錦町開基百年記念史 百年の星霜

昭和の小漁師
メイン

      第3章 痛恨の停車場問題  4章 わがふるさとの想い出  


 第3章
痛恨の停車場問題

全盛を誇った四号線も鉄道の駅を巡って浜市街と争奪戦を演じ、浜に駅が出来た為に
国鉄は名寄線の分岐点駅を中湧別に作った。これが四号線衰退の原因となり
又湧別町も大きな反映の機会を失ったのである。


浜か四号線かで争う  地域の開発には鉄道の敷設が欠くべからざる事として、国でも明
治29年に「北海道鉄道敷設法」を制定し、本道の鉄道計画が策
定されたが、その中に第2期計画として、湧別〜名寄間、湧別〜網
走間の鉄道があった。
 全道の各地でこの計画について、敷設時期や経路について紆余
曲折があり激しい反対運動や誘致運動が繰り広げられた。
 湧別〜網走間についても、湧別、北見の住民は北見経由を主張
し常呂地方の住民は、常呂経由を譲らず、2派が激しい誘致運動
を行った。
 結果北見経由が実現したのであるが、この線が「湧別線鉄道」と
名付けられた。
 この湧別線鉄道は、明治44年に北見(当時は野付牛)から着工さ
れた。
 そして大正4年遠軽まで工事が進み、5年から湧別に向けて工事
が始まるという時に湧別町で大きな問題が起きたのである。
 それは湧別町の停車場を何処にするかという問題で、四号線市街
と浜市街が大きく対立したのである。
 四号線住民の主張は
 「四号線市街は、紋別道路の分岐点という地の利から交通の要衝を
占めており、芭露も含めて農村地区を経済圏に収めており、商業活
動についても決して浜市街に劣らないものがある」
とし部落民大会を
開き気勢を上げて停車場設置運動を展開した。
 そしてこの運動の底流には、次の名寄線の敷設計画を睨んで四号
線駅を分岐点駅にするという構想があったのである。
 この運動は、今にして思えば正しかったといわざるを得ない。
 もしこれが実現していたら中湧別駅は存在せず、四号線駅が
その代わりを勤めたろうからである。
 一方浜市街の主張は
 「もし四号線駅ができたなら、本村商業の中心地であり且つ物資
の集散地市場であり、海陸連絡地である浜市街は勢力分散し、繁栄を
妨げられるのみならず両者とも発展を阻まれる。それより終点の浜
市街に停車場を作れば、浜市街より四号線まで人口が密集し軒を
連ねて一大市街ができることは確かである。
 今の所四号線は司法に交通の便も良く貨物の出入りもあり、村の
将来を考えれば目の前の利益にとらわれずに停車場を考えるべき
である」
というものであった。
 また四号線部落の中には、浜市街に停車場を作ることは終着点で
あるから良い。
 四号線には簡易停車場でも良いから停車場を作れという意見もあ
った。
 そして「近い将来工事にかかる湧別〜名寄間の鉄道も下湧別駅
まで延長され、湧別〜網走間の鉄道も下湧別駅が基本となる」
という今考えると随分甘い考えもあったのである。
 村民大会を開き四号線に停車場を設置するという運動に賛成する
住民の請願書の署名も7百何十人にも達した。
 そして村議会でも激しい対立となり、論争を繰り返し、裁決の結
「5対4」「四号線に停車場を作ることは、湧別市街繁栄の障害
となる」
として否決されたのである。
 大正5年下湧別駅は開業したが、その翌年名寄線の分岐点に
中湧別が内定したことを聞き急遽村議会は「分岐駅は下湧別にす
ること」「四号線に簡易停車場を設置すること」の国鉄宛の上申書
を全会一致で可決したが、時既に遅しでこの上申書は無視され
中湧別に分岐点駅が設置された。
 湧別町史はこのことについて
 「結論から言えば、四号線駅の設置が実現していたら、分岐点誘
致実現の可能性は十分にあった。極言すれば、湧別線の終点を四
号線にして「下湧別」として置けばなお有利であった。
 今の湧別駅では名寄線にしても湧網線にしても急カーブで列車の
転換操作をする余地がなく、各局はすべてが中湧別に持っていかれ
てしまった。
 現在の湧別駅を中心にして浜市街と四号線市街を繋ぐ大市街をと
言う発想もわからぬではないが、なぜ分岐点としての地理条件を
見抜けなかったのか。
 綱引きで浜市街が勝って駅を引っ張り込んだでは割り切れない
思いが痛感されてならない」

とくやしがっている。
 また上湧別町史はこのことについて
 「中湧別は下湧別と四号線の停車場争奪戦によって一進一退
の状況にあった。結局発展してきた浜市街によって四号線説は潰さ
れてしまった。このため四号線駅実現によりその運命が危ぶまれた
中湧別停車場の設置は確定的になった」

として四号線派が破れたことを歓迎している。
潰れた四号線分岐点駅構想  その後、時が経過して昭和41年ころ、湧別漁協の組合長であった
森垣幸一の長男が、国鉄に勤務していて、病を得て療養中であった
父を見舞いに来たときに、土井重喜と会い、不合理な名寄線と湧網
線の話となり、これに共鳴した長男の森垣常雄の斡旋で、国鉄本社
に陳情し、名寄線と湧網線を四号線で結ぶという案が実現しかけた
ことがあった。
 しかしこれはもう一歩のところで、国鉄合理化によって潰されてしま
った。(注=詳しくは第4章の座談会の「再びチャンスを逸する四号線」
を参照)
 ただ森垣課長の配慮で湧別駅は、湧網線の湧別駅でなく、名寄線
の湧別駅に変更され、後の赤字線廃止の中にあって名寄線のため
わずか2年であったが延命したのである。
 しかし平成元年4月30日その名寄線もついに72年の歴史を閉じ、
そして四号線簡易乗降場も消えてしまった。
裏を通った列車の思い出  私が錦町に移ったのは、昭和49年の11月ですが、その時は
裏の線路を走っていたのは、もうレールバスかディーゼルカー
だったと思います。ただ貨物はSLが引いていました。それも一
両か二両の貨車を引いて。
 朝の出勤前の一時シュポシュポと車輪の音も力強く走るSLを
窓から眺めたものでした。
 その頃の列車の本数は四往復位だと思いましたが、最後には二
往復になり専ら通学列車となりました。したがって学校の休みの
日曜日などは列車に乗っている人が誰もいないことが多かったの
を思い出します。
 放牧されている牛が、逃げていた牛かが線路を歩いていて、け
たたましい警笛に私たちが吃驚したこともありました。
 私が湧別駅から列車に乗ったのは昭和40年代頃までで網走支
庁に行くには良く乗りました。
 しかしそれも車が普及してからは殆ど乗らなくなりました。
 (注=名寄線では昭和31年1月よりレールバス運行、同年11月
からディーゼルカー運転、昭和50年5月SL運転廃止)
 平成元年4月30日名寄線が廃止に決定し、この日が最後の列車
が走る日となりました。
 わたしは組合長が不在であったので代理(当時漁協勤務)でお別
れ式にカメラを持って参加しました。湧別中学校のブラスバンドが
鉄道唱歌などを演奏する中、最後のディーゼルカーは二両編成で到
着し、お別れ式のあと一同列車に乗り込んで中湧別までいきました。
 車内は全国からの鉄道ファンや関係者で満員でありました。これが
郷土を走る最後の列車かと思うと、何とも言えない寂寥感に襲われ
たことを思い出します。
 その日はダイヤ通りに朝と夕方の二回走りましたが、夕方の列
車の時に私は、カメラを持って自宅の裏で前から走ってくる列車
を写し、折り返し湧別を発車した文字通り最後の列車を四号線の
簡易乗降場で待ち受けて何回もシャッターを切りました。
 今もその時の写真を眺めながら感無量です。
 あの線路も外され、今はリラ街道として生まれ変わろうとして
います。もう何年かしたらここを列車が走ったことを知る人も少
なくなっていくことでしょう。
              (富永 隆)
その頃の四号線市街  大正時代の四号線市街の繁盛振りは、今ではとても想像できない
が当時、冬になると買物や用足しに唯一の交通手段である馬橇に
乗って、各地から大勢の人が集まった。馬橇の列が市街中に溢れ、
行き来する馬橇の鈴の音が「しゃんしゃん」と賑やかに響き渡った
という。
 そんな四号線市街の店の一軒に、村雲豆腐店があったが、豆腐店
は村雲さんのおばさんが一人でやっていた。この豆腐店はちょっと
他の豆腐店と違っていて、豆腐を煮付けても売っていたのである。
 この煮付けた豆腐の味がまた美味しかったので、何時も昼時にな
ると店の中は満員の有様で、ご飯の代わりに食べたり、紋別通りの
馬車追いさん達が、豆腐の味噌汁を作ってもらって昼食をするなど
大変繁盛していた。
 そんな村雲豆腐店に、二号線道路の工事に来ていた石川林作とい
う人が住み着き、おばさんと結婚して豆腐の原料の大豆を石臼で引い
ていたが、この人が大変読み書きが達者で弁も立ったという。
 この村雲豆腐店の隣りに外島という飲食店がありこの店も大勢の客
で繁盛していた。しかし中湧別に駅が出来て賑やかになると中湧別
に引っ越していった。(以上の話は土井さんからお聞きしました)
 鉄道が建設されて駅が浜市街に出来、列車が通ると駅を中心とし
て人や物資の集散が始まり、浜市街と中湧別に挟まれた四号線市街
は次第に人の足も減り、これに伴って商店も移転や廃業が続くよう
になった。
 中央座(劇場)が大正5年に浜市街に移り、大正9年には四号線郵
便局も中湧別に移転し、旅館や飲食店なども移転、廃業をし、かって
の面影は次第に失われて、物資の集散地から集落の市街地へと
変貌をしていったのである。
 昭和10年頃の四号線市街の状況は、その頃四号線に住んで馬具
店を営んでいた鈴木甚吾の子息の鈴木寿広(旭川在住)が作成した
見取り図によると次の通りである。
 魚屋(近藤、一林)、医院(戸田、佐野、後に佐藤)、時計店(酒
井)、菓子店(藤田、千葉)、雑貨、呉服店(山田)、雑貨店(山
口)、呉服店(中川)、豆腐店(村雲)、馬具店(鈴木)、蹄鉄業
(若杉、柿崎)、馬車馬橇製造(窪内)、建具店(梅木)、精米所
(松永、農協、高木)、家畜商(井藤、浅野、田中、伊藤)などが
十字路を中心にとして営業していた。
topへ戻る

