第3編 開  拓

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第一章 初期の開拓
 (1)オホーツク海辺の幕開け
   場所の功罪  畑地開墾の走り  
 (2)湧別原野の黎明
   明治維新と北見国  開拓使十年計画  湧別の開基  半沢真吉  農業資本家の誘致  殖民地選定  
   殖民地の区画測設  区画殖民地の処分  国有未開地処分法  湧別原野の始動   新天地を求めて  
   新天地への旅路  難渋の自作農創設
 (3)屯田兵村
   屯田兵制度創設の経緯  湧別屯田の創設  屯田兵村の特殊性  屯田兵制度の廃止
 (4)新山時代の生活 
   貧困な経済力  住居と光熱  被服類の調達  食糧事情  開墾と営農  天災とのたたかい  
   野獣とのたたかい
第二章 緊急開拓
 (1)集団帰農施策
   戦災疎開者の移住  戦後開拓の背景  開拓者の資格  入植と離農の曲折  開拓行政の打ち切り
 (2)関係機関および団体
   開拓者連盟  開拓農業組合の性格  二つの組合誕生  湧別町開拓農業組合  開拓営農指導員
   開拓保健婦
 (3)余話
   火薬抜根の威力  組合存廃騒動  

第一章 初期の開拓

(1)オホーツク海辺の幕開け
場所の功罪  貧困な藩の財政を補うため松前藩は場所の創設を行い、貞亨2年(1685)には宗谷場所を開設して、宗谷及び北見国方面のオホーツク海沿岸漁獲、及びアイヌの狩猟品と生活物資との交易をしたが、これが本町方面の開拓のはしりであった。
 宗谷場所は、その後1800年代初頭まで種々の曲折(行政編参照)があったが、文化5年(1808)に近江商人の藤野喜兵衛が漁場請負人になってから定着し、盛業をみるようになった。 藤野喜兵衛は土人(あいぬ)を駆使して地方の開発に努力し、北見国の揺らん期形成に貢献したとされているが、一面「北見繁栄要覧」(大正元年)によれば、

 藤野家が漁場請負人となり多数の雇い人を率い遠く北見宗谷紋別、斜里等に和船に搭し来り盛んに漁業を営みしも毎に一定の期間に止り永住を計りしにあらず、此の如くせしもの数十年、其間に於ける為政者も単に数人の警衛勤番なるものを派したるに止り敢て殖民を奨励したるあらず寧ろ制縛したるなり

と記されており、殖民を図ることなく、アイヌを制縛した点に問題があった事は否めない、ちなみに、当時のアイヌの戸口分布の一端をみると、次のようである。

□ 文化元年 (1804)=「西蝦夷地分間」より
    宗谷持場  家数478   総人数 1,662
□ 天保9年  (1838)=「藤野家履歴調」より
    宗谷場所  151戸  660人  男 325人 女 335人
    紋別場所  275戸  1,191人  男 568人 女 623人
□ 文久2年 (1862)=「人別取調帳」より
    ユウベツ    28戸  121人

アイヌを制縛した場所制度はそれ自体が自然の生物資源を乱収穫する営みで、現代なら多くの批判を生むところであるが、原始の山と海では事欠く事はなかった。 しかし、生活に異変を強制される結果となったアイヌにとっては、それこそ大異変であったわけである。 その異変とは、

 (1) アイヌ自身の自由生産による消費余剰物を糧として、和人との対等自由交易が為されていたものが、場所の交易所の利潤追求という名の策略により、アイヌの従属を前提とするオムシャの儀や、不平等な取引の画策が行われるようになった。

 (2) 請負人の漁場開拓と漁獲の振興によって、交易の必要性が薄らいで、アイヌの交易が次第に緊縮され、ただでさえ不平等な取引にないたアイヌの生活が窮乏の度を深めた。

 (3) 窮乏の赴くところ、アイヌは漁場の労働に就くという環境が根深く構成され、任意たると強制たるとを問わずアイヌの住居が集約され、専ら従属的な漁場労働力の対象に追い込まれ、生活の自由を喪失するに至った。

という経過で深刻化し、アイヌは場所の乱収奪の拡大に見合う酷使にはまり込んで衰亡の道をたどった。 これについて松浦武四郎の「武四郎迴浦記」(安政3=1856)には、

 近年奸商のため苛責され、三十四十歳にも相成候まで嫁せず、五十六十まで娶らず終に生涯孤独にて相果候輩もすくなからず

とあり、婚期は無視され、足腰の立つ者はことごとく労働力として徴発され、遠く離島の漁場にも配置されて、長年帰宅を許されぬなど、奴隷的な収奪行為にさらされていた。

 
畑地開墾の走り  漁獲による利潤のみを追求する漁場請負人に支配された北見国沿岸は、定着する和人もなく一見農耕の必要も感じないかの推移であったが、安政2年(1855)警備のため幕吏の駐屯をみるにいたり、紋別詰同心の細野五左ェ門、足軽の逸見小十郎らによって開墾計画が立てられ、これが函館奉行の認めるところとなり、安政4年9月3日からアイヌを使役して、漁獲閉散の日を選んで開墾を行い、同6年までに1,191坪の開墾をみ、大根、馬鈴薯、燕菜、きうり、麦、そば、栗、ハイ、麻などを栽培したことが記録に残されているが、是が紋別郡地方の農耕の初めである。
 畑地の用途は御用畑、役宅付畑、番家畑、土人共畑に区分され、官用とあいぬ自身のための農耕の奨励を目的としたもので、湧別の番屋にもおよんだという。 しかし、目的とは裏腹に官用畑のための下僕的就労のにおいがあり、加えて、役人の指導によって農耕が開始されたものの、漁場請負人がアイヌ労働力の分散を嫌って消極的であったし、アイヌも本来の生活慣習から農耕を好まなかったため、予期した発展がみられなかったらしく、「紋別御場所仕来書」(明治元年)の中に、

 1、開墾畑地1ヶ所  此坪数1189坪
 右の通前々より有之候処、近年作物不出来に付其内宜敷処会所に於て菜、大根、五升薯、葱、燕、三度豆、大角豆、紫蘇、夏菜の類作り,余は当時荒地同様相成居申候


と、一部御用畑に使用していたに過ぎなかった事実が記されている。 また、「北見州経験誌」(明治4=松本判官)には、郡内畑地の状況を「紋別本陣元畑地1反、サロル1畝、ホロナイ1畝」と記し、湧別については、

 一歩の畑あり、ナスビ、南蛮、シロ大根、菜の数少なしなれ共植置、景気宜しき此当たりあ山遠して曠野なり、地味果して宜敷は開墾場は紋別に勝ること1等、土人に問ふ地味宜敷大体の野菜物出来ると云ふ

と記して、湧別川流域の肥沃なことを示唆しているが、一歩では耕地というには、あまりにも少ないものであった。

(2)湧別原野の黎明
明治維新と北見国  場所(漁場)開設地以外は原始の姿そのままで、獲物を追って転移するアイヌの仮小屋(夏季だけの)が、湧別川畔に点在していたに過ぎなかった本町内陸も、明治維新の幕開けとともに、曙光をみるようになった。「北見繁栄要覧」によれば、

 本村も亦た斜里、紋別、枝幸と共に藤野家の請負漁業地たりしも沿岸波荒くして比較的収穫多量ならざるより自然閉却せられたるものヽ如し、随て湧別川に沿ふて唯茫々たる一大原野として人の顧みるもの稀なりしなり、然れども開国進取の活気ある、将た新運命を開拓せんとして、万里の波濤尚ほ且つ物の数視せざる、帝国民の豈に長く此肥沃の大原野を熊狼狐狸に委すべけんや。

という曙光である。 つまり、明治新政府によって蝦夷地の総合開拓が企画され、明治2年開拓使の設置をみたのである。 同年7月22日の太政官布告には、

 諸藩士族及庶民に至るまで志願次第申出候者は相応の地割渡し開拓し被仰付

と、農業移住の勧奨がうたわれているが、その背景には、「北海道史」で指摘している次ぎの国内事情があった。

 明治維新の改革を契機としてもたらされたわが国の政治的社会的変革によって、一方には各種失業群の増加及び地租条例の発布を槓桿とする農業の資本主義化、農村生活の各部面における貨幣化による小農の激増、殊に武士階級はあらゆる封建的特権を剥脱されて資本主義的社会に放出され、新たなる経済的基礎を確保せざるを得なかった。 而もこの努力の大部分はいわゆる「武士の商法」となって没落の悲運をたどり、これら失業者群の氾濫は当時の政治的改革期に当たり、反政府的政治運動の指導的地位に立つことは政治支配階級に鳥極めて危険視され、ここに彼らを北海道の開拓に向けて、いわゆる一石二鳥を狙ふ策慮がとられた。

こうした流れの中で北見の国はどうかかわったのであろうか、まず明治3年に開拓史は北見開拓計画策定のため、権監事であった土肥怒平を現地に派遣して調査をさせているが、このときの複命書には、大要、

 紋別、網走などは水田を除けば畑作は相当できる土地が多い、耕地の少ない内地の農家は涎を流すほど欲しがるであろうが、内地の農家でも田畑を多くとって経営の豊かな者は粗食に甘んずる移住はしないであろうし、募集に応じるような農民は貧農で入植しても十中八、九は努力をしないで、食糧支給の保護期間がなくなったら離散してしまうであろう。 特に交通の便が開けず、生産物が容易に金に換えられない現状では当分移民の見込みがない。

と報告されてあった。 そして、具申内容は「500石程度の富裕な士族から家禄高歩割を以って分家移住させ、これを中心に3〜5年内に農商自由移民の増加を図る」事を軸としたものとなっていた。 次いで明治4年開拓使根室支庁判官松本十郎が北見国を巡回しているが、松本判官は特に北見開拓に情熱を傾注し、在任中4回にわたって北見国を巡察して、作物の生育状況を丹念に調査した結果、「北見国の開拓は当面漁業に主力を置き、まず交通事情の改善から着手し、農業開拓はおおよそ十年後」と見通した。

 
開拓使十年計画  開拓史は計画的に入植を推進するために、明治5年から向こう10年を区切りとした「開拓使十年計画」をスタートさせた。 これは、前項で記した太政官布告の趣旨に則った補助移民を骨子としたものであったが、北見国については松本判官の予見どおり実施されず、10年遅れて開拓が本格化したから、松本判官の識見がいかに卓越したものであったかがうかがえる。
 一連の開拓施策としては、明治5年9月に「地所規則」(北海道土地売買規則」など、土地処分の規定が公布されて土地の私有化を前提とした移民の誘致促進が講ぜられ、同10年12月には府県と同様に土地所有権を明らかにする「北海道地券条例」も制定されて、土地制度の近代化をみるに至ったが、農業を目的とする来住者は極めて少数であった。 地所規則には、

 第 8条 地券を渡して永く私有地に申付けられること。
 第 9条 売下地1人10万坪を限り、地下上等1,000坪1円50銭、中等同1円、下等同50銭
 第10条 売下げ下手後十ヵ年は除租たる可し。
 第13条 土地買下の後開墾其の他共、上の地は12ヶ月、中の地は15ヶ月、
       下の地は20ヶ月を過ぎ不下手者は土地申付る。
という条件があり、北海道地券条例には,私有地を明確にするため、各種土地を測量の結果面積を記載した「地券」(現在の登記済証)が公布され、はじめて土地私有権が確定する仕組みが盛られていた。 もっとも、この地券発効は、地租賦課の対象として、後日重要な意味を持つものであったことは見逃せない事実であった。
 開拓使十ヵ年計画が進行した当時の北見国を含む開拓使根室支庁管内の実情は次ぎのとおりで、殆どが根室を中心として太平洋に集中し、北見国には明治12,3年ころから、根室方面から転住するものがみられる程度であった。

                      (開拓使事業報告より=単位・戸)
年 次  明治11年  明治12年  明治13年  明治14年 明治15年 備         考
種 別
耕 作 31 51 23 22 19
漁 業 1,641 1,553 1,578 909 857
工 業 190 356 321 362 289  職 人
商 業 105 170 125 195 288
雑 業 2,623 3,868 4,315 4,223 6,561  漁業労務者を含む
4,590 5,998 6,362 5,711 8,014

これは、漁業を唯一の産業とした北見管内では、漁業関係者による自給用の蔬菜畑が耕作された程度で、農業開墾がみられなかったからで、明治6年の開拓使調査による管内4郡の耕地は1町1畝24歩(紋別郡6反3畝7歩、網走郡3反、斜里郡8畝17歩)で、同12年に巡回調査した開拓使属酒井忠邦の「北地履行記」でも、

 耕地1、867坪3合3勺、地質黒色粘土真砂を混し、大根、きうり、大角豆、南瓜、茄子、馬鈴薯、葱、蕪、紫蘇、甘藍、其の他蔬菜類凡そ6,70人の賄に充つ

とあるから、6年間で1坪の増加もなかったわけである。
 明治13年網走郡役所などの設置で、行政体系が整うにつれて移住入地者も逐次増加するようになり、同14,5年から次項に記すように、網走や湧別などで農業を目的とした開墾が行われて、北見国の農業の黎明を見るのである。

湧別の開基  明治15年夏、網走郡役所に勤務していた半沢真吉が職を辞して本町5番地に農業を目的として移住入地し、アイヌを使役して開墾し、大麻、大麦などを栽培して好成績をあげるとともに、原料作物の試作も行っている。 これが本町の「開基」である。 半沢真吉はひと夏の耕作で、この年の10月に紋別戸長に就任のため本町を去ったが、戸長在任中も農業開拓に深い関心を示し、根室県勧業雑報通信員(明15=開拓使廃止され3県となる)の立場から卓見を寄稿し、

 当郡中農事に着目するは湧別村を除きては他にこれあるを見ず、今や無智の土人と雖も産業覇束の不利なるを看破するか如く

と、湧別原野の有利性と開拓にあいぬの就農策を採択すべきことを強調していた。 半沢真吉の転出後、長沢久助、徳弘正輝(以上明15)、和田麟吉(明16)らが相次いで来住し、和田麟吉は開墾耕作の結果、穀類の収穫を得て、ようやく主食の自給ができたという。 明治16年の「根室県勧業雑報」(12月号)には、

