錦町開基百年記念史 百年の星霜

昭和の小漁師
メイン 

第十三章 公職者と団体の役員 第十四章 団体、会社編


第十三章
公職者と団体の役員

地域や社会のために公職者や団体の役員として活躍された方々をご紹介します。
錦町住民


道議会議員  谷 虎五郎
   昭和11年〜昭和19年まで
   2期

村会議員及び町会議員 (昭和28年10月町政施行)
 横沢金次郎
   明治43年6月〜大正5年5月まで
   3期
 福山 直人
   明治43年6月〜明治45年5月まで
   1期
   大正5年6月〜大正7年5月まで
   一期
 国枝 善吾
   明治43年〜大正3年5月まで
   2期
   大正11年6月〜大正15年5月まで
   2期
   昭和3年6月〜昭和11年5月まで
   2期
   昭和15年6月〜昭和22年5月まで
   二期
 山田増太郎
   大正五年六月〜大正九年五月まで
   2期 
 谷 虎五郎
   大正9年〜昭和11年まで6期を努め七期目に道議に当選
 土井重喜
   昭和11年6月〜昭和22年3月まで
   2期
 鍵谷 薫
   昭和22年4月〜昭和50年3月
   7期・・・内5期20年は議長
 小谷幸九郎
   昭和26年4月〜昭和30年4月まで
   1期
 市川 太平
   昭和46年4月〜現在まで
   6期・・内平成3年1月より同年4月まで議長
 朝倉 直利
   昭和54年4月〜昭和56年6月辞任

部長・駐在員・区長・自治会長  行政区画も開村当時に何度か改正になり、大正9年に四号線区と
して現在の錦町の区域となった。
 それ以前は部制であり、部長は村の任命制であった。
 当時の部長は、記録もなく人々の記憶に頼るしかないが次の人が
勤めたものと推察される。

部長・部落会長
  横沢金次郎
  国枝 善吾(明治40年第五部部長)
  山田増太郎
  土井菊太郎(大正9年当時は第六部部長)
  田中虎五郎
  安立 甚七
  近藤 修二
  山口 由蔵
  鈴木 武雄  不詳〜昭和17年

連合会長
  若杉  明  昭和18年
  吉塚 貫道 昭和19年
  山   駒吉 昭和20年
  山田 孫一 昭和21年〜22年9月9日

駐 在 員
  山下 外造  昭和22年9月10日〜23年3月31日
  安藤 昇一  昭和23年4月1日〜26年3月31日
  臼井 信一  昭和26年4月1日〜27年5月17日
  秋野権右ェ門 昭和27年4月1日〜29年5月17日

区  長  (昭和33年より)
  簗部 勇吉  昭和29年5月18日〜39年2月4日
  惣骨谷 武  昭和39年2月5日〜42年5月9日
  若杉  明   昭和42年5月10日〜47年6月30日
  惣骨谷 武  昭和47年7がち1日〜50年3月31日
  加藤 秀夫  昭和50年4がち1日〜51年3月31日
  安藤 昇一  昭和51年4月1日〜57年11月22日
  若杉  茂   昭和57年12月1日〜58年3月31日
  八田 亀義  昭和58年4月1日〜62年3月31日

自治会長
  畠山 幸雄  昭和62年4月1日〜63年11月30日
  山田 富康  昭和63年12月1日〜平成元年5月30日
  窪内  務   平成元年6月1日〜3年4月30日
  富永  隆   平成3年5月1日〜現在

  
方面委員・民生児童委員 方面委員
  本間 為吉  昭和初期頃より〜昭和21年11月

民生児童委員
  国枝 善吾  昭和21年12月〜26年6月
  安藤 おこ   昭和23年4月〜31年11月
  本間あつむ  昭和26年7月〜43年11月
  田畑  上   昭和43年12月〜49年11月
           昭和61年〜現在
  惣骨谷智恵子 昭和49年12月〜平成元年11月
  吉塚 道子  平成元年12月〜4年11月
  溝江 弘子  平成4年12月〜現在

湧別農業協同組合役員   三沢 信美  昭和23年理事
  鍵谷  薫   昭和23年〜25年代表監事
           昭和28年〜29年代表監事
           昭和32年〜34年5月組合長
  臼井 信一  昭和24年〜28年理事
  安藤 昇一  昭和24年〜26年理事
  土井 重喜  昭和28年〜29年組合長
  八田 亀義  昭和30年〜31年監事
  臼井 利行  昭和35年〜41年理事
  安立 広郷  昭和44年〜50年理事
           昭和53年〜現在代表監事
  柴田 照美  平成2年〜現在理事
  本間 義秋  昭和50年〜57年理事
  村雲 成男  昭和58年〜平成2年理事

交通安全指導員   若杉  茂   昭和44年7月〜53年9月
  臼井 昭一  昭和44年7月〜50年6月
  飯塚  武   昭和46年6月〜現在
  柴田 澄男  昭和50年7月〜平成4年8月
  東   達夫  平成4年10月〜現在

湧別小学校PTAの錦町出身役員 昭和47年度 副 会  長 若杉 茂
昭和48年度 総務部長 若杉 茂 学年部長 浅野 道子
昭和49年度 監   査 飯塚 武 総務部長 若杉 茂
                        副部長 佐藤 武見
         錦支部長 溝江 満雄  副支部長 水谷 鎮
昭和50年度 監   査 飯塚 武
         錦支部長 田中 伸夫  副支部長 国井 隆
昭和51年度 監   査 飯塚 武  国井 隆  宮島 鉄夫
         広報部長 佐藤 武見  生活副部長 水谷 鎮
         錦支部長 田中 伸夫  副支部長 江川 宜弘
昭和52年度 監   査 飯塚 武  広報部長 佐藤 武見
         錦支部長 田中 伸夫  副支部長 江川 宜弘
昭和53年度 監   査 飯塚 武  広報部長 佐藤 武見
         体育部長 草薙 春雄
         錦支部長 江川 宜弘  副支部長 小林 静子
昭和54年度 総務部長 藤井 孝一  
         広報部長 佐藤 武見  副部長 佐藤 昌司
         体育部長 草薙 春雄
         錦支部長 山田 善照  副支部長 江川 宜弘
昭和55年度 広報部長 藤井 孝一  体育部長 草薙 春雄
         教養部副 長谷川 勇  生活部副 吉松 勉
         錦支部長 山田 善照  副支部長 沢向 勇仁
昭和56年度 副  会 長 脇坂美知子  教養部副 斉藤 安雄
         生活部副 長谷川 勇  体育部副 吉松  勉
         錦支部長 山田 善照  副支部長 佐藤 昌司
昭和57年度 副  会 長 脇坂美知子  教養部長 斉藤 安雄
         錦支部長 藤井 孝一  副支部長 長谷川 勇
昭和58年度 副 会 長 脇坂美知子  教養部長 斉藤 安雄
         錦支部長 藤井 孝一  副支部長 長谷川 勇
昭和59年度 副 会 長 脇坂美知子  教養部長 斉藤 安雄
         広報部長 加藤 弘一
         錦支部長 藤井 孝一  副支部長 長谷川 勇
昭和60年度 副 会 長 斉藤 安雄  教養部副 池田 博
         錦支部長 長谷川 勇  副支部長 加藤 弘一
昭和61年度 副 会 長 斉藤 安雄  教養部副 柳沢 勝彦
         生活部副 諏訪間栄二  体育部副 長峰 伸勝
         錦支部長 加藤 弘一  副支部長 吉田 慎一
昭和62年度 副 会 長 斉藤 安雄  研修部副 柳沢 勝彦
         体育部副 長峰 伸勝
         錦支部長 加藤 弘一  副支部長 鈴木 暁
昭和63年度 副 会 長 松尾 弘子  体育部長 長峰 伸勝
         研修部副 柳沢 勝彦
         錦支部長 鈴木 暁    副支部長 水谷 洋
平成元年度  副 会 長 松尾 弘子  監   査 中川 雅紀
         研修部副 柳沢 勝彦  生活委副 伊藤 克見
         錦支部長 水谷 洋    副支部長 吉田 慎一
平成2年度  監   査 中川 雅紀  総務委員長 吉田 隆一
         研修委副 柳沢 勝彦  生活委副 伊藤 克見
         錦支部長 水谷 洋    副支部長 吉田 慎一
平成3年度  監   査 中川 雅紀  総務委員長 吉田 隆一
         研修委員長 柳沢 勝彦
         錦支部長 水谷 洋    副支部長 吉田 慎一
平成4年度  副 会 長 吉田 隆一
         錦支部長 沼館 弘    副支部長 追永 和敏
平成5年度  副 会 長 吉田 隆一  同      吉川久美子
         錦支部長 沼館 弘    副支部長 追永 和敏

 
湧別中学校PTAの錦町出身役員    湧別中学校父母と先生の会(発足昭和23年5月)
 副会長 山田 孫一 23年5月〜28年4月
  〃   中川 照夫   〃      〃
  〃   鍵谷 竹代 36年4月〜38年3月
  〃   安藤 昇一 43年4月〜47年3月
 会  長 安藤 昇一 43年4月〜47年3月
 副会長 長野 清孝   〃      〃
 会  長 富永  隆  51年4月〜52年3月
 副会長 坂上 雅亮 52年4月〜54年3月
 会  長 若杉  茂  54年4月〜57年3月
 副会長 朝倉 直利   〃   〜56年3月
 監  査 大槻 安男 57年4月〜58年3月
   〃  横沢 秀次 61年4月〜63年3月
   〃  池田  博  63年4月〜平成4年3月
   〃  工藤  薫    〃   〜平成3年3月
 副会長 吉田 芳子 平成3年4月〜6年3月
 監  査 中川 雅紀 平成4年4月〜現在

   昭和55年以降の役員名簿
年度 支部長 副支部長 総務委員会 研修委員会 生活委員会 保体委員会
昭55 田中伸夫 高桑国光 窪内 睦 中野秀雄 佐野寿成
佐藤富子
水谷 鎮
56 田中伸夫 高桑国光 佐野寿成 小林静枝 尾形堅二
佐藤富子
○草薙春雄
57 田中伸夫 国井 隆 山口博正 佐藤富子 ○西野正夫
尾形堅二
◎草薙春雄
58 吉松 勉 熊岡 勲 沢向勇仁 佐藤昌司 ◎西野正夫
渋谷洋子
◎草薙春雄
59 吉松 勉 熊岡 勲 沢向勇仁 佐藤昌司 ○西野正夫
簗部勇次
森 秦成
60 吉松 勉 安藤紀市 沢向勇仁 佐藤昌司 ○西野正夫
南場正幸
森 秦成
61 安藤紀市 茂手木政則 茂木洋一 遠藤隆啓 西野正夫 宍戸秀寿
62 脇坂敏夫 茂手木政則 臼井由和 諏訪間とよ子 金塚信二 宍戸秀寿
63 脇坂敏夫 渋谷洋子 斉藤安男 西野文子 後藤マツエ ○臼井由和
平元 脇坂敏夫 後藤 毅 長谷川勇 ◎柳沢千子 西野正夫 臼井由和
2 脇坂敏夫 柳沢千子 長谷川勇 ○斉藤安男 横尾知江子 臼井由和
3 藤井孝一 柳沢千子 長谷川勇 篠原達男 横尾知江子 南場正幸
4 柳沢千子 本間庄悟 南場正幸 篠原達男 鈴木京子 横尾知江子
5 加藤弘一 柳沢千子 大関久美子 篠原達男 鈴木京子 南場正幸
6 加藤弘一 安藤紀市 追永和敏 篠原達男 小縄俊久 阿部正広

