錦町開基百年記念史 百年の星霜

昭和の小漁師
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               第10章  第11章  第12章 


第十章
湧別川と錦町

湧別原野を貫いて流れる川、そのほとりに住む我々に湧別川は多くの恵みをもたらしている。
地下を流れる伏流水で良質の地下水にも恵まれている。
幼い頃川で遊んだ思い出も多い。


 湧別川とのかかわり          湧別川と錦町の関わり合いは、開拓時代より深く繋がっていた。
 「明治三十一年九月六〜八日には台風と低気圧の通過で、湧別川が
増水し、上湧別、学田の農地の被害が大きく,四号線市街は一bも浸
水した」と、網走開発建設部の三十五年記念史は伝えている。
 また先住民は、湧別川のほとりにコタンを作り、丸太舟などでサケや
マスなど、川に住む魚を獲って暮らしていた。
 堤防がまだ作られていない時は、度々水害に見舞われたが、子供
たちにとっては、水に親しむ遊びの場所であったし、大人たちにとても
魚釣りなどを楽しむ大切な川であった。

 サケマスの捕獲場
 開拓初期の湧別川は、
「サケが産卵に川に遡上する頃になると、水が黒々とした色に変わり、
小さな三角波が川も一面にヒタヒタとひしめき、棒を立てるとそのまま
倒れない・・・獲ろうと思えばいつでも簡単に獲れた」

という話が残っている位、湧別川はサケやマスの遡上する川であった。
 寛政年代には湧別川のサケに目をつけて湧別番屋が作られ、曳き網
でサケを獲り、獲ったサケは干しサケのほか、塩引きサケや筋子などに
加工された。
 明治になって湧別川にもサケ定置網の漁業権が設けられ、大正二年
には七場所もの網が川に建てられた。
 その後、大正十二年に紋別鮭鱒養殖組合が開盛にサケの人工孵化場
を開設し、捕獲も行ったので、このため川においてのサケ、マスの漁業権
は禁止となった。
 その後昭和九年に国の鮭鱒孵化場北見支場が設けられ、これに私設
が移管された。それに伴い捕獲場も国の経営となったが、乏しい予算で
運営しなければならなかったため、十分な施設を造ることが出来なかっ
たので、ウライと呼ばれる施設が流失したり、川の形が変わると良い場所
を求めて場所を転々として移り、中湧別市街の裏の辺りまで行って捕獲し
たという。
 昭和二十四年に北見管内鮭鱒増殖漁業協同組合が設立されて、捕獲
と採卵の仕事はこの組合に移管された。国の孵化場は、孵化と養魚のみ
を行うこととなった。
 その後この北見管内増殖漁業協同組合は、北海道鮭鱒増殖漁業協同
組合に吸収され、この組合もまた昭和四十二年に社団法人北海道鮭鱒
増殖事業協会に変わり現在に至っている。
 民間に移ってからの捕獲場は、二号線の付近を定位置として堤防の中
に番屋を設けて従業員が寝泊まりし、畜養池を作って捕獲した魚のうち、
まだ卵の成熟が十分でない雌を畜養し、成熟した卵を取り出して授精させ
、開盛にある孵化場に運ぶという仕事を六月中頃から十二月十日頃まで
行っている。
 昭和五十三年に湧別漁協が、鮭鱒増協の補助を受けて五号線の川沿
いの土地を購入し、井戸を掘り、養魚池を建設した。
 さらに五十四年には漁協が山村振興対策事業の補助を受けて、養魚施
設を建設した。
 また五十八年には鮭鱒増協が養魚施設に付属して畜養池二面を設置し
、現在は、二号線の畜養池は水質が悪化して使用に適さなくなり、畜養魚
は全て五号線の池に運び、ここで採卵も行われている。
 現在捕獲場の従業員は、職員一名と炊事婦一名を含めて五名で行って
いる。

 密漁のこと
 湧別川の密漁も多かった。食糧難の時代やサケが高級品であった(今で
もだが)頃は、命がけで密漁をする人が絶えなかった。
 昭和四十年頃には、忍者もどきに水に潜り竹筒で息をしてサケを獲るとい
う猛者も現れ、町の話題をさらった事もある。
 密漁は殆どが引っ掛けと呼ばれる方法であったが、中には刺し網を使う本
格的なものもあったし、素手で捕まえたり、棒で叩くなど様々な方法で行わ
れた。
 しかしこの密漁は例え一尾でも密漁したのが掴まると、新聞に出たもので
ある。
 しかし大雨などで川が増水するとウライ(注、川でサケやマスを捕獲する施
設)が壊れたり、乗り越えたりしてサケやマスが上流へ逃げ、樋門から小川
を通って畑に紛れ込む事は今もある。

 湧別川に棲息した魚類の思い出                    八 田 亀 義
 湧別川に昭和十二〜三年頃堤防護岸工事が完成して川の流れが真っ直ぐ
になり、平均に浅くなってしまったが、堤防の出来る前の昭和の初期以前は、
五号線から中湧別までに浅瀬あり、深淵あり、また本流の流れのほかに、夏
は冷たく冬は湯気の立って決して凍らない湧水の出るところがあった。
 それは、右岸(東側)は種馬所裏から五号線までと、左岸(西側)は中湧別
五の三から湊家、鈴木家の裏迄であった。
 この細い湧水の川には、夏は山女魚や岩魚がいて、たも網ですくえた。
 冬は、本流を遡上した鮭が入り込んで一月の二十日頃まで産卵していた。
アイヌの老人が、葦の藁で小屋を造り、丸木船を浮かべていたのもこの頃で
ある。
 泥鰌が沢山深い所で冬眠していた。二○a位で大人の親指くらいであっ
た。
 田螺貝や烏貝が大発生した年もある。
 本流には、六月十日頃からウグイが産卵のため遡ってきて、瀬の落ち込み
で川底を掘り始める。それを鈎針で引っ掛けて揚げるのが実に壮快で、大勢
の人が集まり楽しんだものだが、せいぜい五日間程の間で終わった。この魚
は、長さ三○aから四○a位で腹が赤いのでアカハラ(ウグイ)とも言い、産卵
のために上がってくるのを待って毎朝川面を馬で見に行ったものである。来る
と川面で魚が跳びはねているのですぐ分かったものだ。
 夏になるとさらに色々な魚が上がってきた。
 鱒の他小さな魚で川カレイといって子供の手の平位のカレイで浅瀬で棒の先
に釘を付けて幾らでも突けた。
 また八ツ目ウナギといって長さ七○a位で直径三a位の魚が石に吸いついて
休みながら流れに逆らって上がってきた。
 美味だと聞いたが私たちは気味が悪くて獲らなかった。澱みの底にはその子
供の八ツ目が一○a程になって泥の中にうようよといた。そして川ガニといって
黒色で甲羅の六a位のカニもいた。
 またカジカといって頭が丸く全長が一○aからで二○a位の、一見タラのよう
な黒褐色の魚が居たし、学名は知らぬがゴザッペと呼びドジョウより頭の少し大
きい長さ一五a位の斑の多い褐色の魚がいて、護岸の蛇籠(注、金網の篭)の
中の割石の間に住み、みみずの切れっ端で幾らでも釣れたが、食べると良い味
がした。(注、学名川カジカ)またこの魚の小さいのを鮴(ゴリ、学名ウキゴリ)とい
って長さ三a位で八月十日頃から九月初めまで川縁を群れになって上がってき
て、金の網を沈めて置くと独りで入って幾らでも獲れたもので、佃煮や干して蓄
えておいて汁のだしに重宝したものである。
 その頃、長さ一○a位のザリガニも上がってきた。
 又、木の根の下が水で掘られた流れの無い、深い淵の透明度の高い水中に
腹に鮮やかな青紫の色をした棘魚(トンギョ)という一○aほどの魚が美しかった
。捕らえるととげを出すので痛くて触ることができなかった。色の付いていないの
もいた。これはだれも獲らず食べなかった。
 春から秋迄色々な魚が上がり産卵をして下り、湧別川は魚類の母であり楽園
であった。今は幻の魚といわれているイトウでさえ大きな針で、餌はドジョウをつ
けて釣り上げた人を見て驚いたことがある。細長く一b近くで体に点々が多かっ
た。
 堤防が出来てからは、その魚たちの多くは全く見られなくなり、鱒と鮭が上がる
だけで、昔は見たこともなかったキュウリ魚という魚が河口から二キロ位まで、春
先に上がってきて大勢の釣り客を呼んで大騒ぎになる。環境が変わるとこれほど
魚族の棲息も変わるのは驚きである。
 また、魚と違い川縁に住んでいた小動物では、エゾイタチといって全長二○a程
の真白のイタチがいたが、営林署で山林のネズミ駆除のため本州から大きなイタ
チを入れて放したために、エゾイタチは絶滅した。
 親達のは橋では、カワウソが居たと聞いたが、私は見ていない。
 そして縞栗鼠(シマリス)が川だけでなく、家の回りまで良く来ていた。
 捕まえてトウキビを与えて飼っていたこともあるが可愛かった。
ヤマウサギも多かったが、昭和四十年頃よりキタキツネが急増してから見られなく
なった。
 小鳥も時期によっては色々の種類が見られた。
 秋が終わり寒くなる頃草の実を求めて紅ヒワという胸と頭の紅いスズメより小さ
い小鳥が来始め、大きな群れで飛んでいた。
 また、ウソといって二月の二十六日に約束したように種馬所の裏の風防林に飛
んできて、子供たちが、捕りにいってそれを飼って楽しんだ。
 シジュウカラも良く来ていたが、今はその姿も見なくなった。

