開基百年 上湧別町史

第五編  産業と経済

昭和の小漁師topへ
上湧別町史top

                    農 業 林 業 商工業 観光イベント 


第一章  農 業 
  第一節  総 説 
    日本農業の流れ 昭和40年代(1965~)スエからの二度にわたるオイル(石油)ショックや同60年(1985)秋以降の円高不況などを克服し、バブル経済の破綻などに直面した日本は、国民総生産(GNP)において世界の約一割を占める経済大国に発展した。 このような経済発展は、食料消費の変化と農産物輸入の増大による食糧自給率の低下とともに、農村人口の都市への大量流出による過疎化の進行など、農業・農村に様々な変化をもたらした。
 食料消費は、昭和50年(1975)ごろから量的にはほぼ充足されたが、供給される食糧は畜産物、油脂、果実などが増加した反面、米や芋類などが大幅に減少するなど食生活の洋風化、多様化が進んだ。
 日本経済が安定成長期に入った昭和50年以降、食糧需要が伸びたのに伴い、既に生産過剰になっていた米などに加え、牛乳、鶏卵なども過剰基調となり、生産者団体による計画的な需給調整が行われた。 同53年(1978)度から始まった水田利用再編対策において、自給率の低い大豆、麦、飼料作物などへの転作が奨励され、これらの作付面積は増加に転じた。 しかし、構造的には米、野菜、果実、畜産物などほぼ国内で生産供給される農産物と麦、大豆、飼料穀物など大部分を輸入に依存する農産物とが両極に分かれて併存するという二重構造になっている。
 農産物価格は、昭和30年代(1955~)、同40年代の高度経済成長期には、生産資材価格や他産業賃金の上昇などを反映して引きあげられたが、経済が安定期に入った同50年ごろからは、農産物需要の緩和傾向のもとで国の財政再建と行財政改革が政策課題の中心となったため、抑制基調に移った。 同60年以降も生産過剰状態が続き、生産性の向上、受給バランスの維持、内外価格差の縮小などの観点から農産物の行政価格は据え置きか引き下げの措置が取られている。

 昭和30年、日本はガット(関税及び貿易に関する一般協定)に加入、経済の国際化の進展とともに、国内農業との調整措置を講じながら農産物の市場開放を進めてきた。 同36年(1961)の大豆自由化をはじめ、同38年(1963)の粗糖(精糖されていない砂糖)、さらに、同42年(1967)のケネディ・ラウンド(関税一括引き下げ交渉)の主要国での妥結を経て、同45年(1970)からは豚肉などの大幅な自由化が実施された。 その後も対米貿易黒字や先進国での貿易不均衡が拡大し、国際的な政策協調が進む中で、輸入枠の拡大が進んだ。 さらに、同63年(1988)には日米協議などを踏まえ、牛肉、柑橘類など農産物12品目の輸入制限撤廃が決定され、平成4年(1992)4月には農産物の輸入制限品目(米などの国家貿易品目は除く)が10品目にまで減少した。
 交渉の成り行きが注目されていたガット・ウルグアイ・ラウンドは、平成5年(1993)12月に合意に達した。 日本の米は特例措置として6年間の関税化猶予が認められたものの、その間最低輸入量として年間消費量の4~8%が義務づけられ、さらに、乳製品、澱粉、小麦などを関税化することになり、日本農業は大きな曲がり角を迎えた。 政府は、このガット・ウルグアイ・ラウンド合意対策として、6年間で6兆100億円(うち国費2兆8800億円)を投じ、農業・農村の体力強化を目指しているが、課題は依然として多くなっている。
 また、平成7年(1995)11月1日、半世紀以上も米の生産、流通を規制してきた「食糧管理法」が廃止され、「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」(「新食糧法」)が施行された。 これにより米の生産・流通・販売が原則的に自由となり、米市場が本格的な競争時代に入った。
 こうした流れから、日本の食料自給率(供給熱量自給率)は急速に低下、昭和35年(1960)度は79%であったが、年々低下し、平成4年(1992)には46%と先進国の中で最も低い水準となっている。 中・長期的にみて、世界の食料需給は多くの不安定要素を抱えている。 日本の食料安定供給を図るには、国内農産物の品質の向上、コストの提言を進めるとともに、可能な限り国内生産を維持拡大し、食料自給率の向上を達成していくことが求められている。
 もう一つの重要な課題は、農業生産構造のもろさである。 相変わらず続く農家戸数・人口の減少は農村の中山間地域を中心に急激な過疎化、高齢化を招いている。 このため耕作放棄地の増加や地域社会の活力低下が心配されている。


北海道農業の流れ  北海道においては、品種の改良、技術の確立のほか、例外に強い体質の作目に経営を転換するなどの努力により、寒冷で厳しい気象条件を克服してきた。 また、火山灰、泥炭などの特殊土壌条件を客土や排水改良などの土地基盤整備により、生産力の高い農地に改善している。 こうした寒地農業の確立対策や適地適作の推進が効を奏して、農業生産北海道かなり安定してきた。 特に米、小麦、馬鈴薯、玉葱、人参、牛乳など土地利用型の作目では全国一の生産を誇っており、農業粗生産の全国シェア(占有率)も徐々に高まり、最近は10%程度になっている。
 農業構造は、全国の耕地面積の約4分の1を占め恵まれた土地資源を背景に、経営規模の拡大や資本装備の高度化を進め、稲作、畑作、酪農・肉用牛を主体とした大規模経営の確立を目指している。 しかし、経済の高度成長期に比べ一時落ち着いた酪農・過疎化が、またも上昇に転ずるなど、離農・過疎化の進行が相変わらず農村の大きな社会問題になっている。
 その一方で、人々の価値観の変化に伴い、農村の緑豊かな自然環境や「ゆとり」と「うるおい」のある生活空間が見直されてきた。 さらに、農村が農業生産を通じて国土保全の役割を果たしていることや、伝統文化の継承の場であることも改めて認識されるようになった。 農村の持つ特質と役割に沿った総合的な農村整備を推進することが必要であると従来の「農業基盤整備事業」も、平成3年(1991)度から、「農業農村整備事業」と名称変更された。 そして、生産基盤とともに生活環境の整備や国土の防災保全の整備を行う総合事業であることを明確にした。
 以上のようなことから新時代の北海道農業には、日本の食糧基地として、①消費者の求める食料・食品の供給、②国際化時代に合ったたくましい農業経営、③地域の営農条件を生かした農業生産、④文化の香り高い、うるおいのある農村、⑤農業を中心とした産業の複合化、などの課題が掲げられている。


上湧別町農業の流れ 昭和50年代(1975~)に入っても引き続き農家戸数が大幅に減少、農業修行者も減り、そのうえ農家人口の高齢化が急速に進んだ。 しかし、専業農家と兼業農家の割合は、ほとんど変わらなかった。 また、総体的な農耕地面積の拡大が伸び悩む中で、農家経営面積の拡大は大きく前進、農業基盤の整備や土地改良の推進などにより農業生産も着実な上昇を続けている。
 農産物においては、水稲が完全に姿を消し、リンゴも自家用の栽培がわずかに残るだけとなった。 病害に見舞われ、アスパラガスも平成4年(1992)ごろから急激に減反、現在は玉葱、甜菜、小麦、馬鈴薯、南瓜、青刈り玉蜀黍(デントコーン)、牧草が主流となっている。 大根、人参、白菜、キャベツなどの野菜類は同2年(1990)以降、一部の農業統計にしか表れていない。 それに代わって高収益野菜として牛蒡、ブロッコリー、ミニトマト、キャベツ、ニンニクなどの栽培が行われ、花卉栽培などとともに将来に大きな期待がかけられている。
 畜産関係は乳用牛、肉用牛とも飼養頭数が増加している反面、馬、豚、緬羊、鶏などはほとんどみられなくなった。 しかし、酪農では牛乳生産を中心に、この20年間に約3倍の生産量を達成し、畑作とともに上湧別農業の2本柱を形成している。 
  
  第二節  農業の動向 
    (1)農業生産
取り巻く情勢  食料消費の多様化、農産物価格の低迷、輸入農産物の拡大をはじめ、担い手の高齢化、耕作放棄地の増加など農業を取り巻く情勢は引き続き厳しいものがあったが、わが国における北海道農業の位置づけが高まり、適地適作が進んだほか農業技術の開発・改善、機械化の推進、経営規模の拡大、基盤整備や土地改良の整備充実により、上湧別における農業生産動向は、徐々にではあるが、上昇を続けている。
 上湧別町農業の形態は、湧別川を中心に開拓された平坦で肥沃な土壌地帯の畑作経営と小丘陵地帯の酪農経営が2本柱となっているが、畑作経営は野菜複合経営が多くなっている。


生産性の推移  農産と畜産を合わせた上湧別町の農業粗生産額は、「北海道農林水産統計年報」によると、昭和50年(1975)に20億5100まんえんであったが、同54年(1979)に30億円台、同58年(1983)に40億円台となり、平成6年(1994)には、ついに50億円台を超えたが、同7年(1995)では45億3100万円となっている。
 農業粗生産額の内訳は、昭和50年が農産10億8300万円、畜産9億6800万円で、平成7年が農産22億7300万円、畜産22億5800万円と農産で2.10倍、畜産2.33倍に達している。畜産は昭和51年(1976)まで農産を上回った。 しかし、同6年に再び農産を下回るようになった。 これはガット・ウルグアイ・ラウンドの合意に伴い乳製品の輸入が時床(6年間で最低4~8%)されたことによるものである。
 生産農業所得は、昭和63年(1988)の18億4300万円をピークに、年によって増減を繰り返しているが、同50年9億8300万円、同60年(1985)11億2600万円、平成7年17億2900万円と総体的には緩やかに上昇カーブを描いている。 これを農家1戸当たりの所得に換算すると、農家戸数が減り経営規模が拡大していることもあって、比較的順調に伸びている。 昭和50年に218万2000円であったが、平成7年には578万3000円と2.6倍になっている。 農業専従者1人当たりの所得でみると、昭和50年が109万2000円、平成7年が306万6000円で2.8倍になっている。


(2)経営形態
専業・兼業農家の推移  「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、上湧別町の農家総数は大幅に減っているが、専業農家と兼業農家の割合、また兼業農家の中でも第一種(その家の総所得に占める割合が、兼業所得よりも農業所得の方が多い農家)と第二種(逆に農業所得よりも兼業所得の方が多い農家)の割合は、多少の変動はあるもののほとんど変わっていない。

経営耕地面積の推移  上湧別ちょうにおける農家1戸当たりの経営耕地面積は、着実に拡大している。 「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、特に10㌶以上の面積を保有する農家の増加が著しい。 全農家数に占める10㌶以上の農家戸数の割合は、昭和50年(1975)度はわずか17.9%であったが、平成8年(1996)度には49%に増加している。 これは、農業経営の効率化による経営規模の拡大と小規模農家の離農に伴うその跡地の吸収などによるものである。

(3)農耕地
 上湧別町の農耕地は、かって湧別川流域平坦地の畑作、水稲、果樹と小丘陵地の酪農地帯に分かれていたが、いまや水田は皆無となり、樹園地もほんのひと握りの面積が残るだけで、平成8年(1996)度は畑作と牧草地が99.94%を占めている。
 「北海道農業調査」によると、終戦の昭和20年(1945)、総面積で2812㌶であった農耕地は、戦後開拓による農地拡大や酪農振興に伴う草地造成で増え続け、同48年(1973)度には最高の3091㌶まで広がった。 しかし、その後、離農が進み、農耕地は造林地や他の目的に転用された。


(4)農家人口と農業従事者
農家の戸数と人口  離農、都市部への流出による過疎化が始まったのは、昭和30年代(1955~)の高度経済成長時代からである。 上湧別町でも効果戸数、人口が減少を続けた。
 「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、上湧別町の農家戸数は、昭和50年(1975)度に479戸であったが、毎年4~25戸の範囲内で減少、平成8年(1996)度には274戸と42.79%も減っている。 上湧別町の総体的な戸数が昭和50年度2438戸、平成8年度2386戸と、核家族化などの影響で減少を最小限にとどめているのに比べると、農業過疎の深刻さが浮き彫りになっている。 当然のことながら集落別の農家戸数も軒並み減少している。
 農家戸数の大幅減少に伴って、農家人口も著しく減っている。 昭和51年(1976)度が2170人、平成8年度が1189人であるから、45.21%の減少率である。 上湧別町全体の人口の推移は昭和51年度8552人、平成8年度6488人で戸数を上回る24.13%の減少となっている。 また、農家人口のうち満16歳以上は昭和51年度1709人(78.76%)と、その比率が5%以上も上がっており、ここにも少子化・高齢化の傾向がみられる。


農業就業人口  「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、自営農業に150日以上従事した農業就業人口は、平成7年(1995)度では499人であった。 これは農家人口の40.73%になるが、昭和51年(1976)度の場合も、862人で39.72%と、ほぼ同じ割合を占めている。 また、農業就業人口の同51年度に対する平成7年度の減少率は42.1%で、農家戸数・人口の減少とほぼ匹敵している。
 農家が採用する雇用労働者の状況は、6ヶ月以上の常時雇用がほとんどなくなっている。 昭和51年度、6戸の農家が13人を雇用していたが、平成6年度の調査では1戸・1人に減っている。 この間最も多かったのは昭和56年(1981)度の7戸22人であった。 これに対し6ヶ月未満の臨時雇用は、数のうえでは減少しているが、農家戸数全体の減り具合を考慮すれば、依然として臨時雇用に依存しているといえる。 同51年度に151戸が延べ1万1770人(日)を臨時雇用していたが、平成6年度は104戸が7038人(日)を雇用、40.2%減っている。 このほか農家同士の労力交換や無休の手伝いなども減少傾向にはあるものの、依存度は高い。


農業労働者の賃金  一般の労働賃金の上昇を反映して、農業労働者の賃金も昭和50年(1975)度からは毎年改定され、それまで作業内容によって多少ばらつきのあった格差も是正されて、平成9年(1997)度からは一律日給4800円になっている。 アルバイトについては、生徒・学生の就労が見込めないため、同4年(1992)どからは廃止し、同9年度はパート一般1時間600円、(早朝同720円)と設定している。 就労時間の午前7時半~午後5時、休憩時間90分(午前15分、午後15分、昼食60分)、実働治監8時間は昭和50年度以降変わっていない。

離農  「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、昭和50年(1975)度を基準とした場合の平成8年(1996)度の離農立は42.8%である。 479戸あった農家が21年の間に205戸も減っている。
 離農率が高いのは上富美の53.85%で、順に四の一の52.17%、屯市の52%、五の一の51.72%、開盛の51.56%となっている。 最も低いのは札富美の12.5%である。


(5)姿を消した米と復活をかけるリンゴ
   上湧別町の水稲は、昭和書記の造田ブームにより昭和10年(1935)、415㌶の作付面積を記録した。 その後も同40年(1965)ごろまでは300~400㌶程度の作付面積を維持、特に戦中、戦後の食糧増産に貢献した。 しかし、北限の水稲として繰り返される冷害凶作の打撃から逃れることはできず、稲作農家の生産意欲が失われていった。 上湧別町でも稲作奨励の反省が迫られる事態を迎えたが、同44年(1969)からの国による米の生産調整に伴う減反政策で、同年を境として作付面積は急減、畑作へと転換が図られた。 同47年(1972)には一挙に前年の半分以下の50㌶に減少した。 さらに、「北海道農林水産統計年報」によると同50年(1975)から1㌶、同57年(1982)には皆無となった。

リンゴ  上湧別町のリンゴ生産の歴史は古く、開拓時代にさかのぼる。 かっては、北限のリンゴとして上湧別の代名詞になっていた。 昭和20年(1945)の主戦投じ128㌶あったリンゴ畑は、同30年代(1955~)前半には70㌶前後まで減ったが、同40年代(1965~)から農業構造改善事業を導入し、南兵村一区と南兵村二区を中心とした主産地形成に向け、幼苗新殖による増産計画を推進した結果、同46年(1971)には245㌶まで伸びた。 しかし、同年から腐乱病が大発生し、それに侵された木を大量に切り倒すことを余儀なくされた。
 そのうえ消費者の嗜好の変化も追い打ちをかけ、リンゴ畑は急カーブを描いて減反した。 リンゴ農家は、地場苗木・台木の育成、品種更新、矮性化の研究など主産地形成の努力を重ねたが、腐乱病に加え、黒星病、凍害、風害が続発した。 打ち続く病害、災害に抗し切れず作付面積は、「北海道農林水産統計年報」によると、同53年(1976)に100㌶の大台を割り込み74㌶になり、平成元年(1989)の5㌶を最後に統計上はすっかり姿を消してしまった。
 上湧別町農業協同組合の資料によると、平成7年(1995)度には2.1㌶が残っているが、これは自家用、あるいは歴史的遺産である北限のリンゴを伝承するための栽培として続けられているものである。
 現在は、食味の優れたハックナイン、つがる、などが矯正台木で栽培されているが、地力の向上、生産技術の高度化、生産組織の集団化、品種構成の適正化などにより、他産地に比べて良質のリンゴ生産に努めている。


(6)農業災害
上湧別における災害  農林水産省北海道統計事務所の統計によると、昭和50年(1975~以降、北海道の主な冷害年として挙げられているのは同51年(1976)、同55年(1980)、同56年(1981)、同58年(1983)の6回である。 この中でも昭和58年が大冷害の年とされている。 これ以外に上湧別町内における主な農業災害としては、同59年(1984)、同60年(1985)、同63年(1988)が付け加えられるが、低温日照不足の被害を受けた平成5年については、被害を最小限に抑え、画策持つともほぼ平年作を確保している。
 上湧別町の場合、農業災害の原因は様々であり、低温のほか暴風雨、旱魃、晩霜などがみられる。 昭和56年8月は低温と台風(豪雨)、同58年6~7月は低温、同59年7月~8月は旱魃、同60年6月は晩霜、10月は暴風雨、同63年5月は晩霜、そして平成4年9月は台風(豪雨)が、それぞれ主な被害の原因となっている。 こうした被害の発生のたびに上湧別町は対策本部を設置して、国、道に対し「天災融資法」の適用や自作農維持資金の特別交付を求めるなど、営農資金対策や畑地灌漑用の井戸掘削などに全力を挙げて取り組んだ。


主な災害の状況  昭和50年(1975)からの20年間で、災害面積、被害金額とも最も深刻だったのは同59年(1984)である。 この年は5月以来、旱魃が続き、7月末までの降水量はわずか約90㍉㍍であった。 これにより小麦、アスパラガスを除いた馬鈴薯、甜菜、玉葱、牧草、野菜類などほとんどの作物が被害を受けた。 しかも、甜菜と根菜類以外は作付面積の全体に被害が及んだ。 被害金額にみるワースト5は、①玉葱、②牧草、③デントコーン、④馬鈴薯、⑤甜菜、で総体的には3482㌶の作付面積のうち2907㌶(83.49%)が被害を受けた。 約4万1000トンの減収となり、被害金額の合計は7億5037万9000円に及んだ。
 次いで被害が大きかったのは、平成4年(1992)の災害であった。 3822㌶の作付面積のうち1261㌶(32.99%)に被害が発生、1万7507㌧の減収となり、被害総額は7億73万8000円となった。 特に玉葱と甜菜、馬鈴薯が大打撃を被り、昭和59年の災害では無傷だった小麦、アスパラガスにも被害が出た。 この年は春先から低温、長雨、日照不足などで痛めつけられたうえ、8~9月には2つの台風にも見舞われた。
 やはり春からの低温と日照不足で全道的に大冷害凶作となった昭和58年(1983)は、被害総額が2億1646万6000円であった。 3356㌶の作付面積のうち1025㌶(30.54%)に被害が及び、減収も6500㌧に達した。 デントコーンとアスパラガスが壊滅的な打撃を受けたほか、玉葱、甜菜などの被害が目立った。 
  第三節  農業振興対策と事業 
    (1)農業構造改善事業
事業の歩み  農業構造改善事業は、「農業基本法」に基づく農政の中心施策として昭和36年(1961)度に着手された。 各市町村の事業は、地区ごとに立てられた計画に従って、生産基盤の整備開発、経営近代化施設の導入、環境の整備など構造の改善に関し、総合的に行われた。 上湧別町においては、同40年(1965)度に第一次の指定を受け、同42年(1967)度から同44年(1969)度まで共南地区(四の一、四の二、総事業費1億3058万円z9,同43年(1968)度から同45年(1970)度まで富美地区(富美、札富美、総事業費1億5837万円)の2地区で実施されている。

第二次農業構造改善事業の背景  上湧別町の農業は、経営農地面積が小さいため、畑作においては高収益作物への栽培移行が、酪農においては経営規模拡大による経営の安定がそれぞれ求められていた。 このようなことから共同利用機械・施設導入による経営技術の向上や省力化をはじめ、農地の流動化による経営規模の拡大、総合土地改良事業などによる基盤整備、生産性の高い自立経営農家の育成が、第二次農業構造改善事業の主たる目的・目標に掲げられた。

事業の実施  第二次農業構造改善事業は川西地区(旭、札富美、富美、上富美、総事業費3億1902万7000円)、北兵村地区(五の一、五の二、中湧別、総事業費4億3477万7000円)南兵村地区(屯市、四の一、四の二、四の三、開盛、総事業費6億6247万6000円)の3地区で実施された。 事業年度は川西地区が昭和48年(1973)度~同53年(1978)度、北兵村地区が同51年(1976)度~同56年(1981)度、南兵村地区は同52年(19779度~同56年度であった。
 川西地区は、事業開始当時、農家戸数124戸、農用地面積1969㌶を有する酪農地帯であった。 しかし、1戸平均の農用地面積が15.9㌶と酪農にしては少ないため、規模拡大が急務となっていた。 こうした課題を解決するため、離農跡地の適正移動と農用地の集団化をはじめ、労働の省力化を目指しトラクターや作業機械の導入、さらに、乳牛の多頭化飼養に対応する飼育管理施設、バルクーラーの導入を図り、生産性の高い酪農経営による自立農家の育成を促進した。 そのほか農業機械の整備・修理のための農機具修理施設を建設した。
 北兵村地区は、畑作、一部酪農の経営地帯で1戸平均の農用地面積が非常に少なく、所得が低くて経営が不安定なのが事業開始当時の悩みであった。 このため、国営農地開発事業や国営直轄明渠排水事業と併せて離農跡地の適正移動や農地の集団化で経営規模の拡大を図った。 また、労働省力化のため農業機械を導入し、生産性の高い自立経営農家の育成を目指した。 さらに、石礫除去機を導入したほか、地域施設として玉葱集荷貯蔵所を建設した。
 南兵村地区は畑作、果樹、一部酪農経営が混在する地域で、事業開始当時、生産性が比較的高い高収益作物の導入が順次進められていた。 しかし、地力の減退が目立ち、土づくりが大きな課題となっていた。 さらに、小規模経営農家が多かったことから造成可能地、未利用地の最大限の活用により経営規模の拡大を図ることが求められていた。 このため、離農跡地の適正配分と農地集団化を進める一方、省力経営のための農業機械やリンゴ選果機の導入、地区主要作物増産のための省力化施設としてアスパラガス集荷所、地力を高めるため木の皮などを利用したバーク堆肥を生産する自給肥料増産施設の建設などを行った。 また、麦の作付面積増に対応する乾燥調整施設のサイロの建設や、コンバイン、グレンドリルの導入も図った。
 昭和57年(1981)度をもって3地区の事業を完了した第二次農業構造改善事業は、共同利用機械施設の導入によって、労働力の適正配分と生産物の品質向上をもたらし、輪作体系の安定性がほぼ確立した。 しかし、自給肥料増産施設については、バーク堆肥の原材料入手が困難で、原材料生産という新たな対応を迫られる結果となった。 さらに、酪農も飼養頭数増加がみられたものの、外的条件の悪化に伴い、引き続き相当の経営改善努力が求められた。


(2)農村総合整備モデル事業
農村整備の目的  日本の国土のうち森林、原野、湖沼などを除いた可住地面積は約21%しかない。 その可住地の大半は農村地域である。 昭和30年代(1955~)の日本経済の高度成長は、都市、工業優先の効率的な投資が重視されたため都市の過密化、農山村の過疎化をもたらした。 生産性も人口密度も低い農林業・農山村は政治の谷間に放置され、都市に比べ農村の生活環境整備は著しく立ち後れていた。
 このため、従来進めていた農業基盤整備事業中心の政策に加え、農村の生活環境の整備、農業就業者など農村居住者の福祉向上の諸政策も取り上げ、「農村における健康で文化的な生活環境」に視点を置いた総合的な整備を図ろうという気運が高まった。
 農林水産省(投じ農林省)は昭和48年(1973)7月、「農村総合整備モデル事業実施要網」を制定した。 事業計画によると、同年度から5年間で、全国でおおむね400市町村を指定、1市町村当たり標準事業費8億円、国庫補助率50%(農業基盤整備についてはほかに都道府県20%)により事業を推進するという内容である。 具体的な事業内容は、農業生産基盤整備(圃場、農業用排水施設、農道、その他用地の開発改良・保全施設)、農村環境基盤整備(農業集落道、農業集落排水施設、営農飲雑用水施設、集落防災安全施設)、農村環境施設整備(農業集落環境管理施設、農村環境改善センター、農村公園施設)などとなっていた。


上湧別町の事業推進  上湧別町は昭和50年(1975)度に農村総合整備モデル事業の指定を受け、事業計画を策定した。 この計画策定に当たっては、上湧別町第一期総合計画(昭和46年度~同55年度)との整合性を図りながら、住民意向調査を踏まえ、町内各界代表者・地域受益者代表から鳴る協議会と町理事者ほかスタッフによる幹事会で作業を進めた。
 当初の計画では、昭和51年(1976)度から同57年(1982)度までの7年間に12億200万円をかけて事業を完了させる予定であったが、5年間延長となり、総事業費も21億5169万円へと大幅に増加した。 主な事業は農道、農業集落道、営農飲雑用水施設、集落防災安全施設、農村環境改善センター、農村公園の整備である。 このうち農道は14号線など10路線7658㍍、農業集落道は中湧別西6条など4路線3485㍍を整備した。 営農飲雑用水施設は表流水堰など6件、集落防災安全施設は上湧別小学校裏付近から17号線過ぎまで長さ1㌔㍍にわたるフェンスを公共施設と灌漑溝の間に巡らして水難防止を図った。 農村公園は、屯田市街地、中湧別市街の2ヶ所(合わせて5675平方㍍)である。
 中心事業は、農村環境改善センターの建設と営農飲雑用水施設(簡易水道)の整備であった。 農村環境改善センター(屯田市街地)は、外溝工事などその周辺整備も含め昭和52年(1977)度から3年間で完成した。 鉄筋コンクリート2階建て延べ1690平方㍍で、スポーツ、レクリエーション、結婚式場などにも利用される多目的ホールのほか、ロビーサロン、開議・研修室、健康相談室、事務管理人室などを備えている。 総事業費は、3億8734万円である。 同センターは同53年(1978)9月にオープンして、お年寄りから小学生まで幅広く活用され、地域のコミュニケーションの場として上湧別町の主要な施設の一つとなっている。
 営農飲雑用水施設の整備は、総事業費5億9642万円をかけて昭和54年(1979)度から準備調査に入り、取水堰(22.4㍍)、沈砂池(1ヶ所)、導水管(6.1㌔㍍)、配水管(37.23㌔㍍)の工事を経て、同60年(1985)度から河川表流水(湧別川)の堰上げ取水方式により、南兵村地区、屯市、五の一に給水をはじめた。


(3)農村地域(一般型)農業構造改善事業
事業の背景  上湧別町の農業は、玉葱、甜菜、馬鈴薯、小麦、アスパラガスなどの農産物を中心とした畑作経営型と乳用牛を中心とした畜産経営型の大別される。 畑作は昭和61年(1986)当時、農家1戸当たりの経営面積は6.5㌶と全道、網走支庁管内の平均を下回る小規模経営であったため、アスパラガスや玉葱などの高収益作物が導入されていた。 畑作物はアスパラガス、玉葱を除き、連作すると、連作障害になることから、甜菜、小麦、馬鈴薯の3作物に一部野菜類を加え、輪作をしている。
 畜産は酪農経営と肉用牛経営とに分けられるが、このうち酪農の乳用牛飼養頭数は、昭和61年当時1戸当たり51.4頭と全道平均を上回る規模であったが、経営面積は19.8㌶と全道、網走粗朝刊愛の平均を大きく下回っていた。 そのうえ、それまでの飼養頭数の拡大、農用地の購入、施設整備に対する投資は、牛乳の生産調整と価格の低迷により農業経営を圧迫していた。 一方、肉用牛経営の方も価格変動が激しく、経営の安定を妨げる要因となっていた。
 かってのように作物さえ作れば売れる時代は終わり、農産物の附加価値を高め、市場情報の的確な把握と販路の拡大が求められるようになった。 小規模経営で、しかも立地条件上新たな農地開発による経営規模拡大が望めないことから、上湧別農業の課題は生産コストの低下、単位当たりの収量増加、高品質生産の向上などに絞られていた。 その一環として保肥力や保水力を高めるため、除礫、客土などの土地基盤整備を行うとともに、昭和61年度からはバイオテクノロジー技術の試験研究に取り組んでいたが、さらに、生産性の高い上湧別農業の確立を目指し、新しい時代に即応した形に事業内容が充実された農村地域(一般型)農業構造改善事業(略称・新農構)を導入することになった。


事業の概要  事業は昭和62年(1987)度に計画が認定され、平成6年(1994)度に完了している。 補助事業としては推進事業、近代化施設整備事業、特認事業、単独融資事業などを設定。、総事業費16億4096万2000円をかけ各事業を展開した。 対象の主要作物は小麦、馬鈴薯、甜菜、アスパラガス、山根木である。
 これらの事業のうち、近代化施設整備事業では1億389万円を投じた穀類乾燥調整貯蔵施設2棟(156平方㍍)を建設したほか、玉葱皮むき機、玉葱選別機、農業農村情報連絡施設各1式、コンバイン1台、移植機2台を購入した。 農業農村情報連絡施設は、上湧別町農業協同組合と各農家を結ぶファックスを設置したものである。 特認事業では新技術活用種苗等供給施設1式(61戸)の導入、推進事業では協議会や研修会の開催、、先進地視察(昭和62年度~平成6年度)などがその内容で、事業主体は推進事業が上湧別町になっている以外はすべて上湧別町農業協同組合である。
 これに対し、公庫資金や起債などを活用する単独融資事業は、個人又は利用組合が事業主体となっている。 この事業は農機具の導入や農舎、畜舎、サイロの建設など近代化施設整備が中心で、農用地高度利用を目指す未墾地取得も一部含まれている。
 この新農構事業は平成6年度でいったん完了した。 さらに、同年度に地域農業基盤確立農業構造改善事業の計画認定を得て、同7年(1995)度の事業として推進事業と近代化施設整備事業に取り組んだ。 上湧別町が事業主体の推進事業は、研修会及び先進地視察などである。 上湧別町農業協同組合が事業主体となる施設整備事業は、広さ2000平方㍍んp玉葱貯蔵庫の建設とフォークリフト2台、コンテナ3600基の購入で、総事業費は約4億9570万円であった。 同貯蔵庫は、屯田市街地に同7年9月25日に完成している。 同8年(1996)度の事業としては前年度に続いて、上湧別町が事業主体の推進事業と上湧別町農業協同組合が事業主体の施設整備事業に取り組んだ。 施設整備事業は、玉葱貯蔵庫施設内に玉葱選別機1式120㌧/日を設置、約3億5943万円をかけ同9年(1997)2月に完成した。


(4)農業振興地域整備計画
 農業振興地域制度は、農地を虫食い状態にする無秩序な開発に対して、これを防いで有効適切な農地利用を図ろうというものである。 第二次農業構造改善事業の実施に当たって、まず「農業振興地域の整備に関する法律」(昭和44年9月施行)に基づき、農業振興地域整備計画が必要になった。 上湧別町は昭和46年(1971)9月、農業振興地域に指定され、翌47年(1973)3月、上湧別町農業振興地域整備計画が北海道知事の認可を受けている。
 この整備計画は、①農用地利用計画、②農業生産基盤の整備開発計画、③農地保有合理化のための権利取得の円滑化計画、④農業近代化施設の整備計画、などを柱として策定された。 昭和46年度から同55年(1980)度までの10ヶ年計画で、これを基本計画として個々の事業が実施された。 計画では当時3200㌶であった農用地を山林や原野の開発によって4000㌶に増やすほか、宅地、工業用地、山林原野、道路等公共施設用地などについてもそれぞれ目標面積を設定していた。
 上湧別町農業振興地域整備計画は、10ヶ年計画が完了したあとも毎年見直しが図られ、農用地、宅地、工業用地、公共施設用地などは、わずかずつだが増加、これに反比例して山林原野は、減少してきた。 最も新しいところでは平成9年(1997)3月28日、農用地にかかわる除外、転用の計画変更が認められている。


(5)農業振興対策事業
事業の流れ  上湧別町における農業の振興対策事業は、昭和30年代(1955~)においては新農村建設計画と、それに関連する農山漁村振興計画に基づくものぐらいしかなかった。 しかし、「農業基本法」の制定をきっかけとして、国が積極的な農政を展開するようになったのに対応し、上湧別町も農業振興基本計画を同42年(1967)に策定し、移行本腰を入れて取り組むようになった。 特に第一次、第二次農業構造改善事業をはじめ、農村総合整備モデル事業や各種大型土地基盤整備事業などのほか、各部門別農業の振興をはかるためのきめ細かい対策事業を講じた。」これらの事業に対する補助金は、同45年(1970)4月に制定された「上湧別町農林振興事業補助規則」に基づき交付され、現在に至っている。
 昭和54年(1979)度から平成8年(1996)度までの間に実施された農業振興対策事業は延べ39種類にも及び、このうち同年度現在、実施中は19種類もある。 時代の趨勢、農業環境の変化などにより既に役割を終えた事業としては、兵村パイロット生産対策事業、リンゴ生産緊急対策事業補助金、農家夫妻整理資金利子補給事業補助金、鹿食害防止対策事業補助金などがある。 また、新農業構造改善事業補助金、新地域農業生産綜合振興対策事業補助金のように断続的に実施されたものや災害発生時に適用される天災資金利子補給補助金もある。 天災資金利子補給補助金は、平成元年(1989)度から同3年(1991)度を除いて、昭和55年(1980)度から平成8年度まで続いている。


主な金融対策事業
  ガット・ウルグアイ・ラウンド農業合意に基づいて、平成6年(1994)度に農林漁業金融金庫の農業経営基盤強化資金(スーパーL資金)と農業経営改善促進資金(スーパーS資金)、翌7年(1995)度に北海道農家負担軽減支援特別資金(スーパーM資金)の制度が発足した。 これに対応して上湧別町も同7年度から農業経営基盤強化資金に対し利子補給を実施している。
 スーパーL資金は、「農業経営改善計画に示された具体的な経営改善措置の実施に必要な資金を長期に融資するもので、①農地などの取得・改良、②農業経営用施設・機械などの改良・造成・取得、③農産物の加工処理・流通販売施設・観光農業施設の改良・造成・取得、④借地権・施設などの利用権・特許権、その他無形固定資産の取得、⑤家畜・果樹などの導入、借地料・賃貸料の支払い、⑥夫妻整理、その他農業経営の改善を前提とした経営安定に必要な資金、が対象になっている。 貸付限度額は個人が1億5000万円(特認の者は億円)、法人が5億円で、10年据え置き25年償還という条件である。 また、公庫貸付金利は3.5%だが、国が1%、北海道、上湧別町がそれぞれ0.25%合わせて1.5%を助成するので実質金利は2%となる。

 これに対してスーパーS資金は、農業経営改善計画の達成に必要な運転資金を短期的に融資する者で、おおむね①種苗代・肥料代・飼料代・雇用労賃などの直接現金経費、②肉用素畜・中小家畜などの購入費、③小農具など営農備品・消耗品などの購入費、④営農用施設・機械の修理費、⑤地代(賃貸料)、営農用施設・機械のリース・レンタル料、⑥生産技術・経営管理技術の修得費、⑦市場開拓費・販売促進費、などが対象項目に挙げられている。 限度額は個人500万円(ただし、畜産、施設園芸は2000万円)、法人2000万円(同8000万円)だが、農業金融制度綜合推進会議が認めた場合は、限度額を超えて貸し付けられる。 貸付金利は手形によるものが1年以内、2.25%、1年程度の当座貸し越しによるものが、0.5%の範囲内で2.25%に加算できることになっている。
 スーパーM資金は、既往債務の負担軽減を図るため、農家負担軽減支援特別資金、自作農維持資金(リリーフ・債権設備)について、国と北海道が金利負担軽減を目的に利し助成措置を講じ、実質金利を2.5%に低減するものである。
 これらの資金の貸し付けを受けられるのは、スーパーL資金が農業経営改善計画の認定を受けた農業者・法人と同法人に出資する個人、スーパーS資金が「農業経営基盤強化促進法」の経営改善計画などの認定を受けた農業者・法人、スーパーM資金がガット・ウルグアイ・ラウンド豪語も意欲的に農業を継続する意欲があり、経営の合理化などにより経営改善を図ろうとする農業者で、その作成する経営改善・安定推進計画について知事の承認を受けた者となっている。 上湧別町においては、平成9年(1997)3月末現在、スーパーL資金47件、スーパーM資金16件の利用があり、上湧別町の認定農業者は68人である。
 このほかの振興対策事業としては、和解農業経営者に委託栽培してもらい品種選定を目指す玉葱優良品種比較試験事業補助金をはじめ、農業の担い手の代わりに農業開発公社が農地を買い上げ、5年後に担い手が買い取るという農地購入を容易にする担い手確保農地保有合理化促進特別事業資金利子補給補助金、玉葱、甜菜、ミニトマトなどのビニールハウス設置を促進する高収益野菜生産施設整備事業、被服資材の購入に対し助成し、育成を促進して出荷時期を早め友理奈条件を作る、玉葱前進出荷対策事業補助金など多様な対策がみられる。


(6)上湧別町寒地園芸営農センター
センターの歩み  道東地域は、寒冷な気象条件のため生産性が低い。 しかも、寒地農業確立のための試験研究機関にも恵まれていなかったことから昭和44年(1969)、現在地(屯田市街地98番地の2)に上湧別町が上湧別町寒地園芸営農センターを開設した。 当時栽培されていたリンゴ、アスパラガス、過酷用農産物、花卉球根などの園芸作物を中心に地域に適応した生産技術の開発・普及の促進、そして、栽培者の組織化も含めて営農の拠点にしようというのが設立の目的であった。
 しかし、同センター開発当時、229㌶あったリンゴは現在わずかに自家用として残っているだけで、リンゴの減少に反比例するように120㌶まで増加したアスパラガスも、斑点病などの影響で大幅に減少、これに代わって玉葱が著しく増加するなど作付状況は大きく変化している。 また、当初行っていた土壌診断事業は、東紋東部地区農業改良普及所の事務所が湧別町に新設され、昭和60年(1985)から同事務所に移された。 翌61年(1986)度からは新たにバイオテクノロジー(生命工学=生命活動の構造を工学的に利用する技術)の事業を開始し、アスパラガスの優良雄株の大量増殖やニンニク、イチゴなどのウイルスフリー(ウイルスに感染していない健全な状態)苗増殖に取り組んだ。