錦町子供育成会役員  育成会は、昭和44年5月に発足しているが、昭和54年以
前の資料がないので不明である。
 錦町の育成会は、小・中学校のPTA役員で構成しており、固有の
組織ではない、したがって54年以前も小中学校のPTA会長が
就任していたものと考えられる。
年度 育成会会長名 評議員
昭55 山田 富康 佐藤 昌司  
56    〃    〃  藤井 孝一
57 藤井 孝一 長谷川 勇  沢向 勇仁
58    〃    〃  中川 雅紀
59    〃    〃     〃
60 長谷川 勇 鈴木  暁  加藤 弘一
61 加藤 弘一    〃     〃
62    〃    〃  長谷川 勇
63    〃    〃  脇坂 敏夫
平元 安藤 紀市 脇坂 敏夫  水谷  洋
   〃    〃     〃
   〃 藤井 孝一     〃
本間 保利 辻   亨
   〃 沼館  弘  加藤 弘一

老人クラブ「錦町寿会」  錦町寿会は、昭和45年市街地区の老人クラブより独立して新
発足した。
 初代会長  国枝与之助 昭和45年9月7日〜56年3月
 二代目    渋谷 光夫  昭和56年4月〜58年3月
 三代目    本間あつむ  昭和58年4月〜平成2年3月
 四代目    加藤 秀夫  平成2年4月〜現在

消防団員    (湧別消防団には、昭和22年以降の記録しか残っていないので、
その以前の名簿には当時の団員の記憶と記念写真に頼った)
氏    名 加入年度 退任年度 役職名 摘  要
板東 勇蔵  

 昭和8年消防第二部(四号線、東)が廃止となり 
 第一部(浜市街)に統合になったときの団員名
本間あつむ
仙頭  修
高桑 健一
片岡伸次郎
更科 虎蔵
横沢慶次郎
国枝与之助
安藤 昇一
千葉 荘平
浅野 新蔵
本間 為吉
飯豊 健吾 第二部部長
窪内 源吉
小川 栄市
惣骨谷 武
野田  某
槇  信晴
臼井 信二
小松 精麿
村雲 寿平
安立 四郎 昭和17年 機雷事故で死亡
松岡 俊夫 昭和17年 機雷事故で死亡
高桑 正義 昭和17年 班 長 機雷事故で死亡
田中 春吉 昭和17年 機雷事故で重傷
八田 亀義 昭和17年 機雷事故で重傷
吉村 正一 昭和17年 機雷事故で軽傷
鹿野
山田 孫一 分団長
井藤 謙造 班 長
大前 晃作 昭20年頃
  在籍
大阪豊中市在
秋野 辰夫    〃
志田  旭 昭和22年 昭和40年
東  達夫    〃 昭和48年
田畑  上    〃 平成2年 副分団長
山口 清一    〃 平成4年 分団長
若杉  茂 昭和24年 昭和54年 部 長
高木 義一    〃 昭和46年 栄町在
渋谷 光一 昭和30年 昭和61年 班 長
村雲 成男    〃 昭和52年 部 長
柴田 照美    〃 平成3年
本間 秀一 昭和32年 昭和43年
安立 広郷    〃 現職 分団長
臼井 文雄    〃 平成6年
仙頭 富萬 昭和40年 昭和52年
惣骨谷和郎 昭和43年 昭和48年
平田  薫    〃 昭和45年
山田 富康 昭和45年 平成4年 部 長
諏訪間栄治 昭和47年 現職
吉田 隆一 昭和55年 平成元年
柴田  勉 平成4年 現職

婦人団体  婦人組織の歴史としては、大正末期から昭和初期に愛国婦人会の
組織があり、湧別町で昭和12年に会員196名という記録があり
これが最初であった。
 また昭和7年には、軍部の提唱で一般婦人を対象とした「大日本国
防婦人会」が全国に組織され、湧別町でも、昭和11年に結成され
た。この組織は既婚婦人が全員加入という会で、各部落や町内会に
結成された。
 昭和17年には「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」が合併し
て「大日本婦人会」となり、戦争遂行の協力団体として活躍したが
終戦とともに解散になった。
 その後婦人組織は見るべきものはなかったが、昭和28年に野
田公民館長の骨折りで「湧別町婦人協議会」が結成され、それと共
に各地区に地域婦人会が結成された。昭和35年になって「湧別
町婦人団体連絡協議会」(湧婦協)と名を改め今日に至っている。
 錦町における婦人会は、昭和28年に臼井千代、鍵谷たけよ等
の呼びかけで結成され、四号線主婦の会と称し、初代会長は鍵谷た
けよが就任した。
 その後会長は鍵谷たけよと山加代が交代で勤めた。
 昭和37年度 会長本村寿子から宮野三枝子  会員30名
 昭和38年度  〃 惣骨谷智恵子          会員25名
 39年になって会員数も減少し、農家の主婦が大半を占めたこ
とから、農協婦人部との重複加入による負担の多さもあり、農協婦
人部に吸収合併することになった。当時の農協婦人部は農家の主婦
でなくとも加入できたので全員が婦人部に加入した。
 また湧婦協も昭和41年度頃から地域婦人会が次々に解散し、
職業別婦人部の組織体に変わり、現在では、農協、漁協、商工会の
各婦人部が加盟団体となっている。
 湧婦協の役員で錦町出身の役員は次の通り。
昭和29年  監  事 鍵谷たけよ
昭和30年  副会長 鍵谷たけよ
昭和31年    〃    〃
昭和33年    〃    〃
昭和36年  副会長 山 加代
昭和37年    〃    〃     会 計 宮野三枝子
昭和38年    〃    〃       〃    〃
昭和40年    〃    〃
昭和41年    〃    〃
昭和57年  会  長 土井千代子
昭和58年  書  記   〃
昭和61年  会  長   〃
昭和62年  書  記   〃

 平成4年度に錦町自治会婦人部が発足し初代部長に飯塚育子、副
部長に黒木美恵子、諏訪間とよ子が就任した。

 注、青年団は、第十四部会社、団体編「北斗青年団」に所載

最初に戻る


第十四章
団体、会社編

錦町には数多くの会社や企業、団体が活動している。その種類の豊富なことは町内一である。
湧別町の入口に位置する街としてまだまだ発展の可能性を秘めている。


湧別農業協同組合  昭和23年4月、湧別農協は創立総会を法明寺で開き発足した。
 正組合員390名、出資金154万4千円、理事9名、監事3名
職員10名で初代組合長は川西の小川清一郎だった。
 農協は昭和22年に公布された「農業協同組合法」により、農
民の経済的地位の向上を目指す民主的な相互扶助組織として全国的
に創立された。
 その前身は、明治33年に公布された「産業組合法」で、昭和
4年6月「有限責任湧別信用販売購買利用組合」として事務所を下
湧別村原野105番地において発足したものである。
 しかし、発足当時は態勢が整わず、十分な活動は出来なかったよ
うで組合の第一号の仕事が精米所の経営で、今の資材店舗の場所
にあったと言われる。
 この産業組合に対して、商人などの反産活動も盛んに行われたと言
われ農家の加入率も低かった。しかしながら次第に組合の地道な活
動が認められ「金利が安い」ことなどから加入者も増えていった。
 昭和10年一町村一組合の指導から「東湧産業組合」と合併するこ
とになり、名称を「下湧別村信用購買販売信用組合」として新発足し
た。事務所は芭露に置き、湧別と上芭露に支部を置き、活動を始め
たが、昭和6年の満州事変、7年の上海事変、12年の日支事変、16
年の太平洋戦争と激化する戦時色に物資の統制も強くなり、産業組
合本来の任務も制約を受け、昭和19年1月に「農業団体法」により
産業組合は解散を命じられ「下湧別農業会」にとって変わった。
 農業会は、国策に協力することを目的とした官製組織で、戦後は
深刻な食糧危機の中で、生産物の供出の協力などしていたが、農地
改革や団体民主化の中で農協法が生まれた。
 この時、下湧別村では、湧別農協のほかに芭露、計呂地、上芭露
の4つの農協が誕生した。(計呂地は28年に上芭露は26年に
芭露に合併)
 発足した湧別農協は、苦難の経営を強いられた。戦後の混乱した
経済は、極端なインフレを招き、物の不足と資金不足等が重なり不振
を招いた。
 「組合の乱立による規模の狭少、出資金不足、農業会の不良資産
の引き継ぎ、役職員の人材不足、販購買事業の急速な変化に対す
る農協の対応の不足、固定資産、在庫品、売掛金の膨張による資
金不足」が原因であった。
 昭和27年には欠損金が153万5千円に達し、翌年組合長は
小川清一郎が退任し、土井重喜になった。
 しかし、打ち続く冷害凶作で、生産額は激減し、欠損金は300万
円を越えた。
 このため土井組合長を始めとする役職員の努力にも拘わらず、2
9年には貯金の払い戻しを制限するという大ピンチを迎えた。
 昭和30年、土井重喜は一期だけという約束であったので惜しま
れながら退任したが、昭和32年には、理事互選による組合長選
出で理事の意見が対立し、深刻な事態となり遂に組合員より八田亀
義を代表者とする役員改選請求が出され、このために役員改選総会
が開かれるという事態になった。
 結果は鍵谷薫が組合長に、羽田宏が専務理事になったがこれを不
満として宮崎前専務は辞任するということになった。これは打ち続
く冷害により困窮している組員と、組合の経営安定のための考え
方の違いが根底にあったのである。
 昭和34年に、羽田宏が組合長に就任するまで4年間に3名の
組合長の更送と専務理事の辞任を見るという混乱があった。
 昭和35年頃より、酪農の普及による農家の経営安定もあって、
農協の経営も上向いてきたが、反対に農家の階層分化が進みこの
頃より離農者も増えてきた。
 昭和37年に事務所と店舗を新築したが当時としては近代的な
建物であった。
 昭和39年は大凶作に遭遇し、東地区の水田の全面廃耕が決定
された。昭和47、48年に亘る開拓農協組合員の湧別、芭露
農協への吸収の協議は、約半数が加入しただけで終わった。
 53年には、創立30周年記念式典を行い「堺正章ショー」を
開催した。
 58年頃より我が国経済の低成長が定着し、農畜産物の輸入、
農業政策の後退、食糧、農業、農協批判がマスコミで報道された。
 60年に入ると、農業生産は需給の不均衡から供給過剰となり、
特に生乳は減産を余儀なくされた。販売高が30億円を越えたのは
61年でこのうち50%が生乳であった。
 平成になると、農畜産物の価格は引き下げ傾向が続き、総じて
品質重視型の価格形成に移行してきた。
 こうした中で平成4年は、第一回JAまつりを体育館裏のグランド
で開催し、ミニ動物園や野菜の即売、泥田滑りなどで大いに賑わ
った。
 組合員の戸数は高齢化、後継者不足等から昭和50年末に207
戸あったのが、60年末に187戸、平成5年末では155戸と大きく減
少した。又組合長も友沢市男氏より本間義麿氏と交替し役員全体の
若返りが図られた。
 主な事業と動きを年度順に記す。
昭和24年 湧別種馬所を上湧別農協と共同で経営。
        種馬5頭を北見地方農協連より借り受ける。
昭和26年 湧別酪農組合設立。組合長三沢信美
昭和28年 アスパラガスの栽培始まる。
昭和29年 現資材店舗裏で製パン工場始める。34年4月に廃止。
昭和30年 ホクレントラックにより運送事業を始める。
昭和36年 農協婦人部結成。給油所開業。
昭和37年 簡易郵便局開局
昭和39年 購買店舗改装、資材店舗開設。
昭和41年 車両整備工場開設。精米、製粉工場閉鎖。
昭和44年 店舗「くみあいチェーン」として発足。
昭和45年 種馬所閉鎖。事務所増築、店舗売場拡張。
昭和52年 優良農協として北農中央会より表彰を受ける。
昭和53年 創立30周年式典。アトラクションに「堺正章ショー」
昭和54年 農集電話が一般加入電話になる。
        山重太郎元組合長神奈川県に転出
昭和55年 石油備蓄施設完成。板金塗装施設も完成。
昭和56年 婦人部20周年記念式典の開催。
昭和57年 本間義秋理事、安藤昇一元理事死去。
昭和58年 羽田組合長町長に当選。新組合長に友沢市男就任
昭和59年 市川太平参事退職。室井利夫が参事に就任。
昭和60年 店舗改装し、生鮮食品の取扱始める。
昭和61年 金融新店舗完成。貯金業務のオンライン移行。
昭和62年 農協経営中期計画の策定、駐車場舗装完成。
        営農指導用コンピューター導入
昭和63年 農協設立40周年記念式典。馬鈴薯貯蔵施設完成
平成元年  ホクレントラック湧別事業所の廃止。
        湧別町麦生産組合設立。
平成 2年 町麦乾燥調整施設完成。長期救済契約15億円達成。
平成 3年 牛肉輸入自由化により肉牛価格暴落。
        町乳牛肉2万頭達成記念大会。婦人部30周年式典。
平成 4年 町酪農ヘルパー利用組合設立。藤井孝一参事に就任。
平成 5年 ガットで乳製品、澱粉等の輸入自由化決定。
        組合長に本間義麿就任。年金友の会設立。