第4章
わがふるさとの想い出

「ふるさとは遠きにありて思うもの」とは室生犀星の詩の一節ですが、
幼い頃、又は少年、青年時代を四号線で過ごした方々がふるさとへの熱き思いを寄せて頂きました。


裏の小川      旭川市  鈴 木 寿 広
 
 目を閉じると一番先に浮かんでくる風景、それは四号線部落の
東側、鉄道線路と家並みの中間を流れている清流、これが裏の
小川である。
 固有の名称があるのかは古老、両親からも聞いたことがない。
 流れの源は五号線の横沢さんの裏手、鉄道道路と中間、直径
7〜8bもあろうか、深さ3〜4b位か、幼い頃としては大きな大き
な池だった。
 その中央部の底より砂をもくもくを盛り上げ湧水している。透明で、
冷たさも格別、川藻類もなく、枝木が2〜3本砂に埋もれていて、
時折小さな魚(うぐい、ふな、とげ魚など)が泳いでいた。
 この溜まりから流れ惣骨谷さん(花苗、種子など売っていた)の前
を流れており、おじいさんがこの水を利用して庭園、公園風に造成、
池も2〜3ヶ所、近所の人々の目を楽しませてくれていた。鷺鳥が
5〜6羽よたよたと板橋を渡っていた。
 この流れは、東地区に通じる橋の下を通るが道路から下がってい
くと板敷の、洗場になっていて近くの家の方々が洗い物に利用して
いた。
 川辺には至る所にヤチ蕗が育生、春先には真黄色な可憐な花が咲
き乱れ緑の葉と調和よく、また川藻が川幅一杯に藻成(私たちは金
魚草と呼んでいた。ニワトリの餌に鍬、熊浚いで採取して小さく切
って与えた)していて水量が多いのでゆらゆらと靡き、白い小さな
花が水面に出て流れによって、水中に入ったり、藻の緑もまた鮮や
かだったことが思い出される。
 ※平成4年テレビ放映で、静岡県柿田川の川藻の様子が、裏の小
川と同じもので今ではよほど綺麗な川でなければ生育しない。、ま
たこれをミンバ、バイカモ(梅香藻)と呼称すると報じていた。
 (梅の花のようで可憐な香りが漂うであろうと解釈していた)
ふるさと 四号線      旭川市  鈴 木 寿 広
 
 紋別郡下湧別村基線18番地(現在は湧別町錦町)ここが私の揺
籃(注=幼少時代)の地四号線なのだ。
 この四号線とは、下湧別浜市街地内より発し、一号線より始まっ
て、順次二、三、四号線と区画、さらに延伸して現在の白滝、丸瀬
布、安国、生田原までこの号線が一連番号で区分されていて、その
当時は白滝、生田原も下湧別村であったが、時勢とともに次々と分
村、現在のような町村の区域となった。
 下湧別浜市街は、家並みも整い、役場、学校、警察部長派出所、旅
館、雑貨店、呉服店等々が軒を並べていた。当時、湧別川の川口を
利用して小さな漁船がオホーツク海で漁をして、満潮時に川に入る
方式で細々とした漁業だった。今でこそ湧別の港は完成しているが、
川を利用した港のために砂に埋まり、半ば諦めのように小型漁船が利
用していた。両親が、店主(馬具製造修繕業)の島口さんに同行し、
札幌から名寄まで汽車、名寄から紋別経由で四号線まで馬車に乗り
ついでここに落ち着いたと聞く。
 当時の四号線は、交通の要衝地として、手段の機関としては、夏
は馬車冬は馬橇が唯一の交通機関だった。本州方面より、大きな貨
物船が来ると沖合に停泊、汽笛の合図により艀が出ていき、荷下
ろしをし、帰りには湧別地方の産物を積んで本州に戻り、月一回く
らいの運行だった。(以上は両親から聞いたものだ)これらを積んだ
馬車等は、浜市街から約2キロ地点の四号線で小休止、馬に餌、水
を与え、御者は食事を摂りながら酒、焼酎を飲んでいた。終わって
遠軽、紋別、芭露方面に出かけていったようだった。
 休むお店は、交差点の角にあった千葉お菓子屋さんだ。店の片側
にはいろいろな駄菓子、大福餅等が、みの判ガラス大の各桝に仕切
られた中に並べられ、石油缶にガラスをはめ込んだ容器、ガラス製の
容器などにいろいろな菓子が入れられており一目瞭然に分かる仕組
みになっていた。御者は反対側の板張りに腰掛け、背もたれは背丈
くらいもある。テーブルは年季の入った板目が盛り上がり、板面は
ガサガサして黒色にくすんでいた。持参の弁当は風呂敷でぐるぐる巻
き、柳行李の弁当箱だ。
 盛のよい飯が詰まり、隅のほうにおかずが埋まっていた。テーブル
の上に八角形のガラスコップが出てきてお婆さん(荘平おじさん
の母上)が一升瓶を抱えなみなみと盛り上がりに注ぐと、御者の
ほころぶような顔がコップに近づいて吸い上げる。
 「ウマーイ」と徴かに声が漏れた。手には弁当箱をしっかりもって
忘れられない光景だ。私たちは、すぐ側のストーブで飴玉の原料の
飴を大きな鍋で煮詰めているお婆さんの側で見ていた。土間が光っ
ている。
時計を正確に亡父の
   几帳面さ
   旭川市   鈴 木 寿 広

 6月10日、時の記念日。
 この日が来ると何時も亡き父を思い出すのである。それは、朝の
登校時刻になると、遠くから通っている小学生(五号線、川西、東
地区)が必ずわが家の軒下に入って、店の一寸奥まった柱の掛時
計を覗き、時刻を確かめるのである。
 雨、風、雪のときは、店のガラス戸が閉めてあるので、ガラス戸
に顔を当て、戸が開けてあるときは、店先に入ってくるのである。
 これもわが家は、庇が低く時計の位置が幾分暗いせいのためな
のだ。
 登校時刻に十分間に合うと判断するとゆっくりと、また時間がな
いとなれば一気に駆け出していくといった具合で生徒の目安になっ
ていたわが家の掛時計であった。
 この為に父は、毎日「正確な時計」と心に決め、ラジオの時報を
確実に聞き、絶えず柱時計を正確に合わせ、いつでも生徒が見に来
てその目安にしてやると父がいつも話していた。
 小学校は、四号線から約2キロ程で浜市街の入口付近にあって小
学生にしては少々遠い位置だった。私も8年間コツコツと通学した
ものだ。遠いなんて思ったこともなかった。あの世でもいつも「時
計を正確に」心がけている父だろう。
 時の記念日になると思い出すことである。
四号線から道議誕生谷さん     旭川市   鈴 木 寿 広
 小さな寒村僻地より同会議員として地域住民より推され、湧別村の
存在ここにありと挺身活躍されたのが谷虎五郎さんだと聞く。
 谷さんのおじさんの家は私の家のすぐ近くで裏の小道を通ると2,
3分の所で、何時も牛の世話をしており、牛乳を冷やすため井戸に
吊り下げていた。その側に流しの足のないのが置かれていて、おじ
さんが鎌を良く研いでいた姿が思い出され、子供が側に行くといろ
いろと楽しい話をしてくれ、またこの井戸の中に「亀を飼っている」
  「よーく覗いてみないと分からない」
と家のすぐ側のため内側は暗く一向に分からないが、おじさんの説
得ある言葉に目を大きく開いて覗いたものだった。(実際にはいな
かったが、当時の私どもには居るものと信じていたので通る度に覗
いたものだった)
 おじさんは村会議員を何期やられたのか、どういう形で道議会に
出て、在任期間はどの位だったかはつまびらかではない。
 両親の生存時にどうして良く聞いておかなかったのか悔やまれて
残念だ。現在四号線におられる鈴木幸雄さんの奥さん(房子さん)
がおじさんの縁の方なので、ぜひお会いして詳細お間きしたいと思
っている。
 おじさんの印象が頭から離れないエピソードがある。時は分から
ないが、小学生四〜五年くらいだったろうか。北海道長官(現在の
知事)が遠軽から紋別方面に向かうため、四号線を通過されるので
予定時刻に学校から大勢歓迎に来て道路の両側でお待ちしていた。
 ちょうどその頃川西方面から麦藁帽子に蓑を着て大きな牛を引い
て、牛の歩みに合わせてゆっくりゆっくりと歩いてくる人が居る。
 並んでいる生徒の前を笑顔で悠然と歩く人はなんと谷さんのおじ
さんなのだ。(この頃道会議員だったと記憶している)村のお偉い
方々も挨拶し敬意を表しておられ、おじさんは「もう時間ですかね」
と至って平然、家がすぐ近くなのですぐ着替えられてこられお偉い
方の通過に十分間に合った。
 このように明治維新の西郷どんのような恰幅の方でもあり、ユニ
ークな方でもあった。今も存命なら一晩がかりで谷さんのおじさん
と盃を交わしあの頃の話をじっくりお間きしたいものとつくづく思
っている。四号線にこのような立派な方が居られたことを、今なを
誇りに思っております。
幼 倶 会     旭川市   鈴 木 寿 広
 幼倶会とは、「幼年倶楽部」(月刊誌)の読者の集いの略称である。
 当時、雑誌を買ってもらっていた家庭は二、三軒くらいだったよ
うで、幼年倶楽部、少年倶楽部と折々に発刊された講談社の絵
本など毎月買ってもらった当時を振り返り只々両親に感謝して
いるわけである。
 この幼倶会とは、講談社のほうで企画、地方読者と連携をとって
四季折々の行事などに、現在の広報、スケジュール表等を追って
アドバイザーの形式をとっていたようだったと記憶している。
これも企業拡張の購読者増加の一方策なのだろう。
 この幼損金の四号線地区世話役(どのような呼称かは不明)を、
二級先輩の窪内栄さんがその窓口になり、幼少期の同年代を取りま
とめていてくれました。
 夏の行事の記憶は、あまり無い。それは夏場は至る所が遊び場だ。
川泳ぎ、小川での魚すくい、戦争ゴッコの雑草地、林地ありでそれ
ぞれ散らばっての行動ができるためであった。
 冬場になるとこれらの場が、遮断され肩を寄せ合い雪との対面だ
けになるのだ。
 まず例年の行事には、「カルタ会」。冬休みの期間中に家並順に会
揚が移っていき百人一首を楽しむ。宿になったおじさん、おばさん
も快く迎えてくれた。そして一番の楽しみがどこの家でも甘酒を出
してくれるのだ。あの甘かった昧、板粕が溶け切れないまま口に人
った思い出が、冬の静かな夜に懐かしく思い出されるのである。
 次に「スキー会」。当時の子等が全部持っていたわけではない。持
っていないものは、自家製の箱形、板張りのソリを持参しての参加
なのである。場所は五号線の横沢さんの裏の台地。ここから少し下
のほうに行くと裏の小川の水源地のある所だ。
 前日に窪内さんと二〜三人が斜面に雪を積み上げたり、ジャンプ
台を作ったり、周辺を回るコースに棒を立てたりと世話をして会場
の立ち木を利用しての講談社からの紙の旗が張られ、華やかな会場
演出に子供心に胸を轟かせ各競技に参加して汗をかいたものだ。
 前ページの写真は私が四〜五年生の頃か、栄さんの兄正さんが撮
ってくれたもの。同級生だった村長の息子の高本克郎君、駅助役の
息子杵渕三郎君も浜市街から参加され、対抗意識をむき出して競っ
たものだった。
 校外を各地域ごとに区分され、我が四号線区は五部で浜市街区が
四のー、二部に分かれておりスポーツにおいての競技ではー、二位
を何時も争っていた間柄であった。
 余談になりますが、あの頃は吹雪がよくあったようで時間を繰り
上げて集団下校、長靴を履いたまま運動場に各方面別(部落ごと)
に整列最上級生が前後について騒ぎながらの下校、楽しかった一駒
だった。
 また部落のおじさんたちは、吹雪の治まった次の日には総出で除
雪作業。当時は機械類がなくすべて人力でやっていた。また木造家
屋の時世で、浜市街から消防自動車が運行できるようにと、住民一
同が協力し、吹き溜まりで小山になっている数十ケ所を下地の固い
所まで除排雪していた姿はいまだに忘れることはない。
                  