センターの概要  センターの建物には営農相談室(兼事務所)、研修室(2室)、植物組織培養実験室、培養室などを備え、各種講習・講話会、研修会の開催、生産者団体や農事青年団体の指導をはじめ、バイオテクノロジーによる苗の生産・実験、苗の培養などを実施している。 また、第一圃場(40㌃)、第二圃場(145㌃)、ビニールハウス(網室)の120坪(1棟)・80坪(5棟)・30坪(4棟)、鉄骨温室(バイオテクノロジー用)の40坪(1棟)・20坪(1棟)の各施設を持って、これらの施設でバイオテクノロジーによる苗の培養、既存野菜の増収実験や新規導入作物の現地適応実験、イチゴなどのウイルスフリー苗の増殖を行っている。
 注目のバイオテクノロジー事業は、植物組織培養実験室(37平方㍍)、培養室(30平方㍍)、順化用温室(70平方㍍)、育苗用温室(130平方㍍)、網室(30坪2棟、80坪2棟)で実施している。 事業の2本柱のうちアスパラガスの優良雄株の大量増殖は、雌株に比べ雄株の方が収穫若芽が多いうえ、茎の直径も大きく収穫量が多いことに着目、その雄株から収量、品質、耐病性について優良な株を探し、組織培養によって同じ性質を持った株を大量増殖しようというものである。 平成2年(1990)度から苗を初出荷、最盛期には最高約2万本を町内の農家に出荷した。 同8年(1996)度末には新品種といわれる優良苗の確保が容易になったため、一時保留となった。
 もう一つの柱である、ウイルスフリー苗の増殖は、球根や芋などによる栄養繁殖作物の収量低下を招くウイルス汚染を防ぐため、ウイルスに侵されていない作物の生長点(茎頂)の部分を0.2~0.5㍉㍍に切り取り、これを培養してウイルスフリー苗をつくり育てるというもので、これにより2~3割の増収が見込める。 当初、長芋、ニンニク、ユリ類、イチゴ、アスパラガスが実験・生産の対象であったが、最近はアスパラガス、スターチス、トルコギキョウ、イチゴが取り上げられてきた。
 このほか圃場では金魚草、ラークスパー(千鳥草)、1年生スターチスなど花卉類の栽培・作型展示、南瓜や人参、ミニトマト、アスパラガス、サイレージ用玉蜀黍などの品種比較試験、栽培法・肥料効果確認試験などを作物を変えながら実施している。
 同センターは、上湧別町農業推進協議会が運営している。 同協議会は上湧別町、上湧別町農業協同組合、湧別地区農業改良普及センター、上湧別町農業委員会、遠軽地区農業共済組合、上湧別町農民連盟で構成され、男町、上湧別町農業協同組合の負担金(折半)と同センターの農作物売上収入などを運営経費に充てている。


(7)畑作振興施設
 平成8年(1996)度現在、上湧別町内で活用されている畑作振興施設は23ヶ所である。 いずれも上湧別町農業協同組合が事業主体だが、補助事業対応施設が14ヶ所、同組合自己資金対応施設が9ヶ所である。 補助事業対応施設の内訳は、第一次農業構造改善事業によるものが1ヶ所、第二次農業構造改善事業が4ヶ所、新農業構造改善事業が5ヶ所、地域農業基盤確立農業構造改善事業が2ヶ所、そして農業生産体質強化対策事業、高収益農業促進金きゅたいさくじぎょうがそれぞれ1ヶ所となっている。
 最も古いリンゴ集出荷貯蔵所は、第一次農業構造改善事業により昭和44年(1969)に屯市に建設されたが、リンゴの生産がほとんどなくなった現在は、玉葱など他の作物の貯蔵庫として利用されている。 作物別で玉葱関係が貯蔵庫、吹き抜け倉庫、キュアリング(玉葱水分調整)施設、選別機械・施設、皮むき機械・施設など11ヶ所を数え、そのほか麦類の乾燥調整施設、人参の洗浄機械・施設、野菜類の予冷施設などがある。
 これらの中で特に注目されるのが、平成4年(1992)度に設置された農業農村情報連絡施設と同5年(1993)度に建設された新技術活用種苗等供給施設である。 情報連絡施設は上湧別町農業協同組合にホストコンピューターを置き、町内の農家のほぼ全戸に当たる252戸に対し、コンピューター制御のファックスにより気象情報をはじめ、様々な技術指導などの情報を伝えている。 気象情報については町内2ヶ所にアメダス(地域気象観測システム)の無人自動観測施設を置き、北聯と提携してリアルタイムの観測データーを得ている。
 また、種苗等供給施設はブロッコリー、ミニトマト、キャベツなどの野菜やトルコギキョウなど花卉類の共同育苗を行うもので、屯市に4棟が設置されている。
 今後の農家経営の安定にとって重要な鍵を握る高収益野菜と花卉類の関連施設として、有効活用が期待されている。


(8)農業生産綜合振興計画
 農業生産綜合振興計画は、先進的農業生産綜合推進対策、畜産活性化総合対策など北海道の施策などを取り込んで、昭和40年代(1965~)から上湧別町でもスタートしていたが、平成5年(1993)3月に新しい計画が策定された。 これは、同5年度から同9年(1997)度までの5ヶ年計画であったが、農業情勢の変化に対応して見直され、同8年(1996)3月に新たに策定された。
 新しい計画は、平成6年(1994)に上湧別町が策定した農業経営基盤の強化の促進に関する基本構想に基づき、農業生産の綜合振興に関する基本方針を掲げている。 そのうえで各主要作目ごとに生産振興方針、生産・流通改善方針を定めている。 また、上湧別町農業の経営目標を可能とする効率的・安定的な農業経営の基本指導としては、同基本構想にも盛り込まれている営農類型が採用されている。

 このほか経営体を支える人材の育成確保方針として、地域の実践的リーダーとなるべき農業青年らが自主的に学習活動などを行うサークルを育成するとともに、全国レベルでの仲間づくりなどの活動を支援するのをはじめ、農村青少年集団活動の助言・指導や農業後継者の育成指導を効果的に進めるため、指導農業士、農業士に対する研修会の開催、先進地視察などを行うことにしている。 さらに、農業生産の重要な担い手となっている女性のために、健康で快適な労働環境の実現を目指し、農業労働や作業改善の活動を支援、労働や報酬についても家族内のルールづくり、生活設計の樹立などを目指し、助言指導を行っている。
 また、将来、農業生産のモデルとなり得る地区の育成のため、具体的に機械の導入や加工施設の建設、灌漑排水、畑地帯総合土地改良事業(畑綜事業)、草地造成など土地基盤整備計画を提示しているが、生産に際しての環境保全に関する方針を初めて定めているのが特徴である。 農薬・化学肥料の適正使用と新技術の導入に関しては、農薬や化学肥料の使用を最小限にとどめるなど、生産資材の適正使用を通じて安全で高品質な農業生産を進める農家の取り組みを促進するものである。 具体的には、有機物の投入による土づくりの推進や土壌診断に基づく合理的な施肥を促進するとともに、耕種的・生物的防除法などを導入した対策を組み立てるなど、できるだけ農薬に頼らない防除を推進することを目標に掲げている。(畜産については「第六節畜産」に記載)。


(9)農地保有合理化事業
 農業経営の基盤強化対策として、効率的、安定的な経営体を育成し、これらの経営体に農地を集積していくことが重要な課題になっている。 そのため、計画的な土地利用に配慮しつつ農地利用の集団化、経営体の育成とその経営の定着・発展を一層促進することを目的として、(財)北海道農業開発公社が農用地の買入れ、売渡し、借入れ、貸付けを行うのが、農地保有合理化事業である。
 事業の実施対象区域は、「農業振興地域の整備に関する法律」に定める農用地区域で、農用地のほか、将来開発して農地とすることが適当な土地、農業用施設とその用地となっている。 農用地区域内にある農業値や農業用施設などを(財)北海道農業開発公社が買い入れ、あるいは借り入れたものを再編成、集団化し、担い手育成・経営転換・事業関連の3つのタイプの事業区分に応じて貸付け、または売渡しを行っている。
 事業区分のうち担い手育成タイプは、新規営農開始希望者をはじめ一定要件を満たした者や中山間地域における担い手に対して行う。 経営転換タイプは、離農や大幅な経営縮小を計画している農業者、施設型経営に転換しようとしている農業者の農用地、施設を買い入れる事業で、事業関連タイプは、公団事業、利用権設定等促進事業など定められた事業と相まって実施する事業が対象となっている。
 これらの事業が行こうに活用されると、①農地を売りに出したり、貸したい人がいる場合、農地が効率的に利用できる農家に売り渡し、貸し付けることで、経営規模の拡大、生産性の向上に結びつく、②未利用地、低位利用地の開発を促進し、経営規模拡大を実現する、③農業法人をつくり、効率の高い大規模な協業経営化を促進する、など各分野に大きな役割を果たすことが期待される。
 上湧別町では、昭和47年(1972)ごろから、この事業が行われていたが、農地保有か事業を推進するため、同51年(1976)4月、「上湧別町農地取得円滑化事業調査要網」を制定し、第二次農業構造改善事業実施対象の川西、北兵村、南兵村3地区にそれぞれ10人の臨時専門委員を配置して本格的に事業に取り組んだ。
 この農地保有合理化事業は、ガット・ウルグアイ・ラウンド農業合意に基づく農地流動化制作の変化に伴い、平成7年(1995)度から拡充強化された。 その主な内容は、①市町村が策定する農業基本構想に基づき農用地の流動化を促進し、経営体の育成、誘導をさらに積極的に推進する、②経営転換タイプの事業における中間保有の拡充強化を図る、③買い入れした農地の価格が多少下がっても、自家で売り渡すことができる、④当面、買い手、借り手のない離農のうちなども買い入れる、⑤800万円であった譲渡所得税の控除を、特別控除により1500万円に引き上げる、などである。 これらの新しい施策によって、農地の流動化が一層進み、認定農業者らに農地などが集積され、力強い農業が実現することが期待されている。


(10)新農政と上湧別町農業経営基本構想
「農業基本法」の見直し  「農業基本法」は昭和36年(1961)、日本農業の政策目標と基本方向を目指すものとして制定された。 当時は日本経済の発展につれ、農業と他産業との生産性の格差、農家と勤労者世帯との間の所得水準の格差がそれぞれ拡大しつつあった。 これらの格差を是正する政策手段として、米麦中心から果樹園芸・畜産などの成長農畜産物に重心を移す農業生産の選択的拡大、労働生産性の向上を目指す経営規模の拡大、農産物価格政策による所得格差の是正が掲げられた。
 「農業基本法」の3本柱は、生産政策、構造政策、所得政策であったが、その中で最も重視されたのは構造政策である。 ところが時代の経過とともに、同法の各条項と農業実態や消費者のニーズとの間に、多くの矛盾と食い違いが生じ、環境保全、国際化、多面的公益機能などの分野で、同法の欠陥が指摘されるようになった。
 農林水産省が、アメリカなど外国の市場開放圧力の高まりや農業の深刻な状況を踏まえ、「農業基本法」以来の農政を総括し、新しい基本理念と政策内容の再構築を目指して平成4年(1992)に示した新農政プランが、「新しい食糧・農業・農村政策の方向」である。 その基本理念として、①食料自給率低下傾向に歯止めをかける、②市場原理・競争原理を一層導入し、環境とも調和した効率的・安定的な経営体を育成する、③都市と農村を共生させ、個性的な農村定住空間を形成する、④消費者の安全性要求、農業の国土・環境保全機能に応える国民的視点に立った政策を展開する、の4点を掲げている。
 さらに、生産と生活を一体的にとらえた農村定住条件の整備、環境保全型農業の育成、食品産業・消費者政策の充実、技術集約型産業としての農業技術開発の促進、国際協調の推進などをうたっている。 そのほか女性の地位向上、農業への新規参入の積極的評価、生涯所得概念の導入など、「農業基本法」とは全く異なる考え方を取り入れている。 これら新政策の具体化のための措置として、翌5年(1993)6月に「農業経営基盤強化促進法」(「構造・経営法」)、「特定農山村地域における農林業等の活性化のための基盤整備の促進に関する法律」(「特定農山村活性化法」)、「中山間地法」ともいう。)などが成立している。
 担い手の確保と経営規模の拡大、地域農業の再編などがねらいで、認定農業者には長期低利融資・スーパーL資金の優先権などの特典が与えられている。 認定農業者とは、その「農業経営基盤強化促進法」に基づき、農業の中心的な担い手として市町村が認定する農業者のことで、その際、市町村は農業経営の基本構想を策定し、農業者は経営改善計画を作成することが義務づけられている。 同8年(1996)5月現在の全国認定農業者は7万2663人に達している。 上湧別町は同9年(1997)3月現在68人である。
 「農業基本法」の具体的な見直しは、平成6年(1994)8月、農業審議会が、「改正の可否も含めて検討すべき」と報告したのを受けて、同年10月に「農業基本法に代わる新たな基本法の制定に向けて着手する」とした農業大綱が出されている。 同8年4月からは、農林省の「農業基本法に関する研究会」でとりまとめの検討に入っている。


「上湧別農業のめざす姿」の策定   上湧別町農業推進協議会は平成6年(1994)9月、「上湧別農業のめざす姿」と題する今後の畑作・酪農経営の指針を策定した。 国の新農政への転換という情勢変化や上湧別町の農業が置かれている現在の状況を踏まえたうえで畑作、酪農の課題を洗い出し、それに基づいて今後の方向を定めたものである。
 まず農業醸成について、「上湧別農業は大きな発展の可能性を持っているが、輸入自由化の進行、生産調整など先行きの不安要素が多く、畑作経営は現行のままでは所得の減少は避けられず、酪農経営においても既存施設での多頭化飼育が労働力の限界を超えるので方向転換が必要」と分析している。
 畑作経営の課題としては、①低コストで良質な農産物の生産、②農業機械の効率的活用などによる経費の節減、③野菜や花卉などを導入した経営の複合化、④個別経営の効率化、⑤土地利用の高度化、⑥畑作3品(小麦、馬鈴薯、甜菜)の作付体系の見直し、⑦作物栽培管理の受委託システムの導入、が挙げられている。 こうした情勢と課題を踏まえ、畑作経営の見直しにより新しい経営形態への転換を図ることを目指し、畑作の場合は玉葱作付け主体経営(玉葱作付けを主体とした経営、10㌶)、畑作野菜複合経営(野菜作付けを増やした畑作経営、14㌶)、畑作野菜複合経営(露地野菜作付けを増やした畑作経営、20㌶)、野菜花卉複合経営(野菜花卉を主体とした畑作経営、8㌶)、畑作法人経営(3戸組織体による大規模な畑作野菜複合経営、50㌶)の5つの経営形態を示している。 これによると1戸当たりの目標年間生産額は1583万8000円~3144万7000円、同所得額は735万1000円~925万6000円で、年間労働時間は2567時間~4927時間となっている。(畜産については、「第六節 畜産」に記載)。
 これらの新しい経営形態を推進するため、15項目の重点推進課題を設定しているが、そのうち畑作関係分を列挙すると、①農作業委託組織・集団の育成、②機械銀行の設立・機械リース事業の推進、③農地の集積・集団化、④労働支援体制の確立、⑤法人化促進のための支援、⑥後継者対策の強化、⑦地力向上対策の推進、⑧高収益野菜・花卉生産の組織化、⑨野菜価格補填積立金制度の創設、⑩野菜貯蔵施設の充実、⑪野菜加工施設の充実、⑫畑地灌漑の有効活用、である。 現在、実施に向けた調査研究や具体的な推進作業にかかっている。


農業経営基盤の強化の促進に関する基本構想  上湧別町が平成6年(1994)に策定し、同年10月14日から施行した「農業経営基盤の強化の促進に関する基本構想」は、地域の農業構造の現状やその見通しのもとに、おおむね10年後の農業経営の発展の目標を明らかにし、効率的・安定的な農業経営の育成を目指している。 その目標は、農業者が地域における他産業従事者並みの年間所得に担当する1人当たり700万円程度、年間労働時間2000時間程度を実現することである。 目標達成のための主な推進事項として、①農業経営基盤の強化促進、②上湧別町農業推進協議会による農業活性化の推進、③農地銀行活動による農地の集積、④農作業の受委託推進、⑤野菜の振興、⑥寒地園芸営農センターの活用、⑦労働条件の整備、⑧農業生産法人化の推進、⑨労働力の確保、⑩認定農業者への農地集積推進、⑪農家への経営指導強化、などを打ち出している。 各事項の内容は次のとおりである。
 ①農業者や農業団体が地域の農業振興を図るために行う自主的な努力を助長し、意欲と能力のある者を支援する農業経営基盤強化促進事業などを総合的に実施する。
 ②町内の農業各団体・機関で構成されている上湧別町農業推進協議会をよる充実強化し、農業の将来展望とそれを担う経営体を明確にするため、徹底した話し合いを促進するとともに、個々の農家に営農診断、営農改善方策を提示、各自の農業経営改善計画が自主的に作成されるよう指導を強化する。
 ③農業経営の改善による望ましい畑作農家や搾乳頭数の増加による経営拡大に意欲的な酪農家に対し、農業委員会を核とした農地銀行活動により、農地流動化推進委員による掘り起こし活動を強化して、農地の出し手と受け手を適切に結びつけて農地の集積を図りながら利用権設定などを進める。
 ④前記③のような農地貸借による経営規模の拡大と併せて、畑作3品などの農作業受委託による実質的な作業単位の拡大を推進、経営の確立に努める。
 ⑤畑作3品などの農作業受委託によって発生した余剰時間を利用して、露地野菜、施設園芸野菜の作付けを推進し、集約的農業経営の展開を助長する。
 ⑥湧別地区農業改良普及センターの指導のもと、上湧別町寒地園芸営農センターで品種改善による高収益作物や新規作目の導入試験・実証試験などを行い、農家が導入しやすい技術の普及に努め、野菜の産地形成を促進する。
 ⑦・⑧効率的な農業経営を実現するうえで重要な共同作業集団、機械作業集団を、農業生産法人などの組織経営体への発展団体として位置づける。 オペレーターの育成、農作業の受委託の促進を図り、農作業の請負集団や生産組織を育成するとともに、休日制や給料制、労災保険や雇用保険のほか他産業に比べて立ち後れている労働条件の整備を進め、経営管理能力、資金調達力、取引信用力を有し、雇用関係が明確な法人化を目指す。

 ⑨効率的、安定的な農業経営者と小規模な兼業農家、生きがい農業を営む高齢者農家、土地持ち非農家との間で補助労働力の提供などのシステムづくりを進めて役割分担を明確にしつつ、地域資源の維持管理、農村コミュニティの推進が図られ、地域全体の発展に結びつくよう努める。
 ⑩「農業経営基盤強化促進法」に基づく農業経営改善計画の認定制度について、認定農業者への農用地利用の集積のほか、その他支援措置についても集中的、重点的に実施するよう努め、制度の積極的活用を図る。
 ⑪上湧別町、上湧別町農業委員会、上湧別町農業協同組合、湧別地区農業改良普及センターの担当職員で構成する指導班をつくり、経営改善計画の認定を受けた農業者・組織経営体、または今後認定を受けようとする農業者・組織経営体などを対象に、先進的技術の導入などを含む生産方式や経営管理の合理化などの経営改善方策の提示や研修会の開催などを行う。
 目標達成に当たっての課題と方策は、まず畑作経営の確立を図るため、農業機械の効率的な活用などによる経費の節減、野菜や花卉などを導入した経営の複合化など、個別経営段階での経営体質の強化に向けた取り組みを一層促進する。 地域においても個別経営を外部的に補完・支援する生産システムの構築を目指し、そのスケールメリット(規模拡大による利点)を生かした個別経営の効率化、土地利用の高度化を進めるとともに、生産コストをより一層低減し、ゆとりある経営を確立する。 特に高収益作物の導入を進めるうえで労働力の確保が大きな課題となるので、畑作3品の作付体系の見直しと作物栽培管理のすべてを請け負う受委託システムの導入を図り、雇用労働力の安定確保を目指す、としている。
 さらに、目標達成を可能にする指標として、上湧別町農業推進協議会が「上湧別農業のめざす姿」の中で示している営農類型を取り上げているほか、農用地の利用の集積に関する目標として、農用地の利用に占める面積の割合を95%と設定、また農業経営基盤強化促進事業を推進するため、利用権設定、農地保有合理化、農地利用改善、農作業委託斡旋、農業従事者の養成・確保などの促進についても方向を示している。(畜産については「第六節 畜産」に記載)。

  第四節  土地改良 
    土地改良事業の歩み  戦争などのため荒廃した農業生産基盤を整備・開発するため、農用地の改良・開発・保全・集団化に関する事項について定めた「土地改良法」が、昭和24年(1949)に公布された。 同法に基づき農地の利用増進、生産向上を図ることを目的に、客土や区画整理、灌漑、排水の整備、農用地の造成などを行うのが土地改良事業である。 畑作と酪農を中心とした土地利用型農業が展開されていた上湧別町においては、経営規模の拡大が大きな課題であった。 そのうえ降水量が少ないえう、保水に乏しく、また、水はけも悪い粘土質などの土壌が広く分布しているため旱魃被害を受けやすかった。
 そのため、昭和38年(1963)度に国営沼の上・旭地区直轄明渠排水事業(昭和44年度完了、総事業費約3億1000万円)に着手したのを皮切りに、国営東地区直轄明渠海水事業(昭和45年度~同49年度、総事業費3億5398万円)、国営開盛地区直轄明渠排水事業(昭和47年度~同50年度、総事業費1億2836万円)の3つの事業を同50年(1975)度までに完了した。 その後も農地開発、営農用水、畑地帯総合土地改良、農道整備、草地整備改良、畑地灌漑排水、中山間地域総合整備、農村総合整備モデルなどの14事業を実施した。 主体別でいえば、国営2事業、道営10事業、団体営2事業である。 平成9年(1997)現在で実施されているのは、国営上湧別地区畑地灌漑排水事業、道営の兵村地区畑地帯総合土地改良事業、上湧別地区中山間地域総合整備時御意卯之3事業である。


国営上湧別地区農地開発事業  この事業は昭和49年(1974)度に着工、同63年(1988)度に完了した。 上湧別町五の三・五の二高台地区と旭地区湧別川西方山地帯と湧別町福島、川西、信部ノ内にまたがる1150㌶の地域を対象としている。 この地域は、平坦地と一部丘陵地からなる酪農畑作地帯で、オホーツク海沿岸特有の特殊気象と重粘土壌という悪条件下にあり、両町は各種の地域指定を受けて農業振興を図ってきたが、1戸当たりの経営面積が平均9.1㌶と狭いため、経営の合理化、近代化が進まず、不安定な経営を余儀なくされていた。
 現状のまま推移すると、農業の先行きが心配されるため、農業経営用地内のみ利用地を開発するとともに、土地生産性の増大を図るのに必要な農業基盤を整備し、経営規模拡大の基礎を確立、経営形態を酪農、酪農畑作混同、畑作に区分して自立農家を育成するのが目的であった。 両町で農地造成(992㌶)、土地改良(158㌶)などのほか、道路、排水路、雑用水施設などが整備された。
 上湧別町においては、農地造成(92.78㌶)、牧場整備(127㌶)のほか、農道7条(9833㍍)、明渠3条(5682㍍)、雑用水2ヶ所(8619㍍)などの基幹施設を整備した。 この事業には14年の歳月と総事業費約45億5000万円(うち上湧別町分19億2109万7000円)が投じられた。 上湧別町の受益戸数は、61戸・1法人であった。


道営旭地区畑地帯総合土地改良事業  事業対象となった旭地区は重粘土質のため水はけが悪く、水持ちも悪く、表土も浅い地帯であることから、昭和47年(1972)度から同56年(1981)度まで実施された。 総事業費8億9400万円を投じて砂客土(202.3㌶)、営農飲雑用水(1万2973㍍)、明渠3条(3311㍍)、暗渠(326.6㌶)農道4条(5948㍍)を整備している。

道営富美地区草地整備改良事業  昭和55年(1980)度から同59年(1984)度までに草地整備(392.4㌶)、草地造成(140.8㌶)をはじめ道路3条(6880.5㍍)、明渠3条(3762㍍)、暗渠(89.1㌶)などを整備した。 総事業費は、12億8000万円であった。

道営開盛地区畑地帯総合土地改良事業  事業対象となったj開盛地区は、粘土質の土壌のため雨水のはけが良くないうえ、日照り続きになると水持ちも悪く、作物の生育にとって恵まれない条件下に置かれていた。 このため、昭和50年(1975)度に着工、農地造成(96㌶)、心土破砕(154㌶)、暗渠(131㌶)、農道7条(1万4451㍍)、明渠3条(4176㍍)、営農飲雑用水(23戸)、を平成4年(1992)度までに完成させた。 総事業費は、23億5700万円を投じた。

道営兵村地区畑地帯総合土地改良事業  この事業は、昭和60年(1985)度に着手、平成13年(2001)度の完成をめざしている。 総事業費は約46億4900万円が見込まれており、畑地灌漑排水(1220㌶)のほか区画整理(235㌶)、心土破砕(180㌶)、農道8条(2万603㍍)、客土(282㌶)、明渠1条(4049㍍)、暗渠(20㌶)を整備する予定である。 南兵村、屯田市街地、北兵村の3地区合わせた1220㌶が対象で、受益戸数は146戸となっている。

国営上湧別地区畑地灌漑排水事業  南兵村一区に開盛頭首工を設け、1日約3万6374立方㍍の水を毎年3月21日から11月30日までの間に湧別川からの取水を可能にし、畑地帯に排水しようという計画である。 平成3年(1991)度から事業を開始、同9年(1997)度に完成させる予定で、幹線用水路8条(2万4400㍍)とファームポンド(貯水池)6ヶ所、揚水機情ヶ所、頭首工1ヶ所の工事を実施している。 受益戸数は146戸で、施設の維持管理はファームポンドブロック水利組合が行う。 総事業費は、76億円が見込まれている。
 これらの工事は順調に進み、平成6年(1994)度までに南兵村一区のファームポンド・揚水機場と送・配水路(約1140㍍)の畑地に農業用水を送り込んでいる。 それまで農業用水は地下水を利用していたが、水位の低下による水不足の悩みは、事業の進展に伴い改善され、順次配水供用地区を拡げている。 翌7年(1995)度に南兵村一区、同8年(1996)度に南兵村三区の工事が完成している。
 道営兵村地区畑地帯総合土地改良事業は、この関連事業として支線管路を整備することになっているが、散水施設は受益者負担である。

 
  第五節  主要農産物 
    甜 菜  甜菜は北海道の奨励作物として戦前、戦後を通じて北海道農業に大きな役割を果たしてきた。 上湧別における栽培の歴史も古く、昭和元年(1926)には既に73㌶の作付がみられた。 同30年代(1955~)になると相次ぐ冷害凶作の反省から、耐冷寒地作物としての甜菜に一層の関心が集まり、さらに、新品種の導入、苗の移植機械の普及などにより急激に増反が進み、作付面積は、同34年(1959)に300㌶に乗った。 その後、同50年(1975)前後にかけて200㌶台に減ったが、「北海道農林水産統計年報」によると、同53年(1976)に300㌶台を回復、さらに、同59年(1984)以降は一貫して400㌶の大台を維持、安定している。
 注目されるのは昭和43年(1968)に4937㌔㌘、同46年(1971)に5129㌔㌘と当時としては全道一の収量(10㌃当たり)を実現したことで、常に高い収量を誇っている。 過去20年間で最も収量が多かったのは、「北海道農林水産統計年報」によると、同62年(1987)の5940㌔㌘である。
 上湧別町農業協同組合の取扱いでは、昭和50年度の販売額は1億8296万3000円であったが、同60年(1985)度には5億2100万7000円と約2.8倍にも達している。 その後は低迷し、平成7年(1995)度は作付面積も収量も落ちたため3億478万9000円にとどまっている。


玉 葱  昭和初期から栽培されていた上湧別の玉葱が、上湧別町農業協同組合によって計画的に生産されるようになったのは昭和46年(1971)からである。 上湧別町でもハウス育苗が始まり、同47年(1972)には北兵村一区を中心に玉葱耕作組合が発足した。 同組合は育苗ハウスの建設や苗殖機導入に上湧別町の補助を受けたのをはじめ団地育成事業の指導産地の指定も受け、生産を逐次増やしていった。 さらに、第二次農業構造改善事業(昭和48年度~同53年度)において収穫機、移植機、コンテナなどを導入したほか、集出荷貯蔵施設を建設、玉葱の増産に拍車がかかった。 「北海道農林水産統計年報」によると、昭和47年にわずか5.4㌶しかなかった作付面積が、同50年(1975)には70㌶になり、同53年(1978)には100㌶を超え、平成3年(1991)には200㌶台に乗せ、同6年(1994)以降は300はぅ対象に達している。
 上湧別町農業協同組合の取扱い販売額は、ここ20年間で大きく伸びている。 昭和50年度に5135万1000円であったが、同55年(1980)度4億3154万円、同60年(1985)度4億884万6000円、平成2年(1990)度6億8502万5000円と増加、同7年(1995)度は15億7336万円と実に30倍を超えている。
 甜菜と同様に耐冷作物としてほぼ安定的な生産が続き、全国一の生産・出荷を誇る”北見玉葱”とはブランドが違うものの、有力な生産地を形成している。


馬鈴薯  第一次世界大戦後の澱粉価格高騰で、それまで生食用として栽培されていた馬鈴薯が澱粉原料として注目され、澱粉工場も家内工業的なものから産業組合の向上へと発展し、教育委員会右側に増反の道を歩んだ。 昭和14年(1939)には軍用酒精原料に指定され、その統制作付によって一挙に437㌶まで増加、さらに、「食糧管理法」のもとで主食として生産販売の統制を受け、戦後の食糧不足時代は、超過供出者に対する奨励金の交付もあって、まさに黄金時代であった。
 終戦の年の昭和20年(1945)は、作付面積363㌶、同25年(1950)は、400㌶を記録している。 同24年(1949)に統制が解除され、自由販売となったが、澱粉原料用、生食用、移出用として同40年(1965)ごろまでほぼ300㌶台の面積を確保していたものの、その後「北海道農林水産統計年報」によると、同50年(1975)後半まで一部の年を除いて100㌶台まで減少した。 同58年(1983)以降は200~290㌶までに回復した。 しかし、平成4年(1992)からは、200㌶前後の作付面積となっている。 消費動向や価格低迷、輪作の在り方が敏感に作付面積の増減に反映されているが、輸入外国産品(加工食品用冷凍馬鈴薯)との競争が課題である。
 上湧別町農業協同組合の平成7年(1995)度における取扱い販売額は、2億1638万円4000円で、昭和50年度の1億139万5000円に比べ2.1倍強だが、同63年(1988)度には最高の3億6042万9000円を記録している。
 上湧別町で生産される馬鈴薯は、現在ポテトチップス加工用が主体となっている。


麦類(小麦)  小麦と大麦は買いたく当初から主要な自給作物であったが、生産増加に伴い販売商品作物に転換された。 第一次世界大戦(大正3年~同7年)が終わると、輸出農作物の価格が大暴落し、3年連続の水害、凶作に見舞われ大打撃を受けた。 上湧別村農会は自給自足を指導して裸麦、小麦などの増反を推進したため、作付面積は大正10年(1921)に723㌶にも達した。 昭和に入って、作付けが最盛期に比べ半減したが、薄荷、燕麦に次ぐ主要な位置を占め、同20年代(1945~)は食糧確保のため、戦時作物だった亜麻などが大幅に後退、麦類が再び首位に返り咲いた。 sっかし、同40年代(1965~)にはアスパラガス、スイートコーン、リンゴなどに押され大幅に減反し、「北海道農林水産統計年報」によると、同51年(1976)はわずか1㌶残すのみとなった。
 小麦が再び増反傾向に転じたのは、昭和54年(1979)ごろからである。 麺類などの加工用としての需要が増えたほか、上湧別町においては、輪作体系の確立のため欠かせない畑作3品の一つとして、主要作物の位置を回復している。 「北海道農林水産統計年報」によると、同53年(1976)に14㌶であった作付面積は、同54年に85㌶に増加したあと、同55年(1980)に230㌶と大幅に増加、同62年(1987)以降は平成5年(1993)を除いて300㌶を確保している。
 上湧別町農業協同組合の取扱い販売額は、昭和50年(1975)度は統計上はゼロであったが、同55年度には2億4222万9000円と増えた。 しかし、天候不順に見舞われた同7年(1995)度は、わずか4472万3000円にまで減少した。


アスパラガス  昭和28年(1953)、北日本缶詰(株)湧別工場の勧めで、上湧別のアスパラガス栽培が始まった。 ①栽培が容易、②豊凶が少ない、③価格が安定している、④生産費が割安、⑤早春から現金収入がある、⑥病虫害が少ない、⑦災害を受けにくい、⑧生蔬菜として将来性がある、などの特色が協調され関心が集まったが、収穫が3年先であることから、最初は38戸、7.73㌶の作付けにとどまった。
 労働生産性が低いため、酪農化の傾向が一般的であった中で、地力の高い小規模経営農家を中心に増反が進み、昭和36年(1961)に23㌶まで作付面積を伸ばし、10㌃当たりの収益も約3万3800円を確保できたことでようやく定着、上湧別町でも種子や幼苗購入補助金を交付するなど奨励した。 同41年(1966)、町内の北兵村一区にホクユウ食品工業(株)が創業してからは、さらに、異常高値を呼び栽培意欲を刺激した。
 上湧別町はアスパラガスをリンゴ、乳用牛とともに三大基幹作目の一つとして位置づけ、昭和42年(1967)策定の農業振興基本計画に盛り込み、栽培目標面積を200㌶とした。 アスパラガス耕作組合や関係機関と協力して幼苗補助、倍土機補助、増産共励会の開催、増殖管理技術指導、業者との単価交渉などを推進した結果、上湧別町農業協同組合のまとめによると、同50年(1975)には195㌶の作付面積にこぎつけ、ほぼ目標を達成した。
 ところが昭和61年(1986)に斑点病が発生、「北海道農林水産統計年報」によると、10㌃当たりの収量が前年より13%近くも落ち550㌔㌘になったのに引き続き、同63年(1988)から病虫害に侵され収量はかなり減少し、さらに、安い輸入品なども加わって平成7年(1995)の作付面積は、45㌶まで減少している。 それに伴い、上湧別町農業協同組合の取扱い販売額は、昭和60年(1985)度に4億5041万3000円であったが、平成2年(1990)度には2億5899万4000円に減り、同7年度は855万9000円で昭和60年度の5分の1以下に落ち込んでいる。 かって収量全道一を誇った特産品も、いまは昔のおもかげを失いつつある。


南 瓜  上湧別町の南瓜は、昭和42年(1967)から生産・出荷が始まり、やがて生食用に加え加工用も栽培されるようになった。 しかし、稲作転換により他の蔬菜類の作付けが増えたことや全国的な生産過剰、加工冷凍製品の在庫増加などにより、価格が下落したり不安定になったため、作付けは低迷した。 「北海道農林水産統計年報」によると、同50年(1975)~同63年(1988)の間は28~70㌶の作付面積でかなりのばらつきをみせながら推移した。
 はっきりと増反傾向を示すようになったのは平成元年(1989)からで、同2年(1990)には87㌶になり、同5年(1993)には100㌶の大台を超え125㌶、同7年(1995)にはやや減って104㌶である。 このような増反は、上湧別町農業協同組合の冷凍加工用として、安定的な需要が確保されたことにより達成された。 同組合の取扱い販売額は、昭和50年度に1201万5000円であったが、平成7年度には1億6751万1000円と14倍近くにも伸びている。
 効率的で安定的な農業経営を確立するための指標として示されている営農類型の中でも、玉葱作付け主体、畑作野菜複合、野菜花卉複合、畑作法人経営のあらゆるタイプに、南瓜が大面積作付けの野菜として位置づけられ、さらに作付面積が伸びる可能性が広がっている。


豆 類  大豆、小豆、菜豆などの豆類は大正末期には、麦類に次ぐ主力農産物であり、600㌶以上の作付けが行われていた。 菜豆以外は半減したとはいえ、昭和に入っても特用作物の薄荷、水稲、麦類などと並ぶ生産を続けた。 戦後も食糧増産のかけ声のもとに作付けが奨励されたが、同40年代(1965~)以降は急速に減反が進んだ。 上湧別町農業協同組合の取扱いでは、同50年(1975)度には30㌶まで減少、同60年(1985)度にはわずか1.5㌶になった。 その後やや持ち直して平成7年(1995)度には9.4㌶の作付けがみられるが、取扱い販売額は726万円である。

玉蜀黍  玉蜀黍は飼料用や生食用として早くから栽培されていたが、昭和25年(1950)ごろから進駐軍用として新たな需要が生じたのをはじめ、各加工業者の積極的な生産活動も相まって作付けは大幅に伸びた。 同35年(1960)には、スイートコーンの栽培も始まり作付面積は72.7㌶になり、同40年代(1965~)後半から100㌶を大幅に超えた。 同49年(1974)には、156㌶と最高を記録している。 しかし、全国的な過剰生産や安い輸入品の市場参入などにより、採算ベースが合わなくなった。 そのため、上湧別町農業協同組合のまとめによると、平成2年(1990)度には55.2㌶に落ち込み、同7年(1995)度には、ついに10㌶を割ってしまい、取扱い販売額は、わずか571万7000円にとどまっている。

その他の野菜  今後有望な野菜として人参、ブロッコリー、キャベツ、ミニトマトなどが注目されている。 人参は高収益の畑作野菜として、また、業務用、加工用野菜として作付け振興が望まれている。 昭和50年(1975)度にわずか2.5㌶の作付けで、40万円程しかなかった上湧別町農業協同組合の取扱いは、平成7年(1995)度には18㌶、2006万円にも拡大し、今後も収穫機の導入による省力化、生産組織の集団化による機械・施設・労働力の合理的結合と有効活用の推進に力を入れることになっているが、既に高収益農業促進緊急対策事業で同6年(1994)に人参洗浄機を導入している。
 ブロッコリーは平成になってから上湧別町に登場したニューフェースで、上湧別町農業協同組合のまとめによると、平成2年(1990)度に3.5㌶、同7年度は一挙に増えて11㌶が作付けされた。 野菜作付けを増やした畑作経営や野菜花卉を主体とした畑作経営、組織体で大規模な畑作野菜複合経営を目指す経営にとっては、欠かせない作物の一つとして位置づけられている。 昭和63年(1988)2月、蔬菜生産組合も設立され、その組合が核となって野菜共同育苗施設を利用して、苗の共同育苗などに取り組んでいる。 さらに、移植作業の共同化を推進し、夏場を中心に道外への移出拡大に努めている。 作付面積の増大に期待が高まっているため、上湧別町も同生産組合の育成強化を目指している。
 全道的に作付面積が増えているキャベツは、上湧別町では歴史が浅い。 作付面積は、上湧別町農業協同組合のまとめによると、平成2年度2㌶、同7年度8.3㌶、同8年(1996)度6.3㌶と少ない。 ミニトマトは、ここ数年の間に栽培が始まったもので、上湧別町農業協同組合のまとめによると、同7年度でわずか約45.6㌃、同8年度40㌃に作付けされているにすぎないが、両作物とも同8年度から始まった野菜園芸価格安定事業の対象品目で普及することが期待されている。 いずれも畑作野菜複合経営のかなめとして、栽培面積の拡大、収量の増大、省力化、生産組合の組織化などが今後の課題となっている。
 このほか平成7年度の作付けでは牛蒡、ニンニクがみられる。 このうち牛蒡は3.7㌶で、昭和60年(1985)度の3㌶、平成2年度の1.9㌶に比べやや増えている。 需要動向に即した計画生産、安定出荷が求められており、適地作付け、輪作の励行、生産組織の集団化など今後の課題である。
 ニンニクは昭和20年代(1945~)後半から栽培が始まり、同41年(1966)から上湧別町農業協同組合の販売取扱いとなっている。 同48、同49年(1973,1974)ごろには20㌶に作付面積が伸びたが、同50年以降は中国産などに押され減反を続け、平成7年度には1.8㌶にとどまっている。


花 卉  最も古くから取り組んだのはチューリップである。 昭和32年(1957)に農業改良普及員の西川照憲の指導により、54戸の農家がチューリップ耕作組合を設立、本場のオランダから原種22種類6万500球の球根を輸入し栽培を始めた。 同34年(1959)には早くもカナダのバンクーバー、アメリカのシアトル、サンフランシスコに輸出、翌35年(1960)には球根輸出量が全道一に輝いた。 しかし、同41年(1966)にオランダのチューリップ球根がダンピングされ、日本からの輸出が困難となり、上湧別町のチューリップ球根の生産も一挙に衰退した。 球根生産としてのチューリップ栽培はなくなったが、同51年(1976)にチューリップが町の花に指定され、毎年70種100万本が国道242号沿いで咲き乱れるチューリップ公園に、その歴史をとどめている。
 このほか、上湧別町寒地園芸営農センターにおいて、昭和61年(1986)度からバイオテクノロジーを使った花ユリ、食用ユリの組織培養生産実験を試み、平成2年(1990)度からカーネーション、宿根カスミソウ、ストックは圃場での栽培検討試験を行っている。 同7年(1995)度から、バイオテクノロジーによるスターチス、トルコギキョウの組織培養生産実験、圃場での金魚草と1年生スターチスの栽培、ラークスバー作型展示などを行い、同8年(1996)度には切り花として有望株のトルコギキョウが6.6㌃の圃場で試験栽培を実施した。 生産者の栽培技術も確立されつつあるため、同センターでのトルコギキョウ試験栽培は、同年度で一時保留となった。
 上湧別町農業協同組合のまとめによると、花卉の作付けは、昭和50年(1975)度にチューリップを中心に0.7㌶あったが、同60年(1985)度になると花ユリなどで2㌶になった。 その後はハウス栽培に移り、花はスターチス、カスミソウに代わって主にトルコギキョウを、平成6年(1994)度から6.6㌃、同7年度は16.5㌃に作付けされている。 このトルコギキョウは、高収益が期待できる施設園芸として各種農業振興計画にも取り入れられ、消費者ニーズに対応した品種の導入や生産組合の組織化などが今後の改題とされている。