歴史ある北斗青年団













最初に戻る
 湧別町における青年運動の歴史は古い。特にその中でも四号線の
青年活動は横沢金次郎の「青年塾」が古く、湧別町で最古である。
 湧別町史は
 「湧別町において青年活動が始まったのは明治32年である。
 秋9月皇霊祭(今の秋分の日)に四号線の横沢金次郎の青年塾
で第一歩を踏み出し、川西川もこれに参加するものが5〜6名
いた・・・」

 四号線青年会の結成を明らかにするものとしては「明治42年四号
線で中川長春、山田増太郎、惣骨谷丑蔵、福山直人等が首唱して
27名の同志を得て北斗青年会を創立した」
(福山直人談)
とあり、これを裏づける42年12月3日付の書記嘱託辞令があり、
湧別町百年史では、北斗青年会の創立年月日を明治42年11月3日
とし、大正6年の会員45名、会長赤繁秀男と記している。
 北斗青年団の活動内容は記録がないのでわからないが、小松立美
氏や八田亀義氏の提供された写真で当時を偲んで頂きたい。
 昭和に入って青年指導は、軍事教育もその目的に含まれるように
なり、昭和10年に青年学校令が発布され、14年には青年学校への
就学は義務となり、19才までは全て所定の教育を受けなければな
らなくなり自主的な青年団は失われてしまった。
 戦後混沌とした世相の中で、北斗青年団は興亡を繰り返した。
 戦後、山喜一郎が団長で、団員が30名位いた時期もあったがそ
れも何時しか解散状態になってしまった。
 鉄道を退職した山口清一が7人程の同志を募り再建し、お祭りに
演芸会などを催した。
 そして社会もようやく落ち着いてきた昭和26年、町内の青年
団を網羅した下湧別青年団体連絡協議会が発足した。

各年度の団長名を記載する。
年度 団長名 現在の消息 年度 団長名 現在の消息
昭26 臼井昭一 東にて酪農業を経営 昭36 福田 勲
27 高木義一 西村組を定年退職し幸
栄商事勤務、栄町在住
37 安藤紀市
28 臼井昭一 38 橋本弘通 恵庭市で製麺工場経営
29 東 達夫 開発建設部を定年退職
錦町在住
39 樋岡祥嗣
30 高木義一 40 加藤弘一 錦町で酪農を営む
31 臼井文雄 錦町で酪農業を営む 41 加藤弘一
32 田口博正 釧路市在住 42 大月敏幸
33 佐野寿成 湧別役場勤務 43 大月敏幸
34 三沢雄一 44 解散
35 安藤紀市 湧別林産勤務

錦町寿会(老人クラブ)  錦町寿会は、昭和45ねん市街地区の老人クラブ「YUBETUたのしみ
会」から独立して新発足した。
 初代会長 国枝与之助 昭和45年9月7日〜56年3月
 二代会長 渋谷 光夫  昭和56年4月〜58年3月
 三代会長 本間あつむ  昭和58年4月〜平成2年3月
 四代会長 加藤 秀夫  平成2年4月〜現在
 昭和55年には会員数70名と記録されているが、平成6年の
会員数は63名である。年齢60才以上が会員の資格があるが、加
入年齢になっても加入しない人が増えているという。
 クラブの事業を平成5年度の事業計画から紹介する。
一、例会の開催 毎月19日に寿の家に集まる。
二、お楽しみ会の開催 毎月1日、10日と毎週日曜日に開催
三、各月の行事(例会を除く)
   5月 高齢者学級開校 研修旅行
   6月 交通安全指導 血圧測定
   7月 役員会の開催 会員物故者慰霊祭
       かおる保育所の除草奉仕
   9月 高齢者運動会参加
  10月 役員会 血圧測定 あきあじ鍋の会
  11月 高齢者学級指導者研修会参加
  12月 忘年会 大掃除 血圧測定
   1月 新年会
   2月 高齢者学級閉講 血圧測定
   3月 役員会 総会
四、春と秋の二回老人連合会町内交歓会に出席
五、ゲートボール・手芸・カラオケの実施
 又、昭和60年12月に寿の家が完成したときは、寿会で祝賀会
を開催し、記念としてステレオ装置一式を購入している。

林業研修センター「しらかば」  林業構造改善事業により、町が事業主体となって昭和51年に
林業犬種センター「しらかば」が完成した。
 当時十分な宿泊施設の無かった本町として、宿泊施設のある施設
というので現在に至るも愛用されている。
 木造モルタル造り平屋建てで、面積は599平方b。主な施設と
しては、会議室、浴室、食堂、厨房、事務室、客室6室、管理人室
などで宿泊定員は30人。事業費は、5485万円だった。運営
は、森林組合に委託されたが、昭和55年に森林組合が経営に行
き詰まり解散してからは町が色栄で運営していたが、昭和56年
10月に新しい森林組合の発足とともに再び管理委託をして現在に
至っている。
 昭和56年には、それまで町営浴場「町の湯」を買い受けて営業を
続けていた土井重喜が、施設の老巧化と利用客の減少で廃業する
ことになったため、「しらかば」の浴室を増築して公衆浴場としても
利用することになり、626.72平方bを1.550万円で改築した。
 さらに平成4年利用客の増大に応えるために、客室4室の増築を
行い宿泊定員は50名となった。事業費は4.291万円であった。
 平成4年には森林組合の事務所も「しらかば」に移り、業務を行
っている。管理人は、現在大林勝英負債が当たっている。
東紋東部地区農業改良普及所  昭和23年に「農業改良助長法」が制定され、翌24年に「湧別村
農業改良相談所」として発足し、2名の所員でスタート、以来、27
年に所長制度ができ、32年に条例の改正により「湧別地区農業
改良普及所」と名を改め、44年に広域統合が行われて現在の「東
紋東部地区農業改良普及所」となった。
 普及所の受け持ち区域は、湧別町と上湧別町と佐呂間町の3町
で事務所を最初は湧別町役場内に置き、上湧別町と佐呂間町に
駐在所をおいてスタートした。
 庁舎の独立運動などもあり、昭和61年錦町の五号線に独立庁
舎が完成した。
 新庁舎は、鉄筋コンクリート造り平屋建で、249平方bで、事務
室のほかに会議室、実験室、jっしゅうしつがあり、土壌診断設備も
あり、食生活の改善のための実習や郷土料理の研究ができるよう
になっている。
 所員は所長を含めて、平成5年現在14名で、内3名が女性の生
活改良普及員となっている。なお4名は佐呂間町に駐在している。

納税組合  現在(平成6年6月)湧別町に納税組合は、62組合あり加入
組合員は825人(戸)であるから約半分足らずの人が加入し
ていることになる。
 錦町には現在4つの組合がある。その中で一番大きいのは錦納税
組合で組合員46名である。発足は昭和39年で当時は四号線
納税貯蓄組合と言っていた。
 初代組合長は、内匠清次で42年から岡本保久、小松孝寿、惣
滑谷武と続き、名称も錦納税組合となって現在は田畑上が組合長
を勤めている。以前は専任の集金人を頼んで集めていたが、行っても
不在だったり、都合が悪いから別の日にしてくれと言われ、何回も
足を運ぶ苦労があり、手当もわずかなので引き受ける人が居なくな
り、今は役員5人が分担して集金している。
 税金の種類は、道町民税、固定資産税、健康保険税、オートバイ
や軽自動車の車税で、納期がまちまちなので集金は大変だという。
 このほかの納税組合は、西一線第一納税組合が昭和46年の発
足で、発足以来仙頭富満が組合長を勤めている。組合員は6名で
ある。西一線第二納税組合は、32年の発足と最も古く、組合員は7
名で初代組合長は三沢信美が務めたがその後は、農事組合長が兼
任している。基線納税組合は36年の発足で初代組合長は本間あ
つむであったが現在は安立広郷で組合員は10名である。
 なお農協の役員は、組勘の振替で納付するので集金の手間はな
い。町はこれらの納税組合に対し、奨励金を交付しているが、集金
の組合と振替の組合は奨励金の額に差をつけている。