 農業紋別郡湧別村を最とす、和田麟吉と云ふ者半沢真吉につぎ着手せり、半沢の報告によれば馬鈴薯の如きは1顆大体206,70匁、小も3,40匁を下らずと云ふ

と伝えられている。
 翌17年長沢久助と徳弘正輝は、鍬による開墾農耕では開拓がはかどらぬことから、根室県庁に出向き、湯地定基知事に開墾資金500円、牛馬2〜3頭、プラオやハローなど農機具の貸与を請願したが、収穫物の販路もなかった当時の実情から認められなかった。 また、和田麟吉はこの年に駅逓業に転向しているが、自給耕作は続けたらしい。
 翌18年産業奨励のため3県交互で主催していた「北海道物産共進会」には、徳弘正輝の出陳した馬鈴薯が褒状を受けている。
     半沢真吉  本町の開基の人となった半沢真吉は,嘉永4年(1851)7月17日に、父半沢重左ェ門の2男として、宮城県亘理郡吉田村に生まれ、明治12年3月に渡道した。 時に23歳であった。
 渡道後は大蔵省4等監理補として函館税関に奉職し、翌13年3月退職して、同14年6月に船で網走に上陸して網走郡役所に勤めることに鳴って、以後、北見国に事績を印することになった。

     半 沢 真 吉
  網走郡役所雇申付
  月給金7円50銭支給候事
      明治14年6月13日
         網走郡役所


が、その辞令である。
明治15年春に本町に入地して開基の人となったことは前項で記したが、このとき26歳であった。 行政手腕に秀れていたとみえて、3県時代発足とともに、
    
     半 沢 真 吉
   紋別郡各村戸長申付候事
   准等外1等月俸金10円
      明治15年10月2日
        根室県


の辞令を受けて本町を去ったが、26歳の村長誕生という快挙であった。 在職期間は永くなかったが、草創期の村政を鋭意推進し、大いに村治に貢献して、明治18年4月に辞職して、再び網走に戻り、同20年4月に結婚した。 従って本町開基のときは独身であったわけである。
 昭和4年1月8日御前5時、79歳で逝去すたが、戸長退任後は小清水ほかの駅逓所取扱人、斜里で酒造業と漁業経営を経て農業と牧畜に転じて、斜里郡農業の指導発展に寄与し、さらに斜里郡止別村総代人および学務委員を務めるなど、地方長老として内外の信望を一身に集めた存在として活躍していた。

農業資本家の誘致  明治15年に「開拓使十年計画」の終了に伴い、開拓史が廃止され、函館、札幌、根室の3県が置かれ,翌16年には農務省北海道事業管理局が札幌に設置されて、3間1局時代に入ったが、この時代は開拓にさしたる成果がなく、同19年からの北海道庁時代に入ってから活発になった。
 道庁時代の開拓政策の一つの特異例として、農場方式による開拓があった。 この政策の背景には、明示2年に開拓史が設けた「移民扶助規約」で募集移民に施していた家屋や農具及び3年間の食料と開墾料の給与という施策(自力移民もほぼこれに準じていた)が、初期の成果に至らなかったこと、明治16年6月に「移民士族取扱規則」ができて、貧困で自力移住ができない士族を移住させるために、毎年15万円ずつ8ヵ年計画による120万円の士族授産金を用意すると共に、旅費、食料、農具、種子代などを貸与することになったが、思うように進展しなかったことがあった。

 明治19年6月に道庁設置とともに公布された「北海道土地払下規則」が農業資本導入の原拠で、初代長官岩村通俊が、之に関して召集した同20年5月の郡区長会議において述べた。

 移住民の奨励保護するの道多しと雖も、渡航費を給与し、内地無類の徒を招集し、北海道を以って貧民の渕藪と為す如きは、第一宜しき者に非ず、自今以後は貧民を植えずして貧民を植えん、是を極言すれば人民の移住を求めずして資本の移住を求めんと欲す。

という演説に、その。基本を読み取る事ができる こうして冗費節減による財政力を、資本導入環境づくりのために、道路開さく、港湾の修築、電信電話の布設、鉄道敷設など社会資本の充実にふりむけられることになるとともに、それまで1人10万坪に限定されていた土地処分は、

 但し盛大の事業にして制限外の土地を要し、其の目的確実なりと認むるものあるときは、特に其の払下を為すことあるべし

と、但し書付で大地積処分の例外を設けたのであった。 この規則が発効するとともに、士族および一般移民への金品保護が止められ、直接保護による国営的保護移民は打ち切られ、明治30年に「国有未開地処分法」が発効するまでこの状態が続くことになる。
 しかし北見国は、いまだ藤野喜兵衛の独占的な漁業経営の域を脱しきれず、経済的にも搾取地帯として住民の自主的生活力は培われず、明治19年12月末の管内戸口と紋別郡の戸口は次のとおりであった。
 その後も、土地払下規則の改正(後述の項参照)が行われるまでは、農場の開設もはかばかしくなく、従って来住者も少なく、後掲の表に、それを読み取る事ができる。

 区   分   戸            数   人               口
 地 域 別  総 戸 数   うちアイヌ   総 人 口   うちアイヌ
北 見 国
うち紋別郡
370 250 1,220 807
116 91 399 332

■  奥農場
 創設経緯は不詳であるが、植民地区画測設(明24)以前に東京の奥三十郎が、芭露原野1,000町歩の大地積貸下げを受けたといわれ、明示30年に募集に応じて岐阜、福井両県から小作16戸64人が入地したが、割当地湿潤で将来性がないため1年で契約を放棄して、それぞれ付近の適地を求めて離散してしまい、その後は入知者もみられず廃絶に終わっている。
 離散した人々は帰国するにも金がなく、流浪民のような境遇で開拓にあたり、食糧自給に達するまでは山野に食べ物をあさり、原始人のような生活を営むという深刻な苦闘が連続したという。

■  学田農場
 札幌の日本基督教会牧師の信太寿之の着想といわれる「北海道同志教育会」が、大学創立の基本財産造成を図るため、明治29年に小作270戸分1,328町歩(湧別原野)の出願をし、貸付を受けて着手したのが学田農場の創始であった。
 しかし、同志(有力者)の出資金を財源とする農場経営は、資金量によって左右される事が多く、明治30年5月に新潟県から30戸ぐらい、翌31年5月に山形県から70戸が入地したが、前者は天候不順による凶作と農場側の給与不充分で、後者は早々の大水害と農場側の不行届きな救済策で、食料にもこと欠き不安から開拓意欲も消えうせ、各地に離散する者が続出し、残留者は僅かになってしまった。
 こうした小作人の離散と水災の被害で農場経営計画は不調に陥り、資金面でも行き詰まって、理想の挫折とともに明治末期に北海道同志教育会は解散され、農場は信太寿之個人の所有に移行したといわれるが、踏み止まった人々のハッカ栽培に対する執念はみごとに結実して、後の北見農業の発展に大きく寄与するところとなった。

■ 徳弘正輝の農場
 規模が9万坪なので、大規模農場とはいえないが、その実績は優れていた。 明治20年10月に湧別原野(中湧別8〜9号線)の払下を受けて農牧に従事したもので、同22年には開墾地数町歩、牛30頭に及び、馬鈴薯、麦類、豆類の耕作研究を行い、成績優秀であった。 また、札幌からリンゴ苗数十本を移植栽培して、後続移民の果樹栽培熱を高め、「湧別リンゴ」の基礎を築いた。

   〔紋別郡戸口表〕  <北海道統計要覧>
区  分 総 戸 数 総  人  口 来  住  者 うち農業来住者
年  次 本籍人口 現在人口 戸   数 人   口 戸   数 人   口
明治20 115 330 440
明治21 115 338 454
明治22 132 344 639
明治23 151 346 653
明治24 171 365 793
明治25 219 403 767 62 492 15 36
明治26 271 568 937 105 1,101 12 39
明治27 487 865 1,523 149 915 44 226
明治28 908 1,242 1,242 595 2,196 107 642

殖民地選定  北海道庁初代長官岩村通俊は、開拓使判官の経験者であったので、その経験に基づき資本農業の導入をはかったのは前項で述べたが、あわせて健全な移民誘致と土地処分の簡便化を図るための「殖民地」が必要であるとして、全道の主要原野を対象に「殖民地選定」の事業を実施したが、岩村長官は施政演説で、

 全道殖民に適すべき土地を選定し、其原野山沢の幅員、土性地質の大略,樹木の積量、草木の種類,河川の深浅、魚類の有無、飲用水の良否、山河の向背、寒暖の常変、水陸運輸の便否等に至る迄精細に検定調査し之が図誌を製し、以って移民の来て農桑牧畜其他の業に就かんとするものの需めを持たんと・・・・・

と述べており、湧別原野も常呂原野とともに明治22年に選定され、本町の農業開拓の青写真が描かれる事になった。 湧別原野の選定報文は次のように下湧別、上湧別と2分されているが、同29年の区画地貸付告示では湧別原野に合一されている。
          北海道殖民地撰定報文
下湧別原野
 地理
南は山を負ひ中央湧別川あり、其支流「ナヨサネ」川を以て上湧別原野と界し、北一般海に臨み、東「サルマ」湖を限り西「シブヌシナイ」川及ひ「シブヌシナイ」湖を以て紋別原野に燐る、之を下湧別原野とす。 地形北西より南東に長く海岸より山麓に至る1里乃至1里半、土地高低概ね大差なしと雖も、山麓に近つき拾尺許の階級を成し或は漸時高きを如ふ、其地概ね楢、槲生長し稍乾燥に失するものの如
 面積  1857万600坪
 内 平野樹木地
   ・681万7250坪
    同 草原地
   ・161万2800坪
    同 湿地
   ・251万1050坪
    同 泥炭地
   ・150万坪
    高原地
   ・612万9500坪
右の内平野樹林地、草原は耕耘適地にして高原は放牧に適す、湿地及泥炭地は排水行ひ難きを以て殖民の見込みなし。

 土性
河畔の樹林地は褐色新沖積土上層を成し下属一般砂礫なり、表土厚薄素より不定なりと雖も1尺5寸乃至4尺にして、砂礫に達す、内部は樹林原始んと相半し、黒色の壌土7,8寸乃至弐尺其下赤色の沖積土又は砂礫なり、高原も稍同状なりと雖も地形高きを以て自を乾燥に失するもの、如く且表層浅く4,5寸乃至1尺にして赤色を呈せり、而して湿地は淡黒色の壙質土3尺乃至5尺にして下層は全く粘土或いは粘土砂礫の2層より成し、湖辺の卑湿地は泥炭にして深きは9尺に至るも底土を見ざるもの多し。

 植物
河畔の樹林地はアカダモ、ヤチダモ、ハコヤナギ、クルミ,ドスナラ、桂、辛夷等生長す之を上湧別原野に比すれば較々小且疎生なるものの如し、壱反歩平均弐拾本とす。 下草はヨブツマサウ、ナナツバ草の如きは最も能く成長せり、草原はセリ、茅、唐松草、フキ、ワラビ、ナナツバ草等密生し所々萩の雑生するあり、湿地はアシ、スゲ、ヤチダモ茂生し其壱尺内至3尺許のドロヤナギ、梯、楡、セン、シコロ、ハコヤナギ等雑生し下草はジタケ、艾、トチ、唐松草、蕨の類にて之を平野草原に比すれば発育の程度稍不良なり

 排水
湿地は原野中最低地に位するを以って水気皆此に停滞し加するに冬季湖口閉鎖し湖水は乍ち該地を漲溢するを以って排水の工事費に困難なるものの如し

 用水
湧別川及び支流「ナヨサネ」「マクンベツ」川共に精澄なるを以て沿岸の地は河水を用ゆる最も便なり、「サルマ」「シブナイ」2湖の如きは潮汐干満し且つ湖中に注入する渓水ありと雖も湿地を通過するか為め皆汚水にして只た上流僅に清浄なるのみ故に湧別川及び「マクンベツ」「ナヨサネ」川の河畔を除くの外は井を設けさるを得ず。

 運輸
 沿海に経路あり以って紋別及び鐺沸へ往来し又湧別より西南に向かひ僅に足跡に由る1条の小路ありて上湧別原野に交通するを得、而して本原野は湧別川の下流に位するを以って河身深広にして稍船楫に便なり

 気候
此地は全道の北部に位するを以って、之を石狩及び十勝等に比すれば梢寒冷なれと雖も、夏季は概ね東南風除々吹来り静朗の日多く殆んど大差なきものの如く、冬季と雖も、之を根室地方に比すれば遥かに温暖なりと、又初霜は9月中旬初雪は11月上旬にして、積雪の量は海辺に在りては2尺5寸「イカンベツ」川岸に於いては3尺より3尺5寸を常とすと云う。

 上湧別原野
 地理
北は「ナオサネ」川を以って下湧別原野に界し、東西南の3面は連山を続らす、此地を上湧別原野となす。 地形南北に布延し、東西は千間の至2千間にして山趾屏立す、湧別川は其東隅或いは西界に偏し以って原野を貫流す、而して支流「サナチ」川以南の地は高原稍多しと雖も其以北は平行なる殆ど砥の如し、故に土壌乾湿に失するなく、樹林草原略ほ半し農耕に適する良美の地なり。

 面積   1,420万8025坪
 内  湿地
    ・540万8050坪
    平野樹林地
    ・255万8425坪
    高原地
    ・624万1550坪

