芭露百年のあゆみ

第4章 芭露原野地区の人口増
第5章 産 業 の 基 盤づくり
第6章 戦 争 の 影 響 

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第4章 芭露原野地区の人口増

●人口増とまちづくり   1906年(明39)4月1日付で湧別は2級町村に指定された。屯田兵の入植、奥地の植民地の開拓などによって村勢が拡大し、戸数1,500戸、人口7,000人を突破。翌年奥地人口は学田以南方面1,000人余、芭露以東方面600人に増えた。
 さらに1909年(明42)には全村で2,094戸10,042人に達し、2級町村制施行前の1905年(明38)と比べ人口は45,7%増となった。
 1908年(明41)の湧別村村勢報告では、芭露原野は「近年の開発に属し、地味西植民地に次ぐ沃野にして其在住者中には兵村部落より分家移住せる者多数占める」と記述されている。
 大正末期までに、芭露、シブシ、床丹の各原野に移住した屯田家族は、「田宮森太郎、後藤助次郎、茂手木源太郎、外32名。これら屯田家族の人々は、その地域の開拓の先駆者として、後世の人々から讃えられている」(上湧別町史)。
 2級町村制施行で、村会議員の選挙、吏員の増員ほか、役場庁舎が増築された。
初代村長は雄武外3ヵ村戸長だった佐藤信吉。初年度の職員は書記4人と村長任命の付属員5人。湧別村会の定数12人。第1回村会議員選挙は同年6月1日に行われた。2級町村制の議会の被選挙権は24歳以上の1戸を構える男子、1年以上居住し、地租年額10銭以上、国税・水産税50銭以上納め、校地町歩、宅地100坪以上を所有するもので、有権者は戸数の27、7%の263人に過ぎなかった。
 投票所は湧別小学校1ヵ所のため、遠隔地はワラジ履きで、1日がかりという実情から安易な委任投票もあったという。芭露方面初の議員は1910年(明43)の第3回村会議員選挙で当選した本間省三である。
 普通選挙法の公布により、1928年(昭3)村会の定員は24人となり、任期は2年から4年となった。同法施行後初の選挙で、芭露からは大口丑定、庄司喜三郎、島崎卯一が当選した。
 また2級町村制施行により、部制が定められた。内容は戸長役場時代の末端行政補助機構だった地域組合を改組するもので、20部制とし各部に部長が置かれた。芭露を中心にテイネー以東一円は19部とされ、芭露原野が行政上の単位集落となった。その後、1908年(明41)芭露川奥地入植者の増加に伴い、12号線を境界に地域(19部)が分割されたことから、「下芭露」「上芭露」の呼称が生まれた。1910年(明43)現在の各原野の入植農家戸数、人口は次の通り。
  原野名     戸  数     人  口  
 湧   別 1,534 7,011
 バ ロ ー 153 713
 ケ ロ チ 31 145
 シュブノツナイ床丹
 イクタラ 90 409
 サナブチ 41 192
 フ   ミ 13 61

●分村問題  湧別村は、現在の白滝村、生田原町、遠軽町、上湧別町を含む広大な行政区域だった。上川方面から始めて湧別村に来た富山の薬売りが湧別市街に辿り着くまで4泊し、宿に着くたびに「ここは何という村ですか」とたずねると、いずれも「湧別村」と答えるのに不審を抱き、湧別駅逓の主に尋問したというエピソードがあるほどだ。
 湧別村の奥地開拓が進むにつれて、広い村域は行政業務を遂行する障害となり、1907年(明40)3月村会に意見書「湧別村役場位置変更新築の1件」が提出され議決。以降、庁舎建設場所の変更か、分村かで請願運動が繰り返された末、1910年(明43)4月1日上湧別村の新設が告示され、現在の湧別は「下湧別村」と改称された。
 『上湧別町史』では「役場の移転問題が屯田兵村住民の分村運動の進展により、分村問題にすり変わって村会で議決された」としている。
 分村に伴い、下湧別村の大きく縮小した区域の行政借置として、部の区画改編が行われ、村内を12部に分画。さらに1913年(大2)東芭露、西芭露、志撫子の分画により15部となり、現在の芭露方面の行政区域ができた。
●地域の発展  下湧別村は上湧別村の分村により、戸数・人口は5割以上減少したが、網走管内では依然として有数の村だった。その後、周辺原野の払い下げにより地域の戸数が増加し、現在の東芭露、西芭露、志撫子の部区画が増設された。
 第1次世界大戦の農産物輸出ブームで、計呂地、床丹方面の原野をはじめ、各地に移住者があった。さらに湧別線の開通により、農産物の市場性を飛躍させ、亜麻工場の操業などにより、湧別市街が進展。芭露方面もそれらの影響により充実した。
 1916年(大5)の村会議員の選挙では定数12人のうち、芭露2人、上芭露2人、床丹1人と、従前の2人から5人と躍進した。そして、下湧別村は分村後、1925年(大14)再び人口1万人を突破した。
●芭露の分村問題  昭和の初めから「芭露方面は分村すべき」という意見が出るようになった。当時芭露、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地、床丹と、幅広いエリアの芭露方面は、開拓者の増加と定着により戸数が著しく増加した。役場が所在する湧別方面と距離があることから、遠隔地ゆえの住民負担の不平等を指摘したものだ。
 芭露地区の人口は、1931年(昭6)909戸5,364人、1933年(昭8)910戸6,269人、1935年(昭10)1,065戸6,826人と増え、全村の半数を超える実勢を続け、1村を形成しても遜色のないブロックとなっていた。
 さらに1935年(昭10)、1936年(昭11)に西湧網線の中湧別ー計呂地ー佐呂間間が開通し、芭露、計呂地、床丹の各駅が開業。地域内の交通の利便性が大きく前進する一方、湧別市街と結ぶ幹線道路、湧網線も中湧別経由という違和感があった。分村によって、それを解消できるとの意見もあった。
 時の一大関心事だった分村問題は戦時中の村議会でしばしば討議されたが、戦時中であり臨戦行政案件が優先し、結論が出ないままうやむやとなった。戦争が中断させた格好だ。