湧別町商工会  商工業者の組織である団体の歴史を辿ると、昭和7年に北海道が
条例で定めた「商工会制度」に基づいて設立された「下湧別商工
会」が始まりである。
 その後戦争に突入して戦時体制として国の指導で商工会を解散し
、全商店を網羅して「保証責任下湧別商業協同組合」を結成した。
 組合員数は84名であった。
 しかし戦争も窮迫を告げてくると売るものが無くなり、商業組合が「
下湧別村配給統制組合」に移行した。
 戦後、商業民主化で全ての統制団体が解散させられ、新たに「下
湧別商業協同組合」が結成させられたが、物の生産が軌道に乗ら
ず、闇物資が横行し、小売店の登録制度で商店同士の利害があり
本来の活動はなく休止の状態であったという。
 しあkし昭和27,8年頃になると賞品も出回り始め商店の復活
もあり、有志が中心となって申し合わせ組織の「湧別商工会」が会員
140名を集めて昭和29年2月に発足した。
 35年5月に「商工会法」が施行されて、法律に基づく法人団
体の「商工会」の設立が有志の奔走で実現し、36年1月25日
に設立総会が開かれ、初代会長に武藤源久が就任した。
 設立発起人は18名を数えたが、錦町からは当時四号線の角で自
転車屋を営んでいた仙頭直之が参加している。
 仙頭直之 理  事 昭和36年〜37年
 志田 旭   〃    昭和43年〜45年
 山田孫一  〃    昭和43年〜47年
 中川照夫  〃    昭和45年〜47年
   〃    副会長 昭和49年〜55年
 山田富康 理  事 昭和51年〜55年
   〃    監  事 昭和57年〜60年 平成3年5月〜11月
   〃    理  事 昭和60年〜平成3年
 大槻安男  〃   平成3年〜現職
 猿養義男 理  事 昭和63年〜平成3年
   〃    会  長 平成6年〜現職
 錦町の事務局長として次の2名がいる。
 野田  博 昭和58年より平成2年まで
 浅野謙吉 平成2年より現在

(株)中川組  株式会社中川組が産声を上げたのは、昭和41年4月で、それ
まで中湧別の村上組で経理事務を担当していた中川照夫が、開発建
設部にいた平野勝美と共に湧別駅の裏で独立したのである。
 ブルドーザー1台の門出であった。
 原野を農地にしたり、林道を作ったりがその頃の主な仕事であっ
た。その内に農業開発公社の仕事を請け負うようになり、事業は順
調に伸び、昭和44年12月に錦町の現在地に移転し、事務所、
住宅、倉庫などを新築した。
  ブルドーザーによる工事の最盛期は、46,7年頃で「何台ブルが
あったか分からない程で、直接現場に搬入されて、メーカーからの
請求書よりも多く入っていたこともあったが、15台はあったと思う」
という程の活況を呈した。
 このブルの台数は当時としては、管内一であったという。
 オイルショックによる油不足の経験から、重機専門から土木一般
の分野へ進出を始めたのが50年に入ってからで、49年3月に
株式会社に組織を変更した。
 その後業績も順調に推移し、元請の仕事も増えたが、昭和61年
10月社長の照夫が急逝した。大正8年の1月1日生まれの享年6
3才であった。
 照夫は、錦町の為にも一方ならぬ貢献をした人で、昭和52年
に「錦町開発促進既成会」ができて副会長に就任し、初代会長の
朝倉直利が退任した後、会長として今日の錦町の基礎を作り、道路、
排水、錦研修センター、寿の家などの実現に努力をした。
 後を継いだのが、次男の雅紀であるが、雅紀は拓殖大学の商学部
を卒業して中堅の旅行会社に勤務していたが、53年に父に連れ
戻されて家業の仕事に従事していたのである。
 (株)中川組の現在の資本金は、2.000万円、工事種目は、土木
一般、とび、鋼構造物、水道施設と幅広く、工事完成高は、5億円前
後で社員は10人と、従業員は20名となっている。
 代表取締役は中川雅紀、専務取締役は平野勝美で会社を取り仕
切っている。
 錦町の期待される企業である。
 又平成5年度から、農地の有効活用と農業の新分野開拓のために
東地区で試験的に食用緬羊の飼育を始めている。初年度は牡1頭に
牝29頭の30頭で始め、6年3月に44頭の子供が生まれた。
 町もこの事業の成功に大きく期待している。

スノー食品工業(株)  町が年々減少する湧別駅の貨物量を確保するためと街の活性化、
農産物の付加価値増大を狙い、企業誘致した会社で、昭和36年
折りからのマッシュポテトブームに着目して、日綿実業株式会社が
資本参加し、これに町と農協が出資し、資本金2500万円で三号線
に工場を建設し10月から操業を始めた。
 当時の従業員は、職員7名、工員50名で鍵谷薫が初代工場長と
して就任したが、各地で工場が乱立気味で競争が激しくなり、また
輸入もあって苦戦を強いられ、その後日綿実業の撤退があり、現
在は町と農協の出資による町内資本の工場として、澱粉や春雨も
製造していたが、現在はマッシュポテトの外に南瓜の加工なども行
っている。
 会社の現況と経歴は次の通りである。
 資  本 金 4.950万円 主な出資者湧別町、湧別農協、芭露農協
                上湧別農協、湧別畜産農協、鍵谷商事(株)
                ニチメン(株)
 従  業 員 50人
 原料処理量 13.500d      (平成4年)
 販  売 高 4億1.000万円   (平成4年)
 昭和37年  澱粉製造開始  (昭和46年まで)
 昭和38年  春雨製造開始  (平成元年まで)
 昭和45年  漬け物製造開始 (昭和)47年まで)
    〃    冷凍食品製造開始 (昭和47年まで)
 昭和46年  本社を札幌より湧別に移す鍵屋薫代表取締役就任
          東京事務所開設(昭和54年閉鎖)
          大阪事務所開設(昭和51年閉鎖)
 昭和49年  汚水処理施設設置
 昭和50年  乾燥ウロの製造開始
 昭和52年  木屑焚きボイラー設置
 昭和54年  伊藤誠司代表取締役に就任
 昭和62年  増資4.050万円
 昭和 〃   鉄工部開設  ドライヤー二号機設置
 昭和63年  伊藤登鯉男代表取締役に就任
 平成元年   増資4.950万円
 平成2年   廃液処理施設増設 防媒設備設置

 
(株)小谷商店





































最初に戻る
 裸一貫から会社を興し、途中で全財産を失うアクシデントにも拘
らず不死鳥のように蘇り、今や管内に君臨する水産加工業界の雄は、
曙町で(株)小谷商店を営む錦町出身の小谷社長である。
 小谷啓は大正14年5月16日生まれ、小谷幸九郎の4男4女の
4男として川西で生まれた。
 そして啓が5才の時に西一線に移りここで育った。
 湧別尋常高等小学校の高等科に在学中の冬休みには、父が副
業としてやっていた炭焼きの仕事を手伝うために東芭露へ行った事
もあるが、このとき尻を冷やしたのが原因で痔瘻をわずらい兵役は
免除となった。
 啓が病気と言えるものにかかったのはこれが最初の最後で「健康
に恵まれたことに感謝している」としみじみ語っている。
 高等科を卒業して、湧別川の堤防工事のトロッコ積みの土方を1
年間やり、その後は馬追として冬は造材に行き、春から秋は奥谷
定置漁場で働いた。
 この頃の定置の船は、砂浜で上げ下ろしを行い、漁に出る度に船
を下ろし、終われば巻き上げていた。その巻き上げにカグラサンと
いう木製の大きなロクロを、馬で曳いて船を巻き上げていたのであ
る。この仕事を馬を連れて夏の間8年間やり、次の始めたのが東洋紡
積の従業員として、農家が飼っていた綿羊の羊毛の集荷と交換など
であった。
 そして農家の人々と懇意になったコネを利用し、仕事の合間に雑
穀の媒介も手掛けたというから商人としての素質があったのだろう。
 昭和26年に尾崎ヨネと結婚。29年に、港町の同級生であ
った松下光義の好意で彼の部屋を借りて魚の行商を始めた。
 これが小谷商店の第一歩であった。商売の道具はリヤカーと原
動機付自転車が各1台であった。
 朝、浜へ行って漁師から魚を仕入れる。それをその日のうちに売
り捌くといったことで生計を立てていた。
 そうしているうちに湧別市街の仲買人であった星兵助と知り合い、
共同で古いトラックを買い運転手を雇って、魚を仕入れて札幌や旭
川に出荷した。
 作業場は、今の奥山商店の加工場になっている高橋貫一の仕事場
を借りていた。
 昭和30年に、小谷商店として現在の住宅の在る所に作業場、住
宅、事務所を兼ねたバラックの建物を建て、新車のトラックも購入
した。
 従業員も男5人、女事務員1人で、啓が魚の買い付けと販売ルー
トをチェックし、ヨネが魚の選別を手伝う傍ら、若いものの食事の
世話等も担当し、ニシンの身がき、蟹のむき身、鮭の加工などを手
がけていった。
 女子行員も20人ほどに増え、順調に業績を伸ばし事業の規模も
次第に拡大していった。
 そして1年後仲買人に加入して独立した。この仲買人の許可申請
の保証人になってくれたのは、武藤源久と奥谷千代蔵という実力者
であった。
 そしてその後、仕込みとしてサケ定置業者に着業資金や資材の手
当てをし、秋に魚を見返りに買い取り大いに潤ったという。
 昭和43年に湧別冷蔵株式会社社長の横尾健寿に懇請され、湧
別冷蔵(株)の経営に参加し、常務として職員や工員を引き連れて入社、
小谷商店は休業した。44年に横尾社長が病魔に冒され急逝した
あと、株主総会で社長に選任され就任した。
 そして雄武冷蔵(株)を買収し、青森に進出して養殖ホタテに目を向
けて活躍するなど東奔西走の頃であった。
 昭和49年、事業の更なる展開のために上芭露に冷凍冷蔵施設を
備えた湧別産業(株)という加工場を建設した。
 これは農産物や水産物の加工を目的とし、労働力の確保が容易
であり、土地が安いなどのためであった。総工費2億円、従業員60
人を使い、華々しくオープンしたが、53年経営不振のため休止し、
負債整理のために湧別冷蔵(株)を始め建物一切の財産を失ってし
まった。
 そして啓は、倒産のどん底の失意の中から、不屈の負けじ魂で立
ち上がったのである。ここには勿論ヨネの励ましもあった。
 翌年一から出直した。
 友人が「再起に使ってくれ」と百万円を持ってきてくれたことも
心の支えになり、親戚や知人も商売の足しにしてくれと協力してく
れ、生命保険も解約し、血のにじむような資金を持って小谷商店を
再開した。
 従業員も集まってくれた。取引先も協力してくれた。
 これも夫妻の日頃からの人柄と信用であろう。
 1年目3億円、2年目6億円、3年目9億円と新生小谷商店は順
調に事業が拡大した。
 そして4年目に、かっての湧別冷蔵(株)を3億2千万円で買収し、
以後湧別漁協のホタテ増殖の成功と共に、小谷商店も順調に業績を
伸ばしてきた。
 平成5年度末の資本金は3百万円。
 平成5年度の主な取扱いは、ホタテが7千トン、サケが5百トン
で年商が28億円。
 従業員は職員15名、工員130名。
 主な設備は凍結30トン(1日)、冷蔵5百トンの冷蔵庫とトン
ネルフリーザー、全自動軽量機(ホタテの玉冷を小袋に計量パッケ
ージする)、自動選別機(玉冷を大きさ毎に選別する)などである。
 悩みは労働力の確保と高齢化で、平均年齢は58才になるとい
う。そして地元湧別、中湧別は勿論丸瀬布や遠軽、沼の上などから
雇用している。
 現在の役職は、湧別漁菜市場仲買人組合長、北海道ホタテ流通加
工組合理事、同北見支部副会長、加工道漁連会ホタテ部会副会長、
加工道漁連会理事など、水産加工一筋で、いまや道内水産加工業者
の重鎮として活躍しその功績も多大である。