殖民地の区画測設  殖民地選定に基づく殖民地の「区画測設」は、明治22年から大正6年にわたって行われた。 下湧原野、上湧別原野を合わせた湧別原野の区画測設は、明治24年に実施されたが、湧別原野の場合は屯田兵村予定地1,294万2000坪を除き、2,344万7,596坪が、1,492区画に測設され、自由移民の受入及び資本家の開拓殖民に供される事になった。
 区画測設は欧米の農村区画を参考にして、北海道の実情に合わせて行ったもので、まず基線を設け、それと直角に交わる基号線を設け、さらに、それと並行して300間ごとに碁盤の目のように区画道路を引いた。 区画の単位は、まず方900間の大区画をつくり、それを9等分して方300個の中区画とし、さらに、それを6等分して小区画(間口100間×奥行150間)をつくり、この小区画5町歩を1戸分と定めたものである。
 区画測設により殖民受入が進行(次項参照)していった結果、本町方面では、さらに周辺原野の区画測設が実施され「国有未開地処分法(明25)によって貸下下される事になった。

 明治33 芭露、計呂地、床丹各原野の区画
 明治34 イクタラ原野の区画
 明治36 サナブチ、白滝画原野の区画
 明治41 信部内、芭露(東・西)、フミ各原野の区画
 明治43 芭露原野の増区画
 明治44 芭露(東・西)原野の増区画及びシブシ川沿い原野の区画
 大正 3 計呂地、床丹各原野の区画


区画殖民地の処分  区画創設された湧別原野は、「北海道土地払下規則」(明19・8)により、明治25年に貸下出願の募集を開始したが、湧別原野については「北海道通覧」に、

 湧別原野は遠近伝唱して其沃土を認むる所、己に常呂原野と共に殖民課の区画を了へ、1区9万坪の井区を成せるも、未だ土地の貸下を行ふを得ず、25年出願人幾百を以って数ふるにも拘わらず、調査若しくは割当の運びとならざりしは出願人の遺憾とする所なり、柳該湧別原野は上川道路の支線を貫くあり、且つ鮭魚及鷲鳥の群来多く、漁猟者の目する所たるは其の評判を博する一原因にして,該原野の交通殖民上に好位置たるは疑いなき事なり、将来の農事は蓋し最良の発達を得ずべきを信ず。
とあるように、人気や評判とは裏腹に実績は予期以下であったらしい。 実効が上がったのは翌26年からで、貸付方法が次のように改正をみている。

明治26年3月24日
北海道庁令第5号
明治19年8月当庁甲第8号布達北海道土地払下規則施行手続左之通り改正明治26年4月1日より施行す
   北海道土地払下規則施行手続
 第1条 規則第3条に依りて貸下くべき土地は当庁に於いて区画を施設し毎年公告すべし
北海道庁告示第220号
 明治26年3月北海道庁舎第5号北海道土地払下規則施行手続第1条第1項に依り明治30年より貸下くべき区画地左の如し
 但し出願期日及び其心得方は追て告示す

明治30年2月7日
北海道庁告示第23号
 明治29年12月北海道庁告示第220号区画貸下に付いては明治26年3月北海道庁舎第5合北海道土地払下規則施工手続に依る外尚左の通り心得へし
 1、各原野出願期日及土地引渡期日は別表の通り之を広む
 2、土地貸下願書は左記の個所へ差出すべし
   但し北見天塩両国原野土地貸下願書に限り該方面に殖民課員出張中、該出張員に差出すことを得
 3、貸下地積は1戸に付1区画即ち1万5千坪を標準とす、2区画以上の貸下を必要とし其起業方法確実者には詮議の上特に之を許可することあるべし
「別表」区画地出願期日及び土地引渡期日(注・該当分のみ)
 原野名     出願期日     土地引渡期日
北見国各原野 4月1日以後   5月1日以後

この規則改正と関連して、明治30年4月1日から「北海道国有未開地処分法」が施行されて、両制度が連動するようになった。 本町方面の貸付告示の経過をみよう。

 明治29 湧別原野貸付告示(12月25日)
 明治34 芭露、計呂地、床丹各原野貸付告示
 明治35 イクタラ原野貸付告示
 明治37 サナブチ、白滝各原野貸付告示
 明治42 信部内、芭露(東・西)、フミ各原野貸付告示
 明治44 芭露原野増区画貸付告示
 明治45 芭露(東・西)増区画、シブシ川沿い各原野貸付告示
 大正 4 計呂地、床丹各原野増区画貸付告示


なお、北海道土地払下規則の改正施行に伴い、農業資本導入本位の受入に変動が見られるようになり、従来資本の進出に対しては無制限に貸下げられた大地積処分に制限が加えられ、開墾目的は150万坪、牧場目的地は250万坪、植樹目的は200万坪の上限が定められるいっぽう、府県からの単独又は団体移民(自費渡道者)には汽車賃、船賃の割引を行い、土地は無償で貸与するとともに、貸与期間中(1戸分5年以内)に開墾検査を行って、成功者には無償で付与する仕組みとなった。 つまり自作農創設の色彩の濃い殖民地政策がとられるようになった。

国有未開地処分法  ここで土地払下規則と関連した「北海道国有未開地処分法」にふれなければならない。 この法は、殖民地選定事業の成果をふまえて整備されたもので、概要は、

 「開墾牧畜若しくは植樹に供せんとする土地」は起業条件付売払いとし、開墾に供する土地は500町歩、牧畜に供する土地は833町歩、植樹に供する土地は666町歩以下と、用途別に貸付面積を定めた他、貸付期間も5町歩未満5年以内、10町歩未満6年以内と、土地の種類や面積などにより細かに規定されたものであった。
 また、予定存地制度が設けられ、移住開墾希望者30戸を以って移住団体を組織し、1ヶ年10戸以上迄の移住計画を立てた者に対しては、1戸5町歩の割合で区画地を予定存置して移住者の便宜に供するなど「北海道移住民規則」の制定とともに、移民誘致策の強化が図られた。
 明治41年この法が改正され「自らを耕作を為さんとする者に為に、土地の区域を限与す」など、本道拓殖の進展に即応して自作小農創設への転換を図った。


というもので、未開地開放による、移民誘致は本道開拓の根幹であったことから、道庁の移民募集の宣伝も力の入ったものであった。 移住民規則にもとづく、明治30年代の「移住民心得書」には次のように書かれてあった。

大体の注意
 北海道に興する事業多く、且つ大抵の業務に従うも府県より利益多し、然れども移住の決心確実ならざるか又は本道の事情を知らず、目的方法を定めず移住するときは早速に其身に適する業を得難かるべく終には所持の金品を徒費し、甚だしき困難に陥る事なしとせず,故に先ず事情を調査し目的方法を定めて移住し、概に移住したる後は耐忍勉励その事業に従て必ず目的を達するを期すべし。

状況の調査
 北海道の状況は道庁より各府県郡区市役所町村役場に配布し置ける書類に就き又は信用すべき概移住者の報告等によって、之を知るべし尚不審の廉は道庁又は北海道協会又は信用すべき先移住者に問合すべし、梢々大なる事業に志す者は自身若しくは当の代理人渡道して実地に就き取調ふるを要す。

単独移住
 本道の事情を熟知する者は格別、其地はなるべく信用すべき先移住者の知る人をたよりくると安全とす、又家族を同伴し相慰め相励むこと肝要なり、然れども経費又は事業の都合によりては壮者先ず移住し業務の基礎略定まりたる後家族を招くも可とす。

団結移住
 数戸以上相纏りて移住するときは主々の事に大なる利益あり、殊に未開の原野に入り開墾を成さんには団結一致相励ますときは労苦を忘れ識らず知らず事業の捗取るものなり。

府県知事の証明
 移住し土地の貸付を得んと欲するものにして府県知事の証明を受るときは他の出願者に先立ち土地の貸付けを得るの特典あるを以って単独移住者と雖ども証明書を得て携帯すべし。

汽車賃 汽船賃
 内務省に於いて本道に移住する者のため、汽車賃汽船賃の無賃割引券を製し、府県庁及び郡区市役所に配布しあるを以って,移民は其官公署に付、之が下付を請ふべし、若し住所を有する地に於いて割引券を受くる事能はざるときは旅行先の前記役所に於いても之を請求することを得べし、而して此の割引券を携帯する者は移住の往路に限り、当庁所管の鉄道及び北海炭鉱鉄道株式会社の鉄道は無賃、又は逓信省所管の鉄道佐野鉄道株式会社の鉄道及び日本郵船株式会社本道沿岸航路の汽船は5割引、其他各鉄道汽船等は1割5分引、2割引若しくは3割引なり、委細は明治31年内務省告示第9号を看るべし。

旅装
 旅行の支度は手落なきやう注意し、就中老人小児を大切にし冬期並に早春は防寒の用意を怠る可らず、携帯品は衣類家具は勿論職業用の器具と雖も破損し易き物又は荷嵩の大なる品の外は成るべく持参するを良しとす。

本道上陸後の注意
 本道中函館、小樽、室蘭、大津、釧路、網走、其他重要なる上陸地には管轄支庁警察署の吏員及び北海道協会員ありて、移住民に関する事を取り扱ひ、本道内に於ける汽車、汽船の割引を与え、割引の特約ある旅人宿、貨物運送店等を指定し種々の世話をなすが故に移民は之に就て総ての事を問合せば、便宜を得ること少なかからざらん。

こうした経過の中で湧別町別原野を皮切りに、次々に貸付告示された本町地域(前項参照)への入植状況は次のようであった。

戸  口 戸    数
(年度現在)
人                 口
年  度 1 戸 平 均
明治35 1,361 2,857 2,213 5,070 3・72
明治38 1,397 3,701 3,191 6,893 4・91
明治43 1,862 8,531 4・58

湧別原野の始動  土地払下規則の改正を転機として、未開地の開拓が本格化し、紋別郡が脚光を浴びるとともに、湧別原野の開拓も始動した事は前述のとおりであるが,参考までに、それを高知の推移でみると、

   紋別郡の耕地累年比較<北海道統計書>
 年  度  明治19  明治21  明治23  明治24  明治25  明治26  明治27  明治28  明治29
 面  積
 
単位・町
4・5 4・8 5・2 15・3 26・1 36・1 60・7 94・3 170・7

と言うように、明らかに明治24〜26年が転機となっていることがわかる。 いっぽうで社会環境の開発も次のように進行し、入植の進展と期を一にしている。

 明17 湧別駅逓所設置
 明20 網走警察署紋別分署設置
 明24 上川〜網走間中央道路開通
 明25 野上(遠軽)〜湧別間基線道路開通、網走〜紋別間電信開通、
      湧別郵便引継所開設、湧別警察仮駐在所設置 
 明26 4号線に真言宗説教所開設
 明28 真宗寺説教所と広福寺説教所開設
 明29 湧別郵便局で電信事務取扱開始、湧別屯田兵村設置工事開始、湧別神社創建
 明30 学田農場開設、湧別小学校創立、湧別屯田200戸入植
 明31 湧別屯田199戸入植、湧別〜紋別間道路開通、北湧小学校創立
 明32 小樽〜網走間定期航路開航し湧別が寄港地となる
 明33 湧別村農会設置、遠軽小学校創立
 明34 湧別港北海道補助定期航路寄港地に指定、網走警察暑湧別分署設置
 明35 芭露簡易教育所開設、7号線〜計呂地間網走道路開さく、学田郵便局設置
 明36 名寄道路全通
 明37 芭露原野14号道路開さく
 明40 計呂地簡易教育所設置、床丹駅逓開設、芭露原野14〜19号道路開さく、
      イクタラ原野道路開さく、湧別原野2号線道路開さく
 明41 上芭露教育所設置、川西分教所設置,計呂地道路11号まで開さく
 明42 北海道拓殖15年計画樹立、サナブチ原野道路開さく、生野教授場設置
 明43 芭露原野16〜23号道路開さく、東分教場開設、床丹特別教授場開設
 明44 芭露巡査駐在所設置
 明45 志撫子川沿道路開さく
 大 2 芭露東の沢および西の沢特別教授場設置
 大 3 信部内および志撫子特別教授場設置、湧別軽便鉄道ルベシベ〜生田原開通
 大 4 湧別軽便鉄道生田原〜社名渕(開盛)間開通
 大 5 湧別線鉄道全通、芭露郵便局開設、緑蔭特別教授場設置
 大 6 湧別亜麻工場操業

新天地を求めて  前項の社会環境の推移が本町開拓の経緯を物語っているが、実際にどんな経過で移住者が本町に入植したのであろうか。
 まず、明治25年春に来住した細田三作の談「和人6戸,土人8戸」<河野々談>の居住者が翌26年には「44戸、121人」と増加していることは、区画測設により兵村設置計画を含む開拓地としてクローズアップされた結果戸見られるが、25年当時の営農をしのぶ資料として、

 農業は明治20年字「ナホサキ」に移住せん徳弘正輝を以って開祖となせれども其農政経営に関しては総へて統計記録の徴すべきなく其結果の実際は調査するに由なし、越て明治24年佐渡人竹内文吉利尻より4号線付近に移住し一農園を拓き初めて組織的農業を経営せり、即ち初年には其作付3反歩にして1反歩は栗、1反5町歩は馬鈴薯、余の5町歩は大根とす<兵村誌>

とあり、また「河野々帳」には

 竹内文吉は単独にて26年より入り居れり、上野氏の来る時(注=明28)は唯竹内のみなりき

とあって、竹内文吉の来住年度が分かれているものの、先述の徳弘正輝の農場(農業資本家の誘致の項)と考え合わせると、当時の営農者は徳弘正輝と竹内文吉の二人に過ぎなかったことがうかがえる。 ここで、先述の徳弘正輝の農場について補ってみると、「河野々帳」(明29調査)に、

 徳弘正輝方村野正衛の話
貸付地9万坪の内、宅地1万坪成功、成墾地拾野5,6町歩
1、牛25頭、 馬2頭、 豚4頭、 新墾再墾各一基、 ハロー2基
2、小作人7戸(内土佐3戸)、1戸小作地多きは1町2,3反歩少なきは4反歩


とあり、明治27年4月28日岩内から西1線に入植した土井菊太郎の、

私は明治25年渡道、岩内に居住していたが、当時北見地方を視察した宮崎寛愛が湧別は将来有望な地と力説、移住を勧奨するので同志13名と語らい移住を決意し、空知太(現滝川市)から徒歩で、中央道路の悪路を荷物を背負って苦労を重ねて現地にたどり着き、開墾に着手したが、はじめのころは主食物を確保するため徳弘の概墾地(約10町歩ぐらいあった)の一部を借り受けて耕作した。 この方法は大部分の入植者が行った。

