開基百年 上湧別町史

第6編 教育と文化
第7編  交通と通信
第8編 福祉・保健衛生・労働
541~760頁

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上湧別町史top

                第6編 教育行政  学校教育  社会教育  国際交流  衣食住  信仰と宗教  寺院  
                 第7編 道 路  運 輸  鉄 道  通 信  新聞・放送等  電 気 
                第8編 福 祉  保健衛生  水 道  公 害  労 働         


第6編  教育と文化  
第1章         教育行政  
第1節   概 説 
教育委員会制度  戦後の教育民主化の流れの中で定着をみた6・3・3・4制に代表される新しい諸制度は、その後の高度経済成長期を経て情報化、国際化、高齢化の進む社会を背景に、教育委員会制度のように数次にわたって改定されたものもあるが、その大枠は今日まで受け継がれている。
 まず、現行の教育委員会制度については、昭和31年(1956)の「地法教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定されて以来、その制度が踏襲されている。 これは、それ以前の教育委員会の公選制を廃止し、教育委員の選任は、当該地方公共団体の長が議会の同意を得て任命するという制度である。 委員の任期は4年、定数は5人で、そのうち1人が教育委員長(任期は1年)に互選されて会議を主宰し、教育委員会を代表する。 さらに、教育委員会には、委員会の指導監督の下でその権限に属する全ての事務をつかさどる教育長が置かれている。


学校教育  学校教育については、1980年代(昭和55年~)を迎えて社会の変化はさらに急激に進み、町民の学校教育に対する要望はますます多様化してきた。 児童・生徒の将来の進路を考え、教育町では、既に昭和40年代(1965~)に着手した体育施設の充実ぁ湧別町科学技術教育の推進、育英制度の充実、完全給食の実施等に続いて、各小・中学校の実情に応じた校舎及び施設・設備の整備、教職員の研修活動の充実、連合PTAを中心とした学校と地域との連携、情報教育・放送教育・視聴覚教育・語学教育の分野での新しい教育方法の導入などを積極的に進めている。
 上湧別町においても、初等・中等・高等の各教育については、全国的な教育状況の動きを反映していることに変わりはないが、施設・設備の整備をはじめとする教育の近代化を進める一方で、地域の過疎化に伴う教育環境の変化への対応など、今後解決を必要とする問題を抱えていることも事実である。


社会教育  また、社会教育の分野では、既に昭和50年代(1975~)から進めてきた町民体育の振興、文化環境の整備、文化団体の育成をさらに高い水準へと押し上げるために、社会教育・スポーツ施設の整備を推進中である。
 特に、高齢化社会の到来を踏まえて、生涯学習を普及浸透するためのソフト・ハード両面の充実は今後の大きな課題である。
 昭和61年(1986)3月11日には「生涯スポーツの町」を宣言した。 そして、同年の第一期上湧別町社会教育中期計画、平成3年(1991)の第二期計画、同8年(1996)の第三期計画で新しい世紀に向けてのまちづくり・人づくりを着々と進めつつある。
【上湧別町教育目標】
 ○自ら学んで、知性を磨き、明るい未来を拓く町民に
 ○開拓の歴史と文化に学び、温かい郷土を創る町民に
 ○強い意志と自律の心を持ち、生活向上に努める町民に
 ○自然やスポーツに親しみ、健康な家庭を築く町民に
【上湧別町社会教育目標】
 ○自ら学び、明るく豊かな明日を拓く人に
 ○郷土を愛し、豊かな情操を培い、文化を高める人に
 ○豊かな心と強い意志を持ち、働く喜びを知る人に
 ○自然やスポーツに親しみ、健やかな心身を養い、活力ある生活を築く人に
【「生涯スポーツの町」宣言文】
 ○私たち上湧別町民は、生涯を通じてスポーツに親しみ、健康でたくましい心と体をつくり、明るい豊かな郷土を築くため、「生涯スポーツの町」を宣言します。
一、 スポーツに親しみ、   
   健康な体をつくりましょう。    (いつでも)体  
一、  スポーツを楽しみ、   
   ふれあいと友情を深めましょう。   (どこでも)心 
一、  スポーツを通して、   
   いつまでも活力ある生活をしましょう。   (みんなで)活 
一、  スポーツの輪を広げ、   
   明るく住み良い町をつくりましょう。  (すべての)輪 

 
第2節   教育の変遷と課題 
70年代以降の教育の変遷  わが国では、1970年代(昭和45年~)前半の第一次オイル(石油)ショックと狂乱物価を経て経済の高度成長にかげりがみえはじめ、安定成長期へと移行し始めた。 しかし、人々の教育に寄せる期待は変わることはなく、学校教育機関への新築・増改築を含む設備投資は1980年代(昭和55年~)を通じて衰えることはなかった。 また、上級学校への進学熱も、上昇の一途をたどり今日まで続いている。
 偏差値教育にかたより、「落ちこぼれ」とか「7・5・3教育(小学校で7割、中学校で5割、高校で3割しか授業についていけない。)」という言葉も生まれた。 1980年代に入ると、全国的に校内暴力、家庭内暴力が吹き荒れ、その対応に追われた。 1990年代(平成2年~)にはようやく終息に向かったが、これに代わって「いじめ問題」がクローズアップされ自殺者が出るなどの大きな社会問題となっている。


教育現場の課題  「量の教育から質の教育への転換」「知育偏重の教育から心の教育への転換」の時代といわれ、「道徳教育」「ゆとりの時間」(学校裁量時間)が叫ばれるようになった。 学級基準数(学級定員)の削減が平成4年(1992)から実施され、義務教育では45人学級が40人に、高等学校においても同年から40人学級への移行が始まり、同8年(1996)には全校40人学級となった。 しかし、欧米の基準にはまだまだほど遠い現状である。 学校5日制も模索されが始まり、同4年9月から月1回(第二土曜日)の休日、同7年(1995)から月2回(第二、第四土曜日)の休日が実施され完全週休2日制へと動き始めている。 また、義務教育においては、養護教諭と事務職員の配置が同3年(1991)から改善され、養護教諭は、3学級13人以上の児童・生徒の学校・事務職員は、3学級16人以上の児童・生徒の学校、事務職員は、3学級16人以上の児童・生徒の学校となり、全校配置に近い状態になった。

臨教審答申・中教審答申  臨時教育審議会の第1次答申(昭和60年6月26日)、第2次答申(同61年4月23日)、第3次答申(同62年4月1日)、最終の第4次答申(同62年8月7日)では、教育荒廃の早期発見のためには学校の閉鎖性の打破、児童・生徒の教育上の諸権利の尊重、地域や社会との連携の強化と開かれた学校運営を提言している。 学校では、「学校だより」「学級通信」の発行、学校開放、ボランティア活動灯でそれに応えようとしている。
 中央教育審議会は昭和49年(1974)に再開し、同52年(1978)に20人の委員が選出され、活動を始めた。 平成8年(1996)7月には、第15期中央教育審議会の第1次答申がなされている。 現在までに「教員の資質・能力の向上について」「学校開放の促進」「生涯教育」「教科書の在り方について」「子供に生きる力とゆとりを」等を答申している。


学習指導要領の改訂  昭和52年(1977)と翌53年(1978)には学習指導要領の改訂が告示され、同55年(1980)から小学校・中学校・高等学校の順に実施された。 そこでは、教育課程編成の多様化と弾力化が示され、ゆとりと充実がいたわれ「ゆとりの時間」が設けられた。 さらに、平成元年(1989)に全面的に改訂された学習指導要領では、各学校においては、その地域の実情や教育課題に対応して、主体的な教育課程の新しい編成を行い、教育内容の改善をもっと積極的に推進することが求められた。 小学校の「生活科」の新設、中学校・高等学校の「家庭科」等の男女共修、高等学校では、必修科目・単位削減、社会科での「現代社会」の新設、習熟度別学級編成などが盛り込まれて、教育関係者の議論を呼んだ。 同4年(1992)から小学校・中学校・高等学校の順で実施に移されている。

様々な動き  昭和53年(1978)に東京都中野区議会で教育委員会順公選制が可決され、翌54年(1979)には、第1回の国公立大学共通1次試験が実施されている。
 学校教育現場を中心に、指導主事の学校訪問、学校主任制、日の丸掲揚・君が代さいしょう斉唱、社会科教科書の「侵略」記述、教師の体罰などの問題が盛んに議論されてきた。 これらの問題の中には、現在なお解決を要する問題として残っているものもある。
 このような全国的な教育界の動きの中で、学校では、複数の生徒が一緒になって学習活動を行うグループ学習や、いわゆる「落ちこぼれ」の子を少なくするための中学・高校における習熟度別学級編成、一つの教室に複数の教師を配置して子供たちにきめ細かく教えるティーム・ティーチングなどが試みられてきている。


   
第3節   上湧別町の教育 
教育費総額の伸び  このような流れの中で、教育町でも、教育現場である学校を中心として、多くの新たな教育への取り組みがなされてきた。 昭和51年(1976)から平成7年(1995)まで20年間の教育町の年間教育費総額(土地・建物費を除く)は、小学校が4103万7000円から1億3170万6000円へと、中学校が3827万4000円から6042万8000円へと増えている。 物価上昇率を考慮に入れても、この教育費の伸びは、高等教育の拡充につれて、初等・中等教育の重要性がされに増してきていることを示している。

研修活動  各小・中学校ごとに自主的な研究・研修活動が、学校現場に応じたスタイルで続けられている。 特に、町内各小・中学校を会場に行われている町教育委員会指定の公開研究会は、町内に限らず網走支庁管内の教師や父母をはじめ関係者が多数参加して、大きな成果を挙げてきている。 この公開研究会は、町内では2校ずつのローテーションで毎年実施、また、遠軽ブロックの公開研究会にも参加している。 さらに、昭和51年(1976)に結成された網走研究団体協議会の管内規模での活動も継続して行われている。
 昭和57年(1982)9月16日に開盛小学校で全道へき地複式教育研究大会、さらに、平成7年(1995)10月5日に富美小学校で第44回全国へき地教育研究大会が開催され、全道はもとより全国各地から、へき地・複式教育にかかわる教育関係者が多数参加した。 研究主題は「確かで豊かな表現力を育てる国語学習のあり方をめざして」として、研究が深められた。


学校教育振興協議会  戦後まもなく生まれた学校教育連絡協議会は、昭和51年(1976)に発展的に解消され、新たな規約に基づいて上湧別町学校教育振興協議会として組織され、教職員体育大会、講演会、郷土資料の収集、教科別研究会、実技講習会(スキー)、夏・冬休みの作品展等を実施している。
 平成8年(1996)度の教科別研究会は、理科、図工美術、学校保健、事務、教育実践、体育、道徳、野外活動、パソコンの9部会で活動している。


手をつなぐあゆみの会  心身に障害を持つ子供たちの父母が、学校及び地域社会と連携しながら互いに手をとりあって子供たちの幸福を実現しようと、昭和47年(1972)6月に「上湧別町手をつなぐ親の会」が結成されて以来、今日まで地域の啓蒙活動、特殊学級の施設・設備の充実促進養護学校の拡充、会員の相互研修・相互扶助などに積極的に取り組んできている。同「親の会」は同56年(1981)4月に、「上湧別町手をつなぐあゆみの会」として再出発した。
 最近の会員は20人前後で推移し、具体的な活動としては、上湧別町社会福祉協議会主催の福祉大会への参加、網走支庁管内福祉施設の研修訪問、未加入者への入会促進等をしている。


連合PTA  父母と教師の会(PTA)の活動は、昭和30年代(1955~)半ばまで運営と活動をめぐって幾度か変遷をみたが、同26年(1951)には各町内単位PTAを連合会組織にし、町内各学校で上湧別町連合PTA兼首魁が開催されるようになった。 以来、網走支庁管内連合PTA、第4方面連合PTA(現、遠軽フロック連合PTA)、全道PTA、全国PTAとのつながりの中で、研究活動などが活発に続けられている。
 各種研究・研修会の参加啓発、町連合PTA研修会の実施、青少年健全育成のため連絡協議会への参加、各PTA情報の交換(「PTA新聞」など)の活動をしている。


国際交流  平成元年(1989)に国際交流事業がスタートしたことに伴って招かれるようになった外国人英語指導助手(初代はブラッドリィ・アンブリー)による上湧別中学校での授業は、町教委主催による町民英会話教室での指導とともに好評のうちに今日まで続いている。
 また、平成4年(1992)1月には、初の中学・高校生国際交流は憲二魚王として、上湧別町と湧別町共催でカナダ派遣団一行16人(うち生徒12人)が、カナダのアルバータ州へと旅立ち、2週間の滞在でホームステイなどを通して団員の国際的視野の拡大など大きな成果を挙げている。 続いて、翌5年(1993)に15人(うち生徒12人)、同6年(1994)からは上湧別町単独で11人(うち生徒8人)の派遣し、同年7月にはカナダから5人(うち生徒4人)の派遣団が来町した。 同7年からは5月派遣となり同7年(1995)~同9年(1997)には、それぞれ14人(うち生徒10人)を派遣している。


ふれあい交流事業  上湧別町では、平成7年(1995)度からふれあいづくり交流事業として町内の小学5年生10人を、上湧別町と数年来友好関係にある愛媛県中山町に派遣することを始めた。 この事業は、小学生を道外に派遣し、上湧別町とは全く違った環境で生活する道外の小学生との交歓交流や各種研修を行い、豊かな心を持つ人材の育成を図ることを目的としたものである。 同年は、7月25日から7月29日までの4泊5日の日程で中山町の小学5年生、鳥取県中山町(愛媛県中山町の姉妹都市)の小学5年生と合流してキャンプなどを通して「ふれあい」と「友情」を深めて帰町した。
 平成8年(1996)度も7月27日から7月31日までの4泊5日の日程で、同じく小学5年生10人が派遣され、キャンプ・ホームステイ等を通して交流を深めた。 同年には愛媛県中山町の小学5年生10人が、8月6日から8月8日の2泊3日の日程で上湧別町を訪問し、町内小学生との交歓交流、ホームステイ、町内見学で由意義菜交流を行った。


 
第4節   情報化・国際化時代の教育 
 昭和から平成の時代の推移は、技術革新の時代からハイテクノロジーの時代・国際化時代の推移でもあった。 コンピューターによるインターネット通信に代表される高度情報化社会の到来を見越して、学校教育においても1980年代(昭和55年~)半ばから情報教育の重要性における情報関連施設・設備の充実を望む声が高まり、上湧別町でも各学校ごとにその実現が図られるようになった。

情報教育(パソコンの導入)
  平成2年(1990)1月、新校舎落成の富美小学校では、町内で初めてパソコン(パーソナルコンピュータ-)7台が導入され、子供たちが自由に使えるパソコンコーナーが設けられた。 また同3年(1991)度には上湧別中学校に、同4年(1992)度には各小学校に、教師の研修のためにパソコンが配備されている。 同5年(1993)度に、上湧別中学校に40台、同6年(1994)度に開盛小学校に5台、同7年(1995)度に上湧別小学校に10台が導入され、さらに、同8年(1996)度に中ユベツ小学校に10台が導入された。
 平成2年6月には、普通高校のコンピューター導入事業として、北海道湧別高等学校にコンピューター25台がどうにゅうされた。
 これは、北海道の普通高校では初めてのことである。 また、同年2月には、同湧別高等学校開放講座「初級パソコン教室」が、2回(各5日間)にわたって開催され、受講者の好評を得た。 この開放講座は、その後も町民の好評のうちに続いている。 なお、同4年7月には、上湧別町と湧別町が同校にコンピューター21台を貸付け、第2コンピューター教室が設置された。


放送教育・視聴覚教育  上湧別町では、既に富美小学校(旧校舎)で昭和47年(1972z9に放送室の拡張が実現していたが、同50年代(1975~)に入ってから、学校放送教育施設・設備の整備が本格的に進められるようになった。 これは、各学校の新改築・改修の相次ぐ実現によるもので、同54年(1979)度には中湧別小学校でテレビ受像機、おHPが各教室に取り付けられ、アナライザー、ミュージック・ラボラトリー装置などの視聴覚機材も完備された。 同55年(1980)度には上湧別小学校にアナライザー、ミュージック・ラボラトリー装置が取り付けられ、さらにスタジオ付きの放送室・視聴覚室が設置された。 同校では、各学級ごとテレビ受像機、OHPの整備もこの年に実現している。 開盛小学校では同58年(1983)に、富美小学校では平成元年(1989)に、新校舎が完成し、最新設備を備えた放送室を活用している。
 上湧別中学校でも昭和55年、既に同42年(1967)以来使用されていた放送室の放送施設が更新された。
 昭和56年、同57年(1981,1982)に新校舎へと移転した北海道湧別高等学校では、放送室と視聴覚室が完備された。 同校では放送局の部活動が盛んに続けられてきて、同62年(1987)6月には旭川市で行われた高等学校文化連盟全道大会の「テレビ部門」においてドキュメンタリー作品「コンシール」が3位に入賞、さらに7月に東京で行われた第34回NHK全国放送コンテストでは同作品が5位入賞を果たすなどめざましい活躍ぶりを示している。


英語教育  上湧別町で英会話への関心が高まりをみせ始めるのは、昭和60年代(1985~)を迎えてからのことである。 上湧別町の国際交流事業は平成元年(1989)にスタートし、同年8月には初の外国人英語指導助手として前年アルバータ大学を卒業したブラッドィ・アンブリーがカナダ・エドモントン市から着任し、以後、上湧別中学校での英語指導を中心に、町民を対象とした英会話教室でも活躍、同4年(1992)7月に帰国した。 引き続いて、同じくエドモントン市からクレア・スターリング、続いて同6年(1994)7月にジャネット・レディースが、同8年(1996)8月からはスティーブ・バン、同9年(1997)7月にマーク・デュヘイムが後任として来町し、英語教育と国際交流に大きな役割をを果たした。

 
第2章 

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学校教育  
第1節   概 説 
児童・生徒数の推移  上湧別町全体の児童・生徒数の推移は、昭和43年(1968)に千人台を割り込んで以降、現在まで引き続いて減少の一途をたどっている。 小学校在籍児童数は、同51年(1976)の817人から平成8年(1996)の373人へと、中学校在籍生徒数は、昭和51年の419人から平成8年の225人へと、ともにこの20年間にほぼ半減していることが分かる。 高等学校材積生徒数も同様の傾向がみられ、この20年間に529人から308人へと約40%減少している。 この間の全国的な人口動態にみられる出生率の低下傾向(少子化傾向)を反映していると同時に、人口の町外流出によるいわゆる過疎化の減少が、児童・生徒数の減少傾向にも表れている。

教育活動  学校並びに町教育委員会と町民が一体となっての、新たな上湧別的取組が数々実施され始めたことも、昭和50年代(1975~)の特徴の一つに挙げられる。
 昭和56年(1981)に社会科副読本「かみゆうべつ」の発行、同年11月の町教育委員会と青少年指導センターの共催による第1回子供文化祭の開催、同61年(1986)7月の第1回児童宿泊研修会(町内小学校5年生対象、常呂町かき島青年の家)の実施、平成元年(1989)にスタートした国際交流事業の一環として同3年(1991)度に実施された上湧別町と湧別町共催の中学・高校生国際交流派遣事業などは、それら取り組みの代表的なものである。 これらのほか、例年各小・中学校を会場に開催されてきた公開研究会、同元年に導入された外国人英語指導助手制度(上湧別中学校・北海道湧別高等学校)も着実な成果を挙げてきている。


施設・設備の整備  このような動きがある中で、上湧別町では昭和50年代(1975~)以降、各学校の改築を中心とする教育施設・設備の整備が活発に進められた。 同53年(1978)12月の中湧別小学校新築校舎落成を皮切りに、翌54年(1979)12月には教育町学校の新校舎落成、さらに同57年(1982)12月には北海道湧別高等学校の新校舎が落成と、改築ラッシュが続いた。 また、同61年(1986)3月23日に上富美小学校を統合し、新たな出発を果たした富美小学校は、平成元年(1989)11月に新校舎が落成している。
 平成3年(1991)に「ふれあいと文化性豊かなまち」を合い言葉にスタートした第3期上湧別町総合計画(平成3年~同12年)のプロジェクト事業では「21世紀を目指した創造性豊かな人づくり」がうたわれ、現在まで小・中学校整備事業として教師用パソコン導入(平成4年度)、上湧別中学校のパソコン教室設置(同6年から順次)などが相次いで実施された。
 なお、第3期上湧別町総合計画に「個性をのばす学校教育」として盛り込まれた主要施策および主要事業は、次のとおりである。 中学校校舎改築の促進を除いては、ほとんど推進されている。
【主要施策】
①幼児教育の推進
  ○教育環境の整備充実と教育機会の確保
②小・中学校教育の推進
  ○教育環境の整備および施設設備の充実
  ○中学校校舎改築の促進
  ○学校運営および教育内容の充実
  ○教職員住宅の整備
③高等学校教育の推進
  ○施設整備の充実
  ○国際理解教育の推進
  ○特色ある学校づくりの推進
【主要事業】
①幼児教育の推進
  ○幼稚園運営補助事業
②小・中学校教育の推進
  ○小学校大規模改修事業(外壁塗装・屋上防水工事)
  ○パソコン機器整備事業
  ○教職員住宅整備事業
③高等学校教育の推進
  適正窓口の確保

 また、平成4年(1992)9月(2学期)からは学校週5日制(第2土曜日が休日)が導入され、さらに、同7年(1995)4月からは、第4土曜日も休日となり、学校、課程、地域が連携協力しながら、完全週5日制への対応を図ってきている。


 
第2節   小学校 
(1)上湧別小学校  (上湧別町屯田市街地98番地の1)
 昭和53年(1978)10月1日に開八十周年記念式典を挙行した上湧別小学校では、翌54年(1979)~同56年(1981)の3年間にわたって総事業費5億6476万円をかけ全面的な施設・設備の更新がなされた。 同54年4月に旧校舎を解体し、6月には校舎改築を開始、12月には改築を完了し移転を済ましている。 同55年(1980)6月には屋内体育館の新築工事に着手、11月には完成、翌月には落成式・祝賀会を挙行した。 建物の総床面積は3183平方㍍である。 この間、7月には学校プールを設置し、9月にはML(ミュージックラボラトリー)装置を取り付け、さらに、10月には視聴覚室・放送室・各学級の各種教育機器を整備するなど、教育環境の充実が飛躍的に進んだ。 さらに、同60年代(1985~)にかけて砂場の造成、校庭スキー場の拡張、戸外に大時計装置、ミニグランドの拡張など、校舎外の整備も実現し、同63年(1988)には開校九十周年記念事業として木製遊具アスレチックを設置した。
 昭和50年代(1975~)後半から平成にかけて児童数は減少傾向を示すが、近代的な校舎に生まれ変わった同校では、次の教育目標を掲げ、教職員、父母、地域住民が一体となって子供たちの育成に取り組んできている。
【上湧別小学校教育目標】(昭和55年4月制定、平成5年3月一部改訂)
○めあてをまもって たくましく 生きる子ども
 よく考える子   (知) 
 なかよくする子    (情) 
 進んでおこなう子    (意) 
 強いからだを作る子    (体) 
 このような取り組みの結果、同校は、昭和63年度北海道体力づくり最優秀校(小学校の部)に選ばれ、北海道教育委員会から表彰を受けている。 この表彰は全道の児童・生徒の体力向上のため昭和56年(1981)から始められたが、以来同校では日課の中で子供たちの早朝、中休み、昼ぁ湧別町角、放課後などの時間を活用したマラソン、縄跳び、竹馬、アスレチック等への取り組みや、体力診断テスト、運動能力テストの年ごとの実施を続け、その成果が認められ評価されたものである。
 また、平成元年(1989)4月には、地域との連携を図った体験的学習で果たした先導的役割と、児童の主体的な活動をジュしした指導課程の工夫などの実績が高い評価を受け、網走教育局から教育実践表彰を受けた。
 さらに、平成3年(1991)には、学校標語「あかるく さわやかに 大切にしようみんなの学校」の定着を願い、漫画のキャラクターを使った大きなパネルを作り、プレイルームに掲げるなどの取り組みを行っている。


(2)中湧別小学校  昭和52年(1977)に3ヶ年計画に基づく校舎改築第1期工事を終えていた中湧別町学校では、翌53年(1978)に第2期工事を完了し、12月にその落成式と開校六十二周年記念式典が盛大に挙行された。 建物の総床面積は3838平方㍍、工事費は5億6100万円、視聴覚教室・備品類は3000万円と、総事業費5億9100万円をかけた42年ぶりの改築により同校は、近代的な教育環境のもとで新たなスタートを切った。 同54年(1979)には、第3期工事として3640万円をかけ、屋根付きで長さ25㍍、幅10㍍の一般用と、長さ10㍍・幅4㍍の幼児用の2面を備えた本格的プールが建設され、駐車場、自転車置場も完備して、全ての工事を完了した。
 新しい環境が整った同校では、この年から町内の職場や団体に属する人々に対しグランドと体育館の学校開放を始めている。 また、町内初のプールも9月いっぱい一般に開放された。
 他校と同様、同校でも昭和50年代後半から今日まで、児童数は、平成3年(1991)度を除き減少し続けているが、新時代への対応を模索しながら、次の教育目標を掲げて着実な活動を続けている。
 【中湧別小学校教育目標】
○社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成  
 具体的目標    子どもの目標 
 「自ら学ぶ子」   「私達は進んで学びます」 
 ・個性を伸ばし、創造的に考える子どもを育てる 
 「思いやりのある子」   「私達は思いやりのある行動をします」
 ・認め合い、はげまし合って、最後までやり遂げる子どもを育てる 
 「体をきたえる子」    「私達はいつも体をきたえます 
 ・意欲的に、心身をきたえる子どもを育てる 
 地道な教育活動を積み重ねる中で、昭和58年(1983)には、中湧別小学校貯金会が、優良子ども郵便局として富美小学校子ども郵便局とともに選ばれ、郵政省貯金局長表彰を受け、翌59年(1984)にも北海道知事および北海道貯蓄推進委員会から優良子ども銀行表彰を受けている。
 また、昭和61年(1986)から初めて児童の手づくりによる卒業記念版画集『苦根楽果』の制作、同63年(1988)の5年生児童による上湧別町をうたった版画集『ふるさといろはかるた』の制作などの創造的活動も成果を挙げている。
 教師とPTAの活動では、「自ら学び、一人ひとりが課題を解決する態度や能力の育成」を課題に、昭和61年11月21日に開催された教育研究会や、同62年(1987)9月17日、18日の2日間にわたって開催された初のPTA地区別懇談会、同63年9月4日に開催された昭和63年度網走支庁管内PTA研究大会(参加者350人、6部会11分科会)、平成2年(1990)9月8日に開催された網走支庁管内「生活科」教育研究大会の公開研究会などを活発に実施してきている。
 平成8年(1996)12月8日、同校体育館において開校八十周年記念式典、文化センターTOMにおいて祝賀会を開催、八十周年記念誌『五鹿山』が発刊された。
 平成8年9月19日に同校で北見地区学校放送教育研究大会を開催、網走支庁管内教職員関係者約80人が参加し、放送教材の授業での活用について研究討議された。


(3)開盛小学校  (上湧別町字開盛462番地の3)
 昭和58年(1983)12月10日、開盛小学校では、それまで47年間の風雪に耐えてきた校舎の全面的改築が完了し、翌59年(1984)1月22日に校舎落成記念式典が挙行された。 校舎(鉄筋コンクリート2階建て)および屋内体育館(鉄筋・鉄骨の中間構造)など総床面積1514平方㍍、総事業費2億9191万円の近代的な新校舎の落成に伴って、体育器具・視聴覚教育機器等とグランドが整備されるとともに、協賛会事業費300万円が集められ、校旗、天幕、ピアノ、図書、紅白幕をはじめとする備品も整えられ、教育環境は著しく向上した。
 昭和51年(1976)度以降の開盛小学校の児童数は、40人を境にほぼ横ばい状態が続き、平成をむかえてからは漸減傾向にあるが、平成4年(1992)の創立八十周年の節目の年を機に学校環境も充実され、新たな時代への再スタートを切った。
 平成4年には、校庭の柏の木(推定樹齢400年以上)4本が北海道自然環境保全保護樹木に指定され、同7年(1995)には校地内にパークゴルフ場が設置された。
 【開盛小学校教育目標】
○基本目標
 心豊かに、たくましい実践力をもって生きる子
○具体的目標
 教師の目標
  創造的な知性を育てる
  豊かな心情を育てる
  勤労の意欲と実践力を養う
  たくましい体を養う
 児童の目標
  良く考え進んで学ぶ子
  いつも明るく仲のよい子
  進んで働きやりぬく子
  心も体もたくましい子

 以上の教育目標に沿って、生涯にわたって、自ら学ぶ意欲と自然や社会の変化に主体的に対応できる能力と態度を育成することを目指して、児童の人格の尊重と生命の安全確保を第一の基本とし、一人ひとりの児童が生きる教育活動を推進している。
 昭和57年(1982)9月16日に、全道へき地複式教育研究大会の網走支庁管内12会場の一つとなった同校では、それまで3年間にわたる国語を中心とした研究実践の成果を発表し、管内・管外220人の参加教師の大きな共感を得た。 このときの同校の成果は、翌58年3月7日に行われた網走教育局による昭和57年度網走管内教育実践表彰での特別賞受賞につながった。 同63年(1988)1月25日には遠軽ブロック複式教育研究大会が、平成3年(1991)11月2日には網走地区へき地複式教育研究大会が、同6年(1994)12月2日には町教育委員会研究指定校として遠軽ブロック公開研究会が開催された。
 また、自然環境の豊かな地域の特性を生かした全校児童対象の取組として、平成3年6月19日には、遠軽地区林業指導事業所長らを講師とした「森林講座」(テーマ「野鳥の住める庭づくり」)などを行っているほか、体験的学習の場を多く取り入れ、小動物の飼育観察・農園での栽培活動をまとめた観察学習発表会をお粉手、豊かな心を育てる特色ある教育活動に力を注いでいる。
 学校・家庭・地域社会が密接に連携を保って児童の生き方に迫る教育の重要性が強く求められている時代に、自動吹鳴式のチャイム(愛の鐘)が屋上に設置されたことや校地内に設置されたパークゴルフ場を地域に開放していることなどは、拓かれた学校運営に大きな役割を果たしている。

 
(4)富美小学校  (上湧別町字富美568番地)
 昭和50年代(1975~)初頭の上湧別小学校への統合問題をきっかけに、PTAによる存続運動が行われた富美小学校では、その後、同58年(1983)に統合問題が白紙に戻され、存続が町議会により承認され、小規模校の特色を生かした教育活動が落ち着いて展開できるようになった。 同年1月には開校七十周年を記念して『風雪七十年』と題した「富美っ子カレンダー」を制作し、7月には学校プールがPTA労力奉仕作業により完成、同60年(1985)5月には家庭学級を開設するなど、学校とPTA・地域社会とが一体となった活動が続いた。
 昭和61年(1986)4月に上富美小学校が同校に統合され、11月にはスケートリンクが完成した。
 昭和63年(1988)には同校の存置改築が決まり、平成元年(1989)11月30日に新校舎が完成した。 12月12日から待望の授業が始まり、翌2年(1990)1月28日に落成記念式典が挙行された。 校舎(鉄筋コンクリート平屋建て)および屋内体育館(鉄筋・鉄骨の中間構造)など総床面積1482平方㍍、総事業費3億2294万円をかけ、外部からの明かり取りとして赤い三角屋根を設けたり、外壁にコンクリートで羽目板を表現したりするなど、旧木造校舎のイメージを残す一方、普通教室と特別教室は、すべて多目的ホールに接するよう配置されているなど、空間を利用した授業や行事等に対応できるユニークな構造は、町内外の注目を集めた。 同2年7月には新グランドも完成し、記念の大運動会も実施された。
 
【富美小学校教育目標】
「心豊かでたくましく、実践力のある子ども」の育成を目指して
一、自分で考え、ねばり強くやりぬく子どもを
 1 自ら問題を発見し、主体的に考え解決する子ども
 2 自主的で意思の強い子ども
  ○集団生活の中に個性を生かす教育・・・個性の伸張(創る心)
二、みんな仲よく心の豊かな子どもを
 1 人を大切にし、思いやりのある子ども
 2 明るく、きまりを守る子ども
  ○人間尊重の基底の上に立つ教育・・・人間の尊重(協「あわ」す心)
三、強い体とよく働く子どもを
 1 進んで体をきたえ、安全を守る子ども
 2 健康でよく働く子ども
  ○地域社会に即応した教育・・・生活の調和(励む心)

 以上の教育目標に基づいて地道な取組を続ける中で、同校は「昭和60年北海道体力づくり優秀校」(小学校の部)として表彰を受けたほか、昭和62年(1987)、同63年、平成3年(1991)、同6年(1994)、同7年(1995)には上湧別町花壇コンクール最優秀賞を受賞した。 また、昭和62年には子ども郵便局が全道表彰を、同59年(1984)、同63年、平成6年、同7年には文部省のへき地教育研究指定校となり(平成6,同7年)、同年10月に第44回全国へき地教育研究大会の全道へき地・複式教育研究プレ大会が開催された。 続いて、同7年には第44回へき地教育研究大会、並びに文部省へき地指定研究大会が開催された。 同年には才能開発実践教育賞を受賞している。

(5)上富美小学校  対象3年(1924)6月に北湧尋常高等小学校富美特別教授場の分校、上富美教授場として開設されて以来、62年間にわたって地域の教育振興と発展を担ってきた上富美小学校は、昭和61年(1986)3月23日にその歴史に幕を閉じ、富美小学校に統合された。 同25年(1950)度に小学生68人、中学生39人の計107人が在学した時期が、児童・生徒数のピークであった。 しかし、昭和40年代(1965~)を迎えてからの上富美地区の過疎化の進行とともに児童数は激減し、同49年(1974)度を境に10人を割り込み、同60年(1985)度には5人となったため、ついに閉校のやむなきに至ったのである。
 閉校までの小学校卒業者は315人、中学校卒業者は209人、高等科卒業者は50人、同窓生計574人である。 小規模校ながらも、恵まれた自然環境の中で地域住民と一体となって展開されてきた長年にわたる充実した教育活動は、人々の胸に今も直残っている。


 
第3節   中学校 
(1)上湧別中学校  (上湧別町屯田市街地1番地の1の内)
 昭和40年(1965)5月1日、町外5つの中学校を統合して誕生して以来、上湧別中学校は、町内中等教育のかなめとして着実な歩みを続けてきた。 同42年(1967)9月に第3期校舎建築工事を完成し、網走支庁管内で誇り得る教育基盤を確立したのち、同50年代(1975~)には校庭、池、自転車置場、テニスコート、野球場などの整備改修や、体育館(昭和59年に大改修)、屋上、音楽室など校舎の改修工事を重ね、教育環境は年を追って充実してきた。
 昭和51年(1976)9月4日には開校十周年、同61年(1986)8月31日には開校二十周年の記念式典・祝賀会をそれぞれ開催して、節目の年を町民こぞって祝った。
 平成を迎えてからも、校舎屋上防水工事など環境整備を進め、同5年(1993)にはパソコン教室改修工事並びにパソコン導入を実現して情報化時代への一層の対応が可能になった。
 この20年間の生徒数は、昭和53年(1978)度までは400人台を維持していたが、同54年(1979)度から平成元年(1989)度までは300人台、同2年(1990)度から現在までは200人台で推移してきた。 社会の変動に伴う過疎化や少子化の進行を反映した結果の減少傾向である。
 【上湧別中学校教育目標】(平成3年全面改訂)
○基本目標
 「自ら考え、正しく判断し、主体的に行動できる生徒」の育成
○具体的目標
 ・学ぶ意欲を育て、正しく判断する
             創造性豊かな生徒(知)
 ・郷土を愛し、連帯の精神を高め
            思いやりのある生徒(情)
 ・個性を伸ばし、連帯の精神を高め
          仕事に責任を果たす生徒(意)
 ・スポーツに親しみ、心身を鍛え
          たくましく活動する生徒(体)
○生徒のめあて
 ・自ら学ぶ生徒
 ・自ら育てる生徒
 ・自ら行う生徒
 ・自ら鍛えうる生徒

 以上の教育目標に基づいて、同校がこれまで達成してきた教育成果の主なものは、次のとおりである。
 昭和57年(1982)11月21日に網走支庁管内中学校14チームを集めて北見市民会館で行われた第4回リコーダー・アンサンブルコンクールで、優秀賞を受賞。 翌58年(1983)同59年(1984)の2年連続して、中体連網走地区大会でサッカー部が優勝を果たし、全道大会へ出場、また、野球部は、同59年にブロック大会を勝ち抜き、全道大会へ初出場し第3位入賞の栄冠を手中にした。
 吹奏楽部は、昭和61年11月9日に社会福祉会館大ホールで初の演奏会を開催し、350人の聴衆の心をとらえた。 この演奏会には、60人の部員のほか吹奏楽部の先輩5人の応援出演もあった。 平成元年5月には、わが国の合唱団としてはトップクラスの2期会合唱団による芸術鑑賞教室が開かれ、同校生徒も合同演奏に出演した。
 これらのほか、全道の中学生を対象に毎年行われている「北海道少年の船」への参加や、平成3年(1991)度にスタートした上湧別町と湧別町共催の中学・高校生国際交流派遣事業によるカナダ派遣団への参加など、新時代に対応した本州や外国での生徒の研修にも積極的に取り組んでいる。
 PTA地域とのかかわりを重視した取り組みとしては、平成3年6月16日にそれまでのあちい草井を運動会へと衣替えして学校関係者や保護者(父母)も参加した運動会を開催、親子のふれあいが実現した。 同年10月に開催した学校祭では、名称を「芸能発表会」とし、町内のお年寄り約40人と一般来校者130人を集めて、合唱や劇・踊りなどを披露した。
 なお、時代の要請に応えた教育の基礎づくりのため、平成元年からは英語指導助手が着任し、語学教育の一層の向上が可能となった。 また、同3年にはコンピューターを導入して指導教員の養成を図るなど、教育相互の研修活動にも力を注いできている。
 以上のように、自ら考え、行動できる生徒の育成を目指し、学校行事への積極的な参加を目標に研究を重ねてきた。 平成8年(1996)9月10日、これに基づいて公開研究授業が行われ、町内外の参加者70余人で研究討議された。

 
第4節   高等学校 
(1)北海道湧別高等学校  (上湧別町字中湧別846番地の2)
 地元の道立高校として昭和28年(1953)開校以来、22年を経た北海道湧別高等学校にとって同50年代(1975~)から同57年(1982)にかけ3期にわたって実施された校舎の全面改築であった。
 長年の風雪に耐えた旧校舎改築の調査設計が道議会で認められたのは昭和54年(1979)6月ごろだが、翌55年7月30日に起工式が執り行われ、同年の12月9日に第1期工事が完成した。 同56年(1981)7月1日に第2期工事を着工し、11月6日に完成、翌57年6月28日には第3期工事に着工し12月13日に完成、25日に新校舎への全面移転が実現した。
 第1期工事では8普通教室と科学などの4特別教室、第3期工事では管理棟と屋内体育館がそれぞれ完成して、3階建ての近代的校舎での授業が開始されたのである。
 その後も、同58年(1983)に外構工事が完成、同59年(1984)6月11日には噴水通水式が行われるなど、昭和50年後半にかけて同校の教育基盤整備が着々と進んだ。
 なお、昭和58年9月25日には、改築落成記念を併せて創立三十周年記念式典gは盛大に挙行され、同60年(1985)5月には親子による記念植樹が実施された。
 さらに、平成2年(1990)6月に北海道の普通高校では初めて25代のコンピューターが導入され、同4年(1992)7月には第2コンピューター教室が設置されるなど、新時代の即応した教育施設が整えられて、同5年(1993)12月10日には創立四十周年記念式典が挙行された。
 生徒数は、昭和57年度に500人台を割り込んで以来、平成3年(1991)度までは400人台で推移していた。 しかし、同4年度には388人となり、以後現在まで300人台が続いている。 この間、昭和61年(1986)度には入学者定員割れによる1学級減(いわゆる間口減)の問題が浮上したが、上湧別・湧別両町関係者の道教委への働きかけによる4学級が維持された。 しかし、平成3年度に1間口減となり、現在(3学級)に至っている。 この問題は、このまま入学者の減少傾向が続けば、存廃へともつながり得る重要課題であり、地域の教育環境維持のためにも、存続を図る努力を重ねる必要がある。

 【北海道湧別高等学校校訓】
「自ら求めよ」

 開校四十周年に当たり、本校教育の指針として、平野貞初代校長が開校式において訓じた言葉「自ら求めよ」を、校訓として制定した。 人生は、決して他力依存であってはならない、自らの道、自らの運命を、自らの力で切り拓いていくことのできる人間に育って欲しいという願いが込められている。
 
【北海道湧別高等学校教育目標】
一、自律の心を養い、自ら学び、考え、行動できる個性豊かな人間に
一、健やかな心と体を養い、地域社会に奉仕するたくましい人間に
一、広い心を養い、人や自然をいつくしみ創造性と感性に富む人間に
〔重点目標〕(平成8年度)
一、基本的な生活習慣の確立と克己心ある情操豊かな生徒の育成
一、生涯学習の基盤となる基礎的な学力の強化と自己実現力の育成
一、学校の教育力や地域の人材・教材を活用する拓かれた学校づくり
 
新校舎へ移転してからの本校の主な教育活動の一端は、次のとおりである。
 【高体連網走地区大会開催】
 卓球大会(昭和58年6月/ラグビー大会(昭和61年9月、平成5年8月)/庭球大会(平成6年5月)
 【高文連関係】
 網走地区書道展研究大会(昭和58年9月)

 以上のほか、昭和61年12月22日には上湧別町社会福祉会館において同校吹奏楽部が第2回定期演奏会を開催、それまでの猛練習の成果を約300人の聴衆に披露して好評を得た。 翌62年(1987)6月には、旭川市で行われた高文連全道大会において同校放送局の制作したドキュメンタリー作品「コンシール」が3位に入賞し、7月に行われた第34回NHK杯全国放送コンテストでは5位入賞を果たした。 また、科学部が全道理科研究発表大会で同61年、同62年(2年連続)と平成3年に最高位の綜合賞を受賞した。 同部は環境庁主催の「スターウォッチング星空の街コンテスト」に参加するなど、現在まで活発な活動を続けている。
 地域との連携を考えた活動としては、昭和62年町教育委員会の主催による湧別高等学校開放講座「初級パソコン教室」が開催されるようになり、一般の人々の参加を得て続けられている。
 なお、平成3年度からスタートした上湧別町と湧別町共催の中学・高校生国際交流派遣事業によるカナダ派遣団に同校生徒も団員として加わり、アルバータ州でのホームステイなどで貴重な体験を重ねてきている。
 まあt、平成8年(1996)9月29日の上湧別町開基百年を祝し、生徒の手で上湧別百年賛歌「かがやいて未来へ」が創作された。 式典での全校生徒による斉唱は町民に深い感銘を与えた。
 平成9年(1997)2月24日地域に根ざした教育活動が評価され、同8年度の網走管内教育実践表彰を受賞した。

 
第5節   学校給食の変遷 
初期の給食  上湧別町で学校給食が初めて実施されたのは昭和38年(1963)のことで、当時はコッペパン、脱脂粉乳等の簡単な給食であった。 同40年(1965)4月には町内小・中学校で温食付きの給食が実施されるようになったが、各学校ごとの調理給食では児童・生徒への十分な対応ができないこともあり、このころから近隣町村を含めて給食センター共同設置の要望が高まった。 その後、同43年(1968)12月に中湧別小学校北側敷地(南町)に待望の給食センターが建設され、同44年(1969)1月21日から上湧別町、湧別町の小・中学校19校で3256食の完全給食が始められた。

給食センターの完成  給食センターは、鉄骨ブロック平屋建て、建物面積418平方㍍、総事業費約3400万円で、当時としてはフードミキサーや牛乳殺菌機、自動食器洗浄機など近代的設備の整ったものであった。 総事業費の65%は上湧別町が負担した。 また、きゅしょくせんたーは両町の議会議員の中から選出された各5人の議員で構成される組合議会によって運営され、執行機関としては組合長、副組合長と組合教育委員会がこれに当たっている。 さらに、地域の実情に沿って円滑な学校給食が行われる葉、各学校長とPTA会長による運営協議会が開かれてきた。
 昭和49年(1974)6月からは上湧別町常設(現、認可)保育所、季節(現、へき地)保育所への副食の配食も実施されるようになり、同52年(1977)からは湧別町の保育所へも配色されるようになった。

最近の学校給食  その後、調理給食施設・設備は年を追って改善され、平成9年(1997)現在、1日の配食数は、上湧別町・湧別町の保育所、小・中学校等計1664食が給食センターによって賄われている。 現在ぁ北海道、月・水・金洋舞委に米飯給食、火曜日に麺類給食、木曜日にパン給食となっている。 副食も4品が付けられ、地物の食材が多く使われている。 ほたてカレー・ほたてシチュー、さけ鍋、アスパラガス・玉葱・じゃがいも料理等バラエティに富ませる工夫をしている。
 平成9年現在の教育委員会う蝕センターの概要は次のとおりである。
 【建物面積】
 418平方㍍
 【給食物質(賄材料)の年間予算額】
 6383万4000円
 【年間稼働日数】
 243日
 【年間給食日数】
 187日(うち土曜日20日、牛乳13日、乳酸飲料7日)
 【1週間の給食日数】
 5日
 【1週間の牛乳日数】
 5日または6日
 【職 員】
 所長1人、事務員1人、栄養士1人、運転手2人、調理員8人計13人
 【1日の配食数】