(株)西村組の誕生の地  管内土建業界のトップ企業として、全道で活躍している(株)西村組
が、産声を上げたのが、我が錦町の西一線であることは、錦町百年
の歴史に中で特筆すべきことの一つである。
 湧別川流域の開拓が進むにつれて、洪水の猛威に脅える住民の要
望が高まり、昭和9年より国の治水事業として堤防構築工事が進め
られることになった。
 (株)西村組の創始者西村幸太郎は、昭和9年に築堤工事を請け負っ
た地崎組の運搬部(馬搬)の責任者として上湧別村に入り、築堤工
事に携わった。工事の進行に伴い、昭和11年下湧別村西一線の元
岩佐神主の空き家(現在の鈴木工業の付近)に転居した。
 この年、築堤の本工事を終えた地崎組が引き上げた後も、思うとこ
ろあって下湧別に留まった幸太郎は、11月初旬に治水事務所から
築堤の残工事を初めて元請けで受注し、ここに西村組が独立したの
である。
 西村組の創業は、昭和11年11月1日となっているが、その記念す
べき誕生の地が先に述べた錦町の一角である。
 今日の西村組の基盤を一代で築き上げた、西村幸太郎の実業家と
しての先見性、想像力、温厚な人柄など稀に見る大人物であったこと
は広く知られるところであるが、創業当時を知る錦町の人々にとって、
フジ夫人の内助の功も忘れ難い思い出である。
 当時満1才の長男(現社長の幸一)など4人の幼い子供を抱えな
がら同居していた家族、馬夫など20人余りの炊事、洗濯から野菜
作りの畑仕事、馬の飼い葉の世話まで、近隣の農家の主婦が驚嘆す
るほど朝早くから夜遅くまで働き続け、「よほどの体力と気力がな
ければ出来るものではない」と話題になったものである。
 後(昭和16年)栄町に移転後も、夫人の働きが緩むことは無か
った。「西村組が今日あるもフジ夫人の功績半ばなり」と申し上げ
でも亡き幸太郎翁も笑顔で頷かれるであろう。
 夫人の内助の功よろしきを得て、幸太郎は、湧別漁港を始め港湾
、道路など幅広い分野に事業を拡大し、今日の西村組の礎を築き上
げた。
 昭和51年、創業40周年を機に長男浩市に社長の座を譲った後も、
引き続き業界の要職にあったが、昭和53年7月惜しまれながら77年
の生涯を閉じた。後を継いだ幸一社長も、幸太郎の遺志を継いで堅
実な経営を展開、順調に業績を伸ばし今日の西村組に至っている。

 西村組の概要
  昭和11年11月1日 個人会社西村組創立 下湧別村西一線
  昭和16年3月栄町に移転
  法人設立昭和31年6がち1日 現商号となる社長西村幸太郎
  昭和51年4月 西村幸太郎会長就任 西村幸一社長就任
  平成4年度現在  資本金 4.500万円
  完成工事高 108億円  従業員  300人
  本店 湧別町栄町133番地  支店 札幌市 紋別市
  営業所 網走 釧路 函館  出張所 旭川 稚内 岩内
  事業内容 土木工事全般 建築工事全般

西村幸太郎の経歴
 明治34年滋賀県に生まれ、3歳の時に渡道、網走建設業協会
理事、会長を歴任、北海道建設協会理事を勤む。下湧別村警防団副
団長、消防団長を歴任。村会議員、町会議員を通算5期20年勤め
た。紺綬褒章、勲五等瑞宝章など多数の賞を授賞している。

西村幸一の経歴
 昭和10年上湧別村に生まれ、1歳の時に湧別町錦町に移住、湧別
建設協会会長、網走建設協会会長、北海道建設業協会理事、全国浚
渫協会理事を勤めている。湧別町教育委員長を勤め、現在(株)湧別
振興公社々長。北海道知事、水産庁長官、労働省等から多数の表彰
を受けている。

錦町にゆかりの西村組の人々  窪内 康人氏
 西村幸太郎の長女ふさ子の夫である康人は、大正11年に
四号線で生まれた。
 幼名を栄といい、家業であった馬車、馬そり製造業の廃業で
昭和10年湧別市街に転出、軍隊生活を体験し、帰還後、幸太
郎の目に留まり長女と結婚、遺憾なく実力を発揮して西村組の
大黒柱となり、専務を経て会長の要職にあったが、昭和60年
病に倒れ63歳で死去。

 池田 正勝氏
 池田も幸太郎の6女の婿で、昭和17年に札幌で生まれたが、
昭和27年より52年まで四号線で過ごした。現在西村組の工事
関係の専務として活躍している。

錦成商事(有)   (ドライブイン錦と錦娯楽センター)
 昭和51年6月3日に猿養義男が五号線でドライブイン錦と
して開店した。開店したときは、面積は35坪の小さな店であった。
 ドライブインは開店とともに、美味しくて早いという評判を取り、
大型トラックの運転手の食事場所として駐車場は何時も満車と
いう盛況であった。
 そのため以後殆ど毎年のように増築を行ってきた。
 52年に湧別町で初めての点滅するネオンの広告塔を建て、53
年に喫茶店を増築し、56年には2階を宴会場に増築し、60年には
喫茶店をサウナ浴場に改良して開店。現在の面積は200坪にもな
る。1階の食堂の収容人員は約60名、2階の宴会場は100人が
座れる。サウナ浴場を開店したのは、希皇泉という健康に役立つ
サウナを多くの人に利用して欲しかったからと猿養はいう。
 サウナ浴場は羽田町長も愛用者で、1日12〜3人の利用者があ
る。平成元年に有限会社錦成商事を設立して法人化し、猿養義男が
代表取締役に就任、平成4年からドライブイン錦は妻のヒサ子が経営
代行として経営している。
 一方、58年1月に五号線の国道沿いに錦娯楽センターとして
パチンコ店を開店した。パチンコ店は、開店当初パチンコ台239
台の大型店としてスタートしたが、その後パチンコ台209台、スロット
マシン20台にに改めて、営業していたが、平成6年3月に店内改装
のために一旦休業し、従業員も一新して8月3日に新装オープンし
た。
 猿養はドライブインを開店する前は、鴻の舞の鉱山で現場監督をし
ていたが閉山によって退職し、神奈川県平塚、佐呂間と移り、48年
に湧別町東の伊藤達美の養鶏場を手伝っているうちに、四号線付
近でのドライブインの開店を思い付いたという。
 というのは、本州での車の普及や道路沿いに開店しているドライ
ブインを見、こちらの国道238号線にドライブインが一軒もない
のを見てこれからの車社会でこの辺でのドライブインが良いと思っ
たという。その思惑が見事に当たったわけである。
 猿養は、平成4年に栄町のはまなす団地に住宅を新築し通勤して
いる。また6年6月から、湧別町商工会長に就任して多忙な日々を
送っている。

(有)吉田設備工業  社長の吉田隆春は大正10年2月に川西で生まれた。
 川西で農業をしていたが、昭和34年に離農し、兄勉さんが働い
ていた湧別小型運送に馬車追いとして働き、農家の客土などをやっ
ていたが、翌年四号線の仙頭自転車店に勤めた。
 この店でホームポンプも扱っていたので、ここでポンプの仕事を
覚えた。そして昭和36年仙頭自転車店が閉店したため、ポンプ
修理の道具を引き受け、神社裏の家を借りてポンプ店を開業した。
 妻のみさ子も夫の仕事を助けて、共に働きおしどり夫婦として有
名であった。
 二人の努力が実って昭和48年に今の錦町に住宅と作業所を新
築した。
 長男の隆一は、昭和28年生まれで湧別小、中学校から湧別高
校に進み、同校を卒業してから旭川の設備工事の会社に4年間勤
めて技術を学んだ。
 以来親子で家業に精を出し、住宅の設備もホームポンプからセン
トラルヒーテングと高度化する中で、公共工事の設備工事や上下水
道工事にも参加し、次第に業績と実績を伸ばしてきた。
 設備工事も複雑高度化してくると若い隆一の出番が増え、この頃
は、主な仕事は殆ど隆一が手がけ、下請けにも一部出しながら健闘
している。
 隆一が取得している資格は、1・2級配管技工士、1級技能士、
浄化槽管理士、職業訓練指導士(配管科)、1級管工事施工管理技
士などである。
 仕事の範囲も湧別町だけでなく佐呂間町、紋別市、上湧別町、遠
軽町と次第に実績が認められて広がってきている。工事内容
も、空調設備、冷暖房設備、給排水工事と設備工事を網羅している。
最近の大きな仕事としては、栄町の2階建てのB団地の公営住宅、ゲ
ートボール場の設備工事や特養施設裏の営農用水給水工事(芭露の
簡易上水道)などがある。
 資本金は、4百万円。 社長は隆春、専務が隆一で年商1億円で
ある。
 この仕事の苦労は、と聞くと「年中無休なのが一番辛い。建築と
同時進行なので自分の都合を言えないので繁忙期は特に酷い。そし
て農家や漁師の家のポンプや排水の故障は夜も昼も朝もない」事と
いう。