と符合するし、明治31年9月入地した。三浦清助の「徳弘から2間で3反歩の耕地を借りて裸麦を栽培した」という話は、土井菊太郎の談話の末尾と符合する。
 次に「新天地を求めて」その後来住した先人の入植を記すが、屯田兵に関することは次項にゆずり、一般に住民についてみると、

 明治27年高知団体(秦泉寺広馬ら10数戸)、広島県人(河井豊吉が10数戸)が川西方面にら移住、翌28年に礼文利尻団体(池田関太郎、上野徳三郎=札幌農学校出身=ら6戸)が2号線に、高知団体(西沢収柵ら7戸)と徳島団体(田村熊三郎ら数戸)が川西に、渡辺精司ほか45戸と横沢金次郎ほか20戸が4号線付近に来住、引きつづき石川、福井、徳島の各県から来住するものが増加し、同年には浜市街方面にも茨木県から遠峰栄次郎ほか数戸が来住して漁業を始めた。<土井重喜述>
 明治29年、屯田兵屋その他学校、倉庫、事業場、道路、排水工事等の起工があって・・・・北海道同志教育会が大地積の貸付を学田に受けて、信太寿之が管理人となり,山形,新潟や道内の岩内地方から多数の小作農を募集(明30・5・7、約30戸入地)、ついで同30年5月27日には屯田兵第1陣200戸が来村・・・・<上湧別村誌>


と記されていて、川西方面への入地が先行し、屯田兵入村で急膨張したことがうかがえる。
 なお、湧別、4号線、川西以外の入植については、付録の「地域の開基と創成」にゆずるが、参考までに明治43年現在における原野別入植農家戸口をみてみよう。
原野名 戸数 人口 原野名 戸数 人口
湧別 1.534 7.011 イクタラ 90 409
バロー 153 713 サナブチ 41 192
ケロチ 31 145 フミ 13 61
シュブノツナイ床丹 1.862 8.531

 
新天地への旅路  開拓者の移住入地の道程は、交通機関の発達と大きくかかわっていた。 そのポイントを列挙すると次のようである。
 
 明治24年 上川〜網走道路(中央道路)開通
 明治25年 野上〜湧別道路(基線道路)開通
 明治31年 空知太〜旭川の鉄道開通
 明治32年 小樽〜網走の定期航路開始
 明治37年 小樽〜函館の鉄道開通
 明治40年 旭川〜釧路の鉄道開通
 明治44年 池田〜網走の鉄道開通
 大正 1年 野付牛(北見)〜留辺蘂の鉄道開通
 大正 3年 留辺蘂〜下生田原(安国)の鉄道開通
 大正 4年 下生田原〜社名渕(開盛)の鉄道開通
 大正 5年 社名渕〜湧別の鉄道開通

従って、明治31年以前の来住者は、ほとんどが海路を不定期船で,湧別まで来て上陸したが、当時の便船には「武州丸」「土佐丸」「東都丸」などがあった。
 湧別屯田家族の来道も陸軍御用船に仕立てられた武州丸(第1回)と東都丸(第2回)で行われているし、屯田兵と一緒に乗船して来住した移住者もあるとの記録がある。 明治30年に奥農場に入地した武藤末吉は、

 岐阜県洞戸村や近村の人々13戸は、家財を整理して引越し荷物をまとめ、米原に出て、米原から川舟で下り、一昼夜かかって敦賀、福井を経て三国港に集結した。 三国港に一週間余滞在して理洋丸に乗船、日本海沿岸の各港に寄港、小樽で小樽丸に乗りかえ、日本海から宗谷岬を経湧別へ・・・・岐阜を出てから1ヶ月余だった。
 湧別沖で艀に乗って湧別港に上陸し、浜湧別で民家に一泊、翌日、荷物を背に湧別4号線からテイネーにいたり、ここから磯舟でサロマ湖から芭露川をのぼって、農場事務所にたどりついた。


と伝えている。 ちなみに、当時の便船をしのぶ資料として土佐丸(武州丸とほぼ同じ)の概要をみてみよう。
 土佐丸は明治25年にイギリスで建造され、同27年に日本郵船が購入したもので、5,402トンの大型優秀船であり、屯田兵及び家族2,500名、荷物約4,000個が積まれた。

その後、小樽上陸〜旭川まで鉄道〜中央道路〜基線道路のルートや、函館上陸〜旭川まで鉄道〜中央道路〜基線道路のルートをたどる移住者もあったが、道路といっても刈り分け路に毛の生えた程度で苦労したという。
 しかし、函館線(函館〜旭川)に次いで、根室線(旭川〜池田)、地北線(池田〜網走)と鉄道の開通をみるにいたって、函館からの鉄道利用で野付牛(北見)〜陸路か、網走〜海路のルートをたどるようになった。
そのあたりを古老は、

 一行は青森〜函館を連絡線で渡り、函館から汽車で旭川〜池田〜野付牛に到着、4月というのに吹雪の中を留辺蘂、佐呂間を踏破して途中飯場で仮眠をとり、氷のサロマ湖上をテイネーに渡った。<明治45信部内入植の秋田団体>
 
 新潟〜直江津〜高田〜小山とまわり道をして青森に着き,連絡船で渡道し、汽車で池田〜野付牛を経て網走に到着した。 当時は湧別線も留辺蘂までしか開通していなかったので、網走から船でゆうべつへ向かうことになったが、天候が悪く海が荒れて網走で4日間も宿につく。羽目になってしまった いっしょにきた知人夫妻と私の家内、それに妹はいっときも早くということで、歩いて湧別に向かったが、私は年老いた老人と小さい子供をつれて宿で待機したのであった。 家内たちは常呂で一泊し、サロマ湖沿いに歩いたが、砂浜を歩く苦しさを後年まで語っていた。 わたしの方は4日後船で着き、港の施設がなかったので艀で上陸した。東の沢入植決定後、湧別から約8里の道を徒歩で入地先に向かったが、23号までは道らしかったが先は区画割の筋刈りをした踏みつけ道だった。 そんな悪路のせいで、東の沢28号の知人宅に着いたのは、日もとっぷり暮れたころで、まる一日がかりになった。<大2東芭露入地の梶井佐太郎>

 山梨県から汽車で青森〜函館〜滝川〜野付牛〜留辺蘂にきた。 当時は留辺蘂までしか鉄道はなく、 あとは徒歩だった。 若佐(当時は武士)まで歩いて駅逓で一泊し、佐呂間〜床丹と歩いて志撫子の兄武藤のところに着いたが、非常に心細く、ずいぶん長い旅だった。 汽車賃は全部で4円かかったが、移住証明があったからで、なければ12円ということだった<大3志撫子入地の深沢近則>


と、こもごも回想している。
難渋の自作農創設  府県の貧窮小農が土地取得に魅力をもち、生活の建て直しを夢見て渡道したものの、その多くは資力が乏しく、鍬一丁、裸一貫での開墾は遅々たるものであり、大志とは裏腹に挫折しかねないありさまであった。 また、一部には移住者の通幣として土着心の欠如が見られ、数年間でひともうけして郷里に帰る事を考える者がいたため、定住の足並みが乱れる事もあった。
 従って、初期入植者の中には生活自衛の為に、漁場労働に転出する者、あるいは兵村建設工事に従事する者が相次ぎ、土地を放棄する者も少なくなかった、このことは、明示27年に入植した土井菊太郎の、

 同行者13名も開墾の労苦に耐え得ず、数年たらずで各地に退散し、在村農家は私ほか1戸です。

という証言があり、同32年転出者の跡地を譲り受けて入地した、川西の小川清一郎が残した「開拓の記録」にも、現金所得がまとまったとみられる入植3年目の収入について、

 薪代金16円、雑穀代14円50銭、労役代8円30銭、鶏卵代40銭、合計39円20銭で・・・・・・・

と農産物販売額が総所得の37%に過ぎなかったことが記されているし、また、湧別原野貸付名義者が当初とは大半変動している事から、農業成立の基礎がいかに未生育であって、定着が容易でなかった事を物語っている。
 さらに、天災が開拓に及ぼした重大な影響も見逃す事のできない要因であった。 「殖民報文」に記録されているところでは、

 28年7月2日、9月15日霜害あり皆凶作、移民食料に窮し、渚滑製軸、屯田兵屋用材の伐採、漁場に出稼ぎ・・・・負債高知県民連署凡400円、徳島県人連署凡100円・・・・・

とあり、入植早々災害により借金に依存しなければならなかった窮状が、自立営業への大きな障害となり、脱落者を誘発する原因ともなった事が伺える。 その後、明治43年に上湧別分村があって、耕地面積は1,252町7反(特別税反別割賦課地権)と減少して、農業規模が著しく縮小したが、同45年の志撫子川沿いに次いで、信部内原野信太農場、計呂地および床丹原野の増区画などがあって、大正元年60戸、同2年111戸、同3年44戸の入植をみ、耕地も1,495町(大2特別税反別割賦課面積)と増加したものの、大正2年の大凶作や不景気などで、再び農業所得は減退し、漁場や造材に稼動して賃金収入に依存する窮状を強いられた。 このため、艱苦に耐えて開墾に成功した者の中にも、収益の乏しさから店借り、あるいは現金負債に依存し、あげくは累積する負債のため心血を注いで取得した土地所有権を明け渡して、小作農に没落する者も少なくなかった。 こうした災害と社会的経済不況の影響は、その後も断続的に累積し、昭和初期の不況につながるのであるが、ちなみに自作農創設が難渋した本町の軌跡を統計上からみよう。
年 次 大   3 大   8 昭   7 昭  10
種 別 戸 数 割合(%) 戸 数 割合(%) 戸 数 割合(%) 戸 数 割合(%)
自 作 ーー ーー 545 59・0 521 51・3 483 50・0
小 作 206 30・0 385 41・0 495 48・7 486 50・0
ーー ーー 930 100 1,016 100 969 100

また、もう一つの統計として「網走支庁管内拓殖状況一斑」(大3・12・31現在)に、本町の資料があるので、参考までに揚げよう。

 一、農業家戸数表
区 分 自   作 小   作 自 小 作
種 別
専 業 482 206 62 750
兼 業 56 106 53 215
538 312 115 965
 二、生産高価格表
   農産物170,464円  畜産物2,127円  工産物(ハッカ)13,182円  計185,773円

で、前表の大正3年の戸数とくい違いがあるが、農業生産18万5,773円を農家総戸数965戸で割ると、1戸当たりの所得は192円51銭となり,先述した小川清一郎の明治34年ころの収入に比べれば大幅増ということにはなるものの、月割りにすると16円04銭で,大正2年8円32銭、翌年7円28銭の米価(1俵60s)と考え合わせると、いかに少ない農業所得であったかがうかがえる。

 
(3)屯田兵村
屯田兵制度創設の経緯  18世紀の半ばごろから、ロシヤが千島や樺太に進出の矛先を向け、幕末ころから年ごとに紛糾の度がつのり、北辺警備の重要性は明治維新政府の政策の大きな柱となっていた。 そのため、旧藩の藩兵を駐屯させ(紋別郡は和歌山藩)、地域を差配させていたが、わずかな駐屯ではままならぬ時局の進展が憂慮された。 かといって、広大な北海道に満足な兵を駐屯させるのには、莫大な経費を必要とするため、当時の財政事情では、まかない切れるものではなかった。 それでは定住者から徴兵をということも考えられたが、経費は少なくて済むものの、開拓途上のこととて充足が難しい状況にあった。

 そうしたとき、たまたま明治維新によって職を失った128万人余りの旧士族の生活保障に腐心していた政府に、開拓使次官黒田清隆から「警備と開拓を目的とする屯田兵制度」の建議が明治6年12月に行われた。 建白書の趣旨は、

1、北海道及び樺太に於ける警備の必要なること。
2、北海道拓殖の必要なること。
3、屯田兵制度に依りて士族の授産を成し得ること。
4、屯田兵制度に依り警備、開拓に関する経費の軽減を成し得ること。

の4項目が柱となっていた。

 建白書は、直ちに太政官の認めるところとなり、翌7年10月30日に「屯田兵例則」の制定をみた。 以来この制度は訳0年間存続し、その間7,330余戸。 39,900人が移住し、7万町歩を開拓して、北海道の社会形成にいろいろな意味で、大きな足跡を残すこととなった。
 最初の屯田兵は、明治8年に琴似に入地しており、湧別原野への入地は同30〜31年であるが、明治32年を最後に屯田兵募集をやめていることから、湧別屯田は終期の屯田兵であったことになる。 「北見繁栄要覧」の一文をみよう。

 我が北見の如きは仮令土地膏腴なりと雖も、将た気候温暖なりと雖も本道の極北に位し、前は朔風凛たるオコツクあり、後ろは一帯の山脈是を限り交通は不便なり、港湾あるも冬季結氷して航海は壮絶すと聞き、移民の来住稀なる所に於いては最も便宜の方法と云ふべきなり、故に北見の屯田は僅かに2村、千戸、5,000人内外の殖民にすぎざるも、北見の殖民に貢献せしこと確かに10年を早めたり。
 顧みれば我が帝国は封建制度たりしこと700年にして、又鎖国主義なりしなり、是れ吾人の祖先は互ひに其郷里を離れ、子孫の為に新舞台を開拓するを忌み、猫額大の土地の祖先以来の業務を墨守し、粗衣粗食に甘んじ、以って子孫の長計とせるを以って,一葦帯水の本道を見るに恰も400年前の故人当時の米大陸を見るよりも尚ほ甚だしきの感あり、是れ20世紀の今日生産若しくは経済を以って雄を世界に振るはんとする文明国民の1日も忘るヽ能はざる所ならずや。
 北見の殖民は概に屯田に於いて確かに10年を早めたりとせば、余の茲に特筆するのも贊言にあらざるを覚ふ。