 堤防工事     湧別川は明治三十一年の大水害を始め明治四十五年、大正四年、同五年、同
十一年、昭和二十八年、同三十二年、三十七年、四十二年、四十五年、四十六年
、五十年、五十四年、五十六年と幾度となく水害に見舞われてきた。
(網走開発建
設部監修<治水事業の歩み>より)
 このために湧別川の流域には粋人を祭る史跡が多く残されている。
水天宮=上湧別町北兵村一区(現在は神社に合祀されている)
奉齋水神=上湧別町一五号線西三線付近
地蔵尊=上湧別町開盛
水神=上湧別町開盛四の一開盛頭首工
水神碑=遠軽町南町湧別川右岸堤防
 等でこれらは、水害が再び起きない事を祈って作られたものや、水害により犠牲
となった人の霊を弔うために建てられたものなどである。
 上湧別、遠軽に多いのはこの地域に水害が多かったからであろう。
 治水のための測量が始まったのが大正四年で、川の水位や水量、気象の観測、
河川の縦横断図の作成等の基礎資料の収集から始まり、大正八年になって被害
の大きい遠軽より下流について治水計画が建てられたが着工には到らず、昭和九
年になって初めて遠軽橋下流付近で応急的工事が行われたのが最初であった。
 昭和七年の水害を契機に治水工事が実施されることになり、取り敢えず河口から
上湧別までを実施する事になって昭和九年着工された。
 この工事は、河口から湧別橋迄の水路を安定させるための水路工事で、延長二、
三七○bの長さで同十二年通水された。
 又昭和十年湧別地先の左右両岸の堤防工事が着工になった。
 十三年になって、○号から中湧別鉄道橋までの右岸堤防(東側)が完成し、翌十四
年に左岸の堤防も中湧別鉄道橋迄が完成した。
 以後次第に上流に向けて工事は進められた。
 昭和二十六年になって第一期北海道総合開発計画により堤防の拡幅工事が始ま
り、この年は五号から六号までの右岸堤防の工事が行われた。
 昭和五十五年になって湧別左岸築堤の嵩上げ工事
 昭和五十六年には左岸堤防の下流への延長工事
 昭和五十七年には右岸堤防の下流延長工事
 昭和五十九年には左岸五号の樋門改築工事
 昭和六十年に右岸四号の樋門改築工事がそれぞれ行われた。
 築堤も現在は河口までは達していなく、湧別漁港との関係で港の直前で止まって
いる。

 あの頃の思い出と湧別川              東  達 夫 
 私が湧別に来てから五十年になりました。
 昭和十七年に父が湧別大橋の監督として先に来ていて、翌年母と私たち子供
五人が引っ越してきたのです。
 五十年前は、今と違って家の周りは湿地で行李柳が植えてあり、裏の方はヨシ
原で水が一b以上も溜まっていました。今の農協の整備工場のウエアに書道家
の吉村昭三氏の家があった所などは、現在のような畑になるなどとは予想もつき
ませんでした。その整備工場の裏の湿地は小谷商店社長の小谷啓さんの本家の
土地で、母親と子供達で冬の間に二〜三年かけて湧別川の砂利を客土して水田
を作り今のようになったのです。
 その頃の私の家は、西村組が阪場として使っていた所でしたから、湧別大橋の
労務者が二○人程泊まっていました。登栄床の漁師の人達も交代で働きに来て
いました。そのために今でも二〜三人の方とお付き合いをしています。
 橋の工事には戦争で人手が不足して、家庭の奥さんたちも出て来て働いていま
したが、身体の丈夫でない人はセメントの袋の糸を抜いたりしていました。
 戦争が激しくなり、橋の工事は一時中止となって、橋梁事務所も閉鎖になりまし
た。父も室蘭へ転勤になりかけましたが、家族が多いので中湧別の治水事務所
に配置換えをして貰いました。
 戦時体制下の食糧増産のために、湿地を改良して畑にするために、四郷線や川
西に明渠排水を掘ることになり、私の家にも勤労動員の北大や慶応、札幌師範の
学制が泊まって工事に従事しました。この排水が出来たために水位が下がり、隣の
栗谷さんや小谷さんが水田作りを始めたわけです。
 戦後食糧難が続き、私たちも湿地帯に植えてあった行李柳を掘り起こして黍、燕
麦、麦、芋などを作り食糧難を凌ぎました。川へ泳ぎにいく時は、芋を持って行き、
焼いて食べたものです。川に行くと春先には、ウグイ、夏はゴリ、秋はサケ、木ノ根
の所などはドジョウなどをよく獲ったものです。水深も深く、橋の上から飛び込んで
も頭を打たないほど水の量も多い所でした。時代も変わり川も整備され大橋も出来
、歩いて渡って行けるようになりましたが、小魚が居なくなりその代わりにキュウリ
魚が遡上してきました。
 父の思い出を少しさせて頂きます。父は仕事にはとても厳しいけれど人の面倒は
良く見た人で、又スポーツが好きで特に野球と相撲が好きで青年時代は野球はピ
ッチャーをやり、相撲は宮相撲で大関を名乗りその為に耳は潰れていました。三十
才を過ぎてからは行事専門でした。良く宮相撲に兄弟して連れて行って貰いました
。七十二才の渡辺さんを冬の間火焚き専門に使ったり、仕事がなくて困っている人
が居るとすぐ使ってやったりしその中には、叙勲を貰った人が三人もおります。
 仕事中に川原で魚を捕ったり、サケの捕獲場へ行って魚をもらって鍋をして労務
者との触れ合いを大切にしたものです。そんな時佐野のやっちゃん(高司)などは、
ドジョウ掬いなどを良くさせられたものです。
 密漁などをした人の貰い下げにも良く行ったものです。そしてお客が多いので酒は
必ずありました。
 農協の資材店舗の土間のコンクリートは、日曜日に仲間を連れて仕上げたもので
す。
 正月の三日は、高齢の事として労務者全員を集めて宴会を開いて居ました。
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                    筆 者 紹 介
 昭和七年一月訓子府町で生まれる。
 昭和十八年に湧別町錦町に移り、湧別小学校高等科を卒業。
 自分の家の畑仕事を手伝いながら、二十三年より網走開発建設部の臨時職員とし
て勤め、四十年に正職員として採用され、平成四年に網走西部河川事業所河川管
理指導員として退職した。

 湧別川と思い出の数々       湧別川とその川に架かる国道の湧別橋には、上流にも、下流にも思い出は
多い。
   小松立美氏のその思い出の文である。

 鮭鱒の遡上
 湧別川には、七月半ば頃からセッパリ(樺太鱒の成熟したもの)ともいう鱒の遡上
が始まる。まや九月上旬からは鮭の遡上も始まる。
 その鱒や鮭の遡上を見るために、わざわざ橋まで小学三年生頃には、同級生や
下級生と良く行ったものだ。
 橋の欄干にもたれながら、川底の小石まで良く見える澄んだ水の川下から次か
ら次えと遡上してくる、鱒や鮭の群れを眺めて、尾数を数えては、何匹の群れだぁ
と両手と歓声を上げる。
 そして「食べたらさぞ美味しいべなぁ」
「うん、何とかして一匹でも獲れないべか」
 なんて話しながら獲り方を知らない私たちは、情けない思いを胸一杯に抱きなが
ら、次第に上流に遠ざかる魚影が消え去るまで眺めていたものだ。

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 ゴリのすくい獲り
 夏休みになる頃から、三a程のゴリが長い群れを作って川岸を遡上し始める。そ
のゴリを獲りに親爺が作ってくれた金網を持って良く姉弟妹で川へ行った。
 行く度に二升近く獲って帰るので
「こんなに獲ってどうしよう」と母を困らせたが、結局母は、ゴリを塩煮にして天日で
干して、後々汁ものや煮物等のだしとして使っていた。
 また上流や下流で産卵期のアカハラウグイを錨型の釣り針でよく引っかけに行っ
たものだ。
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 川はプールであった。
 学校にプールがない時代である。夏休みになると学習も火事の手伝いもホッポラ
かして、上級生、同級生、下級生と連れ立って晴天の日は勿論曇天の日も、雨さえ
降らなければ毎日のように、川水の水温が上がり始める昼前頃から日が傾く夕方
まで泳ぎまくった。
 そんな事で帰ってから、ひどくしかられる毎日でもあった。しかしお陰で泳ぎは、達
者になったのも事実でありました。