 小学校(6校)845食、中学校(3校)511食、保育所(8ヶ所)308食、給食センター13食、計1664食
 給食費は、年ごとの諸物価、人件費の上昇を反映して値上がりを続けてきた。 昭和51年(1976)度と平成9年度を比較してみると次のとおりで、小学校が約1.6倍に、中学校が約1.5倍の値上がりを示している。
昭和51年度 小学校=1食120円
       中学校=1食155円
平成 9年度 小学校=1食200円
       中学校=1食234円
 両湧別町学校給食センターでは、毎月「給食だより」を発行して食生活にかかわる情報や月ごとの献立を伝えている。
 平成9年5月現在の両湧別町学校給食組合の構成は、次のとおりである(50音順)。
 
【両湧別町学校給食組合の構成】
○組合長  加藤貞夫(湧別町長)
○副組合長 松田 隆(上湧別町長)
○組合助役 玉井寿之(湧別)
○組合収入役 小林政治(湧別)
○組合教育長 矢崎友康(湧別)
○組合教育委員長 川副力(上湧別)
○組合教育委員 長嶋勝次(上湧別)、鎌田三子雄(上湧別)
        島崎正也(湧別)
○組合議長 渡辺正利(上湧別)
○組合副議長 長谷川隆(湧別)
○議 員   岩瀬昌俊(上湧別)、片岡昭五(上湧別)、黒川毅一(上湧別)
       八巻貢(上湧別)、市川太平(湧別)、斉藤勇(湧別)
       野口信敏(湧別)、原田繁雄(湧別)
○監査委員 井尾悦也(上湧別)、原田繁雄(湧別)
○給食センター所長 田川順二


 
第6節   幼児教育 
 平成4年(1992)には文部省が幼稚園教育要領の改訂で保育6領域が5領域になるなど、幼稚園では3歳児保育の新設による幼児の確保や教員の資質向上に、新たな対応が迫られてきている。 このような背景の中で、上湧別町唯一の幼稚園・学校法人みのり幼稚園は、昭和49年(1974)4月1日の開園以来、4半世紀近い歴史を刻んでいる。

(1)みのり幼稚園
  (上湧別町字中湧別842番地の8)
 みのり幼稚園は、学校法人和光学園(理事長・古川正道)として昭和49年z81974)に設置し、開園して以来20年余にわたって上湧別町の幼児教育を担ってきた。 この間、同58年(1983)11月の開園十周年を機に園舎の増改築を行い、1階571平方㍍・2階172平方㍍の新園舎が新園舎が誕生した。 平成5年(1993)11月7日には幼稚園ホールで松田町長や旧職員および関係者80余人が出席して開園二十周年の記念式典を挙行した。 二十周年の年には待望の園庭とグランドの拡張整備工事(グランド107平方㍍、その他333平方㍍)を行い、それまで中湧別小学校グランドを借りて実施していた運動会を園で実施できるようになった。 また、通園バスの更新も実現した。
 開園以来の卒園児は、現在まで580人に上り、既に社会の各界で中堅職業人として、また家庭人として活躍している人も多い。 現定員は、3学級120人だが、平成を迎えてからは50~60人台で推移している。
 【みのり幼稚園教育(保育)目標】
○文部省の学校教育法に従い『健康』『人間関係』『環境』『言葉』『表現』の5つの領域を綜合して、幼児の健全な発達成長を促進育成する教育をすすめます。
一、仏教的情操を原点とした、心豊かな人格の基本を育て、家庭や社会の正しい生活習慣を身につける
二、一人ひとりの個性を大切にして、心豊かな情操を養う
三、音楽リズム教育に特色を発揮して、豊かな情操を養う
四、幼児体育向上のため、充実した体育指導を推進する
 【みのり幼稚園「良い子のお約束」】
 元気いっぱいご挨拶します
 ともだちみんなと仲良くします
 自分のことは自分でします


 
第7節   各種学習塾 
 いわゆる受験戦争の過熱傾向は、第2次ベビーブーム期に生まれた子供たちの高等学校・大学進学がピークを迎えた1990年代(平成2年~)初頭を境に終息しつつある。 しかし、全国的にみるならば、依然として受験産業をはじめとする各種の進学塾・学習塾は活発な活動を展開している実情にあり、一方では子供に限らず社会人をも対象とし、新たな教養拡大をうたい文句にした塾や講座なども大都市部を中心に生まれている。
 上湧別町の現状は、小・中学生を対象とした書道教室や算盤教室が、学校卒業後の就職条件を補うという一般のとらえ方に支えられて、長期にわたって活動を続けている。 また、ピアノ・オルガン・琴の演奏を中心とした音楽教室は、就学前(幼稚園・保育所)の子供や小・中学生を対象に開設されている。
 日本舞踊は、現在2教室が開設され、文化団体の活動との連携のもとにその活動が続けられている。
 さらに、上湧別町が平成元年(1989)に開始した国際交流事業の活発な展開や国際化の時代といわれる社会の動向を反映して、英語塾の活動をみられるが、これは個人経営の活動のほか、都市部の企業系の進出による活動展開もみられる。
 上級学校への進学を目的とした学習塾は、上湧別町の場合、大都市部の受験産業直系のものである。 
第3章 

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社会教育  
第1節   社会教育の変遷 
1970年代以降の社会教育  わが国においては、昭和46年(1971)に社会教育審議会が「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」という答申を行って以来、それまでの社会教育の位置づけが大幅に見直され、学校教育と社会教育システムが全国規模で考えられるようになった。 科学技術革新の進行、情報化、国際化の進行など、高度経済成長の進日本社会にあって、新たな教育システムを確立する必要が全国的に認識され始めたのが1970年代(S5年~)であった。
 その後、高齢化社会の到来を背景として、昭和56年(1981)に中央教育審議会が行った答申「生涯教育について」や、同60年(1985)~同62年(1987)に臨時教育審議会が行った「教育改革に関する答申」(1次~4次)が広く検討される中で、「生涯学習」という語が広く社会に定着するようになり、学習者の立場から総合的な学習援助体制の整備を求める声が全国的に高まった。 個人や集団への学習援助よりも、地域全体を生涯学習のまちとして整備しようとする動きが各自治体や教育機関で盛んにみられ、学習社会のニーズに応えるため、関係施設や機関の整備も行われるようになった。
 平成2年(1990)には「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」(「生涯学習振興法」)が制定され、教育文化事業等を幅広く含む生涯学習環境の整備に向けての行政的取り組みも一層盛んになった。


上湧別町の社会教育  このような動きを受けて上湧別町でも、昭和46年(1971)策定の第1期上湧別町総合計画「緑豊かな近代的な生産文化のまちの建設」に基づいて、同49年(1974)に社会教育推進計画を策定し、5つの目標に沿って、住民のニーズに根ざした学習機会の積極的な提供や、健康の増進と体育・スポーツ活動の推進、さらに、郷土の文化振興などの方針を立て、毎年度の社会教育事業計画に取り組むようになった。
 その後、平成2年(1990)に策定した第3期上湧別町総合計画の「第5章 豊かな人間性を育てる文化のまちづくり」の冒頭で「学ぶ楽しさ生涯学習」の一節を設け、学校教育、社会教育、家庭教育、企業内教育などが相互に連携を取り合い、総合的、系統的に学習を推進し、生涯学習体系を整備する決意を示し、現在までその展開に努めてきている。 第3期上湧別町総合計画において、「生き生きとした生涯学習社会の実現」のために掲げた主要施策および主要事業は次のとおりである。
 
【主要施策】
 ○生涯学習推進体制の整備
 ○生涯学習情報の収集と提供
 ○生涯学習実践の場である学校・社会教育施設の充実
 ○国際化に対応した能力の養成
 【主要事業】
 ○生涯学習推進本部の設置
 ○生涯学習広報の発行
 ○生涯学習指導者の発掘・養成・活用


 
第2節   社会教育の振興 
(1)社会教育
社会教育事業の流れ  昭和49年(1974)津に策定した社会教育推進計画にのっとり、上湧別町では同50年代(1975~)から、それまで以上に積極的な社会教育振興のための施策を展開するようになった。
 なお、上湧別町では、社会教育26年(1951)に「社会教育委員会設置条例」(現「上湧別町社会教育委員の設置に関する条例」)が制定されたが、以来現在まで社会教育委員が社会教育にかかわる助言・諮問(上湧別町社会教育中期計画など)に当たり、社会の基盤づくりに努めている。 定数は12人以内、任期は2年となっている。
 社会教育53年(1978)度の社会教育事業のうち具体的内容(社会体育、図書館・文化事業、児童館、指導者養成は除く)は、次のとおりである。
 
【少年教育】
 ○子ども会リーダー研修会
 ○管内子ども会ジュニア・リーダー研修会派遣
 【青年教育】
 ○青年講座
 ○成人式
 ○「青年の家」研修講座等への派遣
 【婦人教育】
 ○婦人祭
 ○婦人学級
 ○婦人講座
 ○若妻研修会
 【家庭教育】
 ○乳幼児学級
 ○家庭教育講座(家庭教育学級)
 【高齢者教育】
 ○寿学級
 【公民館講座】
 ○料理講座
 ○木彫講座
 ○手芸講座
 ○園芸講座
 ○町民大学

 このように、広範な層にわたる事業の展開を図る中で、社会教育54年(1979)度には、北海道派遣社会教育主事の配置が解かれ、町として社会教育主事を増員して社会教育の充実に努めることになり、関係団体やグループ・サークルの育成とその活動助成にも力が注がれるようになった。 この年は国連の定めた国際児童年に当たり、児童館・青少年会館と青少年指導センターでも年間を通じて充実した行事等の展開がなされた。
 昭和55年(1980)に策定された第2期上湧別町総合計画の「教育・文化振興計画」中でも、社会教育の振興が重要視され、スポーツの振興および芸術・文化の振興とともに引き続き強調された。 主な関連事業として盛り込まれたのは「親子読書運動の推進」「青年教育、青年講座の開設」「婦人学級、婦人講座の開設」「コミュニティ活動への住民参画の促進」であった。 この時期、家庭内暴力がマスコミをにぎわし、社会問題化しつつあったことから、家庭教育の重要性が広報かみゆうべつなどを通じて町民に広く訴えられた。 同年10月8日は、上湧別町農村環境改善センターで「まちづくり講演会」(講師・荻原茂裕)が開催された。 あいさつ運動(お・こ・あ運動<おはよう・こんにちは・ありがとう運動>)の実施(昭和55年)や寿学級(高齢者講座)の開設十周年(同58年)など、社会教育振興の成果を着実に積み重ねながら同60年代(1985~)を迎えた。


生涯学習の時代へ  「生涯学習「という言葉が社会的に定着し始めた昭和60年代(1985~)には、幼児から高齢者までを幅広く含む社会教育施策が展開されるようになった。 同60年2月に幼稚園・保育所に通う子供を持つ母親を対象にスタートした幼児教室はその一例である。 また、例年開催されてきたチュ民大学も生涯学習の場として講師陣・内容とも一層充実していった。 翌61年(1986)には、社会が複雑化する中で、家庭での子育てを重視した上湧別町教育委員会は『家庭教育のまど・・・20の相談』を発刊し、各家庭に配布した。 同62年度の町政執行方針に主要な社会教育振興事業として盛り込まれたのは「カルチャー教室の充実」と「湧別高等学校開放講座の開設」だった。 同62年3月には上湧別町青年団体協議会が創立三十周年を迎え、記念式典(上湧別町社会福祉会館)では地域に根ざした活動の展開への誓いを新たにした。 6月には第1回子供文化教室が2日間にわたって開催された。 同63年(1988)度には社会教育指導員の設置がなされ、生涯学習をより身近なものにするために移動図書館者も配備されるなど、きめ細かな施策の充実が図られた。 この移動図書館車による町内巡回サービスは7月から週1回行われ、1日の貸し出し冊数は約5百冊に上った。
 なお、社会教育62年には阿智棒の町役場とともに上湧別コミュニティセンターが完成、8月1日にオープンし、町民の地域的連帯意識と生活文化の向上に大きな役割を果たすことになった。


最近の施策と事業  21世紀を視野に収め、平成2年(1990)に策定された第3期上湧別町総合計画は、「花と漫画・SKI かみゆうべつ」をキャッチフレーズに、同3年(1991)度から具体的な施策が展開されてきたが、その第5章の「3,心を広げる社会教育」の中で社会教育振興に直接かかわる課題として指摘されていたのは、生涯学習の場への参加者がまだ一部にとどまり、町民の学習の日常化までは至っていないこと、団阿智・サークルの指導者不足、社会教育団体の会員の現象と活動のマンネリ化などをどう打開し、新たに高齢化、情報化の時代にどう対応していくべきかということであった。
 基本目標においては、生涯にわたる学習や社会参加への意欲を高める社会教育活動を進めるために、「地域の諸教育機関の連携、協力による生涯各期の学習機会の拡充をはかるとともに、生涯学習に関する情報の収集、提供、相談体制の整備に努めなければならない」としている。 さらに、「ボランティア活動・世代間交流などの社会参加や期会の拡充および民間有志指導者の養成、活用など指導体制の整備を推進する」と定められた。 そのうえで展開される主要施策および主要事業は、次のとおりであった。

【主要施策】
 ○関係団体との連携強化
 ○指導者の養成と活用
 ○学習機会の拡充と学習の生活化の促進
 ○世代間交流の促進
 ○自然体験学習の推進
 ○図書館活動の推進
 ○社会教育施設に整備充実
【主要事業】
 ○町民大学の開催
 ○移動図書館車整備事業


 これらの施策は、社会体育および芸術・文化にかかわる他の施策と密接につながりを持っている。 多目的施設として平成5年(1993)4月にオープンした上湧別町文化センターTOMの一層の活用など生涯学習体系の整備のための課題は多い。 同8年(1996)度に実施された社会教育関連事業は、次のとおりである。
【家庭のために】
○乳幼児学級(保育所や幼稚園に入っていない子供と母親が対象、手遊びや自由遊び・ミニ運動会・海辺遊びなど)
○家庭教育学級(各小学校単位の母親たちで学級をつくり、子育ての悩みや親の役割についての学習や、母親たちの交流などを年間を通して行う。)
【子供たち・青年のために】
○子ども会リーダー研修会(リーダーとして必要な知識や心構えなどを学習する)
○児童宿泊研修会(町内小学5年生を対象に、学校や家庭を離れて自然の中で自律、協調、奉仕等の体験学習を行う。)
○遠軽地区自然体験学習(遠軽地区7町村の子供たちを対象に、豊かな自然の中で自律共同の集団生活の体験学習を行う。)
○青少年指導センター事業(町内の子ども会を対象にフットベースボール大会、交通安全駅伝競走大会、ミニバレーボール大会を実施する。)
○成人式(新成人を祝い励ます記念式典を開催)

【成人男性・女性のために】
○町民大学(政治・経済・教育など今日的テーマで著名な講師を招いて開講)
○高校開放講座(湧別高校の専門的知識や技術を一般にも開放し、学習機会を提供、書道教室)
○カルチャースクール(豊かな暮らしを築くため一般教養の講座を開講、英会話教室など5講座)
○婦人祭(町内の婦人が一堂に会し、婦人の今日的課題等について学習するとともに、相互の親睦を深める。 講演・レクリエーションなど)
【高齢者のために】
○寿学級(昭和48年に開設、講演受講、軽スポーツ、見学旅行など、カラオケ・踊りなど各種クラブにも加入できる。)


(2)社会体育(生涯スポーツ)
スポーツの生活化  既に昭和40年代(1965~)後半から上湧別町では、社会体育施設の整備を進めてきたこともあって、同50年代(1975~)を迎えて町内のスポーツ人口は大きく増加した。 町教育委員会では同50年に学校施設の開放を行い、町民ソフトボール大会やバレーボール大会などのスポーツ行事に学校グランド・体育館を開放してスポーツ教室を軸として全町民に参加を呼びかけた。 生涯教育の重要性への認識が社会的な広がりをみせる中で、同50年代中ごろにはスポーツの生活化が社会体育推進の大きなテーマとなった。 健康づくり運動の推進、コミュニティスポーツの推進、少年スポーツグループ等のスポーツクラブの育成・援助などが社会教育の重点目標に組み入れられ、具体的施策が実行に移された。
 多種目のスポーツ少年団活動や少年少女剣道大会の開催、網走支庁管内青年団体協議会夏期青年大会の実施などが町内で続いた。 社会教育55年(1980)に、中湧別野球スポーツ少年団が第1回スタルヒン杯争奪全道スポーツ少年団野球大会(旭川市)で準優勝の栄誉に輝き、同56年(1981)には、同少年団が全道スポーツ少年団野球大会(札幌市)において、準優勝を勝ち取り、第5回日本スポーツ少年団軟式野球交流大会(名古屋市)に出場した。
 社会教育56年(198111月30日には、町民が長年待望していた上湧別町総合体育館が中湧別に完成し、12月6日にオープンした。 さらに、平成7年(1995)3月23日に上湧別中学校の敷地内に第2体育館がオープンし、ますます体育施設が充実してきている。


「生涯スポーツの町」へ  昭和58年(1983)2月には第1回郵便局長杯争奪・町民300歳バレーボール大会が開催されるなど、完成後の上湧別綜合体育館は有効に活用された。 スポーツ少年団活動も盛んに続けられ、同58年5月には北見市立スポーツセンターで開催された第5回練心会杯少年少女柔道大会に、上湧別町スポーツ少年団が出場し、団体と女子5,6年の部で優勝を果たすなど、上湧別旋風を巻き起こした。
 スポーツと文化のまちを目指して昭和60年代(1985~)を迎えた上湧別町では、同61年(1986)3月11日の町議会において「生涯スポーツの町」としての宣言を決議し、社会体育(生涯スポーツ)の重要性への認識は全町規模に深まった。
 平成2年(1990)に策定した第3期上湧別町総合計画では、「健康で明るい社会生活を営むためには、スポーツ活動をとおして、健康・体力の維持・増進を図ることが重油である」ことが強調され、生涯スポーツの定着化を図るために、次の主要施策と主要事業に取り組むこととした。
【主要施策】
 
○生涯スポーツの推進
 ○社会体育指導者の養成
 ○社会体育団体の育成
 ○社会体育施設の整備充実
 ○スポーツ・文化振興基金の運用
【主要事業】
 ○各種スポーツ合宿誘致事業(合宿の里づくり)
 ○リーダーバンク制度の整備・活用事業
 ○温水プール建設事業
 ○テニスコート建設事業
 ○多目的広場整備事業

 第3期上湧別町総合計画がスタートして以来、上湧別町で進めてきた「生涯スポーツの町」にふさわしい事業展開の一例としては、平成3年(1991)4月3日の屋内ゲートボール場オープンが挙げられる。 既に昭和61年3月には上湧別ゲートボール同好会が結成され、翌62年(1987)7月には同会主催による第1回ゲートボール大会が中湧別小学校グランドで開催された。 また、上湧別町においても、高齢者を中心にゲートボール愛好者が年々増えて、平成2年(1990)12月には共進スポーツ公園(4の1)に簡易屋内ゲートボール場が完成し、やがて町営ゲートボール場が誕生したのである。
 以来、ゲートボール場は、ゲートボール協会(同好会の名称を平成4年に改称)を中心として企画された各種大会を年間を通じて開催するなど多くの町民に盛んに利用されている。


現在までの成果  昭和61年(1986)2月に第1回が開催されてから、毎年多くのクロスカントリースキー愛好者が参加し続いてきた湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会は、平成7年(1995)に第10回の記念大会が開催されるなど、上湧別町では冬のスポーツも年々盛んになってきている。 昭和60年(1985)12月に大型リフトを備えてオープンした五鹿山スキー場も町内外の多くの人々に利用されてきている。
 平成5年(1993)には、10月に湧別高等学校イレブンが第22回全道サッカー新人大会で3位に入賞し、11月には町内のミニバレーボールチームがミニバレージャパンカップ大会で見事に優勝するなど、明るい話題が相次いだ。
 このように、上湧別町の社会体育(スポーツ)は、「生涯スポーツの町」宣言を発してから10年余を経て、現在まで着実にその内容を充実させつつある。 平成8年(1996)度に実施された社会体育関連事業は、次のとおりである。
【スポーツ教室】
 ○硬式テニス(湧別町テニスコート)
 ○トレーニング器具(綜合体育館)
 ○ペタンク(ゲートボール場)
 ○バレーボール(小田急バレー指導、綜合体育館)
 ○ミニバレーボール(総合体育館)
 ○初心者スキー(五鹿山スキー場)
 ○クロスカントリースキー・ワックス実技(五鹿山スキー場)
【土曜わんぱく広場】
 ○小学生のために第2・第4土曜日の午前中に開設、軽スポーツをはじめ様々な遊びを楽しむ。
【スポーツ講師派遣事業】
 ○各自治会でスポーツ教室や講習会を開催する場合に、町からその講師を派遣する制度、種目はミニバレーボール、クロスカントリースキー、パークゴルフなど。
【町民大会】
 ○第2回ふれあいスポーツデー(10月6日、町内各施設、ミニバレーボールなど各種大会、ふれあい交流会<紅白玉入れ合戦>など)
 ○第14回ミニバレーボール大会(11月6日、8日、綜合体育館ほか、自治会・年代別対抗戦)
 ○第21回300歳バレーボール大会(12月1日、綜合体育館ほか、自治会対抗で、女性が常時3人以上出場、剛益年齢300歳以上が条件)
【スポーツ合宿誘致事業】
 ○小田急バレーールクラブ合宿(平成8年ドア北海道都合により中止)
 ○高校スポーツクラブ合宿(湧別高等学校がホスト校となって行う合宿で、全道各地の高校サッカー部、バレーボール部が来町)

 以上のほか、町内各スポーツ団体等が主催する大会の、パークゴルフ、バトミントン、バレーボール、ミニバレーボール、ソフトバレーボール、ゲートボールが開催されている。
 なお、町長を会長とするスポーツ文化振興資金運営協議会では、スポーツ・文化振興のために、全道規模以上の大会に出場する個人や団体に出場経費の助成を行っている。 さらに、スポーツ安全保険加入の呼びかけも行われている。


(3)芸術・文化  
芸術・文化活動の歩み  上湧別町の芸術・文化の振興と活性化は、上湧別町教育委員会と上湧別町文化協会を中心とした民間諸団体との連携協力のもとに、1970年代(昭和45年~)中ごろから以前にも増して積極的に進められてきた。
 昭和44年(1969)の上湧別町文化協会の活動は12の団体(文芸、華道、写真、茶道、詩吟、手芸、三曲、舞踊、書画、書道、郷土研究、美術)、会員222人によるものであったが、7年後の同51年(1976)には18の団体(文芸、華道、絵画、書道、写真、銘石、音楽、手芸、コレクション、舞踊、民謡、人形、茶道、俳句、詩吟、盤景、剣舞、箏曲)会員318人へと拡大した。
 高度経済成長期以降の余暇時間の増大や生活意識の多様化などを背景として、芸術・文化活動への町民の関心が高まり、参加者が年を追って増えたことがここからも如実にいうかがわれるが、このような動きを踏まえて、昭和55年(1980)12月25日に策定された第2期上湧別町総合計画の中の「教育・文化振興計画」においても、「芸術・文化の振興」は大切な柱の一つとして位置づけられた。 そこでは、町民の優れた芸術・文化の鑑賞機会や発表展示の機会の提供と、郷土の文化遺産の保存がうたわれている。
 昭和50年(1975)のポニージャックス公演を皮切りに、上湧別町文化協会の主催によって同57年(1982)まで毎年実施された文化人・芸能人などを招いた公演を実施してきている。


良いもの見よう聞こう会  昭和58年(1983)にはそれまでの文化協会単独主催からコミュニティ協議会、青少年指導センター、青年団体協議会、婦人団体などが加わり、新たに「上湧別町良いもの見よう聞こう会」が結成されて、その主催の元に多くの公演が催され、町民に芸術・芸能鑑賞の機会を提供してきている。

町民大学  昭和52年(1977)には、上湧別町教育委員会の呼びかけにより上湧別町文化協会や上湧別町商工会、PTAなど14団体からなる町民大学実行委員会が発足し、「町民大学」が開講された。 年間5講座からなる「町民大学」はその後も継承され、政治や経済、教育、一般教養など幅広い学習機会を町民に提供するものとして好評を得ている。 平成8年(1996)現在で、ちょうど100人の文化人・有識者を招いたことになり、これまで約1万人の受講者の参加を得て、上湧別町の文化関係の年間行事として定着している。

芸術・文化振興の現状  平成2年(1990)に策定され既に実行段階も半ばを過ぎた第3期上湧別町総合計画においても芸術・文化の振興は、一層重要な課題として位置づけられている。 「第5章 豊かな人間性を育てる文化のまちづくり」中の「4,地域に根ざした芸術・文化を」では、指導者の養成、文化団体の育成、芸術・文化推進体制の整備、文化施設の整備などが掲げられ、次の主要施策と主要事業が示された。
【主要施策】
 ○文化団体・サークル活動の奨励
 ○芸術・文化鑑賞の充実
 ○郷土文化遺産の保護・保存体制の整備
【主要事業】
 ○郷土資料館改築事業
 ○多目的複合施設建設事業
 ○漫画美術館・図書館建設事業
 ○町民芸術鑑賞会の開催

 以上の施策・事業のうち、既に実現しているものとしては、多目的複合施設として平成3年(1991)秋に着工し、翌4年(1992)11月30日に完成した上湧別町文化センターTOMとTOM内に併設された漫画美術館並びに図書館のオープン(平成5年4月)とその活動がまず挙げられる。 ともに、文化の発信と地域活性化のための基地として、長らく阿智防されていた文化施設である。 また、TOM前広場の鉄道資料館のオープン(同5年4月)も、同時に建設省から指定されたTOM周辺の「道の駅」とともに、上湧別町にとって意義ある出来事であろう。
 さらに、郷土資料館(昭和46年9月設置)は、チューリップ公園内へ移設・新築され、平成8年(1996)8月1日にふるさと館JRYとしてオープンしたが、これにより屯田兵屋をはじめ上湧別町の開拓時からの貴重な歴史的、文化的資料を確実に保存・展示することが可能となった。
 平成を迎えてからの「歩み」でも分かるように、上湧別町文化センターTOMの完成で、芸術・文化活動はそれまでにない盛り上がりをみせながら今日に至っている。 もちろん、各文化団体を中心に性別・年齢を超えた町民の幅広い層が積極的に参加することで、初めて大きな成果が得られるが、それは例年10月に行われ、平成8年で33回を迎えた町民総合文化祭のこれまでの実績からも十分にうかがわれる。


 
第3節   社会教育施設 
(1)文化センターTOM(トム)/漫画美術館/図書館
文化センターTOM  町民が長年待ち望んでいた多目的施設として、平成3年(1991)秋に着工、翌4年(1992)11月30日、旧中湧別駅構内跡地に完成、同5年(1993)4月にオープンした。 文化センターTOMの名称は、町民から公募し、114点のうちから選ばれたもので、同4年4月に決定、名付け親は、石田昭宏(屯田市街地)である。
 TOMは、T=屯田兵、チューリップ・タウン(町)等、O=オホーツク・オンワード(前身)等、M=漫画・ミュージアム(博物館)等の頭文字をつないだものである。
 鉄筋コンクリート一部2階建て、延床面積4141平方㍍で、総事業費は25億3000万円である。 扇形の入口部分とメルヘン的なシンボルタワーを特徴とし、多目的ホールは収納式座席(移動席)382席が可能で、芸能・芸術の発表や各種大会、結婚式、産業生産品や商品の展示即売など、多目的に利用することができる。
 なお、視聴覚室(84席)、漫画美術館、図書館も併設されている。
 また、町民の利便性も配慮され、上湧別町役場中湧別出張所、商工会事務局、中湧別バスターミナルを併設し、北側には約250台の駐車場を完備している。 さらにTOM前広場には、旧中湧別駅の跨線橋やラッセル車などをそのまま保存し、鉄道資料も展示した鉄道資料館がある。
 改正後の上湧別町文化センターTOMは、文化の発信基地として、町民大学や文化祭、漫画祭り、芸術館紹介、町民音楽の広場をはじめとして文化行事のほか、各種イベントに利用されている。


漫画美術館  上湧別町文化センターTOM内に設置され、TOMと同じく平成5年(1993)4月にオープンした。 同2年(1990)9月に創設されたオホーツク国際漫画大賞の入選作品や活躍中の漫画家による作品、漫画グッズなどをアートギャラリーに展示しているほか、ボタン一つで有名な漫画家の作品が検索でき、映像で楽しめる漫画情報コーナーや漫画原画の収蔵庫がある。
 なおオホーツク国際漫画大賞は、漫画による魅力あふれるまちづくり・地域おこしに取り組んでいる川崎市を基、全国9つの自治体に呼びかけて開催した平成3年(1991)3月の第1回全国漫画サミット(上湧別町コミュニティセンター)の際に第1回の表彰式が行われた。 第1回大賞には、日本を含む世界23カ国から予想を大きく上回る1338点の作品の応募があり、なかには世界の一流漫画家の応募作品も含まれていた。
 大賞作品・入選作品の選考は、オホーツク国際漫画大賞実行委員会と読売新聞社により創設以来東京で行われてきている。 第1回の選考は、加藤芳郎(審査委員長)、石ノ森章太郎、やなせたかし、小島功、牧野圭一、イガラシユミコ、タナカミノル、上湧別町長、読売新聞北海道試写編集部長の9人の審査委員により行われた。 第1回以降現在までの大賞(グランプリ)受賞者と作品名は、次のとおりである。
 
【オホーツク国際漫画大賞受賞者の作品】
第1回(平成3年、テーマ・スポーツ) 社方徹夫「デュエット」(東村山市)
第2回(平成4年、テーマ・花) クラウディオ・グナーニ「感 謝」(スイス)
第3回(平成5年、テーマ・風) 篠原ユキオ「風」(大阪市)
第4回(平成6年、テーマ・土) フィディ・ローランド「M-OL OLYMPICS」(モグラのオリンピック)(イギリス)
第5回(平成7年、テーマ・光) えびなみつる「花火のあった朝」(東京都)
第6回(平成8年、テーマ・夢) 重成正雄「上空10,000m」(横浜市)
第7回(平成9年、テーマ・道) 黒田とみじ「ポイ捨て『困ったもんだ』」(静岡県)
 また、小・中学生を対象として平成3年に創設されたオホーツクジュニア漫画大賞の現在までの最優秀賞受賞者と作品は、次のとおりである。
 
【オホーツクジュニア漫画大賞最優秀賞受賞者の作品】
準大会(平成3年、テーマ・スポーツ) 本告麻奈末「スポーツ大好きマリアちゃん」(上湧別町立中湧別小学校2年)
第1回(平成4年、テーマ・花) 豊島宏美「いろんなかおのカーネーション」(上湧別町立上湧別小学校6年)
第2回(平成5年、テーマ・風) 亀沢広子「とりは生きている」(常呂町立常呂小学校6年)
第3回(平成6年、テーマ・土) 江田香織「土のぼうけん」(美幌町立東陽小学校4年)
第4回(平成7年、テーマ・光) 小枝義征「まるかいてマンあの光はなんだ!」(札幌市立稲前田中学校1年)
第5回(平成8年、テーマ・夢) 小枝義征「みんなのゆめ」(札幌市立稲前田中学校2年)
第6回(平成9年、テーマ・道) 洞田花矢子「道にある色々な者たちのオハナシ」(札幌市立宮の森中学校1年)

図書館  上湧別町文化センターTOM内に併設され、平成5年(1993)4月にオープンした。 新しい図書館の開館までは上湧別町社会福祉会館内の図書室が町民に利用されていたが、TOMの完成に伴い、規模・機能とも充実した内容となった。
 図書室には約3万冊が収納できるほか、コンピューター学習室やAVコーナー、読み聞かせコーナー、漫画本読書コーナーなどが設置されている。
 平成8年(1996)度末蔵書数は3万8027冊、貸出冊数2万9426冊、町民一人当たり貸出数4.5冊、1日平均貸出数106冊、図書回転率77.4%である。


(2)ふるさと館JRY
 旧上湧別町郷土資料館は、屯田兵屋や郷土文化財の保存にために旧上湧別中学校体育館を充てて昭和46年(1971)9月に開館して以来、4半世紀にわたって町民に親しまれてきた。 その旧郷土資料館を一新したいとの願いは、上湧別町にとって長年の懸案だったが、開基百年事業の一環として平成7年(1995)3月着工の運びとなり、同8年(1996)3月、チューリップ公園内のチューリップ館東側に完成し、8月1日にオープンした。 上湧別町ふるさと館JRYの名称は、町民から公募し、161点のうちから郵趣作品を部分的に使用したもので同年3月に決定した。
 JRYは、J=ジュエル(宝物)・ジョイント(結び合う)等、R=ルーツ(先祖)・レコード(記録)等、Y=湧別屯田兵等の意味が込められている。
 鉄筋コンクリート造り(一部木造)2階建て、延床面積はおよそ2000平方㍍、山村振興農林漁業特別対策事業(綜合交流促進施設)の補助を受けて総事業費は約12億円であった。 1階メーン展示室は、2階まで吹き抜けの広い空間に旧資料館に保存していた屯田兵屋が移築され、開拓当時の父兄が再現されている。 また、屯田兵屋の内外には、当時の人々や生活用具・農機具などが展示されている。
 2階には2つの展示室があり、それぞれに入植時のエピソードや開拓の風景が「ジオラマ」で再現され、関連資料が周囲に展示されている。 さらに、検索コーナーにはパソコンが置かれ、現学者が自由に歴史資料などの情報を得られるようになっている。
 以上のほか、各種犬種階や映画界(立体映像)などの会場として利用できるメディア・シアター(150席)や、調理実習室、体験実習室も備えるなど、上湧別町文化センターTOMに並ぶ多目的施設としての大きな役割が期待されている。


(3)農村環境改善センター
 上湧別町農村環境改善センターは、住み良い社会環境をつくる目的で建設された。 総事業費は3億8734万円、鉄筋コン階建て(一部平屋)、延床面積は1690平方㍍、昭和53年(1978)9月に完成し、オープンした。
 洋会議室3室、和会議室2室、実習室、浴室を備えているほか、バレーボールコート1面、バトミントンコート3面がとれる体育館は、300人を収用できる多目的ホールとして利用でき、社会教育・体育施設として、今日まで多くの町民に利用されてきた。


(4)コミュニティセンター
 コミュニティセンターは、町民の地域的連帯意識と生活文化の向上を目的として昭和62年(1987)8月1日、町役場新庁舎とともに完成し、オープンした。 センターの総事業費は3億5915万円、鉄筋2階建て、延床面積は1355.383平方㍍。
 役場庁舎と渡り廊下で直結されたセンターは、2つの研修室、図書室、資料展示室、町民相談室、小会議室、茶室、和室、大ホールを備えた近代的なもので、現在まで各種の会合や研修会などの会場として多くの町民に利用されている。


(5)社会福祉会館/青少年会館/その他
 町民福祉の増進を目的として、上湧別町社会福祉会館が完成し、オープンしたのは昭和45年(1970)11月のことである。 総事業費は約7100万円であった。 その後同50年(1975)に社会教育機能の充実を図るために一部増改築がなされ、500平方㍍ほど広くなって以来、平成に至って上湧別町文化センターTOMなど新しい社会教育・文化施設が完成するまで、長く各種会合、講演会や芸能発表会など社会教育関連の行事のほか結婚式など様々な目的に応じて盛んに利用されてきた。 
 同62年(1987)に町役場新庁舎が完成するまでは、会館内に上湧別町教育委員会事務局が置かれ、上湧別町教育センターとしての役割も担ってきた。 現在は集会場のほか、上湧別町社会福祉協議会、上湧別町高齢者就労センター、上湧別振興公社の事務所が入り利用されている。
 上湧別町青少年会館が完成したのは、社会教育46年(1971)12月のことである。 総事業費は3450万円、ホール、研修室のほか、バレーボールコート、バドミントンコートがとれる室内体育館などを備え、当時としては先進的な施設で会った。 青少年会館は、青少年の社会生活に必要な資質を養うための諸活動に活用するという当初の建設目的に沿って利用されてきたほか、町民各層にも広く開放されて住民の佐0来る活動やスポーツ・レクリエーションなどのためにも積極的に利用されてきた。 しかし、現在は上湧別町総合体育館と廊下で接続され、補完的施設となっている。
 なお、以上の社会教育施設のほか、上湧別町産業会館、上富美農業センター、旭農業センター、夫m二地区住民センター、開盛住民センターも、それぞれの当初目的に沿って盛んに利用される一方、町内各地域の自治会活動と子ども会、老人クラブ・婦人会などを中心とした社会教育活動のために欠かせない貴重な教育的、文化的役割を果たしてきている。


(6)スポーツ施設等  
町営五鹿山スキー場  社会教育48年(1973)3月に設置された中湧別スキー場が6000平方㍍余り拡張されたのは、ちょうど10年後の同58年(1983)12月のことだった。 既にベビーリフトが設置されていたが、さらに同60年(1985)12月に至って、多くの利用者からの要望に応えてチェアリフトが設置され、スキー場の名称も「町営五鹿山スキー場」に改められた。 同59年(1984)に五鹿山周辺が町立公園に指定されたことに伴う名称の変更である。
 新たに生まれ変わった五鹿山スキー場は、総延長1㌔㍍のコース等4コース(初級者用のパノラマコース、初・中級者用のゴールデンコース、シルバーコース、中・上級者用のオホーツクコース)のほか、ソリの楽しめるコースも備わった本格的なものとなり、夜間照明(7基)も整備された。 チェアリフトは延長459㍍、85の座席付きリフトで、毎時600人を中将まで輸送することができるようになり、また、コース整備のための圧雪車も購入された。 これらの整備に要した費用は、約1億1800万円であった。
 昭和61年(1986)12月には、それまでのプレハブ造りの仮ロッジに替わって新たに山小屋風のしゃれたロッジが完成した。 木造平屋建て330平方㍍、150人を収容できる休憩室のほか救護室、事務室・更衣室なども備わった新しいロッジの建設には約5300万円を要した。
 平成3年(1991)にはセミナーハウスが完成するなど、その後もスキー場の整備が続けられた結果、五鹿山スキー場には、例年近隣市町村からの家族連れや若いカップルなどのスキー客が訪れて賑わいをみせるようになり、現在に至っている。


綜合体育館・第2体育館  町民が長年待望していた上湧別町総合体育館が中湧別に完成したのは、昭和56年(1981)11月30日、オープンしたのは12月6日のことである。 総事業費約4億2000万円、鉄骨造り、一部鉄筋コンクリート造り階建て、面積は延2183平方㍍。 アリーナ(運動場)は、バレーボールコート、バスケットボールコートが各2面、テニスコートが2面、バドミントンコートが6面とれる広さを持つほか、公演などにも利用できる移動ステージが備え付けられた。 2階には研修室やミーティングルーム、スポーツ教室などの指導員室が設けられ、1階にはプレイルームやシャワー室、広いロビーの完備した近代的な体育館の完成であった。 その後も、同61年(1986)に上湧別町が「生涯スポーツの町」の宣言をしたことに伴って、町民の間にスポーツ熱が高まり、さらに社会体育施設の充実を望む機運が醸成されていった。
 このことを反映して、平成7年(1995)3月23日、上湧別中学校体育館横に完成、オープンしたのが第2体育館である。
 この第2体育館は、国の補助事業(社会体育施設整備事業)により建てられ、総事業費約1億6938万円、鉄骨造りで、体育館の面積は487平方㍍、バレーボールコート1面、バドミントンコート(ミニバレーボールコート)3面が確保されている。 第2体育館の完成により、手狭となっていた体育施設の悩みは改称され、町民スポーツの一層の充実が図られることになった。


町営野球場  町営野球場が中湧別南町に完成したのは、昭和48年(1973)8月であった。 当時はまだ夜間照明設備はなく、野球連盟など関係者にとってナイター設備は長年にわたっての夢であった。 その夢が実現したのは平成3年(1991)に至ってからのことで、9月30日、待望の夜間照明設備(6基92灯、30分当たり510円でコイン販売)が完成した。 これにより、夜間理容が可能となり、以後、例年4~10月の7ヶ月間、昼夜を通して熱気あふれるプレーが展開されている。
 なお、町営野球場の規模は、面積1万600平方㍍、両翼88㍍、中堅(センター)108㍍、観客席は600人を収容でき、鉄製バックネット、内外野フェンス、本部席が備わっている。


町営ソフトボール場  昭和46年(1971)7月、屯田市街地に完成した。 ソフトボール場は、ソフトボール協会を中心とした多くの利用者に長年愛されてきたが、同60年(1985)8月30日に関係者待望の夜間照明設備(6基44灯、30分当たり510円でコイン販売)が完成した。
 ソフトボール場の規模は、面積7120平方㍍、両翼、中堅(センター)とも69㍍である。


町営ゲートボール場  中湧別北町に屋内ゲートボール場が完成したのは平成3年(1991)4月3日のことである。 この屋内ゲートボール場は、北海道の市町村振興補助金を受け、総事業費約2億5000万円をかけて旧中湧別駅構内跡地の一角に建設された。 鉄骨平屋建て1375平方㍍の本格的なもので、ゲートボールコート(15㍍×20㍍)が2面とれるゲートボール場と、ゆったりくつろぎながらコミュニケーションを図ることのできる休憩室が設けられた。 高齢者をはじめ多くの町民が年間を通して利用できる体育施設がまた一つ誕生したのである。 また、同月下旬にはゲートボールコート(20㍍×25㍍)10面を備えた屋外ゲートボール場もオープンした。 また、平成2年(1990)12月、共進スポーツ公園(4の1)に簡易屋内ゲートボール場が建設された。

五鹿山パークゴルフ場  パークゴルフは誰もが気軽に楽しめる新しいスポーツとして、昭和から平成へと元号が改まるころから上湧別町でも徐々に盛んになった。
 本格的なコースの使用を始めたのは平成元年(1989)のことで、この年9月に、五鹿山公演、上湧別町総合体育館、上湧別農村環境改善センターの町内3ヶ所にそれぞれ設けたのである。 このうち、現在最大のものは五鹿山パークゴルフ場で、桜コース18ホール、白樺コース18ホールの併せて36ホールからなっている。 同6年(1994)8月31日、国際パークゴルフの公認コースとして認定された。 その他の3コースはそれぞれ9ホールだが、いずれのホールでも専用の用具が貸し出されるなど、利用者へのきめ細かい配慮がなされている。
 まあt、平成6年には富美小学校パークゴルフ場(9ホール)、4の1パークゴルフ場(共進スポーツ公園、9ホール、平成8年に18ホールに増設)、同7年(1995)には開盛小学校パークゴルフ場(9ホール)も完成し、町内全域でパークゴルフを楽しむことができるようになりつつある。


五鹿山キャンプ場  五鹿山公演の町立公園指定に伴い、昭和61年(1986)にオープンして以来、五鹿山キャンプ場は町内外の多くの人々の憩いの場として利用されている。
 現在の施設規模は、ログキャビン18棟、フリーテントサイト16床、オートキャンピングサイト17床、実習ロッジ1棟、シャワー室1棟、キャンプファイア広場となっており、例年5~10月の半年の間、緑豊かな自然の中でのキャンプ生活を楽しむ家族連れや若者たちでにぎわいをみせている。


学校開放 社会体育振興のためには独立した社会体育施設にほかに、地域住民への学校施設の開放も必要である。 既に上湧別町においては、昭和50年代(1975~)を通じて、各学校の体育館・グランドを中心に学校施設が町民に開放されてきた。 その後昭和50年代後半から平成にかけて学校施設の増改築が進む中で、町民からの要望の高まりもあり、学校施設開放は従来以上に推進されることになり現在に至っている。 平成8年(1996)度の開放施設(グランドを除く)は、次のとおりである(開放機関はいずれも4月~翌年3月。ただし、プールは6~9月)。
 
【学校開放施設】
○上湧別小学校体育館(バレーボールコート1面、バドミントンコート3面)
○中湧別小学校体育館(バレーボールコート1面、バドミントンコート2面)
○開盛小学校体育館(バレーボールコート1面、バドミントンコート2面)
○富美小学校体育館(バレーボールコート1面、バド見温屯コート2面)
○上湧別中学校体育館(バレーボールコート2面、バスケットボールコート1面、バドミントンコート4面)
○上湧別小学校プール(25㍍×8㍍ 4コース)
○中湧別小学校プール(25㍍×10㍍ 5コース)


 
第4節   社会教育諸団体 
(1)文化協会
生い立ち  わが国が高度経済成長期を迎えてから今日までの上湧別町の文化活動については、上湧別町文化協会の存在を抜きには語ることができあに。
 昭和37年(1962)、町内の文化団体関係者・有志によって結成された上湧別町文化協会は、初代会長に古川湛然を迎え、町民の豊かな文化の創造と、町内の文化団体相互の連絡協調を図り、地域における文化活動の振興と発展に寄与することを目的にその活動を開始した。 その後、同45年(1970)度から同51年(1976)度までは2代目会長秦野馨のもとに活動が継続し、同52年(1977)度に3代目会長に古川正道が選出されてからは一貫してそのもとで活動が続いてきている。
 昭和50年(1975)から文化人・芸能人らを招いての公演が毎年実施されてきたが、同58年(1983)に主催は「上湧別良いもの見よう聞こう会」に移行された。 また、同52年から開催の町民大学にも大きな役割を果たしてきた。


加盟団体  上湧別町文化協会は、文芸、美術、華道、茶道、生活文化、洋楽、邦楽、邦舞の8部門で活動し、これまで加盟団体に若干の消長はあったものの、全体としては安定した運営がなされている。」昭和57年(1982)11月7日、上湧別町文化協会創立二十周年記念式典・祝賀会・記念講演会(下重暁子)および文化功労彰・文化奨励賞・感謝状の贈呈が上湧別町社会福祉会館で行われ、記念誌『花ひらく二十年』が刊行された。 平成5年(1993)10月2日には、上湧別町文化協会三十周年記念式典が町民総合文化祭とともに同年オープンした上湧別町文化センターTOMで華やかに開催され『三十年史』も刊行された。 三十周年を記念して文化功労彰・文化奨励賞の贈呈も行われた。
 平成9年(1997)現在、上湧別町文化協会への加盟団体は33団体、会員数は297人である。 三十周年の節目の年を新たな出発点とした上湧別町文化協会の地域文化創出のリーダーとしての一層の役割が期待される。 上湧別町文化協会発足のきっかけとなった総合文化祭も、加盟団体のほか多くの町民の参加を得て今日まで続いている。 なお、同8年(1996)度現在の加盟団体は、次のとおりである。

