の充実
 ③生活環境の整備および厚生・福祉施設の整備
 ④産業基盤の確立による経営の安定化と地場産業の振興

上湧別町過疎地域活性化計画 (平成2年度~同6年度)
 平成元年(1989)度に上湧別町では、上湧別町過疎地域活性化計画を策定したが、この中で、まず町における過疎の状況を次のように列挙した。
一、町における過疎の状況
(ア)人口等の動向
 社会教育30年(1955)の1万1354人を頂点に人口減少の一途をたどっている。 鉄道の廃止・若年層の流出等の社会減や出産率の低下に伴う自然減の要因により、社会教育56年(1981)に対比して平成元年(1989)14.1%の減少となっている。 世帯数は横ばいの状況にあったが、近年減少の傾向にある。

(イ)「旧過疎振興法」等に基づくこれまでの対策--農業経営の転換を図り、農業経営の安定化のために、基盤整備・生活環境の整備に努め国営農地開発事業・道営畑地帯総合か医療事業、農業生産体質強化綜合推進対策事業、新農業構造改善事業を導入し生産性の向上を図った。
 昭和55年(1980)度に「旧過疎法」に私邸を受けたことにより、町道の整備、教育・文化施設の整備に努めた。 更に町の生活環境、特に観光開発、レクリエーション施設の整備を図ったことにより、観光客が年々増加し、オホーツクの観光地の名所として定着されつつある。
(ウ)現在の課題
 今後、人口は一時の急激な落ち込みはないものの減少は続くことが予想される。 また、高齢化が進行し出生率の減少に伴い生産年齢層の落ち込みもあり、町の活力減退の要因となっており、町の活性化対策が重要な課題でもある。
(エ)今後の見通し
 今後は、町の基盤整備や人材の育成に努め、企業の誘致・新しい産業の育成・観光開発を進めながら雇用機会の拡大を図り、さらにはUターン人口の受け入れや転入を促進する。 各産業が有機的な関連性を保持し発展することを予測し、過疎化に歯止めがかかるものと考えられる。
二、町の社会的経済的発展の方向の概要
 本町は、産業を中心とする第一次産業を主産業として、産業別人口構成比は、第一次産業は昭和35年(1960)の49.6%が昭和60年(1985)に26%になり、大幅に減少している。 第二次産業は昭和35年の19.4%が建設業・製造業を主体にして伸び、昭和60年には29.3%となっている。 第三次産業は昭和35年の31%が主として小売業・サービス業を中心にして伸び、昭和60年には44.7%となっている。 総体的には第一次産業の就業人口は減少し町外に流失している。 本町には転出をおし止めるだけの産業基盤を欠いているのが現状である。
 今後、第一次産業では、農業の基盤整備を図りバイオテクノロジーの技術を導入し、人材の育成を図り、経営の安定化が進むと思われる。 第二次産業においては、地場産品を吏用意した農作物の加工業が発展し、また、本町はオホーツク海・サロマ湖に近いこともあって、その水産物を利用した水産加工業が発展するものとみられる。 第三次産業においては、産業のソフト化が進み、サービス産業がなおいっそうの発展を遂げることが予想される。 それに伴い、観光・レクリエーション関連産業の従事者が増え、第三次産業の比率が増すものと思われる。


 このように、厳しい現実把握を行った町では、これを踏まえて、計画の期間を平成2年(1990)から同7年(1995)3月31日までの5年間とし、地域の活性化の基本方針を次のように展望した。
 ○地域活性化の方針(抜粋)
 昭和62年(1987)に湧網線が、平成元年に名寄本線が廃止され、その分岐点となっていた広大な中湧別駅構内の有効活用が今後の活力ある町づくりの需要課題である。 このプロジェクトでは、住民参加の観点から全町のあらゆる階層の意見を取り入れるとともに、利便性の高い敷地にリゾート感覚を持った施設の整備がいそがれる。 今後、二十一世紀を展望すると、「物の豊かさから心の豊かさ」を志向する洋教育委員会卯がより一層高まることが予想される。 そのためには「文化」を核としたまちづくりを目指す必要がある。 具体的な戦略プロジェクトとして陶芸館・漫画館を建設し、町民の活動の拠点づくりをすることが必要である。
 本町の基幹産業である農業は近代的かつ合理的な経営にするため、バイオテクノロジーを導入し、高収益を目財下農業経営の拡大を図る必要がある。 教育文化面では生涯学習の推進が大きな課題となってきている。 今後は学校教育・社会教育・家庭教育・企業内教育を総合的にとらえた生涯学習の推進体制の整備が必要である。 国際化の進展に伴い国際交流の推進を図る必要がある。 そのためには英語指導助手の招へいや国際交流の人材を確保するとともに姉妹都市との提携を図る。
 本町は花と緑にあふれ恵まれた自然環境をもっている。 この環境を最大限に生かし、町民の健康と福祉が保障された生活を営むことができる町づくりの実現を目指すこととする。 町民の健康を願い、高齢化社会に対応した在宅福祉・社会福祉施設の整備が必要である。 しかも快適な生活を営むためには、生産性の高い産業基盤の整備が必要である。 そのためには、第二次産業では附加価値を高めた地場産業の育成を図り、新産業を創造し、あわせて企業の誘致を進め雇用の場の確保を図る必要がある。 だいさんじさんぎょうでは、観光・レクリエーションの開発を推進するとともに個性的で魅力ある公園を整備し、滞在型の観光客の入り込みの増加を図る必要がある。
 これらをふまえ、次の方針を設定した。

 ①中湧別地区再開発施設の整備と文化村の整備
 ②先端技術を生かした産業の育成
 ③生涯学習の推進と学校教育施設および社会教育施設の整備
 ④国際交流の推進と地域人材の育成
 ⑤自然環境の保全と美しい公園の整備
 ⑥高齢化社会に対応した社会福祉の充実
 ⑦生活環境の整備と公共下水道の整備

上湧別町過疎地域振興計画 (平成7年度~同11年度)
 上湧別町では、平成6年(1994)度に、同7年(1995)4月1日から同11年(1999)3月31日までの5年間を期間とする上湧別町過疎地域活性化計画を定めた。
 この計画は、平成2年(1990)度に定めた計画の基本的方向、過疎の状況の把握、地域の活性化の基本方針等と大きな変化はなく、おおむね、前の計画を踏襲している。
 しかし、平成2年度の計画の前述7項目の地域活性化の基本方針のうち、①の中湧別地区の再開発に「開盛地区再開発」が加わったこと、②の先端技術を生かした産業の育成のほかに「複合的経営の導入による一次産品の高付加価値化」、④の国際交流の推進に「地域間交流」という方針が加わっている。
 本計画には、平成2年度の計画と同様に産業の振興について、記述しており、その内容も同2年度計画と重複する事項が少なくないが、同2年度計画以後の統計が付加されており、最近の緊急の課題が具体的に盛り込まれているので、抜粋して掲載することにする。
 産業の振興

 一、現況と問題点
 本町の産業は、基幹産業である農業を主体としているが、その他に、農産物・水産物の加工・木材の加工等の製造業・購買力の確保において町内に依存する割合が比較的高い。 しかし、商業においては近隣町村に大型店が進出したことにより消費者が流出し、経営は一層厳しい状況にある。
 ア、農業
 本町の農業は畑作と酪農で構成されている。 平成4年(1992)度総農家戸数341戸の内、専業農家は141戸で兼業農家は200戸である。 平成5年(1993)2月1日現在の経営面積は畑作2032㌶、牧草地1437㌶、樹園地2㌶で農家1戸当たりの経営面積は畑作8.1㌶、酪農16.1㌶である。 畑作の主要作物は馬鈴薯、小麦、甜菜、アスパラガス、スイートコーン、玉葱、南瓜等と多種にわたって生産されている。 しかし、畑作にあっては1戸当たりの経営面積が小規模であるため、高収益を目指し、消費者ニーズに合った作物の選定を進めているところである。 先端技術としては、昭和61年(1986)度に試験研究施設を整備し、職員3人体制でアスパラガスを中心にバイオテクノロジーによるウイルスフリー苗の組織実験と苗の育成生産を行っており、現在生産苗を供給しているところである。 一方、土地基盤整備事業は、昭和40年代(1965~)の初めから、国営直轄明渠排水事業、国営農地開発事業、道営畑作地帯総合土地改良事業と大型土地基盤整備事業を導入し土地改良を進めており、その効果は着実に上がっているところである。 今後、さらに生産性を高めるためには農業用水の確保が不可欠であり、水源確保と灌水体制の確立が急務であることから、平成3年(1991)度より国営畑地灌漑排水事業が実施された。
 近年、ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉での合意案等により農業をとりまく状況はさらに厳しく、また、農産物の市場は輸送網が整い、スピード化され、低温技術が発達したことにより、過剰供給の状態にある。 このような農業情勢に対応した生産・販売戦略を構築し、生産性の高い安定経営をめざし、むだを省き収益性の向上を図る必要がある。
  その対策
 ①農業用地の基盤整備を推進し、生産性の向上と経営規模の拡大を図る。
 ②バイオテクノロジーや玉葱選別・貯蔵施設、野菜加工施設等を整備し、農業経営の近代化を図る。
 ③営農用水事業の促進。
 ④天然林の改良を進め、森林資源の保全培養を図る。
 ⑤地域の活性化につながる地場産品の高度加工・研究開発を促進し、既存工業の促進を進め、雇用の拡大を図る。
 ⑥商業経営の近代化と購買力の拡大を図る。
 ⑦観光資源を有効に活用し、チューリップ公園を整備し、滞在型のリゾート開発を促進し雇用の拡大を図る。