 川で仇討ち
 二年上級にいじめっ子的な悪がいた。学校帰りに悪の姿を見かけるとみんな仕方
なく遠回りして帰ったり、又、わざとノタリノタリ歩いて帰ったりして悪を敬遠した。
 この悪も良く川へ泳ぎに来た。それで同級生のK君と二人で泳いでいる悪の様子
を見て潜って近づき、片方ずつ足をつあKんで悪を水中に引き込んでアップアップさ
せると、サアッと下流へ潜って逃げて知らぬ顔をしていた。
 これは毎年夏に一度か二度やった。いじめられたもの達の仇討ちをしたつもりでい
たのである。

 ジャガイモの塩煮汁
 夏休みも半ばを過ぎる頃になると、ジャガイモがかなり育つので、大きめの玉をこっ
そり抜き取って皆が持ち寄る。ジャガイモは何処の家でも植えていたので、自分が食
べる量だけは皆持ってきた。
 それに内緒で持ち出したアルミ製の大鍋に、洗った芋と塩を入れ味付けに釣った魚
を入れてから焚き火で煮るのである。
 食器は、各自持参の缶詰の空き缶でその食器に芋と煮汁を分けあって「オオオッア
ッアッ」なんてワイワイ言いながら食べる。
 これが又滅法美味しかったのである。
 しかしこんなことは毎日と言う訳には行かなかった。
 色んな遊びをしながら泳ぎまくっているうちに、やがて夏休みも終わりとなる。

 野ブドウ狩り
 四郷線よりの橋の下手に、二五bを超すワタドロとかアカダモの巨木が十数本そび
えていた。
 根元には、野ブドウのつるが絡みつき、晩秋になると実は酸っぱくてとても食べられ
ないがよく採りに行った。かなりの高さまでつるを伝わって登ると、その頃映画で人気
の高かったターザンの真似をして「アアアーッ」なんて叫びながら隣の巨木のつるに飛
びついたりしてよく遊んだのも小学四〜五年生の頃だった。
 持ち帰ったブドウを絞って酢と混ぜ合わせ、酢物にして食べたが、美味しかった記憶
がある。
 また豊かに自然が十分残っていた時代である。

 ユーちゃん救助
 小学校高等科二年生の五月末の事。
 親父の使いで川西へ行っての帰り道。湧別橋の上から見ると同級生や下級生数人
がウグイ釣りをしている姿が見えた。
 雪解け水はグンと減ってはいたが、まだかなりの水量があり、水も相当濁って見え
た。この水の濁りではあまり釣れないだろうと思いつつ橋を渡りきった時、
「ドボーン」と水音がすると同時に
「ユーちゃんが落ちた!」との叫び声が上がった。
 びっくりして私は、橋の欄干に掴まり川下を覗くとユーちゃんの頭が浮いたり、沈んだ
りしながら流れているのが見えた。
 橋から八○b程下流は浅瀬になっているが、瀬から落ちる流れは、蛇籠に当たり渦
を巻いて深くなっている。
 そこまで流され渦に巻き込まれたらもう助けられないと、そう考えた私は、川岸へ駈
け降りて黒ふんどし一つの裸になると川に飛び込んだ。
 湧別川は、毎年雪解け水で流れが変わるのである。
 この年は、橋の上流で二つに分かれ、川西側は浅い流れで、ユーちゃんの落ちた四
号線側は水量も多く深い上に流れも早いのである。
 川幅は、六○b程だったので一気に泳ぎ切って中州に近い所で、流されているユー
ちゃんの左手を捕らえた。
 意外に流れが早くもう瀬の近くであった。
 私も瀬に引き込まれないように頑張り中州へ引き上げた。
 あまり水は飲んでいない様子だったが、グッタリしていてもう白目だけになっていたの
を記憶している。
 明くる日、学校で朝礼のとき一段高い台上に乗せられ、全校生徒の前で、校長先生に
ユーちゃん救助を紹介された時、私は照れてモジモジしていたのを今も思い出す。
 又卒業した年の十一月芝居小屋で道庁から表彰状と金一封二円を頂いた事も忘れら
れない思い出です。

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第十一章
戦争の悲劇

ファシズムと軍国主義の嵐の中で、私たち庶民は成すすべもなく「お上」の言うことを信じて
戦争の渦に巻き込まれていった。そこに数々の悲劇が生まれた。
戦争の軌跡をたどり幾つかの悲劇を紹介する。


戦争の歴史  日本は明治二十七年〜二十八年の日清戦争(対戦相手は、現中華人民共和国)、
明治三十七年〜三十八年の日露戦争(対戦相手は、現ロシア共和国)の一応の勝
利と大正三年から七年の第一次世界大戦(対戦相手は、ドイツ)で勝利を収め、日
本は世界の軍事強国として「五大強国」(日本、イギリス、フランス、イタリア、アメリ
カ)となり、昭和始めの経済不況の時期にも拘わらず、着々と軍備の増強を計り、
特に農村の青壮年は、「富国強兵」の一番の要員として兵役に招集された。
 昭和十一年二月二十六日に起きた陸軍の青年将校達一、四○○人によるクーデ
ター二・二六事件は、皇道派と統制派との争いとされているが、背景には、疲弊し、
子女の身売りをしなくてはならないほど追い詰められた農村の悲劇があり、軍事政
権による日本の改造を計ったものであった。
 軍国主義の推進のためには軍隊の増強が必要であり、その為にわが国では、明
治六年に「徴兵令」が布告され、男には兵役の義務が課せられた。
 しかし北海道は、開拓途上ということもあり、北見地方で「徴兵令」が適用されたの
は屯田兵制度との関係から、明治三十一年一月のことであった。
 男は、満二十才になると徴兵検査を受け甲種合格すると、二ヶ年の現役入隊があ
り、万歳と幟に送られて入営し、満期除隊すると予備役(七ヶ年)に編入され在郷軍
人として有事に備えたのである。
 湧別町の徴兵検査は、遠軽町で行われた。
 昭和十二年の日華事変(現中華人民共和国)から中国との戦争、更に昭和十六
年十二月八日には太平洋戦争(対戦相手は、アメリカ、イギリス、ソ連)と日本は泥
沼の戦いにのめり込んで行ったのである。
 戦争と共に、そしてその戦いが激しくなるにつれ、戦争に駆り出される男も増えて
、街には男がいなくなり、体の弱い人か、年寄りと女しかいなくなってしまった。
 兵役を除隊しても、在郷軍人会があり、「欲しがりません勝つまでは」とか「銃後の
守り」「撃ちてしやまん」「鬼畜米英」「一億玉砕」といった元気の良いスローガンが町
を覆い、愚痴もこぼせない状況であった。
 従って畑で働くのは、女と子供、それに年寄りといった有様であった。

ある出征兵士の家庭    その当時の苦労を重ねた内匠一家の事を、八田亀義は次のように綴ってい
る。

 太平洋戦争が激しくなるにつれて青年ばかりでなく中年層にも召集兵が多くなり
、妻子を残して戦場に出て行ったのである。
 在郷軍人で下士官であった内匠清次も、開戦と共に防空監視哨の哨長を命ぜら
れ、また徴用候補馬の訓練指導員として家業も手につかず、若者を頼んで仕事を
続けていた。
 遂に昭和十八年七月召集令状が来て、樺太国境の軍隊に入隊し、終戦まで一度
休暇で帰宅したのみで、戦後はシベリアに抑留され、二年間過ごしたが,酷い栄養
失調になって瀕死の状態で帰還した。
 その間の家族の苦労は筆舌に尽くせぬものであった。
 戦後の不況と家計の苦しさに子供たちは進学も思うままにならず、苦学の積み重
ねで努力の結果、それぞれ一人立ちをして今は何不自由なく暮らしている。
 父親の居ない五年間、他家の子供を見ていかに悲しい思いをしたことか、あの頃
の苦しかった四号線という街は忘れ去り難いものであったろう。
 しかしある面では、心の糧ともなったであろう。物心ついて不屈の精神が養われ
る大きな刺激になったようである。
 別記の内匠健次は清次の三男である。