 筆者紹介
     大正13年10月4日 四号線(基線18番地)で生まれる
  学 歴 昭和14年下湧別尋常高等小学校高等科卒業
                  (第31期生)
  職 歴 昭和14年12月国鉄に就職 下湧別駅、中湧別列車車掌区
       紋別、渚滑、桜岡、下川、上名寄の各駅で車掌、助役
       駅長を勤め53年定年で退職
       昭和55年〜60年まで旭川の観光旅行会社に勤務
四号線の想い出                  遠軽町 山 下 外 道
 (福引きで一等賞)
 小学校六年生(大正十三年頃)の頃である。
 その当時は正月というものは子供にとって非常に楽しいものであ
った。まず餅であるが何処の家でも一俵位の餅をついた。親は大変
なことだが、子供は大喜びである。それから正月のご馳走、今は大
して旨いものでもないが、その頃はご馳走であった。
 ミカンもまた嬉しい食べ物だった。今と違って四キロ詰めの箱で
正月中に二〜三箱ぐらいしか食べないから珍しく、また腹の虫が鳴
くほど欲しい食べ物であった。正月の遊びのカルタ取りも盛んで、
あちらこちらと家を渡り歩いて遊んだのも忘れられない。
 正月二日の買い初めは、各商店が福引きや景品付きで売り出しを
する。私はこの福引きの抽選を引きたくてしょうがない。母にいっ
たらそれではローソクを十箱買って籤を引きなさいといってくれた。
 嬉しくてしようがない。二日の朝は、まだ暗いうちから目が覚め
てしまった。その頃店では、表戸を開けないうちにお客さんが来て、
表戸を叩いて戸を開けさせられるのを喜んだものです。それで私も
まだ暗いのだが、表戸を叩いて開けさせるために出かけていった。
 行く先は中川呉服店。今の四っ角の農協のところにあった。案の
定店の戸はまだ開いていない。私は戸を叩いて開けてもらった。中
には、中川さんのご主人を始め番頭さんも三人位が共に待機してお
られた。
 千元の方を出して見せ「この通り当たり籤は沢山あるよ」といった。
 こよりの手元の赤い紙をつけたのが沢山あった。それの手元
を紙でくるんで
 さあ引きなさい」と差し出した。
 私はこの辺に当たり籤があったようだなと思い何本か引いた。
 所がご主人が叫んだ。
 「やあ一等賞を引いた」と。私は瞬間本当にできなかったが、ご主
人が
 「やあ真っ先に一等賞を引かれ困ったなあ」
とぼやきながら一等賞と書いてある品(中は角巻であった)を侍っ
てきてくれた。
 私は抽選で一等賞を引いたなんて初めてである。嬉しくて嬉しく
てしようがない。足が地につかないようにして飛んで帰って親に見
せた。
 親も喜び四〜五日表の人の目につくところに飾ってあったのが忘
れられない。
 (忽滑谷花園)
 私の家は四号線の基線通り二〇番地、今の山口商店の隣にあった。
 その横に裏の忽滑谷様の方へ行く小路があった。
 それを行くと小川が有った。その川の手前の右の方に小さな池が
いくつかあった。そこには睡蓮が一杯植えられていて初夏の頃にな
ると沢山花が咲いた。蕾やら開いたのやら見事であった。珍しいの
で見物に来る人も大分あった。
 私等はこの場所を惣滑谷花園と呼んでいた。その側に幅二b程の
川がある。川底には金魚草がビッシリ生えており、水は冷たくき
れいであったので飲み水にもされていた。
 この川は五号線に岩本という洋服屋があり、その裏手に湧水があ
ってそれが水源となって川になっていたもので、水はきれいで冷た
く冬でも凍らないのであった。その川を渡ると忽滑谷様の家があり、
家の両横に売る為の花が沢山作られていた。手入れもよく縦横にあ
る小路を通り見て歩くと大変な目の保養になったので花を買いに来
る人も大抵この庭を見て歩いた。四号線市街に飯豊獣医様の家があ
りその向かいに鈴木弘法様があっておまじないを業としていたがそ
こへお参りする人たちも随分ここへお供えの花を買いに来ていた。
 (鈴木弘法様)
 鈴木様のお婆さんの時代に雲水の坊さんに一夜の宿を求められそ
の人を泊めたところ、そのお礼としておまじないの仕方を教えてく
れたそうで、そのおまじないをして人助けをしているうちに段々繁
盛して本堂を新築したりで、芭露や佐呂間、沼の上、小向方面から
も客が米ていたようだ。
 (飯豊獣医様)
 元の共済組合の診療所の横の道路ばたに飯豊様の診療所と住宅が
あった。飯豊様は早くに奥様を亡くし独身暮らしであったが何時も
見習いの人が二〜三人居り炊事等をしていた。
 当時は今と違って牛はあまり居なかったが馬は多かった。
 農家には必ず馬が居り、運搬、畑仕事すべて馬であったから馬も
多く獣医様は繁盛した。しかし今と違って治療しても現金で払う人
は少なく、殆ど貸しになったようだ。農家は収穫して金が人ってか
ら払うのだが随分焦げつきもできたようで、年末には人を頼んで集
金をして貰っていたが、決してきつい催促はせず困っている人には
面倒を見たという。
 飯豊様は軍人で、在郷軍人の会長をしており、位は少尉であった。
 この頃の将校は少なく少尉様など滅多に居なかったので、飯豊様
は周囲の人からも敬意の目で見られていた。
 在郷軍人の行事や学校の式典等に行くときは、乗馬として飼って
いた道産馬に跨り、長い剣を馬服に下げて姿勢を正してパッパッと
走り行く姿は非常に格好がよかったものだ。
 晩年脳卒中となり半身不随となって、道路をのろのろ歩く姿は誠
に気の毒であった。
 しかし人のためになった人で、後年広福寺様の前に記念碑が立て
られたが本当にそれに値する人で有った。
 (岩本洋服店様)
 前述の忽滑谷様の前を通っていた小川の水源地の側の岩本様は、
四号線市街の五号線よりのはずれの湿地を越えたところに住宅があ
って、道路に面した窓辺にはミシンを置いてそれを踏んでいた姿が
よく見えた。
 この人は洋服屋だが、余技があった。それは葬式の花を作ること
が出来る人であった。その頃はまだ中湧別にも葬儀屋はなかったよ
うで、葬式には今のように生の花は絶対使わなかったので、葬式の
際は岩本様に頼んで作って貰っていた。
 葬儀の柩のすぐ側にしか花、次に白の蓮の花、次に銀の蓮、金の
蓮、菊牡丹の順に飾るのですが、岩本様はこの全部を三人位の人に
手伝わせて作った。私の母の葬儀のときも作って貰った。
 四号線にとっては貴重な人であった。後に岩本様の使っていたミ
シンを見たが、天板がすり減って板がざらざらになっていた。良く
使ったものだと驚いたり敬意を表したりした。

  筆者紹介
      大正2年7月20日生まれ
  略 歴  昭和2年湧別小学校高等科卒業  4年逓信講習所卒業
        その後留寿都局、樺太落合局を経て湧別局に26年間
        勤務 その後中湧別局を経て上渚滑局長を拝命。
        昭和50年退職して現住所に移住。 昭和22年9月より
        翌年3月まで四号線駐在員を勤める。
小川の畔で育った幼少時代     中湧別   北 川 年 枝
 その小川は既に水源が枯れて跡地には湿地に適する野草が群生
しているだけです。
 その昔、五号線に水源があるというこの小川が国道の東側に並行し
て四号線から三号線に向けて流れていました。
 幅一・五b前後ほどでその流れは実に綺麗に澄んでいて大雨で増
水することはあっても年中枯れることはなく、ドジョウ、トゲ魚、フナ・ウ
グイなどの小魚を泳がせて子どもたちの手近な楽しみの場でした。
 水泳ができるほどの水深や水量はなかったが、スカートをまくり
ズボンの裾を濡らして中に入り、魚を掬ったり、水掛をしたり出来る
手頃な子供の遊び場でもありました。
 しかし昭和初期のまだ給水設備の行き渡っていなかったこの頃は
朝夕の澄んだ水を台所の水桶に汲み貯めて、飲料水や炊事に利用し
ている言えもあったので、川を汚したり水を濁らせると居合わせた大
人に嫌われたり叱られたりしたものです。
 米を研ぎ、食器を洗い、洗濯をし、農作業を終えた後の手足や農具
を洗うなど毎日の生活用水として欠くことの出来ない小川であったか
ら利用者の多いところでは、幅の広い板橋を渡し、川底には砂利
を敷いて大変使い易いように改良されていました。
 春の川岸には水芭蕉、ヤチブキ、二輪草、蓬、芹、アサツキ、ヨシ
などが野生していました。渡しは、よく裏口から出ていっては芹摘み
をしたものです。そして川向こうの草原を越えたところに鉄道が
あり、汽笛を鳴らし黒煙を吐いた蒸気機関車が中湧別との間を往復
していました。
 そのにはもう二度と目にすることの出来なくなった風景があった
のです。夏の夜になると川沿いに蛍が飛び交っていて、団扇を持っ
て蛍狩りに出掛けたものです。紙袋に入れて持ち帰った蛍を蚊帳の
中に放して、暗がりで明滅する光を追い回したのも懐かしい思い出
です。川岸に腹ばいになり、十五夜の月明かりで男の子たちがドジ
ョウすくいをするのを水の入ったバケツを持ち歩いて手伝ったのも
はっきりと記憶に残っています。
 ドジョウは川底を滑るように泳ぎ、余り動きが速くないので笊で
よく獲れたものです。雪が降って川が凍ると長靴にスキーを履いて
川も畑も突き切って駆け回った会館も忘れられません。
 やがて氷も溶け始める頃になると、川岸の柳にできる猫柳を切り
取ってきて、仏壇や教室に飾って得意になったものです。
 この様に自然たっぷり、思い出一杯の故郷から私が転地すること
を決めたのは、家のすぐ近くの川に沿った場所にジャガイモ加工場
が出来て、その排水の溜め池から発する悪臭に常時悩まされるよう
になったからです。
 その臭いは、窓を閉じて走る車の中まで入ってきて、職場の同僚
には
 「よくこんな臭いところに住んでいるね!」と呆れられ、また東京
から初めて遊びに来た叔母はこの臭いが身体にも悪いのではと案
じる余り、一泊だけして他の親戚に移ったこともありました。
 53年に父が障害を残して倒れたのをきっかけにして、急遽転
地先を決めて住まいを計画したのですが、父はまるで湧別を離れる
事を拒んだかのように新しい住まいを見る事なく逝ってしまい、健
康だった母には転居が原因だったかのように痴呆が出始めました。
 働き者であった両親が必死に子育てをした豊かな自然の川沿いの
湧別は、若かりし親の面影と共に私の記憶から終生消えることはな
いでしょう。
 その後の三号線を含めた四号線部落は錦と字名がつけられ、今年
は入植の鍬が入ってから百年を迎えたそうで誠に感激に堪えません。
 錦町が道東を支える力強い柱の一本となって、今後も堅実に発展
を続けていくことを切望してお祝いの言葉に替えさせて頂きます。