第5章 産業の基盤づくり

●ハッカ栽培  開拓当初は、自給自足をしながら、換金作物を栽培し、それらを販売して、日用品などを購入する資金を稼がなければならなかった。開墾当初の1903年(明36)から1907年(明40)まで、菜種は唯一の現金収入源として主要作物の首位にあった。
 春の蒔付が終わった後の新耕地に作付けできる至便性と、少ない種子で、整地が粗雑な畑でも生育し、開拓の成功検査を受ける場合にも進度を早める手段として有利だった。
 しかし薄荷の急速な普及や第1次世界大戦による豆類などの有利な作物の出現などで、菜種の作付面積は減少し、過去の農作物となった。
 湧別でのハッカの栽培は、1894年(明27)湧別原野西1線7番地に入植した渡辺精司が試作したことに始まる。芭露地区では1901年(明34)芭露6号線の武藤留助が始めて作付けした。ハッカ相場は不安定だが、他の作物にはみられない高収入だったため、作付は東芭露、西芭露と芭露地区のほぼ全域に広がりをみせた。
 1902年(明35)湧別のハッカ作付面積は42町1歩、うち芭露原野5町6歩、翌年湧別230町、芭露原野20町と急激に伸びた。一方、学田(遠軽)や兵村(上湧別)の作付も増加、湧別は主産地を形成して「湧別薄荷」の名声を広めたが、分村によって670町歩の作付面積の97%が失われ、薄荷の作付は芭露地帯と湧別の一部にわずか14,15町歩を残すにとどまった。
 しかしその後殖民道路の開削に伴い、東芭露、西芭露、さらに志撫子、計呂地、床丹と、奥地の開拓が進んだ明治末から大正初期にかけてハッカ耕作が拡大していった。「芭露薄荷」の呼称も生まれ、芭露と言えばハッカと連想されるぐらいの産地となった。
 芭露原野で急速にハッカの栽培が増えたのは、@芭露川流域の風土が栽培に適していたこと。A薄荷油は軽く運搬に容易。B種根を一度餓えると3年に1回の耕転でよい。C地味が肥沃。D雑草が少ないこと・・・・・などの利点からだ。
 ハッカの取引相場は、1901年(明34)までは長山相場で1組6円5銭、1902年(明35)は4円50銭、1903年(明36)からは湧別に大手商社が進出し、湧別相場となり、5円、1904年(明37)は日露戦争の影響で3円50銭に暴落した。
 ハッカ相場が大手商人の手中にあって、巧みな商略で生産者から安価で買われていたが、商人間の協定価格が破れて、1911年(明44)11円50銭だった価格が翌年には7円にまで暴落したため、新たな買い入れ商人としてロンドンのサミュエル商会横浜支店と協約価格1組9円とし、値上がりの場合は13円までは同商会が取得し、それ以上は両者で折半するということで契約を結んだ。
 この秘密協定はたちまち業者に知られ、当初の業者協定価格は崩れ3日間で9円から15円35銭という棒上げの乱戦となった。この異常価格により、契約は破棄され、2重売りの状態となった。農家はお互いに集場で親族知人に刻々変わる相場を知らせ合い、安売りを阻止しようと努めた。そのため湧別の馬という馬は皆乗りつぶしてしまったという。北見全域は薄荷相場の変動に操られ騒然となった。北見地方のハッカ農家に影響を与えた「サミュエル事件」である。
 その後、第1次世界大戦の影響で、輸出豆類が暴落したことにより、作付が転換され,ハッカは減少したが、1917年(大6)1組3円12銭、1919年(大8)には17円50銭と高騰すると、薄荷の耕作意欲が復活した。
 第1次世界大戦後、芭露方面の薄荷は主要作物として、価格変動の厳しい不安定さを持ちながらも栽培面積は漸増した。網走支庁の統計によると湧別(芭露地帯が中心)の作付面積は1914年(大3)112町6反余、1916年(大5)421町、1923年(大12)500町、さらに昭和に入っても増反は進み、1927年(昭2)1,099町6反、1929年(昭4)1,227町と1,000町台となり、さらに「芭露薄荷」の名声が広まり、主要産地を形成していった。
 ハッカ取引の中心地は上芭露だった。上芭露には仲買人が集まり、旅館や料理店が繁盛して、100戸近くの市街を形成。志撫子、計呂地に通じる山道も開通し、目ざましい発展ぶりだった。しかし、そのハッカも1939年(昭14)の1,365町をピークに戦時中は不急作物として減少の一途をたどった。
●酪農の始まり  芭露の酪農は、1909年(明42)ころ内山之成が網走の峰村牧場からホルスタインの雑種1頭を買い入れ、牧場を開設したことに始まる。その後、内山は1913年(大2)岩手県小岩井農場から種牡牛ホルスタイン種、エアーシャ種各1頭、1916年(大5)空知の北村牧場からエアシャー種4頭、ホルスタイン種1頭の牝牛を導入、改良増殖を図り、本格的な乳牛の飼育を目指した。
 同時に内山牧場の管理人大口丑定は、旭川からバター製造の道具一式を購入し、バターづくりに着手。その後、1917年(大6)、1918年(大7)ころにはバターを東京の明治屋に販売するほどになった。
 これらの取り組みの事業的展望を踏まえ、大口らは乳牛飼育を農家にすすめたが、第1次世界大戦の雑穀景気や反動不況などから、牛には目がゆかず、一般農家には定着しなかった。
 また同牧場では1916年(大5)生乳の販売を目的に湧別市街五軒町に大成舎という生乳販売牧場を開設、島田梅十を管理人とした。生乳は日産最高五斗に達し、直売販路は湧別市街のほか、遠軽、留辺蘂までに及び、残りの牛乳は北見の販売業者にも送付。このころは常に7,8頭を飼育・搾乳していたようだ。この状態は1922年(大11)の大成舎売却まで続いた。
●馬産の始まり  1884年(明17)湧別駅逓の開設の伴う官馬25頭の配置が湧別最初の馬匹の飼育となった。その後、運送業の開業で54頭と増加したが、廃業により駅逓馬14頭に減少した。