今後の課題  一般的に挙げられる課題は、①需要動向に即した計画生産、安定出荷、②合理的な輪作体系の確立、③施肥の合理化と地力の増強、④生産性と品質の向上・安定・均質化、⑤作業集団組織の強化、⑥貯蔵施設の有効利用と流通体制の安定化、などである。
 アスパラガスは、斑点病の蔓延により大幅な収量の減収を招いていることと収穫の機械化が不可能なことが課題となっている。

 
  第六節  畜 産 
topへ    (1)畜産の歩みと現況  
北海道畜産の発展  北海道の畜産は、戦後、貸付牛制度や制度融資などの施策を通じて有畜農業が推進され、生産拡大の道を歩んできた。 昭和29年(1954)に「酪農振興法」が制定されてからは、集中的に飼料基盤の整備、乳牛の導入、集送乳の合理化が進み、本格的な酪農振興が始まった。 同36年(1961)、「農業基本法」が制定され、牛乳・乳製品も選択的拡大策目の一つとして生産の増大に大きな期待が寄せられた。 しかし、乳価の安定対策が不十分であったため、酪農経営は不安定な状態に置かれ、需要の大きな伸びに生産が追いつかなかった。
 生産の拡大が加速されたのは、昭和40年(1965)に「加工原料乳生産者補給金暫定措置法」(「不足払法」)が制定されてからである。 同法は、乳業メーカーの乳代支払い能力と酪農家の再生産が可能な生産費の差を国が財政的に補給するものであった。 同35年(1960)に約18万頭であった北海道の乳用牛頭数は、同40年に30万頭を超え、同54年(1979)には生乳生産が200万㌧を超えるなどの経過をたどって、生乳生産は、平成6年(1994)に340万㌧、飼養頭数は、同7年(1995)に88万2900頭に大幅増加している。 1戸当たりの飼養頭数も、昭和35年にはわずか2.9頭であったが、平成7年には74.2頭と飛躍的に増えている。
 また、人工授精技術の向上、優良な遺伝資源の導入、牛群検定の普及などにより経産牛1頭当たりの乳量も大幅に増え、飼養頭数規模や資本装備も加えて比較すると、EC(ヨーロッパ共同体)酪農をしのぐ酪農経営の近代化を実現している。 しかし、この間の酪農経営をみると、農産物自由化政策の下で乳製品の輸入が増加した影響を受け、昭和45年(1970)ごろから生乳生産が長期間停滞した。 さらに、同54年度から始まった生産者団体による計画生産に加え、乳価の低迷などが酪農経営を急速に悪化させた。 速いテンポで実施してきた経営規模の拡大に対し、必要な投資は借入金を中心に対応してきたことも、悪化をさらに進めることとなった。 このため、昭和48年、同49年(1973,1974)と、同56年(1981)以降、固定化負債を解消することを目的とした夫妻整理阿智作が実施された。

 一方では、ガット・ウルグアイ・ラウンド農業合意に伴う世界貿易機関(WTO)の発足(1995年1月)により、乳製品の関税化など本格的な国際化を迎えて、生乳生産の70%以上を乳製品などに加工している北海道の酪農にとっては、安定した生産を確保するために良質自給飼料の生産や飼養管理技術の向上に努め、より一層のコスト低減と経営の効率化が求められている。 また、高齢化、規模拡大による労働過重、糞尿処理問題などから担い手の減少、環境問題の発生が、酪農振興に重い課題を負わせている。 その解決のためには、ゆとりある酪農技術の実現、クリーン酪農の推進が欠かせない状況になっている。
 肉用牛生産では、乳用種と肉専用種を取り扱っている。 乳用種は酪農の副産物である雄子牛資源の有効利用を図る目的で、昭和40年ごろから本格的な生産が開始された。 肉専用種は戦後間もない同20年代(1945~)後半に、開拓農家や沿岸魚家の経営を補完する目的で導入されたのが始まりである。 最初は日本短角種、その後、黒毛和種が導入され、現在では全道に普及している。 外国種ではアバディーアンガス種が同30年代(1955~)後半から、ヘレンフォード種が同40年代から導入されている。
 肉用牛飼養農家数は、昭和35年に1880戸であったが、同49年には1万150戸と5.4倍に増加したものの、同年の肉牛価格の大暴落をきっかけに減少し、平成7年には、4470戸となっている。 飼養頭数は、経営規模拡大が急速に進んだため昭和35年の3290頭から一貫して増加し、同55年(1980)に19万頭を超え、平成7年には43万400頭になり、全国一の肉用牛生産基地を形成している。


上湧別町の家畜飼養の歩み  昭和2年(1927)から始まった北海道第二期計画(20年計画)では、畑作5町(約4.96㌶)を経営する農家については、大家畜3頭(牛2頭、馬1頭)、小家畜数頭、家禽(鶏など)10羽を飼養するよう奨励されていた。 しかし、第二次世界大戦などの影響で計画は挫折し、逆に家畜郎数は減少の一途をたどった。 同22年(1947)には馬1333頭(飼養農家652戸)、乳用牛291頭(脂油農家159戸)となった。 これは同10年(1935)の馬1252頭(飼養農家641戸)、乳用牛304頭(飼養農家123戸)とほとんど変わっていない。
 現在では牛以外の家畜は、ほとんど姿を消してしまっている。 特に馬の変遷については、上湧別の歴史とも深いかかわりがある。 馬は上湧別では開拓期から導入されているが、農家1戸当たりの飼養頭数は明治40年(1907)ごろ1頭前後であったが、その後軍馬購入方針が強化され、農耕が人力から馬耕に切り替わったことなどから馬の頭数が増加、これは日中戦争の長期化による軍用馬の需要増が拍車をかけた。 戦後は「種馬統制法」、軍馬購買などの廃止で馬産は痛手を受けた。 昭和27年(1952)ごろからの食肉の高騰により一度は息を吹き返したが、同34年(1959)ごろから急速に衰退、同50年(1975)には129頭(飼養農家118戸)にまで減り、終戦直後の10分の1以下になってしまった。
 昭和51年(12976)に100頭を切って70頭(飼養農家66戸)になってからは、更に加速度的に減少、平成に入ると一桁の数字に落ち込み、農耕馬はみられなくなった。 これは農業の機械化により、馬耕の場が完全に失われたことが最大の原因であり、また、自動車の普及に伴い運搬の役割も奪われたことから、あとは食肉用や輓曳競走馬としての道がわずかに残されているだけである。
 豚と鶏については、昭和21年(1946)に上湧別村が当時増加の一途をたどっていた滞納税金対策として、「納税奨励小家畜貸付条例」を制定したことから、飼養が増加した。 この条例は農家に豚や鶏を無料で貸し付け、これを販売した代金で納税に協力してもらうというもので、同35年(1960)に豚肉、鶏卵が異常高騰したことも追い風となり、豚は、同37年(1962)に1万4000羽近くまで増え、黄金時代を迎えた。 しかし、同37年で同条例が廃止され、しかも上湧別町が農業基本計画の策定、農業構造改善事業にの実施などにより畑作や酪農の振興を重点とする施策を推進したため、同40年(1965)ごろから急速に飼養数が減少し、「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、同51年度には豚118頭、鶏110羽に大幅減少した。 そして豚は同59年(1984)度、鶏は平成7年(1995)度にそれぞれ記録はなくなった。
 昭和30年代(1955~)に上湧別町に導入されたミンクは、国内需要の増大や海外取引価格の好況などに支えられて飼養頭数増加が続き、同52年(1977)には約1万9000頭にも達した。 しかし、海外から日本への輸出攻勢が強まり、それまで防波堤となっていた輸入関税が撤廃されたこともあり、ミンク業界はあっという間に衰退し、上湧別町のミンクは平成9年(1997)現在、1業者が経営しているだけで、親ミンク約100頭、繁殖期には約4000頭を飼育している。


畜産の変遷  上湧別町酪農経営改善計画がスタートした昭和35年(1960)度は、「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、酪農家数は356戸、乳用牛は999頭、1戸当たり頭数は2.8頭、生乳生産量は2215㌧であった。 第三次上湧別町酪農近代化計画の初年度に当たる同51年(1976)の酪農家数は140戸と減っているが、乳用牛が3431頭・1戸当たり24.5頭、肉用牛が867頭・1戸当たり61.9頭、生乳生産量は8865㌧と大幅に増加した。
 その後も、数次の畜産・酪農振興計画の策定に基づき、経営の規模拡大、近代化が進められたが、昭和50年(1975)度から平成7年(1995)度までに50種以上の畜産・酪農振興事業が展開され、きめ細かな対策がなされた。 畜産振興資金貸付制度(昭和55年4月施行)、肉用牛貸付事業(同57年11月施行)、優良飼料確保対策事業補助制度(平成5年4月施行)などがその主なもので、これらの実施により飼養頭数も粗生産額も比較的順調に伸びた。
 「農業センサス・北海道農業基本調査」により、昭和50年度、平成8年(1996)度の対比でその伸張ぶりをみると、乳用牛においては飼養農家が144戸から62戸へと2分の1以下に減っているのに対して、飼養頭数は3352頭から5415頭へと約60%の増加を果たしている。 これを1戸当たり頭数に換算すると、23.3頭が87.3頭へ約3.7倍も増えたことになる。 肉用牛については飼養農家は12戸から16戸へとわずかの増加にとどまっているが、飼養頭数は706頭から1912頭へと約2.7倍の躍進を示している。 また、1戸当たりの飼養頭数も58.8頭が119.5頭へと、やはり約2倍と増えている。 経営規模拡大の傾向は、乳用牛飼養頭数別農家数の推移をみてもよく分かる。 昭和50年度には10頭~29頭飼養の農家が61.8%を占めていたのに比べ、平成8年度は30頭以上の農家が91.8%にも達している。
 畜産粗生産額も相対的に増加、「北海道農林水産統計年報」によると昭和50年の9億6800万円から平成7年の22億5800万円と2.3倍強になっているが、昭和58年(1983)以降は21~24億円台で停滞している。 多頭化飼養が急速に進む中で、上湧別町や特産農家は乳質改善、施設整備の近代化に努力を払ってきた。
 乳価については、加工原料乳の保証価格を中心に、昭和61年(1986)度以降抑制基調で決定されている。 農業協同組合の資料によると、1㌔㌘の平均乳価で同50年度に83円47銭であったが、同55年(1980)度に91円16銭、同60年(1985)度に92円79銭へと上昇している。 しかし、その後は低下して平成2年(1990)度に80円15銭、同7年度に78円36銭、同9年(1997)度に76円27銭と22年前より下がっている。 これは生産過剰と乳製品の輸入自由化によるものである。


飼料作物  上湧別町では乳用牛飼養頭数の増加につれ牧草地も拡大した。 「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、昭和20年(1945)度にわずか157㌶であったが、同40年(1965)度444.7㌶と大幅に伸びた。 乳用牛飼養頭数が3000頭を超えた同48年(1973)度には1621.2㌶になり、全耕地の約52.3%を占めた。 その後も増反の一途をたどり、「北海道農林水産統計年報」によると、同61年(1986)には作付面積で史上最高の2140㌶に達した。 平成に入ってやや減少したものの、2000㌶前後の面積を維持している。 10㌃当たりの収量も、昭和59年(1984)を例外として毎年3500㌔㌘以上を達成している。
 今後は土地の流動化による経営面積の増加を促進し、経年化した低位生産草地の計画的な整備に努めるほか、草地の整備に当たっては、土壌分析を行い適地施肥や優良品種の導入を図り、計画的に草地の改良を実施することが求められている。
 青刈り玉蜀黍(デントコーン)は、酪農振興、酪農経営規模の拡大に伴って牧草とともに作付面積が急増している。 終戦の昭和20年には141㌶の作付けがあり草地を上回っていたが、同30年代(1955~)に一度大幅減反したあと再び増加し、「北海道農林水産統計年報」によると、同50年(1975)には212㌶になり、平成3年(1991)からは500㌶台に増えている。

 飼料基盤の開発整備を進め、高栄養作物や高収量品種の導入により、グラスサイレージやコーンサイレージを主体とした栄養価の高い良質粗飼料の生産振興が求められている。 このうちグラスサイレージではアルファルファ(マメ科牧草)などの積極的な利用が課題とされている。

(2)畜産酪農振興計画  
酪農振興計画の歩み  「酪農振興法」は、昭和29年(1954)6月に制定された。 ①集約酪農地域の設定、②市町村酪農経営改善計画の制定、③生乳などの取引制度の設定、④牛乳、乳製品の学校給食など集団消費の推進、⑤乳製品の計画的保管の制度化、などがその内容であった。
 このうち集約酪農地域の設定については、指定地域にあらゆる振興政策を集中して効果的な振興を図ろうというもので、昭和31年(1956)に上湧別町も含めた遠軽地区の6町村が集約酪農地域に指定された。 これを契機として、上湧別町の酪農が戦後における発展拡充期に入った。
 上湧別町は国や北海道の酪農振興政策を踏まえて酪農経営改善計画(昭和35年度~同38年度)、畜産主産地形成計画(同37年度~同41年度)、農業振興基本計画(同42年度~同52年度)などを策定、さらに、酪農近代化計画として第一次(昭和41年度~同46年度)、第二次(同46年度~同52年度)、第三次(同51年度~同60年度)の計画を相次いで策定し、経営規模と生産の拡大を推進した。
 この酪農近代化計画は、農林省の酪農近代化基本方針(昭和40年10月)、北海道の酪農近代化計画(同41年度~同46年度)を受けて策定されたもので、上湧別町における第三次計画は、第二次計画の目標年次が完了する前の昭和51年(1976)度に10年計画としてスタートしている。 計画内容は、同50年(1975)度を基本年次、同60年(1985)度を目標年次に定め、乳用牛頭数を3352頭から5500頭へ、1戸当たり飼養頭数を23.52頭から44.4頭へ、生乳生産量を8175㌧から1万6466㌧へ、飼料自給率を73.68%から87.9%へ、それぞれ拡大するというものであった。
 ところが、酪農をめぐる情勢の変化に対応して第三次計画が途中で打ち切りとなり、第四次計画(昭和56年度~平成2年度)が策定された。 これは目標年次に乳用牛を4534頭、生乳生産量を1万7110㌧にしようというもので、飼養頭数を抑えながらも1頭当たりの生産能力を大幅に向上させる計画であった。 しかし、昭和58年(1983)に「酪農振興法」が「酪農及び肉用牛生産の振興に関する法律」へと改正されたため、同計画は2年で終わってしまった。


酪農・肉用牛生産近代化計画  「酪農振興法」の改正(昭和58年)に伴い、従来の酪農近代化計画に代わるものとして登場したのが、酪農・肉用牛生産近代化計画である。 酪農の副産物である雄子牛資源の有効活用や肉専用牛の導入を図る肉用牛の生産にも重点を置いているのが特徴であった。 この計画のねらいは、①経営体質の強化、②飼料の安定供給、③先進的な技術の開発普及、④担い手の育成・確保、⑤農業金融対策の充実、⑥消費の拡大、⑦流通の合理化、などにあった。
 第一次計画(昭和57年度~平成2年度、ただし計画認定は昭和59年度)は、乳用牛4530頭、肉用牛4130頭、生乳生産量1万7110㌧を目標に設定された。 これに対し最終年次の実績は乳用牛5094頭、肉用牛1410頭、生乳生産量1万9697㌧で、肉用牛は3分の1弱の達成率にとどまったのに対し、乳用牛頭数は564頭、生乳生産量は2587㌧も計画を上回った。

 第二次計画(平成3年度~同7年度)は、乳用牛4980頭、肉用牛3740頭、生乳生産量2万50㌧を目標に設定したが、最終年次には肉用牛5471頭、肉用牛2003頭、生乳生産量2万3943㌧という実績を残し、第一次計画と同じように肉用牛は計画目標を大きく下回ったものの、乳用牛頭数、生乳生産においては計画を超える達成率を示している。
 第三次計画は、平成17年(2005)度を目標年次とし、同8年(1996)度に策定された。 第一基幹作目である酪農経営の安定と肉用牛生産を農業の基幹として明確な位置づけを目指し、積極的な生産振興、合理化を図り、体質の強い経営を確立することが目的である。 具体的には、①安定的な生産拡大、②優れた担い手の育成、③土地利用型畜産の推進、④コスト削減による競争力の強化、⑤ブランドの確立、⑥環境問題への適切な対応、⑦多様な経営体質の育成、などを通じ、乳用牛(有限会社を含む。)を平成5年度5880頭から同17年度6346頭へ、生乳生産量も2万3268㌧から3万384㌧へ、肉用牛(西巴楽農協も含む。)も3330頭から3353頭へそれぞれ増やす計画である。
 

その他の振興計画  酪農振興は、農業全体の各種振興計画の中で畑作とともに本柱として位置づけられている。 主な計画には上湧別町農業推進協議会が策定した「上湧別農業のめざす姿」(平成6年9月)、上湧別町が策定した「農業経営基盤の強化の促進に関する基本構想」(同年10月)、「農業生産綜合振興計画」(同8年3月)がある。 それぞれが酪農近代化計画に従い整合性が持たれている。
 「上湧別農業のめざす姿」においては、酪農経営の課題として、①組織的な指導助言体制の確立、②良質な自給飼料生産の推進、③資料管理の改善、④経営管理の徹底、⑤効率的な牛群改良の促進、⑥経営支援地域システムの導入、⑦酪農ヘルパーの充実、⑧飼料生産受委託システムの育成、⑨家畜糞尿処理や飼料生産物の協業化・分業化、⑩フリーストール・ミルキングパーラー方式の導入、などを挙げ、新しい経営形態の確立を目指している。 具体的には、大規模酪農フリーストール経営(経産牛150頭)、大規模酪農繁殖・飼育経営(経産牛70頭)、乳肉複合経営(経産牛45頭、肥育素牛11頭)、中規模酪農経営(経産牛40頭)、法人経営(経産牛200頭)、肉牛専業経営(500頭)の6つの経営形態とし、1戸当たりの目標年間生産額を2922万円~1億6031万円、同所得額を770万2000円~3509万円と見込んでいる。 また、総労働時間は3119時間~2万1114時間と想定している。 そして、こうした経営形態を推進するための重点事項として、糞尿処理体制の確立、草地の整備・造成、公共牧場の整備と運営基盤の確立などが求められている。
 「農業経営基盤の強化の促進に関する基本構想」では、酪農経営の確立に向けて、科学的なデーターに基づく組織的な指導助言体制を確立するとともに、計画的な草地の更新などによる良質な自給飼料生産の推進、牛群検定成績や飼料設計に基づく飼料管理の改善、経営内容の点検・把握・分析による経営管理の徹底、遺伝評価成績に基づいた畜種の選定による効率的な卯木群改良を促進し、生産性の高い経営の実現に努める、としている。 また、経営規模の拡大に伴い、家族労働の負担が増大していることから、酪農経営を支援する地域システムの整備や新搾乳方式の導入により労働力の軽減を図ろうとしている。 そして、酪農ヘルパーの充実や飼料生産を請け負うファームコントラクト事業などの育成、家畜糞尿処理や飼料生産物の協業化・分業化を行う酪農集団の育成、大規模経営を対象としたフリーストール・ミルキングパーラー方式の導入を促進するなどを掲げている。
 「農業生産振興総合計画」においては、①飼料作物、②乳用牛、③肉用牛、の3点について生産振興方針を示している。 飼料作物は良質・低コストの粗飼料を安定的に確保し、飼料自給率の向上を図ることを基本とし、乳用牛は安全で良質な牛乳・乳製品の安定供給や生産性向上によるコスト引き下げに努めるとともに、担い手の育成やゆとりある生活の確保を目指し、さらに、肉用牛については、畑作・酪農と結びついた地域複合化を推進、地力の維持増強を図るとともに、地域内一貫生産体制の確立を図るとしている。
 このほか、糞尿処理対策も重点的に取り上げている。 多頭化飼養が進につれ糞尿の量も増加しているが、堆肥場や尿溜施設がこれに対応しきれなくなっている。 そのため、急速堆肥化・無臭か技術の導入、堆肥盤・尿溜施設の整備、畑作農家との連携による屎尿の処理、利用体制の確立を急ぐことにしている。


(3)畜産・酪農振興対策事業  
事業のあらまし  畜産・酪農振興計画などを具体的に推進するため、きめ細かく実施しているのが畜産・酪農振興対策事業である。 これは国や北海道の施策にも呼応するもので、昭和40年(1965)前後から実施されている。 同40年代はトラクター、モーア、ミキサー、ミルカー、ユニットクーラーといった酪農関連施設整備導入や牧場増反、乳質改善などの補助が中心であり、事業数は少なかった。 これらの中で乳用牛だけでなく、馬、豚、緬羊、山羊、鶏を含めた資金貸付け制度として有効利用された「上湧別町家畜貸付条例」により、町が家畜を貸し付けたものに対し、生まれた子によって返済するという”代畜納入”(子返し)方式をとっていた。 これを廃止し、現金貸付制度に切り替えた。
 振興事業数は昭和50年(1975)以降年々増加し、同40年代にはわずか10種ほどであったが、平成8年(1996)には道の事業も含め50種以上に上り、事業内容も多様化している。

 
畜産振興資金貸付け制度  「上湧別町畜産振興資金貸付要綱」は、昭和55年(1980)4月から実施された。 それまでの家畜全般を対象としていた「上湧別町畜産振興資金貸付基金条例」が、上湧別町の畜産状況にそぐわなくなったため、これを廃止して制定したものであった。 上湧別町が上湧別町農業協同組合に預けた500万円を原資として、同組合がその5倍の自己資金の融資枠を設定、一定の要件を満たした酪農家に融資するものである。 資金は、乳用牛(限度額1戸当たり200万円以内)、肉用牛(同300万円以内)、肉用繁殖牛(同300万円以内)の購入に充てられる。 上湧別町と上湧別町農業協同組合の協議で定める利率で、それぞれ1.5%の利子を補給することになっている。
 この資金の利用者は、昭和58年(1983)度の15件をピークに減少傾向にあったが、平成3年(1991)度から再び増加し、同8年(1996)度には14件の利用があり、利子の補給額は18万円余であった。


(4)新乳牛検定事業  
乳牛検定の歩み  乳用牛の経済検定は、酪農振興の基盤事業として、北欧では既に100年の歴史を持つ、日本では昭和12年(1937)に「乳牛能力検定事業奨励規則」を制定し、この制度の導入を図ったが定着せず、戦後の同25年(1950)に経済検定の憲法ともいうべき検定規程が定められた。 そして、翌26年(1951)4月から正式検定が開始されるようになった。 また、同31年(1956)、検定内容が第一種検定(経営群)、第二種検定(個体能力)に分けられ、大幅に充実した。
 上湧別町では乳牛経済検定組合が、昭和28年(1953)に発足し、毎日の記帳、月1回の立会検定により事業を推進した。


乳牛検定組合の発足  昭和49年(1974)、北海道が乳用資質向上対策事業(新乳検事業)を開始した。 上湧別町も乳牛経済検定組合の事業をこの事業に切り替え、同50年(1975)12月に12戸の町内酪農家が、上湧別町乳牛検定組合を設立して、108頭について検定を始めた。 北海道が事業主体となったこの事業は、①優良乳用牛資源の確保と選択利用、②酪農経営改善のため乳用牛の組織的な検定を行う、というもので、国の助成を受けて(社)北海道乳牛検定協会に業務を委託して行った。
 各酪農家から贈られたデーターをもとに同協会の電算センターが検定成績を出し、毎月1回各農家に提供するというシステムで、多頭化飼養の進んだ酪農経営において乳牛個体のもつ生産能力を的確に把握することができる。 その結果に基づき選択淘汰、更新を続けていくことによって牛群としての能力を向上させ、酪農経営改善、いわば生産性向上を実現しようというのがねらいである。
 長期的な酪農経営安定策として、基本的な事業であるという認識と理解が徐々に広がり、年々組合への加入戸数が増え、検定を受ける乳用牛の頭数も多頭化飼養の波に乗り加速度的に増加した。 これにより1頭当たりの年間平均乳量も順調に増加した。


(5)乳質改善  
乳質改善の歩み  上湧別町の酪農は、第二次世界大戦後、徐々に発展し、飼養頭数も増えていったが、乳質は網走支庁管内においても低く、上湧別町農業協同組合の悩みの種となっていた。 そこで同組合と農業改良普及所が核となり、酪農家に対する強制的指導を始め、各農家を回って牛乳の濾過状況、牛乳缶の清潔度、牛舎の衛生状態、搾乳の方法、牛乳の冷却などについて詳しくチェック、改善点を指摘した。 その結果、昭和39年(1964)の網走支庁管内乳質改善共励会で第1位となり、引き続き北海道乳質改善共励会でも最優秀賞(全道一)に輝くという実績を挙げた。
 ところが、その翌年からまたも乳質の低下が目立ち始め、昭和40年(1965)以降は、管内の最下位クラスに低迷したため、その大開削として結成されたのが、上湧別町乳質改善連絡協議会である。


乳質改善事業  乳質改善連絡協議会が結成されたのは、昭和46年(1971)5月である。 乳用牛の多頭化飼養に伴い、低下する一方の乳質を、なんとか改善しようと上湧別町や上湧別町酪農組合、農業改良普及所、乳業会社などが立ち上がって、生産者と一体となり乳質改善に努めた。
 上湧別町では乳質改善施設導入補助事業により昭和46、同47年(1972)度でユニットクーラーを導入したのをきっかけに、同50年(1975)には川西地区、(旭、札富美、富美、上富美の4集落)の農業構造改善事業においてバルククーラー60基を導入した。 このほかリース協会から9基を借り入れ、川西地区全戸に備えつけ、同52年(1977)には兵村・開盛地区にも39基を導入した。 こうして全酪農家にバルククーラーが配置されて、衛生管理は大きく前進した。その一方で、酪農家の庭先から直接集荷し、流通の合理化を進めるタンクローリーの導入も進んだ。 上湧別町農業協同組合のタンクローリーは同48年(1973)に2台であったが、同53年(1978)には3台となり、平成3年(1991)には4台に増車されている。 このほかにパイプライン、ミルカーの導入も相まって乳質改善が著しく向上、現在では、網走支庁管内で上位レベルに達し、全道的にも上位10位前後に位置している。
 また、各酪農家は生乳検定協会に加入、旬間1回の乳質検定を受け、成分、衛生両面においてチェックしている。 その結果に基づき、乳質の悪い酪農家にはペナルティーを与えるなどのほか、上湧別町農業協同組合では良質乳優良酪農家のひゅしょうを毎年実施している。 平成8年(1996)度の場合、上湧別町乳質改善協議会は、上湧別町、上湧別町農業協同組合、上湧別町酪農組合の助成やペナルティー反則金などを財源とする約842万円の予算を計上、洗剤配布や消毒の助成などの事業を行っている。


(6)酪農ヘルパー  
ゆとりある経営を目指して  ゆとりある農業経営の実現や生産コストの低減のため、個々の経営を支援する取り組みとして、酪農ペルパー制度や農作業請負組織などの地域システムづくりが進んでいる。 酪農経営における労働条件は、飼養頭数の拡大に伴い長時間にわたる搾乳作業が過重なものとなり、基幹従事者1人当たりの労働時間は、年間2800時間にも達するといわれている。 これは、酪農経営にゆとりが失われるばかりでなく、担い手が定着しない要因の一つにもなっている。
 酪農ヘルパーは、こうした過重な労働条件を緩和し、ゆとりある経営の実現を目指すため、酪農家が定期的に休日を取ったり、突発的な所用ができた時に、酪農家に代わって飼養管理(搾乳を含む)を行う制度である。 北海道は国や農業団体と連携し、平成2年(1990)度から4年間で酪農ヘルパー事業基金を設け、酪農ヘルパー利用組合の運営を支援するとともに、同7年(1995)度からは利用組合運営経費の助成、ヘルパー要員確保対策を実施した。 これにより同2年度に全道で23しかなかった利用組合が同7年度には約3倍の78(加入6685戸)に増え、全道的に普及・定着してきている。 組織の内訳は利用組合組織が72,農業協同組合組織が3,農業協同組合などが出資している専門の会社組織(有限会社)が3つとなっている。


上湧別町酪農ヘルパー利用組合  上湧別町と上湧別町農業協同組合の支援により、上湧別町酪農ヘルパー利用組合が平成4年(1991)2月に設立され、翌3月から事業を開始した。 酪農経験者の専任2人、非常勤7人を配置、同組合には77戸が参加した。 初年度は、あらかじめ休みたい希望日を設定する定休型、突発的に要請があった臨時型、計410.5回の稼働があった。
 その後、毎年利用回数が増加したため、平成6年(1994)度から女性ヘルパーを1人増員し専任3人体制にしたが、完全定休型に内容を充実させていくためには、専任4人体制の確立、それに伴う人件費の確保などが課題となっている。 現在定休日は、子供の夏休み、冬休みなどに伴う家族一緒のレジャーなどに利用されている。


(7)公社営畜産基地の建設  
事業の目的  酪農地帯、畑作地帯に区分されている上湧別町と、酪農畑作複合経営を主体とする湧別町は、それぞれ農業構造改善事業や土地基盤整備事業などの導入によって、施設の近代化、農業経営規模の拡大を図ってきた。 しかし、両町とも経営耕地面積が少なく粗飼料の自給率が低いことが、酪農経営規模拡大を阻む要因の一つとなっていた。
 (財)北海道農業開発公社を事業主体とする畜産基地建設事業は、上湧別、湧別両町を対象に草地造成や草地整備を行い、経営耕地面積を確保するとともに、牧草の単位当たりの生産量増大と優良粗飼料による自給率向上を図り、酪農経営の拡大と安定を実現することを目的としている。 昭和63年(1988)に計画が策定され、平成元年(1989)から同5年(1993)までの5年間で公社営畜産基地建設事業が実施された。


上湧別町の事業  上湧別町の主な事業は、草地造成改良(74.84㌶)、草地整備改良(520.1㌶)、飼料畑造成改良(2.32㌶)、飼料畑整備改良(23.4㌶)、道路整備(2190㍍)、用排水整備(用水~水槽6ヶ所、排水74.1㌶)んどのほか、隔障物整備(1まん9126㍍)、畜舎施設(13棟-1棟34.7平方㍍)、畜産綜合施設(乳・肉加工施設、バルククーラー、冷凍庫、アイスクリーム製造機など)、農業機械棟導入(本機2台、作業機18台)などで、9億3762万5000円を投入した。 こうして上湧別町では旭共同牧場の草地改良、農道の改良舗装をはじめ酪農家の草地改良や施設整備、農業機械棟の導入が実施された。

(8)町営共同放牧場  
富美共同放牧場  農業経営の酪農化が急激に進展しようとしていた昭和39年(1964)度から造成に着手、年次計画で整備を進めながら同42年(1967)から放牧を開始した。 正式な開設は、同47年(1972)になっている。 牧場区域は、通商「手拭山」を中心に富美と上富美との境をなす町有林地で、緩傾斜地が多い牧場適地である。 同49年(1974)には草地利用面積が現在と同じ129㌶まで増え、2万1031㍍の隔障物のほか給水・給塩施設、牧場内道路(5650㍍)なども整備され、2棟の管理棟では各種検査、防疫事業が計画的に実施された。
 しかし、草地の状況が悪いため、昭和55年(1980)度から5年計画で道営の草地整備改良事業を導入、草地造成改良(11.32㌶)、草地整備改良(114.2㌶)、道路整備(258.5㍍)、用排水施設整備(用水2416.9㍍、排水0.4㌶)、隔障物整備(2万5221㍍)などを行った。 事業費は、3億1315万円であった。 これにより富美牧場の整備は大きく前進した。


旭共同放牧場  乳用牛に肉用牛も加わり飼養頭数が昭和48年(1973)ごろから急激に増加してきたため、富美放牧場が開設されていたとはいえ、酪農家の要望を十分に満たすことができなくなった。 上湧別町の酪農は、諸規模経営で、経営面積が小さいので飼料の自給率が低く、その分公共的な牧場への依存度も高かった。 そこで資料購入によってかさむ支出を改称し、飼料の安定的供給を得ようと有志酪農家10人が同51年(1976)、農事組合法人旭牧場を設立した。
 牧場造成は、旭地区から富美地区にわたる林地で昭和52,同53年(1977,1978)度で国営農地開発整備事業を導入して行った。 さらに、同52,同53年度に優良牧草導入事業(播種、127.51㌶)、同53,同54年(1979)度に地域農政整備栽培飼養管理施設事業(隔障物2まん2557㍍、追い込み柵3ヶ所、水飲み場6ヶ所、集降台2ヶ所、看視舎1棟)をそれぞれ活用し、施設整備を行った。 事業費は、4862万円であった。 同54年6月から開設され、毎年酪農家を対象に200~300頭を受入、道56年(1981)からは人工授精・鑑定業務も行っている。
 しかし、法人としての牧場経営状態は厳しかった。 管理人賃金、肥料代など管理費の方が放牧料、人工授精手数料、地方競馬全国協会からの補助金などによる収入を上回り、毎年赤字経営を余儀なくされ、赤字分には上湧別町からの借入金を充てていた。 この借入金は毎年500~600万円にもなり、昭和63年(1988)までに累積赤字は8000万円を超えた。 その返済のめどが立たないうえ、造成にかかった国営農地開発整備事業の負担ものしかかってきた。 造成以来10年以上経過した草地は、改めて改良整備を迫られる状況となっていたのである。 そこで、それらの抜本的対策として農事組合法人旭牧場が所有地を上湧別町に売却、町からの負債を返済したあと、牧場を町営に移管することが決まり、平成元年(1989)に町営移管となった。
 町営移管と同時に実施された公社営畜産基地建設事業(旭共同放牧場関係は平成元年度~同5年度)では、草地造成(11.32㌶)、草地整備改良(114.2㌶)、用排水整備(用水~水槽3ヶ所・排水~0.4㌶)、道路整備(2190㍍)のほか、隔障物整備(8607.2㍍)、追い込み柵(2ヶ所)、人工授精舎建設(1棟34.7平方㍍)などを行っている。 事業費は1億3749万5000円であった。 これにより183㌶の放牧場面積のうち草地は127㌶になった。
 町営放牧場が富美、旭の2ヶ所になったことで、その役割分担が明確化され、富美は一般牛、旭は人工授精牛に分けられた。 また、両放牧場間で乳牛の移動が可能になり、有効活用により1頭でも多く放牧できるようになった。 さらに、放牧料金を低く抑えることが、酪農化の経営安定と体質の強化に寄与することにもなっている。


入牧奨励制度  町営共同放牧場の効率的活用に向けて、入牧の奨励を通じて酪農経営の安定を図ろうと、平成6年(1994)に「上湧別町共同放牧場入牧奨励補助要綱」が制定された。 補助の対象は、その年度において放牧場に放牧する牛、馬の頭数が10頭を超える頭数に対する分で、放牧日数が100日以上であり、放牧使用料完納者としている。
 この制度は平成8年(1996)度まで3年間実施され、同6年度18戸・34頭、同7年(1995)度20戸・146頭、同8年度19戸・127頭の適用があったが、入牧奨励の趣旨がある程度浸透したため、同9年(1997)度に廃止された。


(9)ホルスタイン共進会  
 綜合家畜品評会は昭和25年(1950)から催され、乳用牛のほか、馬、豚、緬羊なども出陳され、全盛時代は300頭以上の優秀な家畜が体型、能力などを競った。 しかし、上湧別町の家畜が酪農一本に絞られてきたため、同46年(1971)装いを新たに上湧別町ホルスタイン共進会に切り替えられた。
 第1回ホルスタイン共進会は、昭和46年から、富美特設会場で開かれ現在に至っている。 乳用牛の増殖、資質の向上などを目指す酪農振興対策の一環として、年に一度の酪農の祭典の一つとして、すっかり定着してる。
 上湧別町における共進会には、例年100頭前後の乳用牛が参加している。 このうち上位に入賞した牛は網走支庁管内綜合家畜共進会や北海道ホルスタイン共進会などに出陳されるが、毎年のように全道共進会でも優秀な成績を収めている。 その中でも富美の竹内一徳は2度にわたり全国共進会に出場し、2度とも最高位を獲得している。 まず昭和56年(1981)に、ヘンドリカ・ブラウンデール・ローヤルにより未経産の部で最高位(優秀賞1席)、平成2年(1990)にはローヤル・テルスター・エリックにより優等賞3席を獲得した。 翌3年(1991)にも同じローヤル・テルスター・エリックで全道ホルスタイン共進会の経産の部で最高位という素晴らしい成績を収め、酪農上湧別の名を高めた。 全国共進会は5年に1回しか開かれないので、それだけチャンスは少ない。 竹内の全国最高位2度というのは、貴重な記録といえる。


(10)装蹄業  
装蹄業の歩み  明治の開拓時代から屯田市街地で長谷川幸八らが装蹄業を営んでいた。 その後大正7年(1918)に東山鷹次郎、長谷川の徒弟、上家能等、昭和11年(1936)に高橋勲がそれぞれ屯田市街地で開業している。 上家と上家の2男、玄司、それに高橋は戦後の装蹄業の発展に尽くした人物として知られている。
 それまで鍛冶、板金と一緒に上湧別村工業組合に加入していた装蹄業者10人は同組合を脱退、昭和15年(1940)に湧別装鉄組合(上湧別村4人、湧別村6人)を結成した。 同17年(1942)ごろから軍馬の装蹄、削蹄が忙しくなったが、上湧別村における技術の良さは高く評価された。 しかし、戦時体制が進につれ、鉄、蹄丁などの物資が不足となったため、網走支庁管内全市町村の装蹄師がまとまり北見装蹄会を設立、時局に対応した。
 終戦後の経済、社会の混乱がほぼ落ち着いた昭和27年(1952)ごろ、北見装蹄会は斜網、北見、西紋別の4地区に分離されることになり、遠軽地区(上湧別も含め7町村)は、北海道装蹄会遠軽支部と名付けられた。 同40年(1965)、札幌市で開催された全道装蹄師競技会に遠軽支部代表として参加した上家玄司(屯田市街地)、山口文男(中湧別)は、上家2位、山口3位という好成績を収め、上湧別町の名を高めた。


牛の削蹄  昭和25年(1950)ごろまで牛よりも圧倒的に多かった馬の飼養頭数は、年々減少し、同37年(1962)を境として完全に逆転、同40年(1965)ごろには牛の3分の1以下に減った。 一方、牛は同37年以降1000頭台、同41年(1966)には2000頭に達し、さらに増加する勢いであった。 このため同41年から高橋、上家、山口らに湧別町の若杉茂が加わり、牛の削蹄にも乗り出すようになった。 酪農化の牛舎まで出向いて削蹄を行うので、それまでのように牛を1頭ずつ枠場まで引いて行く必要がなくなり、喜ばれた。 この保定式削蹄が高く評価され、同42年(1967)から雪印乳業(株)が向上管下の酪農化に1頭につき100円の補助(当時の削蹄料500円)が出されるようになった。 このため、仕事は上湧別町ばかりでなく、管内各地へと広がっていった。
 保定式削蹄が定着したのに伴い、昭和49年(1974)1月、網走支庁管内の業者を集めて網走管内畜牛削蹄推進組合が結成された。 さらに、同51年(1976)全国で初めて企業組合として法人化し、名称も網走管内畜牛削蹄企業組合と改めた。 この組合名はその後、北見削蹄企業組合と改称されている。 また、上湧別町農業協同組合、上湧別町農業共済組合、北見家畜保健所などの指導もあり、同62年(1987)2月に上家玄司が有限会社北海道畜牛削蹄センターを設立し、現在に至っている。