  筆者紹介
      大正15年8月15日湧別町で生まれる
  学 歴 下湧別尋常高等小学校卒業
       遠軽高等女学校卒業
       宮城県立女子専門学校卒業
  職 歴 遠軽高等女学校教諭として勤務
       遠軽高等学校教諭として勤務
       千歳高等学校教諭として勤務
       紋別高等学校教諭として勤務
       湧別高等学校教諭として勤務
       昭和62年3月退職
湧別町の思い出


















最初に戻る
   豊中市在住  大 前 晃 作
 敗戦で日本国中が食糧事情が最悪の昭和20年、父が湧別の樋岡、
鍵谷を訪ね鮭が豊漁の話を聞き、昭和21年2月に京都市より北
陸線廻りで北海道に入りました。青森駅で殺虫剤のDDTを頭から
かけられたり、北海道に入ると駅弁が売られていたり(澱粉粕のダ
ンゴだった)しました。
 中湧別にあった武田澱粉工場に仮住まいをした後、四号線の鍵谷
の土地を借り(現スカット理容院付近)二階建ての家を父と私で建
て父母と妹二人と弟で住みました。
 私は色々な仕事をやりました。鍵谷の鉛材工場、上湧別町富美の
澱粉工場など。
 澱粉工場では私が芋の受入で秤の下に足を入れて目方を軽くし
ようとして、ヒョット前を見ると農家の人が芋を掻く棒で箱を押さ
えているのを見て思わず大笑いしたこと。芋が一杯になって秤に乗
らなくなってメッソ(目分量)で受入した時に、芋に付いている
土の歩引きの%で、その農家の人が激高して芋掻き棒を振り上げま
したが、後に私が北日本航空のパイロットとして遊覧飛行の時にこ
の人と再会し、その人が組合長であったことなどの思い出がありま
す。
 工場の従業員で夜中に澱粉を担いで農家で長靴と交換する輩もい
たりしました。
 最後の商売は隣の吉田さんが居られた家を借りて、錦の打ち直し
(ボロ綿も)を四年間やりました。
 綿屋は二千軒のお得意さんが必要とのことでしたが、家内の母(三
号線の本間)が野菜売りをしていてその顔で川西、東、中番屋、亜
麻工場などの家を紹介してもらい、古い綿屋に負けないようなサー
ビスを行いました。
 しかし道路が砂利道で自転車で綿の集荷は苦労の極みでした。
家内には随分苦労をかけました。秋の多忙の頃は夜明けまでの仕事
があり、未だに夢で綿が届いていないとの電話に慌てることがある
ほどです。
 工場と三輪車、次の飛行機の訓練費が儲けでした。
 これだけ儲かっていても心の中では満足できることがなく、時折
飛んでくるセスナ機に屋根の上から日の丸の旗を振っていました。
 四年目に綿屋を買ってくれる人が現れ、昭和31年9月15日に
綿屋の引き継ぎをしました。
 このほか思い出としては、花札やバクチで一晩警察の留置場に
お世話になったこと。亡くなられた新井氏や市川氏とある人を村長
選に担いで選挙運動したこと。田畑氏に唆されて消防の梯子登りに
挑戦したことなど、懐かしいことです。

   筆者紹介
   大正13年6月 大前秀水の2男として奈良県で生まれる。
   昭和14年3月 上士別村成美尋常高等小学校高等2年卒業
   昭和14年5月 大阪府北野中学夜間部中退
   昭和19年3月 鳥取県米子市米子航空機乗員養成所卒業
     〃       浜松陸軍航空隊に入隊し東南アジア各地を
             転戦
   昭和21年3月 下湧別村基線23番地に移住し31年まで
             湧別町にて過ごす。
   昭和31年9月 神奈川県藤沢市飛行場で事業用操縦士訓練
             を受け免許を取る。
   昭和32年6月 北日本航空(株)に入社
   昭和37年12月 定期路線機長となる。
     その後北日本航空ほか3社が合併して日本国内航空(株)
     となり昭和46年6月さらに2社が合併して東亜国内航空
     (株)となる。
   昭和57年6月 定年により退職したが嘱託により機長勤務
             を続け59年6月米子ー大阪のフライトを最後
             に退職。
     総飛行時間1万89百時間 利用した飛行場と空港99ヶ所
私の記憶の記
 開拓時代の自然の残る
 大正10年〜昭和8年頃まで
    東京都田無市在住   小 松 立 美

四号線に缶詰工場

 私が小さい頃、家から30米程西側に1軒ポッンと家が建ってい
た。
 姉達の話では、昔中川商店で経営していたハマグリ(注、ハマグリ
は東北以南にしか棲息しないのでホッキ貝ではないかと思われる)
缶詰工場の家なのだそうだ。
 うす暗い建物の内部は、早くに機械類は持ち出されたらしく、只の
ガランドウだったのですが、まだ幼い頃の私たちには何となく不気味
に思えたものでした。
 昔湧別の浜では、大量に質の良いハマグリが獲れたそうです。買
値も良かったのでしょう。結局乱獲となり根絶してしまったといい
ます。(注、昭和43年から棲息が確認されて操業している。また40,
42,49〜51、61,62年に稚貝を
放流し資源の保護に努めており、最近は年間50〜60トン、金額
で4〜5千万円を水揚げしている)その後工場は閉鎖されたらしい
のです。
 子供の頃にその建物の前を通る度に、あの缶詰特有の甘い匂いが
しました。その後建物が取り壊されても長い間匂いは消えませんで
した。土に染み込んでいたのでしょう。とても四号線に缶詰工場が
あったなんて今でも信じられぬ思いです。

桑の実の思い出
 缶詰工場から15米位西側はヤチ(湿地)になっていて、そのヤ
チに沿って桑の木が5〜6本植えられていた。古い木らしく10糎か
ら15糎程もある太い木になっていました。
 昔桑の木を植えて蚕を飼い、繭を採って織物をしていた人が居た
そうです。
おそらく故郷への懐かしさならではと思うけれど、その名残の木に黒
い実がビッシリ成るのです。
 口の周りを黒くしながら食べた実は、結構粒の大きなものでした
がその内に飽きてしまうのです。後は小鳥の餌になるだけでした。

正月の百人一首取り
 正月には四号線でも大分前から百人一首のカルタ取りが盛んで
あったとは聞いていましたが、詳しいことは知りません。
 誘われて姉達と豊治おじさんの家であったカルタ大会に一度参加
したきりですから。その夜は結構若者達が大勢集まり賑わっていま
した。
 読み札は、厚紙で出来ていて、取り札は読み札と同じ大きさで、
3粍程ある厚さの札でした。これは北海道独特のものだとも聞か
されました。
 私は低学年でしたが、その時3回ほど仲間入りして2〜3枚の
札を受け持ってやらせて貰いましたがもうてんで歯が立ちません。
 読み声のアアとかクウとかの声だけで、木の札が飛んでしまうの
ですから私は自分の鈍さを思い知らされ、それ以後百人一首の
カルタ取りに参加したことはありません。しかし思い出の一つです。

水田と水車
 岩佐の豊治おじさんの家には池があって足で踏む水車があり水
田があった。小学三年生の頃水車が珍しくて見に行ったことがある。
 その日は、豊治おじさんが足で水車を回して池の水を汲み上げ、
水田に水を補給していたからである。
 私がボケーと眺めていると
「やって見たいか」というから
「うん」と答えると替わってくれた。水車に私が乗ると
「ナァー昼まで2時間やってくれたら5銭やるがどうだ」
「うんやる」そう答えると私はザァザァと水を揚げ始めた。
しかしである。この単調な仕事が8〜9歳の子供にはもう大変な
苦痛を伴うものだた私は初めて知ったのである。
 私は歯を食いしばってやっと2時間の水汲み揚げを終えることが
出来たのである。
 おじさんは約束通り5銭をくれた。私はお礼を言うと家へ素飛ん
で帰った。
 それから後水車に乗ったことはないし又見に行ったこともない。
懲りてしまったのである。
 豊治おじさんが早くから水田で稲を作っているのは知っていた。
 寒くなり水田に氷が張ると姉弟で滑りにいき、良く頭を打って痛い
思いをした思い出がある。

取り残しのリンゴ
 豊治おじさんの家には、早生や中生や晩生のリンゴの木が沢山植
えてあった。
 当時は何処の家でもリンゴの木は植えてあった。木の多い少ない
はあったけれども。
 早生リンゴも終わりの8月末のある日
 「おじさん、あそこに取り残しがあるから頂戴」
 私は枝のテッペンを指さした「へェーまあタボちゃんの目の良いこと」
と感心しながら「まあいいだろう」と許可してくれた。私は飛ぶように
家に帰ると虫捕りに使った道具と長い釣竿を待って大急ぎで引き返
し、虫取りを釣竿にしっかりと縛りつけた。
 テッペンの枝のリンゴ二つは難なく取り込んだ。一つをおじさん
に渡して一つを私の口へ。見ると皮が弾けて割れている。何とも言
えぬリンゴリンゴした香りがする。一口食べるとアイスクリームの
様に口の中で解けて口中一杯に広がる。
 「ワアうまい」とおじさんの顔を見ると
 「ほんまにこりやうまいわ。来年からは私だけで食べよう」
と私をからかった。
 この後こんな美味なリンゴを味わった事はない。
 リンゴの木の他に大粒の実が成るスモモの木とサクランボの木が
一本植えてあった。一度だけだが赤い実を三粒ほど採ってくれたこ
とがある。
 何ともいえぬ香りと甘い味は、長い間口の中に残ったのを記憶し
ている。
 チビの頃の私には、豊治おじさんの家は魅力のある家だった。

正月二日の買い初めの橇
 毎年の事であったが、正月一日の十二時を過ぎる前後になると川
西方面からチリンチリンと馬橇の鈴の音が聞こえ始める。
 外は雪明かりとはいえ暗いのにである。晴れた夜も、大雪の夜も、
風の夜も毎年変わる事なく買い初めの馬橇は幾橇も通るのである。
 もちろん前年の作柄次第で多く通る年と少ない年はあった。
 馬橇は浜の市街へ向かう橇や、中湧別へ向かう橇、又四号線の山
田商店や中川商店で買い初めをする橇も有ったことと思う。
 商店ではこの日のために何かと準備をして待ち、一等賞や二等賞
は大口の買い初め客か古い客筋に何とか当てさせ様と苦心するとい
う。
 その為色々な手段や策があるとも聞いたことがある。
 私の家では、買い初めなどした記憶がないがとにかくあの正月二
日の夜に買い初めに行くチリンチリンとなる鈴の音は、忘れることの
出来ない懐かしい思い出の一つなのである。