 【文化協会加盟団体】
○オホーツクカラオケ歌謡愛好会
○俳句同好会こだま吟社
○日本教育書道会
○上湧別書道同好会
○上湧別カメラクラブ
○茶道裏千家 古川尊子社中
○嵯峨御流雅友会
○詩吟聖月流 清水社中
○ザ・エンゼルス
○花柳流美乃本会
○茶道表千家敬文会
○池之坊近藤社中
○中湧別ダンス愛好会
○上湧別町民謡友の会
○上湧別吹奏楽団
○富井書道教室
○寿流詩舞剣舞踊翠会上湧別支部
○上湧別民謡同好会
○生田流正派若菜会柴田社中
○詩吟学院岳風会中湧別吟詠会
○オホーツク美石会
○上湧別混声合唱団
○国風流詩吟国暁会中湧別支部
○開盛民謡同好会
○開盛ダンス同好会
○和紙ちぎり絵はまなす会
○大桑流大正琴中湧別サークル
○翠新流福寿美会
○アクティングラボ
○ふれあい社交ダンス同好会
○うたごえサークル・コロボックル
○剣舞・詩舞北踊会


(2)体育協会
生い立ち  昭和35年(1960)、福田武明を初代会長に据え、町民の体位向上と社会体育の振興を図り、スポーツ団体相互の連絡協調を通じ、スポーツレベルの向上を図るために結成された上湧別町体育協会は、今日まで30年余にわたって充実した活動を展開し、上湧別町教育委員会との連携のもと社会体育・町民スポーツの振興に主動的な役割を果たしてきた。

活動の概観  昭和50年代(1975~)に入ってから今日までの上湧別町体育協会の活動では、幼児から高齢者まで幅広い層を対象としたスポーツ教室の開催、町民ソフトボール大会や300歳バレーボール大会などの町民大勝スポーツ事業の実施、スポーツ少年団員など児童・生徒、さらに、青年を対象としたリーダー・指導者養成研修会などの実施、道民スポーツ大会への参加等が挙げられる。 また、加盟団体単位の競技会や講習会なども活発に展開されてきた。 とりわけ、同61年(1986)に上湧別町が「生涯スポーツの町」を宣言して以降は、五鹿山スキー場、五鹿山パークゴルフ場、第2体育館、屋内・屋外ゲートボール場などスポーツ施設の整備・新設が進み、それまで以上に活発な活動を展開してきている。

加盟団体  上湧別町体育協会発足当初の加盟団体は12団体(協会)であった。 その後、当初活動していた卓球協会、スケート協会、山岳会、籠球協会、空手協会が姿を消すなど、加盟団体に移動はあったが、町内のスポーツ人口は着実に増え、ミニバレーボールやゲートボール、パークゴルフなど従来みられなかったスポーツが普及するに従い、新たな団体・サークルも結成されるようになった。
 平成9年(1997)現在の上湧別町体育協会加盟団体(11団体)は次のとおりである。
 
【体育協会加盟団体】
○野球連盟
○ソフトボール協会
○スキー協会
○バレーボール協会
○剣道協会
○ソフト・ミニバレー協会
○バドミントン協会
○パークゴルフクラブ
○フォークダンス
○ミニバレー連絡協議会
○ゲートボール協会


(3)スポーツ少年団
今日までの活動  地域の少年がスポーツ活動を通じて健全な心身を養い、将来の社会人としての素地をつくることを目的に、上湧別町で8団体からなるスポーツ少年団が組織されたのは昭和50年(1975)のことである。 当初活動していたソフトボール、卓球、空手、スピードスケートの4少年団は、その後、姿を消し、平成8年(1996)現在、6つの少年団が本部の指導のもと活発な活動を展開している。
 それぞれ全道大会・地区大会への参加、キャンプ研修会、リーダー・指導者研修会、他の町村との交流試合を行っているほか、日常の練習などに積極的に取り組み、今日まで大きな成果を収めてきてる。
 
【スポーツ少年団加盟団体】
○上湧別町スポーツ少年団本部
○中湧別野球
○水 泳
○剣 道
○バレーボール
○競技スキー
○基礎スキー


(4)その他の社会教育団体
青少年指導センター  昭和41年(1966)に設立された上湧別チュ青少年指導センターは、町内の清酒年団体の育成機関として、①子ども会活動の促進、②リーダーの指導育成に関すること、③家庭教育の振興、④地域における生活指導などを中心に、同40年代)1965~)、同50年代(1975~)を通じて多彩な事業を展開してきた。 設立20年目の同60年(1985)11月14日、上湧別町社会福祉会館において記念式典を開催し、記念誌『はばたけ未来に』を派上湧別。 されに、平成8年(1996)には30年の歴史を積み重ね、同年1月16日上湧別町文化センターTOMで盛大に記念式典を行い、表彰状・感謝状の贈呈が行われるなど、関係者一同、来る21世紀を担う青少年の健全育成を推進する決意を新たにした。
 
子ども会活動  子ども会活動は、スポーツ活動、環境整備のための奉仕活動、文化活動、研修活動、集団訓練活動、その他の活動の6つの活動からなっている。
 昭和39年(1964)に発足した子ども会は、平成8年(1996)現在、15の子ども会(旭・5の3・東町・北町・中町・南町・5の1・屯市北区・屯市中区・屯市南区・4の3札富美・4の2・4の1・開盛・富美)に発展し、小・中学生567人の会員で、各育成会長の指導のもと、それぞれ独自の活動を展開している。


青年団体協議会  昭和53年(1978)に上湧別町青少年団体連絡協議会を改組して発足した上湧別町青年団体協議会は、上湧別町内の青年たちの自己研鑽と、郷土発展のための団体活動を目的に、今日まで堅実な歩みを続けてきている。
 ここ数年は10数人で活動という会員減少の問題をかかえながらも、次のような活動を展開している。
 新人勧誘および交流会、キャンプ、大雪合戦大会、毎月の例会、スポーツ、スキーツアー、ボランティア活動(バス停ごみ箱設置とごみ回収、カーブミラー磨き、独居老人宅雪はね)、町行事参加と協力、他団体との交流会などである。

 また、遠軽地区青年大会、網走地区青年大会、全道青年大会、北海道青年大会等各種上部団体の大会に参加して優秀な成績を残している。

青年会議  昭和60年(1985)は国際青年年に当たり、上湧別町でも今まで以上に青年活動が重視されるようになった。 翌61年(1986)10月8日に第1回上湧別町青年会議が上湧別町社会福祉会館で開かれた。 上湧別町青年団体協議会、上湧別町農業協同組合青年部、上湧別町商工会青年部、上湧別町4Hクラブの4団体が参加して、今後の活動として「青年のつどい」や「ヤングフェスティバル」の実施を決めた。 「地方自治法」が施行されて40年が経過したことを記念して、昭和63年(1988)1月17日に青年模擬会議が役場議事堂で開催され、議会の仕組みを学ぶとともに、町内の青年が一堂に会して、今後のまちづくりについて活発に意見交換を行った。
 平成元年(1989)からは、上湧別町役場青年婦人部参加して5団体となった。
 「青年のつどい」は、毎年2月に、参加団体の交流会に講師を招いての研修会等が継続的に拓かれている。


郷土史研究会  昭和39年(1964)から町史編纂が始まった。 この仕事を遂行するに当たり、先人の足跡を後世に残すために、同好者の協力と継続的な努力が必要とされ、同年11月28日に郷土史研究会が発足した。 今日まで資料の発掘、保管補修等地道な研究が続けられている。 毎年総会を含めて4~5回の会合と他町村の郷土資料の視察を年1回実施している。 同会が発行している反抗物は次のとおりである。
 
【郷土史研究会刊行物】
○『上湧別町碑・史跡集』(並行して史跡標示作業を実施。昭和57年)
○『屯田兵班長 樋口日記』(昭和55年)
○『公有財産あれこれ』(平成4年)
○『湧別屯田百年史』(平成8年)
 なお、会報「湧川」を平成6年(1994)より3回発行しており、同9年(1997)現在4号の発行作業に着手している。 会員は、同年現在35人である。


屯田会  昭和4年(1929)に、南兵村・北兵村の「戸主会」が結成された。 昭和52年(1977)には会員も1人となり屯田兵家族が集まり、戸主会を解散し、新たに「湧別屯田会」を結成した。 平成4年(1992)5月の総会において「湧別屯田会」から「上湧別町屯田会」と名称を改めた。 現在に至るまで親睦を深めるため、毎年春には観桜会を開いている。 これまでに実施した事業は、次のとおりである。
 
【屯田会事業】
○昭和53年(1978)に屯田兵肖像画382人を制作し、郷土資料館に掲額
○昭和57年(1982)に上湧別町戦没者名簿「靖国の華」発行
○昭和61年(1986)に南兵村一区・二区・三区に屯田兵屋の跡の碑(屯田兵入植者氏名刻印)を建立
○平成8年(1996)に上湧別町開基百年を記念して、屯田兵服装等20着分を町に寄贈(当事業は、昭和62年(1987)に屯田兵服装製作準備委員会、同63年(1988)に期成会結成)
○平成8年8月4日の上湧別町開基百年事業のよさこいソーラン踊り当日と同年9月29日の開基百年記念式典当日の2回にわたって、屯田兵2世・3世の会員20人が屯田兵服を着用してお披露目の実施
 会員は平成9年(1997)現在198人である。

 
以上のほか、平成9年度現在、上湧別町において活動を継続する社会教育団体は、次のとおりである。
団体名  代表者  主な活動内容 
絵本の読み聞かせ
サークル「りんご
っこ」 
 沢口 満智  児童を対象に絵本の読み聞かせ
活動 
婦人学級サラダ学
級 
 宍戸 久美 研修旅行、料理教室、軽スポー
ツ等 
婦人学級トマト教
室 
 平野美代子 月1回集まって料理、パッチ
ワーク等 
婦人学級さくら学
級 
 石田 榮子 研修旅行、料理教室、軽スポー
ツ等 
開盛「ゆうしん」
の会 
 中村  貴 各種学習会 
かしわぎ家庭教育
学級 
 鎌田 礼子 趣味の講座教育、芸術鑑賞、ス
ポーツ等 
竹の子家庭教育学
級 
 松田美由紀  趣味の講座教育、芸術鑑賞、ス
ポーツ等 
ふたつば家庭教育
学級 
 木村 京子 趣味の講座教育、芸術鑑賞、ス
ポーツ等 
どんぐり家庭教育
学級 
 岡崎 淳子 趣味の講座教育、芸術鑑賞、ス
ポーツ等 

屯田太鼓  郷土芸能「上湧別屯田太鼓」は、上湧別町開基八十周年記念の昭和51年(1976)に正式に発表されたが、同47年(1972)ごろから丼伝代子の創作気運が高まっていた。 上湧別町商工会主催の盆踊りの太鼓を叩いていた藪正志らが、屯田の昔をしのびながら創作に打ち込んだ。 開拓の心を太鼓のリズムに乗せて後世に伝えようというもので、「屯田太鼓」のほか「屯田の四季」「桜ばやし」「屯田祝太鼓」などが作られ、花見やお祭りのイベントとして、また、結婚披露宴の依頼に応じて同48年(1973)ごろから盛んに演奏されるようになった。
 昭和51年9月23日には開基八十周年記念として、太鼓吟「我が町を愛す」が披露され、町民の感動を誘った。 同年12月、上湧別屯田太鼓保存会が設立され、それまでは同48年に設立されていた屯田太鼓保存期成会が保存のため後援していたが、より強固な支援体制確立のため期成会を解散し、屯田太鼓保存会ができた。 しかし、一時10数人いたメンバーも次第に減り、後継者難に見舞われた。 なんとか屯田太鼓を保存しようと上湧別町青年団がてこ入れしたこともあるが、結局、平成3年(1991)から活動教育委員会牛の状態に陥った。 しかし、同4年(1992)に富美小学校で和太鼓の練習が始まり掘強正教教諭の指導のもと、屯田太鼓の郷土芸能が子供たちに受け継がれることになった。
 その屯田太鼓が復活するきっかけとなったのは、平成8年(1996)の開基百年である。「百年記念になんとか復活させたい」と上湧別町教育委員会がメンバーを募集したところ役場職員、農業青年、主婦などを中心に男性6人、女性5人の計11人の若者が応募した。 まず隣町の「湧別さろま湖太鼓」の黒川寿子(上湧別町在住)らの指導で和太鼓の基本から練習を始めた。 ところが、発足以来演奏してきた「屯田太鼓」など6曲は、元メンバーも既に曲を忘れているのに加え、過去に録音したテープも音が不鮮明で再現するには困難なことが分かった。
 そこで、専門家に新曲の創作を依頼することになった。 白羽の矢が立ったのは京都の和太鼓演奏集団「風流打楽 祭衆」である、同集団の「ひがしむねのり」代表に上湧別町の風土や名物、行事などを収録したビデオ、パンフレットなどの資料を送り、上湧別町をイメージした曲づくりを要請した。 こうして平成8年5月、新曲「屯田祝い太鼓」が完成した。
 新曲は開拓の歴史やチューリップ公園の彩り、秋の収穫の喜びなどを約15分で豊かに表現し、上湧別町と屯田太鼓保存会の新たな出発にふさわしい力強い曲になっている。 今後は、メンバーの努力によって賀子の曲を復活させることも検討されている。
 「屯田祝い太鼓」は、開基百年記念の「上湧別屯田太鼓保存会」と「風流打楽 祭衆」のジョイントコンサートで初めて披露された。 コンサート当日の9月14日夜、会場の文化センターTOMに多くの町民が訪れ、屯田太鼓の再出発を激励していた。


 
第4章

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国際交流事業 
  国際交流の始動期  上湧別町で国際交流への関心が高まり、その具体的活動が開始されたのは、昭和50年代(1975~)後半のことである。 国際化、情報化の重要性が全国規模で叫ばれる中、同59年(1984)に佐々木町長のカナダ訪問があり、外国人留学生との交流促進を目的として上湧別町在住の青年が中心となり国際交流センターの設立となった。
 昭和60年(1985)は、国連の定めた「国際青年年」に当たっていた。 同年7月、カナダ人小学生の来町と中湧別小学校への仮入学による同校児童との10日間にわたるふれ合いがあり、国際色豊かな交流と活動の反響は大きなものがあった。 また、同年8月にイタリアと韓国からの留学生が来町、10日間にわたって農家での体験学習、盆踊りへの参加や小・中・高生との交流とふれ合いを深めた。
 昭和61年(1986)8月には、エジプトと台湾からの留学生が来町、10日間にわたって農作業や盆踊りなど地域行事に参加し、多くの町民との交流が実現した。 このとき留学生の受入や滞在中の世話で活躍したのは、上湧別地区青年婦人国際交流センター(花木英紘会長)の会員たちであった。
 海外旅行熱が高丸中、昭和62年(1987)3月には5回にわたって上湧別町社会福祉会館で海外旅行のための英会話教室が開講され、中学生から高齢者まで15人の参加者があった。 同年8月には台湾およびアメリカから2人の留学生が来町、外国人留学生との紘リュはホームステイなどを含めて本格的な軌道に乗り、その後も続けられている。
 昭和60年から平成7年(1995)までの国際交流事業による留学生受入状況は、21人に達している。(台湾9,アメリカ4,中国2,勧告2,香港・オーストラリア・エジプト・イタリア各1)


本格的国際交流へ  このような流れの中で、平成元年(1989)4月、「ふるさと創成関連事業」の一環として国際交流事業が本格的にスタートした。 そこに盛り込まれたのは、外国人町嘱託職員の招聘と青年・婦人海外研修事業であった。 4月に町嘱託職員(国際交流担当)としてマイケル・イースチウッド(アメリカ)が着任、8月には外国人英語指導助手としてブラッドリィ・アンプリー(カナダ)が着任し、英語教室の開催や中学校における英語教育などをはじめ、地元での国際交流活動が、さらに活発に展開されることになり、上湧別町の教育・文化に新風が吹き込まれるようになった。 姉妹都市提携の可能性を探るため、佐々木町長が訪米(ケンタッキー州フランクフォート市)したのも同年のことである。
 昭和60年(1985)からは、遠軽地区7町村主催の「オホーツク国際交流の集い」や教育町の「国際交流の集い」が盛大に開催され、町民との交流を深めている。 教育町の国際交流活動は、近年ますます活発になっており、その推進のための人材育成の必要性も高まりつつある。
 なお、平成2年(1990)に創設されたオホーツク国際漫画大賞も、世界各国からの応募作品が例年多数寄せられるなど、漫画を通じて国際交流に極めて大きな役割を果たしている。
 また、平成3年(1991)度にスタートした中学・高校生国際交流派遣事業は、その後も継続して行われてきている。


 
第5章   衣食住、その他 
  生活の向上  1970年代(昭和45~)の日本は高度経済成長がピークを迎え、「経済大国」の名が定着するとともに、人々の暮らしは総じて豊かなものになった。 国民の所得水準は上昇し、実質賃金は1950年代(昭和25年~)に比べ2倍以上となり、都市部はその他の地域(農山漁村)との生活格差も次第に小さなものとなった。 かっては独特の生活様式が根付いていた地方にあっても、交通手段やマス・メディアの飛躍的な発達により、物資と情報の双方が加速度的に流れ込むようになり、一部の例外を除き、人々は全国どこに住んでいても同室の生活を享受するようになった。
 教育町においても、昭和62年(1987)の湧網線廃止、平成元年(1989)の名寄本線廃止など鉄道輸送手段が失われるという大きな変化はあったが、その一方で自家用車の普及が進むなど車社会の到来で、基本的には他の地域との生活様式の差が生じることもなく、人々の暮らしが営まれてきている。


衣  衣生活については、「合繊メーカーが主導ファッション時代」と呼ばれた1960年代(昭和35年~)から「ユニフォーム・ファッション時代」と呼ばれた1970年代にかけて、現在の衣生活の基本的なかたちは定まり、衣服は、その素材・縫製から入手方法に至るまで、男女差と年齢差を別にすればほぼ同質のものが普及する既製服時代になった。 豊富なデザインと品種が出回ることにより人々の選択の幅が広がり、若者たちを中心にファッション化傾向が進むとともに、DCブランドなどブランド志向も強まり、流行のサイクルもめまぐるしいものとなった。 また、国内生産による衣服と名別に東南アジアや中国・韓国などの外国で生産された衣服が大量に出回るようになり、各地に普及した大手スーパーマーケットで簡単に、しかも廉価な製品を入手できるようになった。

食  食生活についても同様である。戦後しばらくの間は、日本人の一般的な食生活の様式は戦前からあった和洋折衷が基本であったが、給食の影響や欧米スタイルを好む若者たちの好みが支配的となり、1960年代(昭和35年~)以降はパン・肉食・酪農品を取り入れた洋風化が進んだといわれる。
 インスタント食品や冷凍食品、半加工食品のほか、スパゲティ、サラダ、ケーキ、ウィスキー、コーラ、コーヒーなどが広く好まれるようになり、都市、地方を問わず、家庭の食卓に日常的に並ぶようになった。 1980年代(昭和55年~)半ばには「グルメ時代」の到来がいわれるようになり、一方で輸入食品の増加、防腐剤や各種添加物の使用で食品公害が問題となって、自然食品や健康食品を求める人が増えた。
 学校でのパン給食の影響などもあって、「米ばなれ」の進んだ昭和40年(1965)ごろから、日本人の食生活がそれまでとは大きく変化してきたといえる。 電子レンジの普及などによる調理法の効率化は、食生活にかかわる変化であるとともに、住生活の変化も端的に示す事柄である。


住  住生活についても欧米風スタイルが確実に浸透した。 室内においては家庭電化が着々と進み、テレビ、ビデオ、ステレオ機器などは珍しいものではなくなり、椅子と手0ブル、ソファー、ベッドなどの家財もごく自然に生活に溶け込んでいる。 1戸建て住宅にせよ集合住宅にせよ、冷暖房に配慮の行き届いた生活環境が一般的なものとなった。 最近は木造モルタルから断熱材の使われた耐寒防火壁のサイディング工法の住宅が普及し、さらに、輸入住宅もみられるようになった。 和室は現在家屋の一部を占めるにすぎないが、畳敷きの部屋を愛する気持ちがまだ人々の間にも残っているのだろう。

交通・通信・情報  車社会の到来は、交通事故の発生など新たな悩みを人々にもたらすようになった。 2人に1人以上が運転免許を持つ時代である。 自家用車を駆ってのレジャーが日常化したことも、この20年余に生じた顕著な傾向であろう。
 また通信・普段の進歩変化は、目をみはるものがある。 テレビや電話はほぞ全戸に普及した。 テレビは多チャンネル衛星放送時代に入り、電話は家庭でも親子、ファックス付きになり、さらに、携帯電話の普及も著しくなっている。パソコンも家庭で利用され始め、インターネットで結ばれ、あらゆる情報が在宅のまま手に入り、また、発信できる時代になりつつある。 情報化社会を迎えて、人々の生活は大きく変化しようとしている。


 
第6章         信仰と宗教 
 現在、神道、仏教、キリスト教、諸教の教団は優に1000を超え、さらに、宗教法人として登録されていない「超宗教」の団体や個人を含めると、その数は驚異的なものになるといわれている。 戦後急速な発展をみた新興宗教はこの20年ほどのうちに、さらにその数を増し、一方で伝統的な宗教もまた持続的な活動を維持する中で、人々の信仰の多様化が確実に進んでいるというのが近年の傾向である。
 とはいえ、上湧別町にあっては、全国的な流れの影響をわずかに受けながらも、開基以来、次第に根付いてきた諸宗教が民俗信仰を含めて大きく変わることなく今日まで活動を継続している現況にある。
 
第1節   神 社 
 上湧別町には現在、上湧別神社をはじめ遙拝所を含めて10の神社がある。 屯田兵の入植以来、上湧別町の神社は次第に増えていったが、昭和も戦後を迎えてからは、その維持が難しくなり、水天宮の例にみられるように他の神社に合祀されるところも現れている。 とはいえ、地域住民を氏子としながら、現在もなお祭礼や催し物を通して多くの人々に親しまれていることに変わりはない。

(1)上湧別神社
 所在地は上湧別町字屯田市街地10番地の1,祭神は、天御中主神(あめのみぬしのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少名彦神(すくなひこのかみ)である。
 明治30年(1897)5月に屯田兵200戸の移住がなされたが、同年11月3日、本町中央の旧練兵場の一隅に1本碑を建立し、大国主命を祀って祭典を行ったのが創立の初めである。 大正10年(1921)7月15日、昭和天皇摂政当時の本道行啓を記念して神社を建立した。  同15年(1926)9月27日、札幌神社の分霊を奉斎し、本殿、拝殿、神饌所を建立。 さらに、同年、開村三十周年を記念し大鳥居を建立するとともに琴平神社を合祀した。
 昭和3年(1928)5月18日、内務省北社第12号により神社名が許可され、同年5月20日、初代社掌(宮司)として清水彦吉が着任。 同8年1933)9月30日、村社に列せられた。 同16年(1941)には本殿鞘殿、渡殿を新築した。 同28年(1953)4月、2代目宮司として清水義彦が着任し、同38年(1963)には北兵村一区の水天宮を合祀した。
 昭和51年(1976)には社務所と斎館が新築され、同54年(1979)6月には3代目宮司として鎌田正祺が着任。 同56年(1981)6月に手水舎を新築、同57年(1982)6月に社務所を増築、同58年(1983)8月に神輿殿を新築した。 同61年(1986)7月には本殿屋根葦替えと参道整備を行った。
 平成元年(1989)8月、鎌田正文が禰宜に着任。 同2年(1990)11月には御大典記念碑を建立、同6年(1994)9月には脇参道鳥居を建立した。
 平成8年(1996)御創祀百年を迎えるに当たり、総代会を中心に記念事業委員会が発足。 記念事業として同年9月4日北海道神社庁より献弊使の参向があり、臨時奉祝大祭、祈念碑建立(碑文御揮毫は、明治神宮宮司外山勝志)、斎館増築、社殿社務所渡廊下新築、境内整備等を敬神愛郷の念篤い人々の奉賛を得て実施した。 例祭は、9月29日に行われる。
 なお、境内には明治30年に演習用飲み水の井戸が掘られ、昭和50年代(1975~)まで使用されていたが、現在は「憩の水」として石碑を建てて保存している。 まあt、上湧別町開基八十周年記念の同51年には、境内にタイムカプセルを埋めている。


(2)中湧別神社  所在地は、上湧別町字中湧別49番地の1。 祭神は、大国魂神(おおくにたまのかみ)、少名彦神(すくなひこのかみ)、大己貴神(おおぬちのかみ)、八幡宮応神天皇、古峯神社、火供土神(ひぶせみのかみ)、大結神である。
 昭和16年(1941)に札幌神社分霊を奉安(『北海道神宮史』上巻)。 同26年(1951)9月に神社を建立、北兵村二区の八幡宮を合祀した。 例祭は、9月21日に行われる。


(3)神明宮  所在地は、上湧別町字北兵村三区131番地の1。 祭神は、天照大神である。
 明治36年(1903)に神社を建立。 昭和47年(1972)に開拓祈念碑を建立。 平成3年(1991)拝殿改築、同5年(1993)鳥居移転改築。 例祭は9月20日に行われる。


(4)北見天満宮  所在地は、上湧別町字南兵村二区71番地の1. 祭神は、菅原道真である。
 明治35年(1902)11月に神社を建立。 昭和3年(1928)に神殿を改築した。 例祭は、10月25日に行われる。


(5)川上神社  所在地は、上湧別町字南兵村一区570番地。 祭神は、天照大神である。
 明治35年(1902)に神社を建立。 昭和55年(1980)鳥居建立。 例祭は、10月17日に行われる。


(6)八幡宮  所在地は、上湧別町字南兵村三区443番地。 祭神は、応仁天皇である。
 明治36年(1903)5月に神社を建立。 例祭は、9月15日に行われる。


(7)光華神社  所在地は、上湧別町字開盛930番地。 祭神は、天照大神である。
 大正7年(1918)に神社を建立。 昭和50年(1975)神社改築。 例祭は、9月23日に行われる。


(8)富美神社  所在地は、上湧別町字富美1719番地。 祭神は、明治天皇で、大正2年(1913)~同5年(1916)の間に祀る。
 大正6年(1917)に神社を建立。 昭和61年(1986)神社改築。 例祭は、10月10日に行われる


(9)上富美神社  所在地は、上湧別町字上富美332番地。 祭神は、多賀神社分霊、大地主神。
 大正8年(1919)に神社を建立し、昭和2年(1927)に上湧別神社分霊。 平成元年(1989)拝殿改築。 例祭は、10月15日に行われる。


(10)旭神社  所在地は、上湧別町字旭170番地の1. 祭神は、大国魂神(おおくにたまのかみ)である。
 昭和11年(1936)に神社を建立。 同18年(1943)に改築した。 同51年(1976)に鳥居建替(3回目)。 例祭は、9月21日に行われる。


(11)水天宮  旧所在地は、上湧別町字北兵村一区78番地の1。 祭神は、安徳天皇、建礼門院、二位尼、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)である。
 明治32年(1899)水難の守り神として神社を建立。 本町最初の神社であった。 昭和38年(1963)、地区の総意で、上湧別神社に合祀し神社を廃止したが、例祭は9月29日に行われる。


(12)八幡宮  旧所在地は、上湧別町字北兵村二区318番地の2. 祭神は、応仁天皇である。
 明治34年(1901)に軍の神として神社を建立。 8月15日を例祭日としていたが、中湧別市街の発展と共に地区の総意で、昭和26年(1951)に中湧別神社に合祀し神社を廃止したが、例祭は9月21日に行われる。


 
第2節   寺 院 
 仏教には多数の宗派があり、上湧別町には現在5宗5ヵ寺の寺院がある。 いずれも明治初期以来続いており、時代の流れや社会の変化、また経済の発展に応じて、特色ある運営がなされてきている。

(1)寶球寺   所在地は、上湧別町字北兵村三区92番地の1。 寺号は、注連山寶殊寺、宗派は、高野山真言宗(網走支庁管内15寺)である。
 明治42年(1909)8月に米本龍巌が開基となり、屯田市街地に仮説教所を建立した。 阿智少元年(1912)9月に仮説教所を現在地に移転し、同15年(1926)1月12日に寺号公称認可を得る。
 昭和27年(1952)7月19日、2代目住職米本真順が死去し、米本真海が3代目住職となる。
 年間行事としては、星祭厄除祈願、正御影供、大師降誕会、奉賛会が行われている。
 創設世話人は、真鍋五郎、石川林作、槌賀喜次郎、香川好吉、梶原五郎、佐藤弥助、小野寺喜蔵の7人。 現住職は、鈴木洋である。
 昭和11年(1936)6月、創立二十五周年を期して新四国八十八ヶ所を創立した。 同41年(1966)6月に庫裡を改築、同44年(1969)7月に納骨堂を改築し、同63年(1988)6月21日に本道の大改築を行う。
 当山は、北海道33観音礼場の25番札所で、戦争で一時期閉じられたが、昭和60年(1985)から復活して、近年は巡拝者も年々増えて、1000余名となっている。 多くは関西・四国・九州方面、遠くはハワイからの巡拝者である。


(2)光照寺  所在地は、上湧別町字中湧別302番地の1. 寺号は紫金山光照寺、宗派は日蓮宗(網走支庁管内20寺)
 明治28年(1895)、行川日来が北兵村一区に布教所を建て開教拠点とする。 同37年(1904)、北兵村墓地入口に改築移転。 大正8年(1919)3月行川日来死去し、城守知順が住職となる。 同14年(1925)名寄線鉄道開通に伴い利便の地を求め現在地に移転。 昭和9年(1934)岩田順海は、老体のため法堂を去る。 同年、網走大盛寺従弟神田智随が住職となる。
 昭和17年(1942)に日蓮宗教会認可を得、同23年(1948)に寺号を公称して紫金山光照寺となる。 同25年(1950)に本堂を建立し、同41年(1966)控室・住宅を増築する。 同51年(1976)11月神田智随が死去し、神田智玄が住職となる。
 昭和56年(1981)8月、納骨位牌堂・書院を建立し、同61年(1986)旧国鉄用地を購入し境内を拡張1600坪となる。
 平成2年(1990)8月、大書院(葬儀場)を建立し、駐車場を設置。 同6年(1994)4月、副住職に神田智玄が着任。 同年7月、高柳友五郎・母セイの寄進により山門を建立し、また同年8月には庫裡の増改築を行う。
 年間行事は、祝禱会・節分会・鬼子母神祭・報恩御会式当を奉行。
 歴代総代は、高柳金五郎・大野鉄三郎・小畠義尾・高柳清治ら7人。


(3)明光寺  所在地は、上湧別町字屯田市街地201番地。 寺号は金剛山明光寺、宗派は曹洞宗(網走支庁管内42寺)。
 明治31年(1898)に説教所を建立し、佐藤徹仙が住職となる。 同32年(1899)、川端道固が住職となり、翌33年(1900)に本堂を新築した。 
 明治38年(1905)に公認説教所認可を得、同45年(1912)4月4日寺号公称認可を得る。
 大正7年(1918)5月に川端美智固が死去し、無住職寺なったが、同9年(1920)6月に川端道法が住職となる。
 昭和4年(1929)5月、川村真龍が住職となる。 同25年(1950)に本堂が新築落成。 同46年(1971)11月、川村尚道が住職となり、同50年(1979)10月に川村尚道が死去し、川村真龍が住職となる。 同57年(1983)10月、川村寿光が住職となる。
 平成元年(1989)7月に庫裡を新築し、同6年(1994)11月には山門を新築する。


(4)法徳寺  所在地は、上湧別町字屯田市街地313番地。 寺号は青龍山法徳寺、宗派は真宗大谷派である。
 明治29年(1896)、湧別村6号線東1線に真宗大谷派説教所を建立し、松平青龍が住職となる。
 明治32年(1899)12月、現在地に移転。 同34年(1901)5月に二階堂法城が住職となる。 同38年(1905)12月に寺号公称認可を得、同39年(1906)7月、青龍山号が認可される。
 大正12年(1923)4月27日、大沢法宣が住職となる。 昭和24年(1949)11月、本堂が新築落成。 同36年(1961)、大沢順英が住職となる。 同41年(1966)に庫裡を改築。
 平成4年(1992)4月、大沢睦が住職となる。 同7年(1995)6月に本堂大屋根改修。


(5)覚王寺  所在地は、上湧別町字屯田市街地311番地。 寺号は恵日山覚王寺、宗派は浄土真宗本願寺派である。
 明治30年(1897)、湧別屯田兵家族の精神修養道場として浄土真宗本願寺派説教所を建立し、同31年(1898)3月3日、市野得心が住職となる。 同40年(1907)6月7日、寺号公称認可を受ける。
 大正5年(1916)12月12日に市野得心が死去し、無住職寺となったが、同10年(1921)8月29日、松田堯円が住職となる。
 大正11年(1922)12月12日、松田堯円が死去し、無住職寺となり、同13年(1924)11月20日、古川湛然が住職となる。 同14年(1925)に梵鐘堂を建立。
 昭和15年(1940)12月1日に本堂庫裡が新築落成。 同17年(1942)には改題造園工事を行う。 同28年(1953)に本堂仏具を整備し、造園工事を行う。
 昭和32年(1957)4月、仏教婦人会を改め、新しい会員120人余による新仏教婦人会を結成し、真宗の伝道教化を進める。 同33年(1958)7月21日、門主大谷光照師が殉教。 同41年(1966)、ホーイスカウト上湧別町第1団を結成し、青少年の社会教育に努める。 団委員長を住職、隊長を福寿食の古川正道が務めた。 同45年(1970)10月、寺号公称八十年を記念して山門・納骨堂(慈恩堂)を建立、落成した。 同60年(1985)4月、仏教壮年会を結成して壮年男性の伝道教化を進める。 同63年(1988)から平成元年(1989)にかけて、老巧化した庫裡を改築し、冬期間の布教が可能となった。


 
第3節   その他の宗教 
天理教  本部は奈良県天理市、 祭神は天理主命である。 上湧別町には、北湧分教会、中湧分教会、湖湧布教所、上湧別布教所、名西布教所がある。
 北湧分教会は、上湧別町字北兵村一区144番地に所在。
 明治32年(1899)から稲山儀平によって布教を開始。 同44年(1911)2月4日、現在地に宣教所を設置(教甲第884号)し、所長に畑中伴右ェ門を迎えた。
 大正13年(1924)、畑中伴右ェ門の転出に伴い伊藤鉦一が着任し、その後、昭和10年(1935)に至って北湧支教会に昇格、同16年(1941)に北湧分教会と名称を変更した。
 昭和43年(1968)、神殿と教職舎を改築する。 同46年(1971)、伊藤喜美が3代教会長となり、平成2年(1990)9月15日、伊藤逸雄が4代教会長に就任した。
 上湧別町では、このほかに、生長の家、創価学会、霊友会、エホバの証人(ものみの塔)大和山中道場、阿含宗などの宗教活動が展開されている。

 
第4節  碑   上湧別町には、開基以来今日まで記憶され記録されるべき出き事があるたびに建てられてきた多くの碑が残っている。 石碑や信仰碑を中心に、現在町中の各所で目にすることのできる碑の数は110余に及んでいる。 どの碑も、上湧別町の歴史を知るうえで貴重な文化財である。
 これらのうちから祈念碑について、それぞれの碑名、所在地、建立年月日をまとめると、次の表のとおりである。 なお、信仰碑ほかについては省略する。
記念碑
 碑  名    所在地    建立年月日  
平和塔(日露戦役記念碑) 
表忠記念碑 
忠魂碑

嘉尚相羽先生碑

苦根楽杲
忠君碑
忠魂碑
日露戦役記念碑
摂政宮殿下御成婚記念
日露戦役記念碑
開村三十年記念碑
行啓記念碑
元屯田歩兵第4/5中隊
 本部跡
元屯田歩兵第4/5中隊
 中央練兵場址
御成婚/改元植樹記念碑
報恩記念
天碑奉安
飯田先生之碑
湧別土功組合記念碑
庄田萬里翁像(銅像)
忠魂碑
二宮金次郎像
記念碑(小宮農場買受)
侍従御差献記念
屯田句碑

庄田萬里翁像(石像。戦
 時中銅回収のため供出し
 石像となる。)
二宮金次郎像
平和塔
鎮座五十年/講和成立記
 念植樹の碑
重光句碑
植樹記念碑(上湧別小学
校六十周年・上湧別中学
校十周年)
開校五十年記念碑
中湧別小学校校歌
顕彰碑
水恵悠久
和碑
萩邨句碑
宮腰三次之碑
北湧尋常高等小学校跡
開基六十周年記念碑
上富美開基六十年・開校
 五十年記念碑
開拓碑
開拓記念碑
四つのテスト
タイムカプセルの碑
乳牛感謝之碑
富美開拓記念碑
屯田兵第4/5中隊狭窄
 射撃場の跡
屯田兵第5中隊練兵場お
 よび事業場跡

中湧別小学校創設の地
屯田兵射的場の跡
徳弘農場の跡

神社発祥の地水天宮の跡
旧開盛橋の跡
北海道厚生連病院発祥の
 地・久美愛病院の跡
丸玉工場の跡
店舗発祥の地
屯田兵陸軍経営部南派出
 所の跡
南湧小学校の跡
旭小学校の跡
上富美小学校の跡
屯田兵陸軍経営部と仮学
 校の跡
4中隊一区兵屋の跡
4中隊二区兵屋の跡
4中隊三区兵屋の跡
5中隊一区兵屋の跡
5中隊二区兵屋の跡
5中隊三区兵屋の跡
国有鉄道中湧別保線区之
 碑
四国中山町、友交の青石
 「友愛」之碑
道の駅中湧別の碑(建設
 省指定。 三井甚五郎寄
 贈)
湧別高等学校校訓碑(自
 ら求めよ)
町民憲章の碑
南兵村一区川上神社境内 
北兵村二区五鹿山山頂
上湧別神社公園
(旧練兵場)
屯田市街地上湧別小学校
校庭
上湧別神社公園内
開盛旭ヶ丘
中湧別神社境内
南兵村三区八幡宮境内
南兵村三区八幡宮境内
南兵村二区八幡宮境内
南兵村一区川上神社境内
南兵村一区川上神社境内
上湧別中学校前庭

上湧別神社公園内

南兵村二区天満宮境内
中湧別光照寺前
屯田市街地法徳寺前
富美小学校前庭
南兵村一区第2導水門
屯田市街地湧愛園前
北兵村三区天満宮境内
富美小学校前庭
開盛旭ヶ丘
上湧別神社参道北
上湧別神社公園内

屯田市街地湧愛園前


開盛小学校校庭
開盛光華神社境内
南兵村二区天満宮境内

屯田市街地明光寺庭内
上湧別小学校校庭


富美小学校校庭
中湧別小学校校庭
北兵村一区公園
南兵村一区頭首工
上湧別中学校校庭
上湧別神社公園内
南兵村一区23号西2線
上湧別中学校前
開盛市街生活館前
上富美小学校校庭

北兵村三区神社境内
北兵村一区遊園地内
上湧別町社会福祉会館前
上湧別神社公園
富美共進会場
富美小学校前庭
上湧別神社公園南

中湧別9号線北側

中湧別雪印工場跡
上湧別神社東南
中湧別市街西側
  8号線~9号線間
北兵村一区中通西1線
南兵村一区25号南
屯田市街地湧愛園

南兵村三区18号西2線
中湧別北町
南兵村二区中通入口

南兵村二区基線20号西

上富美
中湧別駅通り南

南兵村一区中通東
南兵村二区中通東
南兵村三区19号西
北兵村一区中通西
北兵村二区高台
北兵村三区7号線東
中湧別中町元中湧別駅構

中湧別中町文化センター
TOM前庭
中湧別中町文化センター

TOM広場

湧別高等学校前庭

役場庁舎前庭
明治40年10月17日
大正2年6月
大正2年10月31日

大正3年3月

大正5年5月30日
大正6年8月30日
大正8年7月
大正12年10月17日 
大正13年5月
大正15年7月
大正15年9月10日
大正15年9月10日
昭和2年5月29日

昭和2年5月(推定)

昭和2年6月
昭和3年5月
昭和3年
昭和5年5月
昭和6年11月
昭和13年5月28日
昭和15年10改築
昭和15年
昭和16年9月
昭和17年10月
昭和22年春

昭和24年9月20日


昭和26年6月
昭和27年6月15日
昭和27年11月

昭和31年9月23日
昭和32年11月


昭和37年7月7日
昭和37年7月23日
昭和39年11月3日
昭和42年5月
昭和43年11月3日
昭和44年5月16日
昭和45年8月
昭和47年7月
昭和47年9月24日
昭和47年10月15日

昭和47年11月3日
昭和49年6月
昭和50年5月15日
昭和51年10月
昭和51年11月16日
昭和52年10月10日
昭和58年11月

昭和58年11月


昭和58年11月
昭和59年12月10日
昭和59年12月10日

昭和59年12月10日
昭和59年12月10日
昭和59年12月10日

昭和60年11月30日
昭和60年11月30日
昭和60年11月30日

昭和60年11月30日
昭和61年5月
昭和61年5月
昭和61年5月

昭和61年9月
昭和61年9月
昭和61年9月
昭和61年9月
昭和61年9月
昭和61年9月
平成4年6月

平成4年10月14日


平成5年12月10日


平成5年12月10日

平成8年9月13日

 

第7編  交通と通信  
 第1章

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道 路 
第1節   概況 
北海道における道路整備  平成7年(1995)4月1日現在、北海道には高規格幹線道路(計画路線も含む。)約1816㌔㍍と、一般国道、道道、市町村道併せて約8万4713㌔㍍の道路がある。 そのうち基軸となる高規格幹線道路の整備は、全国bに比べ立ち遅れている。 北海道は、全国の約5分の1の面積を占めながら、人口は5%弱にとどまっている。 特に都市間距離が全国平均の約2倍にも及ぶ広域分散型社会を形成しているのが特徴である。 道路網の拡充とともに、時間距離を短縮する事が北海道の道路整備の大きな課題となっている。
 北海道内の旅客、貨物の輸送状況は、いずれも自動車交通が圧倒的に多く、しかも、さらに増加する傾向にある。 また、人口比による自動車保有台数、平均小旅行回数、平均走行距離いずれも全国平均を超え、車社会が進んでいる。 特に網走支庁管内は、旧国鉄の地方交通線の多くが廃止され、過疎化に伴って代替交通機関も十分行き届いていないため、道路の重要性はますます高まるものと考えられる。 そのうえオホーツク地方は自然と風土を生かした観光地として人気があり、余暇活動の活発化に伴って観光客の入り込み増も見込まれ、それらの地域とを結ぶ道路の整備も必要である。
 しかし、北海道においては、積雪寒冷の問題がある。 冬には走行速度の制限・減速・交通止め、交通事故などがたびたび発生し、安全・確実な道路交通の確保が重要な課題になっている。 交通不能区間の解消、除雪の完全実施、吹雪や地吹雪による視界障害の防止、スリップ防止などの対策が求められている。


道路計画  昭和63年(1988)に策定された第5期北海道総合開発計画では、高速性と定時性を確保師や水準の高い道路網の形成を目指すと共に、多様化する交通需要にきめ細かく対応し、交通拠点の機能強化、道路交通情報提供システムの整備、交通の安全性と確実性を図るぁ地形的な道路整備を施策の中心に掲げている。
 昭和29年(1954)にスタートした道路整備5ヶ年計画は、現在第11次(平成5年度~同9年度)に至り、投資規模76兆円を装蹄した事業展開を行っている。 北海道内においては、「①広さを生かし、多彩な交流を活発化する道路整備、②個性と活力ある北の地域づくりを支える道路整備、③安心とゆとりある暮らしを実現する道路整備、④豊かな自然を育み、快適な環境を創出する道路整備、⑤ぬくもりのある”ふゆトピア”を実現する道路整備」を重点的に取り組んでいる。 これと同時に、第10次積雪寒冷特別地域道路交通確保5ヶ年計画(平成5年度~同9年度)も策定され、除雪・防雪・凍雪害ぼうしについて事業を進めている。
 北海道が平成4年(1992)から同8年(1996)まで5年連続交通事故死ワースト1を記録するという最悪の状態の中で、第5次特定交通安全施設等整備5ヶ年計画(平成3年度~同7年度)が実施され、全国で2兆150億円が投資された、 北海道内では交通事故の発生状況を踏まえ、自転車歩行者道、交差点改良、登坂車線、付加車線、道路標識、道路照明、道路情報提供装置、自動車駐車場などの整備を中心に、現在は第6次の5ヶ年計画を推進中である。

   
第2節   道 路 
国 道  上湧別町内を通る国道は、238号と242号の2線である。 国道238号は、明治35年(1902)、仮定県道として開削されたのが始まりで、大正8年(1919)の「道路法」制定に伴い地方費道稚内・網走線と改称、昭和27年(1951)には国道に昇格して、2級国道網走・稚内線となり、同40年(1965)に現在の路線名に改称されている。
 国道242号は、明治25年(1892)、里道湧別・野上間道路として開削され、大正8年の「道路法」制定で準地方費道旭川・下湧別線となっている。 昭和28年(1953)には道道に昇格、道道生田原・下湧別線と改称されたが、その後遠軽・上湧別線、上湧別・」生田原・留辺蘂線と変遷を重ね、同50年(1975)に国道242号に昇格した。
 この国道2線は、早くから全線舗装されていたので、毎年の工事は舗装の補修や改良が中心である。 このほかに、国道238号では平成2年(1990)度にバス停車帯併置(1ヶ所)、同3年(1991)度に歩道設置(延長420㍍)同4年(1992)度に歩道設置(延長220㍍9,同5年(1993)度に歩道設置8円超450㍍)、同6年(1994)度に防雪柵設置(延長150㍍)、同7年(1995)度に橋梁補修、国道242号では同元年(1989)度に歩道設置(延長838㍍)、同2年度にバス停車帯併置(1ヶ所)、橋梁補修、同3年度から同7年度にかけて橋梁補修、側溝補修を行っている。 同4、同5年度は交差点の改良も行われている。
 これらの工事費に清掃、散水、助走、除雪などの維持管理費を加えた事業費は、国道238号が平成元年度400万円、同5年度3210万円、同6年度2910万円、同7年度219万5000円、国道242号が童顔年度1億1800万円、同2年度7880万円、同3年度7440万円、同4年度8300万円、同5年度7840万円、同6年度1億2030万円、同7年度1億206万円となっている。