 
  第七節  農業後継者 
    厳しい担い手確保  わが国最大の農業地帯でもある北海道においても、後継者のいない農家の増加や、新規就農者の減少などから、農家戸数や農業労働力が減り、農村の高齢化が深刻の度合いを増している。 北海道農業の発展や地域社会の活性化を図るうえで、若者を中心とした意欲あふれる担い手を確保・育成することは重要で、しかも緊急の課題となっている。
 上湧別町においても、こうした農業事情は全く同様であり、農業担い手確保対策が基幹産業である農業振興計画の柱の一つに位置づけられている。
 平成6年(1994)に策定された上湧別町農業推進協議会の「上湧別農業のめざす姿」においては、「各地で農業者の高齢化や兼業化が進む一方、若い就農者が年々減少する傾向にあり、農業の担い手問題、花嫁問題が深刻化している。 農業に担い手を育成、確保するためには高齢化農家、兼業農家も含めた地域農業の経営や農地の利用について話し合い、合意づくりを勧め、農地利用を意欲ある農業者に集積するなど農地の有効利用と農業経営の確立を図る。 配偶者対策については、結婚相談者を窓口にして各種団体、関係機関の協力を得て進める」と重点推進課題の一つに掲げられている。
 また、上湧別町が平成8年(1996)に見直した農業生産綜合振興計画においても、「農村青少年集団活動の助言・指導や農業後継者の育成指導を効果的に行うため、指導農業士・農業士に対する研修会の開催や先進地視察を行う」「担い手の確保・育成を図るため、農業に泣いて育成センターと関係機関との密接な連携の下で推進体制を整備する、また、農業後継者奨励金の貸し付けなどの助成を継続し支援する」「農業生産の担い手となっている女性の健康で快適な労働環境を実現するために、農業労働や作業環境の改善のための活動を支援する」と経営体を支える人材の育成確保方針が示されている。 このほか、上湧別町では収益性の高い地域農業を目指して野菜や花卉などの労働集約的な作物の導入が進められて、これらを支える貴重な働き手として高齢者の活躍にも期待が寄せられている。
 上湧別町が平成6年6月に実施した農家に対するアンケート調査(調査対象は畑作128戸、畜産72戸、うち回答は畑作73戸、畜産66戸)によると、世帯主の平均年齢は畑作51.6歳、畜産44.9歳、後継者の平均年齢は畑作28.7歳、畜産25.6歳であった。 農業経営者の平均年齢は、30歳以上59歳以下とされる中核的農業者の範囲内に入っているが、全体的に高齢化が進行していることは否定できない。 しかも農家人口のうち満16歳未満の者は年々減り続けている。「農業センサス・北海道農業基本調査」によると、昭和51年(1976)度には461人であったが平成7年(1995)度には202人と半数以下に減少、その構成率も21.4%から16.49%に低下している。 また、農家1戸当たりの満16歳未満の人数も0.96人から0.71人に減り、少子化現象が後継者確保を困難にしていることがうかがわれる。


上湧別町4Hクラブ  農村青少年4Hクラブは、「農業改良助長法」(昭和23年公布)に基づき、優秀な農業後継者の育成と農業の近代化推進の中核者養成を目的に全国各地に結成された。 上湧別村では昭和24年(1949)に「農業改良事業条例」を制定している。 上湧別町4Hクラブの前身となる地域4Hクラブは、同26年(1951)ごろから札富美、富美、四の三、開盛などに結成され、網走支庁管内農村青少年クラブ連絡協議会に参加、プロジェクト発表大会、サマーキャンプ、技術交換大会などのほか文化、生産活動を積極的に展開した。
 農協青年部の結成をはじめ酪農青年研究連盟、果樹協会青年部など生産団体青年部の活動が活発になった一方、昭和30年(1955)以降の高度経済成長により、優秀な農村青少年の他産業への流出や一家を挙げての離農もあり、一時10ヶ所にあった地域4Hクラブは会員が減少の一途をたどり活動も停滞した。 そこで同32年(1957)、町一つの上湧別町青少年団体協議会を結成し町内の統合を図った。
 ところが、農業の専門分野で独自の活動展開を通して農業の活性化を図ろうとする気運が高まり、昭和45年(1970)に、町内唯一の農業後継者グループとして上湧別町農村青少年4Hクラブが再発足した。 当初は13人の農業青年でスタートしたが、その後参加者も増え、同59年(1984)以降町内の農業青年の80%以上が加入、高い組織率を誇っている。 東紋東部地区農業改良普及所(現ゆう、湧別地区農業改良普及センター)の指導を受けながら、毎年、農業技術の向上や経営技術改善のための研究・実践活動を続けるとともに、地域に根ざしたボランティア活動に取り組むなど、その優れた活動は各方面から高い評価を受けている。

 特に畑作と酪農の2班に分かれて行っているプロジェクト活動は注目を集め、甜菜糖分の向上や収量増、年間乳量の大幅増など生産向上に結びつく研究、資料づくりなどで目覚ましい実績を挙げた。 これらの活動が評価されて網走支庁管内、全道のプロジェクト発表大会では常に優秀な成績を収め、昭和61年(1986)度には北海道青年農業賞を受賞した。 さらに、同62年(1987)度には全国農業会議所などが主催の「若い農業者グループ活動コンクール」で道内では初めて、最高位の内閣総理大臣賞を受賞した。
 プロジェクト活動のほか、地道なボランティア活動にも力を入れており、独り暮らしのお年寄り宅の除雪や湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会など全町挙げてのイベントの裏方として活躍している。 また、東山に持っている実験圃場に上湧別の小学校4年生を招いて、馬鈴薯の植え付けから収穫まで一緒に行うなどの体験学習も実施している。 また、平成9年(1997)5月、上湧別保育所の年長組17人と開盛保育所の7人の24人が上湧別町寒地園芸営農センターの畑で、4Hクラブ畑作部会の指導で、ニンジンやスイートコーンの種まきと南瓜の苗の移植をした。 今後は4Hクラブが草取りや肥料の散布などの管理をし、子供達は作物の生長の様子を観察する。


農業後継者の結婚推進  若い農業後継者不足の一因が、お嫁さんに来てくれる女性が少ないことにあるのは否定できない。 上湧別町においては、昭和44年(1969)に「農業後継者の結婚推進要領」を制定し、町内に居住する未婚の農業後継者の結婚を推進した者や、結婚する者に記念品を贈呈した。 この要領は、平成7年(1995)4月に全面改定され、「農業後継者の結婚祝金贈呈要領」として、後継者で新たに結婚する者だけを対象に、記念品ではなく結婚祝金1万円を贈呈することにした。 さらに、同9年(1997)4月の改正で結婚祝金を3万円としている。
 また、昭和48年(1973)4月から上湧別町役場内に上湧別町農村青年結婚相談所を設置、各地区ごとに農業委員会会長委嘱の相談員を置いて結婚推進に努めている。 同相談所は、①農村青年男女の結婚に関する調査、相談、斡旋、②結婚祝賀会の簡素化、合理化などの啓蒙指導、③その他目的達成に必要なこと、の業務を行う。 相談員には相談所の趣旨を理解し、媒酌の経験豊かな者に委嘱している。 また、相談員に対しては活動の状況により報償金を贈呈している。
 このほか昭和49年(1974)4月から「農業後継者住宅改善補助要領」が施行された。 これは、平成7年に全面改定され、家族と同居する農業後継者が結婚するために住宅の改善を必要とする者に対して、改善資金を補助することにより結婚後の生活安定と農業経営の確立を図ることを目的としている。 現在は、増改築費用が40~100万円の場合、10万円、100万円を超えた場合20万円を補助している。
 昭和50年(1975)度以降の結婚推進実績は、10件以内の範囲で年ごとに増減を繰り返しているが、農業人口の総体的な現象を反映して全体的には減る傾向にあり、平成8年(1996)度はわずか3件にとどまっている。 こうした厳しい結婚情勢の中でフィリピン女性を対象とした国際結婚推進にも努力が払われ、同6年(1994)5組、同9年1組のカップルが誕生、農村花嫁となったフィリピン女性も地域に溶け込んで農業振興の一翼を担っている。
 平成9年1月1日現在、上湧別町内には20歳~38歳までの配偶者のいない農業後継者は32人で、同8年度から女性週刊誌に農村花嫁募集広告を掲載したり、花嫁候補となり得る女性を対象とした農業体験事業を行うなど、初めての試みにも取り組んでいる。 このうち農業体験については、同7年に「上湧別町農業体験実施要領」を制定、同年から同内外の関係機関、団体、報道機関の協力を得て全国的に18歳以上の心身ともに健全な助成の農業体験希望者を募集している。 希望者から照会があった場合は、上湧別町結婚相談所が窓口となって手続きを進め、上湧別町農業協同組合が配偶者を求めている受入可能な農家を決定し、農業の実際を体験(原則として1ヶ月以上)してもらうという事業である。 実習作業は畑作の場合が植え付け、草取り、収穫など、酪農の場合は牛の飼養管理、搾乳などの補助的軽作業で、体験実習生に対して農家から日当3600円が支給される。 上湧別町からは旅費(実習1ヶ月未満片道分、1ヶ月以上往復分)が助成される。


農業後継者奨学金交付制度  有能な農業後継者を育成するため、長期間就学、実習、研修する者に奨学金を交付する制度で、昭和45年(1970)度から実施している。 これまで3度の一部改正が行われているが、月額交付額は、平成9年(1997)現在で、大学の農業科に就学する者7000円、農業講習所に就学する者5000円、農業高等学校・高等学校農業課程に就学する者6000円、その他実習生、研修生として農業関係機関において研修する者5000円となっている。
 昭和50年(1975)度から平成8年(1996)度まで22年間でこの奨学金を受けたのは、延べ168人に達している。 実人員では68人で、その内訳は高等学校23人、大学・短期大学・専門学校45人である。 この制度を利用する者は、昭和56年(1983)度の18人をピークに減少傾向にあり、特に高等学校に就学する者が少なくなっている。
 奨学金交付制度とは別に、昭和61年(1986)度に開設された酪農学園上湧別農業経営短期大学校(1年間)の授業料助成制度も実施した。 同短期大学は、農業経営に必要な専門知識と技能を修得しようとする農業青年を対象に上湧別町内で実施したもので、講師は、酪農学園大学(江別市)から招いた。 54人の受講生に対し、授業料の2分の1を助成したが、上湧別町と上湧別町農業協同組合がそれぞれ1人当たり7500円、合わせて1万5000円を負担した。 受講者は農業関係の大学、高等学校の卒業者のほか一般の大学、高等学校卒業者などで、農業を実践しながら生きた知識と技術を吸収した。


農業青年海外派遣  昭和50年(1975)10月から施行された「上湧別町農林商工業青年海外派遣要領」の中で農業青年海外派遣が実施されてきたが、この要領は国際化時代にふさわしい事業に転換しようと平成3年(1991)7月に廃止され、新たに「上湧別町海外派遣事業実施要綱」が制定された。
 新たな要綱は、派遣対象を18歳以上の学生、勤労青年、商工青年、農業青年、婦人とし、学生や一般の婦人などにも幅を拡げた。 また、国や北海道などが計画する事業のほか、自主的な海外渡航計画にも道を開いた点が特徴である。 補助額は必要経費の2分の1(上限50万円)だが、国、北海道などが計画した事業で費用の負担区分が決まっている場合は、その額としている。 農業青年の場合、平成8年(1996)度までの派遣人員は42人で、昭和54年(1979)度の14人を除いては、毎年1~3人である。 行き先はアメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドが多い。

 
  第八節  農業機械 
    北海道内の動向  道内における農業機械の需要は、昭和55年(1980)度をピークに総体的に減少していたが、やがて増加傾向に転じた。 これは農産物価格の低迷などから利用年数を延長していた農業機械が、更新時期に達したことや、生産規模の拡大、生産性向上へ意欲が高まったとことなどによるものとみおられている。 同60年代(1985~)に入ると、中古農業機械の需要が高まり成約、販売金額とも年々増えている。 平成2年(1990)から北聯中古機械情報システムも稼働して、飼養されていない中古農業機械の種類、価格などの情報が容易に入手できるようになっている。
 最近の農業機械の特徴は、田植機の移植装置の高速化、コンバインの汎用化で、トラクターについては収穫作業の大型化などに伴い高馬力化、四輪駆動の導入が進んでいる。 全体的に農業機械の高性能化、汎用化の傾向が強まる中で、基本的機能を重視しながら廉価でシンプルな機械の需要も高まりつつある。 生産コストを低減し生産性向上を図るためには、農業経営費に占める割合の高い農業機械の経費を低く抑えることが重要な課題であり、経営規模に見合った能力の機械やシンプルな機械の導入が求められている。
 また、農業機械銀行方式による効率的利用や共同利用組合の整備を進めるほか、維持管理の徹底による利用年数の延長、中古農業機械の有効活用などを一層促進することが重視されるようになっている。


上湧別町の農業機械  上湧別町内の農業機械の個人農家所有状況をみると、動力耕耘機・農用トラクターは、昭和50年(1975)度に283戸が334台所有していたが、平成7年(1995)度には268戸が776台を所有、1戸当たり1.18台から2.9台に増えている。 そのうち歩行型は台数がほぼ横ばいであるのに対し、乗用型30馬力以上の増加が著しく、大型化、高馬力化が急速に進んでいるといえる。
 かって大活躍した双光型動力防除機、動力噴霧機、動力散布機は昭和50年にはほとんどが姿を消し、その代わりにフォレージハーベスター、ヘイベーラー、ビートハーベスター、ポテトハーベスター、乗用型スピードプレヤーなどが登場した。 平成7年度現在で動力耕耘機・農用トラクターに次いで多いのは、動力防除機86台、ビートハーバスター45台、ヘイベーラー40台、乗用型スピードスプレヤー23台、フォレージハーベスター22台などである。 一方、酪農用のミルカーは昭和50年度にはバケット型が圧倒的に多く、138戸が223台を所有、パイプライン型はわずかに1戸・1台だけで、平成7年度にはバケット型が23戸・29台、パイプライン型が64戸・64台となり、完全に逆転している。
 数戸の農家が共有している農業機械のうち近年増加傾向にあるのは、わずかにポテトハーバスターだけで、昭和60年(1985)度、平成2年(1990)度に各2台であったのが、同7年度は17台に増えている。 昭和55年(1980)度に110台も導入されていた動力耕耘機・農用トラクターは、平成7年度に33台に減少し、ビートハーバスターも平成2年度11台あったのが同7年度は1台になっている。 これは、経営規模の拡大や播種時期・収穫時期の一時集中などにより、農業機械の共同所有が困難になり、個人所有となってきているためである。

 
  第九節  肥 料 
    近年の動向  全道的にみると、化学肥料の流通量は、総体的に横ばいで推移している。 肥料の種類別では、複合肥料は全体として年によって多少の増減があるが、そのうち粒状配合肥料が増加し、やがて化成肥料に取って代わる勢いである。 粒状配合肥料が増加したのは、化成肥料に比べて安いことが第一に挙げられる。 単肥は、若干減る傾向にある。 また、消費者の健康・安全志向を背景として生産者が地力の維持、増進に対する関心を高め、有機農業の取り組みが増加したこともあって、近年は鶏糞堆肥や汚泥肥料などを含め有機質肥料が増えてきているのも大きな特徴である。
 肥料価格は輸入原料が多いため為替レートの変動に左右されるが、道内においてはホクレンが生産コスト低減対策の一環として、全国農業協同組合連合会を通さず道内メーカーと直接取引による特別対策を実施、これにより総体的には肥料価格は低下傾向にある。 さらに、肥料にかける費用を低減するため、土壌診断の活用による適正な施肥の指導や有機物の投入による土づくりに力を入れている。
 上湧別町においても、必要のない要素まで混入されている既製複合肥料に見直しが進み、土壌診断などで明らかになった自分の畑に適した要素だけ単肥で補完したり、土壌に合った作物の選択を行い、コスト削減に努めている。 また、畑作と特産の分離により、有機肥料の投入が減って地力の低下が著しく、そのうえ大型農業機械の踏圧などにより土壌の物理条件も悪化している。 このため緑肥作物の導入、畜産農家との連携強化に基づく有機質肥料の投入などを勧め、地理木向上対策や連作障害回避対策に取り組んでいるが、まだ十分とはいえないのが現状である。
 上湧別町寒地園芸営農センターでは、昭和44年(1969)の設置当初から土壌診断事業(昭和60年からは東紋東部土壌改良普及所に移管)を実施、このほか肥料効果試験、土壌改良試験、施肥試験、追肥効果確認試験、有機質入り肥料施肥実証展示、堆肥効果確認試験、窒素施肥改善試験などを行い、合理的な施肥の在り方を推進している。
 上湧別町農業協同組合の肥料取扱額は、昭和50年(1975)に約2億571万円であったが、農産物生産額の上昇と伴に増加、同55年(1980)に約2億7718万円、そして同60年(1985)には約4億8288万円に達した。 しかし、その後は減少をたどり平成2年(1990)約3億681万円、同7年(1995)約2億5543万円となっている。


自給肥料増産施設  第二次農業構造改善事業の中で建設された、バーグ堆肥の生産施設がある。 昭和52年(1977)に建物一棟(218.7平方㍍)と堆肥盤一基(3047平方㍍)が、4438万8000円の事業費で建設された。 生産性の高い自立経営農家の育成に欠かせない土づくりの一環として、上湧別町農業協同組合が事業主体となって導入を図ったものである。
 この施設では、おが屑と屎尿処理汚泥を混ぜ、発酵させて生産した。 その後、おが屑の価格が高騰したため、記を砕いたものを利用したり、牛舎などで使用した敷き藁を混入した。 当初は年間2000㌧程度が生産され、1500㌧ほど利用されたが、一時は2倍の約3000㌧の需要があり、完熟した牛糞の堆肥、縁肥とともに土づくり、、生産コスト低減の役割を果たしてきた。 最近、バーグ堆肥はコスト高のため、販売が落ち込み、平成9年(1997)度は事業を中止、今後の検討課題としている。
 酪農で生産される牛の糞尿は、すべて飼料畑に還元されるのが望ましい。 多頭化飼養が増えて、多くは堆肥とされているが、堆肥場、尿溜施設が十分整備されていない。 尿は有害物質を除いて発酵させ、堆肥は切り返して発酵させた後、圃場に散布することによって有効利用することが、畜舎周辺の環境整備にも役立つものと期待されている。 このため、家畜糞尿の急速堆肥化や無臭化技術の導入、堆肥盤・尿溜施設の整備、畑作農家と酪農化の連携による糞尿の処理・利用体制の確立が、今後の課題となっている。

 
  第十節 農 薬 
    近年の動向  道内向け農薬の出荷量は、昭和60年(1985)度をピークに減少、あるいは横ばい傾向にある。 しかし、農薬の使用量は、病害虫の発生状況に左右されることが多い。近年登録されている農薬は、農産物の安全性に対する消費者の関心の高まりを反映して、低毒性のものが増加している。 また、農業生産の場においても適正な輪作、過剰な窒素施用の回避、抵抗性品種の導入などの防除を実施するようになったほか、病害虫の防除の実施に当たっては、病害虫発生や予察情報などを活用するとともに、農家の圃場観察による適正で効率的な農薬使用に努めている。
 上湧別町では、昭和50年(1975)以降もリンゴの腐乱病やアスパラガスの斑点病などの大きな被害を受け、現在、リンゴは試験栽培程度となり、アスパラガスは大幅な減反を迫られるという痛い経験があった。 このため上湧別町寒地園芸営農センターでは、馬鈴薯のそうか病防除試験をはじめ、防除剤処理試験、アスパラガス斑点病防除試験、玉葱軟腐病防除効果確認試験などの取り組んでいる。 こうした試験を踏まえて抵抗性品種の導入や密植を避けたり、天敵の昆虫を使った生物的防除法などを導入した対策を組み立てるなど、できるだけ農薬に頼らない防除の推進を目指している。 しかし、上湧別町農業協同組合の農薬取扱額は、増加の一途をたどり、昭和50年約6430万円、同55年(1980)約6746万円、同60年約8274万円、平成2年(1990)約1億2089万円、同7年(1995)約1億8684万円となっている。


クリーン農業の推進  上湧別町農業推進協議会が、平成6年(1994)9月に策定した「上湧別農業のめざす姿」においては、「消費者ニーズに応え、クリーン農業の展開を図ることが必要になってきた」と能魚いう情勢をとらえ、重点推進課題の中で地理木向上への取り組みと糞尿処理対策を取り上げている。 また、上湧別町が同8年(1996)に見直した「農業生産綜合振興計画」でも、生産に際しての環境保全に関する指針を示し、農薬・化学肥料の適正使用と新技術の導入を強調、安全でおいしく、良質の農畜産物の生産を目指すことに重点を置いている。
 北海道は、平成3年(1991)年度から環境調和型農業(クリーン農業)推進事業を推進している。 この事業では有機物の施用などによる土づくりに努め、農薬や化学肥料の使用を必要最小限にとどめるなど、環境との調和に配慮した安全・高品質な農産物の生産についての取り組みを積極的に宣伝し、消費者の幅広い理解と支援を得ながら、北海道農産物全体の販売の拡大を目材している。
 クリーン農業を推進するための技術開発については、従来の肥料・農薬を効率よく利用し、収量・収益を高めることのみ重視した農業経営を改め、多様な防除技術の確立、有機物を利用した新しい施肥管理の確立、環境に配慮した家畜糞尿堆肥化技術の開発などを進め、農薬・化学肥料の3割減と、3つの品質(安全・食味・栄養価)の向上を実現することをねらいとしている。 そうした試験研究に早くから取り組んでいる上湧別町寒地園芸営農センターの実績は、高く評価されている。


 
  第十一節  農業金融と年金 
topへ    農業金融  農家が行う資本の調達・運用に関する金融取引には、主に①制度金融、②系統組合金融、③一般金融の3種類がある。
 制度金融は財政投融資によるもので、農林漁業金融公庫が行う融資、農業改良資金など国や地方自治体の財源を原資とする融資、あるいは農業近代化資金や天災資金のように系統組合の資金を原資として、国や地方自治体が利子補給を行うものなどがある。
 系統組合金融は、農家の預貯金を単位農業協同組合、都道府県の信用農業協同組合連合会、全国組織の農林中央金庫を通じて有価証券や他の金融機関への預け金として運用、それとともに農家も利用する金融である。
 これらに対し一般金融は、市中銀行などを利用するもので、最近の傾向としては制度資金の割合が年々減り、系統組合資金や一般市中銀行などからの借入れが増加しつつある。
 系統組合金融の主なものは、貸付けの形式、期間などによって組合員勘定(クミカン)、短期資金、長期資金に分けられている。 組合員勘定は、営農計画に基づき一定の限度を設けて、その年の営農資金や生活資金を供給するもので、1年以内に精算することになっている。 短期資金は、貯金、農産物出荷品を担保として、建物、施設、農機具、家畜購入などに必要とする資金や制度資金、公庫資金などのつなぎ資金、それに生活資金などで、貸出期間が1年以内のものをいう。 さらに、長期資金は、建物、施設、農機具、家畜の購入などに必要とする資金や制度資金・公庫資金などの自己負担として必要とする資金などで、貸出期間が1年以上のものである。
 上湧別町農業協同組合のまとめによると、金融店舗が取り扱っている貯金、貸出しとも毎年大幅に伸びて、平成8年(1996)2月期で貯金80億4000万円、貸出し39億400万円となっている。 また畜産振興資金の貸付け残高は同8年現在で14件、902万8000円である。


農業者年金  「農業者にもサラリーマン並の年金を」という農業者の強い要望を受けて、「農業者年金基金法」が昭和45年(1970)5月20日に公布され、翌46年(1971)1月1日から業務が開始された。 ほかの公的年金制度と同じように、被保険者の負担と国庫補助によって老後の生活安定を図るほか、経営移譲を通じて経営の若返り、経営規模の拡大、優秀な経営者の確保という農業構造改善の推進に役立たせようという特色も持っている。
 この年金制度は、経営譴責2㌶以上の農業経営主(当然加入)、経営面積1㌶上2㌶未満で年間労働時間700時間以上の農業経営者、農業生産法人の常時従事者である構成員、経営面積2㌶以上の農業経営主の直径専属の1人である後継者(以上、任意加入)を加入者とし、経営移譲年金、農業者老齢年金、脱退・死亡年金のほか、離農給付年金が給付される。
 制度の柱となる経営移譲年金は、保険料納付済期間が20年(年齢に応じて5年~19年に短縮)以上ある者が、65歳になるまでに経営移譲したときから支給される。 老齢年金は、経営移譲した者が65歳に達した時に支給されるが、離農給付金の場合は、高齢などのため制度発足当時年金に加入できなかった者が、離農した場合に支給される一時金で、5年以上農業を経営し、基準日において100㌃以上の自己所有地があり、農地処分の相手方が第3者でなければ対象にならないことになっている。
 年金制度は逐次内容の充実が図られ、平成8年(1996)4月1日からは、夫とともに農業に専従し、実質的に農業経営を担っている女性にも初めて加入の扉が開かれたほか、農業後継者の加入要件と後継者以上要件の緩和、特定譲受者の範囲拡大、年金額の引き上げなどが実施されるようになった。


 
  第十二節  関係機関・団体 
    (1)農業委員会  昭和26年(1951)3月に制定された「農業委員会法」(現、「農業委員会等に関する法律」)は、農業生産力の発展と農業経営の合理化を図り、農民の地位の向上に寄与することを目的としている。 それまでの農地委員会、農業調整委員会、農業改良委員会を解体し、公選による委員15人と市町村長が専任する学識経験者5人による新たな農業委員会が発足したのである。
 農業委員会の業務内容は、執行業務として、①農地の調整に関すること、②自作農の創設維持に関すること、③農地の利用、斡旋、調停に関すること、④農地等の交換分合に関すること、また諮問業務として、農業の総合計画に関すること、などである。
 発足当時は、農地改革の成果を維持するとともに農地の利用、管理、調停に当たり、農業振興計画などの策定に貴重な提言を行った。 「農業基本法」(昭和36年制定)ができると、自立経営の育成、協業化の促進、農用地の集団化などに努めたが、選択的拡大が進む中で離農が相次ぎ、離農跡地の有効利用や担い手への農地利用集積、農業者年金の加入促進、自立経営農家の育成などに大きな役割を果たし、現在に至っている。
 委員の任期は3年で、定員は当初20人であったが、その後、何度か改正されて昭和59年(1984)7月に雄回線から4人に減員されている。


(2)上湧別町農業協同組合
組合の歩み  大正3年(1914)以来、上湧別村の各集落ごとに設立された産業組合が発展的に統合され、村内唯一の上湧別村産業組合が発足したのは、昭和9年(1934)であった。 これにより現在の農業協同組合の基礎が確立された。 同22年(1947)11月「農業協同組合法」が公布され、農民の自主的な組織として、各地に農業協同組合が設立されることになった。 これを受けて上湧別村農業協同組合は翌23年(1948)4月10日に創立総会を開催、5月6日に設立認可を得て6月7日に設立登記を完了、組合員740人、出資金128万6600円をもって正式に発足した。
 設立当初は食糧不足による物資の配給統制、暴騰する物価と賃金、資金不足など管理運営は幾多の危機に直面したが、関係者の一致協力により、それらを乗り越えてきた。 昭和40年代(1965~)に入ると、高度経済成長の中、営農の選択的拡大、生産基盤の整備などを進め、農家経営も農協運営も順調に拡大発展を遂げた。 しかし、同48年(1973)のオイル(石油)ショックは、日本においてもインフレと不況が同居するというかってない経済危機をもたらし、経済は低成長時代に入った。 上湧別町農業協同組合の運営も、健全な財政の確立が大きな課題となり、不均衡だった自己資金と固定資産の比率を適正な者に是正するため5ヶ年計画で出資倍増を達成したほか、農産物を有利に販売するためリンゴ、玉葱、食用馬鈴薯などの選別場、貯蔵庫の整備、農産物の銘柄統一、生産拡大を目指す大型農業機械の整備・修理工場の建設、自給肥料増産施設の整備などに積極的に取り組んだ。 さらに、農業構造改善事業を導入しバルククーラー、バンクリーナー、パイプラインなど酪農施設整備の画期的な改善拡充を行い、酪農生産の飛躍的発展を達成した。
 昭和50年代(1975~)になると、玉葱の増産に向けて玉葱専門部会が特作専門部会から独立(昭和50年)、一層の振興を目指し酪農専門部会が発足(同52年)した。 しかし、雪印乳業(株)中湧別工場の合理化に伴い、農協乳業への配乳変更(同52年)を余儀なくされるといった事態にも直面した。 こうした障害も乗り越え、同54年(1979)には乳量1万㌧・乳用牛と肉用牛を合わせて5000頭を突破を実現、酪農組合30周年と併せて盛大に記念式典を挙げている。
 上湧別町農業協同組合は昭和53年(1979)、創立30周年という歴史の節目を迎えたのを契機に、組合の運営強化を図った。 翌54年には金融部門の貯金残高30億円を超えたのをはじめ、同55年(1980)から第二次協同活動実践3ヶ年計画、同56年(1981)から酪農負債整理対象事業、同57年(1982)から農協年金友の会をそれぞれ発足させた。 同58年(1983)には農畜産物の取扱いが待望の40億円を達成し、Aコープ中湧別店舗の増改築も果たしている。

 昭和60年代(1985~)から平成にかけても着実な歩みをみせている。 同40年代から引き続き貯蔵・乾燥など各種農業施設の整備に取り組み、中湧別支所金融店舗の新築(昭和60年)、本部事務所の新築(平成3年)、Aコープ中湧別店舗の新築(同4年)、開盛支所店舗の新装(同5年)、
整備工場事務所の新築(同5年)、(株)ゆうゆう設立・給油所と店舗の新設(同6年)などの施設整備を矢継ぎ早に行った。 このうち本部事務所の新築は、国道242号線沿いの屯田市街地230番地の約4844平方㍍の敷地で平成3年(1991)4月に着工、同年10月末に完工、同年11月18日から新事務所での業務が始まった。 鉄筋コンクリート造り2階建て、延べ1402平方㍍の広さで、総事業費は2億4894万2000円であった。


組合員の変遷と農業生産額  組合員戸数は、昭和50年(1975)に410戸であったが、離農などに伴い平成7年(1995)には284戸と126戸(30.7%)も減少している。 しかし、経営規模の拡大や農業技術の改善、生産の向上、販売の拡大などにより取扱い農業生産額は、著しく伸び、昭和50年に15億8346万5000円であったが、平成7年には約3.13倍に当たる49億5829万9000円に達している。 1戸当たりの生産額も386万2000円から1745万8000円と4.52倍に急増している。
 酪農も農家戸数は減っているが、取扱い生産乳量は増加している。 昭和50年に152戸あった酪農家は、平成7年に半分以下の63戸に減少している。 しかし、生産乳量は着実に増え、昭和50年の7983.5㌧が平成7年に2万3445.4㌧と3倍近くはね上がっている。 1戸当たりに換算すると、実に7倍以上にもなる。


事業の拡大  事業の拡大にも積極的に取り組んだ。 昭和61年(1986)から南瓜・グリーンアスパラガス冷凍加工事業を始めたのを皮切りに、アイスクリームの製造販売(平成元年)、玉葱加工(同4年)、酪農ヘルパー制度(同4年)なども発足させた。 牛乳の消費拡大と新しい特産品つくりをねらいとしたオリジナルのアイスクリーム製造販売は、平成2年(1990)秋に国道242号沿いの屯田市街地に製造直売店舗を開店するなど人気が定着し、販路も拡大している。
 昭和50年(1975)度と平成7年(1995)度を比較して事業の取扱高の推移をみると、購買(資材)が7億4629万6000円から14億4263万6000円(1.9倍強)、農家借入金が14億8952万3000円から57億1096万8000円(3.8倍強)、店舗品が6億2393万3000円から10億385万4000円(1.6倍強)、農業機械整備工場が5398万9000円から7億8164万6000円(14.4倍強)となり、事業量は大幅に拡大している。
 金融、共済事業関係では、昭和50年度に17億7698万8000円であった信用事業資金が、平成7年には80億4004万3000円(4.5倍強)に達している。 一方、昭和50年度に32億2128万円であった長期共済契約高は、平成7年度に314億4515万円(9.8倍強)に膨れあがっている。


合理化・近代化の取組み  畑作、酪農への新鋭機械、施設設備の導入を図り、合理化、近代化に努めたほか、農業協同組合業務の合理化も進めるため、事務などの電算化を実現している。 昭和62年(1987)に事務全般の綜合システムへ移行、さらに平成元年(1989)には消費税導入に伴い経理システムを大幅変更した。 また、同4年(1992)に農業情報システムの導入、同5年(1993)に新クミカンシステムの導入も行っている。

上湧別町農業協同組合青年部  昭和23年(1948)ごろから、各地で農業協同組合青年部が結成され、農村青年の自主的な生産研究を中心に、体育、文化、生活など様々な運動が展開されるようになった。
 上湧別でも青年部の結成の必要性が痛感され、昭和26年(1951)10月20日に上湧別村農業協同組合青年部が結成され、初代部長に鈴木勝夫(4の2)が選任された。 組合、精算、経済、生活改善、文化厚生の5専門部会が設置され、活動を開始した。 同40年(1965)には、専業化する経営の生産性向上を目標として、酪農、果樹の2つの専門部会となり、同44年(1969)に畑作専門部会が結成され、3専門部会となった。 しかし、果樹専門部会は、リンゴの腐乱病の大発生などにより作付面積は大幅に縮小され、同62年(1987)には廃部となった。 以後、畑作専門部会と酪農専門部会の2専門部会である。
 この間、冷害、稲作の廃止、離農、農産物輸入自由化の波など「苦難」にされされてきた。 しかし、農作業は機械化され、酪農においても乳牛の多頭化飼養が進み、経営規模拡大へと大きく変化した。 その中で青年部は時代の流れに対応すべく、各種研修会、先進地視察、海外視察研修などを実施してきた。 また、地域との連携を深めるため、花いっぱい運動、屯田ふるさと祭り、湧別原野オホーツク100kmクロスカントリー大会、オホーツクフィッシングin湧別川、交通安全パレード、夏祭り納涼盆踊り大会などに参加、また協力してきている。


上湧別町農業協同組合婦人部  全道的にみると昭和26年(1951)ごろから農業協同組合婦人部の結成が中央会の指導で始められた。
 上湧別町では、第2代組合長遠藤清治が婦人部結成を強く促し、昭和31年(1956)1月22日、上湧別町農業協同組合婦人部が結成され、初代部長に浅井芳美が選任された。 地域単位の支部も結成され、支部長が中心となって実践活動と学習が行われた。
 創立当初の主な事業は、農業協同組合事業の推進に重点が置かれ、貯蓄の推進、共済加入運動、生活用品取りまとめ購買、共同販売運動、「家の光」誌の普及、家庭薬の配布などに大きな成果を挙げた。 その後、時代の変遷に伴い農業協同組合の事業から一歩進んで、農村婦人としての教養を高め、子女の教育、家族の保健衛生や生活改善への学習活動に主体が置かれるようになった。 具体的には、家計簿記帳、冠婚葬祭の簡素化、料理講習会、各種研修会、町外視察研修などである。 また収穫祭、夕市などを開催し地域との連携を深めている。
 婦人部を若返りqを図るため、若妻会の育成に力を入れ、人間関係を円滑化誌、農業の生産性向上のため、営農計画にも参加するなど幅広い活動がおかれている。
 町内には、富美、上富美、開盛、4の1,4の2,4の3,屯市、札富美、5の1,5の2,5の3,旭の12支部があり、さらに、酪農、畑作、若妻の3部会がある。 平成9年(1997)4月現在の部員は188人である。


(3)農業共済組合  
上湧別町農業共済事業の歩み  「農業災害補償法」は、昭和22年(1947)12月に公布され、農業共済組合の発足を促した。 戦後の農業改革の大きな柱の一つでもあり、農地改革の推進に当たり、自作農が再び小作農に転落しないことを補償するねらいもあった。 この法律に基づき、上湧別村でも同23年(1946)に農業共済組合が設立され、同38年(1963)まで15年間、農作物共済、家畜共済の両事業で農家経済を支えたが、同38年10月1日から町営に移管された。 上湧別町は町役場の機構の中に農業共済課を新設して、「農業災害補償法」、「地方公営企業法」にも続き農業共済事業を行った。
 昭和38年に「上湧別町農業共済条例」を制定し、翌39年(1964)には農業共済事業運営協議会、損害評価会、損害調査員を発足・任命し、円滑な事業推進に当たった。 同42年(1967)に条例を全部改正するとともに、家畜共済特定損害防止事業を開始した。 さらに、翌43年(1968)から「果樹保険臨時措置法」にも続く指定を受けて試験的に5年間にわたり果樹保険を実施、同49年(1974)から果樹共済を発足させた。 この間、同45年(1970)に3ヶ所にあった家畜診療所を1ヶ所に統合、上湧別町家畜管理所を開設、新たに乳牛人工授精事業も開始している。
 その後、国の減反政策などにより水稲農家は激減し、上湧別町では昭和54年(1975)度で水稲共済の引き受けがなくなり、使命を終えた。 これに代わって、畑作農家の悲願であった畑作共済制度(大正は馬鈴薯、大豆、小豆、インゲン、甜菜)が開始された。 この畑作共済制度が発足して3年目の同56年(1981)8月、集中豪雨で大きな被害を受け、共済金支払いは約2898万4000円に上がった。
 昭和48年(1973)度以降引き受けがなくなっていた農作物共済の小麦は、同57年(1982)度に再開されたが、北限の上湧別リンゴは腐乱病の蔓延により生産激減となり、この年度をもって果樹共済の引き受けは停止された。 同年度に始まった麦共済は農家単位半相殺方式で8割引き受けとなっていたが、同58年(1983)度から全相殺9割引き受け方式に改善されたため、補償が一層充実された。 同61年(1986)度は畑作共済の馬鈴薯類区分に食品加工(カルビー)を加え、4区分(加工・種子・食用・食品加工)とした。 そして同63年(1988)度に家畜事務の電算化に踏み切った。 平成元年(1989)度は広域合併へ向けて具体的な動きがみられ、10月9日に合併予備契約などの調印式が行われ、11月24日には上湧別町臨時町議会において農業共済事業の廃止と合併組合への参加が議決された。


農業共済事業の広域合併  遠軽地区7町村の農業共済事業が広域合併し、遠軽地区農業共済組合が平成2年(1990)3月1日、スタートした。 それまで遠軽地区では町営で上湧別町、生田原町の2町と遠軽西部(遠軽、丸瀬布、白滝)、湧別、佐呂間の3組合が農業共済事業を行っていたが、厳しい農業情勢を乗り切るため、事務の合理化と事業サービスの強化を目的に昭和60年(1985)ごろから広域合併の協議を進めていた。
 この合併により新しい組合は、組合員数約1500人、家畜共済引き受け頭数約5万2000頭、水田・麦畑約3300㌶、畑作地約1900㌶へと生まれ変わり、初代組合長に元湧別町農業共済組合長の小野豊が就任した。 本部事務所は湧別町芭露に置かれ、各町村にも支所が配置され、組合員の利便を図った。 これに伴い上湧別町の家畜管理所は「遠軽地区農業共済組合上湧別支所家畜診療所」となり、獣医師6人と事務職員2人が配属され、共済事業と家畜診療事業を取り扱うことになった。
 広域合併により湧別町芭露に置くことになった本部事務所は、新たに建設することに決まった。 新築に当たっては地元の湧別町が芭露194番地の用地を提供、建設費についても応分の町費補助を行った。 1億1968万6000円の工事費をかけ平成2年6月に着手、同年10月31日に完成した。 木造一部鉄骨造り2階建て、延べ658.701平方㍍の広さで、1階は事務室、組合長室、電算室、書庫、休憩室、2階は大・小会議室、物品庫、ホールなどを備えている。


運営組織  農業共済事業の運営に関する調査、審議機関として3つの組織が、「上湧別町農業共済条例」により設置されていた。 そのうち農業共済事業運営協議会は、町長の諮問に応じて農業共済事業の運営についての重要事項(損害の防止、認定に関することは除く)を調査審議した。 委員13人以内で組織し、委員は町議会議員3人以内、共済に加入している者8人以内、学識経験者2人以内で、町長が町議会の同意を得て委嘱した。 任期は3年で、会長は委員の中から互選した。
 農業共済損害評価会は、共済事故にかかわる損害の防止、認定に関する重要事項について調査審議するため設置された。 評価会には農作物共済、果樹共済、畑作物共済の3部会が設けられた。 損害の防止、認定に関し知識経験を持つ者のうちから町長が町議会の同意を得て9人を委員として選任した。 任期は3年で、会長は委員の中から互選した。
 農業共済損害調査委員会は、共済目的評価、損害の認定、損害調査資料の調査など損害防止の適正化に努めるのが役割で、37人以内の委員が選任された。 調査委員の任期は3年で町長が委嘱したが、中湧別、中鉄を除く自治会の区域を損害評価地区と定め、評価畜ごとに3人(5の3のみ4人)ずつ調査委員を選んでいた。
 3つの組織のうち運営協議会は、平成2年(1990)3月1日の遠軽地区農業共済組合発足と同時に廃止され、評価会、調査委員会は同組合の管轄下に置かれることになった。