 
第八章  土地開発公社 
     地方公共団体が公共用地などを合理的に円滑に先行取得して、公共サービスを行うために、昭和47年(1972)6月15日「公有地の拡大の推進に関する法律」が公布された。
 上湧別町では、この法律に基づいて、土地開発公社が設立されることになり、昭和49年(1974)6月28日の町議会に提案、議決を経て、北海道知事より認可を受け、上湧別町土地開発公社(北海道知事認可指令第919号)が設立された。


設立趣意書   上湧別町土地開発公社の設立趣意書は次のとおりである。
 上湧別町は、北海道の北東部で網走支庁管内のほぼ中央に位置し、農業を基幹産業として発展して参りましたが、本町の恵まれた地理的、交通的条件は商工業の発展を促し、また国定公園サロマ湖観光の玄関口として今後の発展が期待されています。
 このように恵まれた生活環境は住宅適地として着目され、住宅建設が目立ち市街地周辺住宅化の進行は、地価の高騰を誘因して来ております。
 人口は、昭和30年(1955)1万1354人をピークとして減少しておりますが、恵まれた諸条件により過疎地域の指定から除外されております。
 こうした背景の中で町では、昭和46年(1971)度策定した10ヶ年の総合計画に盛られている道路、住宅、社会福祉施設等公共施設の整備明治拡充が急務とされておりますが、最近における市街地の発展は無秩序な土地利用と地価の高騰により、公共用地取得に困難を来たし、公共施設整備の大きな障害となっております。 したがって、本町の健全な発展と秩序ある整備を促進するための必要な公有地を先行的に取得しておくことが重要であり、不可欠の要件であります。 しかし、本町財政をもってこの解決を図ることは、極めて困難であります。
 今般「公有地拡大の推進に関する法律」の規定による土地開発公社を設立し、町および町議会と密接な連携を保ちながら、町総合計画達成に即応する土地の先行取得に係る業務を執行し、上湧別町が行う秩序ある都市環境の計画的整備と発展に寄与しようとするものであります。


定款と理事 この趣意に基づいて、上湧別町土地開発公社の定款も作成され、公社は、第1章総則で、その事業目的を「この土地開発公社は公共用地、公用地等の取得、管理処分等を行うことにより、地域の秩序ある整備と町民福祉の増進に寄与する」こととした。
 公社創設とともに公社の役職員は次のように任命された。
【理事長】 渡辺 要
【理事】(常任)
      出倉定夫、渡辺正喜、大滝敬二、辻正夫、北原良男、村上清司、田島澄蔵
【監事】  牧野光一、堀下武
【出納役】 吉村明雄
【事務局長】宮口正則


事 業  土地開発公社は昭和49年(1974)度から継続的に事業を来ない、宅地分譲を開始、勤労者団地(牧野団地)24区画を分譲、同54年(1979)までに完了した。
 さらに、昭和52年(1977)、屯田市街地に勤労者団地8区画を造成、翌53年(1978)までに分譲を完了した。 また、同52年、中湧別五の一に商工団地・勤労者団地28区画造成し、同56年(1981)までに分譲を完了した。
 昭和58年(1983)、中湧別に太平団地12区画造成に着手、同60年(1985)までに分譲を完了した。
 昭和57年(1982)には、公社が買収した雪印乳業(株)中湧別工場跡地を中湧別工業団地として分譲した。
 平成8年(1996)、五の一の団地の隣接地に、新団地を10区画造成し、同9年(1997)7月から分譲を開始している。
 平成9年度の役員は、次のとおりである。
【理事長】  松田 隆
【理事】   長谷川末広、木村新市、渡辺正利、八巻貢、片岡昭五、黒川毅一、岩瀬昌俊
【監事】   井尾悦也、石田静夫
【出納役】  松本勝
 
第九章  上湧別町総合庁舎落成 
     新庁舎建設の経緯  昭和62年(1987)11月3日、上湧別町総合庁舎の落成式典が上湧別町農村環境改善センターで行われた。
 上湧別町の旧庁舎が昭和3年(1928)に建設された当時は、全道的にもモダンな洋風木造建築として、町民に親しまれてきたが、以来60年を経過し、老巧化が著しくなった。
 また、時代の変遷と行政事務の多様化に伴い事務室が手狭となり、事務所が分散、住民サービスの面からも改築の必要に迫られることになった。
 このため昭和55年(1980)度から庁舎改築に向け「庁舎建設基金」を積み立ててきたが、やがて迎える二十一世紀を展望するとき、町政推進の拠点である役場庁舎の建設が急務という考えから、町長、町議会、町民が論議を重ね、同61年(1986)1月17日、旧庁舎跡地に、役場庁舎、コミュニティセンター、消防庁舎を3本柱とした総合庁舎建設の町議会議決を行い、同年7月、建設に着手した。
 昭和62年(1987)7月に建設工事が完了、同月30,31日の両日、第二庁舎及び仮庁舎にしていた児童館から引っ越しを済ませ、8月1日から業務を開始した。
 コミュニティセンターも8月3日、シルバー交通指導員研修会が開かれるなど使用を始めた。


新庁舎落成  新庁舎は、鉄筋コンクリート造り3階建て(1部4階)、延べ2544.332平方㍍で、旧庁舎の約3倍の広さとなった。 また、併設のコミュニティセンターは、鉄筋コンクリート造り2階建て延べ1355.383平方㍍、総事業費は13億4461万円で、併設された消防庁舎は9月に完成し、18日から新庁舎に移転し業務を開始した。 消防庁舎は、鉄筋コンクリート造り平屋建てとホース乾燥塔兼訓練塔4階建てで延べ475.860平方㍍。
 新庁舎は吹き抜けのホールを中心に、1階には収入役室(出納)、社会福祉、税財、水道、建設、農政、農業共済の各課、それに農業委員会事務局など、農業のまちらしく農業関係の窓口を集中的に配置した。 2階は長柱室、助役室、教育長室、総務、企画財政、商工林務、開発、教育委員会事務局管理課と社会教育教育課、3階は町議会議場で、屋上は庭園として開放されている。
 コミュニティセンターには大ホールや郷土館的な「おいたちの間」、70人収容の和室、研修室、図書室、小会議室などが設けられた。
 11月3日には、役場前庭で、総合庁舎落成式、横幕正美から寄贈された門柱除幕式に続いて、遠軽信用金庫から寄贈された彫刻家滝錬太郎製作「和と輪」のブロンズ像の除幕式も合わせて行われた。
 午前11時から上湧別町農村環境改善センターで社会教育62年度町功労表彰と式と合わせた落成祝賀会が開かれ、この中で庁舎建設に際しての竣工功労者、敷地確保協力者、篤志寄付者にそれぞれ感謝状が贈られた。
 来賓あいさつとして横道知事(代理、網走支庁長)、鈴木宗男、武部勤両代議士が祝辞を述べた。
 祝賀会の出席者は、町内外から約300人という最強であった。

 なお、翌昭和63年(1988)に上湧別町総合庁舎落成記念像「飛翔」が庁舎前庭に完成し、5月29日に建立式典が行われ、佐々木町長並びに村上町議会議長の手により除幕された。 このブロンズ像は、雄大な自然と人との調和の中に未来永劫にわたり町の平和と発展を願い、町民の幸せと活力ある住み良い豊かなまちをめざして、強くたくましく羽ばたく姿を表現したもので、黒御影石の台座を含めて高さが約3㍍にもなる。 制作者は、日展会員で北海道女子短期大学教授の板垣道である。 この蔵の制作費は約1600万円で、すべて町内の有志253人からの寄付金によるものである。 
第十章  広報・公聴活動 
  第一節  広報活動 
     わが国の政治文化には、政治や行政について、住民に「よろしむべし、しらしむべからず」の態度を求めるものがあった。 ところが、昭和30年代(1955~)の経済の高度成長期に入ると、地域社会の姿が急速に変化したため、これに対処すべく行政機関が、社会保障や住宅・道路・産業の保護、教育の充実、企業誘致、過疎対策、総合計画など、新しい行政課題を達成するために、住民に積極的に情報を提供して理解と協力を求めることが必要となった。
 また、市町村では、様々な行事、行政活動が増加してきたので、jこれらの情報の周知徹底を図る必要があり、広報活動が活発になった。


広報誌  上湧別町でも、このような時代の状況の中で、昭和32年(1957)5月1日「広報かみゆう」B4判1枚の第一号が創刊され、毎月発行されることになり、上湧別町の広報は、発行以来、月刊として今日に至っている。
 昭和36年(1961)1月からは題字が「広報かみゆうべつ」と変わり、大きさもB5判の冊子となり、写真屋図版も多く、紙質や題字、レイアウトもたびたび変更され、町勢や経済、文化などの活動を生き生きと伝える親しみやすい広報誌になった。
 昭和50年代(1975~)の終わりごろになると、月によって14頁から18頁と増頁されるようになった。
 昭和58年(1983)3月の第254号をみると、表紙の3分の2は、屯田市街地の秦野宅の大きな実がなっているビワの木のうしろに立つ夫妻の誇らしげな写真で占められ、記事も「青少年の豊かな心を育てるために」、「子どもお年寄りを交通事故から守ろう」、「名寄本線・湧網線廃止絶対反対の願い込め作文962点届く」、「お買物は地元の店で」、「ホルスタイン見てある記」、「空き缶ゼロクリーン上湧別」など町民生活と密接なかかわりのある見出しで、住民の関心をひくものが多くなった。 漫画、さし絵、図版もたくさん使われ、写真も大きくなり、大変親しみ深い広報紙となっている。
 平成5年(1993)から広報の判型は、B5判からA4判と大きくなった。 このころ、官公庁の刊行物が次第にA4判が使用されるようになって、判型を統一する方が管理に便利になったためである。 文字も大きくなり高齢者にも読みやすくなった。