 国道238号は、網走方面と紋別方面を結ぶオホーツクラインで、上湧別町内は東5線から6号線間で3.356㌔㍍である。 国道242号は、北兵村三区で国道238号とつながり、遠軽町で国道333号、留辺蘂町で国道39号と結び、さらに、内陸に通じる幹線道路で、町内延長は12.964㌔㍍に及んでいる。 広域分散型の北海道内にあって、国道は、上湧別町においても経済、文化、社会にとって欠くことのできない大動脈である。

道 道  道道は、国道と同様、舗装率が100%に達し、整備の中心は歩道の設置に移っている。 歩道の路盤を上げ、車道との段差をつけ縁石を設けるなどの工事を進めている。
 上湧別町内を走る道道は、上社名淵・上湧別線(遠軽町との町界~上湧別町459番地国道242号交点、16.932㌔㍍)、緑陰・中湧別停車場線(上湧別町旭199番地~上湧別町字中湧別460番地、5.394㌔㍍)、上湧別停車線(旧、上湧別駅敷地界~国道242号交点、138㍍)の3路線がある。 上社名淵・上湧別線は屯田市街地と遠軽町、緑陰・中湧別停車場線は紋別方面と上湧別町文化センターTOMにそれぞれつながり、札富美、富美、上富美、旭、緑陰地区との連絡道路として重要な役割を果たしている。
 平成に入ってからの工事をみると、上社名淵・上湧別線は富美小学校から上湧別橋まで3.6㌔㍍にわたって交通安全のための歩道(幅員2.5㍍~3.5㍍)を設置している。 緑陰・中湧別停車場線は、中湧別橋の架替え工事のほか路盤の特殊改良1種工事と舗装工事も完了している。


町 道  平成9年(1997)4月1日現在、町道に認定されている道路は253路線(総延長245.360㌔㍍)である。 町道は、道路としての要素となる交通量や人口密度などを考慮し、皇居王的性格を有する者を町議会で認定している。 具体的な要件としては、①町道間を連絡するもの、②国道、道道、他市町村道に連絡するもの、③主要地(公共施設等)と連絡するもの、④市街地形成場必要と認めたもの、⑤そのた町長が特に必要と認めたもの、などの項目が挙げられている。
 町道は、広域交通体系の一翼を担う国道や道道のような幹線道路と異なり、地域住民の日常生活に密着して、役場、商店街、バスターミナルなどの中核施設や文化センター、レジャーゾーンなどの地域振興施設などと一体となった機能を持ち、地域の活性化には欠かせないものである。
 町道の整備は、昭和50年(1975)以降、毎年7~8路線程度ずつ改良、舗装、凍雪外防止、特殊改良などの工事を進めてきた。 町の単独事業のほか農業構造改善、林道新設、農道整備、農村総合整備モデル、農地開発、草地整備改良、道営畑綜、国庫補助、交通安全整備、公社営畜産基地建設などの事業によりあらゆる国費、道費の導入を図りながら着実に進めている。 その結果、平成9年4月1日現在の改良率は45.1%、舗装率は33.5%まで上昇した。 全道平均には及ばないが、昭和50年ごろの改良率10%台に比べると、大幅に改善されている。


高規格道路  北海道は、本州に比べ市町村間の距離が離れている。 しかも、旧国鉄の地方赤字路線が相次いで廃止され、交通網の機能が低下している。 行政、流通、教育、医療などの施設は都会に集中しているため、年とその他の地域を相互に結ぶ自動車交通網の整備はますます重要になっている。 その役割を担っているのが高規格幹線道路である。
 北海道内の高規格幹線道路としては、国土開発幹線自動車道(北海道縦貫自動車道、北海道横断自動車道)と一般国道の自動車専用道路(日高自動車道、旭川・紋別自動車道、帯広・広尾自動車道、深川・留萌自動車道、函館・枝幸自動車道)の2種、7自動車道が整備されつつある。
 このうち旭川・紋別自動車道(延長140キロメートル)は、昭和63年(1988)に上越白滝道路(延長19㌔㍍)の整備に着手したのに続き、平成元年(1989)に旭川愛別道路(延長10キロメートル)、同3年(1991)に愛別上川道路(延長17キロメートル)、同6年(1994)に白滝丸瀬布道路(延長16キロメートル)と相次いで着手、工事を進めている。 このルートは、道央自動車道の旭川ジャンクション(連絡地点)を起点として旭川、比布、愛別、上川、白滝、丸瀬布、遠軽、上湧別を通り紋別まで道東、道北9市町村を結ぶものだが、実際の経路や着工年度が決まっていないところもある。 丸瀬布~紋別間(60㌔㍍)は、ようやく同8年(1996)度に基本計画路線への昇格が決定している。
 一方、これら全国レベルの高規格幹線道路と異なって、地域の連携による集積規模の拡大、圏域相互の交流、重要な空港・港湾などの交通拠点との連結を図る地域高規格道路の道路の整備の必要も高まった。 平成6年12月に交流促進型のお広域道路の中から地域高規格道路の候補路線(全国245路線)と計画度線(全国138路線)が指定された。 地域高規格道路は、4車線以上を確保するほか、自動車専用道路と同程度の機能を有し、地域の実情に応じ時速60~80㌔㍍以上で通行できる道路を目指している。
 候補路線は、地域高規格道路として整備を進める緊急性、妥当性などについて基礎的な調査を実施する路線で、計画路線は、地域高規格道路として整備を進めていくうえで必要な調査を実施する路線である。 網走支庁管内では遠軽北見道路(遠軽~端野、延長60キロメートル)が計画路線に指定されており、早期cv発行を目指し関係自治体は国に強く働きかけている。
 旭川・紋別自動車道と遠軽北見道路が完成すれば、旭川、札幌、紋別、北見、帯広、釧路などの主要都市と上湧別町との距離が一気に短縮されるものと期待されている。


「道の駅」  建設省が認定する「道の駅」は、一般道路に設けられた多機能型休息施設のことをいう。 車社会に対応した一般道路の利用者が、安全快適で魅力あるドライブが楽しめるようにするとともに、その地域の文化や歴史、名所、特産物などを紹介する地域情報の発信の場とするもので、建設省が平成5年(1993)度から事業を進めている。
 かっては鉄道の発達により、駅を中心に休憩・拠点施設が整備されていたが、きゅそくな車社会の進展に伴って、廃線となる地方の鉄道路線が増え、地域の拠点が失われ、そこに住む人にとっても、そこを訪れる人にとっても不便になってきた。 そこで道路に駅をつくることによって、休憩と情報発信などの機能を併せ持ったサービスエリアを確保、地域の活性化を図るというのがねらいであった。
 上湧別町では上湧別町文化センターTOM周辺が認定され、三井勘五郎の寄贈による記念碑も建立された。 初年度の認定は網走支庁管内では上湧別町だけで、北海道では14ヶ所、全国では103ヶ所だった。 平成9年(1997)4月末では網走支庁管内では6ヶ所、北海道で46ヶ所、全国で366ヶ所に増えている。
 上湧別町文化センターTOMを中心として漫画美術館、図書館、鉄道資料館休憩や飲食施設を備え、観光案内や電話連絡などの拠点ともなり、国道242号、国道238号を走るドライバーが利用できる。 オホーツク、阿寒、音ェ湯、層雲峡など観光名所の中継地でもあるので、商工業の活性化など地域振興に結びつけるための方策の確立に努めている。


 
第3節   橋 梁 
橋梁の概要  国道238号には1橋もないが、国道242号には7つの橋がある。 社名淵橋、開盛橋をはじめ開盛橋跨線橋、共進橋、出合橋、上湧別新橋、中央橋で、このうち昭和34年(1959)11月架設・開通した開盛橋が396メートルで最も長い。
 道道に架かる橋は、9橋を数える。 上社名淵・上湧別線には山中橋、花木橋、馬頭橋、上富美橋、神社橋、上湧別橋、無名橋の7橋、緑陰・中湧別停車場線には中湧別橋、川西橋の2橋がある。 このうち湧別川に架かる中湧別橋は、平成8年(1996)に架替え工事が完了している。 上湧別橋については同8年度から耐久度調査に着手しており、歩道橋の早期着工に向け北海道に対する働きかけを強めている。
 町道における橋は、62ヶ所に及んでいる。 橋を有する路線は50にもおよび、そのうち北兵村二区287番地と中ユベツ852番地を結ぶ10号線道路には最多の4橋が架かっている。
 昭和50年(1975)度から平成6年(1994)度までに河川に新しく架設された橋は24橋で、川別の架設橋では中土場川が最も多い11橋、次いで富美川、支流の沢川が各2橋、開盛川、共進川、川口の沢川、社名淵川、札富美川、南の沢川、共栄の川、熊の沢川、錦川各1橋である。


中湧別橋の架替え  湧別川をまたぎ中湧別市街と旭地区を結ぶ道道緑陰・中湧別停車場線の中湧別橋架替え工事が、平成8年(1996)に完成した。 この路線は網走方面からの国道238号と直結、国道242号ともつながり、遠軽・紋別方面へのバイパスとして利用され、以前から交通量が多かったが、鉄道路線の廃止や農水産物の流通、観光客の往来の活発化に伴って、さらに交通量が著しく増加した。
 しかし、昭和44年(1969)に架けられた旧中湧別橋は、幅員が5メートルしかなく大型車がすれ違うこともできず、通行車輌の多くがトラックやダンプであることから、交通に支障をきたしていた。 しかも、同56年(1981)の集中豪雨の被害を受け、橋脚が若干傾くなど老巧化も進んでいた。
 このため、上湧別町、上湧別町議会などが架替えの早期実現を関係機関に働きかけ実現にこぎつけたのである。 総事業費24億円を投じて架け替えられた新中湧別橋は、片側に歩道を設けた11㍍(車道8.5㍍、歩道2.5㍍)の幅員を確保、大地震にも耐えられる連続ラーメン構造が採用された。
 工事は、平成3年(1991)に測量を行い、翌4年(1992)に東側橋脚部分から着手、その後順調に進んだ。 延長383㍍で、国道242号との交差点から旭西3線の農免道路との交差点まで約1300㍍は幅員を1㍍広げ、歩道を整備するなど、円滑で安全な交通を目指している。 6年の歳月をかけて完成した同橋は、平成8年12月17日に渡橋式が行われた。


上湧別橋の歩道橋建設要望  昭和40年(1965)に架設された現在の上湧別橋は、鋼箱桁形式の永久橋で町内最長の600㍍(幅員6㍍)の規模である。 札富美と湧別町を結ぶ農免道路が完成したことから交通量が増加、また、ダンプなどの大型車輌の通行が多くなって、歩行者の交通事故の危険性が高まっている。 このため、上湧別町は、歩道橋を併設して通勤、通学の歩行者や自転車通行の人の安全を確保しようと、北海道に歩道橋建設を要望している。

 
第4節   除 雪 
 上湧別町は、比較的降雪の少ないところだが、平成7年(1995)暮れから同8年(1996)明けの間の2度にわたて来襲した大雪のように、町民生活が大きな打撃を受けることも少なくない。
 国道は網走開発建設部、道道は網走土木現業所が早期除雪体制を整えている。 町道については、町が除雪車輌11台(町有5台、民間借り上げ6台)を確保、総延長140㌔㍍の除雪を行っている。 除雪作業は大雪や吹雪などの場合、午前8時までに1車線の除雪を実施、そのあとに車線の幅を広げるという体制である。
 除雪作業の妨げになっているのは、車の路上駐車や看板など障害物の路上放置で、上湧別町は、毎年シーズン前に広報、旬報などを通じ町民に協力を呼びかけている。 また、雪捨て場は上湧別地区が上湧別橋下流左岸側、中湧別地区が中湧別自動車教習所北側(10号線北側)に設けられている。

 
第5節   関係機関・団体 
網走開発建設部遠軽道路維持事業所  大正15年(1926)、遠軽町に設置された網走土木事務所遠軽道路保護区員駐在所が前身である。 その後、網走土木現業所遠軽出張所に昇格、昭和26年(1951)7月の北海道開発局の創設と同時に、網走開発建設部遠軽出張所として新たに発足した。 同59年(1984)4月、機構改革に伴い網走開発建設部遠軽道路維持事業所と名称を変更し、現在に至っている。
 遠軽町をはじめ上湧別町、湧別町、佐呂間町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の7町村を管轄、国道238号、国道242号、国道333号の維持管理を行っている。 主な業務は、夏期間の舗装、歩道、橋脚、構造物、交通安全施設などの維持補修、冬期間の除排雪、防雪施設などの維持補修などである。


網走開発建設部遠軽道路建設事業所  昭和42年(1967)4月、遠軽町に網走開発建設部遠軽道路改良事業所として発足、同59年(1984)4月の機構改革で網走開発建設部遠軽道路建設事業所と名称が変更された。 平成4年(1992)4月には現在の新庁舎に遠軽道路維持事業所とともに移転している。
 遠軽道路維持事業所を同様遠軽町をはじめ上湧別町、湧別町、佐呂間町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の7町村を管轄、国道238号、国道242号、国道333号にかかわる改良工事などを業務としている。 現在は旭川・紋別間の高規格道路の建設の業務が主体となっている。


網走土木現業所遠軽出張所  管轄区は上湧別町をはじめ湧別町、遠軽町、丸瀬布町、白滝村、生田原町、佐呂間町の7町村で、道道の改良工事、河川の改修工事、砂防工事、漁港の整備、海岸保全工事とそれらの維持管理を行っている。 冬期間の道道の除雪も重要な仕事である。 上湧別町内では道道の上社名淵・上湧別停車場線、緑陰・中湧別停車場線、1級河川の中土場川、ヌッポコマナイ川、富美川、社名淵川を対象としている。

 
第2章

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運 輸  
第1節   旅客運輸
路線バス  上湧別町内では、国鉄湧網線、JR名寄本線が廃止される以前から、北見バス(株)、北紋バス(株)、湧別町営バス、上湧別町営バスが路線バスを運行していた。 運行路線は、遠軽~湧別間、遠軽~湧別~紋別間、上湧別~上富美間、中湧別~東芭露間、中湧別~計呂地間、紋別~北見間などであった。 鉄道廃止による代替バスとして、網走バス(株)、名士バス(株)も加わり、これらの既存路線バスと有機的に運行されている。
 路線バスは道路網の整備などにより、昭和35年(1980)ごろには1日の運行回数が上下合わせて80階近くにも増加していたが、同39年(1964)を頂点として次第に下り坂になった。 自家用自動車の普及が主な原因で、バス会社も赤字路線の廃止、運行回数の削減、ワンマンバスへの切り替えなどの合理化に努め、JR名寄本線の代替えバスが走り始めたころには52便に減っていた。
 上湧別町営バスは、それまで北見バスに委託して運行していた富美線(上湧別~上富美間)を、昭和46年(1971)4月から町営に切り替えた者で日3往復を運行、JR名寄本線が廃止された平成元年(1989)以降は、旭・川西線でも運行している。


ハイヤー 現在、上湧別町内では中湧別ハイヤー(株)と(株)遠軽ハイヤーの2社が営業している。 昭和29年(1954)10月、(株)遠軽ハイヤーは中湧別に営業所を開設したが、同50年(1975)に坂本忠義がその営業を引き継ぎ、中湧別ハイヤー(株)を設立して営業を続けている。 平成9年(1997)4月現在、従業員8人、車両5台で住民サービスに努めている。 昭和37年(1962)3月に営業開始した(株)遠軽ハイヤーの上湧別営業所は、川崎民雄所長以下2人の従業員で車両1台を運行している。

 
第2節  貨物運輸
貨物輸送の移り変わり  鉄道に対する依存度の高かった日本通運(株)上湧別、中湧別営業所は、徐々にトラックに貨物輸送を奪われたうえ、池内工業の原料入荷、製品出荷減少などにより昭和49年(1974)には上湧別営業所を閉鎖、中湧別営業所のみで業務を行っていた。
 その後、昭和53年(1978)12月1日から上湧別、開盛駅、同57年(1982)11月5日から中湧別駅でも貨物取扱が廃止になり、中湧別営業所は営業廃止となった。 平成9年(1997)現在、貨物は遠軽営業所に集約されている。


町内の運送業者  上湧別町内の運送業者は、平成9年(1997)4月現在、(株)沢口産業(吉田耕造社長)、(株)湧別運輸(横山幸輔社長)、(株)遠軽通運上湧別営業所(松田一夫代表)、㈲鈴木商運(鈴木龍夫社長)、下田急便運送(下田英夫代表)がある。 (株)沢口産業は、同4年(1992)4月、屯田市街地からJR上湧別駅跡地に社屋、車庫、倉庫を新築し移転している。 所有車両は45台、社員は55人で、一般貨物運送のほか土木・建築・産業廃棄物処理を行っている。 (株)湧別運輸は、35人の社員と40代の車両を抱えて一般貨物運送と建築事業を行っている。 同4年10月、南町から5の1に社屋、車庫を新築移転した。 (株)遠軽通運上湧別営業所は、同5年(1993)2月1日、4の2に営業所を開設して一般貨物輸送を行っている。 職員は7人で、ミルクローリー車4台を所有している。(有)鈴木商運は、昭和56年(1981)の創業で、2人の職員で運送業務を行っている。 下田急便運送は、同41年(1966)から小荷物運搬を行っている。

 
第3節 自動車の普及
自動車保有台数の推移  戦後の社会変革の中で特に著しいのは、車社会の驚異的な進展である。 経済が復興から高度経済成長へと急速に発展する中で個人の所得が増大、さらに、人や物資の輸送の高速化が求められ、自動車の生産増強とともに自動車の大衆化が進んだのである。 自動車は人々の生活を含めた社会の仕組みのあらゆる分野に広範囲に入り込み、様々な影響を与え、昭和45年(1970)ごろからは本格的な”自動車時代”が愛知着した。
 特に広域分散型の社会を形成、交通機関未発達の過疎地域を多く抱える北海道においては、自動車の重要性は全国を上回るものがあり、保有車両台数は急速な勢いで増加した。 例えば、上湧別町内の乗用自動車(普通車、小型車)は、昭和50年(1975)度に1034台であったが、平成7年(1995)度は2326台と約2.2倍に増加し、この間、軽自動車は約4.3倍、小型二輪車は約2.5倍に増加している。 また、貨物用車(普通車、小型車、被けん引車)は約1.1倍、特種(殊)用途車(特種用途車、大型特殊車)は約3倍になり、上湧別町内の保有総自動車台数は2倍を超えている。


自動車販売会社  自動車の需要が高まるにつれて、自動車の販売会社が徐々に地方の市町村にも進出するようになり、上湧別町内でも平成2年(1990)に2社が相次いで支店をオープンした。 北見トヨペット(株)トヨタピークル中湧は、同年12月12日に中湧別147番地にそれぞれ新社屋を建て業務を開始、取扱車種の販売競争を展開している。 同4年(1992)、オートワタナベが南町で新車・中古車販売業を始めた。

 
第3章 

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鉄 道  
第1節   鉄道の概要 
鉄道の変遷  明治43年(1910)に施行された「軽便鉄道法」に基づき、野付牛(現、北見市)~湧別間を結ぶ湧別(軽便)線が全線開通したのは対象5年(1916)11月21日である。 上湧別を徹工区では、まず下生田原(現、安国)~社名淵(現、開盛)が同4年(1915)11月1日、社名淵~下湧別(現、湧別町)が翌5年11月21日に開通した。
 湧別(軽便)線開通後の対象6年(1917)9月、名寄線敷設工事が発着地点の中湧別、名寄の両方から始まり、中湧別~興部間は同10年(1921)3月25日に開通、同年10月5日には全線開通した。
 さらに、阿智小9年(1920)、遠軽~旭川間を結ぶ石北線の新設が決定すると、中湧別開発期成会などが湧網線敷設運動に乗り出した。 官民一体となった関係地域のねばり強い要請活動が効を奏し敷設が決定、昭和10年(1935)10月10日に網走~卯原内間、同年10月20日に中ユベツ~計呂地間が開通し、さらに工事が進められた。 その後、日中戦争と第二次世界大戦により工事は10数年放置され、再開されたのは終戦後しばらくたってからである。 同27年(1952)12月6日に常呂~下佐呂間(現、浜佐呂間)間、翌28年(1953)10月22日に下佐呂間・中佐呂間間(現、佐呂間)間が完成して、ようやく湧網線が全線開通した。
 開業は大正4年の開盛駅(当時、社名淵駅)が最も早く、翌5年に上湧別駅と中湧別駅ができている。 その他の乗降場については多少の変遷はあるが、昭和40年代(1965~)ごろから旭、川西、共進、五鹿山、北湧の5ヶ所に設けられていた。 当時は名寄本線、湧網線合わせて貨車5本、客車31本(急行2本、普通列車29本)が運行され、貨物としては出荷が木材製品、農産物(玉葱、馬鈴薯)、入荷が木材(ラワン材、合板材)、石炭、肥料、飼料が中心であった。 旅客は朝夕の通勤、通学客が多かった。 また人気のSL(蒸気機関車)は、同50年(1975)ですっかり姿を消した。

国鉄合理化の嵐  急速に進む車社会の波が、国鉄から貨物も旅客も奪った。 また、東海道新幹線の建設資金などの莫大な投資が経営を圧迫し、国鉄を赤字に転落させていた。 その影響は次第にローカル(地方)線にも及び、赤字路線駅の業務縮小、無人化などの合理化が避けられない情勢になった。 国鉄は、赤字財政改称のため昭和53年(1978)4月、営業体制近代化計画を打ち出し、上湧別駅と開盛駅の合理化を提案した。 合理化案は、「上湧別駅は職員を2人とし、貨物の取扱を廃止、民間委託とする」、「開盛駅は手荷物などの取次から乗車券の発売まで駅付近の住民に依頼する」というもので、上湧別駅を一般駅から旅客駅に、開盛駅を旅客駅から停留場に格下げするという内容であった。
 この年の10月2日を実施日とする合理化通知を受け取った上湧別町は、5月26日に臨時町議会を招集し絶対反対を決議、6月には町長を議長とする「名寄本線を守る住民会議」を結成した。 同会議は3396人に及ぶ町民の合理化反対署名を携えて旭川鉄道管理局に対し強力な反対陳情を行った。 その後、「名寄本線を守る住民会議」と上湧別町議会は相次いで”条件闘争”に切り替えることを決め、国鉄側と交渉した結果、10月2日に実施は延期された。 しかし、国鉄側の大幅な譲歩を受入11月4日に合意、12月から実施されることになった。
 合意内容は、①近代化は今回限りとする、②開盛駅の荷物は、毎年10月1日から11月30日まで臨時取次をする、③上湧別、中湧別、開盛各駅の構内不用地は、上湧別町の希望により払下げ協議に応ずる、④中湧別駅の貨物土場は所要の整備を行い、駅前は上湧別町と協議し整備対処する、⑤開成駅前には、自転車置場を設置する、⑥4種踏切の3種化を昭和54年(19789)から実施する、⑦五鹿山通り踏切の地下道化については、費用の一部を負担する。⑧上湧別駅南側の踏切(墓地通り)を直線にする、⑨踏切道路の急勾配をなくすため、通信線のかさ上げを昭和54年度から実施する、⑩22号線に踏切は増設できないが、側道を設置する、⑪通学列車の増強実現に努力する、⑫上湧別駅の土場は必要に応じ利用させる、の12項目である。 これによって合理化に一応の歯止めをかけたかのようにみえたが、事実上はその後の赤字路線の切り捨てという最悪の事態に至る一歩であった。


「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」の制定  年々累積する巨額の赤字を抱えた国鉄は、昭和44年(1969)度以降3次にわたり再建策を講じた。 貨物駅の整理をはじめ旅客駅業務の民間委託、少人数利用駅の無人化もその一環だが、いずれも所期の目的を達成することができず、同54年(1979)度末の長期債務残高は12兆6894億円に達していた。
 このような国鉄経営の危機的状況打開の切り札として出されたのが、昭和55年(1980)公布の「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(以下「国鉄再建法」という。)であった。 この法律は、昭和60年(1985)までに、経営の健全性を確立するための基盤を確立し、速やかに事業収支の均衡を図ることを目標としていた。 具体的には経営改善計画の策定・実施、政務の棚上げ措置などとともに、特定地方交通線のバス転換を含み、直接地域住民とのつながりが深い赤字ローカル線の廃止・切り捨てをその内容としていた。
 同法案は、昭和54年春の国会に提出されたが、地域の歴史や発展に深く結びついてきた”住民の足”を奪い取ってしまうというものだけに、全国各地で反対運動が盛り上がり、国会審議も難航した。 しかし、結局は衆議院の強行採決によって可決成立し、翌55年12月に公布、施行された。
 この法律に基づき、赤字ローカル線(特定地方交通線)の整理や選定の基準、選定手順が決定された。 整理基準は、①旅客の輸送密度が1日1㌔㍍当たり5000人未満の路線、②旅客の輸送密度が500人以上2000人未満で、路線の長さが30キロメートル未満の路線と定められたほか、選定基準としては、「輸送密度が4000人未満の営業線(ただし、昭和60年度までは2000人未満)から、①ピーク時間、片道1000人以上のもの、②代替輸送道路が未整備なもの、③積雪による代替輸送道路の普通期間が0日を超えるもの、④普通旅客の平均乗車距離が30㌔㍍以上あって、輸送密度が1000人以上のもの、を除くとされた。
 こうした基準に沿って、営業線の延長や旅客の量、ほかの営業線との接続状況などを総合的に勘案して段階的に行うものとし、①営業距離が30㌔㍍以下で、かつ輸送密度が2000人未満のもの、②①以外のもので、営業距離が50㌔㍍以下であり、かつ輸送密度が500人未満のもの、を優先的に選定するというのがその内容である。
 この基準を単純に当てはめると、全国ローカル線88線区、約4000キロメートルが廃止されることになる。 北海道内では36線区のうち72%に当たる26線区、約2800キロメートルが廃止されることになり、実に従来の北海道内レールの半分が空白になってしまう。 網走支庁管内の路線では、興浜南線、渚滑線、相生線、白糠線、美幸線、万字線、岩内線の8線区を廃止、第2段階(昭和58年度~同60年度)として天北線、羽幌線、名寄本線、湧網線、池北線、標津線、士幌線、広尾線、宮内線、胆振線、瀬棚線、松前線、幌内線、歌志内線、深名線の15線区を廃止するというものであった。 このうち第1段階については、同年6月10日に運輸大臣に国鉄から正式に承認申請が出され、赤字線の整理廃止に着手することになった。 また、第2段階についても、翌57年(1982)11月22日に国鉄から運輸大臣に承認申請を出している。


駅の利用状況   残念なことに湧網線、名寄本線とも、赤字ローカル線で会った。 地域の過疎化と車社会の進展に伴って、国鉄を利用する乗客、貨物はともに年々減る一方で、特に貨物については上湧別、開盛駅で昭和53年(1978)12月1日から、中湧別駅で同57年(1981)11月5日からそれぞれ貨物の取扱が廃止されている。 
 乗車人員の推移をみると、湧網線と名寄本線の分岐点となっている中湧別駅が最も多いが、昭和50年(1975)度に1日平均743人であった乗車人員は、「国鉄再建法」が公布、施行された同55年(1980)度には542人に、湧網線が廃止された同62年(1987)度には346人に減少している。 さらに、名寄本線が廃止された前年の同63年(1988)度には335人へと落ち込んでいった。 乗車のピークであった昭和34年(1959)度の1013人に比べると、同50年度は26.7%、同55年度は46.5%の減少率になる。 上湧別駅、開盛駅もこれとほぼ同じ状況であった。
 昭和貨物の取扱量の減少も著しかった。 中湧別駅を例にとると、昭和50年度に1日平均で発送が41㌧、到着が48㌧の計89㌧であったが、貨物取扱が廃止される前年の同56年(1981)度には、発送が24.2㌧、到着が15㌧の計39.2㌧と半分以下に減っている。 同53年には上湧別駅、開盛駅の貨物取扱いが廃止され、中湧別駅に集約されたので、同年度98.8㌧、翌54年(1979)度121.3㌧と一時は増加したが、その後は激減の一途をたどった。


SL運行の夢  昭和50年(1975)ごろから網走支庁管内で完全に姿を消してしまったSL(蒸気機関車)を湧網線に再び走らせようという計画が、網走市の安藤哲郎市長を中心に盛り上がった。 安藤市長は同52年(1977)ごろから「湧網線にSLの姿をよみがえらそう」と訴えていたが、翌53年(1978)に入って網走市のほか湧別、上湧別、佐呂間、常呂、遠軽各町の首長が集まり国鉄へ陳情することを決め、同年3月7日には旭川鉄道管理局との懇談会を網走市内で開催した。 旭川鉄道管理局側の説明は、「1年間の収入が約6000万円しか見込めないが、経費は約10億円もかかる。 費用の負担は、国、国鉄各30%、地元40%の割合になる」というものであった。 6月8日には関係市町の代表が国鉄本社に出向き運行実現を要請したが、国鉄側は大幅な赤字が予想されることを理由に難色を示し、「検討中」の市制を崩さなかった。
 その後、昭和52年12月29日、国鉄再建の基本方針が閣議で了承されたのに引き続き、同54年(1979)7月2日には国鉄再建の基本構想が固まるなど、赤字ローカル線廃止などを柱とする合理化案が現実味を帯び、そして同55年(1980)12月27日に「国鉄再建法」が公布されるに至り、湧網線のSL運行計画は自然消滅し、幻に終わった。


幻のオホーツク本線  国鉄湧網線、名寄本線などの廃止問題で大揺れに揺れていた昭和56年(1981)10月28日、「オホーツク本線建設促進期成会」(会長・金田武紋別市長)が発足した。 釧路市から稚内市までの国鉄廃止対象路線、赤字路線を一本につなぎ、「オホーツク本線」(総延長約504㌔㍍)として沿線の再活性化を図るのがねらいであった。 その実現によって赤字ローカル線の廃止を断念させようと、沿線市町村の首長や議会、商工団体、農漁業団体などの代表も加わった。
 この測深機政界は、橋対象路線の第3セクター化構想の実現なども織り込みながら、国、国鉄、北海道に陳情を繰り返す一方、事務兼教育委員会迂回を発足させ、「オホーツク本線」の有用性を探った。 昭和57年(1982)10月27日には、その会員65人が参加、列車に乗り込んで実現への強力な示威運動行った。 一行は同日朝、湧網線の網走駅を2両編成の普通列車で出発、中湧別を経由して名寄本線、興浜南線と乗り継ぎ、雄武から北見枝幸までバスでつなぎ、さらに興浜北線、天北線、宗谷本線と乗り継いで同日午後7時半に稚内に到着した。 出発前には網走駅で「オホーツク本線を実現しよう」と気勢を上げ、途中の駅では住民たちと交歓会を開き、協力を求めた。
 しかし、やがてそれらの路線は廃止を余儀なくされ、この期成会は自然解散追い込まれ、オホーツク本線は、SL運行計画に次いであえなく立ち消えとなってしまった。


第2節   盛り上がる廃止反対運動 
上湧別町名寄本線・湧網線廃止反対住民会議の設立  国鉄の相次ぐ合理化構成に対し、上湧別町は、昭和53(1978)6月、町内各団体代表による「名寄本線を守る住民会議」(議長・出倉定夫町長)を結成、反対運動を展開した。 その後、湧網線の合理化反対も加え、「名寄本線・湧網線を守る住民会議」に改称、①湧網線の再合理化は絶対しない、②名寄本線準急「天都」の運行を廃止しない、などを旭川鉄道管理局へ強く申し入れるなどの活動を行った。
 しかし、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」が昭和55年(1980)12月に成立し、同法に基づき同57年(1982)11月22日、名寄本線と湧網線が第2次赤字廃止対象ローカル線として、運輸省に承認申請が出される事態となった。 このため、さらに幅広く結束を固め、強力な運動に取り組む必要に迫られ、同年12月15日に「上湧別町名寄本線・湧網線廃止反対住民会議」が設立された。 町議会議員全員を網羅したほか、新たに青年・婦人団体、福祉団体、PTAなど諸団体にも参加を呼びかけ、委員数は63人に増加し、名実ともに住民総ぐるみの活動組織に強化された。
 当時の上湧別町の試算によると、両線が廃止された場合の年間経済損失は、鉄道にかかわる交付税1040万円、町民税1863万円や国鉄職員給与分(156人)など合わせて約5億8537万円にも達する。 国鉄職員ばかりでなく、その家族や関連する企業の職員・家族などを含めると、約300人以上が町外へ転出するものと予想され、過疎化に拍車がかかることは明らかであった。 さらに、住民の足や貨物の輸送手段は困難をきたし、積雪寒冷の厳しい自然条件下での住民生活が不便を強いられることは必至であった。
 住民会議は、「国鉄自体の経営改善努力が先決であり、地方に赤字をしわ寄せするローカル線廃止政策は、地方の実情を全く無視し、犠牲のすべてを地域住民に押しつけるもので絶対反対する」と申し合わせ、①全町民署名運動の実施、②首相、運輸大臣への全町民ぐるみのはがき要請運動展開、③小・中学校、高等学校児童生徒の作文による訴え、④町議会における決議、⑤国会議員、関係大臣に対する要請打電、⑥中央陳情運動の展開、⑦町民決起大会の開催、などの活動方針を決めた。 この決定に基づき12月21日から始まった上湧別町議会で廃止反対決議を可決、翌昭和58年(1982)1月9日には上湧別町総合体育館で町民葬決起大会を開催、廃止反対の決議文を採択した。 両線の廃止が具体的に提案される以前の同56年(1981)1月に開いた廃止反対の町民決起大会では、参加者は約150人にとどまったが、この時は3倍以上の約500人の町民が白鉢巻き姿で集まり、住民の危機感の強さを示していた。


多彩な反対運動展開  住民の廃止反対運動は「名寄本線・湧網線廃止反対住民会議」の旗の下、様々な形で展開された。 その一つは、列車の利用率を高める運動であった。 第1次廃止路線に指定された千葉県の木原線が、沿線自治体住民の積極的な運動によって廃止基準(輸送密度200人未満)を上回る利用者を確保、廃止をまぬがれたという前例もあり、名寄本線の場合は1日1㌔㍍当たり、あと102人の利用者増で、廃止基準を突破できるという状況にあった。
 住民会議は、「乗って残そうローカル線」「切符の購入は町内の駅で」の廃止反対ののぼりを150本作り町内全街路灯に取りつけた。 そして名寄本線の収入に貢献できる「国鉄ギフトカード」の利用を促進した。 役場職員互助会(当時・奥谷進会長、全職員参加)が先頭に立ち、公務出張や私的旅行に活用した。
 ユニークな活動で注目されたのは、人力車キャラバンの派遣やカラオケ列車の運行である。 上湧別町商工会青年部(当時、竹部行義部長)が企画した人力車キャラバンは、昭和58年(1983)9月3日に行われた。 上湧別町内の若者約90人が参加、手づくりの人力車2台を使い、網走駅前から上湧別町農村環境改善センターまで1市4町を駆け抜け約100㌔㍍を走破した。 当日はあいぬくの小雨模様であったが、是認が「走れ!100㌔㍍人力車」と染め抜いた特製Tシャツを着込み、「湧網線廃止絶対反対」の鉢巻きを締め、朝5時に網走駅前を出発、上湧別町には午後5時半に到着した。 中湧別駅前では多数の住民が出迎え、盛んな拍手を送り、佐々木町長がここから人力車に乗り込み、最終地点の上湧別町農村環境改善センターへ向かった。
 湧網線廃止反対カラオケ列車は、中湧別駅が企画、上湧別町、湧別町が後援して実現した。 第1便は昭和59年(1984)10月21日、中湧別駅~常呂駅間を往復した。 上湧別町、湧別町の両議会議員らを含む約100人が2両編成の臨時列車に乗り込み、酒やジュースでのどを潤しながら次々とマイクを握って自慢ののどを披露、廃止反対の願いを込めた歌声を約4時間にわたって晩秋のオホーツクに響かせた。 列車を利用した存続運動は、このほかにも行われ、小学生や父母も参加した。 
 昭和58年5月、名寄本線と湯毛氈で2つの住民大会が開催された。 興部町トレーニングセンターで開かれた国鉄名寄本線外地方交通線絶対確保住民総決起大会には、沿線10市町村から名寄本線を利用して約1300人が参加した。 上湧別町農業協同組合婦人部長の福島よね子ら住民の代表が存続への決意を表明し、大会決議を採択した。
 湧網線の廃止反対住民大会は、中湧別駅から網走駅まで走る列車内で開かれた。 中湧別、計呂地、佐呂間の各駅から沿線の首長や住民代表、さらに、国会議員、道議会議員ら約180人が次々と乗り込み、2両編成の列車内は「ローカル線の灯りを消すな」の熱気にあふれた。
 このほか、昭和58年には、オホーツク海沿岸の200㌔㍍以上のコースで行われる恒例のイベント「インターナショナルオホーツクサイクリング第2回大会」の参加者に、上湧別町商工会青年部のメンバーがローカル線の廃止反対を訴える特製の”通行手形”1000個を配布し話題を巻いた。 また、翌59年10月に開催された第21回能取湖さんご草まつり(網走市・能取湖畔)では、湧網線利用促進綱引き大会が開催され、上湧別町のチームは子供の部で見事優勝、大人の部で3位に入賞した。
 全国的なニュースとして紹介されたのが、東京の銀座で行われたPR作戦である。 地元だけでの反対運動では不十分なので、全国の人たちに過疎地の窮状をよく知ってもらおうと、名寄本戦沿線10市町村の代表114人が昭和58年9月11日、大挙して東京へ繰り出した。 一行は、歩行者天国でにぎわう銀座3丁目で馬鈴薯1万袋(1㌔㌘詰め)、牛乳3000個をチラシとともに都民に配った。 「地元の鉄道が消えてしまうと、里帰りもままならなくなる」と在京の関係市町村出身者約70人がかけつけ手伝った。 同時に行った反対署名では約5000人の協力を得た。


ひと息つく廃止反対運動  国鉄が第2次廃止対象ローカル線として全国の33路線を運輸省に申請したのは、昭和57年(1982)11月22日であった。 この中には名寄本線・湧網線も含まれていたため、両線の沿線市町村は住民ぐるみの廃止反対運動を展開した。 運輸省は同59年(1984)6月4日に湧網線現地ヒアリング(公聴会)を佐呂間町で、翌6月5日に名寄本線現地ヒアリングを紋別市でそれぞれ開いた。
 両ヒアリングには運輸省の棚橋泰鉄道監督局国鉄部長が出席、第2次廃止対象路線の選定に至る経過を説明したあと、地元の代表が「オホーツク地方の厳しい自然環境の下、鉄道は通学、通勤、通院の足として欠かせない」「それでなくても過疎化が進行している地域であり、廃止されれば、地域の今後の発展は考えられない、自治体の存続にもつながる」「ローカル線の廃止は、中央優先の臨調路線による地方の切り捨て政策である」などと強く訴えた。 また、ヒアリングに先立って行われた代替バス路線の現地調査においても「冬期間は雪で道路がふさがれ交通が途絶するなど、バスの代替輸送は現実には不可能」などと指摘し、廃止方針の撤回を求めた。
 全国廃止対象33路線の現地ヒアリングと代替バス路線の現地調査を終えた運輸省は、6月20日に結論を出し、細田運輸大臣がその内容を発表した。 それによると、全国で6線の証人を保留し、27線を22日をもって承認するというものであった。 北海道関係では天北線、名寄本線、池北線、標津線の長大4線は実質的な存続を意味する保留という措置が取られ、関係者を安堵させた。 しあkし、士幌線、富内線、幌内線、歌志内線、瀬棚線は廃止が承認された。 同じ廃止承認でも松前線は、普通旅客の平均乗車距離が基準を上回ったため、対象協議会の開催を凍結することになり、事実上存続の道が開かれた。 湧網線のほか羽幌線、広尾線、胆振線は、①80㌔㍍を越える長大路線である、②関係粗町村が5つ以上で、協議開始まで調整の時間が必要、との配慮から、廃止対象の他路線より対策協議会の開始日を遅らせることになった。 しかし、国鉄、運輸省の廃止方針は揺るがなかった。 しかも、法律上は対策協議会開始後2年経過すれば、調整が付かなくても廃止できることになっていて、やがては廃止されることは避けられないというのが成り行きであった。


 
第3節   湧網線・名寄本線廃止 
湧網線の廃止  湧網線の廃止後の第3セクター方式や代替バスへの転換につて、その方策を審議する特別地方交通線対策協議会(北海道、北海道開発局、北海道運輸局、関係市町村で構成)は、地元参加の最終期限が昭和59年(1984)12月1日に迫ってきたことから、関係市町に応諾を求めていたが、湧網線確保対策協議会は参加拒否を申し合わせ、存続へ向けた廃止反対運動を継続していた。
 ところが、その後、「協議会へ参加しないと、地元の意見が反映できない」「廃止反対の基本方針を貫くためにも、協議会に参加すべきだ」などという意見が強まり、昭和60年(1985)1月20日に開いた「上湧別町名寄本線・湧網線廃止反対住民会議」の席上、代替道路冬季調査を実施することなどを条件に、協議会参加の方向に傾いたので同年2月15日、地区別地方交通線対策協議会の初会合が網走市で開かれた。 この会議では協議会の構成、会議規則のほか、各市町の議会議長が参考人として出席することを決める一方、代替バス路線について気象条件の厳しい冬期間の調査を行い、除雪問題の対応策確立を強く要望した。
 同協議会の厳冬期調査は、昭和60年3月4日に代替バス予定路線で行われた。 北海道運輸局、網走支庁、旭川鉄道管理局、湧網線沿線1市4町村の関係者24人が参加、網走~中湧別間に大型バスを運行し実施したが、当日は皮肉にも大変天気が良く温暖であったため、壮年2月11,12日の吹雪の模様を写真で説明、その厳しい自然環境への理解を求めた。
 昭和61年(19862月17日に網走市で開かれた第3回特別地方交通線対策協議会では、旭川結同管理局から第3セクターによる列車運行の続行やバス運行による代替輸送試算などが展示され、これについて協議したが、結局第3セクター方式を断念、うやむを得ずバス転換に同意することになった。 バス運行の主体や路線、運賃などについては今後の協議で検討することとしたが、実施に当たっては鉄道路線以上にきめ細かな運行確保により住民の便宜を図ることを申し入れた。
 中湧別~網走間を走る国鉄湧網線は、昭和10年(1935)10月10日、湧網東線の網走~卯原内間が開通し営業を開始して以来半世紀を超え、地域住民の通学・通勤・通院や観光客の足として利用されてきたが、同62年(1987)3月19日をもって51年間の歴史に幕を下ろすことになった。 オホーツク海沿いの網走国定公園内を走る観光路線として全国の旅行者に親しまれてきた名物の鉄路も、全国有数の赤字ローカル線という運命に抗し切れなかった。


名寄本線の廃止  運輸省が昭和59年(1984)6月20日、処分保留をしたことで、名寄本線は一時生き延びたかに見えたが、これはあくまで厳冬期調査が必要との地元要望を考慮して廃止承認を棚上げしたものであって、白紙撤回ではなかった。 その厳冬期調査は、翌60年(1985)2月19,20日に実施された。 運輸省の地方交通線対策室長と沿線市町村関係者ら約40人が名寄市から遠軽町までバスに乗り、要所要所で下車しながら各地の雪害状況を調査した。 しかし、初日19日の名寄市は昭五の気温でプラス3度と3月下旬並みの陽気となり、北海道北部の厳冬期のすさまじさを実感してもらうには、いささかうらめしい得大正んこうであった。
 名寄本線対策協議会は、その後も存続運動を続けていたが、中央段階では国鉄管理委員会のリードによる急速に「分割・民営化」の方向に傾き、ついに昭和60年7月26日、「鉄道の未来を拓くために」と題する国鉄改革に関する意見書が提出された。 それは全国を6分割し、国鉄を民営化するという大合理化案であった。 そして1週間後の8月2日、運輸大臣が名寄本線をはじめとする道内長大4線の廃止を発表した。
 沿線市町村の住民は「国民不在の地方切り捨てである」として強く反発、存続運動を継続した。 北海道議会でも長大4線の存続請願を可決、国に要請した。 しかし、国も国鉄も廃止の姿勢を全く崩さず、4線とも国が主催する特定地方交通線対策協議会のテーブルにつかざるを得ないところに追い込まれた。
 昭和61年(1986)7月15日、札幌市において保留解除となった長大4線の合同の特定地方交通線対策協議会が平から他が、あくまで存続を主張する沿線市町村と、第3セクター方式による運行続行、あるいはバス転換という方針を貫こうとする国と国鉄側とは真っ向から対立した。 しかし、各局は国と国鉄に押し切られる形で告えっ角分割・民営化が、翌62年(1987)4月1日から実施された。 北海道地域は、「北海道旅客鉄道株式会社」(JR北海道)として新しいスタートを切り、その移行措置として長大4線は、このあと2年間JR北海道が運行することになったが、廃止方針が撤回されたわけではなかった。