(株)大槻自動車整備工場

























最初に戻る
 (株)大槻自動車整備工場の社長大槻安男は、昭和14年紋別市小向
の弘道で生まれた。
 中学校を卒業後、道立北見公共職業補導所の自動車整備科に入学
し、同所を卒業して昭和30年、中湧別の多田自動車整備控除に就
職した。就職したといっても、無給の住み込みの徒弟制度の丁稚で、
盆と正月に2,3千円の小遣いのみだったという。
 5年の約束だったが、整備士の資格を取らして貰えないため、3年ほ
どで退職し、上川町の梶沼モータースに勤め、ここで3級から2級整備
士の資格を取得した。そして紋別の整備工場に勤めたりしていたが、
昭和39年9月に四号線の本宮哲夫の住宅を借り、それを改造し独立
開業をした。
 名称を大槻商会とし、自動車や農業、漁業用の機械の修理、部品用
品の販売や板金、塗装を営業内容とした。
 41年に札幌陸運局より小型自動車分解整備事業者の認証を
受ける。43年に現在地を借り受け、整備工場と事務所、住宅を
建設し、会社も大槻自動車整備工場と名を改めた。
 46年に自動車受入れ完成検査場と検査機器を導入し、車検の
できる態勢を整備した。
 47年に資本金200万円で株式会社に組織替えをした。
 49年に、札幌陸運局長指定の自動車整備事業者に指定され、
56年に北海道労働基準局長指定のフォークリフト、車両系建設
機械等の特定自主検査登録工場となり、62年に軽自動車指定整
備事業者として北海道陸運局より指定され現在に至っている。
 また大槻自動車整備工場は、昭和60年に日本自動車連盟(略称
JAF)の指定工場となり、JAF会員の事故の修理に当たっ
ている。
 このJAF制度は車の所有者がJAFの会員になり年間4千円
の会費を払い込むと、全国どこでもJAF指定工場のサービスが無
料で受けられる制度である。
 大槻社長によると、年間20〜30件の修理があるそうで、連絡
を受けると時間に関係なく、また北見の業者が不在だったりする時
は北見迄行かなくてはならない仕組みになっているので大変だと
いう。
 事故で一番多いのは、鍵を車内に入れて施錠してしまう鍵開けだ
という。このJAFの指定工場は湧別地方では大槻自動車のみであ
る。
 現在従業員は8名で、従業員のためにも日曜と祭日は仕事をしない
方針を貫いている。そして工場の事務所のさして広いとはいえな
い客溜りには、気の置けない気さくな社長夫妻の人柄と、諏訪間夫
妻の明るい性格がそうさせるのか、何時も客がいて賑やかで茶飲み
話に花が咲いている。
 平成6年に住宅を新築し、奥さんの両親である原田誠夫妻も入居
して一つ屋根で暮らしている。また自治会の行事にも協力的で、5
年に一度回ってくる踊り山は、大槻自動車の協力により無事運行し
ており、6年からは祭典行事部長に就任し手腕を発揮している。

田畑板金工業所  田畑板金工業所の当主田畑上(たかし)は大正15年佐呂間町
若佐で生まれた。
 その後中湧別に転居し学校は中湧別小学校を卒業、湧別市街の
藤田自転車店に丁稚奉公し仕事を学んだ。
 昭和20年6月招集で陸軍に入隊したが、帯広で終戦となり帰還し
て藤田自転車店に戻った。
 その後網走の店に勤めたが、この時に湧別生まれの仙頭直之と
美幌で知り合い、二人で色々と話し合って共同で店を持つこととして
、昭和21年に、四号線の山田商店の隣の家を借りてこれを改造し、
自転車店と板金の店を始めた。
 昭和26年にそれぞれ独立することとなり、田畑は法明寺の南側に
板金店を開業し、仙頭はそのまま自転車店を四号線の角で続け、オ
ートバイも取り扱った。
 現在地に移ったのは、昭和32年で浅野博労の家を改造して始
めた。
 40年に店舗と住宅を新築し、作業所は馬小屋を改造した。作業所
は平成3年に自宅の裏に新築した。
 一方仙頭自転車店は、昭和36年に廃業したので田畑は自転車と
オートバイも取り扱うようになり、49年には自転車技術士の二
種の資格を取った。
 最盛期の頃には人も3人ほど使っていたが、3男の進が家業を手
伝うようになってからは親子2人でやっている。
 田畑上は、湧別地方高等職業訓練校の板金科の指導員として
昭和35年から夏は夜、冬は昼と生徒の指導に当たってきたが、
ここ数年生徒がいないので出番がないという。
 本業の板金の他にも消防団には永年勤続し、湧別消防団の副団長
までになったが足を痛め平成2年42年間の勤めに別れを告げた。
 またこの他、民生児童委員として、昭和43年から49年まで、
更に61年から現在まで地域のためにも活躍し、また錦研修セン
ターの管理人としても建設以来骨折りをしている。

(株)伊藤組  (株)伊藤組は昭和61年札幌市に本社のある(株)伊藤組から分
離独立をして誕生したまだ若い会社である。
 社長の伊藤誠は、昭和24年に島根県で生まれ、神奈川県の湘南
高校を卒業して、妻の昭子と知り合い結婚。
 昭和49年に札幌市の(株)伊藤組に入社、翌50年に日本道路
(株)の縁で湧別営業所の初代所長として赴任、造園業として主とし
て道路の張り芝等の工事を行ってきた。
 昭和61年に資本金300万円で独立し、現在は遠紋地区を中心に
活躍をしている。
 現在の資本金は 800万円である。
 社長の誠は、2級土木施工管理士と造園施工管理士の資格をもっ
ている。従業員は10人前後で造園業を主な営業としている。
 会社と住宅は四号線の交差点の便利の良いところにあるが、借家
でもあり用地も狭く適当な土地を物色中である。

若杉装蹄所  昭和3年の開業である。
今は故人となった若杉明が始めた。温根湯で丁稚奉公で修業
し、帯広の高名な蹄鉄師名喰装蹄所で腕を磨き、大正13年に装蹄
師の資格を取り、遠軽の大泉春芳装蹄所に移り、その後上湧別の東
山装蹄所に移った。その内に湧別が有望と目をつけ、現在地付近に
移って独立した。 この頃は馬が重要な荷役、運搬の主役で飼育頭
数も多かった為に装蹄所も多く、最盛期の昭和10年頃は、四号線だ
けで5軒もの店が競いあったという。
 小川、柿崎、伊藤と代変わりし、浅野装蹄所もあったが若杉装蹄
所は現在まで続いている。一時は職人を3人も置いて仕事をするく
らい繁盛をした。
 だが明は、名人の職人が往々にしてそうであるように気難しい所が
あり、気が食わぬと客が馬を連れてきても家の前に繋がせたまま1
日中でも待たせたという。
 客は四号線に止まらず川西、東や遠く沼の上や緑蔭からも来た。
 多い時は、1日に20〜30頭もこなしたという。
 客は順番を待ったり、作業中の待ち時間を若杉家の茶の間に上が
り、客同士や主などと情報の交換をしたり、世間話に興じ、さなが
わ集会所の趣を呈することもあった。
 明は昭和42年5月から47年6月の亡くなるまで、四号線
区長として四号線部落の為にも努力した。
 当主の茂は、青年時代湧別町青年団体連絡協議会(湧青協)の
会長として活躍したが、家業のほうは馬から機械へと移ってゆく中
で、仕事も減少したことから危機感を抱き、同業者と共に網走管内
畜牛削蹄企業組合(発足当時の組合長天谷平信)を20人で組織し、
折からの酪農振興で造ぁ(株)する乳牛の削蹄業に方針を転換した。
 現在もこの企業組合を中心に活動範囲を稚内、豊富の道北から、
根室、十勝の道東にまで広げてグループを組んで営業をしている。
 茂も削蹄師の資格を持ち長男の浩と共に忙しい日を送っている。

山口商店  前身は布目商店といい、何時頃から店を開いたかは分からないと
いう。
 昭和2年に、西興部村瀬戸牛で木材会社の山頭をしていた山口由
蔵が、妻キクの叔父に当たる布目文左ェ門から「年を取って店を締め
たいから代わりにやらないか」と話があり、危険な山仕事で万一のこ
とを心配するるより、店をしたほうがよいと思い四号線に移ってきた。
 その頃布目商店は、雑貨と浜から魚を買ってきて魚も売っていた。
その頃の店は軒が低い古い店であった。
 昭和8年に店を新築し、その店も古くなって63年に建て直して現在
に至っている。
 由蔵は男3人、女5人の子供に恵まれ、その子供たちは今も全員
元気であるという。そして長男の清一が現在店を継いでいる。
 そして由蔵は年代ははっきりしないが四号線の部落会長も務めた。
 清一は湧別の小学校の高等科を卒業して国鉄に入り、遠軽の機関
区に勤めていたが、終戦とともにやめ、農業の手伝いをするために
帰ってきた。その農業も10年位やっていたが、30年頃弟の博正に
譲り博正は分家した。清一は、店を父や母に任せて働きに出て随分
いろいろな所で働いた。苗圃、開発の護岸工事、スノー食品、西村組
、朝倉組、などそして今も中川組で働いている。更に店で魚も売って
いるが、湧別漁協に市場に仲買人として加入し、新鮮な魚を仕入れて
そんな大きな規模でないが売ってもいる。
 消防団も22年から平成4年に分団長で退任するまで、45年も在籍
して住民の生命と財産を守るために努力をした。

(有)富田建設  社長の富田稔は小学校22年に埼玉県で生まれた。家業が建築業
であったので学校を卒業してから家の仕事を手伝って、大工の技術
を身に付け、青雲の志を抱いて53年に家を出て湧別町栄町に住
み、錦町の富井建設に勤めた。
 そして54年にしらかば団地に家を建てて移った。
 富井社長が、60年に亡くなったので、翌年独立して建築業を始め
た。平成3年に建設業の登録を行い、建設業協会にも加入した。
 富田建設が手掛けているのは住宅工事が主である。1年間に4〜
5戸を建てているが中内の仕事が多い。
 そして、有限会社には6年の4月にした。 資本金は5百万円である。
 昨年作業場や資材置き場を作るため、千平方bの用地を購入し、こ
こに百平方bの作業場を建てた。
 現在従業員は3人、経理担当の専務の妻洋子と共に5人で経営し
ている。
 家を建てるときに選ぶ業者は、「住宅を専門にしている業者が良
い」と筆者はある設計事務所の所長から聞かされたことがあるが、
富田建設はまさにそのような業者で、社長の真面目で、仕事を疎か
にしない仕事振りが高く評価されている。