山西の主と脱獄凶悪犯
 この事件が起きる大分前に、網走の監獄から凶悪犯が脱走し
たと新聞で報じられていたが、多くの人は余り気にせず忘れて
いたような有様だった。
 その夜山西家では、夕食後主の三次が新しい鍬の柄作りをし
ていた。
 その時突然 「親父やられたあ!」との悲鳴が馬小屋から聞
こえた。
 三次は反射的に鍬の柄を握ると馬小屋に走った。
 馬に夜の餌をやりにいった長男が腹を押さえて柱に寄りかかり
「奴は逃げた」と叫ぶ。
 その伜の声を聞いて三次は犯人を追った。
 国道を川西に向かって走る黒い影を三次は見つけると必死で
追った。ただ伜の敵討ちをする心で走った。やがて橋を渡り川西の
本宮家前の小豆畑で追いつき格闘になった。
 激しいものだったらしい。異様な夜の気配に部落の人々が気付い
たとき「バスン、バスン」と西瓜を割るような音が聞こえたといい
ます。
 やがて現場に集まった部落の人たちが見たものは、頭を打ち砕か
れて倒れ伏した凶悪な脱走犯と、血染めの鍬の柄を握って立つ山西
の三次の姿であった。
 山西の三次は高知県安芸町(現在は市)西浜の出身で西浜
の八幡宮の境内にある力試しの五〇貫石(約百九十キロ)を担
ぎ挙げ、またその石を差し上げたという怪力の持ち主で、草相
撲でも無敵の大関と言われた豪のであったそうです。
 その三次と互角に渡り合った脱走犯も柔術伝(柔道四段程)の達
者であったと後ほど分かったそうです。
 如何に凄まじい格闘であったのか四坪ほどの小豆畑がパンパンに
踏み固められたと言います。
 その時、一寸ノミも発見された由です。また脱走犯は馬を盗むつ
もりだったのだと皆の推理でした。
 その後三次には、お咎めはなく、後ほど道庁より盃を貰ったとか
で大変な評判になりました。この話は幾人もの人から何度も聞かさ
れたものでした。

ホタルの乱舞
 吉村家の裏(注、今の農協の整備工場の辺り)と国道を挟んで、岩
佐豊治さんの家の東南部から、片岡さんの家の西部まで一町歩近く
のヤチ(湿地帯)が広がっており、ヤチにはヨシが密生していた。
 このヤチがホタルの大生産地であった。やがて若いヨシが、二米
近く伸びる頃になるとホタルの乱舞が始まる。
 幼い私も、姉達とともにホタル狩りに行き、ピカピカ光輝き
ながら広いヨシ原一帯を、覆い尽くすほど華麗に飛び交い、乱
舞するホタルの見事な光景は忘れえぬ思い出となって今も瞳の奥
に焼きついている。

四号線の大火 (わが家の消滅)
 四号線の火事は、秋の快晴の日でお昼前後と記憶している。(注、
昭和六年十一月)
 先生に「四号線が火事だ。四号線のものは皆帰れ」と言われて吃
驚して鉄道の線路伝いに走って帰った。
 途中四号線方面を見ると、黒い煙がモクモクと上がっているのが
見えた。
 又四号線の十字路辺りでは、消防の人たちが忙しく大勢動き
回っていた。
 私はそんな様子を暫くボケエツと眺めていたが、わが家へ帰
ろうと遠回りして浅野さんの家と藤田菓子店の間を技けてわが家の
方をフト見ると、アアッわが家が見えない。
消えてしまっているのである。
 私は、信じられぬ思いで走って帰ると姉二人は焼け跡で泣いてい
た。わが家は哀れ無惨にも灰だけになっていた。
 そして馬小屋も灰に。馬は幸い朝早くから河原に放してあったの
で無事であるという。
 「どうして何で百米も離れているのに」
姉達の答えは、消防団員で丁度家にいた親父は、出火と同時
に飛び出していき、姉たち二人は燃え盛る火事を只茫然と眺め
ているうちに、何と中川商店の倉庫に火が回ったらしく、突然大音響
とともに大爆発が始まり、物凄い火柱と共に、石油の缶が次から次
へと大爆発する度に空高く舞い上がるのを、姉妹はもう吃驚して見上
げているばかりだつたという。
 やがて変な気配にハツと気付いたときには、もう草屋根の馬小屋
は黒煙をあげて凄い勢いで燃え上がっていたそうです。
 しかし二人の姉には、なぜ馬小屋が燃えているのか分からなかっ
たと言います。
 間もなく馬小屋の火が母屋に移ると、たちまち燃え広がり、瞬く
間に母屋を焼き尽くしてしまったそうです。
 それほど火の回りは早く、家の中からは何一つ待ち出すことが出
来なかったと。そういうと姉二人は、又泣くのでした。
 やがて消火が終わり帰ってきた親父が、灰だけになったわが家
の跡を見回して、ガックリする姿を只黙って見守るだけの姉
弟でありました。
 母は、この日0歳の弟を背に母の兄の葬式で安国へ行き留守で
した。
 火元は、山田商店別館の二階でした。

祭りの大灯龍、小灯龍
 湧別神社のお祭りが来ると、二号線、四号線、五号線の十字路に
四米も有る火灯龍がかけられる。又四号線の通りの一軒一軒の前に
は小灯龍が、青年団の手で立てられ、又大灯龍、小灯龍には絵が書
かれていた。
 その絵が上手だ、下手だと見て歩くのも又楽しみであった。
 私も高小二年生の秋、大灯龍に絵を書いたことがあるけれど、卒
業した年からサケマス捕獲場へ働きに行き、その後は、書いていな
い。それが今でも残念に思えるのである。

剣道の見物
 四号線の十字路の電柱に、常夜灯が付いていた。
 その淡い光の下で春から秋頃までの間、時々夕食後青年団員が剣
道の敬子をしていた。
 オメエンとかオコテエッとか、そしてドオッダドオッてな声が百米も
離れているのによく聞こえたのである。
 そんな声を聞くと四、五才頃であった私は、暗い夜道を気にしなが
らも一目散に駈けて行き見物したのを記憶している。
 青少年不良化防止のため奨励しているとかで、大変盛んであった。
 また東の住民で二刀流を使う白い髭を生やした爺さんも指導に
来ていたのを記憶している。  

浜口さん家の話
 三号線に近い西一線に浜口さん家があった。
 浜口雄幸首相と従兄弟とかで、何かあると「浜口が、浜口が」と
首相と従兄弟であるのを宣伝するので、同郷の土佐人達に陰で笑わ
れていたそうです。
 しかしこのような人物は結構多くいるのですが。
浜口首相は、浜口家への入り婿だそうで、従兄弟というのは首相
夫人が本当でした。またその首相夫人が大層な美人だともよく話し
ていたそうです。
 いずれにしても首相とは従兄弟に違いありませんけれども。
 ところがある日突然、浜口さん家が開拓農業を止めて札幌にある
浜口首相の別荘番になる事が決まり、札幌へ転居することになった
のです。
 やがて出発の日が迫ったある日の夕暮れ、一番上の姉がお別れ
の挨拶に行くというので叱られながら付いていった。
 姉は、浜口さん家の長女と同級生だったのです。私は、姉と別れ
の立ち話をする浜口さん家の長女の顔を眺めながら、いつも姉達三
人が放していたように、ホントに綺麗な人だなぁと思った記憶があ
ります。
 その後西一線の浜口さん家が在った所を通るときに、フト思い出
すことがあった。
 こんな所で首相の従兄弟が開拓者として入植していたなんてチョ
ッと信じられぬ思いを抱きながら通ったものです。

馬頭さん祭りと子供相撲
 蒔き付けが終わり、七月、川西や東や後には四号線でも馬頭さん
の祭りがあった。
 祭りは、子供の相撲が中心であった。賞品は学用品であった。
 私は、小学校時代相撲は好きであったが、何故か馬頭さんの
祭りで相撲を取った記憶が残念ながら無いのである。

種馬と種馬所通い
 馬産地であったから下湧別と上湧別の村境の六号線に種馬が
あった。
 毎年八頭ほどの種馬が十勝方面から来た。栄養と手入れの良く
行き届いた立派な種馬が、時々国道を縦に並んで歩く姿を見ること
があった。
 私たち子供は見事な種馬の行列に見惚れながら見送ったもので
在る。私も小学五〜六年生の頃は親馬に乗り、子馬を連れて、当て
馬と種付けに良く種馬所通いをした。やがて種馬が飼える前に毎年
種馬所裏の楢林の広場で、相場さんのお祭りをした。
 大人の相撲や剣道の催しが盛大に行われた。下校後が多かったの
で良く見に行った。今思えば、当時の種馬の子孫の多くが無駄とも
思える戦争の犠牲になり、戦地の果てで死んでいったことだろう。
 それに信じられぬほど馬が少ない今、種馬所通いをしている子供
の頃が妙にとても懐かしく思えるのである。

柏、楢の根っ子
 おそらく開拓を初めてから三0有余年を超すであろうに何処の家
の畑にも未だに白骨のような柏、楢の木の根っ子が五〜六ヶデーン
と頑張っていた。
 開拓の先人がこの頑固な根っ子にどれだけ苦しめられたことか。
 私も小さい頃に白骨に上がったり落っこち足りして遊んだ記憶が
あるがやがてその白骨の姿も消えた。

カラスの逆襲
 わが家から二百米程西の方角に柏、楢の林があった。
 その木も高く空に向かって真っ直ぐに伸び、二十五米以上はあり
そうに見えた。太さも目挟み(目の高さ)で一米近くもある見事な
楢の木が二十数本で林を形成していた。
 木には詳しい親父が、こんなに真っ直ぐに伸びた柏、楢の木は、
ホントに珍しいと話していたのを記憶している。
 所がこの高く聳える一本の木のテッペン何とカラスが巣を作った
のである。
 やがて鶏のヒヨコがチョコチョコと出歩き始めるとカラスがヒヨコを
狙い始めたのである。
 ヒヨコの被害があちこちの家であり、益々酷くなる。
 子カラスの餌にしているらしいのだ。わが家でも幾羽もやられた。
 怒った母の頼みで親父は、鉄砲を借りてきた。
 親父は兵隊時代中隊代表にもなった射撃の名人でもあった。小
学二年生頃であった私も親父の跡をチョロチョロと付いていった。
 ところがあら不思議、カラスの巣の回りには五〜六十羽のカラス
が集まってガァガァと凄まじい鳴き声を上げている。
 何故、どうして、その理由が分からなかった。親父は、構わず散
弾銃で簡単に巣を吹き飛ばしてしまった。
 すると、何とカラスの逆襲が始まったのである。
 ガァガァと泣きわめき入れ代わり立ち代わり頭すれすれに襲って
くるのである。
 これには親子とも仰天した。始めのうちは、ホイホイと走って逃
げていたが益々激しく、執拗な攻撃に私は、しまいにギャギャ
泣きながら必死で家へ逃げ帰った記憶がある。
 その後カラスは、巣を作らなくなったが、あの柏、楢の美林もい
つの間にか消えてしまった。惜しいことである。