 1897年(明30)以降、湧別の開拓が本格化すると、農耕馬の需要が高まり、根室の牛馬商が進出、根室産の馬が導入された。これが農家に定着し、湧別馬産の基礎となった。
 芭露ではm1901年(明34)、1902年(明35)ころ、6号線の武藤留助が駄鞍用としてテイネーの仁岡某から「どさんこ」を導入した。これが馬産の始まりという。農業開拓の本格化で需要が高まり、馬喰(ばくろう/家畜商)が馬を供給した。
 その後、農地の拡大、農機具の操作上などから、農耕馬としてより強力な馬が必要となり、馬の改良の気運が盛り上がった。
 芭露方面では、トロッター種「軍勇号」を7円の交配料で提供していた本間省三は1909年(明42)ペルシュロン種牡馬を導入。1911年(明44)内山牧場は湧別からペルシュロン種「朝日号」とアラブ系の種牡馬2頭を導入し有料交配を行うとともに、岩手県小岩井農場から「福竜号」「第2カス号」「丸勇号」を導入し、芭露方面の馬産に貢献した。
 1913年(大2)には山中鉦三郎がトロッター種「ベーベル号」とペルシュロン種の2頭を導入し、村内を巡回して交配したが、乱交配で受胎率が悪く失敗した。
 同年湧別7号線に網走とともに、網走管内初の国有種馬の種付所が開設。1915年(大4)6号線に厩舎と付属施設が完成し、馬政局十勝種馬所湧別種付所として開設された。1935年(昭10)以降は管内一の派遣頭数となった。
 国有種牡馬による有料馬産が普及する中、民有種馬に依存していた芭露方面でも誘致運動が高まり、1922年(大11)上芭露15号線に種付所が設置され、重種2頭、中間種1灯の国有種馬が配置された。
 上芭露種付所では「第4イレネー号」「第3レスカ号」「エムリュウ号」「アルビスト号」「豪桜号」などの名馬が名を連ねていたが、特に「第3レスカ号」は優れた産駒を多く生産、馬産に熱心な生産者に大きな利益をもたらした。レスカ号は種付期間中に急性疾患にかかり死んだが、1932年(昭7)生産者の拠出で種付所向かいの山麓に記念碑が建立され、獣魂碑とされた。
●草競馬  1901年(明34)湧別競馬揚が開設された。毎年秋に競馬がオハギ馬場(湧別神社付近)で開催されたが、出走馬は地元、近村はもちろん上川方面にも及び、草競馬としては屈指のもので、大正中期まで続いたという。
 その盛り上がりは、馬産改良にも影響した。明治末期に本間省三が妊馬で買い入れたサラブレッド系種牝馬の産駒「バロー号」は、大正初めに日本3大競馬といわれた目黒競馬(東京)、根岸競馬(横浜)、淀競馬(京都)で優勝し、1914年(大3)、1915年(大4)ころ、世界の檜舞台・上海競馬こ出場し、世界競馬界に名声を高めた。
 芭露方面でも明治末から大正初めに草競馬が開催された。馬場は原野道路の6号線を起点に直線部分を疾駆し4号線をゴールとした。芭露方面や湧別などから改良馬10頭が参加し盛り上がった。 しかし馬に蹴られ住民が死亡する事故が起きたため、2回限りで終わった。
●林業の始まり  1890年(明23)官有森林原野及び産物特別処分規則の制定により、資本家による森林開発の道が開かれ、大手木材商業資本が本道に進出、明治30年代の本道林業界を著しく進展させた。
 1903年(明36)ころ湧別3号線に旭川の森忠次郎が森製軸所を設置、原木を芭露原野から集めた。これが芭露の造材の始まりであり、キナウシ方面の道路沿いの山林や本間農場内などに自生していたドロノキがマッチの軸木として伐採された。
 明治末から北見地方の本格的な伐採、搬出が開始された。網走線、湧網線が開通し、沿線の木材資源が注目されはじめ、大手資本系列の王子、三井関係者が調調査、操業準備を進めた。
 以後、北見地方では木材が盛んに出荷され、野付牛駅(現・北見駅)はじめ、運輸事務所管下各駅の木材と農産物の滞貨は増大するばかり。輸送力が追いつかなかった。一方、北見地方の国有林が大資本家、大手筋事業者に年期売払いされ、地場中流以下の木材業者の間に批判も起こった。
 湧別村の造材高は、1914年(大3) 1,083円が1916年(大5)には29,601円と急増しているが、山林の分布状況から芭露方面の造材が本格化したことが推察できる。
 当時伐採された丸太は芭露川沿いに集められ、融雪期の増水を利用してサロマ湖に流送し、筏を組んで濤沸(常呂栄浦)に運び、湖ロから船積みして関西方面に売りさばかれた。運搬手段は川や湖しかなく、湖上での筏組みと筏曳きは風物詩こもなっていた。
 第1次世界大戦直前から戦後の恐慌期まで、北見、網走地方が木材の供給地となり”北見材”が国内の木材市場を占有した。そんなことから、1908年(明41)から1918年(大7)までを北見材時代と称された(明治30年代後半から40年代は天塩材時代)。
 芭露方面も大正時代の中ころから富士製紙や三菱美唄炭鉱など大企業による経営で造材が行われ、村内の全盛期をもたらした。そして湧別線鉄道の全通(大5)により、木材は海上輸送から鉄道貨物に転換、大量輸送を促進した。
 三菱美唄炭鉱は1918年(大7) 2403番地の1,450町余の全地立木を譲り受け、26号の山本商店に現地事務所を置き直営で伐採を開始。70〜80石を伐採して、芭露川サロマ湖を流送し、中湧別駅に搬出した。
 1919年(大8)当時日本有数の製紙会社・富士製紙(本社東京)は、社有地のポン川2404番地2,000町余を直営伐採し、1929年(昭4)、1930年(昭5)ころまで年間15〜16万石を産出していた。
 富士製紙は1887年(明20)に創立、北海道には1906年(明39)進出,し、釧路、池田、江別に工場を持ち、国有林の年期特売契約を結び、森林を伐採した。