 民営化⑤発の長大4線代表者による中央要請は、昭和62年6月30日、7月1日の2日間にわたって行われた。 しかし、運輸省は「存続案を持たないで訴えられてもやりゆがない。地方も血を流す覚悟がなければ存続は到底無理」と答え、要請を拒否した。 このため北海道と長大4線の代表者は、北海道が対案を作り、それを中央に反映していくことを申し合わせた。
 北海道の対案づくりは、昭和63年(1988)2月早々には完了する予定であったが、大幅に遅れ、特定地方交通線対策協議会の2年間の最終期限(7月15日)が迫ってきた。 このため同協議会の開催を9月5日まで延ばすことを決めたが、この間、中央段階で名寄本線の一部(名寄・下川間と遠軽・紋別間)と池北線の第3セクター化構想が急浮上した。 この政治判断を受けて、北海道も次のとおり名寄本線の第3セクター化案を提示した。


一、遠軽・紋別間49.9㌔㍍、名寄・下川16.5㌔㍍を対象とする。
二、要員は遠軽・紋別間53人(うち20人はJRから出向)、名寄・下川間25人(うち20人はJRから出向)名寄・下川間25人(うち20人はJRから出向)
三、需要は昭和61年度実績とする。運賃は10年間でバス運賃と同水準まで引き上げる。
四、人件費はJR出向者について2分の1をJRが7年間負担する。
五、初期投資は遠軽・紋別間が11億3000万円、名寄・下川間が5億600万円。

 北海道の試算によると、地元負担の基金は遠軽~紋別間で31億円、名寄・下川間で16億円もかかるということであった。 そして、これを補うためには転換交付金からの基金積立額のほかに遠軽~紋別間は11億5000万円、名寄~下川間は8億円が必要という数字が出された。 こういう内容であれば、当然のことながら、「地元負担が大きすぎる」という声も高まる。 沿線市町村は、同年の10月5日、全線の存続を北海道知事に要請したが、逆に「これまで沿線市町村とともに北海道関係者が頑張った結果の政治判断である。 北海道としてはこれ以上のことはできない」と開き直られる結果となった。 沿線日体は、10月15日、名寄市で名寄本線対策協議会の総会を開いて、やむなく全線存続を断念することを確認、一部存続を求めてその関係市町村で中央と協議していく方針を決めた。
 これを受けて10月28日、紋別市、湧別町、上湧別町、遠軽町の1市3町の首長会で善後策を検討したが、結論が出なかった。 そして、11月1日に再開された遠軽・紋別間首長会の8時間に及ぶ協議で、北海道の第3セクター案を断念、バス転換に合意することを決断した。 これによって廃止反対闘争に終止符を打ち、68年間の名寄本線の歴史に幕を下ろすことになった。 苦渋の決断を正式に決める第4回名寄本線特定地方交通線対策協議会は11月24日に旭川市で開かれ、名寄本線の全面バス転換が決定した。 平成元年(1989)1月31日の第5回同対策協議会で、名寄本線は同年4月30日で廃止、5月1日から代替バス運行を開始するという日程が決まった。
 昭和50年(1975)以降廃止までの各駅の歴代駅長は、次のとおりである。
【中湧別駅】  山本利夫、片山丑太郎、板東勍、田中敏雄、神山鉄男、伊藤喜郎、熊沢博一 
【上湧別駅】  鈴木清次、中野保春、千葉辰雄、浪江良夫、境雄一、高屋鋪英之 
【開盛駅】  坂口富男、小野寺正義、田口源吉、山本勝義、佐藤伸一、西田熙 

 名寄本線・湧網線存続運動のあゆみは、次のとおりである。
 年 月  日   で    き    ご    と    
昭和55・2・20 ・「日本国有鉄道再建促進特別措置法案」を国会に上程 
 4・17 ・国鉄名寄本線、渚滑線、興浜南線の沿線市町村が「国鉄名寄本線外地方交通線対策協議会」を結成 
 5・15 ・名寄本線合理化反対を国鉄、北海道などに申し入れ 
 9・20 ・北見市で「国鉄地方交通線確保網走地区総決起大会」開催 
 11・11 ・湧網線廃止反対で中央陳情(~12) 
 11・20 ・国鉄名寄本線外地方交通線対策協議会が中央陳情 
 11・25 ・上湧別町労協が国鉄再建法案成立反対上湧別総決起集会を開催 
 12・23 ・湧網線存置を中央陳情 
 12・27 ・「日本国有鉄道再建促進特別措置法」を公布 
 56・1・12 ・網走支庁管内綜合開発期成会と国鉄名寄本線外地方線対策協議会が中央陳情(~13) 
 2・26 ・国鉄名寄本線外地方線対策協議会が中央陳情(~28) 
 8・4 ・高木文雄国鉄総裁が網走支庁管内を視察、併せて陳情活動 
 9・3 ・北海道知事が運輸大臣に対し、特定地方交通線に関する意見書を提出 
 10・28 ・オホーツク本線建設促進期成会の設立総会 
 11・16 ・オホーツク本線建設で中央陳情(~17) 
 57・1・26 ・湧網線確保対策協議会が旭川鉄道管理局に合理化問題で意見書を提出 
 2・20 ・湧網線営業体制合理化に条件を付けて同意 
 10・27 ・オホーツク本線建設促進期成会が網走~稚内間で試乗会 
 11・22 ・国鉄総裁が名寄本線など全国33選、道内14選の第2次廃止対象路線を運輸省に承認申請 
 12・15 ・上湧別町名寄本線・湧網線廃止反対住民会議を設立 
 58・1・9 ・名寄本線・湧網線廃止反対上湧別町民総決起大会を開催(501人参加) 
 1・31 ・網走支庁管内綜合開発期成会と名寄本線・湧網線、池北線の3線が合同で北海道と中央に陳情(~2・2) 
 2・1 ・湧網線存続要請で署名運動 
 2・2 ・名寄本線と湧網線廃止反対を訴える町内小・中学・高校生の作文を中曽根首相に送付 
 3・7 ・道議会が名寄本線・湧網線・池北線の存続要請請願を採択 
 5・13 ・興部町で名寄本線10市町村合同総決起首魁を開催(1300人参加) 
 5・27 ・網走支庁管内開発期成会で名寄本線、湧網線、池北線の存続を特別決議 
 6・16 ・湧網線廃止反対社内決起大会を中湧別~網走間の列車内で開催 
 7・18 ・網走支庁管内綜合開発期成会が北海道、北海道議会に名寄本線、湧網線、池北線の存続要求 
 7・20 ・国鉄第2次廃止反対中央陳情に町長、議長が参加 
 7・24 ・上湧別小学校の児童が廃止反対を訴え鉢巻き姿で名寄本線に乗り遠足 
 8・2 ・国鉄再建管理委員会が「昭和60年度までに赤字ローカル線廃止、格差運賃導入」と緊急提言 
 8・9 ・札幌市で国鉄地方交通線確保全道大会を開催、上湧別町から6人参加 
 8・10 ・湧網線利用促進ポスターを町内に提示(~24) 
 8・17 ・国鉄名寄本線を確保する沿線市町村議員連盟を設立(202人の議員が参加) 
 9・3 ・上湧別町商工会青年部による「湧網線廃止反対人力車キャンペーン」を実施 
 9・10 ・名寄本線絶対確保中央アピール団が状況、中央陳情と銀座での街頭アピールを実施(上湧別町から15人参加。~12) 
 9・24 ・湧網線確保対策協議会を開催 
 同    ・網走支庁管内綜合開発期成会が北見市を訪れた長谷川峻運輸大臣に名寄本線、湧網線、池北線の存続を要請 
 59・1・30 ・名寄本線外地方線対策協議会の市町村長会議を開き、14路線存続の方針から名寄本線独自の運動を進める方針を確認 
 3・3 ・湧網線存続対策議員連盟が発足 
 4・12 ・湧網線存続対策議員連盟が中央陳情(~13) 
 5・1 ・名寄本線、湧網線廃止反対「はがき運動」実施 
 5・10 ・名寄本線外地方線対策協議会、沿線議員連盟、住民組織が中央陳情(~11) 
 5・18 ・横路知事が札幌陸運局長に廃止反対の意見書提出 
 6・4 ・運輸省が湧網線現地実情調査を佐呂間町で実施 
 6・5 ・運輸省が名寄本線現地実情視察を紋別市で実施 
 6・13 ・角鉄14路線保全全道大会を札幌市で開催 
 6・22 ・運輸省が第2次廃止路線を承認、ただし名寄本線などは処分保留、湧別線は地元協議会凍結 
 6・24 ・上湧別町名寄本線、湧網線廃止反対住民会議が湧網線町民ツアーを実施 
 6・27 ・名寄本線阿智作協議会が中央関係機関へ存続の挨拶(上湧別町長参加。~30) 
 7・7 ・名寄本線・湧網線廃止反対住民会議総会、乗車利用促進の申し合わせ 
 7・10 ・湧網線廃止反対で中央陳情8~13) 
 7・18 ・自治省が第2次線の現地調査を紋別市で実施 
 8・8 ・湧網線利用実態調査を実施(~14) 
 9・9 ・湧網線利用促進綱引き大会を開催(網走市卯原内) 
 9~  ・湧網線利用促進、公務出張での国鉄理容、利用促進チラシ各戸配布などの運動を実施 
 11・27 ・湧網線廃止反対で中央陳情 
 12・10 ・北海道運輸局へ冬季実態調査を要請 
 60・2・15 ・第1回湧網線特定地方交通線対策協議会を網走市で開催 
 2・19 ・運輸省の荒谷地方交通対策室長らが名寄本線の厳冬季調査を実施(~20) 
 2・24 ・上湧別、遠軽両町主催で名寄本線利用ツアーを実施 
 3・4 ・湧網線特定地方交通線対策協議会による代替道路厳冬季調査を実施 
 4・18 ・名寄本線外地方交通線対策協議会、議員連盟が合同で中央陳情(~19) 
 7・17 ・名寄本線外地方交通線対策協議会、議員連盟が合同で中央陳情(~18) 
 8・2 ・運輸大臣が保留長大4線の廃止を承認 
 8・21 ・名寄本線外地方交通線対策協議会が臨時総会を開催 
 11・25 ・北海道議会が運輸省に長大4線存続を陳情 
 12・1 ・国の地方協議会に名寄本線はじめ長大4線が参加拒否 
 61・2・3 ・北海道が国鉄改革問題対策本部員会議で、国による鉄道網の確保など9項目の要請を正式決定 
 3・3 ・政府は国会への国鉄改革関連5法案wォ提出、3月14日、さらに関連2法案を追加提案 
 3・14 ・名寄本線など長大4線が、国鉄の分割・民営化後も新会社により2年間、暫定運行されることが閣議決定 
 4・7 ・国鉄が第3次廃止線として12線区、338.9㌔を承認申請 
 7・15 ・第1回名寄本線特定地方交通線対策協議会を札幌市で開催 
 11・28 ・国鉄関連8法案が成立 
 62・3・19 湧網線廃止 
 3・20 ・網走バスが代替輸送 
 4・1 ・国鉄が分割、民営化、北海道旅客鉄道株式会社(JR北海道)が発足 
 6・30 ・北海道と長大4線代表者が存続中央要請 
 7・23 ・名寄本線外地方交通線対策協議会総会 
 7・31 ・第2回名寄本線特定地方交通線対策協議会会議を開催 
 11・18 ・運輸省地方交通線対策室長と名寄線代表者との意見交換会を開催 
 11・28 ・名寄本線対策協議会市町村長会議を開催 
 63・1・8 ・北海道と名寄本線沿線市町村代表者会議を開催 
 4・5 ・名寄本線対策協議会が北海道に北海道案の早期提示を要請 
 4・14 ・北海道議会が長大4線存続で中央要請 
 4・30 ・名寄本線対策協議会主管課長が第3セクターに向けて遠軽~名寄間の現地調査と勉強会を実施(~5・20) 
 7・7 ・名寄本線対策協議会主管課長が先進地視察(~9) 
 9・5 ・第3回名寄本線特定地方交通線対策協議会会議を開催 
 9・7 ・中央レベルで長大4線問題が政治決着 
 9・19 ・名寄本線対策協議会を開催、北海道案の説明 
 10・5 ・沿線市町村長が北海道に全線存続を要請 
 ・10・15 ・名寄市で名寄本線対策協議会の総会を開催、北海道案への対応を協議 
 11・1 ・遠軽~紋別間の第3セクターによる存続を断念 
 11・7 ・興部町で名寄本線対策協議会を開催、第3セクター化断念とバス転換を確認、同対策協議会解散 
 11・19 ・沿線8市町村長が知事に対し北海道案について回答、バス転換に伴う要望事項を申し入れ 
 11・24 ・第4回名寄本線外地方線対策協議会会議を開催、バス転換で合意 
 12・8 ・名寄本線を確保する沿線議員連盟が総会を開催、解散 
平成元年1・31 ・第5回名寄本線特定地方交通線対策協議会会議を開催 
 3・8 ・採取となる第6回名寄本線特定地方交通線対策協議会会議を開催 
 4・30 名寄本線廃止 
 5・1 ・バス転換 

さようなら列車  昭和62年(1987)3月19日、いよいよ湧網線最後の日がやってきた。 中湧別と網走を結んで半世紀の歴史を重ねてきた湧網線は、翌20日から地域の足の役割を代替バスに譲る。 この日、旭川鉄道管理局は臨時列車「さよなら湧網号」を一往復運行し、主要駅で送別の行事を開催した。
 6両編成の湧網号は午前10次34分、網走駅を出発した。 始発の網走、途中の常呂、佐呂間、それに終着の中湧別の各駅では湧網線の発着に合わせて中学、高校生らが「蛍の光」を吹奏楽で演奏し、運転士らに花束を贈った。 午後1時6分、湧網号が中湧別駅に滑り込むと、待ち構えていた鉄道ファンや別れを惜しむ上湧別町民らがカメラやビデオで記念撮影、それが一段落するとサイゴンの思い出を脳裏に刻み込むように、列車内をのぞき込んでは車体に触ったりする姿がみられた。
 列車が到着した3番ホームには、存続運動にひと役買った手づくり人力車が、上湧別町商工会青年部の手によって展示されていた。 折返し運転の出発を前にして午後1時半から湧網線お別れ式が行われ、上湧別町の井尾悦也助役らの挨拶などのあと、さよなら列車の乗客代表と乗務員に花束が贈られた。 午後1時47分、1日駅長に委嘱された井尾助役が「出発進行」と合図をすると、湧別高等学校吹奏楽部が演奏する「蛍の光」のメロディーに乗って湧網号は静かにホームを離れ、網走駅へ向かった。 見送る人々の感慨もひとしおで、「長い間ご苦労さま」とねぎらいの言葉をかける人や「さようなら」と最後の別れを告げる人もみられた。
 名寄本線は、平成元年(1989)4月20日をもって、ついに廃止となった。 大正6年(1917)名寄、中湧別方面から着手し、同10年(1921)に全線開通した名寄本線は、地域の足としてばかりでなく、道央など北海道の内陸部とオホーツク沿岸を結ぶ大動脈として、68年間にわたって遠軽~名寄間を走り続けた。 遠軽駅始発7両編成の「お別れ列車」は、午前9治45分に発車したが、中湧別駅で上湧別町民や鉄道ファンがどっと乗り込み、それまで400人ほどだった乗客が一挙に600人近くにふくれ上がり、ほぼ満員となった。
 到着に先立ち、中湧別駅一番ホームで午前9時半からお別れ式が行われた。 関係者の挨拶は無念、愛借、感慨が入り交じった複雑なものであった。 午前10時5分、上湧別中学校吹奏楽部が演奏する「蛍の光」に送られ、列車は、プラットホームを離れた。 大正、昭和、平成と、名寄本線とともに生き抜いてきた人々の中には、そっと目頭を押さえる姿も見受けられた。


湧網線・名寄本線の転換関連事業交付金  湧網線と名寄本線の廃止に伴う国からの転換関連事業交付金は、代替バスの運行を円滑に行うために沿線市町村に配分されるもので、交付総額は、湧網線(89.8㌔㍍)が23億5400万円、名寄本線(143㌔㍍)が34億5938万5000円であった。
 このうち上湧別町への配分は、湧網線が1億3834万4000円、名寄本線が4億8374万6000円であった。 湧網線の内訳は、代替輸送確保基金(代替バスの赤字に対する国の補填がなくなる6年目以降の運転基金積立金)が1億903万9000円、転換促進関連事業交付金(転換により必要となるバスターミナル、駐車場などの整備費)が1740万5000円、初期投資相当分(バスの購入、車庫の整備費)が1190万円などであった。 名寄本線の内訳は、代替輸送確保基金が2億7079万円、転換促進関連事業交付金が2億415万6000円、初期投資相当分が880万円などであった。


湧網線の代替バス運行  昭和62年(1987)3月19日限りで廃止となった国鉄湧網線に代わり、中湧別~網走間を結ぶ代替バスが翌3月20日から運行された。 上湧別町では同日午前10時25分から中湧別駅前で運行記念発車式が行われた。 上湧別町や運行担当の網走バス関係者が出席、導入したばかりの新しい大型バスの前で代表者がテープカット、安全運行と地域の発展を祈り、新しい門出を祝った。
 運行されたのは中湧別線、佐呂間線、サロマ湖栄浦線、常呂線の4路線で、このうち上湧別町に関連する中湧別線は網走~中湧別間(佐呂間経由)が往路3便、復路便、佐呂間~中湧別間が往路4便、復路5便であった。 上湧別町内に設けられたバス停留所は中湧別駅の外フードセンター前、五鹿山入口、7号線、東1線、東4線、東5線などであった。 網走~中湧別間全コースでは既存の停留所50ヶ所を活用、さらに、52ヶ所を新設して102ヶ所になったが、平成8年(1996)4月現在では97ヶ所に減っている。


名寄本線の代替バス運行  国鉄湧網線に次いで、JR名寄本線も平成元年(1989)4月30日をもって廃止され、代替バスは5月1日から運行開始となった。 上湧別町における出発式は、同日午前8時半から中湧別駅前で行われた。 上湧別町とバス会社の関係者が出席、テープカットで新しい時代の幕開けを祝い、バス運行の安全を祈った。 会場には上湧別町が旭・川西線運行のために購入したマイクロバスと北見バス(株)が代替輸送用に購入した豪華な大型バスも姿を見せていた。
 代替バスを運行したのは北見バス(株)、北紋バス(株)、名士バス(株)の3社と上湧別町営バスで、北見バスは5路線7便、北紋バスは9路線9.5便、名士バスは7路線7便、上湧別町営バスは2路線2.5便を運行した。 遠軽町から名寄市までの距離は143㌔㍍にも及び、ダイヤのうち一部で中湧別、紋別、興部などの始発・終着便が設けられた。 バス停留所は全部で199ヶ所に設置されたが、上湧別町内の19ヶ所は、いずれも既存路線バスのものを利用した。 快速便41ヶ所の停留所のうち上湧別町内は中湧別、上湧別、開盛の3ヶ所が選ばれた。
 新たに 導入された町営バスは、旭・川西と上湧別中学校間を運行、住民の通学、通院の足を確保した。 上湧別町内を走るバスは52便から一挙に71便に増加、鉄道廃止によるサービス低下が生じないよう配慮された。 また、従来の列車料金より代替バス料金の報が割高となったため、引き続き安い定期券を利用する人については、その差額が補償された。


バスターミナルの設置  国鉄湧網線が廃止され代替バスが運行されるようになったのに伴い、昭和62年(1987)3月20日、旧中湧別駅舎の一角に、網走バスの待合室が設けられた。 翌63年(1988)5月には旧駅舎の並びに網走バスが330万円をかけ、白壁と三角屋根のモダンな造りの待合室を新築した。 乗車券売場と事務室、乗務員の休憩所を兼ね、湧網線にちなんだ記念テレホンカードなども販売した。
 平成元年(1989)5月1日には、JR名寄本線の代替バスの運行に伴い、北見バスが旧中湧別駅舎に北見バス待合室を開設、定期券、回数券の販売やバスダイヤ、運賃などの案内業務を行った。
 平成4年(1992)5月、北見バスト網走バスの両待合室は、旧中湧別駅周辺が上湧別町文化センターTOMの建設を中心に新しく整備されることになったため、その工事に先立ち老人憩いの家に一時移転したが、同センターの完成(平成5年1月)によって併設された中湧別バスターミナルに再び移転し、現在に至っている。
 平成元年12月には、屯田市街地の上湧別駅前バス停留所に待合所が新設された。 JR名寄本線廃止に伴うバス転換交付金の一部700万円を充てて、上湧別町が建設したもので、木造平屋建て役39平方㍍、待合室のほかトイレや自転車置場を備えている。 しゃれた三角屋根の建物中央上部には大きな丸時計も取りつけられ、バス利用者や地域住民から喜ばれている。


 
第4節   鉄道跡地の利用 
国鉄の跡地利用  昭和62年(1987)に廃止された湧網線(中湧別~網走間89.8㌔㍍)のうち、上湧別町内延長は、北兵村三区の3.4㌔㍍であった。 その線路用地約4.58㌶は、平成2年(1990)2月28日、上湧別町土地開発公社が国鉄清算事業団から購入し、42年度中に用地の隣接農家に農地として売却処分した。
 平成元年(1989)に廃止された名寄本線(遠軽~名寄間143㌔㍍)のうち上湧別町内延長は19.2㌔㍍で、その用地は駅跡地も含め約115.5㌶であった。 こちらは上湧別町が北海道旅客鉄道(株)から買収し、利用計画に基づいての活用、売却処分を行っている。

【湧別線(6号線~9号線)】
①湧別町が実施している広域農道(通称、リラ街道)の延長6号線~7号線間(リラ街道)と東2条幹線道路(7号線~9号線)を町道に、平成9年に完成、②公営住宅の建設、一部は民間と用地交歓し宅地分譲
【五鹿山道路~8号線~国道242号】
①東1条道路、団地内道路として利用、②宅地分譲(一部処分済み)
【湧別川~旭】
町有林に移行
【五鹿山道路~中湧別東3丁目道路】
①町営ゲートボール場、上湧別町文化センターTOM用地として活用、②一部民有地として処分
【中湧別東3丁目道路~10号線道路】
上湧別町文化センターTOM前広場として整備中(公園、イベント広場など)
【10号道路~チューリップ公園】
①当面農作業道路計画、②将来は産業道路として町道に移行予定
【チューリップ公園~16号線道路】
当面は個人に貸付け、将来は農業道路計画
【16号線道路~17号線道路】
①生活道路として整備、②残地は個人へ貸付け
【上湧別工業団地~22号線道路】
①当面は農作業道路(砂利道)として計画、②残地は個人へ貸付け
【22号線道路~23号線道路】
隣接の民間人に処分
【23号線道路~湧別川】
町有林として活用
【湧別川~開成駅構内】
農地として処分
【開成駅構内】
開盛広場(公園、分譲宅地、公営住宅、道路等)として整備中
【開成駅構内地~30号線道路】
生活道路として活用
【30号線道路~遠軽町界】
農地として処分


中湧別駅構内跡地の利用  約14㌶の広さを揺する旧中湧別駅の構内は、文化やスポーツ、生活など多彩な顔をみせる施設や空間に変わった。 その中心が上湧別町文化センターTOMである。 総事業費約25億円を投じた同センターは、鉄筋コンクリート2階建て、延4141.21平方㍍の広さで、752席の多目的ホールと各種会議室、図書館、漫画美術館を併設している。 JR名寄本線が廃止されてから2年半後の平成3年(1991)10月23日に着工、翌4年(1992)11月30日に完成している。 供用開始は、同5年(1993)5月であった。
 上湧別町内最大の建物となった文化センターTOMには、上湧別町役場の中湧別出張所と上湧別町商工会事務所が入居したほか、バスターミナルも併設された。 事務所、待合室を備えたバスターミナルは、バス回転場造成と合わせて9319万6000円をかけ平成5年1月にオープンした。
 旧中湧別駅の施設をそのまま利用した鉄道資料館が開館したのは、上湧別町文化センターTOMと同じ平成5年5月である。 旧駅のうち1番線から3番線までのホームの一部と跨線橋をそのまま保存、線路にはラッセル車1両と郵便物などを積んだ緩急車2両を展示している。 跨線橋の内部が資料館となり、駅長の制服、カンテラ、写真などの鉄道資料約300点を展示、約70年にわたる鉄道の思い出を伝えている。
 構内の北側には屋内、屋外の両ゲートボール場が平成2年(1990)に完成している。 広さ1375平方㍍の屋内ゲートボール場は2面あり、広さ1.38㌶の屋外ゲートボール場は10面あり、屋外にはあづまやとトイレも設けられ、総事業費2億9918万4000円であった。
 五鹿山道路と8号線の間は「いちい団地」として、1.5㌶の用地に公営住宅18戸を平成5年度から同7年(1995)度までに建設している。


上湧別駅構内跡地の利用  跡地約5.4㌶のうち約2.9㌶は、平成3年(1991)度から工業団地として造成、分譲した。 既に建築、運輸など上湧別町内の業者が移転してきている。 また、7562平方㍍は上湧別町農業協同組合の倉庫用地などとして貸与した。 同4年(1992)度には教職員住宅2戸、同8年(1996)度には単身者受託センチュリーハイツ6戸を建設した。 残地は道路用地を除いて売却する計画である。

開盛駅構内地の利用  跡地約4㌶のうち約1.6㌶については平成7年(1995)度から分譲宅地、小公園の造成・道路整備等を行っている。 宅地は同年12月から、18区画を分譲中である。

中湧別工業団地の造成  8号線の道路と川に挟まれた2.42㌶のうち1.5453㌶は、平成4年(1992)度から工業団地として造成、7区画を分譲した。 入居したのは石材、鉄工所、建設、水産加工などの業者である。

文化センターTOM前広場の整備  約5㌶の広さを持つ上湧別町文化センターTOM前広場の整備については、上湧別町の開基百年記念事業の一環として行うことになっている。 多目的運動広場や水辺公園、百年広場、百年の森などの構想が持ち上がっているが、上湧別町では平成8年(1996)度から具体的な検討に入り、早期着工を目指している。 同年には上湧別町開基百年記念塔の建設とその周辺の一部が整備された。

 
第4章   

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第1節   電報電話 
中湧別電報電話局の変遷  昭和44年(1969)5月23日、日本電信電話公社の全国即時化計画に基づいて中湧別電報電話局が開局した。 開局と同時に上湧別町をはじめ湧別一円が、交歓を通さずに直接全国と即時通話ができるようになり、電話加入者が急増した。 数次にわたる電信電話拡充5ヶ年計画は、北見地法においても電話の増設、自動化、マイクロウェーブ(極超短波)の開通を推進し、「ずぐつく電話」「ずぐつながる電話」が実現した。
 半官半民の公共企業体として昭和27年(1952)8月に発足した日本電信電話公社は、33年間の電信電話急成長期の中で量的拡充を成し遂げ一定の役割を終えた。 独占から競争への時代を迎え同60年(1985)4月1日から民営化が図られ、NTT(日本電信電話株式会社)として再発足した。


NTT北見支店への統合  日本電信電話公社の民営化により、電信電話事業にも市場競争の原理が導入され、合理化が急速に進められた。 S61年(1986)1月、中湧別電報電話局の電話交換業務が紋別電報電話局へ集約され、さらに、同63年(1988)8月には電話線の管理、期会の修理の業務も同局に移され、中湧別電報電話局には呼称の修理や顧客サービス、営業のみが残された。 これにより職員は42人から22人に削減された。
 平成元年(1989)4月、中湧別電報電話局は中湧別営業所に格下げされ、さらに、同5年(1994)8月、ついに中湧別営業所は廃止され、同支店に統合された。
 この間には電気通信設備のデジタル化(K長は平成5年10月から)も実現し、徹底的な合理化の結果、民営化直後1支社10電報電話局であった網走管内の組織は1支店2営業所に縮小され、社員数も1025人から390人と大幅に削減されている。


新電電の参入  電信電話業界に市場原理を持ち込むため、新電電の参入が相次いだ。 網走支庁管内では日本テレコム(株)が平成3年(1991)4月、第2電電(株)が同年5月、そして日本高速通信(株)が同7年(1995)1月にそれぞれ北見営業所を開設、網走支庁管内を営業区域として電話サービスを開始した。 K地区でも開設後2ヶ月から1年の間に各社のサービスが始まり、この新電電3社を合わせると加入者は上湧別、湧別両町の40%強に達している。 NTTと新電電各社の間では激しいサービス合戦が展開されNTTでは、数度にわたり市外通話の料金引き下げを実施している。
 料金やサービスの競争と相まってパソコン通信やポケットベル、自動車電話、テレビ電話など情報伝達の手段も目覚ましい進歩を遂げ、情報化時代に突入している。


電話の施設数  加入電話は、上湧別町内でも昭和50年代(1975~)から、1世帯1加入を超える普及率となり、同60年代(1985~)になると飽和状態に達した。 同60年度は2665台、平成8年(1996)度は2795台と、わずか約4.9%しか増えていない。
 そのうち公衆電話については、平成2年(1990)度に52ヶ所であったが、同8年度末では46ヶ所と若干減少している。


テレホンカードの普及  昭和57年(1982)7月に登場したテレホンカードは、電話をかけるのに硬貨をを持ち歩く必要がないので便利なうえ、昭和間ざま名デザイン、それも使用者の独創的なデザインを自由に施すことが可能なため、贈答品、記念品、趣味の収集品の対象ともなって人気を博している。
 NTT北見支店管内のテレホンカード販売実績をみると、昭和60年(1985)度は9万3736枚であったが、平成4年(1992)度は98万6196枚、同6年(1994)度は95万8350枚と実に昭和60年度の10倍以上に増加している。 平成5年(1993)度以降はやや減少傾向にあるものの同7年(1995)度も80万枚に近い販売実績である。 道してんでは昭和60年から網走支庁管内の素晴らしい自然景観や動植物などの写真をあしらった独自のテレホンカードをシリーズで発行し続けているが、平成5年5月には上湧別の名所、チューリップ公園をデザインしたテレホンカードを発行、上湧別町の観光PRにひと役買った。
 北見地法に初めてテレホンカード式の公衆電話が設置されたのは、昭和58年(1983)度である。 その後、急速に増設されて平成8年(1996)度末では、2262ヶ所の公衆電話全てがカード式に切り替えられた。


電報の取扱  かって緊急通信の主役であった電報は、いまではすっかり存在感が薄れている。 電報は電話やファクシミリ(ファックス)にその役割を奪われ、いまや、もっぱら祝電、弔電など冠婚葬祭用となっている。 このため、発信、着信とも1世帯当たり年平均1階を下回っている。

ポケットベルの普及  ポケットベルは、携帯用の呼び出し機で、相手がどこにいても電話でいつでも連絡できるという利点があり、ビジネス用として急速に普及した。 NTT鋪移動電話通信(株)(NTTドコモ)は昭和55年(1980)12月に網走支庁管内、北見市を皮切りにサービスを開始、順次サービス区域を拡大して上湧別町では同59年(1984)3月から使用できるようになった。 北海道テレメッセージ(株)が遠紋地区でサービスを開始したのは平成6年(1994)9月からで、NTT北海道移動通信網(株)と競って普及に努めているが、携帯電話の台頭でビジネス用を中心に頭打ちの状態である。 しかし、高校生などの間ではポケットベルを持つことが一つのブームになっている。 機能も、単に音で受信を知らせる単純なものから、最近では神道で呼び出したり、メッセージ受信も可能になり、さらに、送信ができるものまで登場、購入のほかレンタルシステムも採用されている。

自動車電話・携帯電話  北見地区で自動車電話、携帯電話のサービスが開始されたのは昭和59年(1984)10月からである。 上湧別町では平成2年(1990)3月からサービスが始まった。 ポケットベルと同様に無線技術を使って、携帯型の端末機から普通の電話と同じ機能で使える。
 少ない電波を有効に使うため地域を半径10㌔㍍程度に分割、同じ構造・装置を持つ者を細胞場に規則的に数多く結合して移動中にも使えるセルラー電話も登場している。 NTT北海道移動通信網(株)(NTTドコモ)によると、平成8年(1996)3月末現在の自動車電話、携帯電話契約数は、全道で約25万5000件、北見管内は約9000件を超えている。
 また、高速で走る自動車の中では使えないが、伝送能力に優れ、次世代移動体電話の一番手とされるPHS(パーソナル・ハンディホン・システム=簡易型携帯電話)が既に札幌圏ほか各地に登場しており、サービス地域の拡大が期待されている。


 
第2節   新通信システム 
次世代の通信システム  電気通信は、国民生活の向上や産業・経済の高度化、活性化を支える大きな原動力として、さらに、国際社会の発展を促す潤滑油として重要な役割を果たしている。 郵政省では、ニューメディア(新聞、放送などに代わる新しい情報伝達手段の総称)をモデル都市に集中的に導入することにより、地域の情報化を促進し、活力ある快適な地域社会の形成を目指す「テレトピア構想」(未来型コミュニケーション・モデル都市構想)を推進している。
 北海道内では札幌市、十勝広域市町村圏、紋別市、北見市、函館市がモデル都市に指定されているが、このうち紋別市では漁・海況情報、観光物産、行政情報サービス、北見市では行政情報サービス、地域文化情報、産業基盤支援情報、地域活性化の各システムを構築、活用している。
 古い歴史を持つ放送事業では、衛星放送、ハイビジョン、ケーブルテレビなどますます多様化が進んでいる。 衛星放送は人工衛星を使ってテレビ映像や高品質の音楽を放送する新しいシステムで、電波障害がなく、どこでも鮮明な画像・音声が受信できるので、難視聴対策や災害対策用としても期待されている。 NHKの衛星第1テレビ、衛星第2テレビが平成元年(1989)6月末に本放送を開始し、続いて民間のCS放送と日本衛星放送(JSB)の「WOWOW」が登場し、本放送を開始している。 この衛星放送は、ハイビジョン放送、PCM(放送衛星・通信衛星音声)放送など高画質、高音質の新しい放送を可能にする次世代の情報伝達手段として注目されている。

 ハイビジョン放送は、走査線の数が従来型テレビの数倍あり、横長のワイドな画面によりきめ細かな映像と高音質を提供する臨場感あふれる次世代のテレビである。 世界に先がけ、わが国で開発され、平成3年(1991)から試験放送が行われている。 さらに、現行のテレビ放送の高画質化を実現したクリアビジョンは、同元年からサービスが開始されている。
 ケーブルテレビ(有線テレビ放送)は、1本のケーブルで通寿のテレビ放送のほか放送衛星、通信衛星からの番組提供を受け、数10チャンネルのサービスを受けることができる。 札幌市や帯広市などで既に発足しており、将来は双方向機能の活用などにより、高度情報社会における第3の中核的情報通信基盤として発展していくことが期待されている。
 市町村内の一部の区域を放送エリアとするコミュニティ放送(FM放送)の制度も平成4年(1992)1月に整備され、同年12月に全国で初めて墓伊達市内でコミュニティ放送が始まった。 その後、旭川市などでも開局、北海道内各地で開局の気運が高まっている。


マルチメディアの波  映像・音声・文字など様々な表現媒体を取り入れた複合媒体のことをマルチメディアと称している。 地域が広大で人の移動にも時間がかかる不便な北海道の弱点を克服する強力な通信手段として、パソコン通信がいま最も注目されている。 個人の趣味的な情報交換を超えて、行政やビジネスなどいろいろな分野で新たな可能性を生み出している。
 パソコン通信は、急速に普及しているパソコン(パーソナルコンピュータ。個人使用を目的とする小型コンピューターの総称)や高機能のワープロと通信ソフト・モデム(デジタル信号をアナログ信号に変換する装置)があれば、既存の電話回線を使い、世界中・日本中のどこでもいつでも気軽に情報を受発信できる。 テレビや新聞と違って双方から情報提供ができるのが魅力で、例えば、商品情報を得て買物を楽しみ、支払はクレジットカードで行うといったことも可能である。
 NTT北海道死者が平成8年(1996)3月現在でまとめたところによると、北海道内に設けられている電子掲示板は35ヶ所で、このうち網走支庁管内ではあばしりネット(網走市)、ガリンコネット(紋別市)、美幌農業館ビボネット(美幌町)、流氷ネット(北見市)、MUSER(上湧別町)の5ヶ所である。
 平成5年(1993)10月に開局した上湧別町のMUSER(代表・桜庭望)は、会員数50人で生涯学習をテーマに24時間運用している。 また会員有志により同7年(1995)4月、インターネット上にホームページ「オホーツクレビュー」は、網走支庁管内にある市町村の四季折々の風景や地域の催し物を写真や動画を使って英文で紹介したり、オホーツク特産品抽選会を行うなど楽しい試みにも挑戦している。
 インターネットは、世界各国の商用パソコン通信ネット、研究所・大学の企業用通信網(LAN)などを接続したネットワーク(情報通信網)の集合体の総称である。 パソコンと結んでデータをやり取りするホストコンピューターは、全世界で約1602万台(平成9年1月現在)といわれ、前年同期に比べ70%以上も増加している。 


データ通信  専用回線やデジタル(数次や数値で表示したり、情報を符号化して処理すること)交換網などの通信回線を使って、離れた場所同士で送受信するのがデータ通信である。 データ通信には専用サービスのLAN(企業用通信網)と公衆サービスのVAN(附加価値通信網)があり、LANは企業や団体が自分たちのために通信網を構築している。 銀行のオンラインサービス(コンピューターの中央処理装置と端末装置が通信回線などを介して直接接続され、処理を直ちに行う方式)やスーパーなど流通業者のPOS(商品のバーコードを利用して販売、在庫、仕入れ管理を行う方式)などに使われており、上湧別町内の銀行やスーパー、商店などにも導入されている。
 一方のVANは、通信網の途中にコンピューターを設置することにより、情報の蓄積を行い処理や仲介、提供などのサービスを行うものであり、必要な時に多数の端末に出力するするというような付加サービスができるので、公衆サービスなどに使われることが多く、特に最近は国際的利用が進んでいる。


ファクシミリの普及  ファクシミリ(ファックス)は、事務の効率化とともに正確な情報伝達ができ、しかも操作が容易なこともあって、テレックス(入力盤で打ち込んだ伝聞を公衆通信回線で送り、相手方のタイプライターに打ち出す)や電話に代わって広く使われるようになった。 日本の電気通信サービスでは電話に次いで普及している。
 電話ファクシミリサービスが開始されたのはS48年(1973)8月1日からで、はじめは事業所を中心に広がったが、最近では自宅での個人利用が急速に増えている。 事業所の案内や個人の名刺に、必ずといってよいほどファクシミリ番号が印刷されていることからも、ほとんどの事業者にファクシミリ番号が印刷されていることからも、そお普及ぶりが分かる。 Kでは官公庁はもちろん、ほとんどの事業所にファクシミリ装置が設置されているとみられている。 また、上湧別町農業協同組合では平成4年(1992)に農家全戸にファクシミリを導入し、農業情報サービスなどを行っている。


 
第3節   郵便局 
郵政事業の進展  地域社会における身近な期間として郵便局がある。 北海道内には約1600の郵便局が配置されているが、全道は212市町村なので、1自治体当たり平均7.5局もある。 これらの郵便局は湯便、郵便貯金、簡易保険の3大事業を担い多様化するニーズに応えている。
 電話やファクシミリ(ファックス)、パソコン通信など情報通信手段がいかに発達したとはいえ、誰もが利用でき、人と人との心がふれあえる身近な手紙の良さは、決して失われていない。 しかし、若者を中心に文字離れが進み、手紙を書くことが少なくなっている。 郵政省は、こうした風潮になんとか歯止めをかけ、昔ながらのゆかしい生活文化を継承し高めようと、毎月23日をごろ合わせで「ふみの日」と定め、手紙を書く運動を展開している。 各地の湯便局では、手紙教室や手紙作文コンクールを開催しているほか、趣味の郵政友の会を育成し、手紙の素晴らしさを広めている。 上湧別町内では、上湧別小学校に郵便友の会が結成されている。
 最近は送達にファクシミリを活用した新しい郵便システムのレタックスが登場、利用範囲が広がっている。 郵便局の窓口や郵便ポストばかりでなく、自宅や職場の電話、ファクシミリからでも差し出すことができる。 慶弔扱いも可能で生花やお金を送るフラワーレタックス、マネーレタックスもある。 メッセージは速達扱いで届けられるので早い。
 各地の特産品や名産品をゆうパック(郵便小包)で送る「ふるさと小包」も、全国的にヒットしている。 この新システムは、昭和58年(1983)度から取扱が開始された。 平成6年(1994)度において、北海道で1830品目、約377万6000個を取り扱った。 全国では8300品目、約1939万個に達している。 産地直送にこだわって地域特産品の販路拡大や地方公共団体の「1村1品運動」「待ちおこし・村おこし運動」などをバックアップし、地域振興に少なからぬ貢献をしている。 北海道内における人気品目ベスト3はサケ、アスパラガス、メロンである。 なお、同8年(1996)11月1日からはチルドゆうパック」の取扱を始めている。
 また、地方色豊かな風物を題材とするふるさと切手、ふるさと絵はがき、エコーはがきなどを発行、販売している。 平成4年(1992)度、同7年(1995)度と2度にわたり上湧別町のチューリップ公園の写真をあしらったふるさと絵はんがきが登場し、話題をまいた。
 コインがなくても切手やはがきが買える「ふみカード」(プリペイド(前払い)カードのデザインに地域の風物を取り入れ、地域の活性化に役立っている。 500円、1000円、3000円の3種類があり、すべての郵便局の窓口、または一部の郵便局に設置されている郵便切手・はがき発売機で使える。 ホワイトカードもあるので、地方自治体のイベントの記念品や慶弔のお返しにも使われている。
 郵便貯金に関連して平成3年(1991)1月に「国際ボランティア貯金」が導入された。 この制度は、湯便貯金の里湯社から郵政大臣が委託を受け、その貯金の利子の20%を寄付してもらい、民間レベル(NGO)の海外援助の充実に充てるもので、食糧、医療、教育をはじめとする様々な分野で、世界ォ開発途上地域の福祉の向上のため活用されている。 同8年3月31日には、制度創設からわずか5年3ヶ月で全国の加入者が1945万人を突破した。
 このほか郵便貯金は、国の”第2の予算”ともいわれる財政投融資の主要な原資として運用されている。 融資先は地方公共団体や住宅金融公庫、日本道路公団などで、社会資本の整備をはじめ国民生活の質の向上、地域の活性化、景気対策などに欠かせない税源である。 地方公共団阿智への有志は主に学校の建設、道路や下水道の整備、公営住宅の建設などに活用されているが、低利なので利用しやすいのが特徴である。
 時代の要請に応じて簡易保険は種類も内容も充実してきた。 特に高齢化社会を迎え、保障と貯蓄を兼ね備えた保険や介護保険金付きなども注目されている。 2020年には国民の4人に1人が65歳以上になると予想されることからも、健康に対する国民の関心が極めて高くなっている。
 そのため、郵政省では、昭和3年(1928)から引き続き実施しているラジオ体操のほかに、平成5年(1993)度から健康増進支援事業に乗り出している。 同7年度は成人病予防(健康料理教室、成人病予防セミナー)、介護支援(介護に関するセミナー、介護技術講習会)、健康づくり(パークゴルフ大会、ゲートボール大会、健康づくり講演会、バレーボール大会)などの各事業を全国各地で行っている。

(1)上湧別郵便局  (上湧別町屯田市街地213番地)
局舎  上湧別郵便局は、明治35年(1902)12月に湧別屯田受取所として開設された町内で最もフルイ郵便局である。 大正15年(1926)7月、屯田市街地に局舎を新築したのに続き、昭和34年(1959)9月には屯田市街地に局舎07番地に再び局舎を新築している。 しかし、これも老巧化し、旧局舎近くの213番地に793.8平方㍍の用地を確保、同56年(1981)8月4日に3度目の局舎を新築した。
 鉄筋コンクリート平屋建て353.9平方㍍の近代的な新局舎は、身体障害者用玄関スロープ、身障者用専用筆記台を設けたほか、玄関は自動扉とし、手洗器、冷水器を備え、ロビーはすべてオープンカウンターを採用した。


職員・設備  12人の職員が内務、外務体制で勤務している。 車両は軽自動車4両、自動2輪4両、自転車1台を鋪湯している。 局内設備は、自動支払機(CD)1台、貯金端末機1台、保健端末機1台、郵便追跡バーコード入力端末機1台を備えている。 同局区内のポストは7ヶ所に設置、切手類販売所は4ヶ所に委託している。 また上湧別郵便局は開盛、富美両無集配局を受け持っている。

事業経営状況  平成7年(1995)度の業務では、郵便業務が通常郵便33万5000通、切手はがき販売代3289万4000円、小包が引受け6186個、配達4380個、ふるさと小包の引受け6438個となっている。 保険業務は、保険1295件、保険料1307万7000円を取扱い、契約保有保険金額は27億1927万円であった。 貯金業務は、為替振替が8866件、4億2447万4000円を取扱ったほか、郵便貯金が預け入れ9126件、8億8118万円、払出し8339件、10億1829万6000円であった。

(2)中湧別郵便局  (上
湧別町字中湧別570番地)

局舎  中湧別郵便局は、大正9年(1920)、下湧別4号線から中湧別に移転し開局した。 局舎は開設以来41年経過した昭和36年(1961)12がついに新築され、2年後には付属舎として車庫を増築した。 しかし、老巧化し手狭になったため同61年(1986)10月、現在地の788平方㍍の用地に鉄筋コンクリート2階建て、387平方㍍の新局舎を完成させた。 身体にハンデを持つ人たちへの配慮など親しみやすい施設づくりを目指した。

職員・設備  15人の職員が内務、外務体制で勤務している。 車両は軽自動車3両、自動2輪4両、自転車2台を保有している。 局内設備は、自動支払機(CD)1台、貯金端末機1台、保険端末機1台、郵便追跡バーコード入力端末機1台を備えている。 同局区内の郵便ポストは12ヶ所に設置、切手類販売所は10ヶ所に委託している。