座談会
 「何度もチャンスを
     似がした四号線」




































最初に戻る
 日  時  平成五年十月三日  午後二時
 場  所  土井重喜宅
 出席者  土井重喜 三沢信美 加藤秀夫 山口清一
 司会者  八田亀義
 記録者  富永隆 藤井孝一

司会「今日は皆さんお忙しい所ご苦労さまです。
    ご承知の通り今錦町では、開基百年を迎え記念史を作ろうと
    しているわけですが、古い方もだんだんと居なくなり資料の
    収集などに苦労をしているところです。
    そこで古老の方々に集まって頂いて座談会を開こうということ
    になり今日お集まり頂いたわけです。
     錦町は考えてみますと湧別町にとっては、産業的にも経済的
    にも文化的にも発祥の地といっても良いくらい歴史のある所で、
    駅の問題で四号線が勝っていたなら、紋別市くらいの町になっ
    っていたのではないかと思われます。
     それが一時は九0戸位にまで減り、現在では鉄道に変わる車
    社会の交通の要衝として二五0戸にまで増えました。
     こうした錦町の百年に亘る変遷を、この次の百年の為に書き
    のこしておきたいと考えているところで御座います。
     それではこれからお集まりの皆さんに、今までの中で心に
    残っていることを二〜三点お話し頂きたいと思います。

惜しかったパルプ工場の誘致
土井「ウムー、先程も話に出ていましたが、私にとって忘れられ
    ない事は、鉄道問題、次に元紋別のパルプ工場でこれもほんの
    わずかな差で好機を逸してしまったことです。パルプ工場につ
    いて大きな柱になって働いてくれたのが私ばかりでなく、四号
    線出身の里中一郎という人で、お父さんが山本さんの前で蹄鉄
    屋をやっていた。一郎はこの人の一人息子で、東京へ出て苦学
    をしながら日大の工学部の製紙工学を専攻した。
     そして王子製紙を経て本州製紙(注、戦後の財閥解体で王子
    製紙が分割された)に移り、本州製紙の釧路工場の新設の
    建設部長になって来ていた。
     その頃私は川の砂利を取る機械のことで北見市にいったとき
    に、本州製紙の関連会社である北見パルプで、機械修理の業
    者から北見パルプが移転するようで場所を探していると聞かさ
    れた。
     そこで釧路に居る里中に行って聴いたところ
    「極秘事項だが、候補地が二〜三ヶ所あり紋別が猛運動をして
    いて有力になっている。
     湧別が希望するなら東京の本社の社長に会った方が良い」
    ということで大口村長と鍵谷君が上京した。
     社長は、立地条件が元紋別は良くないと考えており、後日湧
    別にも来た。
     そして湧別を見て、地盤も良さそうだしと大変希望の持てる
    状況だった。
     しかし本州製紙の専務は紋別派で、会社内で意見が分かれ色々
    紆余曲折があってとうとう元紋別に出来てしまった。もう一息
    の所で惜しかったと思う。」(注、昭和二十二〜四年の頃のこと)

再びチャンスを逸する四号線
土井「鉄道問題ですが、四号線と浜市街が争って駅が浜市街に決ま
    った跡の幾年もたたない頃、国鉄は名寄線の線路をどう敷設す
    るかということで測量のセンターの杭を駅の市街のほうに一本、
    もう一本は四号線の三ヶ所に打った。国鉄の方から来て役場に
    場所の選定について話があったが、議会にかけても纏まらない。
    再び四号線と浜市街が対立してしまった。
     国鉄は、三ヶ所のうち町が選んだ所に駅を移し、名寄線をそこ
    に結びつけるという考えであったが、あまりにも湧別のほうが決
    まらないので、愛想を尽かしてそれなら湧別を通らないで隣の
    中湧別に作ることにしてしまった。
     これも全く千載一遇の好機であったが逸してしまった。」
八田「 とにかく駅については三度チャンスがあったと土井さんに聞
    いている」
土井「その後年度ははっきりしないが、大口村長が退屈になると家
    に来て話し合いをしていたが、ある日湧別駅の存続のことにな
    って、
    「これはもう少し地元の町としても考えなくてはいかんし、世
    論も喚起しなくてはならん」
    ということにないり、日頃考えている私の案を申し上げた。
     それは名寄線を中湧別から湧別を経てサロマ湖畔に向かい登
    栄床に簡易駅を作って芭露に行くという考えであった。
    測ってみると延長距離もそう大した変わらない。
     しかしこれはチャンスがないまま月日がたった。
     森垣さんが村長をやめて漁組にいたころ病気になって家で寝
    ておられたので何回か見舞いに行った。
     ある日、見舞いにいったとき息子さんの常雄さんが来ていて、話
    が先ほどの名寄線湧別登栄床迂回の話になった。森垣常雄さん
    はその時国鉄本社の第一停車場課長で、この話を聞いて大変喜
    んでくれて、民間の人がそんなに心配してくれていたのかという
    ことだった。
     それでこれは是非やってくれということで、私も協力すると
    言ってくれ、本社の陳情は副総裁にしたら良いという約束がで
    きた。
     それから森垣さん、町長、鍵谷議長それに紋別から出ていた
    松田代議士で陳情に行った。色々話しをしているうちに副総裁が
    、森垣課長に向かって、
    「これ位の金は君のところで一寸捻れば出来るのではないか」
     と言った。
     これを聞いた松田代議士は、
     「これで決まった。よかった」
    と言って森垣さんの肩を叩いたという。
     そして「帰りに札幌の国鉄の工事担当の建設事務所に良く話を
    しておけということになり、札幌によって建設事務所長に話をした
    所、もろ手を挙げて賛成してくれた。
     そんな事で大いに希望の持てる状況になり、測量隊が派遣され
    るまでになり、測量隊が派遣されるまでに進んだころ、森垣常雄
    さんから電話があり、
    「この事は時期が遅かった。
     国鉄は経営合理化のために新しい線は作らない事になった」
    という連絡が入った。
     まことに惜しい事であった。
    いまになってみれば最後は駅も撤収されたかもしれないがそれ
    までの何十年は、中湧別にとって代わり遠軽くらいの町になっ
    ていたかもしれない。
    そうなれば錦町はどんなに大きな町になったか」

酪農の先駆者として
八田「大変貴重なお話しを有難う御座いました。
    次に土井さんに次いで年長の三沢さんいお話しを頂きたいと思い
    ますが、三沢さんは昭和十年に移住されて、色々ご苦労もあっ
    たと思いますがそんな思い出の深いことを二、三お話しください」 
三沢「私は昭和十年にここへ来たのだが、その前は遠軽の家庭学校の
    酪農部を、道議をしていた私の兄が経営をしていたものだから
    その仕事を手伝っていたが、その兄が音更へ行くことになり、当
    時親交のあった大口村長から「お前はどうするのか」と聞かれ、
    「湧別に来るのなら畑を五町歩ほど借りてやるからどうだ来ない
     か。
    そして水田をやめさせて酪農を奨励したいので是非来て酪農の
    良いところを見せて欲しい」と言われて来たのです。
     思い出としては、一つは湧別橋が永久橋になるということで町
    が用地を買収して工事をお願いすることになり、私の土地と高桑
    さん、栗谷さん、簗部勇吉さんの土地がその対象となり、価格の
    交渉を南川議員が特別委員会の委員長だとかで話し合ったこと
    があった。
     高桑さんやその他の方は私に任せるというので、私は価格に
    ついて当時のビートの反収が一万円くらいだったので、
     「どうだろうその十年分くらいで」と言いそれで決まった。
     二つ目には、先ほど言った使命を帯びてきたものですから何とか
    酪農を発展させなければと言うことで、中湧別の雪印の工場の建
    設工事が昭和十三年から始まったのですが、この誘致について大
    口村長と共に色々話し合い、土井さんが農協の組合長の時に私の
    投げた一石が見事に当たって主管工場としての雪印が出来たこと
    で、価格も有利になったことです。
     三つ目は、昭和二十六年に川西、東、信部内を含めて酪農組合
    を結成したことです。
山口「昔四号線に集乳所というのがあったが」(注、大正十四年設立)
八田「あれは湧別畜農組合というのを作って、土井さんが道から貸
    付牛の枠を貰ってきて、初めて乳を搾るということになったもので
    、あれも土井さんでなくては出来なかったことです」
土井「二0頭を入れるようになった。
    しかし愈々牛が来るようになったら四号線だけでは引き受け
    る人が居ない。
     ただでないのだから相当の金を払わなくてはならん。
     それで尾萩(注、湧別神社付近の地名)や川西の一部に呼びか
    けて漸く二0頭を入れた。しかし当時は幼稚なもので、更科と
    いう人が四号線にいたが、牛の搾乳をするのに、頭を牛の股に
    突っ込んでしなくてはならんから頭が痛いので、餅を付く杵を
    股に突っ込んで絞ったという話がある」
八田「三沢さんは酪農関係では大きく貢献されたということははっ
    きりしている」
土井「やった。やった」

電線を麦で買った
三沢「もう一つ話しておきたいのは、終戦後西一線には電気は通っ
    ていなかったのです。
     国道側は相当早くから付いていたと思うのだが、西一線に付
    いたのは昭和二十二年だった。
     今と違って物がない頃だから電柱から電線まで全てこちらで
    用意しなくてはならなかった。
     電柱は、六号線の落葉松を小谷幸九郎さんから払い下げでも
    らっていたのでそれを使った。
    電線は、その頃三号線の高木義宗さんが名古屋や大阪に行って
    タイヤなどを仕入れていたので、電線をついでに仕入れてくれ
    るよう頼んだところ
    「三沢君、今は金を出しても全然買えないのだ。ここは米を作
    って居ないから麦を持ってこい」
    と言われ麦を運んだ。
八田「そうだそうだ。俺たちも麦を高木のところへ持っていって、電柱は
    自分の山から切ってきたものだ。
    次に加藤さん、どうぞ」
加藤「私の知っていることは、八田さん達が皆知っているし、今こ
    れと言って浮かんでこないのだが。
     私の子供の頃の家の付近には、高桑さん、仙頭さん、八田さん
    今の栗谷さんの所に岩佐さん、山西さんなどがいた。
     付近の土地は今のように平らでなく凸凹があり、徳に堤防の付
    近は堤防を盛り上げるのに近くの土を掘りあげたものだから大き
    な穴が開いて私の所なんか五ヶ所位あった。
    とにかく公共の為だから協力せよということであった」
山口「弟の土地なんか今でもその堤防の土を取ったものだから低地
    になってしまっている」
加藤「だから昔の堤防は石なんか入っておらず土ばかりだ。 
    たこ人足がモッコで担いで作った」
三沢「それと錦町にとって忘れられないものに、中学校裏の大排水
    がある。つまり明渠だ。
    あれは昭和十九年だと思う」
加藤「あれは学徒勤奉隊が来て掘った工事だった」
三沢「とにかく終戦後からは目まぐるしく変わった」