戦時体制  戦争が激しくなると、様々な催しやスローガンが生まれた。
 毎月1日が「興亜奉公日」とし、この日は、宮城の遙拝、神社参拝、英霊に対し
黙祷、遺家族、傷痍軍人の慰問、飲酒喫煙の抑制、宴会遊興の自粛が行われた。
 大詔奉載日は毎月八日が開戦を記念して決められ、国歌斉唱、御真影奉拝(天
皇陛下の写真を拝むこと)、教育勅語奉読などが学校で行われた。
 スローガンもだんだん過激となってきて、「一億火の玉」「一死報国」「神州不
滅」「一人一殺」などと叫ばれた。
 そして没しの不足が深刻となってきて「欲しがりません勝つまでは」という耐乏生
活を表す標語も登場した。
 昭和十八年六月に「学徒戦時動員体制確立要綱」により、学制の兵役免除も取
り消され、卒業を早めたりして「学徒出陣」となった。
 昭和十八年九月「女子挺身隊令」により、二十五歳未満の未婚女子の勤労動員
が決まり、軍需工場や造材、炭坑などに働かされた。
 更に同十九年二月「国民登録制」を拡大し、男子十二才〜六十才、女子十二〜
十四才を徴用の対象とし、軍需工場などへ招集された。
 同三月には、中学生(旧制中学)の勤労動員が決定した。
 同二十年四月十四日に湧別小学校高等科一・二年生が志撫子まで松葉油の採
集のため、一週間にわたり動員されている。
 この松葉油は飛行機の燃料にするため全国的に学生、生徒により採集されたの
である。
 昭和十八年八月、アメリカ軍の北海道沿岸上陸に備え、沿岸特設警備隊が作ら
れ、隊員は、湧別、上湧別両町の在郷軍人二○○〜二五○名で編成された。
 一年に三回くらい湧別国民学校を兵舎として、戦車攻撃に備えるために「タコ壺」
という穴を掘ったり、一週間ほど実戦さながらの訓練を行い、家に帰ったら、くたくた
で仕事が二〜三日手につかなかったという。
 その警備隊の中隊長は、陸軍中尉飯野哲三で、第二小隊長に簗部勇吉陸軍軍
曹の名がある。

吉川中尉一家のこと          八 田 亀 義
 吉川秀治氏は、明治四十一年吉川善作氏の長男として湧別町で生まれ、幼少
より向学心に燃え、当時難関といわれた旧制旭川中学に入学した。卒業後は下
湧別村の小学校の教員となったが、当時の村長堀川重敏の知己を得て、堀川村
長の強い要請により、志を変えて下湧別村役場に就職した。
 堀川村長が留辺蘂町長として転勤するや共に留辺蘂に移り、兵事主任として勤
務していた。
 昭和十三年応召、旭川第七師団に入隊した。
 師団では兵士のほか男女高等学校の生徒の軍事教練の指導に当たっていた。
 昭和十四年北支事変の中国に派遣されて、内戦の鎮圧任務に当たっていたが、
同年七月一日壮烈な戦死を遂げた。
 享年三十一才であった。
 氏が出征に当たり書き残した辞世の句を紹介する。
    「さくらばな咲きこしかたぞ麗しく
           散り行くかたに誉れありとす」
   昭和十三年二月二十二日
 国はその功により功五級金鵄勲章と勲六等単光旭日章を授与し、陸軍中尉に
昇進した。
 吉川中尉は、送られてきた当時の隊長と部下の詳細な手記によれば、内戦に
脅える中国の良民を守り、友好的に接して心より信頼され、破壊された道路や橋
の補修架設等にも協力して大変感謝尊敬され、架橋寛政のときには住民の声で
「吉川橋」と命名されたという。
 後に中国の要人達から氏の徳に報いるため、吉川家に贈られた緞子の畳一畳
ほどの「庶民及澤」と記した大額は、秀治氏の人柄を綴った一冊の文書と共に家
宝となっている。
 その手記には、平和を願い、部下を思い、そして家族を思う切々の心情が記さ
れ、読む人をして涙せずにはおかせないものがある。
 夫人のツルエさんは名家の生まれで、旭川高女を卒業後、裁縫や生け花、茶
道などの青年学校の教師を勤め、秀治氏と結ばれた。
 秀治氏亡きあとは遺児久美子さんを抱えて吉川家を守り、老父母を助けて経験
のない農業に従事し、近隣の人たちを感動させた。
 戦後の混乱した中、毅然として農業を守り、若者の指導に勤め、軍人の妻として
、未亡人として、社会人として婦人の鑑と言われた賢夫人である。
 現在八十路を越えて尚健在である。
 今は久美子さんも母となり、孫の孝君が大学を出て農業を継ぎ優秀な青年とし
て嘱望されている。
 祖父に当たる秀治氏の生まれ変わりのように良く似た立派な青年である。
 祖母のツルエさんの心に感慨深い喜びがあるものと思う。
 心から幸多かれと祈るものである。

物が無い  昭和十二年の日華事変の頃より国は、生産や物資の統制を強め、農業につい
ても作付け作物も米、麦、燕麦、大豆、馬鈴薯、玉蜀黍、亜麻、ビートなど戦時に
関係する作物が奨励され、それぞれ目標が示されるという状況であった。
 物価も戦争が長引き、物資が足りなくなってくると価格が暴騰し、インフレの様
相を示してきたため国は、昭和十三年に思惑買いや売り惜しみ、買い占めを防ぐ
ために物価統制に乗り出し、公定価格制度となった。そして物資についても統制
が敷かれそれと共に配給制が生まれた。

生活物資は
 昭和十三・三 綿糸配給統制規則(割当制度)
 昭和十三・五 ガソリン、揮発油、重油の切符制、石炭統制規則
 昭和十四・七 マッチ、家庭用石炭、綿製品(ネル、肌着、かすり、木綿、手拭い
           )の配給制
 昭和十七・二 衣料品の切符制(切符がないと衣類が買えない)
 昭和十八   木炭、薪の配給制
食べ物は
 昭和十四・四 米穀配給統制法(働き盛りで一人1日三三○c二合三勺)
 昭和十四・七 砂糖配給統制規則(五人家族で一ヶ月六○○c)
 昭和十五・六 麦類  〃  〃
 昭和十五・六 青果物  〃  〃
 昭和十六・十 酒類  〃  〃
 昭和十七・二 味噌醤油  〃  
 昭和十七・三 鮮魚貝類の配給制
 昭和十九・八 料理飲食店の休業指導
 昭和十九・八 家庭用砂糖の配給停止
 昭和十九・十一 たばこの配給制(一人1日六本、翌年からは五本)

という有様であった。

悲惨!機雷爆発事故  昭和十七年の四月頃から、湧別沖に機雷らしき物が浮いて流れているという
噂があり、五月下旬にワッカの海岸とポント浜に漂着し発見された。浮遊機雷
が漂着したとの報告を受けた遠軽警察署長は、機雷の恐ろしさを多くの人に知
らせるため、爆破作業を見学させることにし、下湧別警防団が総動員され、付近
の村にも知らされ、一般の人や児童、生徒も見学のために集められた。
 爆破は、五月二十六日午後一時に行われる予定で、爆破場所のポント浜(東
五線の外海)には続々と人が集まっていた。
 ところが、二個の機雷を別々に爆破させる為、一個を移動中突然爆発し大惨
事となった。
 時まさに午前一一時二六分であった。
 死者一一二名(内、村民八二名)負傷者一一二名(内、村民八○名)を数え、

 「微塵に破砕されて痕跡をとどめない者、砂まみれになって飛散する五体の断
片、死者、負傷者が累積して無惨を極め、丘陵を覆うはまなすは鮮血と肉片で
彩られて、慄然たるもので・・・」=湧別町史=
 「一瞬機雷が爆発し、大音響は原野や山林に響き、湧別市街の窓ガラスも響
きで壊れた。煙が立ち去ったあとの現場には、直径一○b、深さ三bの大きな
穴が開き、五○b四方には
死傷者二百数十名が折り重なって、これらの悲鳴とうめき声でさながら地獄の
絵図を現出した」=湧別町史=

 村では翌十八年に爆破現場に「殉難者慰霊碑」を建てたが、海岸浸食と放任
のため倒壊しそうになっていたため遺族会の奔走と消防団の協力で湧別神社
の境内に移転し、その後町では毎年六月十五日に慰霊祭を行っている。
 そして町は平成三年護岸工事の完成により、現場近くに再度慰霊碑を建立し
改めて犠牲者の冥福を祈った。