 なお、当初の屯田兵制度は失業士族を対象とした授産に目的が置かれ、士族世襲の特権を持続させるものであったが、明治23年に大改正があって、世襲制の士族授産方式は廃止されて平民(一般国民)からも応募できるようになり、農業開拓の充実が図られた。 従って、明治30〜31年に入地した湧別屯田は、族籍は明らかでないが、1府34県の出身者で構成されており、「北海道史」が指摘する

 平民兵村の職業別は、農業者によって9割を占めていたと見られる。

の範疇に入るわけである。 一般農民の屯田移住になってからも、屯田兵制度の根幹である兵農一如(半農半兵)の任務は変わらず、
 1、開墾耕稼に従事し
 2、武術兵事の訓練に従事し
 3、各種警備の任に当たり
 4、有事の日戦列に加はる

ことの義務が貫かれたのであるが、義務遂行については兵士のみにとどまらず、家庭にも今日令が及んでいた。

  兵員家族教令<抜粋>

1、汝等の服する屯田兵役は兵役相続の法ありて独り兵員の一身に止まらず延ひて子弟にも及ぶものにて屯田兵の一家は取りも直さず往昔の武門武士の列に加はりたるに等しければ兵員は勿論家族に至るまで専ら忠節を重んじ武勇を尚び廉恥を思ひ志操堅くし苟くも武門武士たる体面を汚す様の事之ある可らず。

6、上官の命令訓示は汝等をして忠勇なる軍人たらしめ善良なる兵村民たらしむる基本にして慈愛なる父母の其児女を撫育薫陶すると異らざれば兵員は勿論家族に至るまで上官は之を父母と心得上官の命令訓達は表裏なく従順に之を守らざる可ならず。

9、兵村は汝等が墳墓の地と定め子孫繁栄の基を開く場所にして汝等は乃はち其祖先なれば村内の風俗は極めて善良ならしめざる可らず是れ其祖先たる者の勗むべき義務なれば汝等は一人として各其身の行状を正ふし父母を大切にして長上を敬ひ老いたる者は之を恤はり幼き者は之を導き夫婦和ぎ兄弟互いに睦み村友に信を失わざる様心掛け一村として利害相同ふし緩急相救ひ全村恰かも一家親類に異ならざる如き良風美徳を養成する様心掛けざる可らず。

12、子弟の風儀は兵村の面目に拘はるのみならず将来の発達にも関するものなれば子弟の教育には最も重きを置き忠孝の道を重んじ武勇を尚び信義を守り礼儀を正ふし善良活発なる人とならしむる様訓言毎誘導せざる可らず。

15、毎月指定の日には説教所に至りて法話を聴聞して益々徳義心を養ひ養ひては全村老幼談合ひて親睦を図るべし。

 こうして、いわゆる屯田気質が醸成されたのであるが、大正3年の開盛渡船場の風景を、「北見旅行日記」(高倉安次郎)にみよう。

 此辺で出会ふ人大抵髭を生やしている。馬子も渡し守も鍬を担ぐ男も皆八字髭なり、屯田兵多きを以てなりと言ふ。

湧別屯田の創設  湧別原野に屯田兵が設置されたことについては、ちょっとしたエピソードが導火線となったことが「上湧別村史」に次のように記されている。

 この地がたまたま徳弘正輝氏の着目するところになって、その経営よろしきを得たことの実証が、屯田兵入地と関連が深いので氏について特記したい。
 氏は高知県土佐郡の人、明治13年近衛陸軍中佐であった。 時の網走郡長大木良房氏と東京で会い、北海道開拓状況を聞き雄心押さえがたく、翌14年春渡道し網走郡役所吏員となって開拓状況の調査指導に当たり、同年10月退官し、湧別川口の地に開拓の一歩を印した。<中略=前節の農業資本導入の項参照>
 以上の業績によって、土質、気候ともに移民の最適地であるとの認証を各方面に伝え、時の屯田兵本部長永山武四郎氏の来湧となって、湧別屯田兵入地の基礎を作った。
 明治39年北湧小学校分教場(現中湧別小学校の前身)開設に当たって、8号線角に敷地千二百坪の寄付をするなど,木村開拓の大恩人ということができる。


ともあれ、明治19年7月上旬の湧別原野の視察が、屯田兵本部長永山武四郎将軍の湧別屯田選定に大きく作用したことは事実のようで、同24年の区画測設のとき兵村予定地として4,314町歩余りが存置された。
 明治29年に野付牛(現北見市)とともに正式に兵村設置が定まり、兵村建設の運びとなり、区画に基づいて、兵屋、本部、倉庫、事業場、連兵場,学校などの建設と、道路および排水工事が行われたが、このときの道路設計の企図の壮大であった面影が、現在の湧別〜中湧別〜上湧別を結ぶ基線道路の中に残されている。
 明治30年から野付牛、湧別両屯田兵の入地が行われたが、北見方面は2兵村で5個中隊に編成され、次のとおりであった。

野付牛
第一中隊(端野) 第二中隊(野付牛) 第三中隊(相内)
湧別
第四中隊(15号線以南=南兵村) 第五中隊(同以北=北兵村)

 第1次の明治30年入地者は各中隊100戸(第2中隊のみ1戸欠)で、陸軍御用船で輸送された湧別屯田兵は5月25日港に到着した。しかし悪天候に災いされて上陸できず、船中に2泊後ようやく上陸し、長旅の疲れをいやすため市街民家に2日間分宿の上、29日に船中で抽選で定められた給与地の兵屋に入居したが、兵屋が工事の遅延で雨露をしのぐ程度の未完成の状態であったから、入居後直ちに手に覚えのあるものを中心に、兵屋の仕上げ作業に当たったといわれている。
 翌31年9月入地の第2陣199戸は、前年入地者の配慮もあって、完備した兵屋に入居することができ、第4中隊に100戸、第5中隊に99戸の配置となった。 兵村は密居制による集落形態になっていて,湧別屯田兵村の区割りも、南兵村が1〜3区、北兵村も同じく1〜3区に構成され、区ごとに自治的機能を有するものとなった。 また「兵村誌」に、

 屯田兵二給与サレタル土地ハ南兵村200戸分1,000町歩、北兵村199戸分995町歩、此外下士増給地20町歩<中略>各戸給与地ハ何レモ現役中二開拓成墾ナキ広野ハ忽チ美畑良圃トナリテ・・・・・・

と記されたいて、兵村周辺原野開拓の起爆剤となり、他の移民を促進する結果となった。

屯田兵村の特殊性  
給 与 年 限
区 分 1 人 1 ヶ 月 の 給 与
扶  助  米 塩 菜 料


 移住の月より
  満2ヶ年間
甲 類  玄米 2斗2升5合    45銭
乙 類  玄米 1斗5升    30銭
丙 類  玄米    9升    21銭


 第1期後
  満1ヶ年間
甲 類  玄米 1斗3升5合    30銭
乙 類  玄米    9升    21銭
丙 類  玄米    5升4合    15銭


 第2期後
  満2カ年間
甲 類  玄米    4升5合    7銭5厘
乙 類  玄米    3升    4銭5厘
丙 類  玄米    1升8合    3銭


屯田兵への土地給与と、その土地の開墾は、他の一般住民とは大いに異なり「屯田兵移住給与規則及屯田兵士土地給与規則」によって,強力な保障があったのである。
 土地給与についていえば、給与地5町歩(蜜居制のため6反歩は宅地として分轄)と兵居(住宅)17,5坪が貸与され、現役中に開墾を終え、服役満了とともに給与される仕組みになっていたし、移住給与については家具、食料、農具、種子など必需品の一切が官給される仕組みで、一例を揚げると、

 第十条 扶助米及塩菜料ハ1戸二付5人迄移住地到着ノ起算シ翌日ヨリ5ヶ年間左ノ区分ヲ以テ毎月給与ス但端日数ノ場合ニハ其月ノ日数ヲ以テ月額ヲ除シ給与スベキ日数ヲ乗ジテ給額ヲ定ム・・・・<前項の表が「左の区分」>

というように恵まれたもので、平たくいえば衣食住から営農資材にいたる一切が支給されたわけで、食料に事欠く一般移民とは比較にならない別格のものであった。 従って開墾の進歩度も著しく、他移民の追随しがたいものがあった。 明治34年大量の生産物を有効に販売するため、兵村に共販組合が結成されたことや、翌35年の耕作地が「全村の耕地面積3,116町歩の3分の1が兵村」<移民公報>というのが、その証左であり、単に耕地の拡大ばかりでなく,経営面においても進歩的な動きが見られ、村の農業全体に啓蒙的な役割を果たしたことがうかがえる。 このあたりを「北見繁栄要覧」の「湧別村の屯田」では、

 屯田は元来陸軍に属しても毫も拓殖行政の支配を受けざるも其方針の屯田たるより陸軍の保護及監督に於て頗厳粛に且つ規律正しく行はれ其開墾の如きは到底自由移民の企て及ばざる処なし。 且つ募集の当初より労役に耐えふるもの数人あるを捉びたりしを以って36年屯田解隊せるの時概に一大農村たるの勢力あり、今其勢力の一を示さんに,隊長一度び水田の利あるを見るや忽ち令を下して毎戸2反歩の水田を起こさしめ、其用水を遠く7里の上流より曳くことを命じたり其7里の感慨溝を設くるも総て軍隊的の作業の如く各戸主令に応じて是れに従事せしを以って忽ちにして滾々たる流水兵村中央を貫くに至り,賄って稲作の如きも初年より反当たり3俵以上に及び頗る有望の有様なりしに、幸か不幸か隅ま薄荷栽培の流行に推移し・・・・

と伝えている。
 もう一面の兵村の特殊性は「兵村」の呼称が物語るように、一般行政村とは区別された一種の治外法権的地区であったということである。 戸籍、地方税戸数割の徴収事務および教員人事の具申などを戸長役場で取り扱うほかは,中隊本部に執行権限が委任されていたわけで、兵村には査問会と称する議決機関が設置され、選挙による24名で構成して、中隊長の査問事項を決議し実行したのである。 しかし中隊長の権限は絶対で、査問会の決議に拘束されることなく命令によって撤回あるいは変更決議を強要出来る立場にあったことは、前々項の教令にみられるとおりである。
 さらに、国策による開拓先遣隊的責務を担った屯田兵に対しては、民主の安定伸長も施政として図られ、一般移住民ちくでは夢のような豪華な小学校の早期建設開校(明31北湧校)や、寺院の建立などが、群の計画によって急速に整備されたのである。
 従って屯田兵は、軍事教練と並行して開墾に専念することができたから、開拓成墾が明治36年ころにはほとんどの給与地に行き渡り、生産も増大して、自立農業の基盤が確立したのである。

 
屯田兵制度の廃止  屯田兵の募集入地は、明治32年の士別、剣淵を最後に完了し、制度そのものは開拓進捗の面で著しい成果をあげて、同36年3月をもって廃止され、兵村組織は解体されて一般行政区に編入されたが、屯田兵制度廃止には開拓の目的達成とは別に、もう一つの背景があった。
 それは、日清戦争(明27〜28年)の勝利による軍事力行使の自信のほどと、戦勝による軍部の台頭で軍備拡張が志向された結果、極東戦略の一環として北海道に陸軍第七師団が創設されることになったという事柄から、それを機に屯田兵という特殊兵役を解消して、一般徴兵制に組み入れるというものであった。
 兵村の廃止と一般行政区化は、本町の農業の進展に指導的機能と好影響をもたらすものではあったが、旧兵村居住者は概述のように、営農基盤が確立し、生活の目安が付いていたので、村づくりに対する意欲が旺盛で、行政(村政)に対する関心も強く、2級町村制施行(明39)第1回村会議員選挙では、定数12名中8名を占め、村政の主導権を握るようになり、それが後の上湧別分村の導火線となったのである。

(4)新山時代の生活
貧困な経済力  明治14年に政府が財政立て直し策として、紙幣の流通整理を実施したことから、国内経済は極度の不振に陥り、農村を襲った不況は、前年の13年に石当たり9円23銭から12円11銭であった米価を、16年には5円49銭まで暴落させてしまい、府県の小農は租税負担にも耐えられず、所有農地を手放して小作農に転落するという恐慌状態を現出していた。 これが、北海道開拓(一般移民)を志向させる誘因となったわけである。
 従って、生活基盤を失った小農民は、移民募集に応じて小作移民となったり、あるいは未墾地貸下げを受けて来道するようになったが、初めから経済力の乏しい世帯を背負っての開拓であったから、否応なしに苦しい生活を余儀なくされたのであった。 前々節の項で概述したように、自主自立、自給自足をたてまえとした植民政策のため、移住費の一部補助(乗り物賃割引)以外は何一つ助成の途がなく、屯田兵の項で記した事情とは雲泥の差があった。
 開墾の第1歩は雨露をわずかにしのぐ粗末な着手小屋が現地に建てられ、郷里から持参した概墾地用の幼稚な農具を頼りの作業であった。 加えて厳しい気象条件と孤立にひとしい生活環境の寂漠とたたかわなければならなかった。
 明治42年に東芭露に入植した中原庄兵衛の妻女が、

 盆も正月もなく、ひたすら自給生産をあげるために開墾に努力し、一日も早く金を貯めて故郷に帰ることを考えた。

という述壊を残しているが、当時の入植者の多くが抱いた偽らざる心情であったと思われる。 また、いかに金銭が不如意であったかの一端は前々節の項で概述したとおりであるが、東に入地した人々も、その、苦しさを

 どうしても買わなければならないたばこも下級品のきざみが常用され、酒も焼酎が主として用いられ、所得の少ないことから生活は極度に切り詰められていた。 それども、なお開拓の後れから自給自足の生産にはいたらず、当時の反当り麦、稲きびで1俵半、馬鈴薯で十数俵程度であったようだ。
 大賞の初め頃、湧別浜に貨物積取り船が着くようになり,貨物の荷上、積込みの仕事に我先に駆けつけて男も女も働いた。 砂原を荷を背負って倉庫へ運ぶ難儀な仕事で現金収入を得たが、米1俵1銭、酒樽1本(4斗)2銭、1日働いて25銭から30銭程度が労賃であった。<八木仙ェ門談>