家畜診療所の変遷  昭和24年(1949)、上湧別村農業協同組合が屯田市街、富美に家畜診療所を開設したのが始まりである。 翌25年(1950)からは、上湧別村農業共済組合が経営の移譲を受けてこの3診療所を運営していたが、同26年(1951)に屯田市街地に家畜診療所が新築された。 同38年(1963)に農業共済事業が同組合から上湧別町に移されたのに伴い、3診療所は町営の上湧別家畜診療所の上湧別支所、中湧別支所、富美支所と改称、家畜衛生第一線機関として重要な機能を果たした。
 しかし、畜産の主産地化や家畜の多頭化飼養が急速に進んできたことから診療事業の合理化、近代化が求められるようになり、支所3ヶ所の統合整備が図られることになった。 新しい上湧別町家畜管理所は、農業構造改善事業の一環として屯田市街地に新築され、昭和45年(1970)9月12日に業務を開始、家畜の診療・防疫・家畜の人工授精、家畜の飼養管理の指導、家畜衛生の試験・研究・家畜一般業務などの相談に当たった。
 上湧別町家畜管理所は、平成元年(1989)に施設内で家畜の手術が行えるよう油圧式大動物手術台を導入するため増改築され、翌2年(1990)3月1日の農業共済事業の広域合併に伴い、遠軽地区農業共済組合上湧別支所家畜診療所となった。 そして、同6年(1994)5月1日の機構改革で中央家畜診療所(湧別町芭露)の上湧別診療課と改められた。


 (イ)農作物共済事業  
水稲  昭和42年(1967)策定の上湧別町農業振興基本計画で水稲の減反政策を打ち出したのに引き続き、同44年(1969)以降は国の水稲減反奨励に基づく生産調整が進み、同40年(1965)ごろまでは300~400㌶ほどあった水稲作付けは、年々減少の一途をたどった。 農作物共済における水稲の引き受けも減る一方で、同50年(1975)度には23戸・8.1㌶、同53年(1978)度には5戸・1.39㌶、同54年(1979)度にはついに引き受けゼロとなり、水稲の共済は完全に姿を消した。 この間の同51年(1976)は、冷害に見舞われ、5年ぶりの共済金支払いが行われ、15戸・5.55㌶に対し、107万5000円が支払われた。

  昭和56年(1981)度まで引き受けのなかった麦は、翌57年(1982)度から再度の引き受けがあり、その後一環して200~300㌶台の引き受けが続いている。 引き受けが最も多かったのは、平成元年(1989)度の346.89㌶である。 この間、被害がなく共済金支払いが一件もなかったのは昭和63年(1988)度だけである。 同58,59年(1983,1984)は2年連続、平成4年(1992)~同7年(1995)は4年連続の異常災害を受け、面積にして比較的被害の少ない昭和59年度でさえ44.5%の被害を出した。 平成7年度の被害は特に大きく、95戸、面積にして99.7%、319.2㌶に対し、1億3895万3000円が支払われている。

 (ロ)果樹共済事業 
リンゴ  昭和47年(1972)4月、果樹共済制度本実施に関する「農業災害補償法」改正案が国会で可決成立した。 北海道内では上湧別町も含め14の共済組合で同49年(1974)度から本実施に移された。 初年度は44戸が加入、64.38㌶を引き受けた。 このうち1戸を除く43戸で被害を受け、1313万7943円の共済金が支払われた。 その後引受けが97.94㌶とピークを迎えた同52年(1977)度には、全面積が被害を被り共済金支払金は3481万1000円となった。 老齢樹園地の増加とともに腐乱病が蔓延し、その防除対策も効果を挙げられないまま果樹栽培は衰退の道をたどり、同56年(1981)度の7戸、9.82㌶の引受けを最後に翌57年(1982)度からは引受けがなくなった。 被害状況は、同55年(1980)度以外は被害の連続であった。

 (ハ)畑作物共済事業 畑作物共済制度は、昭和49年(1974)度から発足した。 同年から5年間にわたり、指定された市町村において試験実施したあと、同54年(1979)度から本実施に入った。 上湧別町では馬鈴薯、小豆、甜菜が対象となった。 畑作経営の安定化を図るため懸案となっていたもので、畑作農家にとって朗報となった。

馬鈴薯  馬鈴薯の引受けは、昭和62年(1987)度をピークに減少傾向にある。 共済開始当初の同54年(1979)度は73戸が共済に加盟、139.83㌶を引受け、最も引受けが多かった同62年(1987)度は61戸、173.68㌶、そして平成8年(1996)度は15戸、36.54㌶に減っている。
 共済金の支払い状況は、昭和50年代(1975~)はたびたび被害に見舞われて、同55年(1980)度は1436万3000円、同56年(1981)度は2140万6000円が支払われた。 しかし、平成に入ってからは被害も少なく、同6,同7年(1994,1995)度は1件もなかった。


小 豆 オホーツク沿岸は春先、夏に低温が続くことがあり、小豆の生育には適しない年が多い。 そのため、上湧別町での小豆の作付けは少ない。
 共済の引受けは、昭和54年(1979)度が、1戸~7戸程度で、引受け面積も最高で3.97㌶である。
 被害、共済金の支払いがなかったのは6回に過ぎない。 全引受け面積に被害が及んだのは昭和56年(1981)度、平成4年(1992)度である。


甜 菜  昭和55,同56年(1980,1981)度を例外として、同50年代(1975~)から平成2年(1990)度にかけて200㌶前後の引受けがあったが、同3年(1991)度以降は、ほぼ減少傾向をたどっている。 引受けが最も多かったのは昭和60年(1985)度の223.11㌶、逆に少なかったのは平成6年(1994)度の139.24㌶である。 共済金の支払いは同6年度からは一層足切り、糖度加味方式となった。 甜菜は冷害に強い作物だけに、被害率、共済金の支払いは少ない。

 (ニ)家畜共済事業  
  酪農の振興に伴い、乳用雌牛の引受けは、多少の増減はあるものの全体としては増加している。 昭和50年(1975)度は147戸加入、2937頭の引受けであり、離農・経営規模の拡大などにより、平成8年(1996)度は65戸と加入戸数こそ半数以下に減ったものの、引受け頭数は5923頭と約2倍の大幅増である。 昭和52年(1977)度から引受けが始まった肥育牛は、同59年(1984)度~同61年(1986)度は1200頭台の引き受けを記録したが、その後は減少し、平成6,同7年(1994,1995)度はいずれも680頭、同8年度は810頭であった。 同2年(1990)度から引受けが始まっている特定肉用牛は、増加傾向が続き同8年度は279頭になっている。
 制度の改正面では、昭和52年に乳用雌牛、肉用牛での頭数規模区分ごとの国庫負担割合が撤廃され、一律2分の1に改正された。 それまでは乳用牛1~2頭と50頭以上が5分の1、3~49頭は2分の1、肉用牛は1~39頭が2分の1、40頭以上が5分の2であったため、この改正は、多頭化飼養を目指す酪農家にとって朗報となった。 同62年(1987)には、さらに、肉用牛の子牛共済が対象に組み込まれた。


  農業の機械化などが進んで馬の飼養頭数は急速に減少、昭和34年(1959)度に1139頭を数えたものが、同40年代(1965~)後半には200頭を割り込んだ。 同50年(1975)度には136戸・147頭が共済に加入していたが、平成8年(1996)度はわずか5戸・12頭に減少している。

牛馬の事故、共済金支払い状況  牛馬合わせた共済金額は、乳用雌牛を中心とした大幅引受けの増加により増え続け、昭和50年(1975)度、3億396万3000円(農家負担共済掛金1414万1000円)であったが、平成8年度には11億2044万6000円(農家負担共済掛金6150万3000円)にはね上がった。 これに対して事故による共済金の支払いも増加している。 死廃事故は昭和50年度は乳用牛雌67頭、馬2頭で636万5000円の共済金支払いであったが、同53年(1978)度以降急増し、平成4年(1992)度は乳用雌牛309頭、肥育牛26頭、特定肉用牛5頭と最高の340頭に達した。 その後は、やや減少し同8年度は乳用雌牛261頭、肥育牛52頭、特定肉用牛15頭、馬1頭の計329頭である。 支払われた共済金は平成4年度6788万9000円、同8年度6675万689円となっている。
 病傷事故は件数がさらに多く、昭和50年度に乳用雌牛2415頭、馬32頭で1272万7000円であった支払い共済金は、多少の増減を繰り返しながらも増加する一方である。 平成8年度は乳用雌牛4862頭、肥育牛225頭、特定肉用牛119頭、馬15頭の計5221頭に達し昭和50年度の約5.6倍に当たる7129万7510円の共済金を支払っている。


乳牛の人工授精  上湧別の乳牛人工授精の歴史は古い。 昭和19年(19454)6月、上湧別村農業協同組合が屯田市街地の競馬場跡地に畜牛人工授精所を開設したのが最初である。 同22年(1947)10月に一時業務を停止したが、同25年(1950)8月に業務を再開した。 同26年(1951)10月、上湧別村農業共済組合の家畜診療所が屯田市街地に新築され、酪農家の要請もあり、翌27年(1952)に3診療所で乳牛人工授精を引き受けることになった。 同45年(1970)10月、3診療所を統合、上湧別家畜管理所が設立され、人工授精も一括管理運営した。 平成2年(1990)、遠軽地区農業共済組合に移行してからは上湧別支所家畜診療所(のちに中央家畜診療所上湧別診療課)で人工授精事業が行われた。
 人工授精実績をみると、受精頭数は酪農経営の多頭化飼養を反映して増加しているが、受胎率は若干低下傾向になっている。 昭和50年(1975)度に受精頭数2380頭、受胎率95.6%であったのが、平成8年(1996)度には4128頭、91.1%となっている。
 受精料金(技術料)は、昭和50年度に3250円であったが、同52年(1977)度に3600円、同53年(1978)度に4000円、さらに、平成2年度に5000円に改定されて現在に至っている。


(4)湧別地区農業改良普及センター
農業改良普及所の歩み  農業改良普及事業は、昭和23年(1948)7月に公布された「農業改良助長法」に基づいて開始された。 この事業は、国と北海道の共同事業によって農家の自主性を尊重しながら、農業経営と農家生活の合理化、農業青少年や農業研究グループの結成を促すため専門技術員(農業改良普及員)を配置、巡回、集団指導を行うものである。
 昭和25年(1950)、上湧別村役場内に上湧別村農業改良相談所が開設され、3人の普及員が配置された。 同33年(1958)、「農業改良助長法」の改正により農業改良相談所は農業改良普及所に改められ、同38年(1963)には事務所は役場内から上湧別農業協同組合内に移された。 さらに、同43年(1968)、上湧別町寒地園芸営農センターに移転している。 この間、農業経営の安定、農業技術の向上などに数多くの実績を残し、特に農村づくり、人づくりの面では上湧別町青少年団体協議会の設立、上湧別町農業協同組合婦人部、若妻会への指導協力などに努めた。
 その後、農業経済圏の拡大、主産地形成の進展、農業経営の専門化・多様化、交通網の発展、農業技術の向上など大きく変化した農業情勢に対応し大正広域化することになり、昭和44年(1969)8月、網走支庁管内26市町村に配置されていた農業改良普及所が8ヶ所に統合された。 これに伴い、上湧別町農業改良普及所は東紋東部地区農業改良普及所と改められ、上湧別、湧別、佐呂間の3町を管轄することになった。


主な活動  昭和50年(1975)以降も地域に根付いた活発な活動を続け、乳用牛資質向上対策事業(新乳検)の普及活動開始(昭和50年)、農業婦人の簿記記帳指導開始(同59年)、土づくり、施肥技術改善のための土壌診断開始(同61年)、牛乳消費拡大を目指す牛乳料理普及活動開始(同63年)、地域農業ガイドポストの策定(平成元年)、3町営農担当者会議の結成(同2年)、企業的経営感覚を生かした経営指導開始(同4年)などに取り組んだ。 この間の昭和60年(1985)には湧別町錦町に新しい庁舎が完成、独立した拠点に落ち着いた。 平成6年(1994)には「農業改良助長法」が改正され、名称も湧別地区農業改良普及センターと変わり、農業技術の改善、農村生活の改善、青少年の育成の3本柱を中心に活動を展開している。 特に近年は農業経営指導、クリーン農業の推進、高収益野菜・花卉の生産定着に力を入れている。

(5)上湧別町家畜自衛防疫組合
組合の歩み  国の指導に基づき昭和47年(1972)7月、(財)北海道畜産物衛生士同協会が設立されたのに次いで、同年11月に上湧別町家畜防疫組合が発足した。 畜産振興とともに多頭化飼養、事業経営が増加、家畜、畜産物の取扱い、交流が煩雑となってきたため、家畜伝染病の発生が懸念されていた。 そこで自衛防疫を推進することになったもので、家畜の健康維持と生産性の向上を図るとともに、家畜衛生の知識と技術の普及に努め、畜産農家の経営安定、消費者に信頼去る畜産の確立を目指すのが目的である。
 組合は現在、上湧別町、上湧別町農業協同組合、湧別地区農業改良普及センター、遠軽地区農業共済組合、上湧別町酪農組合、素牛生産者振興会で構成、上湧別町役場農政課に事務所を置いて、①家畜の伝染性疾患の予防措置の実施、家畜の健康保持に関する指導、家畜衛生情報の連絡、②消毒、環境衛生、③自衛防疫に必要な研修会・講習会の開催、③消毒、環境衛生、④畜産物の衛生、⑤畜産経営に起因する環境汚染防止技術の普及浸透、⑥動物用医薬品の適正使用などに関する事業を推進している。 また、組織は乳用牛、肉用牛両部会を設け、防疫活動の円滑化を期している。組合長は、当初上湧別獣医師会班長らが務めたが、その後、歴代町長が就任している。
 組合発足当初は、牛ばかりでなく、馬、豚、鶏も飼養されていたため、馬の伝貧病、豚のコレラ、丹毒、鶏ののニューカッスル病なども対象となっていたが、昭和50年代(1975~)前半から牛1本に絞られ、一部馬のインフルエンザ予防が残されているだけである。


最近の課題と取り組み  農畜産物の輸入自由化に伴い、国際間の競争が一層激しくなっている。 加えて国内産地間の競争も激化しており、この厳しい内外の競り合いに打ち勝つためには、資産者と酪農関係者が一丸となったコスト低減、品質向上への努力が不可欠とされている。 特に消費者からは「安さ」とともに「おいしさ」「フレッシュさ」「安全性」が求められ、家畜の衛生保持、環境改善、防疫体制の強化がますます重要性を増している。
 こうしたことから、上湧別町、上湧別町農業協同組合の補助金(各30万円ずつ)を得て平成8年(1996)度から組合事業として「伝染性疾病等に係わる予防費女性要綱」を決め、予防費の3分の2以内を助成することに踏み切った。 助成の対象となるのは、伝染病に感染した疑いがあり、獣医師が必要と認めた上湧別町農業協同組合員飼養の乳用牛と肉用牛である。
 毎年立案されている事業計画は、生産者の自衛防疫の心構えを基調として、各疾病の予防接種、予防指導の実施ほか、畜産物への抗生物質・抗菌性物質の残留を防止するため、動物用医薬品の適正使用について指導することに重点を置いている。 特定疾病予防推進事業ではIBR(牛伝染性鼻気管炎)、3種混合(IBR、牛ウイルス性下痢粘膜症、牛パラインフルエンザ)、馬インフルエンザなどが中心となっているが、平成7年(1995)には牛サルモネラ症も発生、その予防対策も行ったいる。
 平成8年度の事業では、新規の予防費助成、特定疾病予防推進事業のほか、町営協同牧場におけるピロ予防対策の実施、網走家畜保健衛生所が実施する乳用雌子牛肥育経営巡回指導、専用種肉用牛生産向上対策事業への協力などに取り組んでいる。


(6)上湧別町酪農組合
組合の歩み  昭和15年(1940)に結成された上湧別村畜産組合が前身で、戦後の同24年(1949)に上湧別村酪農組合と改称され、町制施行以来、現在の名称になっている。 特に「有畜農家創設特別措置法」(昭和28年公布)、「酪農振興法」(同29年公布)が出されたのを契機に、上湧別町も「家畜貸付条例」(同31年制定)、上湧別町農業振興基本計画(同42年策定)などに基づき酪農振興に力を入れたが、上湧別町酪農組合は、町や上湧別町農業協同組合と一体となって施策の実現に努力、経営規模の拡大、経営の改善などに大きな役割を果たした。
 組合が一環して進めてきたのは、①乳質改善(水利調査、現地指導、共励会開催など)、②乳牛資質改良(高等登録体格診査、乳牛経済検定など)、③研修(1日研修、先進地視察、講習・講話会開催など)、④防疫(防疫組合の活動強化、衛生資材・カンテツ薬への助成など)、⑤飼料作物増産(各種共励会開催、冬期間飼料不足対策の推進など)、⑥補助(各地区酪農組合への助成、各種共進会・品評会への参加助成など)、⑦その他(酪農ヘルパー推進、各種要請運動、私道改良・砂利敷き推進など)、などの事業である。 組合事務局は上湧別町農業協同組合に置かれている。


最近の課題と取り組み  平成3年(1991)4月からの牛肉の輸入自由化や景気低迷、さらにはガット・ウルグアイ・ラウンド農業交渉の決着により、乳製品の輸入が自由化され、酪農経営を取り巻く環境は一層厳しくなっている。 また、就業者の高齢化、経営規模拡大による労働過重・労働力不足、糞尿問題など多くの解決すべき課題を抱え、担い手不足にも悩んでいる。 こうした状況の中で上湧別町酪農組合は、①生乳計画生産目標数量の達成、②経営効果向上の研鑽(阻害要因の究明、経営点検)、③安定経営対策の推進(自給率の向上、疾病防止、メリット追求)などを基本目標に事業を推進している。
 平成8年(1996)度の事業計画をみると、①牛肉輸入自由化後の対応策の推進、②定休型酪農ヘルパー事業による酪農生活化以前の推進、③衛生的良質乳生産の奨励、④畜産物価格安定への政策要請、⑤酪農環境整備の改善検討、⑥牛乳消費拡大運動の推進、⑦町営牧場の有効活用、⑧各種共進会・共励会の参加協力、⑨酪農後継者育成と花嫁対策、⑩各種団体との連携強化、⑪酪農先進地視察の実施、などを掲げ、地域の農業、農村社会の地位向上に努めることにしている。 同年度の収支予算は148万6000円である。


(7)上湧別町農民連盟
 昭和21年(1946)に結成された上湧別村農村建設件名は、翌22年(1947)4月に上湧別村農民同盟と改称した。 その後、一時解散したが、同29年(1954)4月に上湧別町農民同盟として再発足した。 さらに、同36年(1961)、北海道農民連盟の発足に伴い、これに加盟して上湧別町農民連盟と改称している。
 上湧別町における農民運動は、時代の変化や農政の流れを敏感に反映して政策・価格要求を中心に経営基盤強化対策、生産拡充対策、税金対策、政治対策など幅広い運動に及んだ。 地域問題も取り上げ、原料甜菜の集荷区域問題をはじめ、国鉄湧網線やJR名寄本線の廃止反対、食糧検査事務所の統廃合反対などでは住民や他の団体と共闘を組んだ。 近年は厳しい農業情勢の中で農業を守る運動に力を入れている。


(8)上湧別町農業推進協議会
 上湧別町農業推進協議会は、上湧別町内の営農改良指導事業を推進し、農業の振興に寄与することを目的に昭和43年(1968)度に発足した。 現在は上湧別町、上湧別町農業協同組合、上湧別町農業委員会、上湧別町農民連盟、湧別地区農業改良普及センター、遠軽地区農業共済組合などの長、関係職員で構成、会長は上湧別町長が務めている。
 同協議会は平成6年(1994)4月、畑作部門、酪農・畜産部門に分け、全農家200戸を対象に農業振興計画策定のためのアンケート調査を実施した。 このうち139戸から得た回答などを基礎資料として、同年9月に農業振興計画「上湧別農業のめざす姿」を策定、農業経営の指針を示した。 この指針は、同年10月に上湧別町が策定した「農業経営基盤の強化の促進に関する基本構想」にも反映されている。 基本構想はおおむね10年後の農業経営の発展の目標を明らかにしたものである。
 同協議会の運営費は、上湧別町と上湧別町農業協同組合の負担金と上湧別町寒地園芸営農センターの農産物収入が充てられている。 現在、事業は主として、①上湧別町寒地園芸営農センター圃場試験成績書作成と配布、②同センター嘱託職員の技術研修などへの派遣、③同センターの運営事業に関することである。

 
第二章  林業・その他 
  第一節  森林と林業 
topへ    (1)森林の現状と課題
森林の役割  森林の役割は、経済事業として木材を生産するばかりではない。 土砂の崩壊や流出を防ぎ、水源を調節し野生の動植物を保護するほか、人間に給養の場を提供するなどいろいろな恩恵を与えてくれる。 人々の生活にとっては欠かせない貴重な資源であり、かけがえのない財産である。 最近は、地球規模での熱帯林の減少、砂漠化の進行、地球の温暖化などが顕著にみられ、人々の森林に対する関心が高まっている。
 これら地球環境問題への関心の高まりだけでなく、社会経済の成熟化に伴い、森林持つ国土保全、水源の涵養などの機能、また、「ゆとり」や「やすらぎ」などを求める人間の本来の生活に対するニーズなどが見直されるようになり、森林の役割は一層重要になっている。


現状と課題  森林は、平成5年(1993)の統計によると、全世界に約41億8000万㌶あり、陸地面積の約28%を占めている。 この広大な面積の森林から年間34億441万3000立方㍍の木材が生産されている。 これら森林の58%近くは発展途上地域に分布、さらに、その89%弱が熱帯地域に集中しているが、熱帯天然林の劣化と破壊が急速に進み、世界的な問題とされている。
 日本の森林面積は、平成6年(1994)3月末現在約2500万㌶で、国土の67%に達している。 その蓄積量は約31億立方㍍といわれているが、同6年の統計では年間供給量は約2448万立方㍍にすぎず、約1億1000万立方㍍の木材需要量のわずか22.4%を満たしているだけで、77.6%は外材の輸入に頼っているのが現状である。


(2)北海道の森林
森 林  
北海道の森林面積は、昭和20年代(1945~)には約540万㌶であったが、その後、年ごとに増加し、同40年代(1965~)kぁらは560万㌶前後で推移してきた。 しあkし、同60年(1985)ごろから一般民有林を中心に減少傾向にあり、平成6年(1994)度には約558万2000㌶となっている。 これは全道の土地面積の71.2%、全国の森林面積の22.1%を占めている。 いいかえれば、北海道の森林率は、全国平均よりも高いことになる。
 所有別面積では国有林が320万7000㌶(57.5%)と最も多く、道有林が61万5000㌶(11%)、市町村有林が28万7000㌶(26.4%)と続いている。 林種別では店園林が357万1000㌶(64%)を占め、次いで人工林が151万6000㌶(237.2%)で、残りは無立木地となっている。 樹木構成は、天然林と人工林とでは様相は大きく異なる。 天然林では広葉樹林が50%弱、広葉樹と針葉樹の混合林が40%弱を占め、針葉樹林は10%強にすぎないのに対し、人工林では針葉樹が圧倒的に多く、広葉樹は10%以下にとどまっている。
 森林の蓄積量は5億8732万立方㍍で、1㌶当たり平均100立方㍍を超えている。 全国の蓄積量は約31億立方㍍であり、そのうちの18.9%を占めている。 この蓄積量の52.6%(3億894万8000立方㍍)は広葉樹で、あとの47.4%(2億7837万2000立方㍍)は針葉樹である。 針葉樹では、トドマツ、カラマツ、エゾマツの3種が全体の40%以上を占め、これに対し広葉樹では一番多いカンバでも11%程度で、以下ナラ、シナノキなど他の樹種に分散している。 
 人工林率は、昭和20年代後半に5%であったが、平成6年度には27.2%まで増加している。 しかし、全国平均の約41%に比べるとかなり低い。 北海道の造林は、昭和40年代半ばごろまでは成長の早いカラマツが大量に植えられたが、需要先として期待していた炭鉱の相次ぐ閉山や、建設業も工事用支柱を鉄パイプに切り替えたことなどにより、需要は大幅に減っている。 このため価格も低迷、伐採時期がきても売れず、労働力の不足もあって手入れ不十分のまま放置されている造林地が増えている。


林 業  北海道の林業は、明治時代末期に富士、王子などの製紙工場が建設されてから発展し、水産、石炭、農業と並んで北海道の基幹産業の地位を築いてきた。 しかし、経済の高度成長期に入ると道内総生産に占める林業生産の比率が他産業に比べ低く推移したため、総体的に地位が低下し、昭和35年(1960)度に約6%であったが、平成5年(1993)度には0.24%まで減少している。 ただし、道内林業の基板として発展してきた木材・木製品製造業やパルプ・紙・紙加工品製造業などの木材関連産業は道内全製造業における工業総出荷額の16%を占めており、山村地域の経済を支えている。
 一方、平成6年(1994)度の道内素材生産量は486万7000立方㍍で、年々減少傾向にある。 しかし、全国生産(2440万立方㍍)の約20%を占め、道内木材需要(1130万立方㍍)を満たす外材輸入は56.9%で、全国平均の77.6%を下回っている。 いまだ、「森林王国」の地位を維持している。
 しかし、①一般民有林の手入れ放棄の増大、②カラマツ材需要の低迷、③外材依存率上昇に伴う内陸林産業の不振、④営林局・営林署の統廃合など合理化の嵐、など重い課題を抱えているのが、北海道の林業が置かれている現状である。


(3)上湧別町の森林と林業  
森 林  第3期上湧別町総合計画(平成3年~同12年)の主要施策「計画的な土地利用の促進」で、森林に触れている。 それによると、「森林資源の蓄積と活用の高度化に努めるとともに、水源の涵養など公益的機能の維持をはじめ、保全、保健休養、景観風致の維持など多様な公益的価値を有していることから、町民一人ひとりが森林のもつ機能を理解し、認識する場づくりを勧め、次代に向けたわが町の大きな財産となる森林の的確な保全、整備を図ります」とのべている。
 上湧別町の森林は、ここ20年ほどの間に面積は減ったが、蓄積量は増加している。 昭和50年(1975)度に8307㌶あった森林面積は、平成8年(1996)度には7664㌶となり643㌶(7.74%)減少している。 総土地面積1万6069㌶に対する森林の割合も、51.7%から47.7%へと低下、50%を割っている。 これは農業の耕地面積や市街地の拡大で宅地などが増えたためである。 耕地面積は、昭和51年(1976)2988㌶であったが、平成8年度には3384㌶と11.7%も増加している。
 森林の所有者別では、国有林の3%は全く変わっていないが、町有林が17%から23%へと増加したのに対し、私有林は80%から74%へと減少している。 樹種別では約48%を占めていたカラマツ、とど松の針葉樹の割合が約56%へと増え、あとはシラカバ、ナラ、シナ、カエデなどの広葉樹林と一部原野である。
 人工林の造成は森林面積の64%に当たる4878㌶を目標に設定、造林を進めているが、平成7年(1995)度末の達成率は約86%で4182㌶となっている。


町有林  上湧別町は、町有林の森林施業計画(平成6年4月1日~同11年3月31日)を策定し、計画的に整備を進めている。 平成6年(1994)度における町有林は、山手、南兵村、学校基本財産、富美普通基本財産、上富美普通基本財産、薪炭備林、手拭山の各団地合わせて1688.68㌶である。 管理形態別では、直営林が最も多く、1607.32㌶、次いで牧野林56.56㌶、学校部分林21.48㌶、部落部分林3.32㌶となっている。 林相で区分すると、天然林は648.64㌶(38.4%)、人工林は1034.28㌶(61.2%)、無立木地が5.76㌶(0.4%)で、これを蓄積量に換算すると、天然林11万1175立方㍍、人工林18まん194立方㍍、合わせて29万1369立方㍍になる。 1㌶当たりの平均蓄積量は、177立方㍍と比較的多い。 天然林の面積は樹種別で広葉樹が過半数を超えるが、針葉樹と広葉樹の混交林が約33%になっている。 人工林の面積はカラマツ、トドマツなどの針葉樹が圧倒的に多く全体の78.5%を占めている。 広葉樹はシラカバが21.3%、イヌエンジュが0.2%である。
 森林施業計画においては、平成11年(1999)3月31日までに、人工林伐採跡地5.2㌶で才蔵林を行いほか、天然林では将来利用価値の高いミズナラ、シナノキ、オオバボダイジュ、ハリギリ、アオダモ、エンジュを有用広葉樹として除間伐を行うことにしている。 さらに、混交林では、とど松と有用広葉樹とが共存する施業を行い、除間伐により優良大径材生産を目指している。 また、適正伐期達したものから択抜を実施、輪伐施業の確立を図ろうとしている。 人工林施業については、カラマツが一部主伐時期を迎えているので、適時伐採に当たる。 計画期間末における林地利用目標は、天然林601.12㌶(37.4%)、人工林1006.04㌶(62.5%)、無立木地0.16㌶(0.1%)と設定している。


林 業  国有林と町有林が全体の4分の1程度しかない上湧別町では、私有林で新規に造林するための更新伐採による生産しかなく、素材生産は年々減少している。 ピーク時の昭和60年(1985)度には2万6264立方㍍を生産している。 しかし、翌61年(1986)には一挙に5711立方㍍まで減少、その後は一進一退を繰り返し、平成6年(1994)度は過去最低の2962立方㍍に落ち込んだ。
 林産製品出荷額も、やはり減少の一途をたどっている。 昭和50年度以降で最も多かったのは、同52年(1977)度の31億5100万円であったが、その後は10~20億円台で増減を繰り返したが、平成6年(1994)度には、ついに10億円台を割り込み、6億7193万円にとどまった。

造材と木炭  昭和30年(1955)ごろまで主流であった冬山造材は、やがて夏山造材へと変わり、冬山造材は完全に姿を消した。 立木調査が終わり売買の契約が交わされると、いよいよ伐木となるが、かってのマサカリ、ノコなど杣夫(伐木・造林に従事する林業労働者の旧称)の7つ道具は機械化され、伐木、枝払い、玉切りなどはすべてチェーンソーで処理するようになった。 それに伴い新しい職業病として白蝋病が大きな問題となった。 馬による集材もカンキ(簡易起動機)や集材機、ブルドーザー、トラックなどが次々と登場し、作業風景が一変した。 これにより造材労働力は少なくてすむようになったが、一方で、農山村過疎の一因となった。 昨今では林業労働者の高齢化や担い手不足で、逆に労働力が足りなくなっている。
 木炭は、石油や石炭が十分に行き渡る以前は、薪とともに重要な暖房、調理用の燃料であった。 このため、上湧別町内でも自家用、販売用との需要が多く、炭焼き窯があちらこちらにできた。 しかし、径材の高度成長とともに、石油やプロパンガスに押され生産者も少なくなった。 また、原木の枯渇も加わって、最近はレジャー用、一部飲食店用として、細々と需要と供給がつながっているにすぎない。
 上湧別町内でもわずか1ヶ所残っていた炭焼き窯も平成8年(1996)で営業を取りやめた。

 
  第二節  林業振興事業 
    (1)森林整備事業計画
計画策定の背景  森林に対する国民の期待と要請は、日本経済の急速な発展、都市化の進展などに伴い、一段と高度化、多様化している。 しかし、森林資源は育成途上の人工林が中心となっているのに加えて、近年の林業採算性の低下、担い手の減少・高齢化などの厳しい情勢のもとに置かれ、森林の管理水準が下がっている。 特に山村地域においては過疎化、高齢化の進行などにより、その活力が停滞して大きな社会問題になっている。
 このため、「緑と水」の源泉としての質の高い森林の整備推進、1000万㌶に及ぶ人工林を生かした国産材時代の実現、山村地域の活性などのための造林・林道事業の計画的推進を図ることになり、国は平成4年(1992)度を初年度とする森林整備事業計画を策定した。
 この計画は、①森林資源の質的高度化、②多様な森林の整備・利用、③流域林業活性化のための条件整備、④山村の活性化、を基本方針として、平成8年(1996)度までの5年間で、全国の投資規模は3兆9000億円である。
 北海道でもこの森林整備事業計画の基本方針に沿って、「森林整備対策事業実施要領」を定め、各市町村の森林整備計画に基づき、①人工林育成特別策定事業、②良質材産地形成パイロット事業、③間伐促進特別事業、④間伐促進対策事業、の各府事業に対し、市町村や森林整備補法人へ経費の一部を補助することとした。 これらの補助は、人工造林、枝打ち事業、間伐事業、間伐作業道の整備、流通施設などの整備を促進することを目的としている。
 上湧別町は、近隣の町村とともに昭和60年(1985)に「森林法」に基づく森林整備市町村、平成2年(1990)に「過疎地域活性化特別措置法」による過疎地域と「北海道産地形成型林業構造改善事業実施要領」に定める産地形成型林業構造事業地域の指定を受けた。 上湧別町森林組合との提携のもとに、森林総合整備事業や人工林育成特別対策事業を活用、民有林の育成に努め、町有林についても森林施業計画に基づき、適切な管理運営を図ってきたが、さらに、この「森林整備対策事業実施要領」を活用、事業を推進している。


流域森林総合整備事業  流域森林総合整備事業は、民有林の構造的特質である所有森林の零細性、分散性を克服するためのっさくである。 計画的・組織的な実施方法に基づき、森林整備を流域を単位として総合的に行い、林業生産基盤の整備、林業従事者の雇用の安定、森林の持つ公益的機能の高度発揮などを目指している。
 上湧別町をはじめとした白滝村、丸瀬布町、生田原町、遠軽町、湧別町、紋別市、滝上町、興部町、西興部村、雄武町、の湧別川流域以西の1市8町2村は平成7年(1995)度に流域指定を受けて、網走西部流域森林総合整備事業計画を策定し、「北海道民有林造林事業実施要領」に基づく各種補助を得ながら事業を推進している。 事業内容は、単層林整備(人工造林、下刈り・除間伐・枝打ち、枝落とし・倒木起こしなどの保育)、複層林整備(抜き伐り・枝払いなどの受光伐、樹下植栽、保育、作業路開設)、育成天然林整備(整備伐、改良、保育、作業路開設)、機能増進保育(抜き伐り、保育作業路開設)、環境林整備(森林整備、路網整備、防火施設整備)、修景林整備、防火森林整備(防火樹林帯整備、防火施設整備、路網整備)などそれぞれが、一定の補助の対象になっている。 ただし、採択条件が設けられており、これを満たしたものについて事業が実施される。


造 林  北海道の造林事業は、昭和30年代(1955~)から本格的に開始され、40年以上経過した今日、若く伸びざかりの育成途上の時期にある。 そのため、保育や間伐などをしっかり行うほか、新たな植栽を進めて、造成、整備に努めている。
 上湧別町でも補助事業によって、毎年人工造林や復旧造林を計画的に進めている。 公有林については、全体の面積が4分の1程度とあって、昭和50年(1975)度以降の人工造林の再造林(人工林伐採跡地の植林)と拡大造林(天然林伐採跡地の植林)は少なく、全く実施されない年もあった。 復旧造林においては、公有林は同56年(1981)度のみ嫉視され、それに対して私有林では毎年実施されている。 施業は民有林が中心で、樹種別の造林実績は、近年人工造林、復旧造林ともカラマツ、トドマツ、エゾマツなどの針葉樹と広葉樹である。


上湧別町人工造林推進事業  上湧別町では、森林所有者の負担を軽減することにより育林意欲を喚起し、停滞している造林事業を活性化するため、平成7年(1995)度に「上湧別町人工造林推進事業補助金交付要綱」を制定し、人工造林、除間伐および下刈事業に対し、事業に要した経費のうち公共補助金を差し引いた額の一部について町単独補助金を交付し、健全な森林資源の確保と森林の持つ公益的機能の維持を図っている。

間 伐  間伐を行うことは、それまで育ててきた森林に活力を与え、木材の利用価値を高めるとともに、豊かな水の供給や山林災害の防止などの公益的機能を強化することにもつながる。 また、間伐材の利用促進により、新たな木材か高生産の分野が注目されるようになっている。
 上湧別町では、平成4年(1992)度まで間伐促進対策事業を実施したほか、天然林においては毎年補助事業による広葉樹林の改良や下刈り、除間伐を行っている。 融資事業による天然臨界量、育成・森林整備も昭和59年(1984)度~同63年(1988)度に実施された。


(2)林道と作業路の整備
林 道  生産基盤としての林道は、森林資源開発、施業生産、育林、作業合理化など林業ばかりでなく、その他の産業活動、地域社会形成、地域生活にも恩恵を与える貴重な道路である。 特に奥地山村地域の開発という面から林道の役割は大きく、整備の促進が期待されている。
 上湧別町における林道整備は昭和35年(1960)度から同37年(1962)度までの3年計画で、富美線(幅員4㍍、延長9808㍍)を開設したのが始まりである。 次いで南兵村線(幅員4㍍、延長6126㍍)を同46年(1971)度~同58年(1983)度、南の沢線(幅員4㍍、延長5403㍍)を同48年(1973)度~同51年(1976)度にかけて整備、このうち富美線、南の沢線は同63年(1988)3月31日付で町道に移管された。
 このほか屯田芭露線(幅員5㍍、延長4287㍍)の新設工事が昭和46年度兵士7年(1995)度に進められた。 また、五鹿山線(幅員4㍍、延長2166㍍)は、昭和63年度~平成2年(1990)度に新設されている。 したがって現在、林道に登録されているのは南兵村、屯田芭露、五鹿山3線の総延長1万2579㍍である。 いずれも自動車道に認定されている。 これらの林道の利用森林区域は1116㌶で、その蓄積量は13万8814立方㍍となっている。
 南兵村線は、南兵村一区389番地を起点、南兵村一区560番地を終点とし、町道24号線と国道242号と結んでいる。 屯田芭露線は、北兵村一区3015番地を起点、湧別町芭露718-2番地を終点とし、国道242号に接続している。 また、五鹿山線は北兵村二区の224番地から196番地を巡り、町道10号線につながっている。 このように、いずれも多様な道路機能を発揮している。


作業路  森林総合整備事業や間伐促進対策事業などの地域指定により個人や企業、上湧別町を受益者として開設された作業路は、昭和57年(1982)度から平成8年(1996)度までの15年間で57路線、62.932㌔㍍に達している。 幅員は3~4㍍で、最も延長が長いのは昭和60年(1985)に整備された西尾1号線(富美)の5010㍍である。

 
  第三節  森林の保全 
    (1)自然保護
自然環境の保全  地域環境問題への関心が高まる一方、都市型・生活型公害が目立つようになり、環境問題の多様化、複雑化が進んだ。 それに伴い自然環境保全の大切さが、再認識されるようになってきた。 特にストレス社会の重圧の中では、豊かな緑、清らかな水、すがすがしい空気、ゆとりある空間、美しい景観などに帯する人々の欲求が高まっている。
 平成5年(1993)、「環境基本法」が施行されたのに続き、翌6年(1994)12月に環境基本計画が閣議決定され、「循環」「共生」「参加」「国際的取組の推進」を長期的な目標として、各方面にわたる環境保全に関する施策が総合的・計画的に展開されることとなった。
 要綱菜環境の保全と創出は、北海道らしい、そして上湧別町らしい、豊かで潤いのある快適な生活空間を作るために不可欠なものである。 そのうえ、地域の活性化や特色づくりにも大いに役立つ、まちづくりの柱の一つといってもいいだろう。