 表紙の写真も子ども会による交通安全の駅伝で元気に走っている子どもたちの姿や、屯田ふるさと祭りのふれあいパーティーで大勢の町民がバンド演奏を聞きながらジンギスカンなべに舌鼓を打っている光景など、生き生きとした町民の活動ぶりが表紙いっぱいに表現されるようになった。
 カラー印刷もあり、レイアウトも洗練され、町が招いた外国人英語指導助手の英会話や料理なども盛り込まれるようになった。
 行政情報の手際よい伝達とともに町民にとって実用的にも身近で役に立つ広報として、今後も発刊されていくことであろう。


「ちゅーりっぷだより」と「議会だより」 このほか、町内の身近なお知らせが中心の全戸配布の旬報がある。 昭和48年(1973)5月に初めて「旬報まちのお知らせ」が出され、同57年(1982)12月から「旬報ちゅーりっぷだより」と変わり、平成3年(1991)6月からは「ちゅーりっぷだより」となり、現在に至っている。 月3回発行していたこともあったが、現在は月2回である。
 さらに、「議会だより」があり、第一号は昭和48年11月B4判で発行され、平成6年(1994)からA4判となった。 年4回の発行、10頁から12頁程度で、町長の行政報告、議会審議事項、町議会定例会の一般質問、各種工事入札状況などが主な内容となっている。
  
  第二節  公聴活動 
     地方公共団体における公聴活動は、住民の意向を行政に正しく反映させるために住民の要望を把握しようとする活動であり、広報活動とは車の両輪をなすものとして、広報活動にやや遅れつつも市町村において実施されるようになった。
 公聴活動の方法については、自治省の分類によると、①苦情相談、②モニター制度、③世論調査とアンケート、④公聴の集会などがある。
 上湧別町でも、昭和48年(1974)に町が消費生活モニター10人を委嘱して、物価の動向、消費生活上の苦情、要望の結果をまとめ懇談会を開いた例がある。


行政相談員 苦情相談では、行政相談員という制度がある。 相談員は、総務庁長官から委嘱され、住民から年金、官公庁の窓口サービス、登記、道路、河川、郵便などについての苦情、要望、意見を聴取し、業務の改善を図るものである。 上湧別町では、屯田市街地の吉村明雄が川副隆基の後を引き継いで昭和57年(1982)から平成9年(1997)3月31日まで相談員の委嘱を受け活動した。 4月1日からの行政相談員は、屯田市街地の高橋信也である。

自治会長会議  上湧別町の自治会長会議は、町と自治会の交流に大きな役割を担っている。 この会議には町長、助役、収入役、教育長、部長、総務課長をはじめ各課長が出席し、その年度の自治会要望事項の執行状況について話し合うとともに、町からも自治会に様々の連絡、依頼を行い、年3回開催している。 このほかにも、町にとって重要な「地域づくり懇談会」の開催日時などの打ち合わせが行われている。
 したがって、各自治会長は、この広聴活動の準備から、その運営についても、尽力する重要な役割を担っている。


地域づくり懇談会 自治会の要請に従って、おおむね毎年1月の自治会の総会に併せて開催されている。 各自治会から町への要望・意見を聴くとともに町勢の説明等も行っている。 町側の出席者は町長、助役、部長、総務課長、市街地域であれば商工林務課長、農業地域であれば農政課長などはほとんどの関係課長が出席している。

まちづくり女性会議  広聴活動のための組織として、松田町長は平成8年(1996)、日ごろ町政について発言の機会の少ない女性のために、まちづくり女性会議を設け、次のような設置目的を掲げている。
 一、女性の視点から、まつづくりについての発想、改善等を提言してもらい、まちづくりに反映させるために「まつづくり女性会議」を設置するものです。
 二、まちづくり女性会議の内容は、町が三項とするもので、皆さんが責任と義務をもつものではなく、気軽に様々な意見や要望、アイデア等を出していただくものです。
 三、まちづくり女性会議は、町内在住の20歳以上の女性を対象に年齢層や職業、地域などを考慮して、おおむね20人程度で構成します。
 四、まちづくり女性会議に参加できる方を広く公募しますが、必要なときは町長が人選します。
 以上のような趣旨に基づいて、町では意見要望等の取扱窓口を総務課広報公聴係とし「発信メモ」により女性会議の委員から随時意見・要望等を受け入れている。
 そして、年2回程度の、女性会議の座談会を開き、町長と女性会議委員との対話を重視し、さらに、委員による町内公共施設の視察の実施、まちづくりにカンする資料の配付などを行い、委員の参加の意義を一層高めようとしている。
   
第十一章  ふるさと会 
    東京上湧別会  昭和34年(1959)8月1日に上湧別会の初会合が新宿の「三平」でもたれた。 在京上湧別出身者の親睦と情報交換が目的であった。 その後、遠軽地区6か町村の出身者で結成した「湧別原野ふるさと会」があったが、マンネリ化し、会としてのまとまりも難しくなってきたことから、町村単位のふるさと会を結成する気運が高まってきた。
 上湧別町の場合も各年代層の代表者30人が設立世話人となり、結成の準備が進められていた。
 町広報や旬報を通じ、町内の住民から紹介された人およびそれまで「湧別原野ふるさと会」に加入していた上湧別町出身者約800人に結成の案内を送付、約400人から返信があり、このうち、189人が同会に加入した。
 昭和62年(1987)11月29日、東京都とその近隣に在住する上湧別町出身者が集まり、東京上湧別会が誕生し、その総会と懇親会が午前11時から千代田区・番町グリーンパレスで開催された。
 当日は96人が出席、上湧別町からも佐々木町長、村上町議会議長、出口町議会副議長、井尾助役ら6人が会の結成を祝ってかけつけた。 総会では、会則や今後の事業計画、役員の選出などについて協議され、初代会長には設立世話人代表を務める中湧別中町出身の星野光政(中央区築地、会社経営)が選ばれたほか、各年代層から副会長や理事などが選出された。
 総会終了後、同会場で、町長らが上湧別町から持参したアスパラガスや馬鈴薯、スイートコーン、南瓜などふる里の味をかみしめながら懇親会が行われた。
 これより毎年、東京上湧別会が開催されているが、平成元年(1989)の第3回の会合は、11月5日、千代田区・霞が関ビルに会員約110人が集まった。 この日の総会では新たな事業として特急北斗を利用して会員が同2年(1990)に上湧別町を訪れる「ふる里の旅」が実施されることになった。
 平成2年11月8日には第4回の会合が千代田区・星陵会館で開催され、約80人が出席した。 懇親会では、上湧別町から駆けつけた佐々木町長から、「夢のあるまちづくりをめざし、現在、今後10ヶ年の総合計画を策定していますので、皆さんの声援をお願いします」と上湧別町の近況報告が行われた。 続いて上湧別町から出席した町議会議員3人を代表して八巻貢議員の音頭で乾杯。 参加者たちは上湧別町から持参した上湧別町農業協同組合のアイスクリームなどを食べながら歓談したり、恒例の福引き抽選会をするうちに、ふる里の思い出が海上いっぱいに広がった。 また席上、同会から上湧別町へ昭和22年(1947)撮影の貴重な航空写真の贈呈式が行われた。
 平成4年(1992)11月15日、千代田区・星陵会館で東京上湧別会の第6回定期総会と懇親会が開かれた。 この時点で会員は431人となり、このうち100人を超える会員が出席し、懐かしいふる里の思い出を語り合った。

 この日の総会では、4年後の同会十周年記念事業として上湧別町に桜の苗木を贈り、ふる里との絆を深めていくことが決められた。
 引き続き行われた懇親会では、駆けつけた佐々木町長から文化センターの建設、町の動きなど町の近況報告があり、会場には町の施設・産業・イベントなどの写真や広報紙・要覧などが展示され、ふる里に思いを馳せた。
 また、北海道の旅が当たる抽選会や福引き大会・ジャンケン大会などが催された。
 帰りには、参加者全員に上湧別町農業協同組合から提供された秋の味覚や同会が用意したオホーツク産の新巻ががお土産として手渡され、再会を誓い合った。
 平成6年(1994)11月16日、千代田区・星陵会館で第8回東京上湧別会が開かれ、102人の会員が出席した。 星野会長、松田町長の挨拶があり、星野会長は「上湧別町の開基百年と東京上湧別会の十周年が同じ年であることから、記念事業をタイアップさせて考えていきたい」と話され、松田町長は「開基百年の年に、ぜひ、東京上湧別会を上湧別で開催されますように」と話した。 町議会議員など4人の紹介があり、総会議事として、同7年(1995)度に賛助会員の募集、会員の掘り起こし、親睦小旅行を行うことを協議し、引き続き懇親会を開いた。
 平成8年(1996)11月17日、新宿区・グランドヒル市ヶ谷で、第10回東京上湧別会総会と十周年記念パーティーが開催され、100人の会員が出席した。 松田町長をはじめ町議会議員など7人が出席し、東京上湧別会十周年と上湧別町開基百年のお祝いをした。 この日は、町から持参した開基百年記念式典のビデオ上映や記念事業の写真展示を行い、その成功を記念して寄贈した桜の苗木についての植樹状況(5月25日)、場所について説明した。 松田町長は、開基百年に対してのお礼と東京上湧別会の今後の発展を期待すると話した。
 会員も徐々に拡大し、同会はふる里上湧別町と連携を密に市発展し続けている。