と回想している、参考までに、「もし金銭消費をしたならば」と仮定して、明治25〜30年ころの物価をみると、

 米1俵4円50銭、塩1俵90銭、黒砂糖1斤8銭、白砂糖1斤2銭、上酒1升45銭、馬鈴薯1俵13銭、薪1敷30銭、宿泊料30銭、昼食1食15銭、醤油空樽6銭、4斗空樽35銭、大鮃1貫3銭、鱒1尾5銭、鮭1尾35銭、ちか石油函1箱25銭、こまい同12銭、川西〜市街間薪1敷運搬賃15銭、農業労賃食付1日30銭、土方労賃弁当持45銭<川西60年のあゆみ>

という市況であったから、思いのままに消費できる境遇には程遠い生活を強いられた開拓者の苦衷をしのぶことができる。

   住居と光熱  開拓者の最初の住居は、掘立ての「おがみ小屋」(着手小屋)であった。 間口2間×奥行3間ぐらいがふつうで,間仕切りもなく,入口にはむしろを垂らし、屋根や壁は笹や刈草を木の皮で、丸太の柱や桁にゆわえたものである。

 入地したら刈住まいを建てた。 この小屋は拝み小屋とも言って、林の中から適当なところに股のある木を適当な長さに伐って来て、股を上にして掘った穴に建てて柱にする。 この股に木を渡して桁にして、其の上に梁をのせ、だんだんと組み上げて屋根をふき、草を刈り集めて壁の代わりにして作り上げた住居であった。<川西の入植者>

は、その。一例である 屋内は畳みも敷物もあろうはずがないから、手製の割り板を並べ、その上に草を敷き、さらにはむしろをしいてがまんしたものである。 こうした粗末な住居であったから、冬には、

 しばれる夜は布団の襟がはく息で真っ白にこおり、吹雪の夜など朝目を覚ますと吹き込んだ雪で布団が覆われる事も度々だった。<東の入植者>

というありさまであったし、狐が戸口をのぞくことも珍しくなかったという。
 また、暖房は屋内中央に大きな炉を作り、年中薪を燃やす焚き火で火種と暖を保ち、炊事にも用いられた。 困ったのは風の強い日の煙で、ふだんは草屋根からぬける煙が屋内にこもって、目を痛めることが多かったという。 
 灯火はカンテラやランプが用いられらが、油が貴重品であったから、極度に使用を節減し、焚き火のあかりでがまんするという無灯火の家も多かったという。 土台付き柾葺きの家がみられはじめ、薪ストーブが使われはじめたのは、大正年代になってからのことである。 古老の言い伝えに次のような話がある。

 暖炉裏の焚き火は炊事にも暖炉用にもなった。 灯火もカンテラ(サメ等の魚油)よくて2分蕊といわれる石油ランプで年間石油1缶(18リットル)とは使わなかった。 また、ガンビ(白樺の皮)を火種にしたものだし、マッチ1本もそれは貴重品だった。<芭露の入植者>

 被服類の調達  入植当時の衣服はほとんどが主婦による手製でまかなわれており、出身府県によって多少の差異はあったが、大人の衣服は、男が雲斎のモンペと木綿の袢天に巻伽袢(ゲートル)と刺子の足袋か草鞋(わらじ)の夏姿、冬季は赤毛布(赤ケット)を足に巻いて爪甲(ツマゴ)を履き、テッカエシという手袋を常用して作業をしていた。 女は和服にモンペ。 子供たちは夏が和服に下駄履きか草履履き、冬はそれに腿引きが加わり、履物も爪甲に変わるのがほとんどで、乗馬ズボンやセーター、メリヤス製品、ゴム靴、地下足袋などが出回るようになったのは、大正年代半ばごろからである。
 こういう状況であったから、主婦の裁縫や縫い物の仕事は大変で、雨の日や冬季間を利用して、1年分の衣料の手入れから刺子どくり、空俵をほぐしての草履、爪甲づくりなど、炊事、洗濯以上の労作であった。 従って、裁縫類(縫い物道具)は欠かせない嫁入り道具でもあった。 その、あたりを

 昔の冬の作業のときの服装はまったく変わったものだった。 帽子は目だし帽、乗馬ズボンに上衣(これは綿入れ着物で裾短で膝までのもの、綿をたくさん入れてある)、足の方は素足に赤い毛布を巻いて「ツマゴ」をはいていた。 赤い毛布も作業衣に作ってきているものも多かった。 冬の農村には赤い毛布がはやったわけであって、それからか田舎者ということを「赤ケット」(ケットとは毛布のこと)といったものである。 つまごをはかない者はぼっこ足袋(木綿を何枚も重ねて手縫いしたもの)であった。 その、頃は毛布というようなものはなかったので手袋も殆ど家庭で、冬のスキー手袋のようなものをつくった。 今はく夏の地下足袋もなかったから、これも木綿で一切手縫いでせっせとつくったのである。 その頃の主婦は冬のうちに1家族1年中の履物、手袋を作って茶の間の壁に下げていたものである。 夏学校へ通う子は「わらじ」か「ぞうり」で、みな自給自足であった。<信太農場の入植者>
 
 厳しい労働の明け暮れで、衣服は傷みが早かった。 男子は下着に白木綿の襦袢と黒か紺の股引き、冬はネル地を用い上着には縞木綿の袢天(冬は婦人)、女子は木綿縞織の筒袖の着物だった。 入植当時山形県出身の婦人が用いていたモンペを見た他県の人達が暖かさと作業の便利さを知って、たちまち全戸に普及して後にスラックスが用いられるにいたるまで長く愛用された。 履物は自製の足袋に外出時には下駄、草履が用いられ、冬は米俵をほぐして造った藁靴,ツマゴを赤ケットと呼ばれる毛布を足に巻いてはいたので、春の雪解けともなるとビシャビシャに濡れて困ったものだ。 畑仕事には自製の「刺し足袋」をはいたが、これは冬中に女たちが働く者1人に2,3足分を造って春の撒き付け作業に備えなければならず、ほの暗いランプの下に集まって農作業衣や子供の着物のつくろいとともに過重な労働だった。<東の入植者>

と伝えられており、湧別町史(昭40刊)にも次のように記されている。

 入植者の着衣は出身地の特色を持ち、暖地の軽易な着流しはおよそ防寒的には不向きであり、また女子の襷掛けは荒々しい野仕事にはまったく適せず、いつとはなく東北流のモンペに筒袖式が労働着として常用されるようになった。
 機織は明治末期盛んに行われた。 衣料の自給を目的としたものとはおもわれないが、農会の養蚕奨励策により兵村落でも手がけるものがあったが、その結末は明らかでない。 同じ頃本町でも国枝善吾が真綿の製造指導に部落巡回したということから、製品は自家用に供されたものと思われる。 これを唯一の自給衣料とし他の一切は購入品で賄われた。 それもほとんど原反によるもので手甲、ボッコ足袋、シャツ、股引き衣類のすべては婦人の手で作られた。 ために夜間といえでも仄暗いランプの下で針仕事は絶えることがなかった。


食糧事情  すべてが自給自足の状態で、主食は麦や稲黍や豆類などの穀物が当てられ、季節的には馬鈴薯、南瓜、玉蜀黍が補助蜀として多く食された。 中でも南瓜は多食すると皮膚の色が黄色になって、医者に黄疸と誤診されたという笑い話もあり、俗に南瓜色と呼ばれて、農家の食生活を象徴する言葉でもあった。 水田耕作がはじまるまでは、米食は正月、盆、病気以外には、ほとんどなく、通学児童の弁当もそっけない麦飯や馬鈴薯であって、恥ずかしがって弁当を嫌うものもあったという。 また、何かの祝い事のご馳走には、稲黍餅か手打ちうどんや手打ちそばが喜ばれていたが、その粉は手回しの石臼で根気よく摺り挽きしたものであった。

 副食のたぐいは、畑でいくらか栽培される野菜もあったが、自然の恩恵である山菜や魚が豊富であったから、手っ取り早く食用にすることができた。 野生のキノコ、フキ、セリ、ワラビ、コゴミ、ゼンマイ、ウド、アイヌネギ、ミツバ、ヨメナなどは夏季の食膳を彩り、ワラビ、ゼンマイ、コゴミなどはゆでて乾燥させ、フキ、ウド、ワラビなどは漬けて冬の貯蔵食にする知恵も生まれた。 また、ヨモギやクルミを嗜好食品にするようにもなった。
 サケ、マスのほか、ちょっとした小川にもいるドジョウ、カジカ、ウグイ、ヤマベなどはかっこうのh蛋白源で、焼いたり、塩したり、干したりして年中食前に供されたが,海や湖が近いので安く魚を求めることができたので、動物性蛋白源には事欠くことがなかったようである。 また、野兎、時には熊肉も食卓をにぎわしたという。 2,3の古老談を揚げよう。

 穀類はすべて手搗によって精白して食用に供した。 馬鈴薯はいつのころから冷凍して(自然の寒気で)干し上げ製粉してだんごにして食され、長く貯蔵できることで・・・・・春先堅雪となる頃、日中に畑の雪を踏み固めて土中に貯蔵した馬鈴薯を掘り上げて並べて凍らせ、日中の陽光で解けたら表皮をむいて川水につけ糸に通して吊るして干し上げる。 こんな作業が、当時はどこの家でも行われ、春先の風物詩だった。 干しあがったものは臼や引き臼にかけられて製粉し、だんご、まんじゅうになり、独特の風味とシコシコした歯ざわりで喜ばれ単調な麦飯の食卓を賑わしたが、なかなか手間がかかった。 幸いに海が近く、魚も豊富に取れて安く手に入った。 移住当時、魚の安さにほれ込んで大きな大鮃を買い込んでいろいろな料理をして食べたが、とても食べきれず困った揚句そぼろに加工して使ったこともある<菅原リナ談>
 東農場から離散した人たちは、自給食料を得るようになるまで、ずいぶんと食糧難に苦しんだが山野のウバユリやフキ、川のサケ、マス、イトウ、チカやさらには兎や狐など、手近な獲物は何でも食べて飢えをしのいだ。 春から夏のフキは近くにいくらでもあったがウバユリは付近一帯を採りつくして円山方面にまで手をのばしたほどだった。 芭露川ではサケ、マス、イトウをを釣ったり、ヤス(小刀を棒にむすびつけたもの)で突いたりして獲ったが、今のように密漁だといわれることもなかった。 在るとき5尺余りもある大きなイトウを突いたときは、兄と二人して大格闘の末ようやく水揚げした。 また、蚊帳を網にしてチカを獲ったときは、わずかの時間に石油箱に10パイほどの大漁のことも合ったし、猟銃やワナで兎や狐も獲ったが、フキだけで一年を過ごした家、ウバユリの過食で顔がむくんだ人、塩だけの調味で耐えた人など、大変な苦労だった。<武藤末吉談>


ちなみに、開拓初期の調味料の調達は、定期船が湧別港に着くたびに、石油、布地、農具などあわせて、味噌、醤油、砂糖などを求めに現在の港町へ出かけ、必要量を買い溜めするのが常であった。

開墾と営農  伐り倒す、刈る、焼くの3つが開墾の第一歩であった。 鬱蒼と茂る原始林の大木を一本一本伐り倒し、もつれ、からんで繁茂る下草やつるを刈り払い、木は素手や棒のてこで集積して焼き、小さな雑木と草は野火を放って焼き払ったのである。
 従って初期のころは「火と煙は見えない日はない有様」で、時に山火の恐怖に発展することもしばしばである。 いまは廃校になっている東湧小学校の沿革誌には、

 ナラ、ヤチダモ、ハンノキ、シラカバ等の密林で、それを伐り、駄鞍馬に積んで市街地に持っていった。 薪1敷25銭、木炭1俵20銭・・・・

とあって、ささやかな現金収入の道にもなっていたことがわかる。

焼き払ったあとは、木の株の間を鍬で一鍬一鍬たがやし、蒔き付けの床を造成するのであるが、入り組んだつるのような根に妨げられて、なかなか根気のいる作業であった。 今では想像もつかない話であるが、夏は蚊やブヨが多く,肌を露出して作業をすることができないので郷里から持参した蚊帳(かや)を切り取って覆面し、鉢巻や腰帯に木綿の火縄ををつけてつけてくすぶらせながら仕事をしたという。

 作付けした作物を川西の例にみると、明治30年ころは馬鈴薯、裸麦、大麦、栗、黍類玉蜀黍と自給食料の色彩が強いが、同40年ころには馬鈴薯、裸麦、大麦、栗、菜種、黍類、玉蜀黍、薄荷、大豆、小豆、色豆,ビート、亜麻と販売換金作物が仲間入りしている。 しかし、概述してきたとおり未成熟な営農環境にあったから、

 先人入地当時より営農が安定するまでは夏は農業、冬季には各地の造材山の伐採搬出等のいわゆる山稼ぎをする人が多かった<上芭露の入植者>

というのが常態であったという。 こうした苦闘の影には次のような背景があった。

 本道農業の特殊性は経営面積の拡大に伴い、畜力による大農具を必要とし、耕馬の導入、農具の改善充足は営農上かくことのできないものであり、また寒地生活には衣類その他購入品に依存しなければならないことが多く、金銭所得がなければ生活は成り立たなかった。 したがって入植早々道庁奨励作物外の薄荷が、本町住民によって商品作物として栽培され、北見の開拓を促進しつつ名を成すに至った。 だが一般に普及を見るまでは耕馬やプラオ、ハローなどの大農具を購入するために、入植後4,5年の歳月がかかったといわれ、運輸条件の整わなかった本町は、生活物の市場性が低く農業所得の増大は極めて希薄であった。
 立地条件に制約された農家経済は金銭支出を極度に圧縮し、自給自足によらなければならなかった。