保全樹木の指定  上湧別町は、昭和59年(1984)3月制定の「上湧別町緑豊かな環境づくり基本条例」に基づき、同年10月1日、保全樹木を指定した。
 五鹿山のカシワ、富美小学校のニレなど町内10ヶ所、26本の由緒ある原生木で、いずれも緑のまちづくりのシンボルとしてふさわしい古木、名木である。 「上湧別町緑豊かな環境づくり基本条例施行規則」では、①由緒・由来のあるもの、②住民に親しまれているもの、③原生木で保存価値のあるもの、を対象に、町長が環境保全、美観維持に必要と認めるとき、所有者の同意を得て保全樹木・樹林に指定できることになっている。 上湧別町は条例制定後、自治会や郷土研究などの意見を参考に、候補樹木の名を挙げ検討を進め、最終的に残った10ヶ所について町民のボランティア団体「上湧別町を緑にする会」(竹部行義会長)に諮問、答申を得て指定した。
 指定された保全樹木については、所有者が枯死、損傷を防止し、そのおそれが生じた場合には速やかに町長に報告する義務があり、町長は保全に必要な経費を援助することができる。 また、樹名や由来を書いた標識を設置している。
 指定された保全樹木は次のとおりである。
カシワ原生木】(上湧別神社内)
  由緒ある屯田兵中央練兵場跡地に残る原生木1本
【カシワ原生木】(上湧別神社内)
  屯田兵が練兵の汗をぬぐい憩いの場とした由緒ある原生木4本
【ニレ原生木】(開盛市街堤防横)
  屯田兵の機動演習などで涼を取った記念原生木1本、当時の陸軍省測量木
【カシワ原生木】(開盛小学校内)
  大正2年(1913)の開盛特別教授所開設当時から人々に親しまれ、
  同校のシンボルとなっている原生木4本
【イタヤ原生木】(開盛、山川宅前)
  大正2年5月10日、開盛特別教授所通学路開削の際残された原生木1本
  開盛地区会創立公共事業記念木
【カシワ原生木】(4の1,樋口宅内)
  兵村宅地内に残るただ1本のカシワ原生木
【カシワ原生木】(富美小学校内)
  大正2年、富美特別教授所開設以来親しまれ、
  同校のシンボルとなっている芸西木1本
【ニレ原生木】(富美小学校内)
  大正2年、富美特別教授所開設当時から児童、先生、父母などの思い出が
  数多く刻まれている原生木1本
【カシワ原生木】(北兵村二区高台)
  高台窪地のため残された珍しい原生木8本
【カシワ原生木】(五鹿山)
  一般山林にはなかなか見当たらない原生木4本

 この保全樹木のうち、上湧別神社公園のカシワ1本と開盛小学校のカシワ4本が平成4年(1992)8月11日に北海道自然環境保全記念保護樹木に指定された。 上湧別神社公園のカシワは、高さ22㍍、幹の直径1.32㍍の巨木で推定樹齢は400年といわれている。 開盛小学校のカシワ4本は、高さ19.3~27.8㍍、直径0.7~1.31㍍でいずれも推定樹齢400年である。


(2)鳥獣保護
鳥獣管理  野生鳥獣は、人類にとってかけがえのない地球資源の一つである。 農林水産業における害獣、害虫などの天敵として貢献、または狩猟やバードウォチングなど、野外レジャーの対象として有益な存在になっている。 野生鳥獣の合理的な保護・管理のためには、科学的根拠に基づく生態系と生息個体数の把握が不可欠である。
 北海道に生息する動物は、津軽海峡を境にして大きく変わっている。(これをポラキトン線と呼ぶ)ために、ヒグマ、シマリス、ナキウサギ、タンチョウ、エゾライチョウ、シマフクロウなど本州ではみられない鳥獣が少なくない。 しかし、開発が進むにつれて生息地が狭められ、生息数が減少し、絶滅が心配されるされるものも出てきている。
 性質が荒いヒグマなどは、開発に追い詰められて、逆に登山者や家畜を襲う例もしばしば起きている。 しかし、捕獲の重要性が叫ばれる一方保護すべきだという意見も強く、人間との共存策が問われている。 その反面、かって絶滅の危機に遭ったエゾシカは、個体数がかなり増加し、農作物や森林に被害を与えている。 生態系を守りながら、共生の関係をどう保っていくかが、大きな課題となっている。


鳥獣保護区  鳥獣保護区は、鳥獣の保護繁殖を図るため設定される区域である。 森林性の鳥獣をはじめ水鳥、海鳥などの集団繁殖地を対象にしたものなど、7種類の保護区がある。 絶滅のおそれのある鳥獣の生息地や、主要な渡り鳥の経路上にある渡来地など、全国的な視野から鳥獣の保護上重要なものは環境庁長官が、そのほかは都道府県知事がそれぞれ設定し、鳥獣の捕獲を禁止している。 保護繁殖にとって、特に必要な地区には、特別保護区が指定され、ここでは水面の埋め立て、干拓、立木竹の伐採、工作物の設置などが規制される。
 北海道においては、野生鳥獣の生息環境がより良く保全されるよう、多様な生息状態にある各種鳥獣の特性を配慮しながら、鳥獣保護区が決定されている。 概設鳥獣保護区の配置状況、土地の所有・利用状況、自然公園など他の法令による保護・保存の実態が勘案され、森林、集団渡来地、集団繁殖地、鳥獣誘致林の必要地区などを対象に設定されている。
 上湧別町では昭和49年(1974)から3年間、湧別川東部地区が休猟区に指定されていたが、その後、平成7年(1995)10月に上湧別東部休猟区の指定を受け、同10年(1998)9月まで鳥獣の狩猟が禁止されている。 五鹿山公園一帯は昭和62年(1982)10月1日から平成9年(1997)9月30日まで鳥獣保護区に指定されている。


有害鳥獣の駆除  森林や農作物ばかりでなく、人畜にも被害を及ぼす鳥獣はかなり多い。 畑作物を荒らす鳥獣としては、主にカラス、ハト、カケス、キツネ、エゾシカ、ヒグマ、ネズミ、ノウサギなどが挙げられるが、このうちエゾシカ、ネズミ、ノウサギなどは森林に被害を与え、またキツネ、ヒグマは人畜にも危険な存在である。 ヒグマは人畜を襲うし、キツネは家禽を襲うばかりでなく、恐ろしいエキノコックス症の媒介動物としても知られている。
 北海道においては、一般の狩猟期間を10月1日から翌年1月31日までと定め、さらに、対象鳥獣も20数種に絞って許可している。 有害鳥獣の駆除は、具体的な被害が発生したり、エキノコックス汚染地区のように被害が予想されるときに、上湧別町や北海道の許可を得て狩猟者の協力により実施している。 上湧別町における最近の鳥獣捕獲状況は、ヒグマはほとんどなくキツネ、エゾシカに集中している。


(3)森林被害とその防除・防災
森林被害  森林被害には、病虫害・獣害などによる生物被害や、嵐・霜・雪などによる気象上の被害、落雷・火山の爆発などによる自然災害被害、煙害・薬害・山火事などの人為的被害がある。 広い意味で考えれば、乱開発による環境保全の侵害も人為的被害といえる。 これらの防除・予防の在り方について、生物被害に対しては、「森林保護」、気象、自然、人為的被害に対しては、「防災」というように使い分けている。 森林被害の形としては、森林そのものや苗木が、①枯死するもの、②価値を失うもの、③成長が著しく阻害されるもの、④成長などにほとんど影響がないもの、などがある。 森林の場合は成長が遅いため、被害にかかりにくい森林の育成や、早期適切な防除が望まれる。

病 害  森林被害の第一は、育成樹種の主力であるカラマツの先枯病である。 造成された拡大造林地や苗畑に発生し被害が大きい。 このほかにカラマツの病害としては落葉病、ナラタケ病などがみられる。 第二に被害が多いのは、郷土樹種のとど松の胴枯れ病である。 凍・霜害によって生じた枯れ枝や、傷口から菌が侵入して枯死に至り、やはり、造林地で発生する。 とど松の病害にはこのほかに、がんしゃ病、天狗病、葉錆病などがある。 また、ストローブマツ、アカマツ、クロマツの葉錆病、ポプラの胴枯れ病、錆病も知られている。
 病害は、上湧別町の森林でも毎年のように多かれ少なかれ発生している。 平成5年(1993)には、カラマツ造林地など23.04㌶にわたって被害に見舞われ、翌6年(1994)に植林している。


害 虫  害虫の被害にも、いろいろな形がある。 被害をもたらす害虫の数も多い。 近隣町村ではマイマイガ(ブランコケムシ)、ツガカレハ、カラマツヤシバキクイなどが大発生。 トドマツやカラマツに大きな被害を受けた例も少なくない。 昭和52年(1977)には、上湧別町開盛の一部にカラマツヤシバキクイが発生している。
 木の皮の下や材質を食べる食材性害虫(マツクイムシ、コウモリガ、トドマツミキムギリガなど)、樹液を吸い取る吸収性害虫(トドマツオオアブラなど)、葉を食害する食葉性害虫(カラマツハラアカハバチ、ツガカレハ、マイマイガなど)、葉や枝に寄生してこぶを作る蝿形成害虫(クリタマバチなど)いずれも、被害程度が大きければ生長を阻害したり枯死させたりもするので、適切な防除対策が求められる。


獣 害  北海道の森林を害する野生獣は、ノネズミ、ノウサギ、ヒグマ、エゾシカなどが代表的なものである。 その中でも特にノネズミの被害が圧倒的に多い。 ノウサギの被害は、少なくなかったが、天敵のキツネの生息数増加によってめっきり個体数が減り、食害が減少している。 ノネズミについても、キツネに捕食され、個体数は減っているといわれるが、森林被害は相変わらず各地で報告されている。
ノネズミは、マツ類を中心にアカマツ、ヤチダモ、ナラなどに被害を与える。 上湧別町の造林地でも、被害が毎年出ている。 比較的被害が大きかった昭和59年(1984)は3100㌶に及び、70立方㍍材積被害(木材を量的換算した被害)を受けた。 平成元年(1989)には988㌶で328立方㍍の被害を被っている。


気象被害  材積被害まで及ぶことは少ないが、それでも霜、雪害を受ける場合がある。 平成2年(1990)5月には霜害で148㌶にわたりトドマツが痛めつけられた。

火 災  林野火災は、昭和50年(1975)以降6件発生しているが、いずれも大きな被害は出ていない。 また、胴58年(1983)からは1件も発生していない。 林野火災の防止は、人命、財産の保護という意味合いばかりでなく、山の自然環境の保全にも役立っている。 したがって森林所有者と行政が一体となった予防対策の徹底が求められている。 アウトドアレジャー熱の高まりとともに、入林者の増加が予想されるので、それらの人たちに対する防火思想の普及宣伝の重要性も一層増している。

   
  第四節  緑化運動 
    (1)緑の募金
緑化運動の歩み  緑化運動は、第二次世界大戦後の荒廃した国土を、緑によって復興しようと始まった。 衆参両議院の決議に基づき、昭和25年(1950)1月、全国的な「国土緑化推進委員会」が発足した。 同年5月に、北海道にも緑化推進委員会gは設立された。 同推進委員会は、国民・道民そうぐるみの緑化運動を展開するとともに、緑の羽根募金運動を推進した。 ボランティアによる国土緑化のシンボルとして、長い間親しまれてきた緑の羽根募金は、国民から巨額の浄財を集め、様々な六課活動に役立てられた。

「緑の募金による森林整備頭の推進に関する法律」の制定  「緑の募金による森林整備等の推進に関する法律」(「緑の募金法」)は、国民の自発的な協力を基礎とする「みどり野はね」の基本的な性格を維持しつつ、その基盤強化と取組の多様化を図り、一層拡充・強化して一大国民運動まで高めようというのがねらいで、平成7年(1995)6月1日から施行された。 これにより「緑の羽根募金」は、「緑の募金」に代わった。 また、都道府県で任意に行われていた活動が、法に基づく活動になった。 募金は、緑化推進のソフト事業のほかに、ハード事業や森林の整備のためにも使われることになり、緑の募金運動を通じて森林整備、緑化に対する理解と認識が深まった。 さらに、募金により森林、学校、公園、街路などの植樹を勧め、美しい緑豊かな国土建設、国内における森林の整備、緑化推進を図ると同時にこれにかかわる国際協力を推進することを目的としている。
 北海道における緑の募金の実施機関は、春が4月20日から5月31日まで、秋は特に実施期間を設定していないが、イベントなどが行われた場合、緑の募金箱を置くことにしている。


(2)植樹と緑のふれあい
「上湧別町緑豊かな環境づくり基本条例」の制定  上湧別町は従来から春の花いっぱい運動をはじめ、国道242号沿いのチューリップ公園の整備など、花と緑のまちづくりを進めてきた。 さらに、協力に町民ぐるみで緑の環境整備を進めるため、昭和59年(1984)に「上湧別町緑豊かな環境づくり基本条例」を制定した。 ちょうど五鹿山の観光開発が、本格的に着手される運びになっていたときであり”観光のまち”上湧別のイメージアップを図るねらいもあった。
 この条例は、全体で16条から成り、その第2条で「緑だけが持つ豊かさを享受できる環境を造成・保全し、これを現在に生きる私たちが未来の町民に残す遺産として継承しなければならない」と、基本理念をうたっている。 具体的にな施策として盛り込まれているのは、緑化協定の締結とその実施・促進、緑のふれあい月間の制定とふれあい事業の推進、保全樹木の指定など、緑の環境整備の官民一体となった方向付けである。 特に緑の保全とともに、樹木、草花の植樹・植栽による緑の創出に力点を置いている。


緑のふれあい月間  緑のふれあい月間は、毎年5月に設定されている。 植林を奨励し、自然を守る運動を進める「緑の週間」(4月23日~4月29日)、自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育む「緑の日」(4月29日)に加えて、上湧別町民の緑化思想の啓蒙夫教育委員会宇土、町民参加の植樹や六課活動を展開しようというものである。
 「上湧別町緑豊かな環境づくり基本条例」に基づき、第1回の緑のふれあい月間は、昭和59年(1984)5月に実施された。 月間のイメージ行事は13日の植樹祭であった。 町が大半の土地を買収して町有地となった五鹿山を会場に、「五鹿山町有化・緑豊かな環境条例制定記念」と銘打ち、町民約500人が参加して、北側斜面にレンゲツツジ2000本を植えた。 また、この年1月~4月までに挙式したカップル20組が、記念のオンコを植栽した。 さらに、この日、上湧別地区コミュニティ協議会の若者達が自治総合センターの、緑の宝くじ募金を受け、かって上湧別町の特産物の代名詞だったリンゴの木108本を上湧別町農村環境改善センターの周囲に植樹した。
 また、リンゴに代わる一村一品づくりの願いを込めて、上湧別町はサクランボの苗木を斡旋した。 町民から多数の申し込みがあり、課程での植樹熱も高まった。 上湧別町では、さらに、五鹿山に梅800本を植えたほか、町内4の3の八幡通りなどで、梅並木造成に取りかかった。
 翌昭和60年(1985)4月に、上湧別町建設業協会がボランティアで町内5ヶ所(東町公園道路、東町2線道路、東2線道路、東4線道路「湧愛園」)に合計454本のヨーロッパ赤松を植え、並木を造成している。 こうして毎年緑化活動を進めたほか、平成5年(1993)5月8日には、網走支庁管内で初めて北海道の「一人一本植樹運動定着促進事業」を導入、小、中学生54人が文化センターTOMに集まり、子供森林教室で専門化から緑化の話を聞いたあと、文化センターTOM周辺にドウダンツツジ100本を植えた。 同8年(1996)5月25日、開基百年記念植樹祭が、開盛橋の湧別川堤防(4の1)を主会場に町内各地区で行われた。 約300人の町民が参加、主に湧別川堤防に桜82本、開盛29号線道路に桜100本、上湧別神社に桜50本、チューリップ公園にイチョウ15本、中湧別東2条幹線道路にブーゲントーヒ350本、五鹿山に桜100本、五鹿山パークゴルフ場に白樺50本、桜100本が植えられた。


緑化協定  緑化協定は、「上湧別町緑豊かな環境づくり基本条例」の田尾5条に定められている。 同条文では「町長は、緑化を推進するため自治会・事業者・その他団体と緑化の協定を締結することができる」とし、緑化協定においては、①緑化協定の目的となる区域、②緑化推進の内容、③緑化協定の有効期間、④その他必要な事項、について取り決めるとしている。 第6条では「町長は、前条の協定を締結したものが実施する緑化事業に関し、必要と認めるときは、指導・助言及び予算の範囲内で援助することができる」となっており、経費の援助も行う。
 緑化協定を結んだのは、自治会など8団体である。 いずれも昭和60年(1985)6月1日から同63年(1988)5月31日までの3年間で、それぞれの目的となる区域において植樹を行おうというものであった。 緑化推進の内容は、例えば、北町自治会の場合、北町広場内に桜30本、オンコ100本、ナナカマド30本、5の1自治会の場合、5の1広場内にヨーロッパ赤松23本、桜10本、レンゲツツジ50株、エゾムラサキツツジ50株をそれぞれ植栽するというものであった。
 いずれの協定者に対しても、昭和60年度に限り苗木は上湧別町から無償で提供され、植栽が終わったあとも協定者が、樹木の維持管理を行っている。 緑化協定は、同年度締結分以外、新たなものは出ていない。

 
 
  第五節  上湧別森林組合 
    組合の歩み  わが国の「森林法」は、明治30年(1897)に初めて制定され、同40年(1907)の同法の一部改正により森林組合制度が誕生した。 森林組合の組織化が北海道にも適用されるようになったのは、昭和14年(1939)、同法が一部改正されてからである。 実際に組織化が具体的に進められたのは同16年(1941)からで、その背景には戦時体制強化の国策があった。 上湧別村では、同17年(1942)6月に森林組合が設立された。
 上湧別村の民有林では、大賞年(1918)ごろから造材が行われていた。 その後、植林に対する国の各種奨励策が講じられたが、本格的な奨励、私道が実施されるようになったのは戦後である。 昭和26年(1951)、国の民主化、資源増強政策の一環として協同組合原則を取り入れた「森林法」が全面的に改正され、森林組合制度の大改革が断行された。 その内容は、①加入自由の原則、②民主的運営の原則、③出資配当制限の原則、④余剰金処分方法の原則、⑤教育活動促進の原則、が柱であり、上湧別の森林組合も新しい理念に基づき再発足した。
 森林所有者も木材資源の重要性、経済性を認識するようになった。 造林に対する意欲も高まったが、それも昭和44年(1969)をピークとして低下している。 天然林伐採による拡大造林が減少し、また、人工林が高齢林になり人工林伐採跡地の再造林の比重が高くなっている。 この間、森林組合の組織機能の強化充実が図られた。


組合の事業  森林組合の事業として、一時造林用苗木の生産・販売を行っていたが、造林面積の減少に伴い昭和52年(1977)度に廃止している。 また、同年湧別町森林組合との共有苗圃の所有権を上湧別町森林組合に移転している。 それ以来、各事業が低迷しする中、同56年(1981)度には間伐促進対策事業の地域指定、同57年(1982)度には国の第一次森林総合整備事業の地域指定を受けた。 この制度は、森林の育成を総合的に促進するもので、造林、下刈り、除間伐、広葉樹林改良、造林作業路整備など各事業が飛躍的に拡大した。 引き続き同62年(1987)度第二次森林総合整備事業と平成4年(1992)度に第三次森林総合整備事業の地域指定を受けた。 しかし、同2年(1990)ごろから林業会全般にわたり長期的、構造的な不況が広がり、育成意欲が停滞傾向となった。 このため国の施策も改正され、同7年(1995)度に新たに流域森林総合整備事業の地域指定を受けて、各種事業の拡大、林業技術指導の現地指導強化などに努めている。 森林組合の職員数は、昭和48年(1973)度には職員3人、作業員6人と隆盛を誇っていたが、苗畑事業の廃止や造林事業等の減少により同51年(1976)度からは職員1人体制で事業を実施している。
 また、経営状況も、各種造林事業の低迷により、年々悪化してきた。 しかし、民有林(私有林)事業の育成振興のためには、森林組合は欠かせない存在であるため、上湧別町は平成4年度に、「上湧別町森林組合運営補助金交付要綱」を制定し、運営補助金を交付している。 さらに、同8年(1996)度から町有林の造林事業等を全て森林組合に委託するなど、森林組合経営の安定と強化を図っている。
 一方、近年、地球環境問題が大きく取り上げられるようになり、都市住民をはじめとした多くの国民の森林に対する関心が高まってきた。 木材生産はもとより、水問題を中心に公益的機能を重視する考え方が強まり、森づくり、森林の保全などに寄せる国民の期待は増大している。 林業界全体を取り巻く環境は厳しいが、地域民有林の担い手である上湧別町森林組合葉、組合員の利益を守ることを使命としながら、森林の公益機能の維持増進に取り組んでいる。


 
  第六節  北海道さけ・ますふ化場 
    ふ化場の歩み  遠く歴史をさかのぼると、明治25年(1892)、天然産卵保護のため、湧別川に季節看守を置いたことに始まる。 大賞9年(1923)に上湧別村社名淵(現、上湧別町開盛)に施設が整備され、孵化事業が開始された。 それ以降、昭和9年(1934)4月、北海道庁虹別鮭鱒孵化場付属の湧別孵化場、同年7月北海道鮭鱒孵化場管下の北見支場、同61年(1986)北海道水産孵化場北見支場管下の湧別事業場と変遷を重ねた。「水産資源保護法」が昭和26年(1951)12月に成立すると事業は国営に移管され、翌27年(1952)4月、国立の人工孵化放流組織として水産庁北海道さけ・ますふ化場北見支場管下の湧別事業場となった。

湧別事業場の民営化  組織ばかりでなく、技術・経営面でも幾多の変遷を経たが、「水産資源保護法」の成立によって、ようやく現在の孵化放流事業の基礎が整備された。 同法は「水産資源の保護培養を図り、かつ、その効果を将来にわたって維持することにより、漁業の発展に寄与する」ことを目的とし、国、北海道、民間受益者が協力して人工増殖事業に取り組んだ。
 湧別川においては昭和50年(1975)に下流部の湧別町5線、同58年(1983)に上流部の丸瀬布町に事業場が開設され、上湧別町開盛の湧別事業場と合わせて、3施設となったが、同63年(1988)4月1日付けで民営化された。 それに伴い施設・財産は地元上湧別町へ、事業そのものは民間組織の(株)北見管内さけ・ます増殖事業協会に移され、国の計画に基づき事業運営を行っている。 名称も湧別事業場から湧別収容場に変更されている。


 
第三章  商工業 
  第一節  商工業の変遷 
topへ    (1)日本経済の動き
オイル(石油)ショック  昭和48年(1973)10月6日、第四次中東戦争が勃発し、第一次オイル(石油)ショックに見舞われた。 物価上昇に拍車がかかり、やがて狂乱物価となってインフレがさらに進んだ。 政府、日銀は公定歩合を9%まで引き上げ、公共事業の縮小を中心とした総需要抑制策を実施した。オイル(石油)ショックは、同49年(1974)春をピークとして沈静化した。 しかし、生産活動は低迷し、同年度の実質経済成長はマイナス0.2%となり、戦後初のマイナス成長を記録した。
 世界経済が第一次オイル(石油)ショックの打撃から立ち直りかけた昭和53年(1978)12月10日、イラン革命が起こり、再び石油価格が高騰し、第二次オイル(石油)ショックとなった。 石油価格は2.5倍にはね上がり、再び世界経済を震撼させた。しかし、日本経済は同55年(1980)度で実質経済成長率3.2%を達成、消費者物価上昇も同55年9月を頂点に前年比8.9%にとどまり、打撃は最小限に抑えられた。 これは第一次オイル(石油)ショックの反省が生かされたことと、企業を中心として省エネルギー、省資源などによる減量経営の努力が実ったものである。
 二度のオイル(石油)ショックを挟んで、日本の経済は、高度成長から安定成長へと移行した。 高度成長を支えてきた素材型産業の競争力は大きく低下したが、その一方でハイテク、情報産業を核として広範囲な産業分野で知識集約化、ソフト化、サービス化が進み、日本の産業経済の体質が転換した。
 石油危機脱出のきっかけとなったのは、輸出の増加である。国際競争力の強いカラーテレビ、自動車、鉄工、造船など特定産業製品の欧米への輸出により、円安・ドル高が急速に進んだ。昭和60年(1985)9月のプラザ合意(先進5カ国蔵相中央銀行総裁会議における合意事項)に基づき、円安・ドル高は是正され、その月に1㌦240円であった為替レートが同62年(1987)末には1㌦120円となり2年間で2倍の円高を記録した。 これにより国内の輸出産業は大打撃を受け、景気は大幅に落ち込んだ。 その一方でドル表示による日本経済の規模は一層拡大し、世界経済に占める日本の役割は、ますます重要性を増した。
 こうした状況の中、昭和61年(1986)4月7日に国際協調のための経済構造調整研究会の報告書(前川レポート)、同62年4月23日に経済審議会の経済構造調整特別部会の報告書(新前川レポート)が提出された。 これは、①日本の経済構造を国際的に調和のとれたものにし、阿智外不均衡を是正する、②内需主導型の経済構造に変え、国民生活の質を向上させていく、という目標を明示したものである。
 政府、日銀は円高不況に対して公定歩合を引き下げたほか、公共投資の拡大措置などを行い、景気は昭和61年11月を底に、力強く回復に向かった。 この景気拡大の特徴は、従来のように外需依存ではなく、内需主導によるものであった。 内需主導による経済成長の原動力は、①情報通信技術を中心とした技術革新の進展、②生活の質的向上欲求の高まり、③国際的な資本移動の活発化、④アジアNIES(韓国、台湾、香港、シンガポール-新興工業経済地域)諸国の発展などに伴う水平分業(先進工業国が相互に行う経済交流)の進展、などであり、産業構造の体質に変化がみられるようになった。


バブル経済とその崩壊  昭和60年(1985)のプラザ合意を契機として進んだ円高不況に対し、これを逆手に輸入価格の低下、低金利、石油安の3つの有利な点を生かして、同61年(1986)11月を底に景気は上昇へ転じた。 この好景気は、戦後最長といわれた「いざなぎ景気」(57ヶ月)に次ぐ大型景気と成り、「平成景気」と称された。 設備投資、住宅投資、個人消費による内需主導型の自律的な成長が、「平成景気」の最大の特徴であり、その需要拡大は偏りのない全員参加型であった。 
 一方、円高のもと、空前の低金利の時代が続いたことを背景に、株価、地価などの資産価値は著しく上昇した。 これにより平成元年((1989)末の国民総資産残高は、GNP(国民総生産)の17倍、6853兆円に達していた。 経営のストック(蓄積)化傾向が強まり、土地や株式に対する投資が集中した結果、資産価値もさらに上昇、経済にプラス効果をもたらした。 しかし、「持つ者」「持たない者」の間の格差拡大など、様々な弊害も生み出した。 がバブル経済であった。
 昭和62年(1987)10月19日(月曜日)、ニューヨーク市場に端を発した世界的な株価の大暴落(ブラック・マンデー)が、世界経済に大きな打撃を与えた。 しかし、日本経済は、比較的順調に推移した。 平成元年5月からの金融引き締め後、バブル経済を牽引してきた設備投資、住宅投資、耐久消費財需要も一巡したことから、同3年(1991)後半に景気は調整局面に入った。 そして高騰を続けていた株価、地価も下落、ついにバブル経済は崩壊した。 株価の下落は、多額の評価損を招き企業収益に重大な損害を与えた。 地価の下落は、不動産関連企業の倒産やノンバンク(預金を受け入れない与信業務だけの金融会社)の業績悪化をもたらした。 なかでも銀行などの金融機関は、不良債権の増大と資産含み益の大幅減少により深刻な打撃を受けた。
 戦後最長の平成不況は、経済企画庁の月例報告、日本銀行の主要企業短期経済観測調査(日銀短観)によると、平成6年(1994)に入りようやく回復の兆しをみせたが、そのテンポは非常に緩やかで、足踏み状態になることもあった。 こうして戦後一貫して続いてきた経済成長上昇基調は終止符が打たれ、一大転換期を迎えることとなった。 それは経済のソフト化(知識・情報・サービス業)、ストック化(物質資産の蓄積)、自由化、ハイテク化(エレクトロニクス・光通信・新素材・バイオテクノロジーなどの技術革新)などへの移行により、成熟期に向かうことを意味している。


(2)上湧別町商工業の動き  
低 迷  上湧別町の産業経済の基盤を揺るがすような事態が、この20数年間に起こっている。 その最大のものは、長い間上湧別町の発展を支えてきた鉄道の廃止である。 国鉄湧網線が、昭和62年(1987)3月19日、JR名寄本線が平成元年(1989)4月30日をもって、それぞれの歴史に終止符を打った。
 列車に代わって代替バスが運行されたが、交通の要衛として栄えた上湧別町にとって、計り知れない大きな打撃となった。 貨物予想はトラックに切り替えられ、住民の交通機関はバスやマイカーに代わった。 湧網線は51年間、名寄本線は68年間も住民に親しまれ、生活や産業経済に密着していた。 それが住民の意思を無視した形で消えていくことに対し、初めは怒りが噴出したが、やがてあきらめへと変わり、町の過疎化が進む結果となった。
 鉄道の廃止ばかりが原因ではなく、離農なども進んで人口も大幅に減り、購買力を低下させている。「」昭和50年(1975)の国勢調査で8324人であった人口は、同55年(1980)には8133人、同60年(1985)には7670人、平成2年(1990)には6852人と、減少を続けた。 同7年(1995)には、ついに6511人となり、昭和50年に比べ、1813人(21.7%)も減少している。 5年ごとの人口減少率をみると、同60年から平成2年にかけてが最も高いのは、明らかに鉄道廃止の影響である。
 このほか北見市、紋別市、遠軽町などに大型小売店舗、町内には24時間営業のコンビニエンスストアが相次いで開店、道路交通網の発達、車社会の進展などとも相まって、消費者の町外流出に拍車がかかり、地元の産業経済に大きな痛手となった。


商工業の動向  前町史の資料によると、昭和50年(1975)度の上湧別町の商工業者数は353で、その業種別内訳は卸売業20,小売業125,飲食業47,建設業39,林業8,植木屋2,運送業7,金融業3,サービス業59,工業43である。 これに対し、平成6年(1994)度の商工業者数は、288で65(18.41%)減っている。 業種の内訳分類は、昭和50年当時と変わっているので、そのまま比較はできないが、建設業と、サービス業は38.58とそれぞれ一業者減にとどまっているのに比べ、小売業は平成6年に92店で33店(26.4%)、飲食業は39店で8店(17.02%)も減少して、人口減などの影響を最も受けている。

撤退企業と進出企業  オイル(石油)ショック、バブル景気とその崩壊、さらに、上湧別町の産業経済環境の変化などもあって、起業・事業所の消長は激しく、上湧別町においても起業の撤退、進出が相次いだ。 昭和49年(1974)に鉄道の合理化に伴って、日本通運(株)上湧別営業所と遠軽通運(株)中湧別営業所が遠軽に吸収されたのに引き続き、同54年(1979)3月1日には雪印(株)中湧別工場が閉鎖され、興部工場に合併吸収されている。 創業40年間の歴史を誇り、従業員70人ほどを抱えた町内民間企業では有数の企業の撤退があった。 同60年代(1985~)には、北海道糖業原料事務所、コーン食品(株)が立て続けに姿を消した。
 そして、昭和62年(1987)は国鉄湧網線の廃止、平成元年(1989)はJR名寄本線の廃止により、北海道旅客鉄道(株)と富士電業(株)上湧別工場が同年4月に撤退した。 このうち富士電業(株)は、神奈川県大和市に本社を持つ電子用機器に使用する特殊ランプ製造会社で、昭和51年(1976)に上湧別町への道外進出企業第一号として上湧別工場を開設していた。 このほか平成5年(1993)に北海道電力(株)中湧別電業所、同6年(1994)にNTT中湧別営業所と日本通運(株)中湧別営業所が次々と閉鎖した。
 これに対し昭和48年10月、群馬県邑楽郡の長柄農業協同組合(現、西邑楽農業協同組合)北海道営業所が、4の1で肉用牛、仔牛飼養を始めた。 同50年代(1975~)にはトラクター・農作業機械販売のMSK東急(株)上湧別営業所、酪農機器販売の北海道オリオン(株)上湧別営業所が開所した。  平成に入ると自動車販売の北見トヨペット(株)トヨタピークル中湧別と北見日産自動車(株)中湧別店が同2年(1990)に、運送の遠軽通運(株)上湧別営業所と建設機械レンタルの共成レンテム(株)上湧別営業所が同5年に、さらに、大型小売店の(株)タカヨシと書籍・ビデオレンタルの(株)タカヨシエンタープライズが同7年(1995)にそれぞれ進出して創業し、上湧別町の商工業は大きく変化し始めている。

  第二節  商工業の振興 
    (1)上湧別町商工会
商工会の歩み  昭和35年(1960)6月、「商工会法」(現、「商工会の組織等に関する法律」)が施行され、地法小規模事業の改善育成が図られることになった。 上湧別町内には従来から上湧別商工会(昭和4年4月設立)と中湧別商工会(同5年4月設立)があったが、いずれも任意団体組織であった。 このため両商工会を発展的に解消し、法律に基づいた法人団体として新しく発足することが決まった。
 上湧別町商工会の創立総会は、昭和36年(1961)12月18日、産業会館で開かれ、定款、役員、事業計画、収支予算などを決定した。 総会員208人で、会長に高橋富作を選任した。 同年12月25日、総会決定に基づき、北海道知事に対し、設立認可を求める申請書を提出、翌37年(1962)1月9日付で設立が認可された。 設立登記が完了して上湧別町商工会が正式に誕生したのは、同年1月25日である。
 事務所は中湧別市街の産業会館内に置いた。 定款では、「地区内における商工業の総合的な改善発達を図り、もって国民経済の健全な発展に寄与する」ことを目的に、①商工業に関し、相談に応じ指導を行うこと、②商工業に関する情報、資料を収集し提供すること、③商工業に関する講習会、講演会を開催すること、④展示会、共進会を開催し、これらの開催の斡旋を行うこと、⑤商工会としての意見を公表し、これを国会、行政庁等に具申、建議すること、⑥行政庁等の諮問に応じて答申すること、⑦商工業者の委託を受けて、当該商工業者が行うべき事務を処理すること、⑧前号に掲げるもののほか、商工会の目的を達成するために必要なこと、などの事業を行うことをうたっている。
 昭和37年4月、経営改善普及員が配置され、経営改善普及事業を開始した。 そのほか、街路灯設置協議会(昭和37年度)を設立して商店街の整備に乗り出したり、商店街の散水実施(同37年度)、花壇の設置(同38年度)、上湧別税務指導所の開設(同38年度)、商店街診断の実施(同43年度)、上湧別町観光協会の設立(同45年度)、商工会館の建設(同48年度)など、積極的に事業を展開した。
 昭和50年代(1975~)には、優良商工会として全国商工会長表彰(昭和50年度)や中小企業長官表彰(同51年度、同55年度)、を受けたのをはじめ、チューリップ加盟店会のスタンプ事業開始(同51年度)、北海道商工指導センターによる商店街診断の実施(同58年度)、中湧別商工振興会の設立(同59年度、ただし、上湧別商工振興会の設立は同36年)などに取り組んだ。
 昭和60年(1985)度以降は、地域小売商業近代化対策調査事業(昭和61年度)・小規模事業等福祉推進事業(同61年度)の実施や、商店街振興特別委員会の設置(同62年)、小売商業振興モデル商工会事業(同63年度)の実施、第一回七夕祭りの開催(同63年度)、経営改善事業推進委員会の設置(平成元年度)、新たなチューリップスタンプ会の設置(同3年度)、カード式チューリップスタンプの採用(同8年度)など、活発な活動を進めている。
 この間には、国鉄湧網線、JR名寄本線の廃止や、雪印乳業(株)中湧別工場の撤退など地域経済に大きな打撃を与える出来事が相次いだ。 しかも、過疎の進行・人口減による消費の減少、消費者の町外流出、地域間競争の激化や価格破壊現象による低価格化、バブル経済崩壊による先行き不透明な経済の低迷など、地元の商工業を取り巻く環境は一層厳しくなっている。 そうした中で、上湧別町商工会は、経営基盤と体質の強化を図るため、経営改善事業を主軸に関係団体と連携を図りながら、地域振興に取り組んでいる。 特に平成6年(1994)度には、道費補助を受け商工会地域振興支援事業を推進するため地域ビジョン策定委員会を設置、基本的な商業活性化ビジョンを策定、商業集積の方向づけをしたのが注目される。
 永年勤続従業員表彰は、上湧別町商工会創立以来、地場産業の発展に貢献している従業員に対して実施している。 これは、従業員の地元定着と励みになっている。


商工会事務所の移転  上湧別町商工会の事務所は、昭和33年(1958)に中湧別中町に産業会館が建設されて以来、上湧別町役場中湧別出張所とともに、産業会館の一室に同居していたが、同48年(1973)9月、隣接地に商工会館が建設され独立した。 産業会館と渡り廊下でつなぐことで用施設を有効に利用することができた。
 しかし、この商工会館も20年近く経過して老巧化したため商工会事務所は、JR中湧別駅構内跡地に平成5年(1993)4月にオープンした文化センターTOM内に移転した。 1階西側の約60平方㍍の事務所である。 文化センターTOMは、近代的な多目的施設で、バスターミナルなども併設されて、利便性は大いに高まった。

 
上湧別町商工会青年部  前身は、昭和32年(1957)に結成された中湧別商工会青年部である。 同36年(1961)、法人組織の上湧別町商工会が設立されるのと同時に、同商工会青年部となった。 初代部長には高田幹夫が選ばれ、屯田市街地からの新規加入部員も加えて商工会事業に協力する一方、青年部独自の活動に取り組んだ。 当初は、総務、厚生、親睦、経営、調査広報の5つの委員会で構成していたが、平成元年(1989)度から総務、事業推進、企画研修の3委員会に変わった。
 最近は、毎年70~80万円程度の事業予算を組み、交通安全キャンペーン、花いっぱい運動、インターナショナルオホーツクサイクリングへの協力、従業員家族慰安のスポーツや娯楽のイベント開催、各種研修会の開催、「青年部だより」の発酵など活発な活動を展開している。 特に平成元年度には、新篠津村の商工青年部と友好青年部として提携し交流を深めているほか、同2年(1990)どからは毎年チューリップフェアでオランダカーニバルを主催、フェアに彩りを添えている。 当初50人ほどいた青年部員は、同9年(1997)4月現在、18人に減っている。 現在の青年部長は毛利強である。


上湧別町商工会婦人部  上湧別町商工会婦人部は、昭和45年(1970)11月15日に115人の部員で結成された。 中小企業を取り巻く経済、経営の環境がますます厳しくなる中、商工業に従事する婦人の経営知識と教養を高め、助成としての特性を生かして商工業の振興に役立てようというねらいで、婦人部の声が商工会の事業や運営に反映されることになった、 初代部長には佐藤富子が選出された。 講習会や研修会の開催、町内施設見学会、道内外研修旅行の実施、部員の親睦交流などにより部員の資質向上に努め、地域発展にも貢献している。
 また、花いっぱい運動、交通安全キャンペーン、老人運動会・交歓会、屯田ふるさとまつり、インターナショナルオホーツクサイクリング、湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会など全町的な運動や催し物にも協力、各種のボランティア活動にも活躍している。 平成9年(1997)4月現在、部員は72人に減っているが、研修と広報の2委員会を両輪として地道な活動を続け、町内の婦人組織としてなくてはならない存在になっている。
【歴代婦人部長】
佐藤富子(昭和45年11月~道52年4月)、此下律子(昭和52年4月~平成6年3月)、上杉智恵子(同6年4月~同9年3月)、鳥羽佐知子(同9年4がち~現在)

(2)産業開発  
上湧別町産業開発事業推進委員会の設立  上湧別町の活性化を探る佐々木義照町長の諮問機関、上湧別町産業開発事業推進委員会(渡辺正喜座長)は、昭和58年(1983)6月、学識経験者20人を委員として発足した。 同推進委員会に第一次産業開発部会(松浦清部会長)、第二次産業開発部会(遠藤俊夫部会長)、地域観光開発部会(宮川俊彦部会長)が設置され、同年7月から同60年(1985)3月まで34回に及ぶ調査、審議を行い、4月に答申した。
 その結果、第一次産業開発については、野菜主産地の形成を提唱した。 その実現のために、各種野菜の優良種苗の確立が不可欠だとして、ウイルスフリー苗の自給体制を目指した最先端のバイオテクノロジー技術者の養成が急務としている。 第二次産業開発では、産業開発センターにおける可食性植物繊維の製品開発、バーボンウィスキーの生産など、市場性のある独自の特産品づくりを提唱した。 このうち植物繊維は当時既にアスパラガスによる製品開発が進んでいて、バーボンウィスキーも新会社が設立されるなど具体化されつつあり、これらの促進が期待された。 地域観光開発については、五鹿山の開発を柱に掲げ、自然を生かしたリゾート型の観光基地として、施設整備の必要性を強調している。