札幌圏上湧別同郷会 上湧別同郷会は、大正13年(1924)9月、上湧別村から勉学のため上級学校に入学した在札学生を育英援助することから始まり、会員相互の親睦を図る目的で設立された。 規則らしい規則はなく、初代会長は柳橋末吉(大正13年~昭和元年)であった。
 同会は、上湧別町出身者、また以前に上湧別町に住んでいた人で、札幌に転居した人の集まりである。
 ふる里上湧別をしのび親睦を保ちながらお互いに力を合わせて向上発展を図っていこうというのが目的である。 会員は200人ほどであるが、会員を拡張しようという努力が行われている。
 当時の会長は藤枝儀(第5代、昭和44年~同62年)、事務局長は仙北谷寿雄であった。 この会合には上湧別町から佐々木町長、渡辺元町長が主席し、参加者は上湧別町の思い出にひたり和気あいあいの同郷会となった。 
 その後もたびたび開催されたが、昭和62年(1987)の総会で、第5代会長の藤枝儀が顧問となり、鷲見祐司が第6代会長となった。
 その後、この会では、会員がふる里訪問を計画し、平成4年(1992)5月25,26日の両日、第2回ふる里訪問として上湧別町を訪れた。 この日、町を訪れたのは、16人で、25日午前9治55分にオホーツク紋別空港に到着した。 一行は、チューリップ公園、郷土資料館、役場庁舎、五鹿山公園等の町内施設を見学した。 午後5時から五鹿山実習ロッジで行われた歓迎レセプションでは、昔懐かしい上湧別の話に華が咲き、時のたつのを忘れた。 歓迎レセプション終了後は、各自親戚の家へと向かった。
 平成6年(1994)度総会は、4月17日に札幌第一ホテルで定期総会が開かれ、決算報告、予算審議がなされ、ふる里訪問などを計画し、親睦会に移った。
 平成7年(1995)度総会は、5月13日、札幌第一ホテルを会場に開催され藪一義が第7代会長となった。 総会では会長、松田町長、渡辺町議会議長の挨拶があり、同8年(1996)に上湧別町開基百年の記念行事が行われるので参加会員を募集することなどが決まった。
 平成8年度総会は、5月12日、札幌第一ホテルを会場に開催された。 総会には、松田町長、渡辺町議会議長が出席した。 総会では上湧別町開基百年を記念して、町に屯田兵服装備展示用陳列ケース1個と絵画1点を寄贈する目録が町長に手渡された。
 ふるさと会は、東京、札幌のほか旭川にもある。 
 
第十二章  祝 典 
  第一節  開基九十周年記念 
    式 典  昭和61年(1986)9月30日、上湧別町開基90周年記念式典が上湧別町総合体育館において挙行された。
 式典には、北海道知事(代理、網走支庁長)をはじめ内外から関係者450人が出席し、午前10時に開式、君が代斉唱、町民憲章唱和(昭和61年度新成人代表、渡辺健一、八巻邦子)先人開拓者の霊に対する黙とうと続いた。
 このあと、佐々木町長から「上湧別町開基90年を祝して」と題し式辞が述べられた。
 式辞は、上湧別開拓の歴史を要約、先人の業績を称えるとともに、後半で次のような点を強調した。


 この記念すべき式典を挙行するにあたり、町政のために貢献頂いた方々に対し顕彰ををして、その功績にお報いする訳でありますが、いずれもそれぞれの立場において立派に町政に寄与され、その使命を果たされ、なおかつ営々としてそのご功績を延ばしつつある方々に対し心からお礼を申し上げますとともに、今後一層のお力添えを賜りますようお願い申し上げる次第であります。 また、開基90周年を記念誌生涯を通じてスポーツに親しみ、健康でたくましい心と体をつくり町民一人ひとりがこれを遵守実行して、昭和痔あわせと生きがいの感ずる町づくりに精進されんことを切望してやみません。
 終わりに、現下の社会経済情勢は誠に厳しいものがありますが、この記念式典を契機に先人がかってそうであった様に、町民一丸となって未来に希望と文化の創造を願い、活力ある町政の展開を図るため一層固い決意のもと、町民ともども21世紀に向け上湧別町は、たゆまむ歩みを続けて参りたいと思います。


 このあと、来賓の北海道知事代理、網走支庁管内町村会会長から祝辞が述べられた。
 これに続き、町発展に貢献した人々に表彰状および感謝状が町長から手渡された。
 また、開基90年を契機に生涯を通じてスポーツに親しみ、健康でたくましい心身づくりをと、町民代表の山崎隆、松岡洋隆、北村茂、羽石久美子、石塚清の5人によって、「生涯スポーツの町」が宣言された。


上湧別音頭 アトラクションでは、開基90年記念事業の一環として製作を進めてきた上湧別音頭を作詞作曲した浜口庫之助・同夫人渚まゆみ、踊りを振り付けた花柳美乃本が見守る中、歌手の芦川るいが歌唱、婦人代表28人が踊りを披露した。
 午後からは、陸上自衛隊第二師団音楽隊のパレードに続いて、町長をはじめ町議会議員のほか、町内各自治会、諸団体から530人の町民が青いハッピ姿と豆絞りのねじり鉢巻き姿で中湧別市街と上湧別市街地で、千人踊りを繰り広げた。

上湧別音頭 作詞・作曲 浜口庫之助 編曲 小山内たけとも 唄 芦川るい

一、上湧別 春の郷
  一度みんなで 見においで
  桜でかすむ 五鹿山あたり
  夢を見るような 春景色
  うらら へへへ 春景色
二、チューリップ 咲きみみだれ
  グリーンアスパラ 頭出し
  湧別川の せせらぎたちも
  皆で歌う 春の歌
  うらら へへへ 春の歌
三、牛たちが 草を喰む
  夏は緑の ユートピア
  若者達の 夢の牧場に
  そそぐ明るい 陽の光
  うらら へへへ 陽の光

四、風渡る 秋空に
  ひびく祭りの 屯田太鼓
  神に感謝の 祈りこめて
  打てや若者 高らかに
  うらら へへへ 秋祭り
五、いらっしゃい 上湧別
  赤くリンゴが 熟れる頃
  恋の願いを 叶えてくれる
  甘いかわいい 恋いリンゴ
  うらら へへへ 恋いリンゴ
六、雪がふる 上湧別
  ここはまぶしい 銀の里
  飛べや走れや 若者達よ
  雪のロマンが 呼んでいる
  きらら へへへ 銀の里


協賛事業 昭和61年(1986)4月28日、開基90年記念祭実行委員会(会長、村上清司)が発足して、準備が進められた。 主な事業は、道民スポーツ剣道大会(網走支庁管内26市町村から26チーム260にんがさんか、会場は上湧別町総合体育館)、高松宮賜杯軟式野球一部北海道大会(全道から26チーム450人が参加、会場は町営球場と湧別高等学校野球場)、NHK「村おこし公開セミナー」(講師は日本販売促進協会長市橋立彦、会場は上湧別町社会福祉会館)、網走支庁ソフトボール大会(網走支庁管内から男女各6チーム、上湧別町から男女各1チームが参加、会場は町営ソフトボール場)、NHK公開録音「真打ち競演」(真打ち落語家10人出演、会場は上湧別町社会福祉会館)、音楽パレード(上湧別小学校、中湧別小学校、上湧別中学校、湧別高等学校、遠軽中学校、遠軽南中学校、湧別中学校、遠軽高等学校の8校が参加、上湧別・中湧別市街をパレード)などであった。  
  第二節  開基百年記念 
     上湧別町は平成8年(1996)開基百年を迎え、様々な記念事業を行った。
「シンボルマーク」と「キャッチフレーズ」  上湧別町は開基百年を迎えるに当たり、歴史を回顧し、先人の苦労と異形に感謝すると共に、希望に満ちた上湧別町二世紀の建設に向け、大きく飛躍することを願い、開基百年にふさわしいシンボルマークとキャッチフレーズを制定するための公募を行った。 応募作品はシンボルマークが16点、キャッチフレーズが135点であった。 その中から厳正な審査をした結果、シンボルマークは上湧別町出身で札幌在住の笹田啓子の「花・緑・風かがやいて未来へ」と決定した。 シンボルマークの全体の形は、上湧別町の花チューリップの葉を基にして、未来へ向かって飛躍する町民の姿を表している。 色は上湧別町の青い空とチューリップの花の赤に、大地アスパラガスの緑を使って上湧別町らしさをアピールしたものである。