 
天災とのたたかい  極端に気象条件に左右される原始農業は、常に天災に遭遇する宿命を負わされ、開拓者は絶えず厳しい自然との対決を強いられてきた。  低温積雪地帯にある湧別原野では、霜害、風害、水害、冷害など枚挙にいとまがないほどであった。 初期入植者は寒冷地農業の適期を知るはずもなく、「作付後レシ為及新墾故霜害多々アリキ」<明29・河野野帳>とあるように、作付の適期を誤って晩霜や初霜期の被害を蒙った記録が残されている。

 わけても脅威であったのが湧別川水系の洪水で、入植後間もない明治31年9月の大水害について「川西60年のあゆみ」には、

 湧別川下流々域の低地川西の低段は,大水の度に上流から水によって運ばれた土砂が堆積して形成された土地であって、開拓初期においては大水の被害をやはり度々受けたものである。 当時はまったくの原始河川であって、川は幾曲りし其の曲がったところは流木によって堰かれて洪水を起こしやすい状態にあった。
 明治31年9月の大水害は湧別開村当時としては被害の大きいものであった。 当時開拓者は設備不完全な開墾小屋に居住していた有様とて、川西原野平均1bの大洪水には如何程の苦難を味わったか想像もできない。


とあり、同34年9月6〜10日の降雨増水については「湧別小学校沿革誌」に、

 昨夜来の雨は豪雨となり出席90名,欠席42名、引きつづき7〜10日湧別川増水交通壮絶した結果、11日は出席77名、欠席55名で休業

と記録されているほか、水災の被害は頻繁にあったと伝えられているが、湧別川流域農業の発展を著しく阻害したことは事実である。
 また、サロマ湖およびシブノツナイ湖が、はる4〜5月の融雪増水期になると、オホーツク海への開口部が原始のままであったから思うにまかせず、毎年のように湖岸に氾濫し、シブノツナイ湖の場合は、現在の国鉄、国道付近まで冠水したという。

 なお天災の詳細は治安防災編参照のこと

野獣とのたたかい  北海道の開拓にはつきものの野獣の脅威は、本町とても例外ではあり得なかった。それまで野獣の安住の領域であった原始林への人間の侵入に対する威嚇と抵抗であったのかもしれない。 特に人命にかかわる熊(ヒグマ)の横行は恐怖であったし、熊、狐、兎、鼠、鹿による農作物の被害や、熊、狐、イタチなどによる家畜類の被害も、頭を悩ませるものであった。 「芭露80年のあゆみ」には次のように記されている。

 空をおおうような大木の森に囲まれ、熊笹の密生する原野には、山ブドウ、コクワなど豊かな実りがあった。 小川にはザリガニが棲み、秋の芭露川にはサケ、マスの群れが川いっぱいにのぼってきたという。 まるで熊の天国のような領域だった。 このように熊の食料が豊富だったせいか、不思議と人間の被害はなかった。
 それでも玉蜀黍畑を荒らされたり、大正時代になってから牧場の馬が被害を受けたことは再々あった。 ときには開拓小屋の窓に熊がニューッと頭を突っ込んだことがあり、恐れおののいたという話も残っている。
 また、日中でも軒先近くまで鹿、狐、狸がのこのこ出てきて鶏小屋を襲ったこともある。


また、熊狩りの名人といわれた茂手木源六について茂手木一夫は、次のように回想を伝えている。

 山稜地でも、芭露の三角点から佐呂間にかけては、たくさん棲息しており、一週間〜10日も野宿し遠くは十勝のほうまで出かけていた。
 山に食べ物が不足すると人家近くに出没して、燕麦畑や玉蜀黍の畑を荒らすが、日暮れによく出てくる修正があって、9月にバローの沢の玉蜀黍を取りに行ったら熊がいて、一発でしとめることもあった。 昭和4年には一冬に9頭(おもに西芭露)もし止めたが、雪の積もる間近にならないと穴ごもりしない性質があることが分かったので、穴ごもり一歩前の雪の足跡追ってうまくやれたと聞いている。
 これは戦後のkとだが、計呂地沢裏に入地した戦後開拓の木村さん(隣家まで800bくらい)の娘さんが、通学の途中熊に出会い、恐ろしさのあまり3〜4日も学校を休んだという話もある。



第二章 緊急開拓

(1)集団帰農施策
戦災疎開者の移住  太平洋戦争(自身はこの戦争を大東亜戦争という)の戦局が悪化し、国内の大都市が無差別空襲の危険にさらされ、食糧難が深刻化するに及んで、政府は昭和20年3月に「都市疎開者の就農に関する緊急処置要綱」を発表した。 これは、それまでの都市人口疎開政策(学童疎開も含めて)から一歩進めて、恒久的就農疎開制度へと強化したもので、食糧難と被爆の危険解消を一挙にねらったものであった。

 このため同年5月に、東京の各交番に「戦災者北海道移住相談所」を設けて募集を開始し、されに同年6月19日には全国の戦災大都市にこれを拡大し、入植地は強制的に北海道を指定した。 これを受けて北海道庁でも「戦災疎開の救済対策」をたて、終戦前後に東京、京都などから1,800戸、8,900人の集団帰農者を迎えている。

 緊急かいたくという名のもとに、半ば強制的に北海道に送り込まれた帰農者の移住は、7月末から8月初めにかけて第1陣の動きがみられたが、緊急処置の目的も空しく8月15日に終戦となった。 しかし食糧難などから、この処置は終戦後も継続され、10月まで続いた。 本町にも11戸の受入割り当てがあり、10月末に京都府から9戸45人の疎開者が入植している。 一事芭露国民学校その他に収容され、ようやく選定された東芭露馬産限定地29町歩に集団入植したが、当時の状況では営農自立の将来性を考えるいとまもなく、

 敗戦直後、京都で空腹を抱えヤミ市をうろついている時、ふと目についたのがい1枚のビラ、それは国営緊急開拓事業の募集である。 およそ農業とは縁のない者たち・・・・入植となったが、入地前の基盤整備は何もできていなかった。 配給米を買う金も底をつき、飢えと寒さで不安は、敗戦の空しさと重なって頂点に達した。

という苦痛がおおかたであったという。
 ちなみに、当時の補助要綱(昭20・8・24)をみると、1世帯(5人まで)1ヶ月60円、1人増すごとに10円加算というものであり、土地は道庁の対策要綱により、国有地や公用地の無償貸付の道が開かれていた。

 
戦後開拓の背景  戦争終結の昭和20年、わが国は破局的な食糧危機におちいった(行政編参照のこと)が、その要因となったものは、次の諸点である。
 (1) 戦争による国土の荒廃
戦時下の無謀な増産による地力の減退と労力不足による土地の荒廃、さらには生産資材の欠乏による生産性の極度の低下
 (2) 天災による大凶作
食糧配給そのものが思うに任せぬ状態であったうえに、平年の食料必要量7,000万石に対し、この年の米の収穫量は3,900万石にとどまった。
 (3) 国土の縮減と人口問題
敗戦により樺太、千島、台湾、朝鮮などの主要食糧生産地を失い、国土面積が戦前の55%に減ったうえ、諸外国との貿易の道も絶たれたところに、推定700万人という外地からの引揚者や復員者を受けいれなければならなかった。

こうした状況の中で、全国的な開拓適地と未利用資源の開発が企図され、特に北海道の開発がクローズアップされた。 其の対策の経過を見ると、
 昭20・ 8 臨時北海道拓殖本部設置
 昭20・10 北海道戦後開拓実施要領制定、農林省に開拓局設置
 昭20・11 緊急開拓事業実施要領閣議決定

となっており、これが以後20数年におよぶ戦後開拓の幕開けとなったのである。
 緊急開拓の企図したものが、不足が深刻化する食糧の増産と、膨大な失業予想人口の収容を基調とする帰農対策であったから、目的には当然のごとく、

 終戦後の食糧事情および復員に伴う新農村建設の要請に即応し、大規模な開墾、干拓及び土地改良事業を実施し、以って食糧の自給化を図るとともに、離職セル工員,軍人その他の帰農を促進せんとす。

が揚げられ、これに対する北海道の計画規模は次のようであった。
 開墾面積 70万町歩
 入植戸数 20万戸(昭22・10改訂され11万8,000戸)
 実施期間 5年間(同改訂で10年間)
 土地改良 210万町歩
 配当面積 1戸当たり5町歩  耕地 3・5町歩  採草地 1・5町歩
 増産目標 米換算1,624万石

しかし、割り当て耕地3・5町歩が既存農家と同程度であり、全般に開拓は耕境外劣等地になることを考えると、最初から過小な配当であったといえる。

開拓者の資格   開拓者は戦災者、引揚者、復員軍人なら、誰でもいいというものではなかった。 優先順位が次のように明示されていたのである。
 (1) 左記に該当する年齢15歳以上の男子1人以上を有する家族および男子成年者
  (イ)軍人軍属の復員者
  (ロ)戦没者遺族および傷痍軍人
  (ハ)戦災者(疎開者を含む)
  (二)終戦に基づく工場、事業場等の離職者
  (ホ)終戦に基づく失地、外地等よりの引揚者
 (2) その他北海道庁長官が適当と認める者
 (3) 以上のほか「本道開拓の必要性を認識し、開拓に対し燃ゆるがごとき熱意と、開拓営農に耐え得る剛健な体力を有する者」を厳選する。

こうした基準で入植適格者とされた者は、
 (1) 指定された地区に、指定された日までに移住すること。
 (2) 其の地区の開拓計画に従って開拓事業に従事すること。
 (3) 入植後も知事が不適格と認めたときは、無償で地区外に退去すること。
 (4) その他入植までに負債を整理すること。

などを記した誓約書を知事に提出し、5〜50戸の団体を編成して入植した。 そして入植地としては国有地(国有未開地、国有林,旧軍用等官用地)、御料地、公用地、民有地(不在地主などの)などから農耕適地が選考された。

入植と離農の曲折  戦後開拓は緊急事業にもかかわらず、最初からつまづきをみせた。本道の初年度実績(昭22)は、入植1万5,000戸で計画の69%、開拓住宅建設はその22%の3,300戸で、国の「緊急開拓事業実施要領」(昭20・11)が示した、

 
帰農者の生活安定を図るため住宅の建設および交通衛生、教育施設の整備等に関する施設を優先的に取扱ふものとする。
はもちろん、これを受けて道庁が示した「北海道開拓者集団入植施設計画」(昭21・3)による、


  (1)市町村施設等無償貸与ならびに農家の借り上げによる仮宿舎8,000戸
  (2)5世帯収容の共同居小屋1万6,000戸
  (3)60坪の学校舎500棟
  (4)100戸以上の団地における診療所500棟
  (5)開拓者の生活、営農指導員を配置する世話指導所2,000棟
 
の20万人受入構想とは、おおよそかけ離れた姿であった。 これは、当時混迷の極みにあった社会経済情勢とはいえ、財政投資の渋滞が最大の因であったことを物語っている。
 すでに多数の入植をみた昭和24年の時点では、それまでの年次計画の60%に当たる2万7,000戸の入植をみているが、早くも40%以上が離農していたという裏目があった。 これについて「北海道戦後開拓史」は、

 
 
当時の入植者は農業にまったく縁のない都市の戦災者、引揚者などが多く、本道開拓に不適格なものが少なくなかった。
という理由を挙げているが、最初から農業経験者を選んだ施策ではなかったのだから、

 
 家も広い土地もあり生活も安定するといわれ、なれない農業ながら一生懸命開墾しようと夢さえ抱いていたが、いざ来てみると土地は山林傾斜地、家も水も電気もない。政府がどう考え、世間がどう思うか知れないが、応募前に聞いたのとまったく話が違う。 これでは、ひどい詐欺にかかったも同然・・・・<北海道戦後開拓史>

 
という厳しい告白が離農者から聞かれたのも、無理からぬことであったし、昭和24年の道の調査報告でも、開拓の対象地の多くが既存農家さえ見向きもしなかった不適地で、素人を多量に入植させたミスを認めるかのように、
 
 特殊な土壌が75%を占め、また10度以上の傾斜地は18%に及んだ。 さらに立地条件は長らく耕境外として放置された地帯が大半で、社会的投資がなければ農業経営が成り立ちがたいところが多い。

 
と報告し、同年9月に「地区開拓計画樹立の基本要領」を制定した。 この結果、農地の足りない農家の次、三男の入植も徐々に加味されるようになったが、これは、入植者の定着がはかばかしくないことのほかに、

 引揚者収容見通しの変化、国の財政事情、貿易の復活と外米輸入による食糧事情の緩和、物資の国内生産の回復などから、開拓投資効果の追及が強まり、いっぽう開拓者の自主性と地方自治における民主性確保について、GHQ(連合国軍総司令部)から指摘もあって、開拓事業は自作農創設を本旨とすべきであると、開拓事業の基本方針の修正が行われ・・・・・<北海道戦後開拓史>

 
効率の劣る開拓投資よりも土地改良投資を優先するという経過があったのである。 

 
本町でも、昭和20年10月いち早く拓殖係を新設して、帰農者受入業務を担当させるとともに、拓殖本部を設置して大網を樹立し、開拓地調査委員会を設けて、未利用地の実態把握に当たり、馬耕隊を編成して入植者の開墾を援助し、さらには世話指導員の委嘱など,適切な施策を講じた。 しかし、必ずしも所期の成果を挙げるには至らなかった。 これを昭和29年10月1日の開拓営農戸数でみると,次表の実績が記録されている。
 地区別   信部内   川 西    東    福 島   芭 露   東芭露   西芭露   志撫子   計呂地     計   
 入植年
 昭 20 9  7  16 
 昭 21 8  4  1  11  24 
 昭 22 8   16  5  6  3  1  2  7  48 
 昭 23 48 
(37)
1  10  1  1  61 
(37)
 昭 24 1  6  12  8  1  2  30 
 昭 25 1 
(1)
2  1  1  1  4  10 
( 1)
 昭 26 2  1  1  4 
 昭 27 1  2  1  6  10 
 昭 28 2  2  4 
 昭 29 1  2  1  4 
   計 51 
(38)
11  25  19  29  26  6  13  31  211
(38)
 ( )内は非助成開拓者