上湧別町産業開発センターの建設  上湧別町は、産業開発推進委員会の審議と並行して、新しい地場産業を開発していくための試験・研究施設として、上湧別町産業開発センターを開設した。 昭和60年(1985)1月16日、北兵村一区にオープンした同センターは、鉄筋セラミックブロック造り平屋建て198平方㍍で作業室(132平方㍍)、低温貯蔵室(26.4平方㍍)、試験室(9.9平方㍍)、事務室(13.2平方㍍)を備えている。 総事業費は約5000万円をかけたが、過疎地域振興特別対策補助事業と郵便局簡易保険積立金還元融資事業を利用した。
 施設の中心となる作業室では、北海道工業試験場と国立遺伝学研究所の指導、協力を得て、アスパラガス食物繊維の試作を始めた。 この植物繊維はアスパラガス缶詰を製造する過程で産業廃棄物として処理されていたホワイトアスパラガスのカット屑を利用して新しく開発したものである。 植物繊維は、血液中のコレステロールを正常値に保ち、植物中の有害物質の毒性を阻止し、大腸癌の発生を抑制するなどの効用が確認されている。 食生活の変化によって、植物繊維摂取量は減少傾向にあり、繊維含有量の少ない加工食品の添加物として、又、新しい健康食品の素材として、アスパラガス植物繊維への注目度が高まっていた。
 この外、低温貯蔵室では、野菜・生鮮食品のチルド(抵当食品と常温食品の中間温度帯にある要冷蔵の者)、冷凍の技術開発を行い、地場農産物の貯蔵や新商品開発を目指した。 試験室には食物加工に必要な菌、酵母などを保管していた。


特産品開発  上湧別町産業開発推進委員会で、企業化の方向が示されたことにより一挙に具体化したのが、バーボンウィスキーの製造、販売の計画であった。 地元で大量に作付けされているスイートコーンを原料に、日本国内で初のバーボンウィスキーをつくろうというものであった。 昭和59年(1984)8月に、地元有志により「上湧別バーボンウィスキー株式会社」(社長渡辺正喜、渡辺組社長、資本金500万円)が設立された。
 東京農業大学に試作・研究を委託、さらに余市町のニッカウイスキー(株)に試験受像を依頼して研究開発に努めた。 しかし、大蔵省の酒類製造免許の許可を得るには相当に時間がかかることが判明したため、バーボンウィスキーは、製造免許の取得が困難で課題が多くやがて製造を中止した。 また、上湧別町産業開発センターは、地元特産小麦を原料とした栄養補給アルカリ飲料の純玄黒酢、蜂蜜入り玄麦黒酢、アルカリ健康飲料ローヤルビネガーの販売を始めた。
 しかし、玄麦黒酢も昭和63年(1988)、業務を上湧別振興公社に委譲したが販路拡大が行き詰まり、平成5年(1993)までにやはり製造を中止した。


(3)上湧別振興公社
公社の概要  上湧別町が発行株式の3分の1を所有する第三セクター、(株)上湧別振興公社は、昭和60年(1985)7月25日に設立された。 事業目的は、運動施設の設置と管理運営、農畜産物の製造加工販売などである。 発行株式の300株(3000万円)のうち100株(1000万円)を上湧別町が、残りの200株(2000万円)を町内の民間、法人が所有した。
 上湧別町は、町の活性化のためアスパラガス食物繊維の商品化、五鹿山の観光開発など矢継ぎ早に新しい事業を手がけてきたが、これらの事業を官民一体で大きく育てるため、第三セクターを事業委託先として新展開を図ろうとしたのである。
 同振興公社は、まず、町内南兵村三区の湧別川右岸河川敷地の一部に、占有許可を持つ町から業務委託を受けて、「リバーサイドゴルフ場」を造成した。 翌昭和61年(1986)7月に刈りオープンして以来、管理運営を行っているほか、同63年(1988)1月から五鹿山スキー場の管理業務の委託も町から受けている。
 その後、同年4月に上湧別バーボンウィスキー(株)から玄麦黒酢業務以上を受けたが、平成5年(1993)に製造を中止した。
 同じ時期に始めた小麦茶の製造販売も、販路が伸びずに同2年(1990)に中止し、また、昭和60年に製造開始したアスパラガス食物繊維の健康食品もアスパラガス耕作の激減や販路の問題、隘路などで平成2年に中止している。
 平成7年(1995)7月には公社創立・ゴルフクラブ創立10周年を迎え、盛大に記念式典を行った。 同8年(1996)度末では、資本金1億8600万円(上湧別町所有8460万円、民間1億140万円)となっている。 初代代表取締役社長の渡辺正喜は、同6年(1994)5月の株主総会で退き、現在は遠藤俊夫が就任している。


(4)上湧別町商工業振興補助事業
商業振興店舗建設等促進補助事業  この事業は、上湧別町内の小売業、飲食業を対象に魅力ある店づくりを促進するため、店舗の新築、増築、改築に対し、上湧別町が助成するもので、平成6年(1994)4月1日に「上湧別町商業振興店舗建設等促進条例」が施行された。 同11年(1999)3月31日までの次元制定である。
 上湧別町商工会の会員で、町税を完納して、工事費が200万以上になる場合に1法人、1個人に1回に限って適用となり、750万円を限度に要した経費の4分の1が助成される。 このような商工業者に対する補助制度は珍しく、商工業振興に力を入れている。
 初年度は美容室、喫茶スナック、写真館、呉服店の4件、平成7年(1995)度は美容室、寿司屋、新聞販売店、商店、旅館など9件、同8年(1996)度は旅館1件が利用、100万円前後から限度額までの補助を受けた。


企業振興促進事業  「上湧別町企業振興促進条例」は、平成5年(1993)7月1日から施行された。 上湧別町内における起業の振興と立地を促進するため、製造・加工、宿泊・観光、その他の施設を新設、移転、増設する者に対して、上湧別町が必要な助成措置を行う。 地元の経済発展と雇用機会の拡大を図るのが目的である。
 上湧別町の産業・観光振興に寄与すると認められる者で、投資額が1500万円以上、さらに、雇用人員が新規に6ヶ月以上常時雇用する場合で新設5人以上、移転1人以上が対象となる。 補助は3750万円(累計補助額は5000万円まで)を限度に投資額の4分の1まで、これを3年分割(ただし1000万円未満は2年分割)により、交付する制度である。
 平成6年(1994)度は木材加工、水産加工、産業廃棄物処理施設など4件、同7年(1995)度は対象がなかったが、同8年(1996)度は水産加工、ブロック製造、セラミック製造、砂利プランターなどの設備4件に、合わせて7210間年の補助を行っている。


新商品開発事業  上湧別町の産業活性化を促すような優秀な特産品を開発するため、平成7年(1995)4月1日、「上湧別町新商品開発事業補助金交付要綱」が施行された。 交付の対象は、上湧別町に居住する個人と団体である。 地場特産品を使用した新商品の開発、町のイメージを高める商品の開発、高付加価値製品の開発、その他町長が特に必要と認めた事業などに対して、50万円を限度に所要経費の4分の1以内が交付される。 さらに、賞品p販売価格により算定した金額(1~10万円)も、合わせて交付される。 
 これまでこの制度を利用したのは、上湧別町のイメージキャラクターのチューピットにちなんだネクタイピン、ブローチ、メダル、ジョッキなどのグッズを製作したセラミック製品製造会社など2件である。


(5)上湧別町商工業資金融資・利子補給事業
中小企業融資資金  「上湧別町中小企業融資条例」は、融資、利子補給事業の中では、最も古い制度である。 中小企業の育成振興、経営の合理化を促進し、その経済的地位の向上と事業運営の基礎となる資金運用の円滑化を図ることを目的に、昭和41年(1966)4月1日から、施行されている。 融資対象は「中小企業協同組合法」による協同組合、企業組合、あるいは会社、個人で町内に独立した事業所、店舗を持ち、同一事業を引き続き1年以上営んでいる者8ただし、遊興娯楽など不急の業種を除く)のうち、町税を完納している者となっている。 平成元年(1989)までは「上湧別町商工振興設備資金貸付要領」で運用されていたが、同2年(1990)4月1日からは、「上湧別町中小企業融資条例施行規則」で運用されている。
 融資は運転資金と設備資金に分かれ、運転資金は2000万円以内を24ヶ月間、設備資金は500万円以内を60ヶ月(据え置き6ヶ月間を含む)、それぞれ利率2.9%、保証料1%の条件で融資する。 いずれも上湧別町の利子補給は、貸付利息の30%と保証料である。 規則はこれまで8回にわたり改正され、限度額の引き上げ、融資期間の延長などを進め、利用しやすくしている。 平成8年(1996)度は、運転資金47件(利子補給額163万7699円)、設備資金25件(同40万4567円)の利用があった。


商工振興資金  商工業者が、相互扶助の精神により協力し合って経営の合理化に努め、商工業の振興を図ろうと昭和48年(1973)4月1日から施行されているのが、「上湧別町商工振興資金貸付要綱」である。 融資の原資は、上湧別町が北海道銀行中湧別支店と遠軽信用金庫中湧別支店に預託、両支店がこれに3倍の額の自己資金を上積みし、融資枠を設定している。
 融資対象は、上湧別町に居住し、商工業を引き続き1年以上営んでいる個人、法人企業のうち、上湧別町商工会の会員であって償還能力が十分ある町税完納者である。 運転資金のみ認められ、300万円を金融機関の定める利率で36ヶ月間(据え置き期間6ヶ月を含む)返済の条件で融資する。 これに対し、上湧別町は利息の40%を利子補給する。 この貸付要綱も12回にわたり改正され、限度額引き上げ、融資期間の延長など条件緩和の措置が取られている。 件数からみると、昭和60年(1985)度前後から減少傾向にあり、平成8年(1996)度の場合は、126件の利用に対し、83万3900円の利子を補給している。


商工貯蓄共済融資特別利子補給  平成6年(1994)4月1日、「商工貯蓄共済融資特別利子補給要綱」を施行している。 上湧別町内で事業を営む商工業者が、経営の安定と繁栄のために北海道商工会連合会の北海道商工貯蓄共済制度に加入し、その融資を受けた場合に、年利0.8%の額を上湧別町が利子補給するもので、上湧別町商工会会員が対象となっている。

街並整備促進事業利子補給  「上湧別町町並整備促進事業利子補給要綱」は、昭和54年(1979)6月20日から施行され、これまで4回の改正がなされている。 商店街の凹凸をなくし、近代的な商店街を形成するため、建物の新築、増改築に要する資金の借入に対して、上湧別町が利子を補給する。 利子補給の対象となる資金の限度額は1000万円、補給期間は借入れの年から10年以内で、毎月元金均等償還の残額に対し年利2.5%を補給する。
 この要綱は、昭和61年(1986)度までに借り入れたものを対象としているので、利子補給のピークは同60年(1985)度で13件、115万5257円であった。 平成7年(1995)度は1件、173円を残すのみとなり、同8年(1996)度で完全に役割を終えた。

 
  第三節  商 業 
topへ    (1)商店街
商業の変遷  「北海道商業統計調査」によると、昭和51年(1976)の上湧別町における商店数は170店舗(従業員数615人)であったが、平成6年(1994)には111店舗(従業員数611人)と34.71%も減っている。 内訳は、卸売業が18店舗(従業員数112人)から15店舗(従業員数220人)へ16.67%、小売業が117店舗(従業員数392人)から96店舗(従業員数391人)へ17.95%と減少している。 しかし、店舗数に比べ、従業員数の減少幅は少ない。
 昭和51年の年間販売額は、卸売業25億1253万円、小売業37億6037万円の合計62億7290万円(飲食店の2億3588万円を除いた額)であった。 これに対し、平成6年は卸売業32億1659万円、小売業67億8346万円の合計100億5万円で、総額で59.4%伸びている。 特に小売業は、80.39%と大幅に伸びている。
 飲食店を除く卸売業、小売業の経営規模は、やや拡大の方向にある。 昭和51年に従業員1~4人が104店舗(全体の77%)、5~9人が23店舗(全体の17%)であったが、平成6年には1~4人が77店舗(全体の69.4%)、5~9人が15店舗(全体の13.6%)から平成6年に19店舗(全体の17.1%)と増加している。 この10人以上の構成比の高さは、全道平均、網走支庁管内平均を上回っている。
 また、飲食店を除く事業所の経営組織別商店数は、法人組織が徐々に増加、昭和51年に全体の27.4%であったが、平成6年に47.7%になっている。 しかし、全道平均の62.9%、網走支庁管内平均の55.1%には及ばず、個人経営が半数以上を占めている。
 町内の小売店売場総面積は平成6年に7218平方㍍、昭和51年より457平方㍍増えているが、ピーク時の平成3年(1991)より1519平方㍍も減少している。


新しい業種・商店の出現  上湧別町内において、食糧品を中心とした核店舗となっていた上湧別町農業協同組合のAコープは、昭和58年(1983)に中湧別店舗を増改築し、平成4年(1992)には店舗を新築して、大型小売店としての機能を一層充実させた。 さらに昭和59年(1984)に本部店舗を改装、平成5年(1993)には開盛支所店舗も新築している。
 新しい業種として登場してきたのが、まず昭和59年8月に中湧別中町に開店した持ち帰り弁当の「ほっかほっか亭」である。 次いで同63年(1988)に同じ中町に電気店「尾張屋」が、ビデオレンタル部門を設けた。 ビデオ・レンタルとしては、その後、平成3年(1991)1月、中湧別北町に「ビデオチャンネル310」、同7年(1995)11月、屯田市街地に「(株)タカヨシエンタープライズ上湧別店」が加わった。
 コンビニエンス・ストアの出店も相次いだ。 平成5年5月、5の3に「セイコーマートたかだ中湧別店」、同年12月、屯田市街地に「セイコーマートたかだ上湧別店」に次いで、同6年(1994)9月、中ユベツ南町に「セブンイレブン上湧別店」が参入している。 大型小売店としては「(株)タカヨシ上湧別店」が同7年11月、屯田市街地にオープンしている。 同社は千葉県に本店を有し、北海道内では滝川市、留辺蘂町にも出店しているチェーン店である。


(2)商店街診断と近代化対策調査
中湧別商店街診断  中湧別商店街診断は、昭和58年(1983)8月から11月まで、北海道の委託を受けた北海道商工指導センターの手によって行われた。 その診断結果がまとまり、地元で報国会が行われたのは、翌59年(1984)9月26日のことであった。 遠軽、紋別、北見など周辺市町の大型店攻勢をはじめ、国鉄湧網線、JR菜より本線の廃止問題が浮上するなど、中湧別商店街(商業、サービス業など88店)は、厳しい内憂外患を抱えていた。 このため将来に向けて危機感を募らせた同商店街が、道に商業診断を申請していたものである。
 診断結果に基づく勧告書(A4判、195頁)は勧告編、解説編、資料編に分かれ、商店街の問題点、改善すべき方向などについて詳しく分析している。 それによると、上湧別町から遠軽町へ消費者全体の17.9%が流出している。 逆に湧別町から中湧別への流入が15.4%あるが、それを上回る16.6%が上湧別町を素通りして遠軽町に流出している。 そこで遠軽町に道東市民生協などの大型店ができると、消費者の流出に一層の拍車がかかると予測している。
 中湧別商店街を活性化し、消費者の流出に歯止めをかけるためには、中町を中心として活性化重点ゾーンを設定、商店街の整備をすることを提言した。 具体的内容としては、①公園・緑地の造成、コミュニティセンターの建設を通じてのコミュニティゾーンの設定、②消費者を呼び込む行事、イベントの開催、③日曜営業、などを挙げた。 実現可能な提言がほとんどで、商店街の”やる気”に期待がよせられた。


上湧別町地域小売商業近代化対策調査事業  この調査は、道費補助事業により昭和61年(1986)4月~同62年(1987)3月を実施期間として、上湧別町商工会が行った。 商工会、行政、学識経験者などで構成する調査事業推進委員会を設置、①地域における小売商業の環境、②地域における小売商業の現況と問題点、③消費動向と消費者意識、小売業経営者実態と意識の調査、④近隣市町の大型店進出に伴う既存店影響度とその対策、⑤既存商店街の近代化基本計画と小売商業振興計画、について調査研究した。
 その調査権結果によると、小売商業の現況は経営規模が小さく労働生産性、売場稼働率が低く、商業集積率も人口一人当たりの売場面積0.9平方㍍と網走支庁管内の平均を割っている。 そのうえ、農業協同組合購買事業(生活物資供給高)が町内小売商業販売額の22%、飲食料品に限ってみると、実に53.4%を占めていることが分かった。
 また、商店街の分布は、上湧別地区(屯田市街地)と中湧別地区に分かれているが、上湧別地区は商業集積は極めて低い。 一方の、中湧別地区は北町、中町、南町の3商店街で構成され、国道242号路線型の商店街となっている。 しあkし、中湧別地区でも商店密度は、商店街の機能を果たすといわれる60%にも達していない。
 このような現状を踏まえた上湧別町小売商業の問題点として、①経営規模が小さい、②分散している商店街、③低い商店街の集積度、④広すぎる国道と歩道の幅員、⑤散在している駐車場、⑥実質経営者の高齢化、⑦停滞している商店街の組織活動、⑧核店舗の不在、⑨快適性の低い商店街、などが挙げられた。 このほか、商業環境に関する問題点として人口の減少、基幹産業である農業と第二次産業の低迷、消費者行動に関する問題として、遠軽町への流出が指摘された。
 これらの問題を解決する近代化への基本的方向は、まず変化する生活者(消費者)のニーズ(要求)に適合する商業と商業地の在り方を求めることである。 また、商業者の長期的、安定的な経営を図るとともに流通の合理化、効率化により、コスト低減を進めることが大切だとしている。 さらに、「人間尊重を基盤とした快適な商店街と街の環境形成への寄与を目指したまちづくりの視点」、「まちづくり計画における商業の位置づけ」が欠かせないと強調している。


(3)上湧別町商業活性化ビジョン
上湧別町商工会地域振興支援事業  地域振興支援事業は、地区内の中小小売商業者が直面している諸問題を把握し、その対策を探るため、調査研究、啓発活動、先進地交流などを通じ、将来に向けての地域ビジョンを策定することを目的にしている。 この地域ビジョンは、中小小売業者の経営改善を図り、地域の振興に寄与することを目指している。
 事業の実施に当たっては、学識経験者、上湧別町職員、上湧別町商工会役職員、商店街代表で構成する「上湧別町商工会地域ビジョン策定委員会」を平成6年(1994)8月に設置、さらに「専門委員会」を置いて、①地域の中小小売商業の存立基盤と問題点の調査・研究、②地域の中小小売商業に関する問題点の調査・研究、③地域住民、地域商工業者、関係行政機関などとの研究会開催などによる啓発活動、④地域諸中小小売業者の今後の活性化対策などについての具体的指導に関する基本方針をしめした「地域振興ビジョン」の策定とその内容の普及・活用の推進、などの事業に取り組むことであった。 事業の実施期間は、平成6年8月24日から翌7年(1995)3月31日までと設定された。
 ビジョン策定委員会は住民代表の藤井秀明中湧別郵便局長を委員長に33人の委員、専門委員会は商工業者代表の高桑通行上湧別町商工会総務委員長を委員長に21人の委員で。それぞれ構成された。


小売業者の現状  上湧別町住民を対象に下アンケート調査によると、町内で消費を済ませているのは、美容の81%を筆頭に、理容、文房具、自転車、書籍・雑誌などの順で高い率を示しているが、それでも20~30%が町外へ流出している。 調査した25項目のうち14項目で50%以上の流出率になっている。 最も流出率が高いのは子供服で83.9%、次いで時計・めがね・貴金属と紳士服・紳士用品類の73.4%、レコード・楽器類の70.4%、婦人服・服地類の69.1%などが続く、しかも日常生活には欠かせない生鮮食料品、一般食品、日用雑貨でも38.1%~48.9%も町外で買われている。 さらに、前回(昭和61年)の調査に比べて、美容を除き24項目において流出率が高まっていた。 生鮮食料品、一般食品はいずれも15%強、日用雑貨類になると23%も増加している。 流出先は、遠軽町を中心に北見市、紋別市、旭川市、札幌市などとなっている。
 商店主の経営実態調査では、直面する問題点として、「顧客数の減少」「売れ行き不振」を挙げている店主が圧倒的に多かった。 そのほか、「店舗の老巧化」「粗利益率の低下」「他都市への買い物客の流出」「価格競争」「大型店の影響」「後継者問題」などが挙げられている。 また、中湧別商店街について住民と商店主の双方から評価を聴いたところ、商店主側では日曜日閉店、商品の鮮度・品質、返品・苦情処理、商品価格、閉店時間、接客サービスなどに比較的高い評価を自ら下している。 それに対し、住民側では、調査17項目のうち16項目までをマイナス評価しており、ややプラス評価をしている接客サービスについても、商店主の評価とは大きく隔たりがあった。 全般的にみて、商店主の評価が甘いのが目立った。


現状から見た問題点  平成6年(1994)度の北海道通産局の調べによると、商店街不振の理由として、商圏内人口の減少、経営努力の不足、駐車場など環境施設の未整備、店舗の老巧化・空き店舗化、大型店の進出による悪影響、業種・店舗数の不足、核店舗の不在などが挙げられている。 一方、上湧別町の住民アンケートでは、1ヶ所で買物ができる共同店舗などの利便性を求める意見が多い。 商店街に、子供の遊び場やホテル・保養施設がないという指摘もあった。
 網走支庁管内全体の状況も、交通体系が整備され、車社会が一層進展した結果、近郊支庁との時間距離が急速に短縮された。 さらに、郊外への大型店や安売り店、24時間営業店の進出などにより、既存の小売店が圧迫されているといえる。


将来の課題とプラン  上湧別町の中心商店街でもある中湧別商店街は、ますます厳しい状況に置かれている。 かっては国鉄の中継基地として商店街も反映したが、国鉄湧網線もJR名寄本線も廃止され、中湧別駅が姿を消した。 このことで、交通体系が完全に車に移行することになる。 遠軽町、北見市、紋別市などへの時間距離が短縮されているのに、国道沿線の両側にある中湧別商店街は、こうした環境変化への対応が遅れている。 そのため、他市町の大型店や道東市民生協などへの消費者の流出が増加している。
 こうした状況を踏まえながら、住民の生活行動の変化、商店街に対する要求の変化、まちづくりや商店街活性化の方向を総合的ににらんで専門委員会の討議を重ねた。 また、先進地研修(美瑛町本通り区画整理組合、島松ショッピングセンター、美深町商工会)を行った。 その結果、①国道242号と文化センターTOMを結ぶ線を中心街とする、②車での買物が1ヶ所でできる利便性を高めたショッピングセンターの設置と協同駐車場の整備を最優先課題とする、、③シンボルロードとして、ポケットパーク(ミニ公園)やストリートファニチェアー(路上に置かれた街灯、案内板、ベンチ、電話ボックスなど)を導入した道路を整備する、④文化センターTOM周辺の公園化やイベント開催、情報発信基地化の進展などによる電灯と文化を生かした街づくりを進める、⑤国の制度資金などによる支援策を利用した共同店舗や飲食店街形成に努める、などのイメージプランができ上がった。


事業の実施に向けて  共同店舗などについてかなり具体的なイメージプランが提案されたが、これをもとに専門委員会で、さらに内容が検討されることになった。 行政との連携を深めながら、商工会の補助事業として商工会等地域振興実現化事業に結びつけることを目指しているが、特に建設省、自治省などの制度をいかに利用するかが今後の課題といえるだろう。
 今後の事業実現へ向けた提言として、次の6項目をまとめている。
一、今回の策定委員会、事業専門委員会を実現委員会として強化継続する。
一、商業者全員のコンセンサス(同意)を得るよう啓発活動を活発にする。
一、特に青年部、婦人部との話し合いの場を強化する(研修会の開催。
一、施設整備などのハード事業は、感性までに時間がかかるので、当面実行できるソフト事業(スタンプ事業、イベント事業)の活性化を図る。
一、地域商業の重要性を、町と町議会議員に説得して、理解を求める。
一、特にこれからの商店街づくりは、行政との一体的な協力なしでは実現不可能である。道内先進地では行政の担当者を商工会に派遣し、一体となって準備を進めているところが多い、具体的に町へ要請し、行政・商業者が一体となった事務局体制を整備すること。


(4)消費生活  
消費生活の変遷  平成6年(1994)の北海道全世帯の消費に対する食料費の割合は22.5%で、戦後間もない昭和22年(1947)に比べ、エンゲル係数はほぼ半減している。 同50年(1975)意向の消費の在り方の変化をみると、まず同50年代はオイル(石油)ショックを契機に、拡大から縮小へと大きく転換した。 総務庁の家計調査によると、北海道勤労世帯消費支出の対前年実質増加率は、同49年(1974)度同51年(1976)にいずれも1.8%減少した。 第一次と第二次オイル(石油)ショックの間の同52,同53年(1977,1978)にかけては、緩やかながらも上昇し、物価や雇用など生活を取り巻く環境が安定してきたことを背景に、節約しながらもそれぞれに必要な支出は増やし、消費生活を充実させようという動きが見られた。
 しかし、昭和54年(1979)1月に第二次オイル(石油)ショックを迎えると、種皮支出は再び伸び悩み、同55年(1980)は同49年以降最大の落ち込みを記録した。 そして、同50年代後半になると、物価が安定基調を示し始め、耐久消費財が各家庭に一応普及したこともあって、消費は物からサービスへと変化する動きをみせた。
 昭和60年代(1985~)に入っても。同50年代後半に引き続きサービス支出の増加が続いた。 特に旅行やカルチャー教室など文化的経費の伸びが目立った。 また、個性を尊重する傾向が強まり、消費者のニーズも多様化し、消費生活は一段と選択性が高まった。 平成元年(1989)4月に消費税が導入されると、その影響で一時買い控えの傾向がみられたが、バブル経済による平成景気にあおられ、同2年(1990)における道内の勤労者世帯の消費支出は月額32万1261円となり、前年の29万5837円に比べ名目で8.6%、実質で5.3%と大きく増加した。
 その後、バブル景気がはじめ、景気が一転して低迷した。 対前年実質増加率は、平成3年(1991)が4.8%の大幅減、同4年(1992)が0.4%の減少となった。 しかし、同5年(1993)からようやく好転し、同年は1.6%、同6年(1994)は2.9%の増加を示している。


物 価  総務庁がまとめた消費者物価指数の北海道判によると、昭和50年(1975)から平成7年(1995)にかけて消費者物価指数は、約1.72倍になっている。 同7年を100とした消費者物価指数の時系列リストでは、昭和50年58.0%、同55年(1980)79.8,同60年(1985)90.0,平成2年(1990)96.7,同4年(1992)98.5,同5年(1993)99.7,同6年(1994)100.5となっている。 対前年の上昇率は第一次オイル(石油)ショックの影響が顕著に表れた昭和50年が最も高く、11.7%、同51年(1976)も9.3%、次いで第二次オイル(石油)ショックによる同55年の7.8%が目立っっている。 逆に上昇率がマイナスとなったのは平成7年だけで、0.5%下がっている。 
 生活に欠かせない食料品だけを取り出してみると、平成7年の100に対し、昭和50年は59.6で、総体的な物価より上昇率はやや低い。 食料品の中で上昇率が比較的高いのは、野菜(昭和50年の指数50.6)、魚介類(昭和50年の指数94.8)、肉類(昭和50年の指数96.1)はわずかな上昇にとどまっている。 食料品以外では、住居(昭和50年の指数51.1)、衣料(昭和50年の指数52.6)で比較的上昇率が高いのに対し、家庭用耐久財は103.6と、逆に安くなっている。


消費生活モニター  戦後の著しい経済発展により商品の大量生産、大量販売、大量消費が進み、新しい技術の開発、普及と相まって多種多様な新製品が次々と登場した。 それにより消費生活は目覚ましく向上、豊かになった。 その反面、消費者の生命、健康に対する危険性が増大し、商品・サービスの正しい選択が阻害され、消費者の安全と利益を損なうような様々な問題の発生がみられるようになった。 具体的な問題としては自然破壊、各種公害などによる生活環境の悪化、消費者物価の不当な値上げ、商品・サービスの安全性、不当表示、誇大広告などが挙げられる。 これに消費生活の多様化、起業の過激な競争、消費者の意識・行動の変化などが加わり、消費者問題を一層複雑なものにしている。
 このため、北海道では「消費者保護基本法」(昭和43年5月制定)に基づき、昭和49年(1974)7月に「北海道道民生活安定条例」を設け、消費生活の安定と向上に努めた。 その中で消費者、事業者、行政の相互信頼の確保を基調とする、様々な施策が総合的に進められた。 消費生活モニター制度もその一つである。
 消費生活モニターは、消費生活の実態を正確に把握し、適切な行政施策を行うために意見要望の提出、北海道の調査・施策への協力、商品の品質・衛生状態の看視と情報提供を任務としている。 モニターは地域別、年齢別、職業別、生活水準階層別などを考慮し20歳以上の1000人を北海道知事が委嘱し、各市町村に配置している。 関連モニターとしては、北海道物価モニター(灯油・プロパンガス価格調査。総数1000人)、通産省消費者価格モニター(価格表示、景品等の調査。全国1000人中、北海道60人)などがある。
 上湧別町では昭和49年3月、「消費際かつモニター設置要綱」を定め、町内婦人層から10人を選び委嘱、町独自のモニター制度を始めた。 モニターの職務は、①消費生活上の苦情、意見、要望の提出、②計量、欠陥商品、家庭用品の品質表示の状況などの関し・調査報告、③物価の動向に関する調査報告、④各種研修会への参加、⑤消費生活の向上のため毎月1回の消費者物価調査のほか、年2回の量目調査、モニター連絡会議の開催などを行った。
 現在では、北海道知事委嘱の消費者生活モニター2人が活動している。


 
  第四節  工 業 
    (1)工業の変遷
事業所数・従業員数の推移  上湧別町の事業所数は、「北海道工業統計調査」によると、昭和51年(1976)に43事業所(従業員数918人)であったが、その後、徐々に減り続け、平成8年(1996)には22事業所(従業員数333人)となり、事業所は約2分の1に、従業員は約3分の1に減少している。 雪印乳業(株)中湧別工場、富士電業(株)上湧別工場など有力企業の閉鎖によるものである。
 また、従業員数による経営規模も、全体として小型化している。 全事業所数を100とした構成比は、昭和51年には1~19人の規模が33事業所(76.8%)、20人以上の規模が10事業所(23.7%)であったのに対し、平成8年は、1~19人の規模が17事業所(77.3%)、20人以上の規模が5事業所(22.7%)となっている。 特に1~3人の規模は、34.9%から41%に増加している。


出荷額と業種別推移  事業所の大幅減少に伴い、上湧別町の工業出荷額も大きく落ち込んでいる。 昭和51年(1976)は70億7841万円と100億円にあと一歩と迫った。 しかし、同54年(1979)意向は減少の一途をたどり、平成8年(1996)にはついに40億円台も割って、33億8204万円にとどまっている。 昭和53年に比較すると、ほぼ3分の1の減少である。
 業種別では、工業の中核をなしていた食料品製造業、木材・木製品製造業の落ち込みが著しい。 昭和51年と平成8年の拝披で、食料品製造業は12次牛所から2事業所へと6分の1に減った影響をそのまま受けて、出荷額も35億7202万円から7289万年と大幅に減少、木材・木製品製造業も9事業所から5事業所へと減り、出荷額は22億5986万円から10億4085万円へと約2分の1に減少している。 これに対し比較的健闘しているのは、窯業・土石製品製造業と家具・装備品製造業である。 窯業・土石製品製造業は、6事業所から4事業所へと減ったにもかかわらず、出荷額では逆に6億2271万円から8億9565万円と43.83%増加している。 家具・装備品製造業も、5事業所と変わらないが、出荷額は5185万円から1億128万円と約2倍に増加している。


建設業  上湧別町の建設業は、他の中核業種が落ち込んでいる中で、1事業所しか減っていない。 昭和50年(1975)に39事業所であったが、平成6年(1994)は38事業所となっている。 内訳は、昭和50年が総合工事業(建築・土木工事請負業)が24,職別工事業(土木・左官、タイル、塗装、造園)が10,設備工事業(電気)が5,平成6年は総合工事業が22,職別工事業が7,設備工事業(電気工事、管工事)が9となっている。

水産加工業  昭和50年(1975)ごろにはみられなかった本格的水産加工業は、平成8年(1996)に、9業者が営業している。 ホタテなど海産物の加工が主力である。 北兵村一区に2,北兵村三区に3,中湧別北町に1,中湧別南町に1が立地、上湧別町の食品製造業を担っている。

(2)湧佐地区安全衛生協会
成り立ち  上湧別、湧別、佐呂間3町内の労働保険適用事業所を会員として昭和26年(1951)4月1日に設立された。 安全衛生、労働基準監督などの関係法令のもとで、従業員の危害防止、疾病予防などの事業を推進するのが目的である。 発足当時は51事業所(年間予算8万600円)であったが、平成9年(1997)度は75事業所(年間予算320万円)に増加している。

事業の推進  毎年度行っている事業は、安全衛生管理をはじめ労務管理、労働災害防止、健康づくりに関連する講習会・研究会の開催、安全衛生指導パトロールの実施、先進地の視察、広報活動の展開などである。 その活発な活動と実績に対して北海道労働基準協会連合会長感謝状(昭和55年)、中央労働災害防止協会長緑十字賞(同56年)、北海道知事感謝状(平成4年)など、設立以来6度にわたって顕彰を受けている。
 昭和56年(1981)10月23日には協会創立30周年記念式典を開催、無事故永年勤続優良従業員(20年以上)112人、安全衛生特別功労者(安全指導協力者)4人、協会運営功績者(深田前事務局長)1人の計117人を表彰した。 平成13年(2001)には待望の創立50周年を迎える。 同9年(1997)度現在の事務局は、湧別町栄町の(株)幸栄商事内に置かれている。 会員企業の総従業員数は、現在約2800人である。


(3)工業団地と企業誘致
工業団地の造成  昭和38年81963)10月、「低開発地域工業開発促進法」に基づき、北兵村三区が低開発地域工業開発地区に指定されたのが、上湧別町の工業団地の始まりである。 中湧別工業団地(6万3005平方㍍)として企業誘致を進めたが、同51年(1976)に地場の板金工場1社が入居したのにとどまり、事実上工業団地の形成には至らなかった。
 本格的な工業団地が造成されることになったのは、中湧別で約40年間も操業していた雪印乳業(株)中湧別工場が昭和54年(1979)3月1日に閉鎖され、興部工場に吸収されたのがきっかけである。 その跡地2万8172.37平方㍍委を、上湧別町土地開発公社が買収、再度、中湧別工業団地として造成した。 分譲地は町外企業向けのAブロックと町内企業向けのBブロックに分け、同56年81981)度から分譲を開始した。 その結果、平成6年(1994)なでに鉄工、水産加工、食品製造、石材加工、自動車販売・修理、農業機械販売・修理など8社が営業を開始、満杯状態になっている。 このうち町外からの進出は、2社である。
 一方、JR名寄線の廃止に伴い、雪印乳業(株)社宅跡地に隣接した鉄道跡地を同じ中湧別工業団地として上湧別町が造成、平成4年(1992)から石材、林産加工、鉄工所、建設、運輸、水産加工などの業者に7区画1まん5267平方㍍を分譲している。 上湧別駅構内跡地は、上湧別工業団地として造成、同3年(1991)から建設・運輸業や清掃会社に2万8826平方㍍を分譲している。


企業誘致  昭和32年(1957)に制定した「上湧別町工場設置奨励条例」に基づき、翌33年(1958)、遠軽町に本社を有する池内工業(株)の上湧別工場の誘致に成功したのが第一号である。 そして、同38年(1963)に低開発地域工業開発地区に指定されたのに伴い、同40年(1965)に「低開発地域工業開発促進のための固定資産税の免除に関する条例」を制定、先の奨励条例を廃止して切り替えた。 一定の条件を満たせば、設備や土地に対する固定資産税を3年度分免除するものであった。
 このような状況の中で昭和51年(1976)7月、道外企業の誘致第一号として電子用機器に使用する特殊ランプ製造の富士電業(株)が上湧別工場を操業した。 このほか、同50年(1975)以降、小樽の麺類スープ製造の北海道和弘食品(株)など自主的な進出も含め、雇用の創出などに大きく寄与する起業の誘致には至っていない。
 上湧別町は企業振興と企業立地を促進するため平成5年(1993)、「上湧別町企業振興促進条例」を制定した。 新たに町内に産業施設(生産施設、宿泊・観光施設、その他)を設置する場合、一定の条件により投資額の100分の25(限度額は3750万円)に相当する額を補助するというものであるが、バブル経済崩壊後、景気の回復が遅々として進んでいないため先行きは必ずしも明るくない。

 
  第五節  金 融 
    北海道銀行中湧別支店  北海道銀行は、「北海道に地場銀行を」という全道の中小企業、商工会議所などの強い要請を受けて昭和26年(1951)3月、札幌市において設立された。 それ以来、業績は順調に伸びて平成8年(1996)3月末には、総預金2兆9035億円を達成した。 これは戦後設立された地方銀行の中ではトップの業務内容であり、名実ともに北海道に根ざした地方銀行としてしっかりした地歩を確立している。
 中湧別支店は、銀行設立間もない昭和26年11月20日、中湧別北町(現在の有限会社カントリースポーツ所在地)に開業した。 中湧別商工会の強力な働きかけによって実現したもので、同42年(1967)には上湧別町の指定金融機関の指定を受けている。 同44年(1969)には中湧別中町の現在値に店舗を新築、移転して現在に至っている。 担当地域は遠軽、上湧別、湧別、佐呂間4町で、平成8年4月末現在の預金高は134億2400万円、職員は11人である。


遠軽信用金庫中湧別支店  遠軽信用金庫の前身、遠軽信用組合は昭和25年(1950)、遠軽町に設立された。 その年の12月、屯田市街地の上湧別村農業協同組合事務所に隣接する民家を借りて上湧別出張所を、同27年(1952)4月に中湧別消防会館南隣の民家を借りて中湧別出張所を、それぞれ開店した。 同26年(1951)6月に「信用金庫法」が制定され、遠軽信用金庫に改組された。
 そして、昭和30年(1955)4月、集約管理を図るため両出張所を統合、中湧別出張所を湧別支店に格上げした。 
 中湧別郵便局北隣に新店舗を建設、移転したのは昭和32年(1957)である。 同37年(1962)には湧別町に湧別支店を新設、その地域を分離したのに伴い中湧別支店と改称した。 その後、同45年(1970)、同62年(1987)に上湧別役場の収納代理金融機関の委託を受け、税金、公営住宅料、国民年金、水道料を扱っている。
 預金は、昭和50年(1975)3月期で24億9000万円であったが、同55年(1980)51億4500万円、同60年(1985)77億8700万円と順調に伸び、平成7年(1995)3月期では121億5200万円に達している。 職員数は12人である。


上湧別町農業協同組合  上湧別町農業協同組合の金融店舗は、貯金、貸出金を取り扱っているほか、保険業務、上湧別町役場の収納代理業務も行っている。 昭和58年(1983)には、全国銀行協会に加盟、同61年(1986)4月にオンラインシステム(コンピューターで中央処理装置と端末装置が直接接続され、直ちに処理ができる方式)を導入した。
 金融店舗は上湧別と中湧別にあり、本部店舗は平成3年(1991)11月、組合事務所とともに新築、中湧別店舗も翌4年(1992)9月、支所とともに新築している。
 預金、貸出しいずれも年ごとに増加、昭和50年(1975)2月期に15億2000万円であった貯金は、同61年銅器で0億円を突破、平成8年(1996)同期では80億4000万円に達している。 貸出しも昭和50年同期の7億4800万円が平成5年(1993)同期で30億円を超え、同8年同期では39億400万円となっている。
 保険業務は、自動車、自動車損害賠償責任、障害、生命、年金、終身、建物厚生、子供共済などの各種保険を取り扱っている。 上湧別町役場の収納代理業務は、税金、水道料、公営住宅料、国民年金が対象となっている。