奇跡的に生き残った
八田さんの手記
    (八田さんは、当時警防団員として爆破作業に従事するため現場にいて
事故にあった。)
 年毎に忘れ去られようとするポント浜の大惨事の体験を書き残
して置きたい。
 昭和十七年五月二十六日は、朝から蒸し暑く消防番屋を整然と
出発した団員の隊伍も乱れがちで、制服の背中に汗が滲み出るほ
どだった。着いた現場には、先に市街の団員で引き上げられた機
雷が二個、少し離して砂の上にあった。
 私は驚いて
 「機雷の処理は海の中でやるのが常識でないか。こんなことを
して危なくないのか」と叫んだ。
 するとある古参班長が
 「こんなもの海でやったら一里四方の魚族が全滅するんだ。沿
岸漁民の一大恐慌になる」といった。
 私は恐ろしくて「人を近づけるな」と言いたかったが、戦時
中班長と一つ星の階級の差はそれを許さなかった。
 他の班長も機雷の頭の穴を指して
 「こんなに錆びているから大丈夫だと思う」と言った。
 その内
 「こんな砂の上では威力が判らないから、土の固いところまで運べ。
七〜八人で担げば動くと思う。漁師の番屋から長い棒を借りてこ
い。ロープも持ってこい」ということになった。
 一つの組は棒を捜しに、もうひとつの組はロープを取りに行った。
私はえらいことになったと思った。ロープは来たが、棒を捜し
に行った鹿野班長が、
 「捜しても手頃な棒が見当たりません」と帰ってきた。
 「仕方がないロープで引っ張れ」ということになった。
 「警防団員全員ロープに付け」と命令が出た。
 全員ロープを握って歩き始めた。砂丘の高い所を過ぎるまで重
かったが、下り始めて軽くなったと思っているうち、急に重くな
り止まったので振り返ると、丁度漁場通いの馬車道の轍の穴に落
ち高桑班長が、
 「もっと左のほうに引っ張れ」と指さして機雷の向きを変えようと力をい
れていた。
 その時青白い大きな閃光が走り爆風で吹き倒された。
 伏せている間、背中に物が落ち、痛みを感じ、これで終わりかなと思
った。
 物が落ちなくなり空が明るくなったので立ち上がってみたら、体に落
ちたものは、大きな土塊や人の体の切れ端だった。
 自分の体も傷だらけで痛みを感じ、急いで大きな出血がないか
を調べ、傷の大きな所を手拭いで縛り、足を引きずりながら歩き
始めた。耳は片方駄目になって片方の耳で徴かに
 「うーん、うーん」という叫び声が聞こえた。
黒焦げの肉切れが散乱する中を歩き始めたが、座り込み、その
内に家人が来てくれて駅前の劇場(第一収容所)へ運んでくれた。
 殉職した人の中には、身体は確認できず衣服の切れ端を見つけ
て諦めた遺族もあったという話は、殺伐とした戦時下でも多くの
人の涙を誘った。
 親を呼びながら、妻を呼びながら、水を求めながら息絶えた人
たちの中には、止血の材料があり、手当が早ければ助かったと思
われる人も多かったと聞いた。
 警官、警防団の幹部が殆ど死亡し、指揮系統の麻痺した中に駆
けつけた土井重喜氏が、生き残った警部補に了解を求め、救援活
動の陣頭指揮を執った。
 海上の漁船を呼び、負傷者の搬送を迅速に行い、その沈着な行
動は後に称賛され、話題となった。
 救助した漁船(星万太氏所有)の船頭藤井勇氏(藤井孝一氏の
父親)の活躍も大きかったという。
 戦場の体験者でも、これ程の凄惨な光景はないと言っていた。
 正に地獄絵と言うべき惨状であった。
 警防団の団長以下幹部の人たちは、下湧別村にとっては大切な
人ばかりで、こんなことがなければ湧別町の歴史も大きく変わっ
ていたと言えるほどの一大痛恨事であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この機雷事故により四号線でも死傷者が出たが、警防団関係では
次の方が被害に遭われた。

 死亡者  班長 高桑正義  団員 安立四郎 松岡俊夫
 重傷者  団員 田中春吉 八田亀義
 軽傷者  団員 吉村正一

また一般では、
 田中忠右衛門 田中喜三郎が亡くなった。

高桑班長と奥さんの事            八 田 亀 義
 班長の高桑正義氏は殉職の時は三十六才の働き盛り。
 氏は、青年時代より真面目で若者の尊敬の的であった。
 公的に奉仕の精神の強い勇気のある人で、地域の災害(火災、
水害)のとき等は常に先頭に立ち、危険な所は自ら進んで入り、
士気をミめて多くの人の心を打った。
 頭も良く、四号線部落の指導的人物として期待されていた人で、
四号線のために本当に惜しい人物であった。
 機雷の写真の右端に腕組みをして立っているのがその人である。
 夫人ツイ子さんは三十三才であったが四人の子供を立派に育て
上げ、家業の農業も上級の経営を継続し、母子家庭としてまた未亡
人として人々の心に大きな感銘を残した。
 長男国光氏に家業を任せた後は趣味の舞踊で自らも楽しみ他人
にも喜びを分かち与えた。
 また老人会のリーダー格で八十路を過ぎてなを健在である。

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第十二章
土井重喜氏の人生を語る

錦町の長老というより町のと言ったほうが適切であろう。
氏の人生は、そのまま湧別町の歴史でもあり社会の歩みでもある。
氏の九十有余年の人生の中の尽きぬ思い出の数々の一端を紹介する。


地域住民の信望を集めた指導者       元錦町区長   八 田 亀 義
 土井重喜氏の人柄に強く心を打たれたのは、私が青年期に部落の
集会で同席するようになってからであるが、土井家の父方の先祖は
武将で一城の主であり、氏の父親菊太郎氏も中々気骨のある厳格な
人であった事、そして刺激しも大きな人物であるということは、子供の
頃から父親から聞いていて知っていた。
 当時は部落も貧弱で、住民の出入りも激しく、人の輪にも欠けて
いた。部落の集会では、道路や橋、又施設の改善等、順を争う問題
が多く、いつも混乱し、纏め役の区長が苦労する事が多かったが、
こんなとき土井さんがおもむろに発言して、諄々と諭すように説得
すると空気が一変し、和やかになって大賛成で決定を見るのが常で
あった。
 決定を見た事柄には率先して協力し、部落の負担が大きな様な場
合は、自らが高額の負担を示し、他の人たちの負担を少しでも軽減さ
せる気配りをする人であったから、いつも部落民の信頼と尊敬を一
身に集めていた。
 氏のその徳の及ぼすところは大きく、先に氏の大活躍によって
当選した信太道議の没後、各方面からその後継者として嘱目され
て懇請されたが、これを固持して同郷の先輩である道議候補で前回
苦杯を喫した谷虎五郎氏の応援に転じ、好評の内に連続二回当選さ
せたのである。
 その後自らも村会議員に強く推されて最高得票で当選し、当時の
話題をさらったものであった。
 往時の土井重喜氏の大衆に呼びかけ、又議会で発言する際の堂々
とした論調が録音に残せなかったのが本当に残念に思う。然しなが
ら地位や名誉を追わず、故郷を愛し、他人を立て、親に仕えた優し
い氏の人柄が錦町や湧別町だけに止まらず、拾い管内全域までも
うらした量り知れない大きな功績は、歴然と輝いているのであ
る。
 今回土井さんの近所で生まれ育ち、永年高校の教師を勤められた
北川年枝さんに御執筆を願って、錦町が生んだ偉大な人物の足跡を
後世に残す事が出来るようになったことは、土井さんを心から尊
敬してきたものとして安堵にも似た大きな喜びを覚える所でありま
す。
郷土四号線が生んだ傑物土井重喜翁八十年の足跡
















































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      北 川 年 枝
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 平成二年四月、土井重喜氏は稀に見る健康状態で米寿を迎えら
れた。その記念すべき節目を記して出版された回想録「恵まれし
我が生涯」には氏の八十年に亘る足跡、並びに非凡な活躍の数々
が再現されていますが、その中から氏が特に苦労し、感激し忘れ
ることの出来ない問題について抜き出して列挙し、己を語ること
を好まない氏に懇請して、再度記憶を掘り起こして頂き、これを
村の歴史の一つとして記録しておくことは、同じ部落に住んだも
のの責任であると信じて筆を執りました。
 記述は”生い立ち”に次いでおよそ年次順に並べた項目(一)〜(
十二)に沿って筆を進めます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生い立ち
 土井重喜氏は、明治二十五年高知県から本道開拓を目指す一団に
加わって岩内に入植し、さらに有望な農地を求めて湧別原野に入り、
同二十七年に湧別川沿岸の四号線西一線に鍬を下ろした土井菊太郎
氏を父とし、福井出身の信仰心篤い母イカ(吉川)との長男として
明治三十五年四月二十一日同地に誕生したのである。
 やがて氏は父の営農への期待を一心に受けて大正六年春、湧別尋
常高等小学校を卒業したが、燃える向学心は、強い父の反対を受け
ても押さえることができず、その年の五月に出奔を決行し、札幌に
出て夜学に通いながら、道庁の事務職員として勤務する知遇を得た
のである。然しさらに将来の希望として弁護士を志すようになり、
上京して日大法科に入り、鋭意勉学に専念、いよいよ弁護士試験が
翌年に迫った大正十二年九月一日、世に言う関東大震災に襲われ、
下宿も書籍もそして実現を目前にした宿望さえ失い、傷心の身一つ
になって故郷の下湧別村に帰ってきたのである。
 実に村を出てから七年目の秋のことであった。以来今日まで約七
十年、その間に氏には中央に出る機会もあり、またその才幹にも恵
まれておりながら、あえて故郷に留まり、町の指導役、そして知恵
袋として、驕る事なく尽くし続けた数々の業績は聞くものをして等
しく畏敬の念を抱かせるものである。