 1920年(大9)ころは原木集荷に富士製紙と王子製紙がしのぎを削っていた。
富士製紙釧路工場の原木は、釧路近隣の山林に加えて、網走、北見産にも及んだ。
大企業の造材は、馬鉄といって本線のレールの上を馬でトロ引きする運搬方法がとられたが、富士製紙はこの馬鉄により芭露から中湧別駅まで運んだ。
 富士製紙は1933年(昭8)、樺太工業とともに王子製紙と合併、新しい王子製紙が誕生。富士製紙の芭露の社有地は王子製紙に受け継がれた。
 三井物産は1927年(昭2)からキナウシ〜志撫子の所有地1,400町を年次計画で造材したが、戦争により中断した。
 芭露方面の本村は、中湧別駅に集中したが、湧網線の部分開通で、芭露駅、計呂地駅、床丹駅が開業すると、木材がこれら各駅に集散した。芭露駅では、冬場搬出された木材が駅上場に山積みされ、その量は2〜3万石に達し、1年かけて貨物輸送されていた。
 戦争の長期化に伴い、軍需用材、抗木の需要が高まり、木材の生産が増強された。割当量の伐出に専念し、造林が伴わなかったため、山林の廃虚を招いた。
 地場企業では、大沢義時が大沢本工場を1924年(昭13)に創業し、当初は造材や製材を主に操業していた。
      昭和9年芭露小学校を卒業後、14歳の時、王子製紙の
     飯場に入りました。私が一番若く、最初はマキ切りばか
     り。当時の賃金は80銭、人夫頭が1円40銭、小頭が1円
     10銭でした。飯場が3棟、ほかに事務所があって山子が
     100人、人夫が200人位いました。食事は麦やイモ、豆な
     どだった。馬は50、60頃はいたでしょう。
      見よう見まねで仕事を覚え、本の運搬もしました。山
     土場から駅上場まで、水をまき氷状態の道を2時間くら
     いかけて馬値で行き来しました。木は人夫が5人がかり
     で、夜に積みました。昼夜働いていましたね。木はほと
     んどトドマツでとても大きかった。大きい木は直径2m
     もあったかな。
                                 (小畑安夫)
●水稲の試作  芭露地区での水稲は、1913年(犬2)7号線の清水栄吉が農事試験場野付牛分場の指導で2畝を試作したのに始まり、この試作は成功した。清水は岐阜県下で水稲栽培の経験があり、寒冷地における研究に情熱を持っていた。試作で得た稲の束は芭露小学校に教育用資材として贈られた。
 1918年(太7)米の値段が暴騰、富山県下を皮切りに米騒動が起こった。これで米作の機運が高まり、以降キナウシの松浦福松が試作に成功、6号線の山川茂が2反7畝を増田した。山川から譲り受けた茂手木源太郎が直まきによる反収3俵を収穫レその後、増田した。これが芭露における本格的な米作の始まりとなった。
 その後、芭露川流域に水田が造成されたが、1934年(昭9)をピークに度重なる冷害や豊作貧乏、戦中の労働力不足などにより、米作農家は次第に減少し、農家の志向は酪農経営へと向かった。
●漁業の始まり  サロマ湖での漁業は、江戸時代後期にカキの生息地であることが確認されている。芭露地区の漁業の始まりは、熊谷某、佐々木吉五郎の両者によるが、年代は不明である。その後、1905年(明38)秋、田宮鶴吉が熊谷から漁業権を譲り受けた。佐々木の権利は阿部愛五郎、谷津清作、新井松吉、森木印三郎の順に継がれたという。
 当時は、キュウリ、イトウ、ボラ、チ力などが豊富だったが、これらの魚は遡上し、芭露川でも容易にとれたため販売には至らず、郵送費も考慮すると、漁業としては成り立だなかった。そのため、土地の払い下げを受け、半農半漁の状態が続いた。
 明治40年代芭露奥地の開拓が進むにつれて、魚の消費量は向上したが、漁業としては雑魚のため発展性に乏しかった。以後、全村的には1916年(大5)の湧別線鉄道の開通により漁獲物の市場性が高まり、第1次世界大戦の好景気が後押ししたが、1920年(大9)以降の不景気、そして昭和初期の世界的恐慌の影響で、漁業経済は不振が続いた。
 サロマ開の天然カキは古くから棲息したが、湧別地区においては市場性が薄いことから、しばらく事業化されなかった。1921年(大10)ころからカキ漁が積極的に行われるようになったようだ。
 今日のサロマ湖の養殖事業を生む基盤となったのは、1929年(昭4)の開口開削による通水である。開口により海水が湖に入り込み、海洋性を帯び、塩分濃度が上昇しオホーツク海沿岸の魚介類がほとんど回遊するようになった。
 しかし、これら湖水の異変により、天然カキは減少した。これがカキ養殖に踏み切るきっかけともなった。1931年(昭6)サロマ湖内カキ漁業が専用漁業権に編入されたのを受け、翌年サロマ湖牡蠣連合組合がサロマ湖内3村の漁業協同組合により発足。以後、道水産試験場の調査や試験が行われた。
●商店の開店  開拓初期、物品は浜市街や4号線まで行って買い求めていたが、芭露方面にも入植戸数が増加し、集落ができ始めると、商業者が入地した。1905年(明38)屯田兵村から芭露5号線34番地に転居した山本栄三が原野道路沿いに商店を開いた。
これがテイネー以東の商店の始まりである。同店では酒、駄菓子、学用品などを販売していたという。
 明治時代、芭露では同店のほか、山平旅館、山本政吉商店、小野旅館、越智延義商店、中山雄告商店、中島文三郎商店、上芭露では山本栄三商店、東芭露では山本子之吉商店、計呂地では高橋徳次郎商店、水嶋已之吉商店、深沢武康商店などが開店。
 大正に入り、上芭露はハツカ生産でにぎわい、商店街の様相をみせ、さらに医院、説教所、学校、巡査駐在所、駅逓、営林署担当区、郵便局などが開設され、芭露市街を形成し、芭露原野の中心的機能を果たす要衝となった。