華麗な宮崎一族
土井「加藤さんの実家である安藤さんの家は、今の加藤さんの家の
    近くにあったが、そこからちょっと行った所に仙頭さんがいて
    そこの川の辺りをマクンベツと言ったが、そこに宮崎義助とい
    う老夫婦が入っていた。
     義助という人の息子の寛愛というのはうちの親父など団体
    を連れて入植した人だが、引率してきたときは、早稲田の角帽
    を被りまだ学生時代の時だったと言うんだな。
     息子が三人いてもう一人は、村長にもなったし湧別運河の実
    現に力を入れた宮崎簡亮と、もう一人湧別市街で運送店を経営
    していた宮崎覚馬と言うのがいた。
     寛愛は、移住民に芋を作らせてその芋を船で東京に運んで売
    り捌いてやるということだったが、着いてみたら芋がすっかり
    腐ってしまって売れなかったということになった。
     そしてまた後ほど中外拓殖という土地会社を作ったが、満州
    までも手を広げ各地に出張所を作ったりしたが、山師気のある
    人でこの被害にあったのが信太さんだ。
     信太さんの遠軽の学田の土地がこれに引っ掛かって取られた
    し、嘉多山というのがいたが、彼は網走の嘉多山の出身で豪族
    だったがその人の土地も引っ掛けられた。
     しかしこの人の息子二人は医者になりその内の一人は、順天
    堂医科大学の学長にまでなった。
     ここで農場もやっていた宮崎簡亮と言うのは岩倉具視公の秘
    書をやり、道庁に入って営繕課長になったが、赤煉瓦の建物が
    二度にわたり火事になり、それを修復して責任を取ってここに
    土地を貰ってきた。
     そしておれが村長になってやるといって支庁と掛け合って村長
    になった。
     湧別運河はこの人と息子の親子二代に渡って手を掛けたが成
    功しなかった。
     この偉い息子を生んだ義助という親がここにすんでいた」
八田「この義助という人は馬で畑を起こすのに尾回しを掛けて畑を起こ
    した。それでうちの爺さんが
    「畑を起こすのに尾回しは要りませんよ」と言ったら
    「いや、これが無いと危のうござんす」
    と言ったという。(注、尾回しとは、馬橇などを引くときにブレーキの
    役目をする道具のこと)
     ずば抜けて頭が良いんだが、間の抜けたところもあった訳だ。
     宮崎正一(注、簡亮の子息)の息子で湧別農協の専務をした宏
    という人は、トラブルがありあんなに頭が良いのにどちらかという
    と敬遠されたのだが、東京へ出て首都公団の専務になって偉い
    出世をした」

雪解けに道路が浸水
八田「私の子供の頃、土井さんの辺りから国井さんから田中さんの
    辺りまで、雪解け水に氷が詰まり、どっぷり水が道路にまで
    漬くんだ」
加藤「私の一年生の時もそうだった。その前からそうだったと思う
    が、道路の側を川が流れていてその川は横沢さんの所の湧水が
    元だったのできれいだった。学校への往き帰りに川で足を洗た。
    その頃は長靴なんて無いから下駄だった」
八田「その川が雪解けに詰まると靴が濡れるのではだしになって学
    校へ行ったものだ」
三沢「この辺りの道路が悪くてものを運ぶのに苦労したという話を聞
    いたことがある」

演芸会の思い出

八田「山口さんの思い出をどうぞ」
山口「私は学校を卒業して一年半国鉄に勤めて機関車に乗っていた
    が、私の店は大正の末頃、布目商店としてやっていたが昭和
    二年に親戚だった私の両親が引き継いだのです。
     酒、塩、米を扱っていた。そして戦争中に米と塩を返してしまった。
    それが山田商店に行ったのかな」
八田「そうだ山田商店は元は呉服店だった。山田呉服店と中川呉服店
    があり、中川呉服店は今の農協の所にあった。
    そしてこの他にも色々の店があったよね土井さん」
土井「何でもあった。無いものはなかった」
八田「山口さん、青年活動の思い出を少し話してください」
山口「私が国鉄を辞めて帰ってきた頃は、山口さんが団長だったと思
    う。
     毎年馬頭さんのお祭りに演芸会というのをやっていた。これは
    毎年やった。
     七月十五日が祭りだったが、演芸会のために大体一ヶ月くらい
    は練習をするんですよ。
     練習する場所だった北斗青年会館には疎開者の人たちが入っ
    ていて場所がないので、八田さんの馬小屋の二階を借りて毎晩
    練習をした。夜食に牛乳汁粉なんか御馳走になった」
八田「芝居の脚本や漫才の脚本もおれが書いた。
     芝居は今の農協の資材店舗の所が空き地になっていたのでそこ
    でやったが、道路に溢れるくらい東や川西からも見に来てくれた」
山口「踊りの師匠は加藤さんという女の人や神さんで、立ち回りを
    教えるのは、今書道家で売り出している吉村昭三さんだった。
    お花も相当なものだった。(注、お花とはご祝儀のこと)
     その後私が団長になった時、資金が一銭もないんですよ。そ
    こで二流か三流の浪花節語りを呼んできて資金集めの演芸会を
    開いた。
     サクラを使ってお花をあげたら続々とお花が上がり資金が出
    来たことがあった。
     芝居の方は何せ団員が七人しか居ないので田畑さんなどを応
    援に頼んでやった「
八田「始めた頃、酒もないし、ある人にドブロクを漬くって貰って、
    終わってからみんなで飲もうとしたら、二升のドブロクがなく
    なっていて空き瓶だけが転がっている。
     聞いてみると関係のない人が入り込んで、二人ほどで酒盛り
    をやっていたという。
     何しろ物がないときだからこんな事は良くあった。」

湧別川の橋と流送
八田「話は変わるが湧別川に橋が無い時はどうしていたのか」
土井「渡し船だったが、この渡船場の位置も四号線と市街の争いの
    お陰で、川西の西四線の中尾商店の所から斜めに二号線まで道
    路を作って二号線に渡船場があった。
     私も私の子供の頃のことで良く覚えているが丸木船だった。
    従って荷物は幾らも積めなかった。 そしてワイヤーを使うようにな
    ったのは大きな船になってからだと思う。
     底の浅い馬車や馬を積んだもんだ。しかし橋は良く流れた」
八田「高桑さんの裏に大きな高い釣り橋があったのを子供の頃の記
    憶に 残っていて、渡り初めの時に餅を拾った覚えがある。
     その橋が水が出ると傾いて気をつけて渡るようにと言われて
    いたが、一年くらいで落ちて流れてしまい、それから川から川
    へだけ架けた橋が出来、川原の砂利を道路にして歩いたものだ」
加藤「俺も歩いた。歩いた」
山口「川西の演芸会を見に行くのに両側共に川原の道路を歩いた覚
    えがある」
八田「大きな橋が落ちてから、これだけ落ちたのでは架け替えも出来
    ないというので川の流れて居る所だけの橋になってしまった」
山口「大正時代だったろうか、私の父が白滝から木材を流送していて
    四号線で上陸して、千葉さんの所で一杯飲んだという話を聞い
    たことがある」
土井「一号線の辺りだったか川をせき止めて木材を集め、そこに木工
    場ができて製材などをしていた。元は河口まで行ったんだ」
山口「この流送の歴史も四号線にとっては大事な出来事だと思う」
八田「流送の人夫が丸太をあちらこちらにぶっつけて河岸を削り
    ながれを変えたということだ」
土井「うちの親父の親戚に当たる人が、内地で直送のプロなんだが
    それが北海道に米て幾つかの河で流送をしたが、その頃の湧別
    川の流送は有名な所だったという」
三沢「これは貴重な話だ」
ハ田「大分時間も遅くなりましたので話がまだ尽きないようですが
    今日はこれで終わりたいと思います。ありがとうございました」
                        (文責 富永)
子供の頃の四号線の
         思い出