(一)  牧場経営と牛馬の生産育成(大正十五年〜昭和十九年)
(二)  本道開拓の大先輩信太道議に対する奮戦記(昭和三年)
(三)  土功組合についての悪戦苦闘(昭和三年〜十年)
(四)  二号線道路開削と取り組む(昭和十年〜十二年)
(五)  北見産馬振興のために活躍(昭和十二年〜二十年)
(六)  村会の改革と村政の刷新を図る(昭和十一年〜二十年)
(七)  漁業組合再建に協力(昭和十三年)
(八)  翼賛運動と公職追放(昭和十五年〜二十年)
(九)  湧別農協組合長として活躍(昭和二十八年〜三十年)
(十)  土井産業(株)の設立とロータリーアンとしての奉仕
                      (昭和三十七年〜)
(十一)北見ホッコン(株)の誘致に協力
(十二)湧別森林組合倒産に対する救援活動(昭和五十四年)

(一)  牧場経営と牛馬の生産育成
 生き地獄のような大震災を逃れて、奇跡的に生還した重喜
氏がまず取り組むことは、疲れ果てた心身を回復し、虚弱な体質を
鍛え直すことであった。そのためには毎日戸外で十分運動できる職
業を選ぶ必要があり、牧場経営をやることにしたのである。
 牧場は道庁勤務の折り大先輩の勧めで小さいながら一ヶ所手に
入れていたので、これを拡大し、凡そ三百数十町歩の夏涼しく草
生のよい、飲料水の沼にも恵まれた牧野を取得し、毎年二○○頭か
ら三○○頭hどの預託馬の放牧を行う傍ら、農林省の買い上げを
受ける優良馬の生産を行った。
 また畜牛について特筆したいことは昭和十四年頃道庁に要請し、
甜菜耕作を改良する事業の一環として、農家に畜牛の飼育を実施さ
せるため、千葉県から二○頭の雌牛を導入し、これを甜菜農家に配
分して湧別畜農組合を設立した。四号線に集乳所を設けて、ここで
クリームを分離して、名寄酪農工場に送り湧別酪農の発端を開いた
のである。
 このようにして重喜氏は、数十年間牧場経営を実戦してきたお陰
で、病み疲れ果てた心身を十分に休養させた上に、頑健な体が作ら
れ今日の長寿に繋げることができたのは、氏のために最も大きな成
果であったと言えよう。

(二)  本道開拓の大先輩信太道議に対する奮戦記
 昭和三年の或る日、重喜氏は村の収入役の小玉九助氏の来訪を受
けて次のように懇願された。
「この地区の開拓功労者信太寿之氏が、地方のボスに扇動されて三
度道議選に立起し、連続落選の憂き目にあったばかりでなく、その
都度莫大な運動資金をむしり取られ、そのため信太氏は銀行に莫大
な借金を背負い、最早動けない状態になり泣いている。まことに気
の毒な人である。
 土井さんはこれから社会に出て活躍する信望のある青年だから信
太氏の再起のために力になってもらいたい」というものだった。
 重喜氏は義憤やるかたなく決然と立ち上がって行動を起こしたの
である。然し信太氏の道議の再起は、これまでの深刻な経緯から見
て本人はもとより氏の親分である。政友会の道支部長木下成太郎
先生にも容易に望めることではないと悟った重喜氏は、回を重ね
長時間に亘って二人に熱っぽく懇請を続け、又熟議が凝らされ、
その透徹した論理と選挙に対する自信はついに木下先生に
「長い間政治家として歩いてきたが、君のような青年にあったこと
がない。そのような立派な決意にたって最善を尽くして貰って尚且
つ当選できなくても決して君を恨まない。土井君、しっかり頼むぞ
」と言わせ、重喜氏の手を堅く握りしめたそうである。
 一方信太氏は感激のあまり大声を上げて泣き出し、重喜氏の決意
を新たにさせたのである。
 そして木下先生の邸宅で出陣式が行われ、改めて先生から選挙の
術策を受けることができたのである。この様にして三ヶ月後に迫っ
た選挙は予想以上の苦戦であったが、十分戦果を上げて四度目によ
うやく多年の宿望を達成することができたのである。
 この時を契機にして木下先生の刺激しに対する信望は絶大なもの
となり、その後の村の難題解決の大きな力になって貰えたのである。

(三)土功組合についての悪戦苦闘
 北海道で米作をしたいという願いは、本州から移住した農民にと
っては郷愁に通じる夢であった。
 やがて、道北にも適する冷害に強い品種改良を重ねながら、栽培
の可能性を探っていた道民の宿望を、行政が取り上げる事になり、
昭和三〜四年頃、両湧別でも二千四百町歩の造田計画が進められる
ことになった。しかし下湧別農民の大部分はこれに反対し、土功組
合の設立阻止を企てたが、結局強行されて組合設立の運びとなり、
莫大な資金を借りて、灌漑溝や造田のために投資したのである。
 然し打ち続いた冷害凶作のため、農民の死活問題となり、その怒
りは頂点に達したのである。重喜氏は此の問題は国や道の誤った拙
速的な指導奨励の結果で、その責任は明らかに行政が負うべきであ
るとして、当時の政友会道支部長の木下成太郎代議士に持ち込んで
救済を求めたのである。その結果、党の大きな支援を得て湧別土功
組合は設立以来約二十年を経過し、その殆どは凶作に終わったが、
負債は一切国庫負担となり、水田は元の畑に還元されたのである。

(四)二号線道路開削と取り組む
 重喜氏が牧場を買い受けたのは大正十五年頃であったが、その頃
登栄床に至る道路は、四号線道路があるだけで今の二号線の箇所は
年中水溜まりの湿地帯で、広い谷地坊主の原で牛馬でさえ地中に水
没する泥炭地であった。
 重喜氏は町や網走土木事務所に幾度か陳情を重ねたが満足できる
回答が得られなかったので、若輩の自分には無理な問題と考えて地
元選出の尾崎天風代議士に話をし、これが後日網走土木事務所長の
現場視察の実現となったが、開削に着手するには重喜氏の粘り強い
努力が重ねられて政治家が動かされ、ついに工事の実施に漕ぎつけ
たのである。
 その後、二ヶ年計画でサロマ湖までの開削が完成したのである。
 今この道路は登栄床方面に通じる幹線道道として高い利用度を示
し、又谷地坊主の原野が見事に開拓されて立派な酪農生産地となっ
たのである。
「あの当時の事を思い起こすとまことに感慨無量であると同時に
面目躍如たる感がある」と重喜氏はしみじみ語っている。

(五)北見産馬振興のために活躍
 昭和に入り軍国色が濃くなってきて、軍馬の育成は急を要する国
策の一つになった。従来の網走外三郡牛馬組合が、網走に本部を置
き各市町村に支部をもつ北見畜産組合と改組されて中々権威のある
団体となった。従って代議員の選挙は何処の町村でも獣医や地方の
名士が立起して激戦であった。
 又会議においても高度な論戦が交わされ、組合長も食い下がられる
ことがしばしばあったが、重喜氏はこれに対してよく援護し、会議の混
乱を防ぐために常に睨みを利かせていたそうである。
 氏が谷組合長(注、四号線出身の道議)の懐刀といわれたのはそん
なところから噂されるようになったものと思われる。
 氏は当初から谷組合長の懇請を受け、その期待を担って選出された
只一人の牧場を経営する代議員であったので、その発言は常に高く
評価されて人気を呼んだ。殊に馬の放牧についての彼一流の持論は
、会議に列席していた軍や行政の係官にも特に関心を持たれ、又組
合に取り上げられ実施された献策も少なくなかったのである。
 氏が常に提唱していた懸案の中で最も大きく、そして急を要する
方策は、北見産馬の泣き所である下半身をいかにして軍の要望に対
応できる強健な馬に改造できるかという問題であった。
 これに対し氏は北見の馬も釧路や十勝のように冬期間放牧を実施
する以外に方法はないものとし、自ら数年間に亘って放牧の馬を冬
期間高い山に移動させ、経過を観察した結果、成功の確信を得てい
たが、その実現を講評する機会も無く馬産の時代を失ったことは残
念であったと漏らしておられる。