上湧別百年賛歌  湧別高等学校が上湧別町開基百年を記念して、上湧別町の賛歌「かがやいて未来へ」を作詞・作曲した。
 この賛歌は、開基百年のキャッチフレーズ「花・緑・風 かがやいて未来へ」から題名をとり、生徒から詞、曲を募集、作詞に7人(中川香保里、加藤幸恵、牧野睦美、井上美紀、平野公恵、加藤恵利子、紺野武彦)作曲に4人(山崎里美、洞口景子、畑田円、紺野武彦)の生徒が応募したものを、詞、曲を担当の教師と合作して完成したものである。 この賛歌は、開基百年記念式典において、305人の湧別高等学校全校生徒が合唱、出席者に大きな間道を与えた。

上湧別百年賛歌
   「かがやいて未来へ」
陽光(ひかり)の中に
花の香(か)漂う
私は
その香の優しさが好き
あふれる彩(いろ)の中で
今 瞳を閉じると
花は人の心開く
心躍る街
かがやいて未来へ

自然の中で
緑はぐくむ
私は
その香の豊かさが好き
ゆきかう人の中で
今 瞳を閉じると
緑は人の心包む
心和(なご)む街
かがやいて未来へ

季節のように
風の香吹き抜ける
私は
その香の清(すが)しさが好き
過ぎ行く時代(とき)の中で
今 瞳を閉じると
風は人の心運ぶ
心結ぶ街
かがやいて未来へ

花は人の心開く
緑は人の心を包む
風は人の心を運ぶ
かがやいて未来へ
永遠(とわ)に


百年記念塔 平成8年(1996)1月27日には「上湧別開基百年記念塔建設事業協賛会」が発足、前町長の佐々木義照が会長に選任され、役員も決定した。
 この記念塔は「本町の限りない繁栄を願いながら、未開の地を切り開いていった多くの先人の苦労に感謝し、町民が、そのフロンティア精神を受け継ぎ、さらには次の世代に引き継ぐことが使命であるとの思いから」その証として町民の間から建設しようという意見が起こってきたものである。
 この記念塔は、文化センターTOM前の広場に建設され、建設費約5千万円は、協賛会の活動による寄附2775件、総額約4000万円と町の負担で賄った。
 記念塔の製作に当たった関根伸夫(環境美術研究所)は、作品のタイトルを「かみゆうべつ われらの心の調べ」とし、「この記念塔は日本一の巨大な風のハープで、屯田兵がこの地に鍬をおろし安住の地と定めてから100年、過酷な自然と闘いながら、それでも美しいこの大地に理想郷を実現しようとしてきました。 そして大きな節目となる開基百年記念塔は”もの”から”心”の時代を告げる二十一世紀を目指すものでなければなりません。 そんな暑い心を受けて、私の提案する記念塔(かみゆうべつ われらが心の調べ)は巨大なハープ形、熱情を伝える赤いハート形、そして大地の底から放たれた矢がハート形を突き抜ける姿を形象化しました。 風がハープの弦を鳴らし、環境音楽となってこの場に近づいた人々の心の調べと同調する・・・
 なお上部の形態は矢の先端で、未来を掴む手、風の音のイメージである」と述べている。 塔の高さは、に寿一世紀を目指すべく21㍍とした。
 同塔は9月29日、記念式典終了後、百年広場で長調、町議会議長、副議長、来賓をはじめ記念塔建設事業協賛会の役員、小・中学校および高等学校の生徒の代表による除幕式が行われた。
 同塔の建設に協賛した方々の氏名は、協賛会により大理石に刻まれ周辺に設置されている。
 なお、開基百年記念塔建設事業協賛会役員は次のとおりである。
【会長】佐々木義照(前町長)
【副会長】出口一三郎、石田静夫、湊十四夫、高野正一、大野収治、高柳友五郎
【理事】小山新之助、此下清一、坂本忠義、中川扶、三浦昭二、柴田喜好、宮嶋寿憲、高橋年一、遠藤盛幸、堀下武敏、長倉義勝、志鎌哲雄、今井哲也、新国二三雄、坂田直光、横幕広志、寺本信市、井上徳俊、藤井秀明、古川正道、上松芳男、三宅悟、池田節津子、八巻武則、上杉智恵子、中津川一彦、奥谷進、小野寺幸男、片岡幸雄


記念事業 上湧別町では、町民の意見を取り入れながら検討を重ねた結果、開基百年記念事業を行うことになった。
 このため、積極的に実行する組織として上湧別町開基百年記念事業実行委員会が設置された。 この実行委員会は、町議会議員、町内自治会長をはじめ、各団体代表者、学識経験者など46人で構成された。 部会構成は、総務、式典、文化体育、産業施設の4部会であった。 また、記念事業の決定・実施に当たっては、アック部会で必要に応じ専門部会を設置し進めた。 第一回実行委員会は、平成7年(1995)6月1日に開催され、その後、三回の実行委員会が持たれたが、専門委員会は数十回に及んだ。
上湧別町開基百年記念事業は、次のとおりである。
【記念事業】
 ○「ふるさと館」JRY建設
 ○開基百年記念塔建設
 ○町史編纂
 ○開基百年記念映像制作
 ○開基百年記念要覧発行
 ○開基百年記念植樹祭(5月25日・町内5ヶ所・百年実行委員会)
 ○よさこい・ソーラン踊り(8月4日・屯田市街地/中湧別市街・百年実行委員会)
 ○百年まつり(9月29日・文化センターTOM前広場・百年実行委員会)
 ○音楽パレード(9月29日・屯田市街地/中湧別市街・百年実行委員会)
 ○音楽演奏会(9月29日・文化センターTOM・百年実行委員会)
 ○NHK番組、公開録音「ふるさと自慢・うた自慢」
       (10月11日・文化センターTOM・百年実行委員会)
【協賛事業】
 ○ミニバレープレジデントカップ全道大会(5月19日・総合体育館・ミニバレー連絡協議会)
 ○シャープ&フラッツコンサート(6月6日・文化センターTOM・良いもの見よう聞こう会)
 ○「角盈男」スポーツ教室(7月7日・町営球場/文化センターTOM・野球連盟/体育協会)
 ○寺内タケシコンサート(7月26日・文化センターTOM・良いもの見よう聞こう会)
 ○「やなせたかし」漫画展(8月1日~20日・漫画美術館・漫画振興協会)
 ○ゲートボール遠軽管内大会(8月10日・町営ゲートボール場・ゲートボール協会)
 ○「天童よしみ」コンサート(8月18日・文化センターTOM・チューリップスタンプ会)
 ○百年記念踊り・花火大会(8月20日・チューリップ公園駐車場・盆踊り実行委員会)
 ○パークゴルフ全道大会(9月1日・五鹿山パークゴルフ場・パークゴルフ協会)
 ○和太鼓コンサート(9月14日・文化センターTOM・良いもの見よう聞こう会)
 ○ドライブINシアター(9月22日・チューリップ公園駐車場・ドライブINシアター実行委員会)
 ○町民カラオケのど自慢大会(9月28日・上湧別小学校体育館・カラオケのど自慢実行委員会)
 ○我が家の家宝展(10月19日~20日・文化センターTOM・文化協会)
 ○常田冨士雄文化講演会(12月3日・文化センターTOM・町民大学実行委員会)


主な記念事業  5月に入ると開基百年記念事業がスタートした。 5月25日には、開盛橋の湧別川堤防を主会場に町内5ヶ所で開基百年記念植樹祭が行われた。 当日は、300人近い町民が剣先スコップを手に参加、桜432本、ブーゲンストトーヒ350本、白樺50本、イチョウ15本を植樹した。
 8月3,4日商工会主催の第九回「七夕まつり」が文化センターTOM周辺で開催された。 今年は、特に開基百年記念事業として4にちによさこいソーラン踊りが文化センターTOM駐車場と役場駐車場で開催され、例年よりも大勢の人たちが集まり、祭りの雰囲気を盛り上げた。 踊りには、上湧別町内の全校生徒の子供たちをはじめ各種団体、各職場、高齢者まで18チーム、800人が参加、各チームは色とりどりの衣装で、両手には町花チューリップ形の鳴子を持って登場、個性あふれる踊りを披露し、会場に詰めかけた人々を魅了した。
 8月10日には第八回遠軽地区夏季ゲートボール大会が、町営ゲートボール場で開催された。 大会には、48チーム、288人が参加、上湧別町から出場した8チーム、開盛・南湧・屯市・富美・長寿・福寿・
南町・五鹿山のうち、4チームが決勝トーナメントに進んだ。

主な協賛事業  5月19日ミニバレープレジデントカップ全道大会が、上湧別町総合体育館と中湧別小学校体育館で開かれ、全道から各市町村を代表する52チーム230人が参加、熱戦が繰り広げられた。
 7月7日には、元ヤクルトスワローズでピッチングコーチを務めた。 タレントの角盈男を招いて、町営球場で、少年野球団を対象にキャッチオール、守備の基本を、中学生を対象にバッティングの基本指導が行われた。 夜は文化センターTOMで「スポーツ界あれこれ」と題して講演会が開かれ、町内外から320人程が来場、熱心に講演に聞き入った。
 「天童よしみショー」が文化センターTOMで開催され、昼の部と夜の部あわせて1300人の聴衆で埋まった。
 8月20日、百年記念盆踊り大会がチューリップ公園で開かれ、踊り手や観客など250人余の人たちでにぎわい、花火、縁日が雰囲気を盛り上げた。 今回は、開基百年を記念し、まちを挙げて大規模な盆踊りにしようと、上湧別地区と中湧別地区の盆踊り愛好者が合同で実行委員会を組織して開かれたものである。