 一方、当時、下芭露(芭露)は市街化の機運が熟さなかったが、第1次世界大戦こよる木材需要の増加による造材景気が市街化のきっかけとなった。
 1916年(大5)芭露郵便局が開設されたが、初代局長の島崎仰一は次のように回想している。
      芭露郵便局の開設が決まった時、山本商店、伊藤豆腐
     店、小野旅館、本間旅館、木田床屋、里中蹄鉄屋、ほか
     2戸に過ぎなかったが、造材関係者の往来が頻繁となる
     と、木田食堂、直原商店、内山繁太郎商店、南商店など
     が相次いで開業。
      その後、大正8年からの富士製紙の大量造材着手で部
     落経済の活況が増進され、大正10年ころには山川商店、
     松原商店、大宮蹄鉄屋も開業、それに郵便局、巡査駐在
     所、森林看守駐在所、医院なども並び、ちょっとした市
     街集落を形成しました。
 芭露市街から少し離れた6〜8号線も1918年(大7)以降、金田一一商店、太田商店、内山松太郎商店、稲垣商店、松本商店が開業し、農家、天理教会なども加わり、一時は小市街を形成していたという。
 昭和に入り、1935年(昭10)湧網線の一部開通や木材景気により、芭露の市街化が促進。芭露市街の商店は、開拓期以降、湧網線開通前までは28店、開通後は38店に増えている。同年の部落戸数は1932年(昭7)より44戸増の253戸となり、湧別市街に次ぐ集落を形成した。その後、大沢木工場の操業(昭13)も市街発展に貢献した。
●酪農の進展  大正時代の酪農奨励策、「牛飼いに冷害ないという冷害克服運動、第1次世界大戦(大3)後の不況、毎月現金収入があることなどが、農民の目を酪農に向けた。
 乳牛飼育農家・乳牛の増加に伴い、1925年(大14)森永乳業が野付牛(北見)工場、1930年(昭5)北海道製酪販売組合(酪連)が遠軽工場を設置。一方、乳牛飼育農家は組合を組織し、共同乗乳所などを整備した。
 芭露地区では1929年(昭4)内山牧場の事業縮少により、乳牛が芭露に20数頭、上.芭露、計呂地、志撫子地区の農家にも売却されたことにより、酪農家が増加した。同年芭露酪農組合が結成、翌年には集乳所が設置された。集められた牛乳は、内山牧場から譲り受けた分離機でクリームにし、鉄道開通まで馬車や馬橇で乳業会社に送り換金した。1939年(昭14)酪連中湧別工場が操業を始め、クリーム販売から全乳販売に変わったため、各部落に散在していた巣乳所は廃止された。
 初期の乳牛飼育はほとんど放牧だったが、大正末期の甜菜栽培奨励と併せてビート・バルブの還元などで粗飼料も変化。乳量や脂肪率アップのため、栄養分の高いクローバーやデントコーンなどの飼料作物が栽培されるようになった。それらの貯蔵施設としてサイロが普及するようになった。
 酪農家のシンボルともなったサイロ。芭露の第1号は1926年(昭1)ころに造られた内山牧場の地下サイロ。1934年(昭9)大口丑定が建てた木造の地上サイロは酪農家を刺激し、サイロ建設を促進させた。また、越智頼義は当時の農家の年収が500円から1,200円という時代に700円余りを投入し、レンガ造りの豪華なサイロを建設し、注目を集めた。
●産業組合  1900年(明33)農民の利益擁護などを目的とする産業組合法が公有された。当時芭露地域はハツカや豆類による好況や村農会が共同出荷による販売斡旋など広範な活動を続けていたため、産業組合設立の機運は盛り上がらなかった。
 しかし、大正時代後半から農村の不況が深刻化する中、1928年(昭3)司法に基づき、保証責任計呂地信用購買販売利用組合(計呂地産業組合)が設立、翌年から事業を開始した。1930年(昭5)には芭露からも同組合に加入、芭露方面一円を加えた区域となり、1933年(昭8)名称を保証責任東湧信用購買販売利用組合(東湧産業組合)と改称、事務所を芭露市街に移転した。
 1935年(昭10) 1村1組合とする組合強化の指導に基づき、保証責任湧別信用販売購買利用組合(湧別産業組合)と統合、保証責任下湧別村信用購買販売利用組合(下湧別村産業組合)となった。組合長に大口丑定、専務理事には内山繁太郎が選任された。
 事務所は芭露市街に新築し、同事務所を本部、湧別と上芭露に支部を置き、上芭露、計呂地、床丹に配給所を設けるなど、組織・機能を整備した。初年度の組合員数は790入、貯蓄高73,590円、購買売上金95,228円、益金6,989円、販売高346,358円、剰余金34,634円。
 新築した事務所は、当時としては目新しいメートル法により設計され、北見管内では珍しいモダンな建物だった。建設費は7,600円余。1986年(昭61)芭露農業協同組合事務所が新築されるまで半世紀地域のシンボル的建物たった。
 1935年(昭10)には紋別郡の10産業組合、佐呂間、留辺薬武華の12組合により北紋医療利用組合連合会を設立, 1939年(昭14)上湧別屯田市街に久美愛病院(現厚生連上湧別厚生病院)を開院した。道内で初めての農民の手による医療施設であり、産業組合の大きな足跡の1つである。当時組合長の島崎仰一は同連合会の理事に就いている。
 下湧別村産業組合の歴代組合長は、大口丑定(昭10)、島崎仰一(昭12)、国枝善吾(昭14)、大口丑定(昭15)。
 政府は戦時体制化の農村経済統制を図るため、1943年(昭18)農業団体法を公布、1944年(昭19)産業組合の解散指令により、同産業組合が解体し、これに代わって下湧別村農業会が設立した。会長には、大口丑定、専務理事は諸方一志、常務理事には清水清一が選任された。戦争末期には農業会は官僚化し、農民を支配する統制機関に変容していった。