 右表のうち昭和21、22年についてみれば、入植した各72戸がかなり離農しているし、右表以後の開拓農業協同組合員数も昭和32年217名、同37年177名、同42年134名と減り離散を物語っている。 湧別町史(40刊)にも?末を次のように記している。

 
これらの入植者は従来放置されていた傾斜地、重粘土地,泥炭地など劣悪な立地条件に立ち向かい開墾に精神を傾注したが、未経験な都市帰農者には極めて困難性が伴い、入植を嫌って他業に転向するものも2,3あった。 22年開墾面積162町と1戸平均2町に達し、食糧自給程度の進歩はみたが、山間部入植者は立地条件の劣悪から生産性も低く、その後社会経済の安定とともに営農自立が困難におちいり、いわゆる不振地区として打開の途のない行詰りに逢着した。 32年助成政策の改訂後該地区入植者中、種々辛苦のうちに開拓した農地を捨て、累積した負債を整理して他に転向したものも相当あった。

開拓行政の打ち切り  昭和40年は戦後開拓の20周年の記念すべき年だったが、本町の開拓農業協同組合ほかわずかの組合以外は沈痛であった。 この20年間本道への入植者は44,000戸数えたが、定着率は半数を割る47%夫妻は1、000億円にたっするというありさまだったからである。 このため国や道では、開拓行政の打切りの布石として、「過剰入植者離農助成制度」(昭38)、「開拓者離農助成対策要領」(昭39)、「営農振興を期しがたい開拓農家に対する負債対策実施要領」(昭40)を掲げ、離農処置を軸とした開拓農家の整理に乗り出したのであった。 本町においても、次のとおり離農処置が行われている。

  昭38=6戸、昭39=8戸、昭40=15戸、昭41=19戸、昭42=5戸
そして昭和45年、「戦後は終わった」として開拓行政に終止符が打たれ、開拓農業協同組合の機能も終末を迎えた。

(2)関係機関および団体
開拓者連盟  戦争犠牲者とも見られる戦後開拓者は、既存農家とは異質の内実を持っていたので、同志的結合を図るべく、昭和21年10月に「湧別町開拓者連盟」が結成された。 全道的な連合組織の元に中央均衡にあたり、盟友の経済的、社会的地位の向上を目的とし、開拓を取り巻く諸問題解決のため、国費および道費予算の増額、各種建設工事の促進、農畜産物の価格安定、農業振興法の大幅改正、負債整理対策、税対策などに尽力した功績は大きかった。 歴代委員長は如沢次郎(1・3代)、村上益太郎(2代)がつとめ、異色な農民運動の歴史を綴った。

開拓農業組合の性格  昭和22年11月に「農業協同組合法」が公布された時点で、同年1月8日公布の「開拓者資金融通法運用要領」(次官通達)があった。 その第四項で、
 貸付金の目的から考えて開拓者が一致協力して営農に当たるよう資金が運用されることが適切であり、また、この貸付を契機として開拓者の団体が強化され、協同事業が促進されることであるから,法制的に個人貸付を原則としながらも、運用としては団体貸付の方法によることとして・・・・・・・・・・・
と、団体の実現を期待していたのである。 これによって昭和23〜25年に道内298組合の設立を見ているが、経過を二つの側面で要約すると、
(1) 開拓行政からの側面
 
開拓事業実施に伴う各種補助金、開拓者資金の受け入れ窓口としての必要性、さらに開拓農業協同組合を開墾、建設、生産、生活の共同体として育成強化し、開拓事業の達成を図ろうとする行政推進の手段としての色彩
(2) 開拓者側からの側面
 
開拓者自身が農民以前の姿にあり、開拓行政という枠の中で存在することから、一般農業協同組合の運営ルールの中では充全を期しがたいので、環境条件を同じくする同士により、独自の組織を持とうとする願望があり、一般農業協同組合のように、産業組合や農業会といった経験や基盤の上にたつものとは異質の性格を持つものであった。 

 異質の性格を組合発足後の運営面からみると、次のような顕著な事例があった。
  (1) 運営財源
 公然と認められた手数料などの確定財源がないため、補助事業や融資事業を対象とした賦課金に依存しなければならず、財源不足が常に組合運営を不安定にした。
  (2) 金融取扱
 開拓者資金をはじめ各種制度融資の貸付が組合を通じた転化方式であり、それが組合よりも組合員の状態を重点対象としていたから、金融事業を特殊な形態にした。
  (3) 事業内容
 昭和25年8月に農林省が示した指導方針により、開拓行政関連の書く建設事業、共同利用、共同作業、共同経営、生活共同化事業、協同購買と販売、資金の共同管理、技術普及、団体協約などとされた。
  (4) 業務執行

 組合財務の貧弱なことから人員配置が制限され、執行能力に乏しく、最盛期の昭和29年の全道282組合でも、専任職員のいる組合52%、常勤役員の居る組合29%であった。 また役員も設立後しばらくは、自身の開墾や営農に追われながらの低報酬や無報酬であったから、個人的な犠牲が大きかった。

、    
二つの組合誕生  本町の開拓農業協同組合の設立は、テイネーを境にした東西二地区に分立の形となった。 テイネー以東は芭露、東芭露、計呂地、志撫子、床丹を、以西は信部内、川西、東、福島団体を糾合するもので、地図上の地域でみると、八の字型の一面をそれぞれに区域とした形になっており、地形状でみると、以東は芭露川、計呂地川、志撫子川、などの条川沢地帯であり、以西は湧別川をはさんだ平坦地ないし緩やかな起伏の丘陵地帯で、地勢という自然と営農のかかわりを暗示するかのような発足であった。

 □湧別村開拓農業協同組合
 ・昭23・ 6・10 設立発起人会(発起人白石昌寿ほか26名)
 ・昭23・ 6・28 設立総会(芭露農業協同組合会議室にて)
 ・昭23・ 8・ 3 設立許可
 ・所在地 字計呂地201番地
 ・組合員 104名
 ・出資金 9万円(1口200円×450口)
 ・組合長 如沢次郎

 □湧別開拓農業協同組合
 ・昭23・11・30 農民大会 (発起人近藤一夫ほか15名)
 ・昭23・12・19 創立総会(湧別農業協同組合会議室にて)
 ・昭24・ 4・12 設立許可
 ・所在地 字基線19番地
 ・組合員 51名
 ・出資金 3万4000円(1口200円×172口)
 ・組合長 近藤一夫

 こうして発足した両組合であったが、ともに弱小組合の域にあることは確かで、幾多の経営難に悩みつつ、かろうじて存続したものの、昭和29年の15号台風、同31年の冷水害を含む昭和28年以降四ヵ年にわたる大凶作は組合員および組合の経済を極度に逼迫させた。

湧別町開拓農業組合  弱小な二つの開拓農業協同組合の窮迫は、放置すれば組合経営はおろか、農業経営の破滅を招く情勢に立ち至ったが、開拓者の団結強化、組合経営安定のためには、一町村にじゃくしょう二組合の不利は目に見えていたといえよう。 両組合の合併説が持ち上がったのは、当然な時の要請であった。 しかし、両組合の経済状態と立地条件の相違が、事態進展のブレーキとなり、数回に及ぶ両者の協議も暗転を繰り返していたが、系統機関や周囲の友好的な示唆もあって、昭和三二年三月十九日に協議一決して合併の運びとなった。
 合併は湧別開拓農業協同組合を解散して、湧別町開拓農業協同組合(昭28町制施行により湧別村から町に)に吸収合併することで、昭和三二年六月一四日に設立許可となり、事務所を湧別市街地に移転して、再生のスタートをした。 当時の概要は、
 ○ 組合員 二一七名
 ○ 主資金 二○九万九、九○○円(二。○二七口)=当時
 ○ 組合長 如沢次郎
であった。 以来、酪農を経営の基礎に置き、馬鈴薯の生産を複合させた営農を軸として懸命な再建の道を歩んだ。
その経過を見よう。
 ・昭34・10 事務所建設移転、信部内集荷所建設(20坪)
 ・昭36・ 4 開拓婦人部協議会設立
 ・昭38・ 8 組合員勘定(組勘)導入
 ・昭39・10 店舗建設(30坪)
 ・昭40・ 5 購買倉庫取得(煉瓦造50坪)
 ・昭41・ 6 農業倉庫建設(24坪)
 ・昭43・ 9 開拓青年部設立
 ・昭43・10 設立二十周年記念式典
 年  次 昭  32 昭  37 年  次 昭  32 昭  37
 区  分 区  分
 組合員数  217  177 
 出資金 (円)   3.820.600   6.180.900   借入金  (円)  73.872.769   60.513.015 
 貯金   (円)  18.066.448   21.329.982   購買高  (円) 6.063.324  14.765.625 
 預金   (円)  20.051.379  7.586.383   販売高   (円) 7.350.595  53.166.943 
 貸付金 (円)  11.152.359  73.904.834   固定資産 (円)  3.361.444  4.611.368 

 こうして、本町の開拓農業協同組合は、道内各町村の開拓農業協同組合の多くが低迷苦渋する中にあって、着実な地歩を築いたのであるが、昭和四四年一二月に「開拓負債整理法」が、同四七年三月三一日完了という時限立法で公布され、開拓行政の打切りを迎えるに当たり、
  一、開拓行政が一般行政に移行したこと
  二、本町の開拓事業は終了したこと
  三、設立の目的が達成されたこと
を名分として、「開拓」の二字を冠したまま一般農業協同組合へと体質がえを行ったのであった。
 その後、昭和四九年七月に改組して「湧別町畜産農業協同組合」(産業編参照のこと)に衣がえして、開拓農業協同組合の歴史を閉じたが、歴代組合長は、如沢次郎から沢田豊松、鎌田雅彦と継承された。

開拓営農指導員  戦後開拓入植者のために、昭和二一年に配置された「世話指導員」は、同二十六年に廃止となり、その後「開拓営農指導員」を配置して、既存農家に比して較差の甚だしい開拓農家の営農改善を指揮するようになった。
 本町にも昭和三十年五月を役場内に「網走支庁湧別町開拓営農指導員駐在所」(久光義美所長)に昇格し、同三八年からは技師一名が増派され,指導体制の強化が図られたが、同四五年三月の開拓行政の打切りとともに廃止された。

開拓保健婦  昭和二三年一〇月に「北海道開拓保健婦設置規則」が制定され、戦後開拓入植者の保健指導に当たることになり、本町でも指定を受けて保健婦一名がが駐在した。
 開拓農家の保健衛生と生活改善のため戸別訪問など大活躍をしたが、昭和四五年の開拓行政打切りにより廃止された。
(3)余話
火薬抜根の威力  明治〜大正時代の本町開拓から三十〜四十年の時が流れたとはいえ、戦後開拓にも明治〜大正期と共通した開墾の苦労が伴っていた。 昭和二十二年に北海道庁開墾課が作成した「開墾単価表」(補助基準)を見ると、その内訳に、
伐開費、火入費、抜根費、倒木整理費、石礫除去費、坊主除去費、耕費(人馬力、トラクター)、排水溝掘削費、農道築設費、耕地防風林造成費
とあった、手順が昔とほとんど変わっていないことがうかがえる。 多少とも時の流れで進歩したといえるのは、トラクター火薬、馬などの使用であるが、ここで威力を発揮したのは火薬抜根であった。 単価表による抜根費は、

(人力抜根費)
 直    径    二寸以上     四寸以上     六寸以上     八寸以上  
 金    額 二円五十銭 四  円 五  円 七円五十銭
  腐朽シタルモノハ本表ノ二分ノ一、更二腐朽甚ダシキモノハ四分ノ一以内トス

(トラクター抜根費)
 直    径    二寸以上     六寸以上     一尺以上  
金額 一円五十銭 四  円 十  円
  腐朽シタルモノハ本表ノ二分ノ一、更二腐朽甚ダシキモノハ四分ノ一以内トス

(火薬抜根費)
  土  質  火山灰土
 砂   土 
 普通土   重粘土    土  質  普通土   普通土   重粘土 
  樹  径   樹  径
 一 尺 以 上  十一円 一二円 一五円  四 尺 以 上  四五円 五一円 六一円
 一尺五寸以上 十七円 一九円 二三円  四尺五寸以上 五一円 五六円 六八円
 二 尺 以 上 二三円 二六円 三一円  五 尺 以 上 五七円 六三円 七六円
 二尺五寸以上 二八円 三二円 三八円  五尺五寸以上 六三円 七十円 八四円
 三 尺 以 上 三二円 三六円 四三円  六 尺 以 上 六八円 七六円 九一円
 三尺五寸以上 四十円 四五円 五四円
(1)次ノ場合ハ一割マデ加算スルコトヲ得
 
(イ) 地形不良ニシテ作業困難ナルトキ(傾斜地)
 (ロ) クマイ笹ネマガリ竹繁茂シ作業困難ナルトキ

(2)次ノ場合ハ二割マデ加算スルコトヲ得
 
(イ) 土壌中二岩石混入セルトキ
 (ロ) 根張リ緊密ニシテ作業困難ナル樹種(シナ・松類)
 (ハ) 樹根特二深キトキ

(3)樹径特二深キトキ

 と、きめこまかく配慮されていて、大樹径の抜根に配慮が特に適切であったから、営農に定着して現存する開拓者は次のように語っている。
 既存農家とは比較にならない悪条件の土地で、しかも開墾作業という過程を克服しなければならなかったとき、火薬抜根は涙が出るほどありがたかった。 そして、明治〜大正の先人が火薬もなしに開墾した苦労が、しみじみとしのばれた。 私のところには、そのときの火薬庫を、今も、そのまま放置しているが、既存農家に早く追いつくことができたのは、第一に火薬抜根のおかげだった。<洞口正喜談>

組合存廃騒動    開拓行政の打ち切りにより、開拓農業協同組合が存立の機能に終末を迎え,存廃の岐路にたったとき,湧別町開拓農業協同組合では、
(1) 性格を変えて農業協同組合として存続するか・・・・・・
(2) 解散して湧別、芭露両農業協同組合に加入するか・・・・・・
で意思統一が難航し、両派に分裂する騒動があったが、其の転末については産業編(農業の章)を参照のこと。

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