 協賛事業のほかに、上湧別町や北見市など屯田兵による開拓を開基として1市3町が開基百年を迎えるのを記念して屯田兵3世で東京音楽大学専任講師の建田人成が、オリジナルCD、屯田兵とその関係者に捧げる「鎮魂の調べ・追憶のオホーツク」を作曲、上湧別町にも贈られた。
 また多くの町内外の方から開基百年を記念して篤志寄付があった。

式 典 開基百年記念式典は、9月29日、多くの来賓と町民が臨席、午前10時より文化センターTOMで挙行された。
 式典では、松田町長から、先人の業績を称え、後半で町民の努力に感謝し、二世紀の繁栄を約束する次のような式辞があった。
 
大正8年には遠軽以南の地域が上湧別村から分村して、現在の行政区域となりましたが、その後も順調に発展を続け、昭和28年には町に昇格、商工業の発展と共に北限のリンゴの町として名声を高めるようになりました。 更に特殊作物のアスパラガス耕作やチューリップ輸出用球根の栽培を行うなど新しい農業を取り入れながら、今日では丘陵地に酪農業、平野部は畑作として安定した農業への転換を図り堅実に発展してまいりました。
 このように、オホーツク圏の発展とともに躍進を続けたことは、農業を基幹として林業、商工業に携わった全町民のたゆまぬ努力と国、道そして国会議員や道議会議員の諸先生方、関係機関や団体のご指導、ご支援のお蔭であります。(中略)
 本町は、意義ある開基百年の記念事業として、先人の開拓にかけた志に感謝し、貴重な遺産を保存して、後世に長く継承できる施設として、新しくふるさと館JRYを開拓のいわれ深い屯田兵本部跡地の前に建設し、この8月1日にオープンいたしました。
 また百年を記念して、町民の皆様と本町に関わりのある方々の手によって、本町二世紀の繁栄を願ってのシンボルであります記念塔が立派に建設されましたことは誠に意義深いものであり、心から喜びとしている次第であります。

 これに続き、友好のまちであるカナダのホワイトコート町長、ジョージ・バンダーバーグよりお祝いの言葉と同町の全景写真の贈呈があり、同じく友好のまち愛媛県中山町の町長代理の助役市田勝久のお祝いの言葉が述べられた。
 さらに、功労者に町長が感謝状を授与した。 また、湧別高等学校3年の高松稔、奥田愛美が改正された新しい町民憲章を朗唱、同校全生徒による上湧別百年賛歌の大合唱があり、渡辺町議会議長の誓いの言葉を最後に終了した。
 式典後、開基百年記念塔除幕式が行われ、その後、中湧別小学校金管バンド、上湧別中学校吹奏楽部、遠軽高等学校吹奏楽部、航空自衛隊北部航空音楽隊による音楽パレードが行われた。 また、航空自衛隊の演奏会が文化センターTOMで開かれ、日本のトップレベルの演奏が聴衆を魅了した。


百年まつり  同日、百年まつりも百年広場で盛大に開催された。 行事のようなものは自治会対抗つな引き大会であったが、ものまねと歌の布施辰徳ショー、ジャンケン大会、屯田兵服装パレード、賞金総額80万円のお楽しみ抽選会、屯田太鼓、商工会青年部によるチャリティーオークション、もちまきと多彩な行事がまつりを盛り上げた。
   
第十三章  町民憲章とその碑 
     上湧別町町民憲章は、昭和52年(1977)8月17日、」上湧別町議会の議決を経て制定され、同年9月30日の開基八十年記念式典で発表された。 この憲章は「上湧別の町民であることに誇りをもち、この町をより美しく、より豊かに発展させるねがいをこめた町民憲章」として、町民の間に語り継がれ、町民の守るべき道標として規範的役割を果たしてきた。
 しかし、制定されてから19年が経過すると、その基調は一貫して変わることがないものの、前文の中に、「本町の姿に合わない部分」が出てきた。 それは「・・・清流湧別川に沿い、りんごの花かおる・・・」という一節であった。
 そこで開基百年を契機に見直しを図り、また、新たな上湧別町の誇るべき価値ある姿を盛り込んで、前述の一節を「・・・北の大地湧別原野と清流湧別川の恵みを受け、花と緑あふれる・・・」と改正した案を作成した。
 この改正案は、平成8年(1996)6月26日、第二回上湧別町議会定例会において議決され、上湧別町二世紀に向けてのまちづくりの指針とした。
 改正された町民憲章の全文は、次のとおりである。

【上湧別町民憲章】
 わたくしたちは、北の大地湧別原野と清流湧別川の恵みを受け、花と緑あふれる自然豊かな、上湧別の町民です。
 わたくしたちは、先人のたくましい開拓精神をうけつぎ「しあわせと生きがいを感ずるまち」を、つくるための憲章を定めます。
一、健康で明るく、心ゆたかな家庭にしましょう。
一、たがう¥いに助け合い、あたたかな社会にしましょう。
一、開拓の心をうけつぎ、高い文化の郷土にしましょう。
一、めぐまれた自然を愛し、美しいまちにしましょう。
一、働くよろこびを育て、のびゆく町にしましょう。

 同年9月13日には高橋俊夫、三井甚五郎、水戸カン、松田幸二、新妻保長、曽我由仁子の6人の寄付によって、町役場前庭に、町民憲章の碑が建立された。 
第十四章  町の花と木 
    町花・町木の制定   昭和51年(1976)の上湧別町開基八十年記念として、町花にチューリップ、町木にオンコ(イチイ)が制定された。 町花・町木制定専門委員会が、①上湧別町を象徴するもの、②町民が誇りとするもの、③町民に広く愛されるもの、④町に関係が深いもの、を選考基準として町花・町木の候補を5点ずつ選定、これらを対象に町民アンケート調査を実施、1点に絞り込んだ。 同年8月17日の上湧別町議会で正式に決定、同年9月30日の開基八十年記念式典の席上発表された。

町花チューリップ  ユリ科の多年草で小アジア原産である。
 昭和32年(1957)新農村建設計画事業で栽培されたのが上湧別町のチューリップの始まりで、一時は外国にも出荷し全道一の輸出量を誇ったこともある。 輸出産業としてのチューリップ栽培は姿を消したが、現在では約70数種100万本が春に咲き乱れる上湧別町チューリップ公園の主人公として上湧別町のシンボルになって親しまれている。


町木オンコ  イチイ科の常緑喬木で、深山にも自生している。
 針葉樹の中でも最も親しまれ、屯田兵の入植当時から庭木として鑑賞され、現在でも上湧別町内には屯田兵たちが植えたオンコが残っている。 造園ブームに乗り、欠かすことのできない樹種として人気があり、盆栽、生け垣にも利用されている。
 第四編 財 政
第一章  財 政 
  第一節  一般会計 
    (1)歳 入
 上湧別町の各種会計のうち、一般会計は歳入と歳出に分けられる。 歳入の主要なものは、町税、地方交付税、国庫・道支出金、町債などである。

町 税  町税は、上湧別町の行政に要する一般経費を賄うために、上湧別町内の個人・法人から直接賦課徴収するもので、町の自主的な財政収入である。
 町税は、現在、町民税、固定資産税、軽自動車税、特別土地保有税などである。
 町税が歳入(決算)に占める比率は、昭和50年(1975)度で12.1%、同60年(1985)度で12.5%、平成7年(1995)度で7.9%となっている。
 一般に、わが国の大都市では年々地方税の歳入に占める比率は高くなり、町村では少なくなってきているが、上湧別町の場合、人口が減少を続け、かつ地場企業が低迷している状況下で、昭和50年度から同63年(1988)度まで、収入済額では年々激増をたどってきたが、比率ではおむね横ばいであった。
 しかし、平成年代(1989~)に入ると、同元年から同4年(1992)度まで、昭和63年度の税収額よりも少なく、歳入に占める比率も低下している。 それは、同62年(1987)の湧網線、平成元年の名寄本線廃止によって、国鉄職員の町外転出による人口減の影響である。 上湧別町の人口は、昭和63年7272人、平成4年6716人と556人も減少し、翌5年(1993)には中湧別鉄道自治会が消滅している。


地方交付税  近年の町税の歳入に占める比率の低下に対し、これを補って町の財政規模を一定水準に維持している主要な財源は、地方交付税である。 地方交付税は、所得税、法人税および酒税(いわゆる国税3税)を一定割合(32%)で地方公共団体に配分される。 各地方公共団体が受け取る額は算出基準に従い一定ではない。 地方公共団体がその行うべき事務を遂行することができるよう国が交付する税である。
 この税は地方公共団体間の財源の均衡化と財源保障のために公布されるが、この交付税による調整によって、財政力の高い地方公共団体における浪費を防止し、財政力の低い地方公共団体に経済的発展の活力を与え、地域住民もナショナルミニマム(国が保障すべき国民の最低限度の生活水準)のサービスを確保することが可能となる。
 また、この税は地方行政の計画的な運営を保障するために公布されるものであって、公布に当たっては、条件を付し、または、その使途を制限することがあってはならないものとされている。 地方交付税は、完全に地方公共団体の一般財源として公布されるものである。
 上湧別町の地方交付税を、昭和50年(1975)度にみると5億6629万7000円で歳入総額の46%を占めたが、同60年(1985)度には12億4902万3000円で歳入総額の27.5%となっている。 平成7年(1995)度には23億8403万6000円に増加しているが、歳入総額の38.4%を占めている。
 平成7年度の歳入62億438万1000円のうち、町税と地方交付税の2種の合計は、28億7305万7000円で実に46.3%と、上湧別町財政を支える中心となっている。