第6章 戦争の影響

●戦争と生活  1873年(明6)に徴兵令が布告され、男子に兵役の義務が課せられた。兵役は納税、教育に並ぶ国民の3大義務とされた。未開拓の北海道は、屯田兵制度もあったため、兵役は猶予され、北見地方に徴兵令が施行されるようになったのは1898年(明31)になってからだった。
 日清戦争(明27〜38)、日露戦争(明37〜38)、第1次世界大戦(大3〜7)の勝利で、日本は軍国列強国に名を連ねた。軍国主義は大戦から昭和初期の不況期にもかかわらず、着々と軍備増強を図っていった。
 1910年(胴43)陸軍省が軍国在郷軍入会規約を制定後、各地に在郷軍人会が結成された。湧別では1912年(大1)下湧別分会が発足、1920 (大9)、1921年(大10)ころに班を編成。芭露は6班とされた。また射撃訓練のための射撃場が芭露6号線に設置された。
 召集令状は日華事変の勃発(昭12)以降、日華事変の拡大、太平洋戦争の突入(昭12)とともに次々に発せられ、多くの青年が村を後にした。出征時には住民が壮行会を行い、青年を万歳と軍歌で送った。
 日華事変の勃発から太平洋戦争にかけては、華々しい戦果がラジオや新聞で報道され、戦勝祝賀が行われた。しかし戦局が悪化に向かうと、戦死、戦病者の知らせが相次ぎ、戦局が混迷してくると、生死の消息さえつかめなくなった。
 1937年(昭12)に示された国民精神総動員要綱が戦時行政の基本とされた。戦時スローガンは公共施設などに掲示され、「欲しがりません勝つまでは」は耐乏生活の標語だった。
 国民精神総動員の中で、国民貯蓄運動が1938年(昭13)から本格化。長期戦に備えた軍需資金に国民の貯金を振り向けようというものだった。各町村、地区が実績を競った。
 1939年(昭14) 7月応召者が増え食料生産や工鉱業生産にかげりが生じたため、国民徴用令が布告され、従軍しない者の労力を軍需産業や造材、炭鉱など重点産業に徴用。また農家の労働力を補うための「援農」も行われ、男女中等学校や大学生の出勤が行政措置として示されるに至った。
 1940年(昭15) 10月政府は大政翼賛会を組織した。地域では翼賛会の下部組織として区割を改め、農事実行組合、衛生組合、警防団など諸団体を吸収し部落会を発足させ、戦争を支えるための活動を展開した。
 敗戦が色濃くなる中、1943年(昭18)からは学徒が動員され、多くの学生が戦争にがりだされるようになった。同年オホーツク沿岸警備を任務とする沿岸特設警備隊がアメリカ軍の日本上陸を想定して編成された。隊員は湧別と上湧別の在郷軍人200人から250人。演習を行ったり、「たこ壷」と称する穴を堀り、戦車による上陸と攻撃に備えた。
 戦争は社会の全ての分野に影響を与えた。経済活動は次第に正常に機能しなくなった。戦争の長期化に伴い、物資統制と配給制は強化され、商業界はこれら施策推進の末端組織となった。1940年(昭15)に設立した下湧別商業組合は、末端配給組織になったが、さらに1944年(昭19)下湧別付配給統制組合に改組、個店は休業状態あるいは転廃業を余儀なくされた。
 農業では、作付統制、乏しい営農資材の配給と責任拠出制にしばられ、残された高齢者や婦人らの労働に重くのしかかり、冷害凶作が追い打ちをかけた。漁業も資材配給が乏しく、遠洋漁業は閉鎖。木材は軍需と重点産業本位の需要のため、生産増強が図られ、無計画な乱伐は山林を荒廃させた。
 そんな中、代用食や代用品が常用された。配給されたわずかな米に、豆、イモ、うどん、山菜、えん麦、トウモロコシを混入したご飯、澱粉にカボチャやジャガ芋をつぶして作った団子やスイトンなど。木材を原料にした加工布地による衣類、イクドリの葉のタバコ、豚皮の靴なども登場した。
 また、教育は戦時体制強化の一環として、1941年(昭16) 3月小学校令は国民学校令に改正。学校名は国民学校と改まり、教育内容も「皇国民の練成」を大眼目とし精神教育に重点が置かれた。兵式を取り入れた団体訓練、勤労奉仕、儀式中心行事の重視などを通じ、精神力を練成する方向に体系化された。