郵便局  各郵便局の金融部門は、貯金(通常、定期、積立)保険の業務を行っている。 このうち保険業務は、養老、特別養老、学資、年金、成人、介護などの簡易保険を取り扱っている。
 貯金業務の取扱いは、上湧別町内の各郵便局とも年によって多少の増減はあるものの、大幅に増加している。 昭和50年(1975)の預金額は、中湧別局5億7120万円、上湧別局2億7364万円、富美局5204万円、開盛局6364万円であった。 これが平成7年(1995)には、中湧別局21億6865万円(約3.8倍)、上湧別局8億8115万円(約3.2倍)、富美局1億3494万円(約2.6倍)、開盛局3億586万円(約4.8倍)と大きく伸びている。
 このほか、富美郵便局を除く各郵便局は、上湧別町役場の収納代理業務として、水道料金の口座引き落としを行っている。


 
  第六節  社会団体 
    中湧別ロータリークラブ  昭和40年(1965)5月15日、上湧別、湧別両町の経済人27人(うち上湧別町20人)を創立メンバーとして設立された。 同年5月24日には道内60番目のクラブとして、国際ロータリーの認定を受けた。 ロータリーの精神は、会員それぞれの職業を通じて、自らの職場に地域に、社会に、そして世界・人類に奉仕しようというもので、会員相互が親睦を深めながら学び合い、様々な奉仕活動を展開している。
 具体的な活動としては、平成2年(1990)から実施している上湧別・ユベツ両町交換子ども会リーダー研修をはじめ、少年野球やボーイスカウトの支援、福祉施設の慰問、老人クラブへのゲートボール用具寄贈、交通安全運動や緑と花づくり運動への参加などが挙げられる。 また、周年行事の記念事業でも「4つのテスト」記念碑寄贈(上湧別町社会福祉会館前庭と湧別町公民館前庭、昭和50年・創立10周年)、あずまや寄贈(五鹿山公園、同60年・創立20周年)、街頭時計寄贈(上湧別町役場庁舎前庭、平成7年・創立30周年)を行っている。
 平成9年(1997)3月現在の会員は33人で、そのうち上湧別町在住者は28人である。
 

湧別ライオンズクラブ  上湧別、湧別両町の経済人26人によって、昭和52年(1977)5月に設立された。 日本で2148番目、地区で75番目のクラブ誕生であった。 「われわれは知性を高め、友愛と相互理解の精神を養い、平和と自由を守り、社会奉仕に精進する」というライオンズの誓いにのっとり、奉仕活動を行っている。
 これまで子供たちの百人一首大会、ソフトボール大会、野球大会、剣道大会の開催など、青少年の健全育成活動や老人ホーム・生活困窮者慰問、献血奉仕、交通安全塔の建設(国道238号の6号線)、植樹(五鹿山公園、ファミリー愛ランドYOU)、薬物乱用防止など幅広い奉仕活動を展開している。 平成9年(1997)に創立20周年を迎え、記念行事が予定され、あずまや2棟の寄贈(五鹿山パークゴルフ場)を行っている。
 平成9年3月現在の会員は30人で、そのうち上湧別町在住者は20人である。


国際ソロプチミスト遠軽  ソロプチミストは、実業界で活躍する助成、専門的職業を持つ助成で組織する世界最大の職業分類を有する奉仕団体といわれる。 その活動目標は、全人類のために人権の獲得、特に女性の地位向上に努め、奉仕と人間理解の精神に基づき、国際理解と世界の友好に貢献することに置かれている。
 国際ソロプチミスト遠軽は、昭和60年(1985)3月、町村では初めて、道内では21番目のクラブとして設立された。 会員は遠軽、上湧別、生田原、湧別、佐呂間の5町にまたがる広域クラブで、休眠衣料の東南アジアへの寄贈、メコン基金への寄付、使用済みテレホンカード・古切手・牛乳パックの回収、福祉施設などへの慰問、国際ボランティア貯金への協力、湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会への協力、交通安全運動への協力、植樹祭への参加、などの事業を継続している。 また、平成7年(1995)6月に認証10周年記念として、遠軽地区広域組合消防本部に消防救護車1台を寄贈している。
 平成9年(1997)3月現在の会員は23人で、そのうち上湧別町在住者は3人である。

 
第四章  観光・イベント 
topへ  第一節  総 説 
    北海道観光の概況  国民生活における休暇の増加や自然回帰志向、健康志向、グルメブームなどにより観光・イベント(催し物)に対する関心が年々高まっている。 特に北海道は広大な土地と豊かな自然に恵まれているうえ、多くの自然公園や多彩な観光資源を有していること、さらに、季節の変化が鮮明で新鮮な食物も豊富なことから、観光・イベントの拠点として、全国的な人気を得ている。
 観光客の入込は、昭和57年(1982)度以降11年間連続して最高記録を更新してきたが、平成5年(1993)度は前年度に比べ5.1%も下回った。 これは景気の低迷、冷夏、北海道南西沖地震などの影響によるものである。 同6年(1994)度(延べ1億2779万人)からはその後の大型観光キャンペーンの全国展開などが効を奏し、回帰基調に戻っている。 しかし、長引く景気低迷の影響を受け、旅行費用はあまりかけず、観光目的地は居住地の近く、さらに、旅行日程は短くというように「安・近・短」と呼ばれる観光形態が増加、家族や小グループで気ままに楽しむかたちも増えている。
 こうした状況の中で、注目されるのはイベントやコンペンション(大会・集会)の開催が、全国的に増加していることである。 平成7年(1995)度に北海道内で開催されたイベントはお祭り、スポーツ、自然、芸術文化などを中心に2088件(前年度比4.2%増)、またコンペンションは州ポー-津、総会、大会・会議・研修などを中心とした全道・全国・国際大会合わせて1712件(前年度比10.6%増)といずれも過去最高を記録している。
 これはホテルや集会施設、競技場などの関連施設が充実してきたことと、道内と道外を結ぶ定期航空路線の相次ぐ開設や高速道路網の整備が進んできたことがもたらした効果とみられている。
 北海道における観光の経済効果は1兆数千億円といわれ、さらに発展する可能性を秘めている。 今後の観光振興の課題としては、①通念観光の促進、②観光振興推進体制の強化、③ニーズ(需要)に応える観光資源の開発、④受入体制の整備、⑤観光宣伝誘致活動の促進、⑥観光の格差以下、などが挙げられている。
 平成6年度のオホーツク観光圏への観光客入込は、全道の8.3%に当たる1067万人であった。 国鉄湧網線、JR名寄本線など赤字ローカル線の廃止で鉄路は寸断されたが、女満別空港で東京線、札幌線に加え仙台、新潟、名古屋、大阪、広島、福岡各線が新設され、紋別空港で千歳線が新設され丘珠線と合わせ2線となるなど路線整備が進んだ。」このように空からの入込が一層容易になってきた。 今後は高規格道路の整備などが期待される。 さらに、網走市や紋別市の流氷観光船の就航、紋別市の流氷タワーの建設などにより、流氷や雪を主役に下冬季観光にも力が入って、将来が期待されている。


上湧別町の観光概況  昭和50年代(1975~)の上湧別町の観光は、観光施設として五鹿山公園、上湧別神社公園、東山樹木公園がある程度で、町民が憩いを求めて訪れるのが主であった。 かろうじて近郊の町村から観光客を呼べるのは五鹿山公園の春の桜、それに同55年(1980)から始まった屯田ふるさとまつりのみであった。
 しあkし、昭和60年(1985)に入ってからは、五鹿山公園やチューリップ公園の整備が進み、リバーサイドゴルフ場が新設されたほか、広域ベントである湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会やオホーツクフィッシングin湧別川大会、インターナショナルオホーツクサイクリングなどに参画、また、オホーツクライン観光開発推進協議会などの広域観光推進組織に参画して積極的に観光振興、観光客誘致を図っている。
 このほか、上湧別町観光協会がチューリップフェアの開催など、上湧別町商工会が七夕まつりの開催などを通じ観光振興にひと役買っている。 平成5年(1993)には文化センターTOMが完成、道の駅に指定されたため、TOM内に設けられている漫画美術館見学などを目的にマイカー観光客の入込が増えている。
 こうしたことから、チューリップ公園の開花期(5月中旬~6月中旬)、五鹿山公園の夏のキャンプ、冬のスキー場の利用も含め、近隣町村のレジャー客や道内外からの観光ツアー客なども年々増加している。


着々進むイメージアップ  朝日新聞社が昭和60年(1985)、二十一世紀に残したい北の自然100ヶ所を選定した「北海道自然100選」で、五鹿山公園が4位に選ばれた。 1位は室蘭市の地球岬周辺であった。
 平成5年(1993)には、北海道など主催の「北海道まつづくり100選」で上湧別町のチューリップ公園と五鹿山公園が候補として選定された。 これは全道市町村の555事例の中から、道民投票により優秀な100事例を選定し、その100事例外から大賞5事例、部門賞、特別賞各20事例を選んだものであり、このうち上湧別町チューリップ公園が部門賞に輝いた。
 また、この年、上湧別町の「花と漫画・Sきかみゆうべつ」のまつづくりが、「国土庁長官賞」を受けている。 これは過疎地域活性化優良事例として、オホーツク国際漫画大賞、チューリップフェア、湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会などを通じ総合的なまちづくりを進めたことが評価されたものである。 こうした受賞によって、上湧別町は全道、全国から注目を集めるようになっている。


チューピット  チューピットは、上湧別町のイメージキャラクターの名前である。 町のキャッチフレーズ「花と漫画・SKI・かみゆうべつ」のイメージを広く道内外にアピールするため、町花チューリップを素材としたキャラクターとロゴを平成4年(1992)、全国から募集した。 その結果、1301点の応募があり、キャラクターには「チューリップの花をモチーフに”妖精”を表現し、明日への夢と躍動感をイメージした」という名古屋のデザイナー、青山美作の作品が選ばれた。 一方、ロゴは「漫画チックな丸みを帯びた文字に町花のチューリップを配し、「つ」の字を長く延ばしてスキー板という意味合いをこめた」という札幌市の石川多賀子の作品に決まった。
 平成5年(1993)には「上湧別町イメージキャラクター・ロゴ取扱要綱」が定められた。 キャラクターの愛称は、町花チューリップと愛の神キューピットを組み合わせて「チューピット」とされた。 チューピットはロゴと併せてポスター、パンフレットなどの刊行物などに幅広く活用し、上湧別町のイメージアップに活用している。


 
  第二節  名所・行楽地 
    (1)チューリップ公園
チューリップ栽培の歴史  昭和32年(1957)、農業改良普及員の西川照憲の勧めで上湧別町内の54戸の農家がチューリップ耕作組合を設立した。 本場のオランダからチューリップの原種22種、6万500球を輸入して栽培を始め、同34年(1958)にはカナダのバンクーバー、アメリカのシアトル、サンフランシスコに初輸出、翌35年(1960)は33万余球を生産して、早くも全道一の生産・輸出地域に成長した。
 昭和40年(1965)、約22万株を輸出して将来展望にさらに明るいきざしがみえたが、同41年(1966)のオランダ球根の大幅ダンピング(安売り)が行われた。 これにより世界の市場は大きく混乱し、日本からの輸出が困難となった。 このため急遽国内消費の拡大に努めたが、当時の国民生活においては、まだ一般的に花を楽しむ余裕はなく、輸出停止の影響を受けた上湧別町のチューリップ栽培は明治年々急速に衰退した。
 しかし、一時は全道一の生産量を誇ったチューリップに対する上湧別町民の愛着は深く、「何とかチューリップを後世に伝えたい」という気運が高まった。 そんな声が、昭和51年(1976)の上湧別町開基八十周年記念事業の町花・町木選定で具体化した。 町花にチューリップが選ばれたのである。 これに着目したのが上湧別町老人クラブ連合会で、同50年(1975)から推進していた花いっぱい運動の一環として、同54年(1975)から元北湧尋常高等小学校跡地(現在のチューリップ公園)に設置していた老人農園において、チューリップの栽培を始めた。
 最初は2㌃足らずの作付けであったが、老人農園の拡大に伴い次々と増え、30㌃くらいまで拡大した。 そのためシーズンになると、国道242号沿いの老人農園は、見事に咲き競う赤、黄、白のチューリップがドライバーたちの目を引きつけ、近郊町村の人たちの関心を集めた。 予想以上の反響に力を得た上湧別町は、昭和58年(1983)、予算を計上して作付面積を拡大し、チューリップ園と改称した。 世話役の上湧別町老人クラブ連合会の役員は、花苗育成、除草のほか、7月の球根掘り、選別乾燥作業、10月の植え込みなどに毎年、延べ約250人も出動している。


チューリップ公園の整備  チューリップ園の本格的な整備は、昭和62年(1987)度から開始された。 同年にメーン施設のオランダ風車型管理棟の建設、100台収容の駐車場と約3㌶の畑の整備などを行い、この年から開催したチューリップフェアに備えた。 翌63年(1988)度には駐車場とトイレ、公園出入口道路を整備し、「チューリップ公園」と改称、同年4月1日に町立公園に指定した。 その後もチューリップ館、ログハウスなどの建設、隣接民地の買収で畑の拡張、遊歩道の整備などを進め、現在に至っている。 駐車場の収容能力は約250台だが、例年十分に収容しきれない状況であり、駐車場を含めた今後の公園整備計画は、町役場職員のプロジェクトチームで検討中である。
 チューリップ公園の年度別整備状況は次のとおりである。
【昭和62年度】
風車管理棟(54.54平方㍍)、シックスライトハウス(142.62平方㍍)、FE型ハウス(115.62平方㍍)、、駐車場(100台収容、2233.69平方㍍)、畑(青空広場含め2まん9651.48平方㍍)
【昭和63年度】
駐車場トイレ(30.78平方㍍)、公園出入口道路
【平成元年度】
駐車場等(47台収容、1216平方㍍)、風車動力(1式)、風車管理棟照明(1式)、公園内音響施設(1式)、民地買収畑拡張(1万4671.42平方㍍)
【平成2年度】
駐車場等(48台収容、2400平方㍍)
【平成3年度】
駐車場等(48台収容、2400平方㍍)、遊歩道(カラー舗装1900平方㍍、縁石223㍍)、電線地下埋設(150㍍)、チューリップ館(238.34平方㍍)
【平成4年度】
駐車場舗装(1まん839平方㍍)、公園内道路(254㍍)、トイレ(100.94平方㍍)
【平成5年度】
公園内遊歩道舗装(435㍍)、フラワータワー(1式)、放送用設備(1式)
【平成6年度】
公園内遊歩道舗装(51㍍)、駐車場道路(220㍍)、芝生植生(3000平方㍍)、木柵(231㍍)、ログハウス(2棟)
【平成7年度】
公園内作業用機械購入(トラクター1台、付属作業機1式)
【平成8年度】
農地取得(1万5000平方㍍)


(2)五鹿山公園
町立公園の指定  五鹿山は中湧別市街から東へ2㌔㍍離れた標高125.5㍍の小さな山だが、オホーツク海やサロマ湖を一望でき、四季折々の変化も素晴らしく、古くから桜の名所として春は町内外の花見客が訪れ、冬はスキー場として利用されていた。 これらの土地が私有地のため、昭和50年代(1975~)まで特別な整備は行われていなかったが、上湧別町は観光拠点として開発整備する構想を打ち出し、同58,同59年(1983,1984)度で用地買収を行い、梅園づくりや桜の補植、雑木の除去などの整備を進めるのと同時に、同59年12月20日、五鹿山一帯(約55.2㌶)を町立公園に指定した。

五鹿山公園の整備  昭和58年(1983)6月に発足した上湧別町産業開発事業推進委員会(渡辺正喜座長)は、町の活性化対策について同60年(1985)4月、佐々木義照町長に対し答申した。 その中で地域観光開発については、五鹿山の開発を柱とし、自然を残したリゾート型の観光基地として整備することを提案した。 これを受けた上湧別町は同60年度から道単独の緑のふるさと整備事業を導入、5ヶ年計画で総事業費1億5000万円(うち道補助2分の1)を投じた。 初年度は調査研究を行い、道61年(1986)度から本格的な整備に入った。
 各年度ごとの整備状況は、次のとおりである。

【昭和61年度】
展望広場(丸太造り、90平方㍍)、タイムタワー(1基)、テントサイト(20ヶ所)、野外炊事場(1棟)、遊歩道(4ヶ所・128㍍、351㍍、388㍍、830㍍)、木橋(3ヶ所、8橋)
【昭和62年度】
水辺園地(石組、500㍍、1800平方㍍)
【昭和62年度・同63年度】
ロックガーデン(石組、1050㍍、2000㍍)
【昭和63年度】
ログハウス実習ロッジ(1棟、123平方㍍)、木橋(1基)、パークゴルフ場(7384平方㍍、9ホール)、電気施設(1式)
【昭和63年度・平成元年度】
木製遊具(4種類)
【平成元年度】
階段(丸太造り180段)、あずまや(1棟)、水辺園地周回遊歩道(430㍍)、ログハウスキャビン(8棟、各12.4平方㍍)、ログハウストイレ(1棟)


 その後も農山漁村活性化定住圏創造事業の導入により、平成6年(1994)度まで整備を続け、今後の整備計画については、町役場職員のプロジェクトで検討している。 同2年(1990)度は、整備計画がなかった。
 平成3年(1991)度以降の整備状況は次のとおりである。
【平成3年度】
公園案内板(1基)、セミナーハウス(1棟、61.92平方㍍)、パークゴルフ場(7673平方㍍、9ホール)
【平成3年度・同4年度】
放送設備・防犯灯(1式)
【平成4年度】
ログハウスキャビン(7棟、各12.4平方㍍)、シャワー室(1棟、4室延べ34.74平方㍍)、ログハウストイレ(1棟)、駐車場(50台収容)
【平成5年度】
ログハウスキャビン(3棟、各12.4㍍)、ログハウストイレ(1棟)、オートキャンプ場(17ヶ所)、パークゴルフ場(2まん3200平方㍍、18ホール)
【平成6年度】
ログハウス炊事舎(2棟)、あずまや(1棟)、キャンプファイヤー広場(1ヶ所)、防犯灯(3灯
【平成7年度】
パークゴルフ場水飲場(1基)
【平成8年度】
作業所(1棟)

 このような施設整備と併行して、ツツジやシャクナゲ、桜、梅、オンコ、高山植物などの植栽も大がかりに行われた。 とりわけ樹齢90年の桜や7000本が咲き乱れるツツジ、3000株が紫の競演を繰り広げるショウブは見事である。 150種もの貴重な高山植物がみられるロックガーデン(高山植物園)は、評価が高い。 春の花見から始まって夏のキャンプ、森林浴、春から秋まで気軽に楽しめる林間パークゴルフ、さらに、自然観察やバードウォッチングなら四季を選ばない。 隣接の斜面には、スキー場も整備されているので、通年利用できる一大レジャー・レクリエーションランドに生まれ変わった。


(3)上湧別リバーサイドゴルフ場
ゴルフ場の建設  ゴルフの大衆化の波に乗って、老若男女、誰でも気軽に低料金で楽しめるゴルフ場が、上湧別町内に単需要した。 シーズンになると、地元上湧別町の人たちばかりでなく、近隣市町村の人たちも駆けつけプレーに興じている。 それは、上湧別リバーサイドゴルフ場である。 上湧別町と町内の個人、法人が出資して設立された第三セクターの(株)上湧別振興公社が建設運営している。
 ゴルフ場は、4の3の17号線と21号線間の湧別川河川敷約60平方㍍の用地に設けられた。 上湧別町が国から借り受け昭和60年(1985)8月から同振興公社が造成工事を行い、翌61年(1986)7月20日に9ホールでオープンした。 コース造りのほか、打放し練習場、駐車場、クラブハウス(レストラン、休憩所、シャワー、ロッカールーム、更衣室を完備)を建設した。 アップダウンの少ない平坦なコースは、女性やお年寄りにも好評で初年度は110日間の営業で4978人が利用した。
 この人気に支えられて、昭和62年(1997)9月5日、増設した9ホールもオープン、造成に1億5000万円をかけた18ホール(パー72,延長6926㍍)が完成した。 平坦とはいいながら、細かなアンジュレーション(うねり)があり、上級者でも獣部員楽しめるので、利用者も一挙に1万4000人近くに増加し、平成3年(1991)は、3万3273人と最高を記録した。 翌4年(1992)は16%近く減少したが、その後再び増加傾向をたどり、同7年(1995)は3万7000人を超えている。


振興公社と建設基金  (株)上湧別振興公社は当初、3000万円(上湧別町1000万円、民間個人・法人2000万円)で発足したが、4回にわたり増資して平成8年(1996)度末現在は1億8600万円(上湧別町8460万円、民間個人・法人1億140万円)となっている。 また、同4年(1992)、ゴルフ場の建設基金として民間の個人・法人から集めた約1億2840万円を全額返還、建設基金預託制度を廃止、2年計画でこれを株に切り替えた。 これは国から湧別川の河川敷を借りる条件として、パブリック制を採用することになっていたが、建設基金を預託していた人に対して、一般利用者より安いプレー料金を設定したことが、会員制ゴルフ場システムを採用しているとの指摘を受けたためで、誤解を招かないように改めたものである。
 平成7年(1995)7月20日、(株)上湧別振興公社創立十周年の記念式典が農村環境改善センターで盛大に開かれた。 同8年度末までの11年間の利用者数は延べ28万人を超え、町外の人たちを上湧別町に呼び込む原動力の一つになっている。


(4)その他の公園 
上湧別神社公園  上湧別中学校の南側、国道242号沿いにある上湧別神社とその境内は、屯田兵入植以来、鎮守の森としてばかりでなく、人々の祈りと憩いの場所となっていた。 昭和33年(1958)3月27日には、初の町立公園に指定され、整備が進められた。
 桜や松、モミジが茂り、特にカシワの原生木は町の保全樹木に指定され、大切に保護されている。 この神社公園をフジの名所にしようとフジ棚が寄贈されたのは、昭和60年(1985)5月であった。 中湧別ロータリークラブが創立二十周年記念としてフジ5本を寄付したのがきっかけとなり、同クラブと上湧別地区コミュニティ協議会、上湧別商工振興会が、無料奉仕で長さ約20㍍のフジ棚を造った。 フジの植樹とフジ棚の延長作業はその後も続き、フジ棚の長さは現在では100㍍近くになっている。
 このほか神社公園内には、屯田兵開拓の遺徳をしのぶ開拓祈念碑や、戦争で犠牲に鉈人々の霊を慰める忠魂碑がある。 又、町の開基八十周年を記念してタイムカプセルが埋設されている場所でもあり、上湧別町民にとっては歴史とゆかりの深い公園である。


開盛神社公園  昭和12年(1937)10月、開盛地区が私有地約10㌶を買収、同28年(1953)ごろから本格的に整備した自然公園である。 同39年(1964)9月10日に、町立公園の指定を受けている。 麓には開盛神社があり、神社境内は、豊作祈願で植えられた杉の大木3本や奉納品の黒曜石3万1000個余りがあるほか、自然の小河川を利用した平和池、白髪の滝や聖徳太子堂が配置されている。 神社裏手から500㍍ほど登ると、山頂に十二支堂、湯殿山が設けられており、奇石、奇岩もみられる。 春は桜、ツツジ、秋は紅葉が美しく、町民の憩いの場として親しまれている。

東山樹木公園  展望台から上湧別町内はもちろん、湧別川、オホーツク海、シブノツナイ湖、コムケ湖、大切山系連峰が眺望できる絶景の地である。 昭和43年(1968)の開基百年を記念して、東山の町有林に上湧別町が設置した。 自然林地、造林地合わせて約5㌶あり、このうち約1.5㌶にエゾアカマツ、パンプス、ストローブ、レジノザ、シベリアから松、カラマツ、エゾマツ、朝鮮5葉、トウヒ、アカマツ、トドマツ、シラカバ、山桜、吉野桜、八重桜など約5000本がみられる。 さらに、上湧別商工振興会員、町役場職員らの労力奉仕によって桜の幼木、ツツジなども数百本植えられた。 頂上まで約660㍍のハイキングコースも設けられ、あずまや、ベンチ、トイレなども備えられている。
 また、公園の斜面にチューリップの花を象った芝桜の植栽も行われた。 昭和62年(1987)には、第1回チューリップフェアの開催に合わせ、チューリップの形に縁取った電飾(イルミネーション)装置が設置され、同フェアの夜の名物になった。


  第三節  イベント 
    (1)広域イベント  
湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会  白滝村の大雪スキー場と上湧別町の五鹿山スキー場(平成6年から文化センターTOM前広場)を結ぶ延長100㌔㍍のコースを、スキーで草はするスケールの大きなクロスカントリー大会である。 上湧別町が音頭を取り、コース沿いの遠軽町、丸瀬布町、白滝村が一体となって、諸団体協賛のもと昭和61年(1986)から実施している。
 種目は湧別原野コース(85㌔㍍)、男女別の駅伝コース(各10㌔㍍)を中心に、白滝コース(19㌔㍍)、丸瀬布コース(18㌔㍍)、遠軽コース(23㌔㍍)、上湧別コース(25㌔㍍)、5kmコース、10kmコースの10種目で、地域や体力を考慮して参加しやすいコース設定をした。
 第1回大会は昭和61年2月2日に行われ、731人が応募した。 応募者の内訳は、地元4町村251人、道内469人、道外9人、国外2人であった。 このうち663人が出場、642人(96.8%)が完走している。 クロスカントリースキーの本場フィンランドから出場した在日フィンランド大使館職員のカウコ・ライティネンも、過酷な85㌔㍍コースを完走した。 また、町村職員、商工会、青年団体、婦人団体、スポーツ団体など総勢約1000人が、給食所での食べ物の配布、通過走者のチェック、受付などに裏方としてボランティア参加し、大会成功の一翼を担った。 さらに、陸上自衛隊遠軽駐屯地の隊員、遠軽警察署の職員、交通安全指導員も、選手の安全誘導やけが人の救護などに活躍した。
 第2回大会以降、応募者は年を追うごとに増え、最高となった平成7年(1995)の第10回大会は3252人と第1回大会に比べ4.4倍以上となった。 特に道外の応募者は168人で18.7倍、国外の応募者は10人で5倍に増えている。 このイベントを通じて初めて上湧別町を訪れ、冬の自然の素晴らしさを認識する人も多い。
 このほか上湧別町商工会は、第1回大会から開催当日にゴール地点の五鹿山スキー場で「自作仮装ソリ大会」を催し、クロスカントリースキー大会に彩りを添えている。 クロスカントリースキー大会に参加できない地元の人たちが、アイディアや工夫を凝らした手づくりソリを持ち寄ってソリ滑りを楽しむもので、文化センターTOM前広場に移った平成5年(1993)まで続いた。


オホーツクフィッシングin湧別川大会  冬の湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会の成果を踏まえて、その”夏型版”として登場したのが、オホーツクフィッシングin湧別川大会である。 湧別川流域に位置する白滝村、丸瀬布町、生田原町、遠軽町、上湧別町、湧別町の6町村の若者で結成している湧別川流域会議が提唱して、昭和63年(1988)から始まった。 同会議では共通の自然環境、類似した産業構造を持つ流域内の若者たちが、先人たちの開拓した大地の未来を語り、活性化を図る活動に取組、このフィッシング大会を通じて、流域観光・イベントの振興、自然保護の推進を目指すのがねらいである。
 大会は白滝(白滝温泉~白滝橋)、丸瀬布(いこいの森~いこいの森上流)、生田原(信盛橋~平和橋)、遠軽(遠軽大橋~いわね大橋)、上湧別(上湧別橋~16号線)、湧別(湧別大橋~湧別大橋上流)の6コースでヤマメ(ヤマベ)、ニジマスを対象に行っている。 えさ釣りやスポーツフィッシングとして人気の高いフライフィッシング、ルアーフィッシングでもよく、ヤマメ、ニジマスとも2匹の体長合計で釣果を競う。 誰でも参加でき(中学生以下は保護者の付き添いが必要)、参加料は中学生以下1000円、一般2500円(いずれもスポーツ障害保険料を含む)の放流協力金をもって充てている。
 昭和63年7月31日を第1回として、平成8年(1996)まで9回の大会を開いている。 参加者数は、その年によって増減はあるものの、総体的にやや減少している。 しかし、網走支庁管外からの参加は、増える傾向にある。 釣果のこれまでの最高記録は、ヤマメの部が77㌢㍍(第7回・野村忠男)、ニジマスの部が123.5㌢㍍(第2回深澤憲二)となっている。 道外からも毎年何人かz(第2回は最高35人)が参加し、大会のあと、道東観光めぐりを楽しんでいる。
 上湧別コースでは毎年大会前日午後、上湧別橋下流河川敷地でヤマメ、ニジマスの放流や前夜祭を行うほか、大会当日は、釣り経験のない子供や女性のために釣り堀、ゲーム、豚汁の各コーナーを設け、家族そろって楽しめるイベントづくりを目指している。


インターナショナルオホーツクサイクリング  漁業基地・雄武町から地の果て知床の玄関口・斜里町まで、オホーツク沿岸212㌔㍍を自転車で走り抜くインターナショナルオホーツクサイクリングは、平成9年(1997)で第16回となった。 昭和57年(1981)の第1回以来参加者も増え、ビックイベントとしてすっかり定着している。
 第16回大会は、平成9年7月11日(金曜日)~13日(日曜日)の2泊3日の日程で行われ、1645人が参加した。 毎回、初日は雄武町民センターで開会式や前夜祭を行い、2日目には早朝同センターを出発して、おこっぺジョイパーク~オムサロネイチャービューハウス~オムサロ原生花園~コムケキャンプ場~湧別町役場~上湧別文化センターTOM~キムアネップ岬~常呂町栄浦を経て常呂町民センターに到着、1泊する。 最終日は、早朝同センターからサイクリングロードを経由して、、卯原内鉄道公園~網走支庁~小清水原生花園~浜小清水駅前~止別駅前を通り、ゴール地点の斜里町児童公園に入る。
 上湧別町の通過コースは、国道238号の6号線(町界)から国道242号を通り元中湧別駅前道路を通過し、上湧別町文化センターTOM、五鹿山公園横通りを経て湧別町へ抜ける。 文化センターTOMには、休憩所が設けられている。
 サイクリストたちが上湧別町内を通過するのは、2日目の午後1時20分ごろから同2時40分ごろまでである。 挺団・グループに分かれて次々と休憩所の文化センターTOMに入る。 遠藤には多くの町民が立ち並び、盛んにに声援を送り、各交差点では交通安全指導員が交通整理に当たっている。 休憩所では、商工会婦人部、観光協会の役員らが、観光協会の役員らが待機、上湧別町名物のアイスクリームや通行手形、それにスポーツドリンクなどを配布し、サイクリストを激励する。 上湧別町からは、この大会に毎年20~30人が参加、快い汗を流している。


花回遊スタンプラリー  上湧別町を含めた遠紋地区6市町村が手を結び、花をテーマにした新しい観光ルートを開発し、定着させようという事業が進められている。 「オホーツク周遊200㌔(中部圏)推進協議会」(事務局・滝の上観光協会)が主催する。 花回廊スタンプラリーである。 同協議会は、紋別市、上湧別町、遠軽町、丸瀬布町、白滝村、滝上町の6市町村の観光協会により、平成6年(1994)11月に設立された。 その後、ポスター、パンフレットの制作、マスコミ、旅行代理店などへの宣伝、関連グッズの開発などの準備に取り組み、同8年(1996)から実施している。
 この花回廊構想は、ハマナスの紋別市、チューリップの上湧別町、ヒマワリの遠軽町、フジの丸瀬布町、ツツジの白滝村、芝桜の滝上町を結んで周遊コースを設定し、毎年5月1日から10月31日までの6ヶ月間にスタンプラリーを行うものである。 各市町村には1~3ヶ所のスタンプ設置場所を設け、1市町村につき1回、計6種類のスタンプを集める。 これを担当の市町村に送ると、毎月抽選で10人に地域の特産品(海産物、農産物、木芸品、ハーブグッズなどのうちから1品)をプレゼントする。 という仕組みになっている。 スタンプは、それぞれの市町村の花と「は・な・か・い・ゆ・う」の文字の一つずつをあしらったオリジナルのもので、全部そろうと「花回遊」をなる。
 上湧別町の場合は、国道242号沿いの5㌶のチューリップ公園に5月中旬から色とりどりに咲き誇る70種類、100万本のチューリップが人気を集めている。 スタンプの設置場所は、チューリップ公園のほか文化センターTOM、五鹿山公園の3ヶ所である。 平成9年(1997)には、花回遊を全国に宣伝しようと花を絵はがきにし、全国の郵便局で6枚1セット、3万セットを発行した。 上湧別町はもちろんチューリップ公園が絵はがきとなっている。


(2)単独イベント  
チューリップフェア  チューリップフェアは、5㌶の花畑に70数種類、100万本のチューリップが咲き乱れる上湧別町チューリップ公園を舞台に、毎年5月10日から5月31日(天候不順の時は6月上旬)まで盛大に繰り広げられ、道内外から観光・レジャー客を呼び込む、最大の催し物となっている。
 公園内に配置されているオランダ風車型の管理棟と、ユニークなデザインのチューリップ館は色彩豊かに花畑を埋め尽くすチューリップの花とともに異国情緒を誘い、童話の世界をかもし出している。 フェア期間中は会場内で地場産品のアスパラガスや上湧別町農業協同組合特製のアイスクリーム、チューリップ染め手芸品などの販売、チューリップの切り花、球根などの予約販売、上湧別町商工会青年部の部員によるオランダカーニバルなどがにぎやかに行われる。 夜になると、オランダ風車型管理棟とチューリップ館をライトアップする。 遠く東山樹木公園では、ジャンボチューリップの電飾が鮮やかにともり、幻想の世界を演出する。
 チューリップ公園の施設がほぼ整った昭和62年(1987)からフェアを開始、初年度は約1万人が訪れた。 宣伝が行き届いたこともあって、翌63年(1988)度から入園者がうなぎ登りに増えた。 平成4年(1992)より、駐車場料金を徴収していたが、同7年(1995)度から入園料に改めた。 入園料は、大人200円、小人(小・中学生)100円、団体(10人以上)は大人150円、小人80円である。


五鹿山公園まつり  五鹿山は桜の名所として知られ、毎年5月中旬ごろには地元の上湧別町民ばかりでなく、近郊の町村からも花見客が訪れ、にぎわっている。
 五鹿山は、昭和59年(1984)に町立公園に指定されたあと、順次整備が進められ平成元年(1989)度にはほぼ完了した。 翌2年(1990)5月13日、「花見を五鹿山全体のまつりにしよう」と上湧別町商工会が中心となって、第1回五鹿山公園まつりを開催した。
 メーン会場をキャンプ広場に設け、上湧別中学校吹奏楽部による野外演奏会や、子供からお年寄りまで参加できる宝さがしなどのアトラクションが行われ、花見に集まった家族連れやグループを楽しませた。 このほかジュースやホタテの無料サービスもあり、花見に彩りを添えた。 その後も毎年、桜の満開日を中心に五鹿山公園まつりが開かれて、趣向をこらした催し物が繰り広げられている。


屯田ふるさとまつり  夏の一大イベントとしてすっかり定着しているのが、屯田ふるさとまつりである。 昭和55年(1980)から上湧別町、上湧別町農業協同組合、上湧別町商工会、上湧別町観光協会が協力して、町ぐるみで実施している。 最初のころは、上湧別地区と中湧別地区で、毎年交互に会場を移し、上湧別地区では農村環境改善センター周辺、中湧別地区では社会福祉会館周辺が会場に充てられていたが、文化センターTOMができてからは、その周辺で行っている。 メーンの催し物は「ポニーばん場競技大会」で、かっての人間ばん馬大会から発展したもので、いまでは毎年50頭以上のポニーが全道から参加し、勝ち馬予想投票もあり、人気を呼んでいる。
 例年、知恵を絞った様々なプログラムが組まれて、」園芸などが次々登場する。 まつりの最後をしめくくる「ふれあいパーティー」では、ビール片手に牛の焼き肉に舌鼓を打ち、歌謡ショーや抽選会を楽しんでいる。 また、上湧別町社会福祉協議会の人たちによる「ふれあい広場」では、チャリティーバザー、子供の広場のつり掘コーナー、福祉の広場のパネル展示などが行われている。 地元の人たちばかりでなく、近隣町村からやってくる人も増え、家族連れやグループで真夏の1日を存分に満喫している。 平成7年(1995)からは、上湧別町のイメージキャラクター、チューピットのマーク入り展と15張りが新登場し、にぎやかさが増した。


七夕まつり  七夕まつりは、「上湧別町の活性化のために、新しい独自のイベントを」と上湧別町商工会が企画・主催し、昭和63年(1988)から始めた。 その前年、環境庁が全国で実施した「スターウォッチング星空の街コンテスト」において、網走支庁管内でただ1ヶ所、上湧別町が「星空の街」に指定されたことから、「星空の街」のイメージを高めることによって、まつりを通じて町の活性化を図るため、開催に踏み切った。
 実施に先立ち商工会の役員が、仙台、一宮とともに全国三大七夕まつりとして有名な神奈川県平塚市を視察した。 また、宮城県から長さ12㍍余りもある真竹160本を取り寄せるなど、万全の準備を整えた。 第1回七夕まつりは、昭和63年8月6,7日、中湧別駅前通りを主会場に開かれた。
 歩行者天国にした駅前通りに60本、国道242号沿いに100本の豪華な七夕飾りを立て、町民や近郊町村から訪れた人たちの目を楽しませた。
 両日にわたり会場では、上湧別中学校、湧別高等学校のブラスバンド青空演奏会や一足早い子供盆踊り、綱引き大会など多彩な催しが繰り広げられた。 7日夜には、中湧別地区子ども会の伝統行事「あんどん行列」が盛大に行われた。
 2回目以降も、町内の起業、各種団体、自治会、子ども会、個人が工夫をこらして作った七夕飾りのコンクールや、町民が課程に眠っている品物を持ち寄り自由に販売するガラクタ市をはじめ、ビアガーデン、歌謡ショー、ゲーム大会など様々な催しが行われ、参加者も一般見物者も年々増加している。
 会場は文化センターTOMの完成に伴い、同センター周辺の広場に移し、ゆったりと催し物が楽しめるようになった。


 
  第四節  上湧別観光協会 
topへ    観光協会の歩み  網走国定公園への観光客の急増に伴い、上湧別町への観光客も増加したことから、昭和45年(1970)11月11日、上湧別町観光協会が設立された。 上湧別町の総合的観光事業の促進、宣伝・紹介などにより、郷土の発展に寄与することを目的に、①観光資源の調査、開発、保護育成、②観光と産業の宣伝紹介、観光客の誘致促進、③観光印刷物の刊行、頒布、④観光施設、交通機関の整備促進、⑤関係機関との連絡協調、⑥その他刊行に関する事業、などの事業を進めている。
 観光協会の発足当時から昭和50年代(1975~)までは、上湧別町内に目立った観光資源も大きな観光行事もなかった。 五鹿山公園桜祭りや屯田ふるさとまつりなどの協賛、観光パンフレットの発行、桜やツツジの植樹、観光案内板の設置などがその主な事業であった。 同60年代(1985~)に入ると、五鹿山公園やチューリップ公園などが整備され、新しい観光拠点となったほか、チューリップフェア、湧別原野オホーツクフィッシングin湧別川大会など広域イベントが催されるようになり、観光客の誘致に大きな役割を果たした。 また、オホーツクライン観光開発や、花回遊スタンプラリーなど広域観光の取り組みにも力を入れ、観光協会の出番も多くなった。


主な事業  現在、観光協会が行っている事業のうち最も大きなものは、チューリップフェアである。 上湧別町から委託を受け、フェアの運営に携わっている。 このほか五鹿山公園まつり、上湧別神社さくらまつり、インターナショナルオホーツクサイクリング、湧別原野オホーツク
100kmクロスカントリースキー大会などに協賛し、観光振興の役割を担っている。 また、観光ガイドブック・パンフレットの発行、観光名刺台紙の作成、東山樹木公園電飾に対する支援など多彩な活動を行っている。 最近はオホーツク周遊200㌔推進協議会の一員として、花回遊スタンプラリー推進のため力を注いでいる。
 観光協会の事務局は発足以来、上湧別町商工会に置かれている。 一時上湧別町役場商工林務課内に移されたことがある。 運営費については、会費、町の助成金、寄付金、その他の収入によって賄われている。 会員は趣旨に賛同する団体、個人を持って構成している。 上湧別町の場合は、町民全員を観光協会の会員としており、会費も各戸100円をめどとして、各自治会から徴収している。