大和産業(株)  昭和53年4月の創業である。初代車中学校王は計呂地の荻原
敏也で資本金5百万円で創立した。
 事業内容は、造林、森林撫育、造材であった。
 田中篤一がこの会社に関わったのは、田中が58年に役場を定年
を待たずに退職してからで、当時この会社は赤字であった。
 退職後の人生を、平々凡々と送る気持ちの無かった田中は荻原
の頼みもあって大和産業に資本参加すると共に経営事務を担当し
て経営に参画した。
 59年に、荻原が会社から手を引いて田中が社長になり、営業内
容に燃料販売を加えて、石炭やコークスの販売も行った。
 錦町へは55年にしらかば団地に家を建て、役場の住宅から移
った。
 仕事は創立当時からの付き合いで、佐呂間町の森林組合の仕
事が大半で、造林や撫育、造材を従業員4〜5人で行っており、
年商2千7〜8百万円である。
 従業員は仕事の関係で、佐呂間町の人たちだが、平均年齢が
50才前後と若い人が居ないという。燃料のコークスも、以前は大
分使っている家もあったが、住宅が良くなって暖かくなり、火力の
あるコークスでなくとも良くなったこともあって今は、お年寄りの居
る家が多く焚いているという。
 5年に奥さんを亡くし、一時は気を落としたが、持ち前の利かん
気で気を取り直し現在1人で頑張っている。

渋谷鉄工所  渋谷光夫は明治44年に小樽で生まれた。先祖代々鍛冶屋を家
業とし、5人兄弟のうち4人が鍛冶屋を営んだり、鍛冶屋に嫁入り
したりの鍛冶屋一家である。
 その光夫が湧別に来たのは昭和20年で、浜市街の山田鉄工所の
当主勝一が、機雷事故で亡くなり困っていたので勝一の妻が叔母に
当たるところから、助っ人として来たのだという。9年間を山田鉄
工所で過ごし、29年に錦町の今の所に引っ越して独立した。そ
時は住宅に下屋を下ろして作業場としたという。
 独立した頃は仕事の中身は、農機具や刃物の仕事が30%、漁師
の仕事が30%、工場やその他の仕事が40%だった。
 それが長男の光一が経営を引き継いだ、年頃から漁業の仕事が
多くなり、今では90%以上が漁業関係の仕事だという。
 これは丁度ホタテの大量生産の始まった年である。
 ホタテ操業船5隻の桁網修理の割当を貰い、その他にウニの桁網
やエビ船の支度、養殖杭の加工などで忙しい毎日である。冬は漁業
も無いのでどうしているかと聞くと「春の準備で暇はない」という。
 以前は朝早くや、休みの日でも直ぐやってくれという仕事があった
が、最近はホタテ船も週休制となり、道具も丈夫になったせいか、
1年に数える程しかそんな仕事はないという。そして代金はすべて
組合経由で、貯金に振り込まれ、嫌な集金の仕事が無くなって楽に
なったと経理を預かる妻の洋子は語っている。
 そして嬉しいことに、長男の光博(48年生まれ)が家の仕事をする
といって修業をしていた北見から帰ってきたことである。
 悩みは作業場や資材置き場を広くしたいのだが敷地がないことで
「困っています」という事であった。

(企)山本ブロック製作所  創立者の山本清は、明治40年下湧別村で生まれた。
 父竹次郎は佐渡の出身で大工をしていた関係で、清も建築関係
の仕事をしていたが、終戦の前後は造材業をして馬を数頭置いて
人を使って主に上湧別の斎木の山の仕事をしていた。
 昭和28年に、鍵谷薫などと共に、湧別建設資材企業組合を作り
、清が代表理事となり、当時建築資材として脚光を浴びていたコン
クリートブロックの製造を始めた。そして酪農の発展に合わせてサ
イロの需要が多く、最盛期には従業員20名程を使用して、建築用
ブロックやサイロ用ブロックの他、コンクリート土管などを製造し、昭
和37年頃は16万個のブロックを生産した。
 そして製品を作るのに必要な砂を、初めのうちは川砂を購入して
使っていたが、海砂のほうが質が良いことから、川西四線地先の
海岸の砂の採取許可を得て、昭和32〜3年頃から砂の採取と販売
も始めた。この砂は農業用として客土にも使われたが、車がぬかっ
て苦労をし、何年も道路作りにかかったという。
 さらに機械の無い頃は、トラックにスコップで手積みをしたそう
で、その後コンベァが入っても、電気がないため発動機で、機械を
動かしたりしたという。
 その後コンクリートブロックは、サイロや建築用としての需要が
減ったため、昭和61年頃に休業し現在に至っている。
 一方砂の方は、公共工事や建設工事の増大につれて需用が多くな
ってきたが、海岸の砂の採取は自然保護や国土保全の上から規制が
厳しくなり、年々採取量を減らされてきたが、62年からは禁止
になってしまった。
 従って現在或る備蓄分がなくなると休業状態になるという。その
備蓄量だが「このままだと今年一杯ぐらい持つかな」という状況だ
という。
 しかし建築工事に砂はなくてはならない材料であり、コンクリー
ト製品も砂がなくては作れないわけで、他企業では陸地の砂を掘り
出して使ったりしているがこれも掘り尽くすとどうなるのか。
 また山本錦子は「昭和40年頃は、道路工事や客土用に砂の運搬
が忙しくて、道路沿いの農家の方に、ほこりや振動を与え迷惑を掛
けたので、舗装道路になるまでの間は、散水車で水を撒きながら仕
事をした」という。

石井塗装店  店主の石井嘉明は昭和18年に樺太で生まれ、戦後引き上げて
佐呂間町で少年時代を過ごし、中学校卒業後、遠軽町の(株)西岡
塗工で3年間修業し、佐呂間町に帰って独立、弟や従業員2〜3名
と共に石井塗装店として開業した。 
 その当時、芭露の長谷川建設や計呂地の金森組の仕事を手がけ
ていた関係で、湧別町へ度々来ているうち、湧別町に塗装業者が
いないのでこちらへ来て開業するよう勧める人があり、佐呂間の店
は弟にゆずり昭和47年に四号線の角の山田商店向かいの借家を
借りて開業した。
 そして昭和52年に1級建築塗装技能士(建築塗装作業)の資格を
取り、昭和53年に現在の中学校前の土地を購入し、住宅と作業所を
新築した。
 現在は従業員4名と共に主に建築関係の塗装工事を行っている。
 塗装工事の内容も建築資材の材質の変化、塗料の進歩と多様化に
よって大きく変わってきており、かっては手塗りであったのが吹き付
け塗装となり塗装技術も変革をしてきている。
 最近は住宅建設が好調でこの方面の仕事が多い。
 悩みは後継者がいないことと、若い職人の希望者が少ないことだ
という。
 職業訓練指導員の資格を持ち、建設業の許可も持っている。
 
鈴木工業  経営者の鈴木暁は、昭和24年湧別町東で酪農を営む芳雄の2
男として生まれた。
 湧別中学校を卒業し、湧別町曙町の山田鉄工所に勤めた。山田鉄
工所には11年と9ヶ月勤め、50年12月に退職、51年に福岡嘉郎よ
り現在の場所の土地と住宅を買って作業所を建て開業した。
 初めは、兄弟3人でやっていたが、弟が平成元年から、次々に独
立したので、その後は若いものを人雇って2人でやっている。
 仕事の内容は、鉄工業で錦町には鉄工所は現在渋谷鉄工所と2軒
。渋谷鉄工所が漁業関係の仕事が大半のため、鈴木工業は農家の
仕事と(株)ホッコンや(株)湧別林産の仕事が多い。
 就業時間は朝8時から5時までと決めて、休みも毎週日曜を休みに
しているが、直ぐやってくれとか工場の機械をすぐ直してほしいとかで
勤務はまちまちだという。
 資格や許可は、随分色々なものを持っており、それを紹介すると
次の通りである。ガス取扱主任者、アーク溶接工、小型移動式クレー
ン運転技能者、足場組立等作業主任者、有機溶剤作業主任者、研削
砥石取替の業務、古物商、古物行商などである。
 楽しみは、長男の敦が紋別南高の機械科に在学し卒業後は、父と
仕事をするといってくれており、妻の京子は事務と経理を担当して
省力化を計っており、親子3人が力を合わせて家業を盛り立てていく
日も近い。

工藤土地家屋調査事務所  工藤輝雄は営林署に10年間、湧別町役場に14年間在職し、昭和
46年4月に退職、5月に中湧別で測量の業務を主とする工和測量と、
不動産の表示登記を行う土地家屋調査士事務所を開設した。
 営林署では、留辺蘂、佐呂間、白滝、網走、津別の各署で担当区
などの仕事をしたが、このときに測量士補の資格を取った。
 そして湧別町役場では、町有林等の財産管理の仕事を担当し、昭
和42年に土地家屋調査士の資格を取り、退職するときは、管財係長
であった。
 退職して独立しようと思ったのは、宮仕えが肌に合わないと思っ
た事と、自分でやりたいことをしたいためであったという。
 事務所は、最初中湧別中町の今の信金の所の家を借りて始めたが、
昭和57年に今の北町に移った。
 独立した当初は不安もあったが、同業者が近くにいないこともあ
って仕事も次々に舞い込み、事務は妻の千鶴子が担当し、現場は工
藤輝雄と助手のほかに臨時作業員2人を雇って5人で仕事をした。
 仕事はほとんど両湧別からあり、公共測量を中心に農地や宅地、
道路、用地などの測量の仕事が多かった。
 しかし平成2年に「私も年をとって無理がきかなくなって」工和
測量の仕事をやめ、そしてまた昭和59年に行政書士の資格を取
っていたこともあって、今は土地家屋調査士の仕事に専念している。
 この仕事も最近住宅の新築が多く、このため土地の表示登記や
分筆、地目変更などのほかに建物表示登記や農地法の3・4・5条
申請の許可に絡む仕事が多いという。
 工藤は仕事のほか、趣味として夫婦で登山を行っている。こまく
さ会という登山グループが発足してから20年になるが発足当時か
らの会員で、3度も会長を勤めた。現在会員数は24,5名で若い
人の加入がなく会員の高齢化が進んでいるという。