国庫支出金  国庫支出金は、国庫負担金、国庫委託金、国庫補助金の3種に大別される。
 国庫負担金は、その目的によって一般行政費国庫負担金、建設事業費国庫負担金、災害復旧費等国庫負担金に分けられる。
 国庫委託金は、国の利害に関係のある事務にかかわる費用を負担するもので、国会議員の選挙執行費、国の統計調査費などがある。
 国庫補助金は、国がその行政上の必要から地方公共団体に対して任意に交付する。 国のっさくの推進や地方公共団体の財政上の特別の必要に限って交付するもので、その内容は極めて多様である。
 上湧別町の国庫支出金の多い年度では、補助事業に対して負担金並びに補助金が多く交付されている。 例えば、昭和52年(1977)度・同53年(1978)度中湧別小学校改築、同53年度特別養護老人ホーム建設、同54年(1979)度・同55年(1980)度上湧別小学校改築、同55年度・同57年(1982)度公営住宅建設、同58年(1983)度開盛小学校改築、平成元年(1983)度富美小学校改築、同5年(1993)度以降の老人保護措置費負担金などである。


道支出金  道支出金は、北海道が市町村に対して主として特定財源として交付するもので、その負担区分があり、その目的もほぼ国庫支出金に準じたものである。 児童と老人の保護事業、災害復旧事業のように、国庫支出金と相伴う場合と単独でおこなわれるものとがある。
 上湧別町の昭和50年(1975)度からの道支出金の歳入状況は、年度によって金額にばらつきがみられ、歳入総額に占める比率も年度によって大きく異なる例が多い。 道支出金の多い年度は、補助事業に対して、負担金並びに補助金が多く交付されている。 例えば、同53年(1978)度特別養護老人ホーム建設費、道54年(1979)度以降の特別養護老人ホーム運営費の負担、同55年(1980)度・同62年(1987)度・平成7年(1995)度は農業費の増額などである。


町 債  地方公共団体が、道路、上下水道、学校、消防、公営住宅など、新たに大規模な土木建設事業を行う場合、あるいは災害復旧事業を行う場合など、通常の収入では賄いきれないことがある。 これらを公債収入、町の場合は町債収入で賄う必要が生ずる。
 これら借入金にかかわる債務(元利償還金)は、最終的に後年度の地方税や地方交付税などの通常の収入で支払わなければならない。 
 これは長期の資金繰りという効用を持つが、後年度の償還財源や償還資金繰りに対する適切かつ慎重な考慮が必要で、乱用されると、地方公共団体の財政運営に致命的となるおそれがある。
 上湧別町の町債は、昭和50年(1975)度が1億220万円で、歳入に占める比率は8.3%、同60年(1985)度は4億1990万円、12.6%、平成7年(1995)度は10億2270万円、16.5%と増加傾向にある。
 例えば、上湧別町の町債が多い年度は、次のような事業が行われている。 昭和53年(1978)度には老人福祉債(特別養護老人ホーム建設事業)、農業債(農免道路整備、土地改良事業・農村環境改善センター建設事業)、土木債(道路改良事業)、小学校整備事業債(中湧別小学校改築事業)、体育施設整備事業債(総合体育館建設事業)、同62年(1987)度には上湧別町総合庁舎建設事業債、コミュニティセンター建設事業債、一般廃棄物処理事業債、平成4年(1992)度には中湧別再開発事業債(中湧別地区再開発施設整備事業)、同7年(1995)度には農業債(ふるさと館JRY建設事業)などの借入が行われた。


(2)歳 出  
 一般会計の歳出は、市町村によってその分類項目に多少の違いがみられる。 例えば、港湾の有無、清掃事業の有無で、港湾費、清掃事業費などの項目の勢体が決まる。
 また、上湧別町のように、農業が基幹産業の場合、風水害被害が出ると、災害復旧費を設定する。
 しかし、大別すると分類の仕方は市町村によって大同小異であり、どの市町村にも設定され、年度歳出総額のうち、額・構成比率とも大きいのは、土木費、教育費、民生費、総務費である。 上湧別町の場合は、農林水産業費と公債費も大きな比率を占めている。


歳 出  上湧別町の場合、前記6項目の額の歳出総額に占める比率は、昭和50年(1975)度86.2%、同60年(1985)度77.3%、平成7年(1995)度では85.2%である。
 これらの高い数値は、特に昭和30年代(1955~)後半から同50年代に至るわが国の経済成長によって、地域社会でも、経済成長に即応して、行政事情の増大、土木建設事業の増大、高学歴社会に応える学校の整備・改築、学校教育への情報機器の導入、高齢者福祉など、地域社会の変容に対する行財政需要の増大ぶりを示している。
 また、昭和40年代(1965~)以降のわが国の急激な経済成長は、地域社会における都市と農村間の経済格差を拡げ、農村社会に過疎をもたらす結果となった。
 上湧別町のように、農業を基幹としている町では、農業基盤整備・過疎対策を行政課題として重視しなければならず、その財政的な措置が農林水産業費である。
 このため上湧別町では、昭和50年度の農林水産業費は2億2169万2000円であったが、同60年度には4億8281万2000円に増加、平成2年(1990)度以降の国の緊縮財政下にあっても4億円台を維持している。 さらに、同7年度は、17億660万3000円(ふるさと館JRY建設など)と飛躍的な伸びを示している。
 また、雪印乳業(株)中湧別工場の撤退(昭和54年)、湧網線(同62年)・名寄本線(平成元年)の廃止、それに伴う人口の減少は、中小商工業者の集まる複数の市街地を持つ上湧別町における商工費という財政的措置を必然化した。 その対策として五鹿山公園およびチューリップ公園整備の観光事業を進めて、観光客の入込による商業の活性化を図っている。
 商工費は、昭和50年度は、わずかに1555万5000円にすぎなかったが、同60年度には2億1044万円に増加、平成時代に入って、同3年(1991)度から2,3億円台を維持してきた。 同7年度は1億9457万4000円となっている。
 歳出の中で注目されるのは支払われる公債費の増大である。 昭和50年度の上湧別町の公債費は、5114万9000円で、歳出に占める比率はわずかに4.3%にすぎなかったが、昭和60年度には4億277万3000円となり13.4%に増加、平成7年度は7億6093万9000円、12.4%に達している。
 この公債費の増大は、上湧別町ばかりでなく、北海道、全国の地方財政に共通する現象である。
 
  第二節  特別会計 
     町の予算は、一般会計と特別会計がある。 特定の事業を行う場合は特別会計を設置することができる。
 「地方自治法」第209条では、「特別会計は、普通地方公共団体が特定の事業を行う場合その他特定の歳入をもって特定の歳出に充て一般の歳入歳出と区分して経理する必要がある場合において、条例でこれを設置することができる」としている。


特別会計  上湧別町には昭和43年(1968)度から実施している広域簡易水道事業(昭和45年4月1日から水道事業会計に移行)、同60年(1985)どから実施している簡易水道事業(開盛)特別会計および国民健康保険特別会計、老人保健特別会計とがある。

水道事業会計 昭和57年(1982)から「上湧別町水道事業・湧別町簡易水道事業」が着手され、同60年(1985)に完成した。 しかし、同59年(1984)4月から、完成式を待たずして市街地には教育委員会雨水を開始している。
 上湧別町・湯別町の水道給水の拡大と水道料金の値上げなどにより、昭和58年(1983)度から収益的収入および支出が飛躍的に増加している。 また、資本的収入および支出の増加は、同57年度から同60年度にかけての水道工事によるものである。


簡易水道事業特別会計  開盛の簡易水道は、昭和60年(1985)12月1日から給水を開始している。 歳入では水道工事にかかわって、同60年度は道支出金2240万2000円と町債4770万円が計上され、支出では事務費として同年度7457万円と突出している。 また、平成2年(1990)度には28号線配水管移設工事道補償金で歳入の諸収入が307万7593円と突出し、歳出も同年度は配水管布設工事などで増加している。 また、道5年(1993)度から遠軽町からの受水費が増額されたため、歳入・歳出ともに大幅に増えている。

国民健康保険特別会計 医療費と保険税の改正などにより、歳入・歳出ともに若干のばらつきはあるものの増加してきている。 上湧別町では、昭和60年(1985)の65歳以上の高齢者は15.7%、平成8年(1996)では22.9%となり、高齢化が進んでいる。 同保険特別会計は、昭和51年(1976)度~同62年(1987)度の間毎年約1300万円~1600万円の一般会計から繰り入れをしながらぎりぎりの黒字運営を続けてきたが、同63年(1988)度から繰入額を約2700万円に増やしたものの、わずか1500万円程度の次年度の繰り越しに終わり、平成元年(1989)度には約2600万円の繰り入れに対し、1000万円近くの赤字を出してしまった。 その後は同4年(1992)の約5770万円をピークに毎年3000万円台の繰り入れを行い、かろうじて黒字を保っているのが現状である。 したがって、一般会計からの繰り入れや前年度からの繰り越しがなければ、運営できない状態に陥っている。