(六)村会の改革と村政の刷新を図る
 昭和十一年重喜氏は全村的な支援を受けて村議に担ぎ出され、最
高点で当選したが、初めて出席した村会があまりにも非民主的な雰囲
気であったのに驚いた。
 特定の議員は自らを我輩、相手を貴公とと呼び合い、発言も氏が大
学時代に聞いた民政党の演説口調で故意に言論を弄ぶ風潮が見ら
れた。
 従って一般議員やまして新任議員などは、審議に介入することがで
きず。
 一部の議員に独占されている状態であった。重喜氏はこのような議
会の弊風を改善することを通説に感じて早速実践を始めたのである。
 まず発言には敢えて平易な言葉を用いて誰もが理解できるように
し、しかも理論的で納得の得られる話し方に努めた。又新任議員に
は指名して意見を求め発言の機会を与えるようにして、だれもが意
思表示できる雰囲気作りに意を用いた。
 そのためには元老の反対に臆せず持論を主張するなどたゆまない
努力によって審議は全議員(二四名)の意見を尊重し、過半数の賛
成によって決められるのが常道であることが理解された。この様に
して無理な決議や少数者によって他の発言を抑えることが無くなり、
村会は明るい奮起の中で公正に運営されるようになったのである。
 又村政の刷新についてはまず村民の信望が伴わない上席書記を入
れ替え、職員全体の平均年齢の若返りを図り、役場内の明朗化と仕
事の効率化を図ることであった、さらに村長はこれまでの業績や手
腕、力量の点において申し分がなかったが、村民の信望が薄く、年
齢も高かったので不満があり今期の改選で円満に勇退してもらい、
新進気鋭の刷新型の若い人を選出したいという空気が強かった。
 氏はこれに対応して村長の対面を傷つけることなく、又その去就を
誤ることのないよう配慮し、支庁にも出向いて支庁長や総務課長と
もよく相談をし、さらに村長とも貝を重ねて意見の交換をしたが、
妥協するところまでは行かなかった。村長は選挙の直前には既に助
役や一部の村会議員の支持を得て決戦の構えを見せており、これに
対して村会の長老組は元下湧別村の上席であった某氏(当時他町村
の上席)を持ってきて村長を退けようと気勢を上げていた。これに
加えて刷新派が新進気鋭の若い候補を連れてきて争うことになれば
三人の候補を巡って大混戦に陥り、村の前途に一大禍根を残して氏
がこれまで望んできた村政刷新の努力も水泡に帰すことになるので
選挙は何としても避けねばならなかった。
 そのために氏は村会議員の一層の結束を固め、何処までも村長の
円満勇退を前提として森垣村長を全会一致で推薦して花を持たせた
所、彼は感謝して自ら勇退に踏み切り、村上助役を自分の後任に推薦
してその引き際を飾ったのである。
 森垣村長の立派な一大決断によって、当時の下湧別村長選出は極
めて和気あいあいの内に処理され、新進気鋭の刷新型村長を迎え
て村政の積弊を一掃することが出来たのである。この案を貫いて成
功に導いた若い重喜氏の政治的手腕が各方面から高く評価されたの
はいうまでも無いことであった。

(七)漁業組合の再建に協力
 かって同組合が不振に陥ったとき、重喜氏は村議会の猛反対の矢
面に立って、村長を組合長職務兼掌として漁業組合の再建を図るべ
きであると、村の将来を展望した正論を吐いて議会の賛成を得、見事
に組合再建を成功させ、今日の優良組合としての基礎を築いたので
ある。また漁港を作るようになってからもその達成に協力するため、
二回にわたり町の水産振興資金に高額の寄付を行い、さらに敷地に
ついても大いに協力したのである。

(八)翼賛運動と公職追放
 日支事変も長期化し、戦闘は拡大の一途を辿っていた昭和十五年、
この国難を乗り切るための大政翼賛会が発足し、道、市町村に支部
が置かれた。さらに翌十六年には行政と一体となって戦争遂行に
協力する翼賛壮年団組織が発足した。重喜氏は大政翼賛会道支部協
力会議員として更に十六年からは、下湧別村翼賛壮年団長と網走地
区翼賛壮年団長に推されて就任し、日毎に厳しさを増す翼賛運動の
ため活躍したが、終戦後は公職追放の指名を受け、その後は強く責
任を感じて四年後に解除されてからも一切公職につくことを拒み続
けたので各方面から大いに惜しまれたものである。

(九)湧別農協組合長として活躍

組合長就任に至るまで
 
終戦後重喜氏が受けた公職追放は、四年後の二十六年四月に解除
された。然し何時までも主導権を握り後進の道を阻む事はすべきで
ないというのが戦後における氏の固い信条であった。所が二十八年
五月農協役員の改選に際し重喜氏を組合長にという組合員の強い世
論が盛り上がり就任の懇請を受けた。
 氏は信条を伝えて頑強に固持したが、納得させることは出来なか
った。夜を徹しての要請を耳にしていた父菊太郎氏に「今までお世
話になったご恩返しに一期位引き受けてはどうか」と助言され、遂
に承諾せざるを得なかったのである。重喜氏が組合長就任を拒んだ
もう一つの理由はつぎのような心境にあったからである。
 当時はまだ占領政策の影響があり、激しい経済恐慌の流れの中で
大揺れしており、何処の農協でも資金も物資も無く、自分達の貯
金ですら充分に使えない凍結の時代であった。組合員が組合から離
れていこうとする気持ちも、生産物を横流しして生活を守ろうとす
る気持ちも分かる重喜氏は、これまで信頼し尊敬してきた小川組合
長ができなかったことが、全く未経験な自分にできる筈がないと考
えていたからである。
 然し多難な中から信頼するリーダーにすがって、何とか立ち上が
りたいという多くの組合員の切実な気持ちに接したとき、例え無力で
あっても持っている全てを注ぎ込んでやりたい、如何なる苦難に
出会っても飯を分けあって食べても、皆で生き抜いていかなければ
ならないのだと言う持ち前の情熱が湧いてきた。
 更に全組合員の暖かい友情の結集ができれば、道は自ら開け
てくるという自信にも似た力さえ出てきたのである。だから就任後
は全組合員の気持ちをこの一点に引き締めて貰い、役員と共に日夜
奔走すると共に連日討議を重ねて、運営の刷新強化に力を注いだ
のである。

一期の約束を守って
 重喜氏が組合長を引き受けた時点では不安もあり、決して勇んで
就任したわけではなかったが、一旦仕事を始めると先輩の応援もあ
り、組合員や役員から溢れるほどの暖かい友情や協力を受けて組合
の運営の最も厳しい状態であったにも拘わらず、誠に快適に仕事を進
めることができた。生涯を通じて忘れることが出来ない喜びであっ
たと後日氏は語っている。
 瞬く間に任期は終わり、再び組合員や役員から熱烈な留任運動が
起こって強い要請を受けたが、前言を翻して留任に応ずる事はなか
った。
 ここで当時の農協監事の八田さんから伺った美談として残っている
話を紹介したい。
 組合長に支給された報酬に関することである。氏が就任後は当然
受け取るべき報酬を数ヶ月も受け取らずに溜めたまま経過していた
ため専務に
「組合の経理上迷惑である」といわれ、一旦は受理したが
「今度は俺が自由に使える金だからはっきり依頼しておくが、この
金と今後支給される金は全額農協組合員の中から応召して戦死、
戦病死または未帰還の遺家族のお見舞い金として俺の名前を決し
て出さずに寄贈して欲しい」と伝え極秘に取り扱わせたことである。
 他に例をみない麗しい決断であり、氏をおいては当時実行できる
ことではないと思う。

(十)土井産業(株)の設立とロータリーアンとしての奉仕
 重喜氏は終戦後国鉄に対して海砂の採取販売、並びに一般建
築資材、包装資材、ガソリン等の販売会社を設立し、これを経営し
ながら、昭和四十年七月両湧別の同志と計って、国際ロータリー
中湧別ロータリークラブを設立し、以来三十年にならんとする今日
まで、世界人類の平和と幸福のため貢献すると同時に、地域社会
にも奉仕活動を続け、しばしば各方面に対して大口の寄付をする
などの功績に対して関係団体や町から感謝状や表彰状を受けて
いる。また国からも三回に亘って紺綬褒章を授与される栄誉に浴
している。その外枚挙に余るほどの貢献がありながら、多くを語ろ
うとしない氏の床しさが美しい限りである。

(十一)北見ホッコン(株)誘致に協力
 昭和四十三年、重喜氏は当時の町長に懇請され、湧別の産業振興
のため深川市において本道のコンクリート製品業界のトップに立っ
て名を成している、本町出身の(株)ホッコンの芳賀昭雄社長に系列の
工場を建てて貰いたい旨を懇望したのである。
 町としてはその敷地と既存の建物を提供し、重喜氏も工場誘致達
成のためならば多少の資金協力をしても宜しいという条件で協議を
重ねた結果、(株)ホッコン北見工場を発足させることが出来たのであ
る。現在工員四十数名を擁し、毎年立派な業績を上げ湧別町におけ
る優秀な企業の一つとして期待されている。