(有)熊商 熊岡海産  資本金5百万円で社長は熊岡勲。専務は妻のユリで平成2年4月
創立の若い会社である。
 勲は、昭和15年湧別町東四線の熊岡徳久の長男として生まれ、
湧別高校卒業後は「あらゆる仕事をやった」という。
 そして、渡辺組に18年トラックの運転手として在職した。この間に、
年の暮れになると知り合いの紋別の水産加工場から水産物を回し
てもらい、遠軽を中心に各町村の会社やお得意を廻って歳暮用品
を売り歩いた。そしてこの10年間に水産物に対する知識を学んだ。
 渡部組退職後、ある人と共同で日高門別で「バイツブ」を獲ろうと計
画し、湧別から船を買い設備をして、籠なども購入し人も雇って始め
たが、漁労技術も悪くそのうちに共同者が許可無しでやっていると知
り「これはやばい」と思い、投資した金をもどしてくれといったが、くれ
たのは手形でこれは不渡りになって、今でも記念品にとってあるとい
う。このときの損は1千4百万円だという。
 それから3年間日高で、単身で主に毛ガニを扱う仕事に従事し仲買
としてのコツを覚えた。
 この時に道内でも大手の水産加工会社と知り合い、この引き立て
で仕事も伸び、沙留漁協の活カニを取り扱ったり、その縁で大洋漁業
の水産指導官、検品官としてサハリンに渡り、平成2年から2年間漁
獲指導から加工指導、選別指導を行った。
 平成3年9月のソ連邦崩壊の日は、ボタンエビの加工指導に大洋漁
業から頼まれてハバロフスクに着いたとき起き一時はどうなるかと思
ったという。
 今は沙留を拠点にして、オホーツクの毛ガニを扱い、冬は輸入の
タラバガニを取り扱って、年商2,3億円という。人を雇わない仕事だ
から経費は掛からないので良いのだが、バブル景気の崩壊で、良
い製品が安くないと売れないので苦労だという。行く行くは近くに
作業所や冷蔵庫も持ちたいと語っている。

多田産業  平成5年7月に三号線の、元高木工場の跡地を借りて事務所と
駐車場を整備して本格的に営業を始めた。
 取り扱っているのは、バーク(鋸屑を含む木の屑)で木工場から
出るバークを買い取り、工場や事務所のボイラーの燃料として売る
ほか、鋸屑は酪農家の敷き藁の代わりに供給し、その縁で堆肥を買
って完熟にし販売する仕事も行っている。
 経営者の多田茂光は、湧別町志撫子出身で、志撫子で農家を手伝
っていた頃、トラックをもっていたので、スノー食品の芋運びをし
て伊藤社長と知り合うことになり、スノー食品のバークを運び始め
たのが昭和62年で、以来実績を積み重ね取引先も増やして今日
に至った。
 平成6年は、11トントラック6台と北海道に1台しかないという。13ト
ンダンプトレラー1台、4トントラック2台、ショベル2台を持ち、営業範
囲も北見管内のほか、宗谷、釧路、札幌と広げている。
 各地にバークの堆積場を持っており、ここを基地として集配を行っ
ている。
 堆肥は今のところ遠紋、北見地区を中心に販売しているが、これか
ら区域を広げていく予定である。
 従業員は、常備が6人でアルバイトが5人の11人である。
 今最も困っているのが、トラックの重量規制の強化でこれには頭
が痛いという。
 幸い今年高校を卒業した長男の基成が、手伝ってくれるようにな
り、妻の笑美子と伴に親子3人が力を合わせて努力している若い成
長する会社である。
 重光は現在自民党道青年局の常任幹事をつとめ、今春韓国へ親
善訪問している。
 また妻の笑美子は町内初の女性消防員の第一号として活躍して
いる。自宅は東である。

葵源商事(株)北海道営業所  平成5年から錦町に住む伊藤克見が、北海道営業所長となって活
動を始め、五号線の国道沿いに土地を購入して6年6月に倉庫兼事
務所を建設し本格的に営業を始めた。
 葵源主事(株)は本社が京都市にあり、キリンビール(株)と緊密な
関係にあって、ビールの製造工程で出る副産物(飼料)の販売やビ
ール醸造原料の販売、肥料、食品原料の販売輸入、産業廃棄物の
処理などを業務内容にしている会社で、錦町の営業所では牛の飼料
販売が目的である。
 伊藤克見は、以前湧別農協に勤務していたが、脱サラで退職し、
長芋を主体の野菜作りをしていたが、北海道に進出を計画していた
葵源商事に、ホクレンが伊藤を紹介して湧別に営業所を設けること
になった。
 販売をしているビール粕の飼料は、発酵させた菌体飼料で商品名
を「バイオレージ」といい、成牛の飼料である。
 まだ営業を始めてから間もないこともあって、今のところ年間2千
トン程度の扱いであるが、2,3年のうちに6千トン位にまで伸ばした
いという。そうなると取扱高は1億円になる。
 従業員は、今のところ伊藤を含めて2人であるが、近く電話番と経
理に女子職員を雇い、4,5人を当面の目標にし、最終的には7,8人
にしたいという。そうなると倉庫も1棟では足りなくなり増設が必要に
なる。
 工場から運ばれてきた飼料は、約2ヶ月発酵のため倉庫に寝か
さなくてはならない。そのために倉庫がいるのである。
 営業区域は、北見、稚内、留萌、旭川、釧路の道北、道東に置い
て、それらの地区に湧別を拠点として配送している。

(名)山田商店  山田商店は、錦町に現在或る商店としては最も古い歴史をもって
いる湧別町でも有数の旧家である。
 明治32年に北海道に来て小樽の呉服問屋に勤め、各地を営業
に歩いていた山田増太郎が、四号線の本間トリの一人娘のテルと結
婚し、山田商店として、呉服物も扱う雑貨店にし、店も新築したも
のと思われる。
 大正元年に撮影した写真を見ると、看板に秤が3種類ほど
描かれているので、雑穀なども取り扱っていたのではないかと想像
をすることが出来る。
 増太郎とテルの間に子供が出来なかったので、遠縁の八重子を
養女に貰い、孫一を婿に貰った。
 しかし増太郎が発電事業に全国を駆け回るようになったために店は
、孫一と親戚の本間為吉が切り盛りしていた。この頃山田商店は既に
合名会社になっていた。
 呉服店をいつ頃締めたのか定かでないが、酒類や米、塩など食料
品が主体になり、冬などは、ストーブを囲んでもっきりの日本酒を飲み
ながら雑談する風景がついこの間まで見られたような気がする。
 孫一は、誠実な人柄が人に認められて、四号線の連合町内会長や
役員を多年に亘って努めた。
 錦町はもとより、東、川西などにも多くのお得意を持ち、酒類の販売
額は町内でも一、二であった。
 平成4年7月に店主の富康が急逝したため、山田商店は、湧別農協
が買収し、合名会社「山田商店」の名前はそのままに引き継ぎ、5年1
月から経営し、管理人は福井から布目と変わっている。

(株)高野商店  初代社長高野宏之は大正11年に湧別町で生まれた。
 昭和25年、緑町の自宅の前に手動式のタンクを置いて燃油
類の販売を始めた。これは湧別町で一番最初であった。
 そして、今日のモータリーゼーションを見越した訳ではない
と本人は言うが、二号線道路との交差点で、郊外へ進出という意味
で現在地にスタンドを建設したのが44年であった。
 油量30キロリットルでモービル石油のガソリン、軽油、灯油を
扱っている。
 63年にキャノピーという屋根を設けたのも一番早い。
 50年に資本金300万円で株式会社にした。
 平成3年に、道工大を卒業して札幌市の池脇会計事務所に勤めて
いた長男の元司がひょっこり帰ってきて、家の仕事を手伝うと言った
ので直ちに社長を元司に譲った。
 宏之は、現在は昭和30年に設立した(有)遠軽アポロ商会の社長
であるが、こちらのほうも、娘婿の檜山専務がしっかりと舵を取って
いるので何も心配する事なく、遠軽ロータリークラブの一員としてパー
クゴルフを楽しんでいる。
 また妻の照子は、昭和50年より民生児童委員を務め、現在に至
っているが「女性の委員で一番古くなってしまって」というが長年
のご苦労は大変である。

北新産業(株)  会社の創業は昭和43年で個人会社としてスタートしたが、4
8年に株式会社とし、社長は荒井和夫の妻カズエが就任した。
 これは和夫が町議であると共に、安田貴六代議士の秘書をしてい
たためである。
 54年に三号線の高木義宗より千7百平方bの土地を購入し、
現場事務所と資材置き場を設けた。
 本社は緑町にあるが、ここは会計事務を扱うだけで、営業や技術
関係の仕事は錦町の事務所で社員5.6名が常駐して行っている。
 また61年に、「スカット理容院」裏の富井建設の倉庫と富井建設が
借りていた土地の権利を譲り受け、ここも資材置き場や倉庫として使
っている。
 社長は荒井カズエ、専務は娘婿の江島昭一、常務は佐々木孝志。
 従業員は約30人。仕事は土木事業一式で、開発、土現、支庁、
町の公共工事が中心で、平成5年より芭露漁港改修工事を請け負って
いる。平成5年の完成工事高は3億9千万円。

(有)高橋産業  平成5年6月に一般貨物自動車運送業の許可を取り、平成6年7
月現在、トレーラーを含めて10台のトラックで運送業を営んでいる
のが、有限会社高橋産業である。
 社長の高橋高弘は、昭和19年に樺太で生まれたが、4才のとき
に父と共に湧別町に移って亜麻工場の住宅で育った。
 昭和46年から、(株)ホッコンの荷物を4トントラックで運ぶよ
うになって、運送業に手を染め、平成に入ってホッコン以外の荷物
を運ぶようになり仕事も拡大し、興農セラミックス、渡辺組、北見
太平洋建設などのコンクリート製品やブロックを主に運搬、このほ
かスノー食品工業の原料芋の運搬なども手がけている。
 現在の所有車両は、トレーラー3台(ヘッド1台)、8トン車3台、
4トン4台。
 従業員は、運転手は8人、事務を担当する女性2人の10人である。
「うちの運転手はみんな22.3才の若いものばかりで、よく働いて
くれるし、人のことで苦労したことはない」という。
 錦町に移ってきたのは、昭和59年で、パチンコ店の裏に住宅
を建てた。
 平成3年に有限会社にし、現在の資本金は1千5百万円。「運送
業の許可に、出資金の増資が必要であった」ので出資金が多くなっ
たのである。
 参ったのは、今年から厳しくなった重量規制で、このためにトレー
ラーや8トン車を買ったという。もう一つの課題は、冬の仕事がない
ので「夏に働いたものをみんな吐き出してしまう」ことで、なんとか冬
の仕事を開拓したいと語っていた。
 自宅裏に土地を借りて駐車場を造成したが、その内に車庫も建て
たいという。
 今後益々発展することを期待したい会社である。

その他の会社や商店  竹内政二の竹内ボデーショップ、菅原功の「スカット理容院」、阿
部桂子の阿部美容院、山本公一の山本整形外科医院、学校前の岩佐
商店、しらかば団地の工藤塗装店等があり、国道沿いには会社が、
裏には住宅がまだまだ増えていくことだろう。

最初に戻る