老人保健特別会計 老人保健特別会計は、昭和58年(1983)2月から実施された。 医療費と保険税の改正、高齢化社会の進行による医療諸費の増加などにより、若干のばらつきがあるが、歳入・歳出ともに増加の一途にある。
 同保険特別会計は、昭和61年(1986)度に約1385万円という大幅赤字、平成3,4年(1991、1992)度の収支ゼロ以外は黒字運営が続いた。 同7年(1995)度の場合は歳入約7億7234万円、歳出約7億6875万円で約359万円の黒字となっている。
 平成7年度における老人医療給付は、延べ1万1214人に対して行われ、歳出のうち医療諸費は約7億5871万円を給付、北海道の特別対策事業は、延べ765人に対し、約345万円の補助金を支出している。
 
   
  第三節  監査委員 
     監査委員は、「地方自治法」第196条により地方公共団体に置かれることになっている。 独立した機関として客観的に自治行政を監査し、その結果を住民に公表し、住民の自治行政に対する関心を深めるとともに、これを審判させ、自治行政の確立を図ろうとする民主的権利の行使をするものである。 監査委員の職務は、次のようになっている。
 ①定期監査
 ②請求および要求による監査
 ③臨時監査
 ④財政的援助を与えているものに対する監査
 ⑤各種会計決算等の監査
 ⑥出納例月検査
 ⑦行政監査および機関委託事務監査
 ⑧指定金融機関の公金の収納等の監査
 なお、上湧別町には、「上湧別町監査委員に関する条例」(昭和29年11月11日条例第21号、最終改正平成3年9月24日条例第23号)第2条によって「監査委員の定数は、2人とする」と定めている。 このうち1人は識見を有する者の中から町長が議会の同意を得て、ほかの人は議会議員の中から、選任し、任期は4年となっている。 
  第四節  基 金 
     「地方自治法」第241条で「普通地方公共団体は、条例の定めるところにより、特定の目的のために財産を維持し、資金を積み立て、又は定額の資金を運用するための基金を設けることができる」とされている。

基金の種類  上湧別町においては、平成8年(1996)3月31日現在、次の基金が条例により設けられている。
【動 産】
 
○財政調整基金 2億8437万4338円(「財政調整基金の設置、管理および処分に関する条例」昭和39年条例第17号)
 
○減債基金 10億111万6483円(上湧別町減殺基金の設置、管理および処分に関する条例」昭和56年条例第4号)
 
○奨学資金貸付基金 548万4000円(「上湧別町奨学資金貸付基金条例」昭和43年条例第9号)
 
○土地開発基金 4455万3669円(「上湧別町土地開発基金条例」昭和46年条例第22号) ○スポーツ等振興資金貸付基金 3479万7985円(「上湧別町スポーツ等振興資金貸付基金条例」昭和58年条例第20号)
 
○湧網線および名寄線代替輸送確保基金 5億546万7099円(「上湧別町湧網線及び名寄線代替輸送確保基金条例」昭和62年条例第8号)
 
○中湧別地区施設整備基金 7356万5033円(「中湧別地区施設整備基金の設置、管理及び処分に関する条例」昭和62年条例第7号)
 
○国際交流振興基金 1億9万7645円(「上湧別町国際交流振興基金条例」平成2年条例第3号)
 
○ふるさと創生基金 4億4219万6390円(「上湧別町ふるさと創生基金の設置、管理及び処分に関する条例」平成2年条例第17号)
 
○畑地かんがい排水施設整備基金 6902万7645円(「上湧別町畑地灌漑排水施設整備基金条例」平成2年条例第8号)
 
○地域福祉基金 1億5764万7000円(「上湧別町地域福祉基金条例」平成3年条例第28号)
 
○公共施設整備基金 2020万5000円(「上湧別町公共施設整備基金条例」平成5年条例第1号)
 
○国民健康保険財政調整基金 2200万円(「上湧別町国民健康保険財政調整基金条例」昭和39年条例第22号)
 平成8年3月31日現在の基金の総額は、27億7053万2287円となっている。
【不動産】
 
○学校基本財産(土地) 444万7597平方㍍(「上湧別町立学校施設整備基金の設置、管理及び処分に関する条例」昭和39年条例第18号) 
  第五節  公有財産 
     公有財産は「地方自治法」第238条により行政財産と普通財産に分類され、管理されている。 行政財産は、庁舎・学校などの公共施設・公共物建築予定敷地などのように直接行政目的達成のために使用されるものである。 普通財産は、主として経済的価値を持ち、間接的に行政目的の達成に寄与するものである。 したがって、貸し付け、交換、売り払い等が可能である。

基本財産  上湧別町の公有財産の主なものは、平成8年(1996)3月31日現在、次のとおりである。
【土地及び建物】
 
○役場庁舎他(土地3万3160平方㍍・建物延面積8841平方㍍)
 
○公共用財産78件(土地627万9725平方㍍・建物延面積7万69平方㍍)
 
○普通財産-田畑・宅地・原野・山林など(土地1286万2746平方㍍)
【山 林】
 
○面積1165万6749立方㍍ ・立木の推定蓄積量22万5973立方㍍
【有価証券】
 
5万円 出資による権利((株)上湧別町振興公社など12件)
 
8785万7000円
  第六節  町税の納付 
     社会経済や住民生活状態の変化に伴って、税目も変更されてきている。 上湧別町においてもかっては、電気税・木材引取税などがあったが、現在は普通税として町民税・固定資産税・軽自動車税・特別土地保有税があり、目的税としては国民健康保険税、間接税としては市町村たばこ税がある。 上湧別町の昭和50年(1975)度から平成7年(1995)度の町税収入率は、最高99.67%、最低95.49%、平均97.2%となっている。

納税貯蓄組合 納税貯蓄組合は、納税思想の普及と納期内に完納を目的とし組織されたものである。 昭和26年(1951)4月10日、法律第1456号をもって、「納税貯蓄組合法」が制定公布された。 上湧別町の納税貯蓄組合の設立は、この法律が制定される以前から、自主的に結成され、9組合あった。 同27年(1952)3月21日「上湧別町納税奨励規則」の制定、その後、同39年(1964)4月1日に「上湧別町納税貯蓄組合奨励規則」と改正された。 その後、幾度か改正が加えられ、活発な運営がなされて実績も飛躍的に向上してきている。 町から、納期内に完納した組合に毎年奨励金が交付され、特に永年にわたり功績があった組合と組合長が表彰を受けている。 平成8年(1996)現在、83の納税貯蓄組合が組織されている。 なお、町内納税貯蓄組合の健全な発展と活動の総合的運営を図るため、昭和40年(1965)11月に、上湧別町納税組合連合会が設立され、各組合の活動促進と連携協調を図るほか納税思想の向上を推進し、現在に至っている。

集合徴税 上湧別町税条例による町税の納期は、次の表の4期となっている。
納 期 町民税 
第一期  6月1日から同月30日まで 
第二期  8月1日から同月31日まで 
第三期  10月1日から同月31日まで 
第四期  翌年1月1日から同月31日まで 
納 期  固定資産税 
第一期  4月1日から同月30日まで 
第二期  7月1日から同月31日まで 
第三期  12月1日から同月25日まで 
第四期  翌年2月1日から2月末まで 
納 期   国民健康保険税
第一期  5月1日から同月31日まで 
第二期  9月1日から同月30日まで 
第三期  11月1日から同月30日まで 
第四期  12月1日から12月25日まで 
 軽自動車税の納期 4月11日から同月30日まで
 しかし、昭和40年(1965)4月1日「町税の納期の特例に関する条例」が制定され、納税義務者の容易な納税と事務の合理化を図るため、納期に関する特例を定め、前表の10期で納税することにしている。
【町税の納期に関する条例】による納期
第一期  6月21日から同月30日まで 
第二期  7月21日から同月31日まで 
第三期  8月21日から同月31日まで 
第四期  9月21日から同月30日まで 
第五期  10月21日から同月31日まで 
第六期  11月21日から同月30日まで 
第七期  12月16日から同月25日まで 
第八期  翌年1月21日から同月31日まで 
第九期  翌年2月21日から同月末日まで 
第十期  翌年3月21日から同月31日まで 

固定資産評価審査委員会委員 固定資産評価審査委員会委員は、固定資産課税台帳に登録された事項についての納税義務者の不服について中立的立場で診査する。 同委員は、固定資産に関する知識および経験を有する者のうちから町長が議会の同意を得て選任する。「上湧別町固定資産評価審査委員会条例」により、委員の定数は3人、委員長(人気年)は委員の中から互選、任期は3年となっている。
 平成9年(1997)現在の固定資産評価審査委員会委員は、次のとおりである。
【委員長】
  穴田寿之(平成8年7月13日~現在)
【委 員】
  横山幸雄(平成8年5月1日~現在) 奥谷 進(平成8年7月20日~現在)


指定金融機関  上湧別町の指定金融機関は、昭和42年(1967)4月1日から北海道銀行中湧別支店である。 また、町の収入だけを取り扱っている収納代理金融機関は、遠軽信用金庫中ユベツ支店、上湧別町農業協同組合である。
   
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