(十二)湧別森林組合倒産に対する救援活動
 昭和五十四年十二月、湧別森林組合が突然倒産した。五十有余名
の工員が解雇され、新年を前にして路頭に迷う悲惨な状態に陥った
のである。この影響によって町の商店街は大混乱を起こすという大き
な社会問題となった。
 重喜氏は当時の町長と森林組合の幹部役員の懇請を受けて、その
応急対策に奔走したが、林業界の最も不況な時で、この難題解決の
力になってくれるものは見当たらなかった。重喜氏は日頃最も親交の
間柄にあった渡辺組の社長渡辺正喜氏に無理に懇請したところ
「他町のことなので自分一人ではできないが、君と共同なら力を貸そ
う」と言う返事を得た。
 然し重喜氏は自分が高齢なので固く断り、一人で引き受けて貰い
たい事を繰り返し懇請したが了解が得られず、自分の決断なしには
解決の道がないと考えて共同経営を引き受けた。しかし業界の動き
は厳しく、経営は想像以上に深刻で、倒産の二の舞を踏むのでない
かと心配する年が何年も続いたが、最近は渡辺社長の不退転の熱意
とすぐれた敏腕、社員のたゆまない努力によって漸く安定し、前途
の発展が各方面から期待されるまでになった。

(追記)湧別駅の存続及び湧別小型、同ハイヤーの設立免許に対する協力  土井重喜氏は、終戦後国鉄が使用する海砂を納入する業者であ
った関係上、湧別町荷主会会長、湧別駅存続期成会副会長(会長
は町長)としての立場にあり、駅の存続問題については、常に氏
を窓口にして話が進められた。
 そのため長年議長や町長と共に旭川鉄道管理局長に陳情し、無
理に駅の存続を要請してきた。
 しかし昭和の中期に入り、国鉄の経営難から現状のままでは到底
存続が認められなくなって、急遽湧別駅の発送荷物を増やすために、
工場誘致を考えなくてはならない緊迫した状態になったのである。
 そのため氏は、町長や議長と協議を重ね、二人に上京して奔走
してもらった。その結果、東大のある教授の骨折りが得られて日
麺実業と話を進めることができた。
 湧別で生産される馬鈴薯を原料として、マッシュポテトを生産
する事に成功したのである。生産された食品を発送することに
よって、湧別駅の荷物収益が一躍管内第二の業績を上げ、多年苦
しんできた駅の存続問題も見事解決し、名寄線がなくなるまで湧
別駅は存続したのである。
 湧別小型運送(株)は、昭和三十二年五月に認可を得て開業したが、
初代社長の吉田勉氏はそれまで土井産業の砂の運搬を馬が曳く保
導車によって行っていた。しかしこれからはトラックの時代であ
るという土井重喜氏の決断により、土井氏の全面バックアップ
で運送会社を設立したが、この時陸運局の認可が得られたのは土
井氏の尽力の賜物であった。
 そしてその二年後湧別町にもハイヤー会社が必要であるという
土井氏の呼びかけで石川保重、阿部文男、深澤豊の各氏などが出
資して、湧別ハイヤー(株)を設立し陸運局に認可の申請をした。
 所がこの認可に既存のハイヤー会社等が猛反対をした。
 その理由は、中湧別に支店があり、我が社の営業区域であり、
住民に不便はかけていない、そして運転をする深澤豊氏は消防団
員でハイヤーの業務に馴染まない、というものだった。
 そして関係者による公聴会が開催され、賛成・反対の公述人の
意見発表があったが、結果は申請却下であった。
 これに猛反発した土井氏は、前回の湧別小型の認可申請の経験
もあり、陸運局に乗り込んで担当の部長と強談判に及んだ。
  土井氏の主張は、
「湧別町は現在人口一万三千人、網走管内有数の大町村で、しか
も町の基幹産業が農・漁に二等分されているために、町内の交通
路のキロ数も長く、その実情からみても既にハイヤー会社かその
営業所がないのがおかしい位で、今回のハイヤーの申請は申請人
だけの問題でなく、全町民の多年要望していた所で町の面目の上
から見てもこれは達成されなければならない」というものであっ
た。
 土井氏は担当の部長と何回か大激論を重ね、何回却下されても
貴方の転勤するまで難解でも申請すると頑張り、重ねて申請し、
ようやく認可を得たのである。
 おそらく同志の一大決意に動かされたのであろう。
  昭和三十五年の事であった。
  「あの頃は私も鼻っ柱が強かったから」と土井氏は笑う。
 (この項は土井さんからお聞きして富永が記しました)

土井利雄氏と健治郎氏のこと  昨年利雄様が土井家の墓参に帰湧された折、かって隣人であっ
た母に懐かしい昔話を期待されて私の所に立ち寄られましたが、
その折り利雄様の輝かしい足跡を伺う事ができました。この度の錦
町百年に当たり祝意を表して改めて詳しいご経歴をお寄せ下さい
ましたので、その大要を纏めさせて頂き、故健治郎様の分と合わ
せて記録させて頂きました。
               北川年枝記
土井利雄氏  利雄氏は土井菊太郎氏の次男として明治四十二年一月、下湧
別村西一線に生まれた。子供の頃は大変元気な餓鬼大将だったと
自称しています。大正末期に父と兄重喜氏が経営していた牧場事
業に協力しこれを拡張するために、又何より馬が好きなこともあっ
て日大獣医学部に学び卒業後は、北見畜産組合の技師として勤務
した後、下湧別に戻り村の畜産主任として畜産行政に従事する事
になった。
 氏はまず馬産の改良を計ることに着目し、それには基礎牝馬を入
れる事が絶対条件なので道に申請して補助を受け、七頭の牝馬を導
入して希望する生産者に飼育させたのである。
 その内の二頭は野生化していて飼い主が持て余し、利雄氏が買い
取って飼育する嵌めになったが、立派に飼いならして専門家の実力
を見せたそうである。後に四号線が優秀馬の生産地として定着する
ようになった基礎作りは、正に利雄氏の畜産行政に対する決断の確
かさによってもたらされたものと言えるであろう。
 しかしその目標半ばにした昭和十二年に臨時招集を受け、次いで
同十三年二月に旭川騎兵七連隊に正式招集を受けることになり、関
東軍精鋭部隊に所属して対ソ戦に備える北満の警備についたのであ
る。
 十五年に一旦召集解除となって帰還したが、十六年太平洋戦争要
員として再招集され、輸送船によってフィリッピンに上陸し、ジャン
グル戦争に臨み、軍馬一千頭を徴発する命を受けて至難の中で完
遂する等大いに活躍した。更にラバウルに転戦し、多くの戦友を失
う激戦に参加したが、十八年四月、長期に亘る服務に対して召集解
除命令が出され、戦地に残る戦友に後ろ髪を引かれる思いで生還す
ることができたのである。帰還後は日本通運道支社の部長として入
社し、道内の営業所で運送のため飼育されていた数百頭の輓馬の使
役と衛生の管理を担当したが、車が馬に変わる時代を見通し、終戦
の直前に退職したのである。
 その後札幌の南九条西一七丁目の商店街に居を構えて、スーパー
マーケットの営業を始めたが、先見の明による健全経営により逐次
業務の拡大を図り、その実績によって高まった信用が更に大きい事
業経営の機会を取得することが出来て、大型ゴルフセンターの設立、
高層ビルとマンションの建設、更に不動産業務に着手する等、押し
も押されもしない幅の広い実業家となったのである。
 加えて三人の男子後継者にも恵まれて、今後も万全な経営が引き
継がれて行くことであろう。又札幌市中央区の自民党支部の支部長
を長年勤め、その他の多数の公職を持って中央区の市民の信望を集
め、現在八十六才の高齢ではあるが、尚元気に活躍しておられる。
 「小生は郷土に特記するような功績を残していないが、両親のあの
不撓不屈の精神は後世の範として残したいものである」と漏らして
おられた。

土井健治郎氏  健治郎氏は菊太郎氏の四男として大正四年十月に生まれ、庁立十
勝農業学校に学んだ。卒業後北海道畜産試験部に農林技手として
三年間勤務したが、その間に飼料作物の品種改良を命じられ、
デントコーン、牧草の新品種を三たび作り上げてその勝れた努力が
認められた。この時の上司は健治郎氏の旺盛な研究心と、努力を惜し
まない仕事に対する情熱から、将来性を見込んでドイツ語を学ぶ示唆
をしたと思われる。
 健治郎氏は勤務先の真駒内から自転車で三年間夜学校に通ってド
イツ語をマスターしたのである。道庁勤務になってからは、専らド
イツの農業技術や農芸化学の研究をするために折があると北大農学
部や農事試験場に出かけ、教授たちや諸先輩と親交を結び、その指
導を受けて上級職員としての実力を養い続けたのである。そして担
当する草地改良という画期的な開発事業の研究を三十数年間仕事の
鬼と言われながら一貫して積み重ね、遂にこれを立派に達成して草
地改良の生みの親としてその名を成したのである。
 氏はその間道の草地課長、畜産課長、農務部次長、農務部長と歴
任し、副知事の噂も高かったが病気のため五十九才の若さで各方面
から惜しまれながら死去したが、押しみて尚余りある逸材であっ
たと悔やまれるのである。

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