事業経営状況  平成7年(1995)度の業務では、郵便業務が通常郵便20万6000通、切手はがき販売代3595万2000円、小包が引受け1万393個、配達7784個、ふろさとj小包が引受け1896個となっている。 保険業務は保険2758件、保険料2265万2000円を取扱い、契約保有保険金額は49億9233万円であった。 貯金業務は、為替振替が2万1892件、21億3644万円、払出1万3018件、19億7723万円であった。
 優良な経営が認められて昭和42年(1967)から同48年(1973)の間に湯便、保険、電気通信、郵政などの書く業務で大臣表彰を受けている。


(3)富美郵便局  (上湧別町富美600番地)
局の変遷  
 昭和4年(1929)7月、富美郵便取扱所として開設された富美郵便局は、同13年(1938)4月に待望の集配所に昇格した。 その後、同29年(1954)6月に局舎を新築するなど地域の郵政業務を担って郵便、保険、貯金書く業務を進めてきたが、同61年(1988)6月に無集配局へと格下げされた。 職員は2人で、貯金保険共用端末機を備えていた。
 平成9年(1997)6月23日、簡易湯便局として郵便業務を上湧別農業協同組合富美支所に委託することになった。


事業経営状況 平成7年(1995)度の郵便業務は切手はがき販売代金が207万8000円、小包引受けが563個、ふるさと小包引受けが462個となっている。 保険業務は、94件、保険料57万円を取扱い、契約保有保険金額は9170万円であった。 貯金業務は、為替振替が797件、1493万円、郵便貯金が預け入れ1206件、1億3493万9000円、払出し128件、1億5473万4000円であった。 

(4)開盛郵便局  (上湧別町字開盛)
局舎  開盛郵便局は、開盛郵便取扱所として昭和13年(1938)11月に開局した。 2んんごに無集配特定郵便局にに指定され、現在に至っている。 道道路線変更に伴い同35年(1960)に新築され、さらに、同55年(1980)9月、227.44平方㍍の用地に94.77平方㍍の新局舎が建てられた。 職員は2人、自動支払機(CD)1台、貯金端末機1台が稼働している。

事業経営状況  平成7年(1995)度の郵便業務は切手はがき販売代金が332万5000円、小包引受けが475個、ふるさと小包引受けが532個となっている。 保険業務は、保険176件、保険料87万4000円を取扱い、契約保有保険金額は1億9490万円であった。 貯金業務は、為替振替1906件、2695万5000円、湯便貯金が預け入れ2930件、3億166万円、払出し2609件、3億67万円となっている。

 
第5章       新聞・放送等 
第1節   新 聞
 音と動く映像で即時的に情報を伝えるテレビが、1世帯1台を上回る普及を示している今日でも、活字メディアの新聞は生活に欠かせない情報伝達を担い、各戸に宅配されている。
 上湧別町内で購読されている新聞は道内ブロック紙の「北海道新聞」、「北海タイムス」、全国紙の「読売新聞」、「朝日新聞」、「毎日新聞」、「日本経済新聞」、などで、最近は「道新スポーツ」、「日刊スポーツ」、「スポーツニッポン」などのスポーツ紙も購読されるようになった。 このほか、「遠軽新聞」、「北見新聞」など地方紙が郵送で入っている。 これら一般紙に対し、業界新聞や団体の機関紙も一部にみられる。
 地域密着を目指す各新聞は、網走管内版を設けるなど地元ニュースの発掘、伝達に努めており、上湧別町に関連する記事が掲載されることも少なくない。
 上湧別町内には3つの新聞取扱店がある。 平成7年(1995)5月30日現在の取扱い状況は、次のとおりである。
【新妻新聞販売店】(上湧別町字中湧別中町)
「北海道新聞」1150部、「朝日新聞」22部、「日本経済新聞」16部、「道新スポーツ」40部、「日刊スポーツ」3部
【小路谷新聞販売所】(上湧別町中湧別中町)
「読売新聞」150部、「北海タイムス」100部、「毎日新聞」12部、「スポーツニッポン」50部
【遠藤新聞販売所】(上湧別町字屯田市街地)
「北海道新聞」880部、「北海タイムス」30部、「朝日新聞」35部、「読売新聞」30部、「日本経済新聞」20部、「道新スポーツ」25部、「スポーツニッポン」20部、「日刊スポーツ」25部 
第2節   テレビとラジオ 
NHKテレビ放送の受信契約  NHK北見放送局のまとめによると、平成7年(1995)度の上湧別町内における受信契約総数は2084件で、このうち415件が衛星放送の契約である。 上湧別町内の契約数はわずかながら減少傾向にあり、ピークであった昭和58年(1983)度の2228件に比べ、約6.4%減っている。 しかし、衛星放送についてはきゅそくなの尾を示し、有料化された平成元年(1989)度の45件痛いし同7年度は9倍を超え、同年度契約総数の約19.9%を占めている。 同7年3月末現在の上湧別町の住民基本台帳による世帯数は2346戸であるので、1世帯当たりのテレビの契約数は約0.88台となるが、実際には1世帯で2~3台のテレビを入れているところも少なくないのが実態である。
 上湧別町内で視聴できるテレビ放送は、NHK綜合、NHK教育のほか、HBC(北海道放送)、STV(札幌テレビ放送)、UHB(北海道文化放送)、HTB(北海道テレビ放送9とNHKの衛星第1放送、衛星第2放送、ハイビジョン放送、それにCS放送、日本衛星放送のWOWOWである。 札幌、小樽、苫小牧、旭川、函館各地方で放送されているTVH(テレビ北海道)は平成9年(1997)現在、網走支庁管内は放送地域に入っていない。


ラジオ放送  NHK第1、NHK第2をはじめHBC、STV、NHK・FM、AIR-G、短波放送などが聴ける。 釧路沖地震や阪神淡路大震災などの経験から災害時のラジオ情報の有用性が改めて見直されている。
 自動車の大衆化、普及とともにカーラジオを聴く人が増えた。 また、ラジオの小型化が進み、ラジオ・カセットテープレコーダー・CDを一体化したCDラジカセの普及に伴って、中学、高校生を中心に若者の聴き手も急増している。 特に最近では聴取者の参加番組が数多く登場、より身近な放送になりつつある。


 
第3節  ビデオとCD 
 CDはコンパクト・ディスクの略で、音声、映像、情報資料などを収録できる。
 CDは視聴覚関連、情報関連の利用範囲が急速に広がって、コンピューター用の記録媒体であるCD-ROM(CDを使った読み出し専用記憶装置)は、未来の電子出版として注目され、データベース(情報や資料を特定の形成で組織的に集積し、コンピューターに入れたもの)などが発売されている。
 ビデオは、ビデオテープ・レコーダーの略語として使われる。 ビデオテープは、テレビの録画、再生用の磁気テープである。 絵の出るレコードとも称される音と映像が記録されているビデオディスクも登場したが、現在は、光ディスクを使用するレーザーディスクが普及している。 パソコンを使ってテレビ画面で遊ぶゲームはおなじみだが、教育、学習や宣伝のほか、独特の造形表現にも活用の路が開かれている。
 音楽などの分野でカセットテープに取って変わったCDをHじめ、映画、テレビのビデオやゲームソフトは、レンタル店の登場によって家庭の中にすっかり浸透した。 また、ビデオテープによって、必要なテレビの番組を録画して楽しむ人も多く、ビデオ装置やファミコンが家庭の必需品の仲間入りをしている。
第6章    電 気 
第1節   北海道電力((株)中湧別営業所  
湧別地方の電力  主として釧路川水系の発電所から送電されているが、需要増や緊急災害などに対応して昭和51年(1976)から瀬戸瀬発電所の増設拡充工事を実施して、万全の体制を整えている。 これらの電力は、中湧別変電所を遠隔操作して運転管理し、上湧別町内の家庭や事業所などに送電されている。

北海道電力(株)中湧別営業所の廃止  中湧別電業所は、長い間Ⅱ型電業所として、愛知田などの場合には実際に電気工事なども行う幅広い業務を受け持っていたが、昭和53年(1976)組織の刷新により料金支払、電気に関する相談などの事務的窓口業務のみのⅠ型電業所に変更された。 さらに、平成5年(1993)3月31日をもって中湧別電業所は廃止された。 自動車の配備などにより機動化が進み、道路網、通信網が整備されたため、業務を遠軽営業所に統合した。
 上湧別町内の電力需要は、家庭及び向上の電化設備の充実とともに増加してきている。


 
第8編 

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福祉・保健衛生・労働  
第1章  福 祉 
第1節   概 説 
福祉の基本  すべての人が幸せに満ちた暮らしを営むことのできる状態を生み出し、それを維持することが福祉の大前提である。 上湧別町では、福祉6法(「生活保護法」、「児童福祉法」、「老人福祉法」、「母子及び寡婦福祉法」、「身体障害者福祉法」、「精神薄弱者福祉法」)の積極的な運用を柱とし、併せて社会福祉団体の援助を強化しながら、その実現に努めている。 近年、福祉(社会福祉)の考え方とそのサービスの供給・提供は、一層重要なものとして広く認識され、児童、母子、老人、障害者など、様々なハンディキャップを持つ人々を含めた社会をノーマル(普通)なものとして考えるノーマライゼーション(ともに暮らし、ともに生きぬく社会)の立場を基本とした福祉施策がさらに求められている。

高齢化社会と福祉  高齢化社会の到来と、それに伴う老人福祉政策の充実については特に留意されるべきである。 上湧別町の総人口に占める高齢者人口(65歳以上)の比率は、昭和55年(1980)には12.5%であったが、平成2年(1990)には19%、同8年(1996)には22.9%と、年を追って増えている。 5人に1人は高齢者という上湧別町の高齢化は、網走支庁管内、全道及び全国の平均を大きく上回り、その急激な信仰に阿智する具体的な対策は、既に第3期総合計画(平成3年)並びに上湧別町老人福祉計画(平成5年)にも盛り込まれ、在宅福祉サービスおよび施設福祉サービスの提供が実行に移されている。
 また、高度経済成長期以降の生活水準は、戦後の混乱期に比べると格段の向上をしてきた。 しかし、様々な事情から生活の困窮を余儀なくされる人々が存在することは事実で、それらの人々への公的機関による手厚い援護は今後とも必要である。


生活保護の現況  上湧別町では昭和54年(1979)を境に被保護世帯数が100世帯を割り、その後、減少を続けて平成2年(1990)からは60余世帯台で推移している。 被保護世帯人員数の総人口に占める割合では、昭和60年(1985)の2%を境に減少を続け、平成8年(1996)には1.24%となっている。 しかし、減少傾向にあるとはいえ、上湧別町の生活保護率は、網走支庁管内平均に比べると約1.5倍と高く、管内2番目となっている。
 昭和60年以降、平成8年までの生活費扶助別支給状況は次のとおりである。
 今後は、保護を必要とする人々への生活扶助をはじめとする行政の側からの援助はもとより、自力更生意欲を促し、それを支えるための職業紹介を含む幅広い手当が必要となる。 ケースワーカーと民生委員による対象世帯への指導は、これまでにもなされてきているが、今後も各地区ごとのきめ細かな対応が欠かせない。


 生活費扶助別支給状況
   年度
扶助費  
昭和60   61  62    63 
金額  構成比  金額  構成比  金額  構成比  金額  構成比 
生活扶助
住宅扶助
教育扶助
医療扶助
生業扶助
冬期薪炭費 
 62.143
6.101
1,308
729
60
2,.93
 84.8
8.3
1.8
1.0
0.1
4.0
 53,536
5,669
758
533
20
1,193
 86.8
9.2
1.2
0.9
-
1.9
 48,087
5,305
1,023
780
20
5,152
 79.7
8.8
1.7
1.3
-
8.5
 44,820
5,452
527
1,224
143
741
 84.7
10.3
1.0
2.3
0.3
1.4
 計  73,271  100.0  61,709  100.0  60,367  100.0  52,907  100.0
   年度
扶助費 
平成元  2  3  4 
金額  構成比   金額 構成比  金額  構成比  金額  構成比 
生活扶助
住宅扶助
教育扶助
医療扶助
生業扶助
冬期薪炭費 
 44,792
5,199
670
870
100
646
 85.7
9.9
1.3
1.7
0.2
1.2
 42,655
4,745
342
606
250
751
 86.5
9.6
0.7
1.2
0.5
1.5
 41,113
4,552
418
407
65
512
 87.3
9.7
0.9
0.9
0.1
1.1
 43,400
5,375
689
1,137
25
437
 85.0
10.5
1.4
2.2
-
0.9
 計  52,277  100.0  49,349  100.0  47,067  100.0  51,063  100.0
   年度
扶助費 
 5  6 7  8 
金額  構成比  金額  構成比  金額  構成比  金額  構成比 
生活扶助
住宅扶助
教育扶助
医療扶助
生業扶助
冬期薪炭費 
 41,789
5,081
989
439
30
310
 86.0
10.4
2.0
0.9
0.1
0.6
 43,911
5,769
964
1,022
-
213
 84.6
11.2
1.8
2.0
-
0.4
 39,375
5,249
993
365
-
172
 85.3
11.4
2.1
0.8
-
0.4
 37,967
4,938
763
334
-
147
 86.0
11.2
1.7
0.8
-
0.3
 計  48,638  100.0  51,879  100.0  46,154  100.0  44,149  100.0
                           (福祉課調べ)

ノーマライゼーションの推進  昭和50年代(1975~)移行今日まで「福祉の時代」が強調され、平成2年(1990)6月委には「老人福祉法」の開盛が行われるなど、福祉政策は大きく進んできているが、これからは地域住民によるボランティア活動などを通じた福祉サービスを含むノーマライゼーションの推進が重要な課題である。
 昭和61年(1986)7月には、上湧別町総合体育館において第31回網走支庁管内社会福祉大会が開催され、約830人が参加した。 また、平成2年11月には、第1回上湧別町社会福祉大会が開催された。 こうした動きからも分かるように、「福祉の時代」への関心は着実に高まってきている。

 
第2節   児童福祉 
児童の人権と児童福祉  昭和54年(1979)の国際児童年を契機として、翌55年(1980)から国連人権委員会の手によって起草作業が進められた「子どもの権利に関する条約」は、平成元年(1989)11月20日の国連総会において満場一致で可決され、わが国も同6年(1994)ようやくこの条約を批准した。この条約は、18歳未満のすべての子供に適用され、子供を放置、搾取、虐待から守るための世界的基準であり、それまで尊重されてきた「児童の権利宣言」やわが国の「児童憲章」の精神と内容をより積極的に推し進めたものである。 18歳未満のすべての者(子供)の教育を受ける権利をはじめ、子供に保障されるべき人権と子供固有の諸権利を包括的に規定して、従来の保護対象としての子供から権利行使の主体としての子供へと、子供観そのものの見直しを強く促す内容がうたわれており、今後の児童福祉の考え方・とらえ方も、この「権利条約」を前提として変化していくことが予想される。

主要施策と事業  上湧別町では、既に第3期上湧別町総合計画(平成3年)の基本計画で「第4章 健康で心のふれあうやすらぎとおもいやりのあるまちづくり」において「4 元気なまち・児童福祉」として次の4つの主要施策と3つの主要事業を掲げ、現在それらをすすめつつある。
 
【主要施策】
児童福祉施設の整備、母子家庭の自立促進、父子家庭の福祉向上、日常生活の福祉相談・援助活動の推進
 
【主要事業】
中湧別保育所改築事業、無認可保育所の解消、言葉の教室の開催
 なお、昭和47年(1972)1月から「児童手当法」が施行され、児童を養育している者に対し、一定の基準に従って児童手当が支給された。 その後、7回の制度改正があり、支給対象と支給額の拡大などが図られ、平成4年(1992)4月からは第1子から支給されるようになった。
 平成8年(1996)現在の内容は、次のとおりである。
 
【支給対象】 
 第1子以降
 
【受給期間】
 3歳未満
 
【支給金額】
第1子=月5000円、第2子=月5000円、第3子以降=月1万円


保育所の歩みと現状  上湧別町には町立の認可保育所2ヶ所(上湧別保育所・中湧別保育所)とへき地保育所(さくら保育所・開盛保育所)があり、平成9年(1997)度の入所児数は合計128人となっている。 昭和55年(1980)の上湧別町の幼齢人口(0~14歳)1800人が平成2年(1990)には1119人、同7年(1995)には956人へと減少していることからもうかがえるように、保育所入所児数は4つの保育所とも減少傾向にある。 
 このように、総体的な児童数の減少傾向はみられるものの、上湧別町の各保育所の保育の方針と具体的な保育活動は、近年の幼保一元化の流れや幼稚園・保育所・小学校の交流促進、さらには厚生省のエンゼル・プランなどを受けて、地域の特色を生かしながらジュライ以上に充実してきている。


保育所の新しい取り組み  地域住民の保育ニーズは急激な時代の変化の中で近年ますます多様化してきている。 このため、保育所では、乳幼児の「発達段階に合わせ、一人ひとりのよさ・らしさの生きる保育づくり」を目指しながら、例えば、絵上湧別んこうてきな環境づくりの一環として、年間を通しての「なわとび遊び」を主に、地域の特性を生かした自然観察や野外遊び、いも掘り体験活動、冬の雪山遊びやそり遊びなどを計画的、継続的に取り入れた地域環境重視の保育活動を推進している。
 また、幼稚園・保育所・小学校の交流会(公開授業など)や育児学級(年間10~12回)への支援活動、さらに、上湧別町社会福祉協議会の事業への参加、協力など、地域に密着した活動も積極的に進めている。
 なお、平成7年(1995)どからは、保育所の持つ専門的な保育機能と施設を開放するかたちでの「子育て講座」を季節ごとに開設し、地域の育児支援活動の拡充にも努めている。 この講座は、年齢の異なる子供たちの神厳的なかかわりを深めることに大きな効果を発揮している。


青少年問題  青少年問題協議会は、昭和39年(1964)に設置されて以来、上湧別チュの青少年の健全育成に大きな役割を果たしてきた。 平成9年(1997)現在、19人の委員により運営され、町、青少年指導センター、警察、各学校などの連携のもとに着実な活動を続けている。
 協議会の活動は、ぁ大正んに教育の分野にとどまらず福祉の分野との深い関係を持ち、各関係機関が連動して買うか的に機能することによって、その目的が達成されるが、平成6年(1994)度には主任児童委員制度も導入され、青少年を非行や犯罪から守るための活動が一層充実しつつある。


 
第3節   老人福祉 
老人福祉の流れ  少子化が進む一方、社会が確実に高齢化傾向を強めつつあった昭和50年代(1975~)に至って、高齢者福祉の問題は避けられない課題となった。 いわゆる寝たきり老人や痴呆性老人、虚弱老人など援護を要する高齢者に対する行政と地域社会とが一体となった支援が、この時期からさらに積極的に進められるようになった。
 上湧別町の進めた具体的な施策として、昭和47年(1972)には医療費の助成事業が実施された。 同51年(1976)9月には町主催による一本化した敬老会が初めて開催され、翌52年(1977)10月には町内15号線の町有地に「老人農園」が開設された。 同53年(1978)8月には福祉バス「やすらぎ号」が購入され、9月から老人通院バス補助事業がスタートした。 この補助事業は、高齢者と重度心身障害者が対象で、とりわけ70歳以上で通院を必要とする高齢者にとって福音となった。 同57年(1982)11月からは「上湧別町家庭奉仕員派遣事業運営要綱」による上湧別町社会福祉協議会への委託事業として家庭奉仕員(ホームヘルパー)制度も発足した。 翌58年(1983)には老人保健制度が施行された。 平成2年(1990)11月には上湧別町社会福祉協議会主催の第1回「ふれあい昼食会」が上湧別町社会福祉会館で開かれた。 また、翌3年(1991)4月からは老人日常生活用具扶助が開始され、この時期から本格的な老人福祉計画づくりが始まることになる。


老人保健福祉計画  平成5年(1993)、「健康で心のふれあうやすらぎおおもいやりのあるまちづくり」を目標に上湧別町老人福祉計画が策定された。 この計アックは、同3年(1991)1月から同5年4月にかけて改正、施行された福祉8法に基づき、同11年(1999)度を目標年度として現在進められている。 目標年度の上湧別町の老齢人口率(65歳以上の人口比率)は、26%と予測されている。
 既に絵大正んあきされてきた第3期上湧別町総合計画の第4章に「いきがいのまち・高齢者福祉」として盛り込まれていた主要施策と主要事業が、この老人保健計画の策定により、されに具体的に整備され実行されることになった。


計画の概要  老人福祉計画の主な内容は、おおむね次のとおりである。
 【在宅福祉サービスの実施】
 ホームヘルプサービス、ディサービス、ショートスティ
 
【老人保健サービスおよび老人訪問看護サービスの実施】
 機能訓練、訪問指導、老人訪問看護
 【
健康教育・健康相談・健康診査の実施】
 【施設サービスの実施】

 特別養護老人ホームへの入所、老人保健施設への入所、高齢者世話付住宅への入居、養護老人ホームへの入所
 以上のほかに、「サービス提供体制の確保」として、各種サービス提供施設の確保、サービスを提供する人材(ホームヘルパー、保健婦、老人福祉相談員、在宅介護支援センター・老人福祉施設の職員)の確保、相談窓口や広報の充実、保健・医療・福祉の連携、関係団体との連携、ボランティア等民間団体への支援、高齢者の生きがい対策の推進、給食・除雪等のサービスの実施、緊急通報システム事業などが盛り込まれている。


計画の推進  上湧別町老人保健福祉計画が策定されて以降、具体的な事業が実施されてきた。 平成5年(1993)に緊急通報設備機器(端末機)設置が進められ、65歳以上の健康面で不安のある老人世帯と身体障害者世帯の安否の確認が容易となった。 翌6年(1994)には複数の事業が一挙に実行に移されることになり、高齢者等さわやか住宅改造補助事業、在宅福祉サービス事業(入浴・除雪・布団乾燥・ふれあい電話)、寝たきり老人等介護手当助成事業、高齢者用歩行車購入助成事業、寝たきり老人等紙おむつ支給扶助事業の実施、ホームヘルパーを増員し、4人体制とするなど福祉サービスの内容は一段と向上をみた。 さらに、同7年(1995)にはディサービスセンター、在宅介護支援センター運営事業がスタートした。
 今後、移送サービス、生活援助員を配置した居住型の老人福祉施設の構想があり、より一層在宅福祉の充実が望まれる。


 
第4節   母子福祉 
母子福祉の流れ  上湧別町では、昭和39年(1964)に施行された「母子福祉法」(現、「母子及び寡婦福祉法」)に基づき、相談対策、自立更生対策、保健医療対策、在宅児対策、所得保障対策など、母と子の福祉を一体化して保障する諸施策を実施してきた。
 昭和54年(1979)1月には、母子家庭等の医療費では母親の通院も対象とする外、乳幼児の医療費無料かも拡大が図られた。 同56年(1981)4月には母子家庭・父子家庭等児童入学祝金制度が実施に移され、平成7年(1995)4月から増額された小学校児童一人につき3万円、中学校生徒一人につき4万円が入学祝金として支給されるようになった。 なお、昭和54年8月には、第1回母子家庭休養事業(一泊二日)が実施され、その後、毎年行われている。


今後の母子(父子)福祉  平成9年(1997~現在、上湧別町の母子世帯は42,父子世帯2である。 母子世帯となった原因は、離婚による面のが8割強を占めている。 このうち9世帯が生活保護世帯で、これらの家庭の自律のための、安定した職場の確保や福祉資金の貸付、技能修得の指導などを積極的に行う必要がある。 また、近年になって、父子世帯もみられるようになり、これらの家庭に対しての福祉向上対策も、今後の新たな課題として位置づけられるべきである。 どちらも、児童福祉対策との連携の中で日常的に取り組まなければならない。

 
第5節   障害者福祉 
障害者福祉の流れ  昭和50年代(1975~)に至って在宅福祉サービス要求運動などが起こり、障害者の人件を尊重しながら、障害者が地域社会の中で自立できるような支援を地域住民と行政とが一体となって進めていくという流れが生まれた。 人身に様々な障害を持つ人々に対して、必要なサービスを積極的に提供しながら、生活の自立を支援するための福祉施策が一層求められるようになった。
 このような流れを受けて、上湧別町でも、現在まで多くの福祉に係わる要綱を瀬尾停止、施策を展開してきている。 昭和54年(1979)4月には、身体障害者手帳交付等にかかわる診断書料補助が実施されることになった。 同56年(1981)4月には「上湧別町手をつなぐあゆみの会」が結成され、また、心身障害者投援護旅費助成と心身障害児童入学祝金制度が開始された。 このうち心身障害児童入学祝金は、平成7年(1995)4月から増額され小学校児童1人につき3万円、中学校生徒1人につき4万円が入学祝金として支給されている。 昭和57年1982)4月には重度身体障害者交通費助成(ハイヤー乗車料金のうち基本料金を支給)および心身障害者結婚祝金扶助(1人を単位として祝金を支給、ただし、婚姻届が初めてなされる者)の3つの施策が実施されることになった。
 平成に入ってからは、同3年(1991)4月に「上湧別町日常生活用具扶助が実施されることになり、同6年(1994)5月には「上湧別町寝たきり老人投介護手当助成事業実施要綱」が制定され、身体障害者介護手当事業補助金制度がスタートしている。


今後の障害者福祉対策  上湧別町には、平成9年(1997)現在、肢体不自由、視覚障害、新蔵・呼吸器機能障害など身体に障害を持つ人々や、精神薄弱(知的発達遅滞)などの障害を持つ人々が約400人暮らしている。 これらの人々や家庭に対して、民生委員や身体障害者相談員、精神薄弱者相談員や上湧別町社会福祉協議会が地域と一体となって、日常生活の全般に及ぶ助言や介助・介護にも配慮しながら、さらに支援を進めていくことが今後も求められる。
 心身に障害を持つ人々の社会への復帰と参加をさらに促すとともに、重度の障害者に対しては一層の援助を図り、軽度の障害者に対しては機能回復訓練などの援助を強化するなどの施策と事業が一層充実されなければならない。


 
第6節   福祉施設 
特別養護老人ホーム「湧愛園」  昭和53年(1978)12月に落成し、翌54年(1979)4月1日に開園した上湧別町立特別養護老人ホーム「湧愛園」は、その後、網走支庁管内に限らず北海道内に数ある特別油江老人ホームの先行モデル施設として多くの見学者やマスコミの取材などにより、その充実した内容が広く知られるようになった。 入園者への管理や拘束を必要最小限にとどめながらも、きめ細かい配慮がなされていて、普通浴を重視した入浴方式や、献立に弾力性を持たせた給食のシステムなど随所に認められる。
 また、バラエティーに富む年間行事を用意して、入所しているお年寄りや家族の好評を得ている。 1月の新年会、5月中旬の花見、6月の運動会、7月のバス遠足、8月の盆踊り、9月の月見、10月の職員・ボランティアによる演芸会、11月のお好み食(模擬店)、12月のクリスマスと忘年会などのほか、自衛隊員や小・中学生、高校生、町内婦人会や文化団体のボランティアによる随時の慰問などである。
 開園以来、定員は50人である。 鉄筋コンクリート平屋建て、1450平方㍍、全館温水床暖房、2人部屋1室、4人部屋12室の居室があるほか、機能回復訓練コーナー、理容室、医務室、看護婦室、静養室、娯楽室、調理室、食堂、特殊浴槽付浴室などがある。 なお、平成6、同7年(1994,1995)にグループワーク・ディルーム投の拡張と給湯設備、屋上・外壁の防水等の修繕が行われている。 同9年(1997)現在の職員数は、33人(臨時職員を含む)である。


ショートステイ  福祉施設に関係する支援活動の一環として大切なものにショートステイ(短期入所)がある。 上湧別町では、昭和56年(1981)から「湧愛園」を利用し、2床で始められ、平成7年(1995)のディサービスセンター建設時に施設を増築し、10床となった。 これは、寝たきりや痴呆症のお年寄りなどを介護している家族が、苗器や冠婚葬祭、介護疲れなどのために、一時的に介護できなくなったときに、お年寄りを老人ホームで世話をする制度である。
 利用定員は、10人(10床)。 利用期間は原則として1週間。 利用条件は、原則として65歳以上の要介護老人のいる家庭で、介護者が社会的・私的理由(公務、出張、学校行事、転勤、看護、疾病、冠婚葬祭等)によりお年寄りの世話ができない場合で、利用者負担金は、1日2190円である。


デイサービスセンターYU愛  平成7年(1995)12月に、「湧愛園」に併設してオープンした。 在宅の虚弱老人やいわゆる寝たきり老人などに対し、各種のサービスを提供することを目的としている。 基本事業は、生活指導、日常作業動作訓練(各種レクリエーション、リハビリ等)、養護、家族介護者教室、健康チェック、リフト付きバスによる送迎で、ほかに通所事業として、入浴サービス、給食サービスを行っている。
 利用定員は、1日15人程度。 利用対象は、上湧別町内に居住するおおむね65歳以上の要介護老人で、日常生活に支障のある人である。 利用負担金は、1回、500円。 鉄筋コンクリート平屋建て、294・3平方㍍。 相談室、休養室、介護者教室、日常作業動作訓練室、食堂、脱衣室、浴室などが完備している。 平成9年(1997)現在の諸君数は、7人である。


在宅介護支援センター  平成7年(1997)12月に、ディサービスセンター内に開設された。 介護を必要とする人やその家族へ、必要な福祉サービスを提供したり、利用申請書の作成を代行したり、調整を行ったりするほか、介護者が安心して暮らせるように様々な相談に応じることを目的としている。 各種の相談に対しては、電話相談、面接相談などで応じる一方、介護機器の展示、紹介や使用方法についての助言も行っている。
 利用は無料、相談室と介護機器コーナーを併せて111・5平方㍍、平成9年1997)現在の職員数は、6人である。


 
第7節   福祉関係機関 
社会福祉協議会  昭和26年(1951)3月に公布された「社会福祉事業法」に基づき同年9月に上湧別村社会福祉協議会として設立されて以来「社協」の略称で親しまれてきた上湧別町社会福祉協議会は、これまで、歳末助け合い運動や、世帯厚生資金の活用などの推進母体、また、老人福祉、児童福祉の支援活動、身体障害者分会、母子会、子ども会、老人クラブ、遺族会などの育成援助活動を民間団体として精力的に展開してきた。 平成元年(1989)11月1日、社会福祉法人として新たに出発するに当たって、「社協」は、①住民参加を主体とした在宅福祉活動の推進、②高齢者等の生きがいと健康づくりの推進、③共にふれあう豊かで活力のあるまちづくりの推進、の3つを目標として定め、「みんなで育てるふれあいのまち」を目指すことを確認し、事業として次の8項目を掲げた。
一、福祉事業に関する調査・連絡・広報活動
二、在宅福祉活動(ふれあい事業各種)
三、ボランティア活動(ボランティアスクール)
四、福祉資金貸付事業
五、共同募金事業への協力
六、町からの受託事業(ホームヘルパーの派遣、在宅福祉サービス事業)
七、心配ごと相談事業
八、その他必要に応じた事業
 事務局は、役場庁舎内にあったが、平成6年(1994)4月1日から上湧別町社会福祉会館内に置かれている。 同9年(1997)現在、理事15人(うち会長1人、副会長2人)、監事2人、評議員40人、現会長は、高橋年一である。 事務職員は3人、ヘルパーは4人体制で、専用車は3台である。
 町民の福祉の意識高揚のため全世帯会員制にし、昭和55年(1980)度から実施している。 普通会員は年額200円(一口)で、賛助会員は年額1000円(一口)である。 平成5年(1993)度から法人費は年額5000円(一口)としている。 また、普通会費を同9年度まで毎年100円増額して500円にしている。
 主な具体的活動は、次のとおりである。
○独居老人福祉事業 ふれあい昼食会(年1回)、夕食の宅配(年3回)、散策会(町外年3回)、除雪サービス
○福祉用具の貸出し 
○ふれあい広場の開催 (屯田ふるさとまつりでバザー、パネル展示、福祉器具の展示)
○スポーツ大会開催による世代間交流 (ゲートボール、パークゴルフなど)


その他の福祉関係機関  上湧別町では社会福祉の推進のために、青少年問題協議会のほか、上湧別町老人クラブ連合会が活動している。 老人クラブ連合会は、昭和47年(1972)3月に結成されて以来、今日までほぼ4半世紀にわたって花いっぱい運動、花壇コンクール、老人クラブ交歓会、他町村との交歓研修などを進めてきており、平成9年(1997)現在、15の町内老人クラブが国枝会長のもとに参加している。
 また、以上に加えて上湧別町内では民生委員・児童委員が福祉活動に取り組んでいる。 平成9年現在、上湧別町の委員は20人で、それぞれ地域の人々からの福祉にかかわる様々な相談に気軽に応じるなどの役割を努めている。 なお、同6年(1994)には、さらに、老人福祉相談員、保護司、調停委員、人権擁護委員等も、それぞれの分野で相談活動を行っている。
 以上のほかに、町営浴場「憩いの湯」も昭和57年(1982)4月に営業を開始して以来、多くの町民に愛されて現在に至っている。


 
第8節   国民年金 
国民年金の歩み  昭和34年(1959)4月に「国民年金法」が公布されて以後、同36年(1961)に国民皆保険が実現してから、国民年金制度は、厚生年金制度と並ぶわが国の年金制度の2本の柱の一つとして充実してきた。 同61年(1986)4月には、新しい国民年金制度がスタートし、国民年金をすべての国民に共通の基礎年金を支給する制度とし、厚生年金と共済年金は、基礎年金に上乗せの給付を行う年金制度として位置づけられたのである。 この時点で国民年金は、すべての国民に共通する年金制度に改められ、第1号(自営業者)、第2号(厚生年金や各種共済組合の加入者)、第3号(厚生年金や共済組合に加入者に扶養されている配偶者)の3種類に区別されることになった。 平成3年(1991)4月からは、学生も第1号被保険者として国民年金に加入することになった。
 国民遠近は、拠出制と無拠出制の2種に分かれている。 拠出制には、老齢基礎年金、障害基礎年金(1級、2級)、遺族基礎年金、寡婦年金、死亡一時金、特別一時金があり、無拠出制は、全額国庫負担で、老齢福祉年金、障害基礎年金、遺族基礎年金がある。


適用と給付状況  上湧別町の国民年金被保険者の適用状況は、この20年間で、被保険者総数が30%以上減少している。 また、国民年金の給付状況は、平成に入って以降、総件数が微増傾向にある。
 保険料は、収入・性別を問わず全国一律で月額が定められているが、重なる改正の結果、加入者にとっては高負担なものとなりつつある。 諸物価に比べて改正の幅が大きいため、失業や収入減などの理由で保険料の納付が困難になるケースも少なくないが、このようなときには、納付を免除されることもある。
 
国民年金被保険者の適用状況
年 度 総 数 強 制 任 意 第3号
 昭和50  2,729人 2,333人 396人 0人 
 51 2,626  2,242  384  0
 52 2,563  2,155  408  0
 53 2,341  1,971  370  0
 54 2,430  2,070  360  0
 55 2,238  1,947  291  0
 56 2,312  1,999  313  0
 57 2,326  2,023  303  0
 58 2,259  1,980  279  0
 59  2,163  1,870  293  0
 60  2,173  1,796  377  0
 61  2,385  1,771   70  544
 62  2,296  1,715   17  564
 63  2,161  1,652   12  497
 平成元  2,121  1,565   15  541
 2  2,015  1,450   18  247
 3  1,983  1,421   17  545
 4  1,829  1,261   18  550
 5  1,755  1,176   16  563
 6  1,749  1,173   17  559
 7  1,736  1,178   12  546
 8  1,633  1,089   11  533
          (住民生活課調べ)

 国民年金給付状況       (単位:千円)
年 度 老齢給付 障害給付 遺族給付 老齢福祉年金
 
昭和50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
平成元
2
3
4
5
6
7
 件
371
467
527
573
637
689
737
784
825
869
905
915
926
933
944
958
999
1,051
1,099
1,130
1,155
千円
63,855
91,908
113,512
131,331
154,413
177.582
205.405
227.947
239.466
255.948
278.051
291.554
299.539
305.233
328.400
346.333
390.584
442.531
488.732
546.165
 579.440

98
108
102
100
108
111
115
114
109
110
109
111
105
105
110
117
122
120
123
123
 119
千円
22.063
27.777
28.728
30.418
39.864
45.246
50.925
52.977
51.309
52.433
53.225
82.765
79.332
81.252
89.383
95.273
101.329
101.079
105.473
110.546
 106.526

21
21
22
19
23
22
20
21
20
15
16
21
17
14
17
26
23
19
21
11
19
千円
6.042
7.120
7.825
7.072
9.661
12.272
11.431
11.072
10.328
8.039
8.174
13.344
11.006
9.449
10.877
17.206
12.797
14.950
15.792
8.965
 15.540

433
399
368
339
361
316
298
268
235
216
188
175
140
129
106
92
83
75
66
53
 43
千円
59.293
62.163
63.142
63.687
81.990
79.599
79.294
74.571
65.600
61.700
54.020
51.362
40.895
42.570
36.124
32.071
29.813
27.832
24.901
21.178
 14.964
              (住民生活課調べ)
 
第9節   公営住宅と宅地分譲 
公営住宅の流れ  昭和26年(1951)に「公営住宅法」が公布されて以来、上湧別町では今日まで継続して住宅建設が進められ、同28年(1953)に上湧別団地を建設してから、これまでに11の団地が町内に誕生している。 住環境へのニーズの変化に対応するため、今日では利用者の多様な生活様式に応じた「器」を用意しなければならなくなっているが、総体としては質量ともに向上してきている。 また、若者の定住促進のため、独身者用公営住宅の建設に取り組んでいる。 平成5年(1993)にはチューピットハイツ、同8年(1996)にはセンチュリーハイツが建設されている。 同8年の町内団地は、中湧別・屯田市街地・開盛の3市街地に分布して、それぞれ7団地、4団地、1団地となっている。 このうち、中湧別市街の外縁部にある花園団地および泉団地の2団地が50戸以上で、その他の団地は50戸以下の小規模団地である。

今後の住宅対策  平成9年(1997)4月現在、上湧別町の公営住宅戸数は、12団地380戸である。 このうち上湧別、楓、白楊団地の規模的に狭少で老巧化の進んだ住宅等については、上湧別団地へ建て替え、小規模な開盛団地は鉄道跡地に団地を拡張し、同8年(1996)度から同13年(2001)度まで6ヶ年かけて順次工事が進められている。
 既に第3期上湧別町総合計画にも示されているように、建築形態の見直しはもちろん、住宅地周辺の空閑地、緑地帯、公園などの環境整備を考慮に入れた公営住宅建設が進められている。 「中湧別地区再開発施設整備計画」や「高齢者さわやか住宅改造補助事業」などとも連動する形で、公営住宅関連施策を展開していくことが、上湧別町への人々の定住化と人口の転入を促進することにつながる。


宅地分譲  上湧別町土地開発公社は、昭和52年(1977)、中湧別5の1に商工団地19区画と勤労者団地9区画、屯田市街地に勤労者団地8区画の宅地を造成し分譲した。 平成8年(1996)、5の1の旧団地の隣接地に引き続き宅地10区画を造成し、浴9年(1997)7月から分譲を開始した。
 昭和58年(1983)に、同公社は俗称樺太官舎跡地を国鉄から買収し、勤労者太平団地として12区画を分譲した。
 また、開成駅構内跡地を上湧別町が宅地として18区画造成し、平成7年(1995)12月から分譲中である。
 これらの分譲宅地は、町内外の希望者を対象に、町内定住の促進を目指している。


 
第2章   


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保健衛生 
第1節   地域の保健衛生 
変わる地域保健  わが国における地域保健を取り巻く状況は、急速な高齢化の進展、慢性疾患の増加などによる疾病構造の変化、保健サービスに対する国民のニーズの高度化・多様化などにより、著しく変化している。 このため、終戦直後に立てられて地域保健対策の枠組みは実態に合わなくなり、抜本的な見直しが必要となった。 21世紀を展望しつつ国、都道府県、支柱村がそれぞれふさわしい役割を分担し、地域保健対策の総合的な推進・教化を図ることが必要である。
 厚生省は、平成5年(1993)7月、地域保健基本問題研究会の報告や公衆衛生審議会の意見具申を受けて、翌6年1994)6月の国会に「地域保健対策強化のための関係法律の整備に関する法律」案を提出し、同法案は可決、成立した。
 改正の基本的な考え方は、サービスの受け手である生活者の立場を重視し、地域保健の新たな体型を構築することと、都道府県と市町村の役割を再検討し、地方分権を推進することである。 さらに市町村、都道府県、国の責務をそれぞれ整理して明確化、保健所の機能強化と所管区域の見直しを行うとともに、市町村保健センターの法定化と国庫補助規定の創設、小規模町村に対する財政的支援の確立を図ることである。
 権限委譲の関係では、母子保健サービスの提供主体を原則として都道府県から市町村に移して一元化するほか、1歳6ヶ月児検診を市町村事業として法定化、一般的な栄養指導も市町村が担当することになる。 都道府県から保健所を設置している市に委譲するものとしては、あん摩マッサージ指圧師や薬事法関係・診療所、薬店などの開設許可、届出の受理にかかわる事務のほか、伝染病予防に関する事務などがある。
 各都道府県は、広域的、専門的、技術的拠点として保健所の機能強化、各市町村は住民に身近で頻度の高い保険サービスを一元的に提供する体制を整備、平成9年z81997)度から全面施行に入っている。


遠紋地域保健医療対策協議会  遠紋地域の総合的保健医療対策を推進するため、昭和56年(1981)に遠紋地域保健医療対策協議会が設置された。 医院は、学識経験者、保健医療関係者、保健医療を受ける者、関係行政機関の長で構成し、地域医療の確保や住民の健康管理などを目指して諸方策を協議、地域の保健医療計画を策定している。
 平成7年(1995)3月に改訂した計画(目標年次は平成9年)の基本理念は「生命の尊重と健康の保持が、明るく活力ある地域社会を形成するうえで、何ものにも増して優先されるべきもの」との認識に立ち、地域の保健医療資源の有効利用を図りながら、健康増進から疾病の予防、早期発見、治療、リハビリテーションに至るまでの基本的ケアを重視した、生涯にわたる包括的な保健医療サービス網の確立に努めることにしている。
 基本方向としては、保健医療サービスの供給システムを人生80年型社会にふさわしい、地域に密着したものにするため、①健康づくりの推進、②包括医療体制の確立、③保健医療機関相互の連携、④高度情報システムの導入、⑤保健・医療・福祉の関係機関・団体との連携、に地域ぐるみで取り組むことにしている。


保健事業の概要  上湧別町の総合的な保健事業は第1次(昭和58年度~同61年度)、第2次(昭和62年度~平成3年度)の計画を実施、平成4年(1992)度から第3次(平成11年度まで)の計画に移行している。
 この保健事業は、町民の健康の保持と適切な医療の確保を図り、健康的な日々の生活と健やかな老後の確立が目的で、疾病の予防や早期発見、治療の総合的、計画的実施である。 第1次計画では成人病予防対策、母子保健対策に重点を置き、住民参加による受診率の向上に努めた。 その結果、受診率については目標達成までには至らなかったが、一定の成果を得ることができた。
 第2次計画においては、保健事業などの予防対策の充実強化を柱に、生活に根ざした健康づくりの推進を目標に掲げた。 昭和62年(1987)度から5ヶ年間にわたり事業を展開したが、各種検診の受診率は5年間平均で健康診査31.4%、胃がん検診29.7%、子宮癌検診15%、肺癌検診17.6%、乳癌検診10.3%と軒並み目標値を割ったほか、健康相談には毎回1人~2人の相談者しか訪れず、また、機能訓練も専門指導者の附則により十分な訓練を実施することができなかった。 保健婦は3人配置されていたが、訪問指導回数が限られ、訪問基本健康診査が十分にできなかったので、保健婦の増員が緊急の課題として浮上した。
 こうした状況を踏まえて、第3次計画が策定された。 労働時間の短縮や生きがいに対する価値観の多様化などにより、住民の健康意識が変化しつつあることを背景に、食生活の改善、適度な運動の推進、休養の取り入れなどにも配慮して具体的対策を立てている。 計画推進の重点を、①基盤整備と実施体制の確立、②医療機関等との連携強化、山地域組織の形成、としその推進方向を示すとともに、各分野ごとに基本方針と目標水準を定めている。

 まず基盤整備と実施体制の確立については、第1予防対策として「自らの健康は自らが守る」という健康自助努力を促進するため、栄養改善、スポーツ実践、検診後における生活習慣改善など健康基礎対策の推進を図る。 第2次予防対策としては、各種検診内容の充実と受診率向上を目指しつつ、検診を受けやすい体制づくりに努める。 さらに住民主体の健康づくりを推進するため、主婦を中心とした保健推進員リーダーの育成強化、地域健康活動の推進、健康づくりの会の設立促進・教化や保健婦、看護婦、栄養士、理学療法士、作業療法士などの人材の確保、健康拠点施設の整備などを目指している。
 一方、急速な高齢化が予測される中、医療機関との連携強化を柱にした行政、医療、地域一帯の在宅福祉サービスの促進、施設サービスの促進に努めることにしている。 地域組織の形成については、行政と住民との連携を強化するため、健康づくりの目標設定、その推進方法の検討協議、健康まつりの実施、健康リーダーを養成研究する機会の確保などに積極的に取り組む方針である。