 『芭露小学校80周年記念誌』で卒業生が戦争中のことにも触れている。
      身の回り品、学用品など、思うように買えませんでし
     た。弁当もパンは良い方で、小麦だんご、イモ、カボチ
     ャ、トウキビなどで、交換もして空腹をしのぎました。
     運動会では軍事教練の種目もあった。授業は2、3時間
     で、援農に出かけました。    (昭18年卒業生

      衣食住が不自由な窮乏時代。どこの家も緬羊が飼われ、
     毛をとっていました。授業はやらず、コウリヤナギの皮
     むき、クローバーの種とり、農家の手伝いを行いました。
     戦争が激しくなると、出征兵士を日の丸の小旗を振って
     見送り、無言の帰還を迎えたり、勉強どころではありま
     せんでした。東芭露の山奥に泊まり込みで、松葉を取り
     に出かけました。松葉の油で飛行機を飛ばすという話で
     した。             (昭19年卒業生)

      学芸会は3年生、運動会は4年生で、それぞれ戦争の
     ため中止。3年生の時は援農が6割程度。高等科進学時
     は勉強は第2で、松葉油の製造のため、東芭露で勤労奉
     仕。37日間専念しました。      (昭20年卒)

      学校にクワ、カマを持っていき、農家を回って農作業
     をしていました。松葉集めでは、多数の生徒がうるしに
     かぶれ、顔もはれあがり、治療に大変苦労していました。
                    (昭22年卒)

      戦後、教科書の飛行機や戦車の絵は全部墨で塗ってま
     っ黒にしたり、上級生は鉄砲を壊したり、剣道の防具を
     燃やしたりで天変だったようです。  (昭26年卒)



 1944年(昭19)政府は「一億総武装」を閣議決定した。翌年6月には国民義勇兵役法の公布で、在郷軍人、翼賛壮年団、大日本婦人会、大日本青少年団を統合して国民義勇隊を編成した。湧別でも7月村長を隊長とする下湧別国民義勇隊が結成、地区単位の戦闘隊も編成された。
 そして1945年(昭20) 8月6日広島、同9目長崎に原子爆弾が投下され、ソ連の参戦もあり、敗戦は決定的なものになり、8月15日ポツダム宣言受諾によってようやく終戦となった。

      突然部落の責任者から国防婦人会の役員を頼まれまし
     た。固辞したがだめでした。市街の小沢さんが区長で、
     私が副になりました。部落区長の小湊さんに巡れられて、
     留守家族の慰問、出征兵士の見送り、亡くなった兵隊の
     葬儀、布団綿集め、救急措置の研修など、全然経験のな
     いことをやり、忙しかったでず。幸いだったことは、婦
     入会の組織がしっかりできていたことです。
      忘れることができないのは、各戸から貯金を集めるこ
     と。5銭、10銭、1円、2円だったと思います。絶対強
     制だったので、組長さんたちも大変たったと思います。
     集められたものは私の家に届けられ、私が通帳に金額を
     書き、郵便局に持っていき判をおしてもらいました。
      昭和20年8月15日午前中に小学校の校庭で義勇隊の決
     起犬合がありました。ハチマキにタスキ姿で集まりまし
     た。それから救時間後、ラジオで終戦が報道されました。
                   (中沢初子 芭露老人趣味の合『明日の潤』第5号)