   (昭和の初め頃)
         八田亀義

















最初に戻る
 私が生まれたのは、五号線の四つ角から西へ二五○bほど入った
所(現柴田照美氏宅)隣は仙頭家で同級生の直之君と二人で学校へ
通ったものだ。
 大通りの国道に出ると、左角に佐藤長五郎馬橇屋、前に横武家が
あリ気品のある老夫婦がいた。横沢金次郎氏という立派な人だと聞か
された。
 北に進むと西側に小さな祠があり、四号線の遥拝所と呼ばれ、御神
体は不明だが年に一度子供相撲があった。
 少し進むと現在中川組の入口の北側に大きな薬屋丸山商店の廃業
した建物があり、朝鮮の人が住んでいた。
 現在の篠田獣医さんの所に石原鍛冶屋があり、佐藤馬橇屋と手を結
んで繁盛していた。
 後藤毅さんの所に岩本洋服店があり老人ながら腕が良く栄えていた。
 スカット理容院の西南に天理教(片岡順三郎氏)があり、四吉君という
同級生がいた。
 今の横尾さん宅の所に、吉田平次郎氏という鍛冶屋があり刃物が得意
だった。その前に戸田医院があり、四号線、川西、東の患者の頼みの
綱の先生で信頼尊敬されていた。
 その北側に一軒置いて又鍛冶屋加藤源四郎氏があり、場所は現在
弘法様の入口辺たりだ。機械類が得意でアイヌの人で細工場の棚に
ある民族象徴の彫刻物が飾って置かれ、珍しくてつくづく眺めたも
のだった。その頃には本当に珍しいガソリン発動機を動かして作業
をしていたが、動いているときは時を忘れて見入っていたことを覚
えている。
 その東側現在の市川太平さんの所は槇畳屋、その北の内匠氏の空
地には小川蹄鉄屋があって、その北に飯豊獣医さんの家があり常に
多くの馬がいた。
 更にその北に坂東精麦製粉所があり、嘉蔵君という同級生がいた。
 その隣北には、窪内高値屋があり、佐藤長五郎同様繁盛していた。
清君という同級生がいた。父親の窪内源吉氏は、消防で飯豊さんの
女房役となり、太切な人で頭も良く部落の有志の一人であった。
 その北隣りの今の山口商店の南側に山下麹店があり、当時味噌は
各家庭で作ったから繁盛していた。後、区長となり郵便局長となっ
た山下外造氏の家である。
 その前に藤田菓子店が、正勇堂として営業し、中村春光さんが弟
子として働いていたが、後を継いで中村菓干店となった。
 その北側に現在田畑上さんの所は、浅野高商がいて何時も大きな
声で客と話し合っていた。
 山口商店が布目商店の後を継いだのもその頃である。四ツ角の東
北側か千葉餅店で、紋別通いの馬車や馬値の休憩所として喜ばれて
いた。その北に山田商店があり、中川商店と同様な品物を扱い、店
員は本間為吉、山田孫市の両氏で山田増太郎夫人の照さんの血縁の
人であった。中川商店も店員を二人置いて、四号線の全盛期は浜市
街や中湧別からも客が絶えなかったという。
 四ツ角西側は、赤繁旅館の建物を山田商店が買い、物置きとして
使っていたが、後に新しく雇った店員の宿舎としていたが火災が発
生した。その火事で酒井時計店、石川林工門氏(村雲豆腐店)、中
川商店、小松精磨氏が類焼した。山田商店の北側に、今山本外科医
院があるがその駐車場の処に札幌島口馬具店という大きな馬具店の
支店があり、浜市街や東、川西、中湧別までの客を手中に収め、そ
の後鈴木甚吾氏が後を継ぎ、良い品物を作り好評を博した。甚吾氏
は、他人や客には頭が低く尊敬され好かれたが、自分の子供や弟子
には愛情を注ぎながらも厳しく、そのために良い弟子が育ち店を待
って成功している。上湧別の大商店近藤の社長も実は、鈴木氏の弟
子で、又忽滑谷武氏も弟子で四号線に店を侍ったが、馬の作業の衰
退で本来の家業の花園に戻り、生花の指導家となり後に区長を努め、
四号線の大切な人であった。
 鈴木馬具店には広光君という同級生がいて仲良くして貰った。甚
吾氏も奥さんも良い人であった。広光君の弟に寿広君がいて物事に
積極的で、少年達のりーダーで多くの子供たちに慕われ「ボクちゃ
ん」の愛称で呼ばれていた。両親の教育がしからしめたものであろ
うと思った。
 その西側、今の臼井さんの所に一林鮮魚店があり、正義君という
同級生がいたが、小学生途中で雄武町に転出した。その後に皆川君
が同級生で入ったがすぐ居なくなった。鈴木馬具店に下校時に時々
寄って遊ばせて貰ったが、その当時に電話とラジオがあったのは鈴
木さん、山田さん、中川さんで飯豊さんには電話だけがあった。
 ラジオが珍しく不思議で夕刻まで聞かせて貰って帰り、親に心配
をかけたことがあった。
 その北側に梅木建具店、今田家があり同級の女生徒かおりその北
に山本ブロックの前身で、先代の山本竹次郎氏が大工として大きな
店を持って仕事に追われていた。
 その北側に近藤鮮魚店があり、大きなオヒョウ(1b以上)の身
をはずし、頭と骨だけをぶら下げてあるのを見て驚いたのを覚えて
いる。一雄君という同級生がおり、兄が三人ほどいて皆頭が良く、
社会に出てから成功している。上湧別の近藤商店の社長の外一人は
四号線の区長をやられた。
 村上という医者が北隣にいたが、遠軽に出て暫くして佐藤一郎医
師が入り、太田分院となった。その頃戸田病院が浜市街に移った後
なので住民は助かったが、終戦の近くに満洲へいった。息子が札幌
で良い医師になっている由だ。
 広福寺の山門の右手に善光寺さんの化身地蔵があり、その頃、子
供はその遺徳を聞いて知っていたので、必ず頭を下げて通ったもの
だった。
 法明寺の前の道路寄りの湿地に、水芭蕉が咲いたのを見て春の訪
れを悦び、不思議な花だとそばに寄ってつくづく眺めたものだった。
三号線に高木精米製粉工場があり、その前の本間家に弘君という同
級生がいた。そして歩を進めると土井さんの前が低地で、春先は道
路に水が乗り、長靴の中に水が入るのを恐れて、現在の国井さんの
チョット向こうで脱いで裸足で歩き、小縄さんの前で手拭いで足を
拭いて長靴を履き学校へ行き、帰りも同じであったことが子供心に
辛く感じたものだ。土井さんが家の南の湿地に水田を作り、水車や
手回しの揚水機で水を入れているのが珍しく見に行ったものだ。米
が実ったかどうかは知らないが米の生る稲を見だのは始めてだった。
 春先、小川の水が氷で停滞し、道路を塞ぎ大きな氷原となり、子
供が遊んで落ち氷の下の水が浅く助かったが、何か名案がないかと
集会の時の話題となり、土井さんの前の低い所だけ箱樋で水位を下
げず田中さんの前まで流したらと提案したら、役場で早速実行し長
年の苦労は解決した。トラックやダンプもなく道路を埋立て高くす
る方法がなかった時代で、今考えると笑いたいような話で、その内
に高木さんの畑を鉄道の下を掘って東の排水溝に落とし、絶対的な
安全地帯となり、今は当時を想像も出来ない姿になっている。
 秋野さんの来る前、そこには早川忠男君という同級生がいた。そ
の北側に廃業したマッチの軸木工場の職員住宅があり、明内という
蹄鉄屋もおり小さな集落になっていた。
 今の「しらかば」や団地の辺りは湿地帯で、ヨシが生えており小
学生の兵式訓練の演習揚としても使われていた。
 学校の行き帰りの頃の四号線部落の思い出を綴って懐かしんでい
る。なを当時の小学校は現在の体育館の所にあった。
わが先祖と子供の頃の
    思い出
 古くから錦町に住んでおられる方に先祖や子供の頃の思い
出をお願いしました。

□森田栄
  祖父は森田馬吉と云い土佐の人ですが、何時頃四号線に来たの
 かは分かりません。
  竹内文吉さんの跡に住み二町歩程の農家をして居ましたが、今
 は土地も売り会社に努めています。
  子供の頃、家の前の基線川でタライを船代わりにして遊んだり、
 野菜を洗ったり、また川の畔には祖父の掘った池に蓮の花が咲い
 たのを見ましたが、湧別川の推移が下がると共にこれらは様代わ
 りして今では環境対策の施された排水溝になってしまいました。
□宮島京子
  祖父の戸沢直吉は秋田県平鹿郡の出身で、明治十四年五月二
 十九日に四号線に来たそうです。
  そして新聞配達と牛乳屋をして居ました。
  戦時中に育った私は防空頭巾をかぶり救急袋を肩にかけて、名
 前と血液型を書いたものを胸につけて学校に通ったものです。
  袋の中には、乾パン、豆の煎ったもの、薬等が入っていました。
 空襲警報が鳴ると防空壕に入ったり、電球に黒い袋をかけじっ
 としていました。物がない時代で運動靴、長靴等も配給制で中々
 当たらず、穴の開いた靴で、靴下が濡れ気持ち悪かったことを
 覚えています。食べ物は燕麦や稲黍、芋、南瓜等が毎日で美味し
 いくなかったことが一番嫌な思い出です。
  今は食べ物も豊富で電化製品も普及し、とても便利なよい時代
 になったものです。
□簗部勇次
  祖父は奥吉と言い岩手県二戸郡石切村の出身で大正の始め頃
 に西二線に来たそうです。そして大工をして居ました。
  父勇吉は農業をしながら昭和二十九年から三十九年まで十年間
 区長を勤めました。私は今湧別林産に勤め次長をしています。
□溝江弘子
  祖母は本間トリと云い佐渡から来たそうですが、何時来たのか
 は分かりません。
  錦二六二番地(今の山田商店の所)で煙草屋をしていましたが
 祖母と父が養子縁組をして、昭和十六年に今の所に分家いたしま
 した。
  父は本間為吉といい、昭和の初め頃から昭和二十一年まで方面
 委員という今の民生委員の仕事をして居ました。また山田商店の
 番頭もしました。
□加藤秀夫
  父は安藤庄七という、愛知県名古屋市から明治三十六年十二月
 八日に西一線に来ました。
  そして原野を切り開いて五町歩の畑で農家をしていました。
 私は九人兄弟の六番目の次男であったために昭和六年に加藤カ
 ナ(父の姉)の所に養子に来ました。
 加藤家は昭和十年頃四号線に来たそうです。以来農業をして居
 ますが今は息子の弘一が後を継いで居ます。
小さい頃の思い出                         藤 井 孝 一
 錦町で生まれ、錦町で育った私にとって小さい頃の思い出は、
沢山あるが真っ先に頭に浮かぶのは、横沢さんの裏手から湧水を
源流とした小川で遊んだことだ。
 忽滑谷さん、唐川さんの家の傍を通り蛇行しながら現在のスノ
ー食品前では、道路のすぐ横を流れていた。
 近くに森田栄君、惣滑谷盛司君(札幌在住)唐川昭義君(北
見内在住)、千葉剛君(北見市在住)などの同級生も多くトゲ魚
や川エビを取ったり、夏にはよく泳いだのを覚えている。
 水がすごく冷たくて長い時間はとても入っていられなかった。
 こんな思い出もある。湧水がゴボゴボと噴き出していた所にあ
った大きな木にカラスの巣があり、登って行き巣から卵を取りポ
ケツトに入れ、勇んで降りる途中に何と掴んでいた枝が折れ真っ
逆様に落下。
 これで一巻の終わりかと脳裏に………。
 その瞬間「ドボン」。
た。
 ポケットに入れていた卵も割れず無傷の生還。運の良かったことに感
謝。
 冬休み中の楽しみは何といっても
百人一首であった
子供のいる家庭だけでなく、大人も混じって良くやったものだ。
 正月明け早々からは、近くの家を順番に回って毎晩のように札
を並べた。
 記憶では昭和二十六年前後が一番盛んだったと思う。おやつも
満足に喰えなかった時代に、この時だけはどこの家に行っても歓
待してくれた。
 ミカン、スルメ、お菓子等を沢山出してくれた。この上ない楽
しみであったことを今でも忘れることはない。

「湧き水」の思い出  色々な方が四号線の東を流れていた「湧き水」の事を思い
でとして語って頂きました。その「湧き水」の湧く所で育った横
沢さんの思い出である。
         横沢 秀次

 私が子供の頃、家の裏に「湧水」があり、もくもくと砂塵を押し上げて
懇々と水が噴き出していました。
 夏は水に手をつけていると痺れるくらい冷たかったが、冬は逆に水温
が高くシバレタ日でも凍結したことはありませんでした。夏には輸送缶に
入れた牛乳を出荷するまでの間冷やしておいたり、畑で獲れた西瓜を
冷やして食べたものです。また牛や馬を湧水の所へ連れていって水を
飲ませたり、洗濯もしていました。
 余談ですが、牛を飼ったのは妹が生まれたとき母乳が出なかったので
、牛乳を飲ませるために飼育していましたが、出荷したほかに四号線の
家庭に毎日配達していました。
 二合瓶に入れたものを三〜四軒に配るだけでしたが、小学校の
登校前であり徳に吹雪の日には今のような除雪はされていなかっ
たので、腰まで埋まって歩かなければならない配達は苦痛だったこと
が思い出されます。その後保健所からの指導で売ることができなくなり
ました。
 高校生の頃だと思いますが、湧水を利用して「ニジマス」を養
殖した人が居ました。(開盛の孵化場の職員)
 これの餌やりのアルバイトを頼まれました。
 池の鯖に生け簀を三ヶ所掘り、湧水を塞き止めて水を引き入れ
る簡単なもので、孵化したばかりの稚魚を運んで来て飼育を始め
ました。
 この水には、亜麻会社の水利権が設定されていたので、池の水
位を上げたため湧水の出が悪くなったらしく、職員の方が塞き止
めた板を取り外しに来たこともありました。
 魚は順調に育っていましたが、五〜六センチになった頃、綺麗
に澄んだ水にも綿上の茶色の水垢が浮いていて、これが出水の
網について水が溢れ一夜で逃げてしまいました。
 後に大きく成長したニジマスを捕まえたと聞きましたので、管
理を旨くしていれば経営が成り立つ醸しrません。
 この湧水も現在では枯れてしまい池は雑草に覆われ、川跡は
明渠に整備されて当時の名残は残していますが見るべき姿も
ありません。
 湧別川の川床が低くなったせいだと言われていますが、失われ
た自然が股何時の日か甦ることを願っています。


          最初に戻る