疾病の状況  食生活の変化や人口の高齢化などに伴い、成人病が著しく目立ってきた。 上湧別町の昭和50年(1975)度以降をみても、成人病が一貫して死因の上位を占めている。 癌(悪性新設物)、心臓病(心疾患)、脳卒中(脳血管疾患)、糖尿病などの成人病が全死因の3分の2以上に達する年も多い。 成人病の中でも同56年(1981)度ごろまでは脳卒中、心臓病が死因の首位を占めることもあったが、翌57年(1982)度からは同63年(1988)度を除いて癌が常に首位の座を占め、次いで心臓病、脳卒中という順位がほぼ定着している。
 成人病以外では、肺炎、気管支炎の死亡者が多い。 慢性肝疾患、肝硬変、腎炎、中枢神経、循環系、肺血症などもみられた。 かって上位を占めた結核の死亡者はめっきり減っている。 昭和52年(1977)度までは毎年(昭和50年度1人、同51年度4人、同52年度2人)のように出ていた死亡者は、それ以降同55年(1980)度、同57年度に各2人、同60年(1985)度、平成2年(1990)度に各1人が報告されてだけで、同3年(1991)度からはゼロの状態が続いている。
 結核登録患者数も昭和50年度に95人であったが、同55年度51人、同60年度17人と減り続けてきた。 しかし、死亡率の低下により結核を軽視する傾向が出てきて、小児結核、老人性結核を中心に増加傾向がみられ、総体的な登録患者数も平成3年度の5人を底に同4年(1992)度以降増え、同7年(1995)度には11人を数えている。 11人のうち入院しているのは3人、在宅医療を受けているのは4人である。

 伝染病の関係では、昭和59年(1984)度ごろまで猩紅熱、麻疹(はしか)、百日咳などが発生していたが、それ以後はインフルエンザ以外は全くみられなくなった。 例えば、猩紅熱は同50年度13人、同51年(1976)度31人、同52年度27人、同53年(1978)度10人と二桁の発生が続いたが、同54年(1979)度~同56年度は各1人と急減、同57年度に2人を記録したのが最後になっている。
 精神障害者は、実数で多少の増減を繰り返しながらもほぼ横ばいの状態だが、減少しつつある人口の割合からみると、実質的には増加傾向にある。 5年ごとの推移をみると、昭和50年度88人、同55年度63人、同60年度65人、平成2年度71人で、同6年(1994)度75人、同7年度は81人となっていて、その内訳は精神分裂症、躁鬱病、癲癇、痴呆性疾患、アルコール中毒などだが、痴呆性疾患のうちでもアルツハイマー型(脳が萎縮する疾患)などが近年注目されている。 同7年度81人の内14人が入院、47人が通院している。


国民健康保険  国民健康保険は、会社などの政府管掌・組合管掌健康保険に加入していない人が対象になっている。 病気やけがをしたとき安心して病院に行けるように、日ごろから各人の所得や資産に応じてお金(保険税)を出し合い、医療費に充てる相互扶助の制度である。
 昭和33年(1958)12月27日の「国民健康保険法」の全面改正、翌34年(1959)1月1日施行により、国民皆保険の制度が確立したほか、市町村運営の義務化、被保険者の範囲の明確化、国庫負担費用の明確化、給付内容の充実などを図った。 これに伴い上湧別町も同34年4月1日、「上湧別町国民健康保険条例」を制定、施行に踏み切った。
 当初は5割給付であったが、昭和38年(1963)10月に世帯主に対する給付は7割に引き上げられ、さらに、同40年(1965)1月に家族に対しても7割給付に改められた。 また、国保財政の健全化を図るため昭和45年(1970)度を手始めに同50年(1975)度、同51年(1976)度、同57年(1982)度、同60年(1985)度、そして平成元年(1989)度に保険税の大幅改定(引き上げ)を実施している。 国保税は所得割、資産割、均等割、平等割を合計して算出されるが、平成9年(1997)度の国保税率は所得割9.4%、資産割80%、均等割1万円、平等割り1万8000円で、賦課限度額を52万円と定めている。
 国民健康保険は、加入者が納入する保険税と国や北海道からの補助金、市町村からの繰入れ金などを財源にして運営、医療費に対する給付を行っているが、人口の高齢化などにより毎年増え続ける医療費に圧迫され、厳しい財政運営を迫られている。

 昭和59年(1984)10月、国民健康保険に退職者医療制度が施行され、本人8割、家族の入院8割、通院7割の給付がされるようになった。 同制度は、老齢(退職)年金の受給権者であって、加入期間が20年以上、または、40歳以降10年以上の者が対象となり、税源は国保税と拠出金をもって賄っている。 上湧別町では同59年度に192世帯、5.9%であったが、平成8年(1996)度には258世帯、9.7%となっている。
 保健事業の方は、40歳以上の人を対象に、①健康手帳の交付、②健康教育、③健康相談、④健康診査、⑤機能訓練、⑥訪問指導、などの各事業を行い、壮年期からの疾病予防とリハビリテーションまでの一貫した保健サービスを確立した。 この事業に要する費用負担は、国、都道府県、市町村がそれぞれ3分の1ずつとなっている。
 老人医療対策としては、昭和47年(1972)から老人医療無料化制度が実施されてきたが、これは医療費中心で病気の予防やリハビリテーションまで手がかけられていなかった。 そこで誰もが健やかに老後を贈れるよう40歳からの健康管理と70歳以上のお年寄りの医療サービスが受けられる老人保健制度が同58年(1983)2月から実施に移された。
 70歳(寝たきりは65歳)以上の人に対する医療給付には、一部本人負担があり、同一医療機関で外来医療を受ける際、昭和58年では毎月の初診毎に1回400円、入院の場合は最初に入院した日から2ヶ月を限度に1日300円(ただし、健康保険や共済組合の被保険者本院の場合、50日間、最高1万5000円が限度)を支払う必要があった。 その後、改正を重ね平成8年現在では、毎月初診ごとに1020円、入院の場合は1日710円(減額特例制度あり)、入院食事療養費1日760円(同)となっている。

 国民健康保険のうち上湧別町の老人保健制度の対象者は、昭和59年度に539人、16.7%であったが、高齢者の増加とともに増え、平成8年度には811人、30.5%に達している。
 上湧別町における国民健康保険の加入率は、昭和50年度に世帯40.9%、人員40.7%であったが、同55年(1980)度に世帯43.9%、人員41.3%、同60年度に世帯46.7%、人員43.7%、平成元年度に世帯49.4%、人員44.9%と緩やかな上昇を続けたが、その後はやや低下して同8年度は世帯46.6%、人員41.6%になっている。
 また、国民健康保険の受信状況をみると、昭和58年度に老人保健を分離して取り扱うことになったことや農業人口の減少などに伴い、受診者は大幅に減っている。 入院、入院外、歯科を合わせた総受診件数は、昭和51年度に1万6440件であったのに対し、同58年度に1万2882件となり、その後、増減を繰り返しながら平成7年(1995)度には1万591件に減少している。
 しかし、1人当たりの受診件数、診察1件当たりの診療報酬点数は年ごとに増加の一途をたどっている。 1人当たりの受診件数は、昭和51年度に478.3件であったが、徐々に増え続けて、平成7年度には640.7件と35%近くにも増加している。 また、診療1件当たりの点数も昭和50年度に1629.6点であったが、平成7年度に3322.5点と2倍以上に達している。


医療給付制度  上湧別町は、国や北海道の補助を受けて各種医療制度を実施している。 これらの制度は、次代を担う子供たちの健全育成をはじめ、母子家庭や重度の障害ゆえに生ずる特別の負担、高齢に伴うけがや病気などにより過重な経済的・社会的負担を負っている人たちに対し、健康の保持と福祉の増進の観点から医療費の一部、またはそのすべてを公費で負担するという救済の仕組みである。
 このうち乳幼児医療給付制度は、最も病気にかかりやすい6歳未満を対象に、入院・通院医療費の自己負担分を助成している。 最初のころは0歳~1歳児は入院、通院とも、2歳児は入院のみの助成であったが、昭和50年(1975)4月1日からは2歳児まで入院を拡大、さらに、同54年(1979)1月1日から3歳~5歳児に入院を認める改定を行っている。 平成8年(1996)度は、入院延べ216人、通院延べ930人、その他で15人の合わせて1161人が助成の恩恵を受けた。 その補助金交付額は、約602万9000円であった。
 母子家庭等医療給付制度は、母子家庭や両親のいない家族の18歳未満の児童が病気になったり、母子家庭の母親が通院、入院したとき、自己負担分を医療保険により助成するものである。 制度内容は充実され、15歳未満の子供の通院だけが対象であったが、昭和50年4月1日から入院が認められ、同54年1月1日から母親の入院にも拡大、さらに、同60年(1985)4月1日から母親の通院も対象となっている。 平成8年度の場合、入院、通院、歯科、調剤などを含め延べ313人が合計約106万7000円の医療給付を受けている。
 重度心身障害者医療給付制度は、けが、病気、災害などにより重度の障害者になった人や先天性などの重度知的障害者の人たちを対象に、医療保険による自己負担分を補助している。 長期の通院、入院などで医療費が高額になるため、経済的負担を少しでも軽くするのが目的ある。 対象者は、身体障害者手帳の1級、2級と3級(内部障害)を持っている人、重度の知的障害と判定、または診断された人(療育手帳A、または診断書)となっている。 平成8年度の補助金交付は、延べ2341人に対し、約895万7000円であった。

 お年寄りに対する医療給付制度は、2種類ある。 1つは70歳(メタ切りは65歳)以上の人が病気にかかった場合に医療費を給付する者で、財源は各種健康保健制度の加入者が納めている保険料(70%)と国(20%)。都道府県(5%)、市町村(5%)の負担金で賄われている。
 もう一つは北海道老人医療給付特別対策事業で、65歳から69歳までの人で一定の要件を満たしているときに、医療保険による自己負担分が道と市町村の補助で給付される。 ただし、本人や扶養義務者に所得制限が加えられている。


特定疾患  原因が不明で治療方法も確立していない、いわゆる難病を抱える患者は、国や北海道から特定疾患患者として認定を受け、医療費の扶助を受けている。 区に認定の特定疾患は年々増え、昭和50年(1975)度に20種であったが道55年(1980)度には31種になっている。 道60年(1985)度には北海道でも認定を介し、同年度は区に認定が27種、北海道認定が11種であった。 さらに、平成2年(1990)度には国31種、北海道11種となり、同8年(1996)度現在では、国37種、北海道7種(ほかに督励が2種ある)という状況である。
 上湧別町における年度ごとの特定疾患患者数は、昭和50年度国認定2人、同55年度区に認定10人、同60年度区に認定19人、北海道認定6人、平成2年度区に認定24人、北海道認定34人と増え続け、同7年(1995)度現在では区に認定37人、北海道認定83人の合わせて120人となっている。 同7年度の内訳は、国の認定がパーキンソン病8人、突発性血小板減少性紫斑病5人、全身性エリテマトーデス4人、潰瘍性大腸炎、後縦靱帯骨化症、突発性心筋症各3人、ベーチェット病、多発性硬化症、重度筋無力症、再生不良性貧血、強皮症・皮膚筋炎および多発性筋炎、天疱瘡、脊髄小脳変性症、表皮水疱症、突発性大腿骨頭死症各1人で、北海道の認定は劇症肝炎を除く難治性肝炎46人、橋本病24人、シェーグレン病6人、溶血性貧血、下垂体機能障害各3人、突発性難聴1人であった。
 総体的に患者数が増加したのは、①医学の進歩により、新しい病気が次々と発見された、②認定される特定疾患の数が増加している、③行政、医療機関による特定疾患申請指導が徹底してきた、などの理由が挙げられる。


エキノコックス症  エキノコックス症は、狐、野鼠、犬などから媒介されエキノコックスという条虫(サナダ虫)に一種が人間に寄生し、肝臓などを冒して最悪の場合は死に至らしめるという恐ろしい病気である。
 エキノコックスが日本で初めて発見されたのは昭和12年(1937)で、そのころは根室地方と礼文島に限られていたが、これが徐々に拡大して同40年(1965)以降は汚染地区が北海道各地に広がった。 同60年(1985)には隣の遠軽町で豚からエキノコックス虫が見つかり、ついに同62年(1987)4月15日、上湧別町も北海道からエキノコックス症対策重点地域の指定を受けた。
 同年、上湧別町は小学3年生以上(小学校は富美小、開盛小のみ実施)の全町民を対象に第1次検診を実施した。 この検診では904人が受診し、2人が擬陽性と判定されたが大事に至らなかった。 上湧別町は、検診と併せて井戸水を含む飲料水水質検査も行ったが、エキノコックス虫は発見されなかった。
 その後、第1次検診を3年ごとに受けるように各町民に呼びかけ、平成3年(1991)4月からは町内全小、中学校も対象とした。 検診がほぼ全町に行きわたった同5年(1993)4月からは5年ごとに改めた。

 検診を受けた人数は、昭和63年(1988)度の1465人をピークに、平成元年(1989)度524人、同2年(1990)度238人、同3年度712人、同4年(1992)度717人、同5年度506人、同6年(1994)度442人、道7年(1995)度329人とばらつきがある。 発見されたご要請・陽性者、昭和62年度に続いて翌63年度も2人、さらに、平成4年度に1人で、その他の年は発見されなかった。 これらの人たちについては経過観察が行われたが、発症はみられなかった。
 このほかエキノコックス症媒介動物の解剖検査も遠軽保健所で実施された。 上湧別町内では昭和60年から行われ、狐、野鼠、犬合わせて、昭和60年度は29頭、同61年(1986)度113頭、同62年度1頭を調べ、同61年度に狐からエキノコックス虫が3個確認された。 その後は発見されていない。
 上湧別町は、毎年実施している成人病検診、農協検診の中で、エキノコックス症の血液検査(第1次検診)を受け付ける一方、予防方法などを町民に呼びかけ汚染防止に努めている。


狂犬病予防  上湧別町の畜犬登録は、最近のペットブームを反映して、このところ増えている。 昭和50年(1975)度から平成2年(1990)度まで350~380頭ぐらいで推移していたが、同3年(1991)度から400頭を超え、同7年(1995)度には454頭になっている。
 届け出伝染病の一つである強健びゅにかかっている犬に人間がかまれると、ほとんどは全身麻痺で死んでしまうという恐ろしい病気で、畜犬には予防注射が義務づけられている。 昭和59年(1984)度までは年2回であったが、翌60年(1985)から年1回となった。 平成5年(1993)度は登録408頭がすべて予防注射を受けたが、その他の年は年1回になってからも何頭かは受けていない。 平成7年度の場合は、登録犬454頭のうち450頭がぐむを果たしている。
 きょうけんびょうよbとってもう一つ大切なのは、野放しにされている野犬や放棄犬の処分である。 掃討日数は、その年によって相当異なるが、7日間から多い年で51日間におよび平成7年度は12日間であった。 掃討・処分頭数も掃討日数とのかかわりもあり一定せず、平成年代に入ってからも捕獲数が65頭、47頭、51頭、68頭、44頭、12頭そして同7年度は16頭、処分数も22頭、25頭、16頭、17頭、5頭、12頭、同7年度は4頭とばらつきがある。 しかし、総体的には野犬や放棄犬掃討の硬貨が徐々に表れ、飼い主の飼育マナーも向上し的多様である。


保健婦の活動  保健婦は、厚生大臣の免許を受けて、保健所、市町村、事業所に勤務、保健指導を行う。 栄養改善、衛生思想の普及、疾病予防の普及、生活指導、防疫業務など広い範囲で大きな役割を果たしている。 特に無医村、医師過疎地帯ではなくてはならない存在である。
 上湧別町には昭和35年(1960)、網走支庁から開拓保健婦が配置されて以来、保健婦が常駐している。 その2年後には、上湧別町と厚生病院委嘱の保健婦1人が増員され2人となった。 同50年(1975)からは住民に対する潜在疾病の発見、根本治療への助言・指導、回復阻害要因の究明、健康生活の助長促進など、さらに一歩踏み込んだ保健活動に取り組んだ。
 保健婦は、各種検診、健康教育相談、寝たきりの人などに対する在宅訪問に中心的な役割を担っている。 このため上湧別町は、町の保健事業計画において看護婦、栄養士、理学療法士、作業療法士を含めた人材の確保に重点を置いている。 その計画に基づいて昭和62年(1987)度から3人体制に、さらに、平成6年(1994)度から4人体制に増員し、現在に至っている。
 平成8年(1996)度の保健婦活動をみると毎月1回の0ヶ月~12ヶ月健康相談、7ヶ月~10ヶ月健康診断、4ヶ月~1歳児半健康診断、2ヶ月に1回の1歳児・2歳児健康相談、年3回3歳児健康診断、月1回のリハビリ教室、そのほか母性保健関係の相談指導、成人・老人保健関係の教育、相談牛無などに携わっている。 また、同7年(1995)度は成人病、特定疾患、妊産婦、精神疾患、乳幼児などの家庭訪問は、277回、延べ658人となっている。 この家庭訪問は、昭和61年(1986)度の358回延べ916人、同62年度の433回延べ702人に比べ、同63年(1988)度は261回延べ335人と急減したが、その後、徐々に増加傾向をたどり、特に成人病についての訪問が目立って多くなっている。


献 血  日進月歩の外科手術を支えるものとして、保存血液の役割は大きい。 昭和39年(1964)、売血制度の廃止に伴って発足した献血制度は、(社)日本赤十字社の医療事業として行われている。 健康な人が献血した保存血液を、いつでも誰にでも提供するという、「助け合い制度」で、北海道内で使用される血液は、道民の献血によって供給するのが建前になっている。
 献血を促進するため、様々な方策が講じられている。 献血した人やその家族に優先的に保存血液を提供するのをはじめ、その代金の自己負担分を公費で肩代わりするなどの優遇制度を設けている。 また、献血した人の健康管理に役立つよう血圧や血糖値などの各種検査を行っているほか、完全な献血を確保するため血液型検査ばかりでなく、B型肝炎ウイルス抗原、C型肝炎ウイルス抗体、エイズウイルス抗体など各種感染症の検査も実施している。
 最近の輸血療法が成分輸血が中心になっていることから、従来の血液そのものの全血献血に加えて成分献血が導入されている。 全血献血で200㍉㍑、400㍉㍑があり、成分献血の3種類と合わせて5種類(上湧別町では3種類)の献血を受け付けている。
 平成9年(1997)現在、北海道内には10ヶ所の献血受入施設と10ヶ所の血液製剤供給施設がある。 上湧別町の場合、献血受入施設は旭川赤十字血液センター、血液製剤供給施設は同センター北見出張所の管轄区域に入っている。
 上湧別町では昭和44年(1969)に献血推進協議会を設置し、移動献血車の巡回受入に協力している。 移動献血車は毎年3,4回来町するが、献血が30回、50回を超えて表彰された町民も多い。 (社)日本赤十字社の表彰制度は、平成7年(1995)4月に改正され、それまでの功労賞銀章(10回以上)、同金章(20回以上)、銀色有功章(30回以上)、金色同(50回以上)、功労盾(金色有功章受章後50回ごと)が、記念品(10回、30回、50回、50回以降50回ごと)、感謝状・記念品(50回以上で満63歳を迎えたあと)、銀色有功章(70回以上)、金色同(100回以上)に改められている。


    
第2節   母子衛生 
母子健康センター  上湧別町母子健康センターは、昭和37年(1962)度に国、北海道の補助金を受けて建設され、同年12月1日開設された。 助産部門を併設した町民の総合的な母子保健事業の拠点として、重要な役割を果たした。 事業内容は妊婦、母乳栄養、1歳児、2歳児、乳幼児の各種健康相談のほか、4ヶ月児、1歳6ヶ月児、3歳児の健康診査、母親学級、それにポリオ(急性灰白髄炎、脊髄性小児麻痺)、ツベルクリン反応、BCG、三種混合の予防接種などで、保健婦、助産婦らが常駐していた。
 しかし、助産婦の高齢化、専門医師の確保困難などのため緊急の対応ができない状態となり、利用者が近代的設備の整った近隣の病院へ流れ、妊婦の利用が激減した。 このため昭和50年(1975)4月、助産部門は廃止された。 その後、建物の老巧化が進み、そのうえ手狭になってきたため、昭和62年(1987)に建設された上湧別町総合庁舎内の保健指導センターに母子保健事業を徐々に移行し、平成3年(1991)以降は母子健康センターを全く利用していない。
 母子健康センターが役割を終えてからは、助産部門については遠軽町の遠軽厚生病院などに必要な病床が確保され、母子保健部門については、保健指導センターにおいて事業の充実強化に努めている。
 また、この母子健康センターの敷地は、平成7年(1995)7月に解体撤去され、その跡地に同年12月、ディサービスセンターが開設され、在宅介護支援センター、在宅福祉サービスの拠点となっている。


妊産婦と乳幼児の保健  乳幼児保健については、6歳未満児を対象に健康診査や健康相談、予防接種、医療給付などを行っている。 健康診査は、4ヶ月児が2ヶ月に1回(遠軽厚生病院に委託)、1歳6ヶ月児が2ヶ月に1回(同)、3歳児が年3回(担当は遠軽保健所)、健康相談は0ヶ月~12ヶ月児が毎月1回(担当は保健婦)、1歳児・2歳児が2ヶ月に1回(同)、それぞれ実施している。 また、歯科衛生士による歯科指導は、1歳6ヶ月児健康診査と1歳児・2歳児健康相談に併せて行っている。
 保健婦による妊産婦や新生児、乳幼児らの指導状況をみると、妊産婦・乳幼児保健指導数は、昭和62年(1987)度に妊婦175人(うち移乗人)、産婦101人(同なし)、乳児208人(うち注意20人)、幼児183人(同29人)であったが、その後、乳児、幼児については増減を繰り返しながら全体的には横ばいであるものの、妊産婦については平成3年(1991)度以降急激に減り、同7年(1995)度では妊婦70人(うち異常1人)、産婦7人(異常なし)、乳児175人(うち注意27人)、幼児177人(同46人)となっている。
 妊産婦・新生児・未熟児に対する訪問指導は、昭和62年度に、妊産婦87人、新生児81人、未熟児4人であったが、平成7年度には妊産婦64人、新生児67人、未熟児7人と減少傾向にある。 このほか妊産婦・乳児健康診査がB型肝炎母子感染防止を兼ねて行われているが、毎年乳児には異常が発見されていない。 妊婦は、S61年(1986)度に66人のうち25人に健康上の異常が見つかったが、平成3年度以降は全く異常の者はでなかったが、平成7年度には2人の異常者が発見された。 B型肝炎については、ワクチンの開発により母子感染はほとんどなくなっている。
 乳幼児の健康診査は、1歳6ヶ月児と3歳児を対象にした2種類あるが、受診率は全体的にいずれも低調傾向にある。 1歳6ヶ月児の方は、昭和58年(1983)度に97.5%であったが、平成7年度には89%、3歳児の方も昭和58年度93.4%、平成7年度81.8%と80%台に落ち込んでいる。 逆に受診者のうち健康指導を必要とする者は増加傾向を示し、1歳6ヶ月児は昭和58年度14.1%、平成7年度24.5%、3歳児は昭和58年度5.9%、平成7年度14.8%となっている。 また、精密検査を受けた者はその年によってばらつきがあり、1歳6ヶ月児は昭和58年度、平成7年度とも1人もなく、3歳児は昭和58年度4.7%、平成7年度5.6%であった。


母性保健  乳幼児や新生児の検診と同時に妊産婦検診・指導を行っているほか、全妊婦を対象に年2回(4日で1コース)、母親学級を開いている。 また、助産婦による母乳栄養・育児相談、妊婦健診を毎月実施している。 さらに母子健康手帳交付の時に妊婦一般健康受診票を渡し、その活用促進と併せて健康指導を行っている。 最近は栄養の向上、医学の進歩、健康知識の普及などによって、一般健康診査の結果は、おおむね良好である。

むし歯のない子の表彰  上湧別町では乳幼児を対象に毎年、むし歯のない子の表彰を実施している。 乳幼児の歯科検診と指導は、2ヶ月に1回の1歳6ヶ月児健康診査と1歳児・2歳児健康相談に併せて歯科衛生士により行われているほか、年4回は遠軽保健所がフッ素塗布と上湧別町内の歯科診療所の医師が検診を行っている。 表彰を受けるのは、3歳児しか検診の受診者のうち、1本もむし歯がなかった子供で、表彰状と記念の盾が贈られる。 表彰式は、毎年6月4日の「むし歯予防デー」におこなわれている。
 上湧別町では、もともと昭和31年(1956)から優良健康児表彰が行われていた。 戦後の食糧難などにより、乳幼児の発育状態が悪かったため健康で元気な子供を育てようと実施していたものだが、その目的を一応達したので同50年(1975)で打ち切り、翌51年(1976)から「むし歯のない子表彰」へ切り替えた。 過去10年間の3歳児受診者とむし歯のなかった子の実数の割合は、全体的としてむし歯のない子の比率が高まっているものの、その年によって変動があり、最も成績の良かった平成6年(1994)は51.2%であった。


 
第3節   成人病予防 
成人・老人保健  現代は「成人病の時代」と言われている。
 40歳を過ぎれば、成人病と隣り合わせで生活しているようなものである。 癌、心臓病、脳卒中、高血圧症、糖尿病などがその代表的なものだが、その中でも癌、心臓病、脳卒中が3大成人病と称され、常に死因のワースト3に入っている。 平成7年(1995)度の全国の死亡原因をみると、3大成人病だけで全体の41.9%、成人病全体では約45%に達している。
 これらの成人病は、知らず知らずのうちに進行し、はっきりした自覚症状が現れるのが遅いのが特徴で、手遅れとなってしまうことが少なくない。 それだけに予防と早期発見・早期治療が成人病対策の鍵となる。 成人病は、食事、運動、喫煙といった長い間の生活習慣と深いかかわりがあるとされており、厚生省は、平成8年(1996)9月、従来の「成人病」という呼称を改め、「生活習慣病」とすることを決めている。 生活習慣の中でも、特に大切なのは正しい食生活を維持することで、塩分の取り過ぎ、過度の飲食・喫煙、また、ストレスなどに気をつける必要がある。
 上湧別町は、成人病予防を柱とした健康教育と健康相談を同時に実施している。 上湧別町内にある15ヶ所の老人クラブを対象に年6回、10ヶ所前後で農協婦人部を対象に年1回、いずれも保健婦が訪問して健康づくりと成人病予防のアドバイスを行っている。 また、各種検診の結果、必要と判断された者に対しては検診事後教室を年4回開設している。 このほか要請があれば年4,5回の健康教育を実施している。
 脳卒中で後遺症に悩んでいる人や虚弱、痴呆などのお年寄りを対象に機能訓練を行っているが、平成5年(1993)から札幌の脳卒中後遺症リハビリ専門病院から作業療法士、理学療法士、言語療法士などの専門スタッフを招き、訪問指導、集団指導により効果を挙げている。
 成人病に関する上湧別町の保健婦家庭訪問は、昭和62年(1987)に128回、延べ266人であったが、その後、回数・延べ人員と減ったものの、平成6年(1994)度から保健婦が4人体制となり訪問回数・延べ人員とも増加に転じている。


予防検診  (社)北海道対がん協会、厚生連(北海道厚生農業協同組合連合会)の協力による上湧別町の成人病予防検診は、循環器、胃癌、肺癌、大腸癌、子宮癌、乳癌を対象に行われている。 農業経営過程を対象にした農協検診、食品衛生協会加盟の施設を対象にした営業者検診、食品衛生協会加盟の営業者検診、それと一般住民を対象とした基本検診に分かれ、問診、身体測定、心電図、血圧測定、尿検診、胸部とX線撮影などを実施している。
 これらの検査によって40歳以上の人に多くみられる糖尿病や高血圧症、動脈硬化、心臓病、結核などの病気を発見したり、受診者の健康状態を知ることができる。 しかし、あくまでも病気の有無やその軽重を大づかみにする「ふるい分け検査」なので、異常が見つかった場合、さらに精密検査が必要になる。
 癌検診は、「老人保健法」に基づき一般住民を対象に実施されているが、子宮癌、乳癌は30歳以上の女性、胃癌、肺癌、大腸癌は40歳以上の男女が医師の検診や胸部X線、胃部X線撮影、喀痰検査、潜血反応検査などを受けている。
 癌検診の受診率は、各病種とも年によってばらつきがあり上下を繰り返しているが、まだまだ目標に達していないのが実態である。 早期発見・早期治療が万一の場合の回復の決め手だけに、定期検診の皆受診が望まれている。 「老人保健法」による老人保健事業からみると、胃癌検診の昭和60年(1985)度~平成7年(1995)度の間の受診率は27.4%~33.7%、肺癌検診の昭和63年(1988)度~平成7年度の間の受診率は15.5%~23.3%、大腸癌の平成5年(1993)度、同6年(1994)度、同7年度の受診率は26.5%、24.9%、27.3%で、女性の子宮癌の昭和60年度~平成7年度の間の受診率は9.3%~16.2%、乳癌の昭和62年(1987)度~平成7年度の間の受診率は5.9%~12.3%となっている。
 これらの第1次検診で、精密検査が必要と診断される割合は、胃癌、大腸癌検診が高くなっている。 胃癌検診では第1次検診受信者の受信対象者で、最低の同2年(1990)度でも10%の要精密検診率を示している。 大腸癌の精密検診対象者は同5年度14.6%、同6年度8.6%、同7年度13%であった。 之に比べこの3年間、子宮癌0%~1.5%、乳癌1.3%~1.6%、肺癌1.9%~3.4%といずれも4%以下であった。


 
第4節   医療機関 
(1)地域医療
現況  平成8年(1996)4月1日現在の上湧別町の医療機関は、病院が上湧別厚生病院、曽我病院の2ヶ所、診療所が一戸医院(平成8年8月廃院)の1ヶ所開設されている。これらの病院では内科、外科、整形外科、胃腸科、泌尿器科、脳神経外科、循環器科、小児科などの診療科目が設けられ、186床のベットが備えられている。
 平成6年(1994)6月の国民健康保険による診療状況をみると、地元の病院で診療を受けたのは入院が41.9%、外来が47.6%といずれも50%を割っている。 このように他市町の医療機関への依存度が高いのは、地元に高度な専門・特種医療機関や眼科などの診療科目がないことが原因であり、その整備充実が望まれている。
 歯科医療は、町立が上湧別歯科診療所、中湧別歯科診療所の2ヶ所、民間が佐々木歯科医院の1ヶ所で開設されている。 地元の歯科に通っているのは全体の76.6%になっているが、まだ4人に1人は町外の歯科に頼っているのが現状である。
 緊急医療は、休日の1次医療として遠軽町内の病院を含め11ヶ所を指定して当番医制により実施、夜間は町内2ヶ所の病院で行っている。 2次医療は、地域センター病院である遠軽厚生病院が担い、3次医療は、北見、旭川などの病院に依存している。 救急患者の搬送体制は、消防の上湧別支署に配置されている救急車1台であるが、平成元年(1989)10月から運用されている道救急医療システムの有効活用を目指している。
 僻地医療の対象となる上富美地区については、月1回の割合で遠軽厚生病院(地域センター病院)が無料巡回診療を行っている。
 平成8年4月1日現在、上湧別町内の保健医療従事者は、医師11人、歯科医師3人、薬剤師6人、保健婦4人、看護婦10人、准看護婦42人、栄養士3人、歯科技工士3人、診療放射線・X線技師2人、臨床・衛生検査技師4人、臨床工学技師1人、施術師8人である。 これを人工10万人に対する数でみると、遠軽保健所管内(7市町村)では医師、歯科医師、看護婦、准看護婦、施術師が遠軽町に次いで2番目に多い。 保健婦については、平成6年度から4人体制になり、充足度はぐんと高まった。


(2)病院
上湧別厚生病院  (上湧別町字中湧別965番地)
 昭和14年(1939)に開院した北紋医療利用組合連合会の久美愛病院が前身で、長い間、湧別地方の中心的な医療機関として大きな役割を果たしてきた。 しかし、建物の老巧化が著しく、隣接の遠軽町に厚生病院があることから、経営を引き継いでいた北海道厚生農業協同組合連合会は廃院の方針を固めた。
 この地方唯一の総合病院がなくなることに強い不安を抱いた上湧別、湧別両町の町民が一丸となって存続を要請した結果、交通条件に恵まれ利用増が見込める中湧別への移転と、地元負担の協力などを条件として移転新築が決まった。 これに対して、それまで病院のあった屯田市街地の住民たちは、期成会を結成して現在地での改築を請願したが、認められなかった。
 新築工事は町から多額の補助もあり、総事業費約4億2000万円で、昭和52年(1977)4月から着手、同年10月に開院した。 中湧別電報電話局の東側の約7600平方㍍敷地に建設された新病院は、鉄筋コンクリート一部ブロック造り2階建て、延べ1999平方㍍の本館と木造2階建て、42平方㍍の付属棟(職員福利厚生施設)から成り、診療科目は内科、外科の2科で76床であった。 同56年(1981)には558平方㍍が増築された。 その後小児科(休診中)、胃腸科が開院されたもののベット数は70床に減っている。 平成8年(1996)4月現在のスタッフは医師3人、事務員5人、看護婦20人、その他24人の合計52人で、院長は峯本博正である。


曽我病院  (上湧別町字中湧別826番地の1)
 昭和38年(1963)、上湧別厚生病院の院長を退いた曽我耕作が中湧別診療所の所長として開院したのが始まりである。 曽我は、同14年(1939)、僻地医療に情熱を燃やし久美愛病院(現、上湧別厚生病院)の開院と同時に院長に就任した。 途中軍隊に応召したが、戦後復帰して再び院長の職に、通算19年にわたり努めた。
 外科、内科、産婦人科を診療科目としてベット数19床で発足した中湧別診療所は、昭和55年(1980)に新築、大幅に増床(50床)して近代的施設整備を備えた「曽我病院」として新しいスタートを切った。
 脳血管障害などの診断に威力を発揮するCT(コンピューター断層撮影装置)や開腹手術をしないで胆石を摘出する腹腔鏡下胆のう摘除装置の導入のほか、病院の東側に鉄筋コンクリート4階建て一部地下1階の本館を建設、遠紋地区でただ1ヶ所の腎不全患者に対する人工透析をその3階の専用施設で昭和56年(1981)から行っている。
 昭和61年(1986)に生田原診療所(内科、外科)を生田原町に開院したが、平成3年(1991)11月に曽我院長の死去に伴い、渋谷努が新しい院長に就任した。 しかし、翌4年(1992)には、やはり遠紋地区で初めてという脳神経外科を備えた分院「曽我クリニック」を紋別市内に、さらに、同6年(1994)に女満別シティー病院(内科、外科、皮膚科、小児科、整形外科)を女満別町内に開院するなど積極的な地域医療展開を試みている。
 平成8年(1996)4月現在で医師7人、事務員6人、看護婦30人、その他30人の合計73人の体制である。 診療科目は内科、外科、整形外科、皮膚科、泌尿器科、小児科を開設、97床のベット数を有している。


一戸医院  (上湧別町字中湧別242番地)
 一戸医院は、一戸守義が中湧別で開院した。 昭和6年(1931)、守義の2男、秀麿がこの一戸医院に勤務、守義の死去に伴い父の意志を継いで同11年(1936)、現在地で改めて開業した。 その後、同36年(1961)の改築に続いて同57年(1982)にも増改築を重ねた。
 昭和60年(1985)、秀麿が亡くなったので子息の洋麿が院長を引き継いだ。 平成8年(1996)4月時点では、内科、循環器科、小児科の診療科目を解説、医師1人、事務員2人、看護婦2人の合計5人で医療事業に当たっていた。 しかし、同年8月22日に閉院した。


(3)歯科医院
佐々木歯科医院  (上湧別町字中湧別450番地の1)
 上湧別では、昭和10年(1935)前後に相次いで3人の歯医者が開業、歯科医療の進んだ地域として、近隣町村から通院してくる人が多かった。 しかし、滝腎卓が同43年(1968)老齢のため廃業、石房芳が同46年(1971)に札幌へ転出したため、残ったのは同12年(1937)開業の佐々木三知夫人となった。
 現在の佐々木院長は三知夫の子息で、町内歯科の中では最も古い。 昭和61年(1986)には医院を改築、ユニット4台、レントゲン1台を備え、医師1人、歯科助手4人、事務員1人の体制を取っている。


中湧別歯科診療所  (上湧別町字中湧別517番地)
 滝の廃業、石の町外転出により上湧別町の歯科診療体制は弱体化し、患者の70%が他町村への通院を余儀なくされた。 このため、上湧別町は歯科医の招致に力を入れ、昭和48年(1973)に石医院跡を買収、台湾から揚聡敏医師を招き開所したのが、中湧別歯科診療所である。
 その2年後、小清水町に転出した揚の後任に三浦寿夫が着任、また、その後に河田俊一が着任、現在は昭和56年(1983)着任の宮沢晋次が所長を務めている。 同57年(1982)には診療所を新築、ユニット3台、パノラマレントゲン1台を備え、医師1人、歯科助手3人、消毒担当1人、事務員2人の体制で診療所を運営している。


上湧別歯科診療所  (上湧別屯田市街地に局舎91番地の1)
 北大から木村文彦医師を迎え、昭和48年(1973)6月に開所した。 最初は上湧別構成病院内で委託開業したが、同病院が中湧別に移転したのに伴い、同52年10月に上湧別町役場前の現在地に診療所を新築し、診療を続けている。
 昭和51年(1976)に木村が札幌へ転出したため、後任に大山山和を迎えた。 現在の所長は同60年(1985)着任の竹林秀人で、ユニット3台、パノラマレントゲン1台の設備を有し、歯科助手兼事務員3人の体制を敷いている。


その他の施術施設  現代医学の進歩は著しいものがあるが、昔ながらの漢方やマッサージ、整体、整骨などに頼る人も少なくない。 近年、その効用も見直されるようになり、庶民の身近な治療・施術機関として利用者が増え、上湧別町内でも平成8年(1996)4月現在、8施設が開設されている。
 
第5節   食品衛生 
食中毒発生状況  食中毒は、有害な物質や病原菌を含んだ食物を飲んだり食べたりしたときに起こる疾患である。 これは化学物質(メチルアルコールなど)によるもの、自然毒(毒キノコ、フグ毒など)によるもの、微生物(ポツリヌス菌など)によるものとに大別される。
 食中毒は全般的に発生件数が減少傾向にあるといわれているが、学校給食などのように手段的に食事を提供したり、外食産業の発達により不特定多数の人への同一食品提供の機会が増えていることなどから、集団食中毒発生の危険性が高まっている。
 上湧別町内では、昭和54年(1979)以降食中毒は全く発生していない。 しかし、同52年(1977)は食中毒の当たり年といわれ、8~9月のわずか20日ほどの間に3件も連続発生、併せて11人が被害に遭っている。 まず8月14日、米飯を食べた7人がウェルシュ菌に冒され、9月3日にはイカ(推定)、9月5日にはカニ(推定)の腸炎ビブリオにより2人ずつ食中毒にかかった。 また、同53年(1978)8月7日、ホタテソフト貝柱(推定)を食べた2人がセレウス菌(推定)による食中毒にかかっている。 いずれも死亡者こそ出さなかったが、町民に食中毒の恐ろしさを再認識させた。
 平成8年(1996)、全国的に猛威をふるった新しいタイプの食中毒「O-157」は、上湧別町民にも脅威を与えたが、さいわい上湧別町内での発生はみられなかった。


食品衛生と許可・登録施設  人の健康保持・増進のために、食品の安全性確保が不可欠である。 しかし、食品を巡る環境は、年々複雑多様化している。 多種多様な加工食品の出現、食品の輸入量の増加、容器包装の多様化、食品流通の広域化、流通期間の長期化など、食品の安全確保に大きな影響を与える数々の問題が生じている。 さらに、食品添加物や環境汚染に由来する食品汚染の問題もあり、食品衛生行政の課題は質、量とも増大、きめ細かな思い切った対応が迫られている。
 昭和22年(1947)に制定された「食品衛生法」に基づいて、北海道は、「食品衛生条例」を設け、食品衛生法関係施設の許可・登録、監視などを行っている。 平成7年(1995)度における「食品衛生法」に基づく許可施設は、北海道で11万820件、網走支庁管内で7601件、このうち上湧別町内は137件であった。 また、監視数は、北海道で15万3253件、網走支庁管内で9818件であった。 上湧別町の監視数は明らかにされていないが、遠軽保健所管内では1932件であった。 許可施設、監視は飲食店関係の減少などに伴い、上湧別町において漸減の傾向を示している。
 施設の許可・登録の受け付け、監視、検査、指導などは上湧別町など7町村を管轄する遠軽保健所が行っているが、同保健所が平成7年度に実施した食品などの収去検査は141件で、このうち9件の不適を発見している。


食品衛生協会  「食品衛生法」が制定された翌年の昭和23年(1948)11月、遠軽保健所管轄内の食品取扱業者によって、(社)遠軽地区食品衛生協会が設立された。 同27年(1952)10月には約100店が加盟して上湧別支部が結成され、さらに、同34年(1959)5月には上湧別支部は2つに分離して、中湧別支部が設立された。 活動としては食品衛生週間の行事や食中毒予防キャンペーンなどを通じ、食品衛生思想の普及に努めた。
 中湧別、上湧別支部を合わせた開院は、一時120~130店を数えたが、鉄道の廃止や人口減少などの影響を受けて減少の一途をたどった。 ついには約90店まで減ったため、平成7年(1995)5月に両支部が統合、改めて中湧別支部として再発足した。 
 食品衛生協会の活動に併せて、上湧別町も広報などにより食品衛生の啓蒙に取り組み、特に増加傾向のある毒キノコ中毒について重点的に注意を促している。


 
第6節   環境衛生 
町営浴場の経営  町営浴場「憩いの湯」は、昭和57年()1982)4月4日、お年寄りのための集会・娯楽施設「憩いの家」の浴室を引き継ぐ形で開設された。 その4年前の同53年(1978)1月に開設していた。 「憩いの家」には、脱衣場を除いた総面積が約28平方㍍、男女別々に広さ約8平方㍍の浴槽を備えた立派な浴室が設けられていた。
 かって幾つもあった民間の公衆浴場も、経営難に陥ったり火災に見舞われるなどして長続きしなかった。 中湧別市街で唯一安定した経営を維持していた「千代の湯」も、昭和30年(1955)代後半から一般家庭の自家風呂が普及し始めたのに伴い経営が急速に悪化した。
 このため、公衆浴場の公益性を考慮した上湧別町は、昭和48年(1973)から「千代の湯」への公費助成を始めたが、時代の波には抗し切れず廃業に至るのも時間の問題とされていた。 こうした経過から「憩いの家」の建設に当たって、施設内に備える浴室を公衆浴場としての基準を満たすものにした。
 料金は一般の公衆浴場と同じだが、それまで週2回はお年寄りに無料開放してきたので、この恩典もそおまま引き継いだ。 平成7年(1995)10月改定の料金は大人(12歳以上)340円、中人(6~12歳)140円、小人(6歳未満)70円である。
 利用状況をみると、有料、無料とも昭和60年(1985)ごろを境に若干減る傾向を示していて、平成8年(1996)度は有料4989人、無料7396人であった。


屎尿処理  多額の予算を伴う屎尿処理施設の建設は、1自治体単独では荷が重すぎるため、広域行政の中で対応することになった。 遠軽町、上湧別町、湧別町、佐呂間町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の7町村が広域組合を結成して昭和41年(1966)、遠軽町学田に処理場(遠軽地区衛生センター学田処理場)を建設した。 1日45㌔㍑の処理能力を持つ最新の設備であった。
 この施設では遠軽地区約4万人の屎尿を処理したが、翌昭和43年(1968)に管理上のミスがあったほか、季節的に投入量が処理能力を超えたことなどが原因となり、臭気公害が発生し、周辺住民の批判を浴びた。 組合側は施設の手直し、脱臭剤の使用、マンホールの密閉などの悪臭防止策を講じたが、処理量が増加する一方となり、ピーク時には青空処理まで出る事態に至った。 このため周辺住民の批判はさらに高まり、処理場の移転要求が強まった。
 根本的な解決を迫られた組合は、上湧別町南兵村一区543番地の2にもう一つの処理場を増設することを決定、遠軽地区衛生センター南兵村処理場を建設して昭和50年(1975)4月、本操業に入った。 1日55㌔㍑の処理能力の新処理場は、嫌気性加温消化、好気性汚泥法、イメディアムフィルター方式による3次処理を行い、脱臭も水洗(活性炭2段方式)燃焼方式(700度C以上)で処理、水質、悪臭ともほぼ万全となった。
 総事業費は、国庫補助、7町村負担金、融資合わせて4億8523万円となった。 学田、南兵村両処理場を合わせた処理能力は1日100㌔㍑と2倍以上に跳ね上がり、悪臭、水質防止、処理能力のいずれも当分の間は安心できる体制が確立した。
 さらに、遠軽地区広域久美愛は、厚生年金、国民年金の積み立て金である「年金積立還元融資」を受け、南兵村一区にある遠軽地区衛生センターに浄化槽汚泥処理施設を新たに増設し、平成9年(1997)4月1日から供用を開始した。 この施設は、1日当たり10㌔㍑の処理ができ、総事業費は2億8531万円である。
 1年の間で最も処理量が多いのは例年12月だが、平成8年(1996)は11月で、施設処理実績によれば、4165戸から汲み取りを行い、約2953㌔㍑を処理している。 これを1日当たりに換算すると約118.1㌔㍑である。 この年の年間処理量は約2万763㌔㍑で、1日平均56.9㌔㍑を割っている。 平成9年4月現在、職員20人、民間汲み取り業者4(20人、バキューム車13台)を配置している。