●浮遊機雷爆発の大惨事  戦時の最中の1942年(昭17) 5月26目、湧別ボンド浜で浮遊機雷が爆破前の作業中に爆発し、作業中の警防団員と見学者ら112人が死亡、町史上空前の大惨事となった。
 芭露の犠牲者は13人だった。翌々日の5月28日、芭露国民学校で、犠牲者の合同葬が行われた。
 惨事の原因は、沿岸に漂着した2個の浮遊機雷を適当な間隔をあけ、同日午後零時から時刻を異にして爆破させる計画で、一個の機雷を移動中、その衝撃により一大轟音とともに爆発した。
 戦意高楊の絶好の機会として公開し、爆破実施を住民に周知したため、爆破作業の周囲には青年学校生徒や一般見学者ら1,000人ほどが集まり、国民学校の生徒も列をなして現場に向かった。
 機雷漂着・爆破事件について、当時芭露小学校高等科の渋井慶一は現地に赴いたが、『芭露小学校80周年記念詰』の中で回想している。
      機雷の漂着は、戦意高揚の絶好の機会とされ、近隣町
     村の参加と見学が呼びかけられ、回覧板が回されたほか、
     鉄道の臨時便も増発され、村の大きな話題となりました。
     芭露小学校では、緊急職員会議で、高等科2年生のみが
     見学を許可されました。
      臨時列車により中湧別に出て、中湧別から湧別には競
     歩訓練として歩きました。下湧別小学校で自転車隊と合流。湧別浜に向いましたが、当時の校長は足が不自由な ため、何度か休憩して、現地の人影が見える距離まで近づいた時、突然大きな爆音とともに真っ黒い煙が空に舞いあがっていました。
 夢中になって現場に向かって走ったが、警察官から大惨事であることを知らされました。一行は現地まで行かず、途中何人かの負傷者を劇場に収容する手伝いをして学校に戻りました。
 私たち全員がこの惨事に遭わず、無事であったことは、亡き校長の「止まれ、止まれ」という、あの大きな声が助け声のお陰と、今日においても感謝しております。
 湧別村は慰霊碑を1943年(昭18)ポント浜に建立。その後浸食が激しくなり、
1951年(昭26)湧別神社境内に移設した。1960年(昭35)上芭露では、1954年(昭29)に建立した木塔に代えて機雷殉難諸霊之塔を報国寺境内に建立、同時にテイネー以東の犠牲者44人を合祀した。
 50年後の1991年(平3)5月湧別町は機雷爆発の現地に殉難の塔を建立、爆発した同日同時間に除幕、犠牲者の霊を供養した。
●戦争と馬産・酪農  日清戦争以降、軍馬の需要が高まり、農村が供給先となった。軍馬資源保護法、種馬統制法なども制定され、軍馬が増強された。湧別方面は小格親馬生産地域となり、優良種牝馬、優良候補種牝馬が登録された。
 1938年(昭13)湧別、上芭露に次いで計呂地種付所も設置され、湧別村に種村所は3ヵ所となった。1村に3ヵ所の種付所は他市町村には例はなく、湧別の基礎牝馬の優秀性を物語っている。また同年上芭露種付所では西川治六識医師の指導により人工授精を開始し、成果を上げた。
 上芭露種付所の種付牝馬数は、昭12年270頭、昭13年293頭、昭14年287頭、昭15年298頭、昭16年328頭という実績。芭露地域の馬産最盛期は、国有種馬による生産を含め、450頭前後だったことは、農家の馬産に対する関心がいかに高かったか芭露では第6農事実行組合(組合員23人)が特に馬産に熱心だった。品評会では上位入賞を果たし、農林省や軍馬買い上げなどで、芭露座馬の名声を広めた。
 戦時中の馬産増強時代は、種牝馬による直接交配も行われ、種馬を所有していた東芭露の矢崎保と計呂地の篠森勇次郎が芭露地帯で巡回交配し優良な馬の生産に貢献した。
 酪農関係では、戦時体制下の1941年(昭1G)乳業会社と酪連が合併させられ、北海道興農公社として発足した。戦時中、牛乳は軍需増となったガゼイン(接着剤の原料として供出された。一般乳製品も増産が要請され、酪農家には濃厚飼料の配給、飼料作物の作付割当など奨励策がとられた。
●戦中・戦後の娯楽  開拓、戦時中、戦後の混乱期に住民を慰めたのは数少ない娯楽だった。開拓初期には娯楽施設がないため、住民が唄や踊り、芝居を演じ合い、楽しんだ。たまに訪れる芸人の芝居や浪花節が民家の広間やハッカ小屋で演じられ、大勢の住民が足を運んだ。
 1918年(大7)、1919年(大8)ころには芭露初の青年団・大正青年会の演劇活動が活発になり、現代劇や歌舞伎劇などが大口牧場の牛舎や産業組合の倉庫、ハッカ小屋を会場に公演された。
 1939年(昭14)大田森治は興行師の資格を取得後、芭露はもちろん、上芭露、東芭露方面に活動範囲を広げた。1942年(昭17)には芭露市街に農事実行組合の共同作業の名目でバラック建ての芝居小屋を建設した。電化を受けて1946年(昭21)増改築し劇場の認可を受けて、芭露劇場としてスタートした。

      娯楽がない時代。劇場では映画や芝居をやっていまし
     たが、満員状態でした。特に芝居や歌謡曲に人気があり
     ました。300〜400人は入れていましたね、
      劇場以前、電化される前はランプの明りの中で劇団が
     公演したり、発電機で映画を上映していました。
                         (太田留治)
●天 災  開拓期から、戦中、終戦まで、地域性民は天災に悩まされながらも克服して、農業などを営み、地歩を固めていった。
 この間の冷害と水害を以下に列挙した。
  ◇1898年(明31) 水 害
  ◇1902年(明35) 大冷害
  ◇1913年(大2)  大冷害
  ◇1916年(大5)  大干ばつ
  ◇1920年(大9)  干ばつ
  ◇1922年(大11) 大降霜・水 害
  ◇1923年(大12) 水 害
  ◇1926年(大15) 冷 害
  ◇1931年(昭6)  大冷害
  ◇1932年(昭7)  大冷害
  ◇1934年(昭9)  冷害
  ◇1935年(昭10) 冷 害・水 害
  ◇1940年(昭15) 冷 害
  ◇1941年(昭16) 冷 害・水 害
  ◇1945年(昭20)冷害

 大正初めの天災は、開墾に耐えて軌道に乗せたのも束の聞、収益減のため低所得者となったり、ようやく自分のものになった土地を手放し、小作農になる者も出た。そして1931年(昭6)、1932年(昭7)の連続した冷害は、第1次世界大戦後の不況にあえぐ農民、そして地域経済を訪い、打撃を与えた。
 これに対して道庁は臨時救済事務部及び北海道凶作救済会を設置し、農林漁村経済更生計画に開する訓令を発したが、農家経済は困窮の度を深め、離農者を続出、小作農激増という状況に陥っていった。
 さらに冷害は1940年(昭15)、1941年(昭16)と戦時中に相次いだ。これは農民に営農構造の転換を迫まることになり、寒冷地農業の安定策としての酪農化がクローズアッブされた。

 また、芭露川は、蛇行わん曲が連続する湧別川に次ぎ長い原始河川で、増水のたびに氾濫していた。10〜11号線、7〜8号線の間は氾濫地点となり、これらの下流域は冠水、落橋の被害に悩まされた。
 明治から大正の半ばにかけては、特記すべき水害はなく、開拓に伴う山林の乱伐後に激しくなったようだ。
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