ごみ処理  上湧別町のごみ処理体制は、昭和63年(1988)の一般廃棄物処理場の開設、平成7年(1995)の一般廃棄物簡易焼却炉施設の設置、民間の産業廃棄物処理場の開設やリサイクル運動の推進などで大きく前進したが、なお多くの課題を残している。
 衛生面、美観上大きな社会問題となっていたごみの処理問題について、住民から強い要望を受けた上湧別町は、昭和37年(1962)から市街地の一般家庭を対象に、週2回のごみ収集に乗り出した。 収集は自分で処理できない不燃性の物に限り、そのほかは自己処理を原則として、各家庭がごみ焼却炉やごみ処理容器を購入する場合、その費用の2分の1、また、自治会がゴミステーションを購入する場合も3分の2を補助した。 しかし、収集したごみは町有の山林や谷間などに投棄し処理したため、カラスや狐、野犬などに食い荒らされるなど様々な問題が表面化したほか、捨て場の確保も困難で抜本的な解決が迫られた。
 上湧別町は、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(昭和45年制定)に基づき、昭和49年(1974)に「上湧別町廃棄物の処理及び清掃に関する条例」を制定、行政と町民の役割を明確化するとともに、一般ごみの専用収集車を導入して同年5月から運行を開始した。 これにより収集作業がスピードアップし、衛生的な運搬が可能になった。 家庭からのごみがごみ袋(米袋、肥料袋など)に入れて出されるようになったことも、効率的、衛生的な収集に役立った。 洗濯機、冷蔵庫、テレビ、自転車などの粗大ごみは、3ヶ月ごとに年4回収集した。 上湧別町が収集しない工場、事業所などの産業廃棄物は、町営ごみ捨て場まで運んでもらい処理した。
 上湧別町のごみ処理体制が大きく前進したのは、昭和63年に上湧別町廃棄物処理場が使用開始されてからである。 同処理場は、同61,同62年(1986,1987)度で屯田市街地614番地1の4万7880平方㍍の敷地に建設された。 約3億4353万円をかけ、面積2万1720平方㍍、容量11万4450立方㍍(8万2404㌧)の埋め立て地と1日当たりの処理能力30立法㍍の汚水処理施設(回転円盤方式プラス擬集沈殿方式)を建設したが、同63年4月から平成9年(1997)3月までに既に3万6646㌧を埋め立てている。 残りの4万5758㌧の容量を考えると、当初予定で同処理場が限界に達するのは平成11年(1999)度と推定していたが、平成9年度施行の「再生資源の利用の促進に関する法律」(リサイクル法)などにより、平成8年(1996)5月から空缶の回収、同9年5月からペットボトルの回収が中湧別地区、毎月第2土曜日、上湧別地区、第4土曜日に実施されたことで、かなりのごみの減量が見込まれることなどから、若干先に延びることが見込まれている。
 平成7年5月、沢口産業(株)が上湧別町字富美1831番地に民営の産業廃棄物処理場を開設、有料で処理を受け付けている。 1億5000万円をかけ、焼却炉を建設、埋立処分場を造成して木くず、紙くず、繊維くずなど燃える物は焼却炉で処理(能力は1日3㌧)、廃プラスチック類、ゴムくず、金属くずなど不燃物は埋立処分場(面積1万1179平方㍍、容量3万4900立方㍍)で処理している。

 一般廃棄物については、上湧別町が平成7年10月、上湧別町廃棄物処分場内に上湧別町一般廃棄物簡易焼却炉を建設、同年12月から本格処理を開始した。 3172万4000円をかけたこの焼却炉は、鉄骨造り、内部耐火ブロックの省力炉4500型で、炉床式2次燃焼装置も付いていて、1日の処理能力は4.8㌧である。
 上湧別町のごみ処理体制は、平成9年3月31日現在で2355世帯(6398人)を対象に、約250ヶ所にゴミステーションを設けて、一般ごみ、粗大ごみ、資源ごみの分別収集を行っている。 一般ごみは各地区週1回、粗大ごみは春、夏、秋の年3回、空缶とペットボトルの資源ごみは第2、第4土曜日に収集、また、処理場に直接搬入されるごみについては、毎週水、木曜日に受け付け、処理している。
 ごみの減量化、資源の有効利用に努め、①リサイクル運動推進事業への援助、②家庭へのごみ焼却炉・生ごみ処理容器購入助成、③乾電池の回収、④牛乳パック・紙類の回収、にも取り組んでいる。 具体的には、15の子ども会が行っている廃品回収への助成、ごみ焼却炉購入2分の1(2万円限度)の助成、回収ボックスによる乾電池の回収と処理業者への依頼処分、回収ボックスによる牛乳パックの回収と売却による地域精神障害者施設活動資金への援助などが、その内容である。
 上湧別町背筋物処理場に搬入されるごみの中でも、粗大ごみと直接搬入分が増加傾向にあるのに対し、一般家庭が出す巡回収集分はほぼ横ばいを示しており、ごみの減量化、資源リサイクル運動の効果が現れつつあることがうかがわれる。


火葬場と墓地  共同墓地は昔から南兵村、富美、上富美、開盛の5ヶ所にあった。 いずれも山の麓の閉静なところにあって、開拓に尽くした先人たちが静かに眠っている。 屯田兵の入植によって開拓された土地柄だけに、開拓当初から墓地の区画もきちんと整備されているが、上湧別町は霊園として環境整備に努めている。
 昭和13年(1938)に建設された木造平屋の上湧別火葬場は、数度にわたる補修で老巧化に耐えてきたが、それも限界に達したため昭和58年(1983)に改築に踏み切った。 新火葬場は、補強コンクリートブロック造り平屋建て、総面積242平方㍍の近代的な施設で火葬炉2基、炉前ホール、斎場、控え室(和室2)などを備えている。 総事業費は約4080万円、同年11月に名称を「上湧別斎場」と改め開設した。
 このほか富美にも火葬場があったが、昭和55年(1980)4月に取り壊し廃止となったので、その後は「上湧別斎場」が一手に引き受けている。
 利用状況は年ごとに一定していないが、同50年(1975)以降、年間36件~70件程度の間で推移している。


 
第3章   

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水 道  
第1節   上水道 
上水道の敷設  屯田市街地と中湧別市街を対象とした上湧別町の広域簡易水道ができたのは、昭和43年(1968)11月である。 計画給水人口6200人、1日最大給水量930立方㍍と設定、湧別川水系中土場川表流水と地下水を水源とし、1日969立方㍍を取水し、緩速濾過による処理をしたあと給水した。 その後、住民の生活水準の向上に伴い給水量が増加し、施設の能力が限界に達した。 そのうえ水源の中土場川と地下水の水不足が目立つようになり、夏や冬の渇水期には計画取水量の確保ができず、給水制限、一時断水という事態を招くこともあった。 カニ水道が入っていない農村部でも地下水が減少するともに、水質の悪化が進み、簡易水道給水区域への編入を望む声が次第に高まった。
 渇水期における水量不足の解消、農村部の給水区域への編入といった課題に加え、将来の需要増への対応も必要になり、新しい水道事業計画が浮かび上がってきた。 上湧別町は、昭和55年(1980)から具体的な検討に取りかかったが、ちょうどそのころ隣接の湧別町でも湧別市街地を対象にした簡易水道の敷設計画を持っていたため、当時としては全道的にも例のない、両町共同事業による水道事業に着手することが決まった。
 上湧別町水道事業・湧別町簡易水道事業は、昭和57年(1982)から着手した。 総額約21億9500万円とおよそ4年の歳月をかけて同60年(1985)に完成、完成式と祝賀会は同年12月12日に盛大に行われた。 事業費の上湧別町負担分は共同施設に7億3532万2000円、単独施設に3億3582万7000円の合計10億7114万9000円であった。
 この新施設による給水は昭和59年(1984)4月、完成式を待たず市街地に対し行われ、新たに給水区域に編入された南兵村と北兵村の一部には、同年11月末から待望の水道水が送られた。 給水人口は両町合わせて1万1000人であった。 このうち上湧別町は7000人で、給水区域は4の1,4の2,4の3、屯田市街地、5の1の一部、中湧別市街、中湧別東町の一部、5の3の一部となった。 湧別川の表流水を利用するこの上水道事業は、1日最大給水量を4687立方㍍(うち上湧別町分は2670立方㍍)と設定、浄水場(東山浄水場)を上湧別町東山に建設した。 上流の遠軽町弥生地区に取水場を設け、約8㌔㍍にわたり直径300㍉の導水管を敷設して浄水場まで水を引き込み、ここで急速濾過方式で水をきれいにし各家庭や事業所などに給水している。 上湧別町内に布設された配水管の総延長は68㌔㍍を超えている。 これで上湧別町の水不足が解消、安全でおいしい水野供給がいつでも受けられるようになり、上水道の普及率も徐々に上昇しつつある。 水道料金は、昭和61年(1986)に一度改正され、その後、平成元年(1989)、同9年(1997)に改定されている。


開盛簡易水道  昭和60年(1985)1日から供給を開始した。 給水能力は1日300立方㍍で飲用、営農用として使用されている。 それまでは開盛西側の山にあった営農用水施設から各戸に給水されていたが、水量が不足していたうえ水質にも難があり、改善が待たれていた。
 新配水池は、遠軽町学田に建設、遠軽町の協力により同町の源水から分水を受けている。 事業費は1億1201万8000円で配水池の建設と配水管の布設を行った。 給水人口は750人で、平成8年(1996)現在、136戸がその恩恵を受けている。 料金は町水道と同じである。


五鹿山水道  昭和46年(1971)、水不足に悩んでいた中湧別東町高台地区に水道組合が設立され、受益者による自主的な水道事業が同47年(1992)1月10日から始められた。同62年(1987)2月1日から飲用、営農用として再発足、平成8年(1996)4月現在、中湧別東町の一部と北兵村三区の一部の20戸を対象に1日最大48立方㍍を地下水を利用して給水している。
 水道料金は基本が500円(5立方㍍未満)、1000円(5~10立方㍍)、1500円(10立方㍍以上)、超過料金は1立方㍍当たり80円(11~20立方㍍)、60円(21~50立方㍍)、40円(51~1000立方㍍)、30円(101立方㍍以上)となっている。


旭地区営農用水  昭和48年(1973)10月1日の給水開始で、営農用水の中では最も古い。 道営畑地帯総合土地改良事業の一環として事業を展開したものである。 旭地区と北兵村三区の一部が対象で、平成8年(1996)4月現在、21戸(乳用牛約800頭、肉用牛約500頭)に飲用、営農用として給水している。 水源は東の沢川表流水と地下水を利用、1日最大174立方㍍の配水能力を持っている。 料金は基本が10立方㍍まで700円、それ以上の超過料金は1立方㍍当たり20円である。

富美営農用水  道営営農用水事業として計画され、富美、札富美両地区を対象に昭和53年(1978)11月1日から給水を開始した。 支流の沢川表流水から取水、1日355立方㍍を限度に平成8年(1996)4月現在、57戸(乳用牛約2900頭、肉用牛約700頭)に飲用、営農用として給水している。 料金は基本が10立方㍍まで600円、それを超える分は1立方㍍当たり15円の超過料金となる。

上富美営農用水  道営畑地帯総合土地改良事業により実現した。 富美川表流水を水源とし、昭和57んん(1982)12月12日に通水式を行っている。 平成8年(1996)4月現在、飲用、営農用として6戸(乳用牛約500頭)が対象で1日配水能力は123立方㍍である。 料金は基本が10立方㍍まで1200円、超過料金は1立方㍍当たり50円となっている。
 営農用水の3ヶ所と五鹿山水道はいずれも利用組合が施設管理しているが、技術管理は上湧別町が担当している。


 
第2節   下水道 
高まる住民要求  第3期上湧別町総合計画(平成3年度~同12年度)の策定に当たって、同計画審議会は町民意向調査を実施した。 その回答の中で、住みやすい町づくりのための重要施設ベスト5の第2位に、下水道など生活環境の整備が挙げられた。 959人の回答者のうち482人(50.3%)が高齢者対策を訴えて第1位、生活環境整備は465人(48.5%)で第2位であった。 生活向上や生活環境への認識の高まりを背景に、痴呆の町村でも下水道整備に取り組むところが増えてきた。 快適な生活環境づくりは、過疎の町でこそ必要不可欠な行政課題となってきたのである。
 こうした住民要求を受けて第3期上湧別町総合計画に「環境を守る下水道・排水施設」の構想が初めて盛り込まれた。 その中でまず、「近年、生活雑排水や水産加工場の汚水が問題となっている。 これからの家庭においては、下水道、水洗化の実現は時代のすう勢であり、自然環境の保全、地下水汚濁、悪臭防止など環境に及ぼす影響を考えるうえでも緊急に整備する必要がある」とげんっじょうと課題を分析している。 さらに、基本目標として、「下水道は、生活環境づくりや製造業の汚水処理に欠くことのできない施設。 今後、町民の意向を踏まえて長期展望に立った公共下水道計画を策定するとともに、市街地の排水状況に適した下水道を整備する」と下水道事業着手の方針を明らかにした。


全体計画の策定へ  第3期上湧別町総合計画が始まった平成3年(1991)の時点で、下水道を使用しているか、整備中のところは、全道212市町村のうち98市町村(46.2%)であった。 網走支庁管内26市町村のうちでは8市町で、遠紋地区では紋別市、遠軽町、興部町で下水道事業を実施していた。 実施市町村における下水道普及率は約60%に達し、住民たちは快適で衛生的な文化生活の恩恵を味わっていた。
 上湧別町は平成3年、広報を通じて快適な暮らしを目指す下水道の効用や仕組み、住民負担などについて理解を求める一方、住民の意向調査を実施した。 また、予算に調査費を計上して、国と北海道との協議を進めながら補助事業の選択などについて検討した。 同5年(1993)度には下水道事業計画策定のための基本構想を委託、それと同時に隣接湧別町との共同事業として取り組みが可能かどうか模索した。
 その結果、湧別町との共同事業が決まり、平成7年(1995)度から2年間で、上湧別、湧別両市街地を対象とした下水道整備基本計画の策定に着手するとともに、工事を行うのに伴い必要な許可を国と北海道から受けるための設計に入っている。 市街地のほか農業集落排水整備事業も検討することになり、早期の着工が待たれているが、上湧別町では、さらに、広報を利用して下水道の仕組みやチュ民生活にもたらす効用のほか、工事費、分担金、使用料などについて詳細に説明、殊海御アンケート調査も実施して事前の準備に万全を期している。 工事着工は同9年(1997)度で全工事の完了は同28年(2016)度の予定で、計画事業費は約105億円となっている。
 平成7年度現在、北海道で下水道を使用している市町村は82市町村、工事中は59市町村である。


 
第4章 

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公 害  
第1節   公害と発生源 
公害の発生状況  都市を中心に大々的に取り上げられていた公害問題は、環境汚染、環境破壊の実態が明らかになり、住民の反公害意識の高まりとともに、痴呆の農山漁村にも広がった。 上湧別町においても昭和40年(1965)ごろから公害に対する苦情が目立つようになった。 澱粉工場廃液による井戸水への汚染をはじめ食品加工場の騒音、屎尿処理場の悪臭などがその主なもので、上湧別町は苦情が寄せられるたびに現地調査を実施し、改善を要請した。
 公害の発生源は、製造業、加工業が多く、次いで酪農、畜産などが挙げられるが、生産工場では食品加工、木材・木製品工場、非鉄金属工場が大半を占めた。 公害の苦情は、水質汚濁、悪臭、騒音、神道、粉じん、大気汚染の順であった。 昭和50年(1975)前後から毛皮を取るミンク飼育場の悪臭公害が問題となり、飼育業者と周辺住民の間で紛争が発生した。 上湧別町などの指導により同51年(1976)から同52年(1977)にかけて2業者が飼育場を移転したが、他の3業者は移転できず住民たちの批判が高まった。 しあkし、やがてミンク飼育業が市場の値崩れなどにより急速に衰退し、飼育場が相次いで閉鎖されたので問題は自然に解決した。
 このほか昭和50年、上湧別町に新州津してきた群馬県長柄農業協同組合北海道事業所の哺育センターの堆肥処理について悪臭公害などが問題となり、地元の自治会役員と話し合った結果、公害防止の協定を結び、完全実施を図った。 最近は水産加工場の廃液による悪臭や水質汚濁の問題が残されており、下水道の完備が望まれている。


公害の発生源  「公害対策基本法」など国の公害関係法令や、北海道の「公害防止条例」は、公害の発生源となる施設を把握し、規制基準が守られているかどうかを検査するため、立ち入り調査の実施を都道府県に義務づけている。
 上湧別町内で国の公害法令対象施設になっているのは、平成7年(1995)度末現在「大気汚染防止法」関係35ヶ所(煤煙22ヶ所、一般粉塵13ヶ所)、「水質汚染防止法」関係17ヶ所(排水量1日50立方㍍以上1ヶ所、同未満16ヶ所)であった。 騒音、振動両規制法はともにゼロである。 北海道の「公害防止条例」の対象施設は、粉塵関係65ヶ所、騒音関係48ヶ所、振動関係32ヶ所あり、逆に汚水、悪臭関係はいずれも1ヶ所もない。


 
第2節   公害対策 
立ち入り検査  公害法令関係施設については定めに従い、あるいは必要が生じたときに遠軽保健所が立ち入り検査を実施している。 水質公害関係では対象の施設のうち何か所か抽出して検査している。 上湧別町では検査したうち排水基準不適合になったのは、昭和50年(1975)度~同62年(1987)度の間では同56年(1981)度、同57年(1982)度、同60年(1985)度の各1ヶ所、不適合施設を出している。 待機公害関係施設は同62年度まで煤煙、煤塵、同63年(1988)度からは粉塵の検査を行っているが、煤煙検査では同56年度に3ヶ所、同57年度に11ヶ所を不適合施設として改善を指導、煤塵検査では同52年(1977)度~同56年度の間に毎年1~3ヶ所の不適合施設を出している。 しかし、粉塵の検査が実施されてからは各施設の防塵設備の改善が進み、不適合施設は1ヶ所も報告されていない。
 遠軽保健所に対する公害苦情は、最近はほとんどみられないが、上湧別町に対しては時折悪臭などの苦情が寄せられている。 上湧別町はそのたびに発生源となった工場側に連絡したり、立ち入り調査して注意を促すとともに、規制の遵守や施設整備の改善または移転、公害防止協定の締結などを指導している。


公害防止の措置  上湧別町は平成5年(1993)、「上湧別町企業振興促進条例」を制定した。 公害防止のための適切な措置が講じられている新設、あるいは増設したり、移転する者を対象にこの条例を適用して町費助成の道を初めて開いた。 助成は投資額(1500万円以上)の4分の1(限度額3750万円)までで、同6年(1994)に4件、同8年(1996)に4件の利用があった。

 
第5章 

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労 働 
第1節   総 説 
概 説  産業構造、生産活動の規模、生産技術などによって、労働需要が決定される。 わが国の産業構造は、昭和の初めごろまでが能牛を中心とするもので、その後、第2次、第3次産業が急速に発展した。 戦前までは、繊維横行を主体とした軽工業が中心であり、戦後の195年代(昭和25年~)後半から1973年(同48年)までが、高度経済成長と呼ばれ、急激に産業活動の規模が拡大した時期となる。 就業人口に占める割合は、明治13年(1880)に第1次産業が80%を超えていたが、昭和5年(1930)には50%を割って、第1次産業は後退していくことになる。 わが国の産業構造が大きく変化した戦後の復興期から高度経済成長期をみると、昭和30年(1955)の第2次産業23,5%、第3次産業35,5%から、昭和45年(1970)の第2次産業34,0%、第3次産業46,6%へと増えている。 昭和48年(1973)のオイル(石油)ショック以後は、第2次産業の比率が高まらず、第3次産業がそのウェートを高めている。 昭和60年(1985)の就業人口の割合は、第1次産業が9.3%、第2次産業が33.1%、第3次産業が57.3%であり、第3次産業が60%に迫っている。
 労働時間は明治の産業革命期の紡績業における1日14~15時間の長時間労働や、女工の深夜勤務など過酷な労働条件がよく知られている。 その後、「工場法」によって徐々に改善されていったが、本格的な労働時間の改善は戦後になってからのことである。 戦後、「労働基準法」(8時間労働を原則とする。)の成立と労働運動の隆起戸によって、大幅に労働時間は短縮された。 その後も国際的な労働時間短縮の動きや所得水準の向上、労働密度の高まりなどによって労働時間は短縮され、オイル(石油)ショック以降は週40時間程度になっている。(30人以上の事業所)。 事業所規模別にみた労働時間は、同35年には500人以上の事業所が週46.2時間、5~29人の事業所が週49.7時間で、その差は約3.5時間あった。 それが平成2年(1990)には、両者の間にはほとんど差がなくなり、規模別格差はほぼ解消されたといえる。
 わが国のかっての賃金は、先進国の中では低く、しかも賃金格差が大きく中小企業労働者の賃金は著しく低かった。 この安くて良質の労働力を武器に、他に類をみない経済成長を遂げることができた。 わが国の賃金水準が高いように思えるが、より実態に合うように購買力を考慮すると、わが国の賃金水準は、先進国に及ばないことになる。 賃金格差は、昭和60年にはかなり改善されたが、その後、再び拡大した。 平成元年(1989)の従業員1000人以上の大企業を100とした格差は、100~999人の企業が76,10~99人の企業が68である(昭和35年の格差は、100~999人の企業が73,10~99人の企業が60)。 わが国の賃金体系の特徴である年功序列型の賃金格差は、賃金の最も高い層が、100人以上の企業では50~54歳、10~99人の企業では45~49歳であり、その層を超えると賃金は低下する。 企業内の格差は大企業ほど大きい。
 また、規模別・年齢別の格差は、20代では差が少ないが、50~54歳の層で最も開きが大きくなっている。

 最近、女性の職場進出が盛んであり、平成2年には女子の労働力人口比率が再び50%を超えた。 一方、出生率の低下に伴い労働力不足が現実の問題となってきた。 省力化、賃金の引き上げ、労働時間の短縮などの求人対策がとられているg、労働者の修業意識が変化し、3K(きつい、汚い、危険)とされる業種は特に敬遠されがちで、労働力不足は一層深刻である。 こうした業種では、外国人労働者の採用が目立つようになってきた。
 わが国の労働運動は、日清戦争(明治27~同28年)以後、産業資本の発展とともに急速に活発となり、近代的な労働組合運動は、絶えざる弾圧に直面しなければならなかった。 昭和20年(1945)12月に「労働組合法」が制定され、労働組合が初めて法律によって承認された。
 平成2年6月末では、7万2202の労働組合が結成され、約25%の労働者が組合に組織されている。


勤労者世帯収入  総務庁の「家計調査」によると、昭和28年(1953)の北海道勤労者世知の1ヶ月当たりの家計収入は2万6873円で、その後の推移は、同30年(1955)は3万2358円、同40年(1965)6万1811円、同50年(1975)22万8777円、同60年(1985)41万5515円、平成6年(1994)52万7223円となっている。
 昭和30年から平成6年にかけての家計収入は約16.3倍となったが、物価上昇分を勘案すると、約3.4倍となっている(「北海道家計調査」)。
 家計の収入源についてみると、昭和28年では「世帯主の勤め先収入」が2万2625円で昵収入全体の4.2%、「妻の勤め先収入」が217円で0.8%、「他の世帯員の勤め先収入」が2260円で8.4%と、勤め先収入が全体の93.4%を占めていた。 平成6年においても、勤め先収入が93.1%と昵収入のほとんどを占めているものの、「他の世帯員の勤め先収入」の割合が8.4%から3.1%に減少した反面、「妻の勤め先収入」の割合が0.8%から5.8%と増加している。 これは、家族規模の縮小により他の世帯員数が減少したことと、女性の職場進出に伴う妻の働く機会が増えたことによるものといえる。
 次に、賃金所得について総務庁の「毎月勤労統計調査」によってみてみると、昭和26年(1951)9月の北海道の「きまって毎月支給する給与額(規模30人以上の事業所、サービス業を除く、賞与、寒冷地手当等は除く)は1万1551円で、その後の平均月額は、同30年1万7539円、同40年3万1761円、同50年12万3293円、同60年21万3189円、平成6年26万708円となっている。
 昭和30年から平成6年にかけての賃金は約14.9倍となったが、物価上昇分を勘案すると約3.1倍となっている。
 この「きまって毎月支給する給与額」を全国データと比較すると、昭和32年(1957)を除き、昭和41年(1966)までは常に北海道の給与額が全国を上回っている。 昭和20年代(1945~)から昭和30年代にかけての北海道は、他の産業より賃金の高い炭鉱就労者の割合が多く、このことなどからその水準を上げていたものと考えられる。


労働時間と週休二日制  総務庁の「毎月勤労統計調査」による平成6年(1994)の北海道の年間総実労働時間は、1954時間である。 前年より28時間(1.4%)減少、一応は時間短縮の方向に向かっているが、全国平均に比べ、まだ50時間も長くなっている。 このうち所定内労働時間は1833時間、所定外労働時間は121時間である。 全国平均に比べても中小・零細事業所の多い上湧別町においては、さらに労働時間が長いとみられ、同9年(1997)度から国が目指している週40時間の精度は当分達成できる状態にないのが現状である。
 北海道労働基準局の調査では、31人以上の従業員規模の企業で週休2日制を実施しているのは、平成6年度において81.4%で、全国の87%に比べ5.6㌽低い。 この中でも、完全週休2日制は18.9%にすぎず、上湧別町においては官公庁と一部大手事業所で実施されている程度である。


農家世帯収入  農林水産省の「農家経済調査」により、農家の収入から必要経費を除いた農家所得(農家所得=農業所得+農外所得)についてみると、平成6年(1994)度の世間1世帯当たりの所得は735万7800円で、昭和30年(1955)度の40万5100円と比較して約18.2倍、物価上昇分を勘案すると、約3.7倍となっている。 また、この間の農家所得の推移は、同40年(1965)度76万4000円、同50年(1975)度370万9800円、同60年(1985)度479万3000円である。
 農家所得を全国と比較すると、冷害等のため昭和31,同39,同41,同46年(1956,1964,1966,1971)度に全国平均を下回ったものの、この5年を除くと、同54年(1979)までは常に、北海道がその水準を上回っていた。 同55年(1980)度以降になると、特に、米が著しい不作となり、北海道の農家所得は全国平均を下回った。 平成5年(1993)度では、全国680万4000円に対し、539万6100円と下回ったものの、翌6年度は一転しての豊作により、全国平均を上回っている。
 農家所得のうち、農外所得を除いた1世帯当たりの農業所得をみると、主業農家(専業農家と農業を主とする兼業農家)が全国と比べ多いため、昭和31年度を除いて、戦後、常に全国水準を上回っている。
 農業所得が農家所得に占める割合をみると、昭和30年度では北海道86.7%、全国71.4%であったが、平成6年度では北海道62.8%、全国22.5%となっている。


  
第2節   勤労者対策 
湧別地方高等職業訓練校  職業訓練は、技能者、または技能者になろうとしている人たちに対して、職業に必要な知識や技能を計画的に修得させようとする活動である。 職業人として有為な技能者を養成し、これによって職業の安定と技能者の地位向上を図り、経済社会の発展に役立てることを目的としている。 日本の職業訓練は、昭和33年(1958)から「職業訓練法」(現、「職業能力開発促進法」)に基づいて実施されていたが、同35年(1960)ごろから始まった経済の高度成長は、北海道から道外企業への若年労働者の流出を招き、道内企業は深刻な求人難に陥った。
 そのうえ職業の細分化・専門化が進み、従来の徒弟制度では高度な技術習得が困難となった。 企業の雇用対策として、若年技能者の育成が重要な課題になってきたのである。
 網走支庁管内でも職業訓練への関心が高まり、湧別地方では昭和39年(1964)、板金業の上杉藤雄らが中心となり、職業訓練事業の母体となる湧別地方共同職業訓練運営会を設立した。 同会は、上湧別、湧別、去り間の3町を区域とする職業訓練所の開設を各業界の経営者に呼びかけ、上湧別町中湧別北町の光照寺の一部を借り受けて訓練所を開設した。 翌40年(1965)1月17日、正式に湧別地方職業訓練運営会を設立、渡辺正喜会長、上杉藤雄訓練所長、会員事業主37人、訓練生81人の陣容で開所した。 そして、この年に鍛造、建築、板金、建築木工、商店、自動車整備の6科、同46年(1971)に洋服科がそれぞれ認可され、順調にスタートした。
 昭和44年(1969)、労働力不足や技術革新、技能労働の変化が急進展してきたのに対応し、「商業訓練法」が改正された。 それに伴い湧別地方職業訓練運営会は、湧別地方職業訓練協会と改められ、訓練所の名称も湧別地方共同職業訓練校と改称された。 同年12月には現在地(中湧別北町)に鉄筋コンクリート一部ブロック造り、平屋建て約470平方㍍の新校舎を町が建築、ここに移転した。 教室(5)、実習室(2)、職員室、管理人室などを備え、総事業費は1221万円であった。
 さらに、昭和47年(1972)1月5日、「商業訓練法」第24条第1項の規定により、高等訓練第1類の教育を行い、湧別地方高等職業訓練校と改称した。 また、同年5月8日、職業訓練法人湧別地方職業訓練協会として認可された。
 「職業訓練法」は、昭和53年(1978)10月に全面改正された。 若年労働者ばかりでなく、労働者の職業生活の全期間を通じて必要な時に、適切な職業訓練が受けられるよう生涯訓練を目指しているのが大きな特色であった。 同59年(1984)に木工、鍛造、自動車整備、洋服の各科が廃止となり、3科となった。 平成2年(1990)10月1日からは、「労働省令」により科目履修時間が1600時間から1400時間に短縮され、科目指定も変更された。 同8年(1996)4月現在の設置科目は、板金、設備施工系木造建築、設備施工系配管、建築施工系鉄筋コンクリート施工、流通ビジネス系チ
ショッピングマネジメント、オフィスビジネス系経理事務の6科である。
 また、同年度の構成事業主は48人で、訓練生は16人となっており、延べ訓練生の数は486人に達している。


新就職・就業者歓迎会  上湧別町、上湧別町農業協同組合、上湧別町商工会が中湧別ロータリークラブの協力を得て昭和45年(1970)から毎年春に開催している新就職・就業者歓迎会は、平成9年(1997)で28回目を迎えた。 その年の春に中学・高校・大学、各種学校、講習所、養成所などを卒業し、町内の事業所や自家営業の仕事に新たに就いた人たちを祝福・激励し、立派な社会人になってまろうおとを願い開催されている。
 平成9年の歓迎会では、5月20日午後5時半から上湧別町チューリップ館で開かれ、前年より少ない27人が出席した。 松田隆上湧別町長の激励の挨拶のあと、就業者全員に記念品の文具セットが贈られた。 次いで就業者の代表が、「私たちは上湧別町2世紀の担い手として明るく住みよい町づくりに努めます」、「私たちは友愛と協和の精神を持ち、円満な人がらの養成に努めます」、「私たちは働くことに誇りを持ち、我が町の発展のために尽くします」と誓いの言葉を述べ、盛んな拍手を受けた。
 引き続き夕食会に移り、上杉昌上湧別町商工会長の祝辞、石田静夫上湧別町農業協同組合長の祝杯、就業者全員の自己紹介などが行われた。 アトラクションではビンゴゲームを楽しみ親睦を深めた。
 経済の高度成長時代は、若者が都会へ流出し労働力不足に悩んだが、経済の安定成長期に入った昭和50年(1975)前後からは痴呆の事業所への就職希望者が増加する傾向がみられた。 しかし、上湧別町の場合は、商工業界の低迷に伴い、実際の就職者は減りつつある。 まあt、かって若年労働者の主役で”金の卵”と称された中学校卒業者は、高校進学率の上昇とともにほとんできられなくなっている。


上湧別町勤労者厚生企業組合の設立  季節労働者に冬期間の収入の道を開く、上湧別町勤労者厚生企業組合が、昭和54年(1979)8月に設立された。 季節労働者の失業保険金90日給付が50日分の一時金に改定されてから、生活安定を求めて90日給付の復活が叫ばれて、その実現を目指す当面の措置として結成されたものである。 初代の理事長には相馬芳美g選ばれた。
 実際に、事業は翌昭和55年(1980)1月から行われ、町有林の手入れ、スケートリンクの整備、消火栓周辺の除雪などの上湧別町の委託事業のほか、冬期職業講習会(20日間)、ボランティア作業などがォ子案割れた。 講習を受けると1日3000円、就労すると6500円以上の賃金が支給され、1ヶ月25日間で1人当たり最低で9万2000円以上の賃金が確保されることになった。
 現在は町の委託事業として、町が回収した空き缶づぶしの作業が新しく加わっている。 冬期技能講習会(旧冬期職業講習会)は20日間全期の出席が義務づけられ、11万3000円が支給される制度に変わっている。 1回の酒楼賃金は、発足当時と変わっていない


住宅建設奨励補助事業  マイホーム時代を反映してできたのが「上湧別町勤労者住宅建設奨励補助要綱」で、昭和48年(1973)4月1日から施行された。 その内容は、上湧別町内に居住、またはこれから居住しようという勤労者が持ち家を新築した場合、上湧別町が8万円を補助するものである。 平成8年(1996)度まで、毎年利用があり、24年間で418件(1年平均約17.4件)に達した。
 しかし、事業の内容が時代にそぐわなくなってきたため、平成7年(1995)4月1日から全面改正、新しく「上湧別町住宅建設奨励補助要綱」が制定された。 この要綱は、①勤労者住宅建設奨励事業として、町内に居住する給与所得者が持ち家を新築し入居した場合、30万円を補助する、②若者定住促進住宅建設奨励事業として、町内に新たに住所を有する給与所得者が、3年以内に持ち家を新築し、年齢が40歳以下で入居した場合、③セカンドライフ受託促進建設奨励事業として、町内に転入児の年齢が40歳を超える者で町内に持ち家を新築し入居した場合30万円を補助する、という内容である。 同8年度は18件の利用があった。


勤労者生活資金貸付事業  「借りやすく、返しやすく、利子が安い」を目指した「勤労者生活資金貸付要綱」は、昭和46年(1971)7月から施行している。 町内に居住する勤労者の生活安定を図るのが目的で、上湧別町が指定した金融機関に一定の原資を預託、それぞれの金融機関は、その2倍に額の自己資金を上積みして融資枠を設定、貸し付けるものである。 同48年(1973)度からは、貸付限度は30万円以内(それまでは15万円~20万円)、償還期限は36ヶ月以内(それまでは20ヶ月~24ヶ月)へと条件が緩和され、利子の一部も町が補給するので利用する人が多かった。 最初の7年間は、1年平均約70件の利用があり、同平均貸付額も1100万円以上に上がった。 また、同51年(1976)度から季節的に就労する勤労者の生活安定を図るため、冬期生活資金の貸出貸出制度を新設、1世帯18万円を限度に、特に利子を安くして貸し出した。 こちらは、同5年(1981)度ごろまで毎年10件前後の利用があった。
 しかし、全体的に住民の生活が豊かになってきたのに加え、カードローンの普及などにより、お金がより借りやすくなった。 また、季節勤労者にしても国の施策が浸透して通年雇用が広がったため、これらの貸付制度はほとんど利用されなくなった。 一般の勤労者生活資金は、平成6年(1994)度以降、冬期生活資金は同3年(1991)度以降利用者がなく、同9年(1997)3月31日で廃止された。


商工業勤労者への結婚祝金贈呈  上湧別町は昭和44年(1969)から農業後継者の結婚の際、記念品を贈呈し祝福激励していたが、同47年(1972)4月1日から「上湧別町商工業勤労者の結婚記念品贈呈要領」により商工業勤労者にも拡大した。 対象は町内に居住し、町内の商工業に努める者、または商工業の後継者で、結婚後も引き続き町内に居住することが確実な者である。 結婚しようとする者に記念品を贈って明るい家庭づくりと勤労意欲向上に役立ててもろうのが目的で1万円相当の記念品を贈呈してきた。 平成8年(1996)4月からは「上湧別町商工業勤労者の結婚祝金贈呈要領」の開盛により、結婚祝金1万円を贈呈することにしている。 同9年(1997)4月にも「結婚祝金贈呈要領」が改正され、結婚祝金は3万円となっている。 昭和50年(1975)度以降、贈呈は毎年お粉和あれている。

 
第3節   労働運動 
労働運動の変遷  第2次世界大戦後の民主化の流れに乗って、労働組合活動も解禁となり、拡散牛別に組織化が進んだ。 昭和24年(1949)の労働組合組織率は、55.8%と戦後の最高を記録した。 食糧をはじめとする物資不足、インフレなどを背景に労働組合の闘争目標は、いきおい生活防衛に向けられた。
 昭和30年代(1955~)に入ると、組合の組織化はさらに進んだ。 社会が安定、産業経済が急速な成長を遂げるに従って、中央では社会主義政権樹立への政治闘争が高まった。 また、海外の労働者とも手を結び、世界の民主勢力を結集する活動にも力が注がれた。 政治闘争の最大のものは、日米安全保障条約改定反対の闘争(安保闘争)である。 同34年(1959)から翌35年(1960)にっかけて全国的に展開され、とりわけ同年5月19日の自民党単独強行採決に対する抗議行動は、全国に及んだ。
 一方、地域の労働組合は、労働者の生活と地位の向上や諸権利の獲得に向け運動を展開した。 昭和29年(1954)、上湧別、湧別両町の労働組合によって湧別地方労働組合が結成され、上湧別町における労働運動も地域的な連携を強めながら、より活発化し、護憲運動、反公害闘争などにも活動を広げ、地域の広範な住民運動ともかかわって重要な八久和ありを果たすようになった。 政治闘争では、支援政党を社会党1党に絞り、組織からも町議会議員候補を擁立、議会勢力の拡大に努めた。 同30年の上湧別町議会議員選挙では、社会党公認の立野信男が、初めて湧別地方労働協議会の推薦で最高得票で当選している。 また、同36年(1961)には文部省の学力テストに対して北海道教職員組合が阻止行動に立ち上がり、教職員の組合活動が激しくなった。
 昭和40年代(1965~)の労働運動は、労働条件の改善、賃上げ要求など生活向上のための闘争が春闘、秋闘を中心に展開された。 同30年代後半からの経済の高度成長が、神武・岩戸景気をもたらし、生産の向上とともに、労働者の賃金も上昇させた。 完全雇用が達成され、労働力不足がさらに全国的な賃金を押し上げ、労働組合の闘争に拍車をかける結果となり、安保反対などの政治要求と結合させた統一行動の規模がいよいよ大きくなった。 同47年(1972)、湧別地方労働組合協議会は、上湧別町と湧別町に分離され、上湧別町労働組合協議会(地区労)が誕生した。 同46年(1971)と同50年(1975)の上湧別町議会議員選挙では、いずれも組織内推薦候補の原昭二、頓西国一夫、北原良男、福島憲次郎、佐々木克郎が当選した。 組織内推薦候補が5人も当選したのは、後にも先にもこの2回だけである。

 昭和50年代は、生活防衛と企業防衛のはざまで、資本・経営側と同心円的な関係にある企業内労働組合・労働者と、国や地方公共団体などが後ろ盾になっていて倒産などの心配がない日本公共企業体労働組合協議会(公労協)、日本官公庁労働組合協議会(官公労)との間に、労働組合意識に大きな隔たりがみられた時代である。
 昭和年11月26日の公労協・公務員共闘ストでは、国鉄全線で史上最長8日上湧別んにわたり192時間が運休、さらに郵便と電信・電話も拠点ストでストップしてしまった。 民間の労働組合では考えられない事態を招き、国民生活は大混乱に陥った。 この年の労働組合組織率は、34.7%に落ち込んでいる。
 こうした状況のもとで、労働戦線の統一を求める声が高まり、昭和56年(1981)12月14日、総評系5単産を含む民間39単産が参加して統一準備会が発足した。 そして、翌57年(1982)12月14日に、全民労協が設立され、41単産423万人が結集した。
 上湧別町においては、地区労が昭和50年の町議会議員選挙の組織内推薦候補を5人当選させ気勢を挙げたが、雪印乳業(株)の撤退(昭和54年)、池内工業の合理化(同56年)により、加盟組合員が大幅に減った。 しかし、全道的な政治闘争では同58年(1983)4月の北海道知事選挙で革新系無所属新人の横路孝弘の当選を勝ち取り、同年1月8日の衆議院議員選挙で、道内から女性候補を含め社会党候補10人全員の当選を果たして大躍進した。
 昭和60年(1985)から平成年代(1989~)にかけて、日本の労働界は大揺れに揺れた。 日本電信電話公社と日本専売公社が同年4月1日をもって民営化され、日本電信電話株式会社(NTT)と日本たばこ産業株式会社(JT)が新発足、同62年(1987)4月1日付で国鉄が分割民営化され、JRグループ11法人と国鉄清算事業団がスタートした。 こうした公労協の混乱をにらみながら、総評、同盟、中立労連、新産別の労働4団体の枠を超え、日本労働界の統一を目指した全日本民間労働組合連合会が同年11月20日に結成された。 62組織、555万人が参加したが、労働組合の組織率は28.2%で低落傾向が続いた。 翌63年(1988)7月、総評も大会を開いて組織の解散と連合への参加を正式に決定した。 そして、民間労働組合と官公労働組合が大同団結して78単産、800万人の巨大な労働者組織、日本労働組合総連合会(連合)が結成されたのは、平成元年11月21日である。

 しかし、この労働戦線の統一の動きに対抗するように、組織人員140万人の全国労働組合連合会(全労連)、同50万人の全国労働組合連絡協議会(全労協)が発足した。 このため、日本の労働界は3つの全国組織が軸となったが、連合は、全国1223万人労働者のうち65.4%を占め、最大の影響力を持った。 連合北海道が発足したのは、連合結成2ヶ月後の平成2年(1990)2月1日のことである。 道内労働運動の中核を担ってきた全北海道労働組合協議会(全道労協)も同6年(1994)1月321日、44年間の歴史に終止符を打った。
 もう一つの大きな動きは、労働運動が体制・資本側などとの協調路線へ方向転換したことである。 平成6年7月19日、社会党は中央執行委員会で非武装中立という基本的立場を放棄し、自衛隊の合憲、日米安保条約の堅持、日の丸・君が代の国旗・国歌としての認識、稼働中の原子力発電の容認などを決定した。 一方、日教組も文部省と和解し、同7年(1995)9月3日の定期大会で学習指導要領の容認や日の丸・君が代問題などの棚上げをお決めている。 東西ドイツの統一、ソビエト連邦の解体などにより、戦後長く続いていた東西の冷戦構造が崩れ、イデオロギー(特定の政治的立場に立つものの考え方)偏重の対立が影を潜め、保革の枠組みも不明確になっていった。
 このほおか、「勤労婦人福祉法」を改正した、「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」(男女雇用機会均等法」の施行(昭和61年4月1日)、週44時間労働制の導入(平成3年4月1日)、公務員の完全週休2日制の実施(同4年5月1日)、などが行われ、徐々に労働条件も緩和されたが、平成2年のバブル経済の崩壊により雇用状況が悪化するなど、新たな労働問題が浮上している。
 この間、上湧別町労働組合協議会は、厳しい労度王問題に直面した。 まず昭和62年3月19日に国鉄湧網線、次いで平成元年4月30日にJR名寄本線が廃止され、職員の配置転換が行われた。 これにより、上湧別町内の労働組合員は大幅に減少した。 地域ぐるみの廃止反対運動もむなしく、合理化の波に押し流された結果であった。 さらに、NTT中湧別営業所が同6年8月31日に上湧別町から完全撤退し、北見支店に集約されたため、またも大きな打撃を受けた。


遠軽地区連合会上湧別支部の結成
  日本労働組合総連合(連合)、連合北海道の発足を迎えて、北海道内でも下部の組織づくりが進められていたが、連合網走地協(連合北海道網走地域協議会)、遠軽地区連合に引き続き、平成5年(1993)11月26日、遠軽地区連合会上湧別支部が結成され、23年の歴史を重ねてきた上湧別町労働組合協議会は解散した。 上湧別支部は、上湧別町労働界の結集軸としての期待を担い7組合、組合員178人でスタートした。会長には、上湧別町労働組合協議会会長だった岩瀬昌俊(情報労連)が引き続き就任した。
 運動課題としては、①春季生活改善闘争の推進、②労働諸条件を高める闘い、③政策・制度闘争、④道民(地域)運動の取り組み、⑤組織強化の闘い、⑥教育・文化活動・メーデーの取り組み、⑦政治に関する取り組み、⑧労働者自主福祉運動、⑨地域活性化の取り組み、⑩不一致課題の運動を保証する方策、の10項目が掲げられた。 しかし、この運動課題にもみられるように、労働戦線の統一を目指しながらも、まだまだ多くの不一致点を残しているため、それらを過度的に担う組織として「上湧別町平和運動センター」が上湧別支部と同時に設立された。 新しい運動体としての同センターは、日本社会党(のちに日本社民党)と支持・協力関係を持って反戦・平和運動、護憲運動、原発・原水禁運動、民主主義擁護の闘いを進める組合で構成する任意大衆団体と性格づけされた。 しかし、平成8年(1996)10月の衆議院議員選挙を前にして民主党への移行を決めて、連合北海道は民主党との指示・協力関係に変更した。


組合員の推移と現況  昭和50年(1975)に581人であった上湧別町労働組合協議会加盟の組合員は、平成8年(1996)の遠軽地区連合会上湧別支部組合員では155人と3分の1以下に減っている。 総体的な人口減少もその要因だが、国鉄湧網線、JR名寄本線の廃止、雪印乳業(株)、NTTの町外撤退池内工業(株)の合理化縮小などが大きく響いている。 例えば雪印乳業(株)の撤退、国鉄の合理化が始まった昭和53年(1978)は、前年より一挙に100人も減少している。
 平成8年の上湧別支部加盟は、情報労連(組合員1人)、自治労上湧別町役場職員組合(同80人)、北海道教職員組合網走支部上湧別支会(同32人)、全逓北海道地方本部釧路地区本部遠軽地方支部上湧別(同15人)、全林野北見地方本部遠軽営林署分会上湧別(同8人)、全北海道開発局労働組合網走支部全開発西部河川分会(同8人)、北海道高等学校教職員組合遠軽支部湧別高校班(同11人)の7組合で、組合員数155人である。
 これに対し、遠軽地区連合会上湧別支部に加盟していない組合は池内工業労働組合(組合員13人)、上湧別町農業協同組合労働組合(同35人)、北海道厚生農業協同組合連合会労働組合上湧別厚生病院分会(同34人)、北海道銀行職員組合北見詩舞中湧別(同10人)、全郵政北海道痴呆本部遠軽地方支部上湧別(同8人)の5組合、組合員100人となっている。


 
     
     

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