第5編 産業と経済 工 業

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第7章 工 業
 (1) 工産の草分け
 (2) 北見国のマッチ軸木
 (3) 基幹産業への道程
 (4) 戦後の復興
 (5) 建設工業の推移
 (6) 経済成長による変革

(1)工産の草分け
獲物の加工  アイヌ人が狩りや漁によって生活を保つうえで、獲物を種々加工して使用したり物々交換(交易)の品にしたことは一部概述してきたが、例えば、干鮭、アツシ、鮭皮の履物、毛皮、熊胆、尾羽、クルミなどは、当時としては価値ある手工の所産であり、その技術は現在に伝承されている。 しかし、それらは、現代風に表現すれば、ごく内輪な手工業品〜自家生活用品の域に止まっていて、しいていえば、初歩的な「工産」とか「工業」とかに準ずるものであったとみられよう。

水産物の一次加工  場所交易がはじまり、さらに場所請負制度へと進むにつれて、サケの塩蔵取引が行われるようになり、その後、漁粕、魚油、煮干の生産もはじまり、さらにはホタテ漁の発展により乾貝柱生産が行われるようになったが、これら一次加工は水揚げの延長のような手作業で行われ、統計上は「工産物」とはいわず、「水産製造物」として漁業生産の中に組み入れられていた。

屯田兵屋用材  明治29年に屯田兵村の建設事業が請負業者によって着手されたが、そのときの建築用材の手配について、兵村史に次のように記されている。
  製材事業は野坂良吉之を担当し又柾材事業は転石格次郎之を引受け・・・・・・
これが、本町における林産の最初の記録であるとともに、工産全体の草分けとなったものである。

マッチ軸木製造  北見国の白揚樹がマッチ軸木の原木として、明治時代後半に脚光を浴び、本町にも製軸工場の操業をみているが、これは資本企業による一時的な生産という特異なもので、地場産業の伝統形成に深いかかわりをもつこともなく終息している。 詳細は次節に記すこととする。

精穀製粉業のおこり  農村における工業生産の創始には、例外なく地場農産物資源の一次加工という歴史が綴られているが、それは開拓期の農家生産と住民生活の関係から発生したものであって、産業振興とか過疎防止策としての、現代の地場資源を活用する企業誘致や農業団体の事業とは趣を意にしている。
 入植当初は食糧に供された穀物は、すべて自家労力で脱穀精白や製粉をしていた。 用具は臼と杵、石臼などが用いられ、主として農作業の合間に主婦が担当したのが、この労力的な負担は過重なものであった。 明治33年に北兵村二区の藤倉倉蔵が、
  水車を架設し、精米及精麦の業を開始した。 小規模なる組織にて製品の如きも漸にして村内使用の幾分を補ふに過ぎざりしなり。<上湧別村誌>
とあるのが、動力による賃加工の最初である。 その後、大正元年12月に4号線で伊藤馬吉精米所の創業があり、
  コルニシ型汽罐7馬力、従業員4人、製粉穀類賃搗1,200俵、価額750円<網走支庁拓殖概観>
というように、かなり工場委託の普及したことがうかがえ、芭露方面でも大正2,3年ころ7号線で中島文太郎が、水車による創業を副業的に経営するようになった。 ハッカ取卸油については概述したとおりである。

工場生産の創業  精米製粉所も工場ともいえなくもないが、たぶんに家内工業的なもので、簡易な一次加工であったが、味噌、醤油、缶詰となると、これは二次加工に類するもので、現在とは比較にならないが、いちおうの工場施設と従業員をかかえることになる。
 地場農産資源による味噌、醤油の醸造は、明治34年に武藤浅吉が湧別市街で着凝視、地元消費にこたえた。 生産量としては、
  昭39 味噌1,054貫 醤油36石
程度であったが、鉄道開通後は順調に業績を伸ばし、全盛期は「亀甲富士」の商標で、網走支庁管内各地に販路を拡大した。
  大5 味噌6,580貫 醤油345石
           <網走支庁拓殖概観>

に、その伸長のほどがしのばれるが、戦後、業績の停滞から昭和34年で休止した。
 4号線で商業を営んでいた伊藤紋蔵が酒類の醸造をはじめたのは明治36年で、店で扱っていた販売酒の悪質なことに着目して、良質酒の醸造を志したものであった。 幸いにも酒造に適した水に恵まれて優良品の生産をみるにいたり、最盛期には管内1位の生産量で、容器の機材は府県から移入し、樽職を雇って製作させ、こも包みの4斗樽で出荷したという。 生産量の記録としては、
  明39(年 間)  酒321石683 焼酎8石385
   明40(7月調)  酒425石682 焼酎16石345

という華々しい時期を経て、
  大5 酒138石 <網走支庁拓殖概観>
と低迷し,大正末期に経営不振で廃業したが、大正5年の網走ほか3郡物産共進会で清酒「伊達藤」は3等賞入選を果たした実績がある。
 缶詰製造を試みたのは宮崎正一で、鮮魚での販路がひらけていなかった水産資源に着目し、明治43年に着業したが、
  鮭6万8,000個9,150円、鱒6万個7,800余円を得たるも数年にて廃業せり・・・

と短命に終わっている。 しかし、金額からみると、当時としては膨大な金額である。 また、当時の缶詰工場従業者の回想として、
  整備は鰊釜1基を据付け、缶蓋は手締式の簡易なもので、従業員は10人ぐらいだった。 漁獲が減少したためか数年で廃止されたが、カニ缶だけを製造していた。
とも伝えられている。 その後、だれかが後継したらしく、「その後、2,3の人が缶詰製造に着手したといわれるが、企業化にはいたらなかった」という話もある。

馬橇の制作  明治36,7年ころ、5号線で太田某が馬橇の製造を開始したが、同38年転出により佐藤弥助が後継した。 また、川西に入植した大工職の窪内長太郎も、同40年から手がけ、同45年には4号線市街に製作所を設けて営業を開始した。 その後、窪内製作所は大正3年に弟源吾が継承したが、全盛の大正年代は、
  今日も100円札が降ってきた。今日も100円札が降ってきたと、毎日喜び合ったものだ。 <源吾夫人の遺談>
というほど、もてはやされたという。 しかし時代とともに需要が減り、昭和12年で休止してしまった。

林産工場のはしり  屯田兵屋用材の項で述べた製材は、当時、木工場などがなかったから、もっぱら木挽職による挽割に依存したものであったし、柾も、トドマツの良材が豊富であったから、器用な人々の手で3尺柾に手割するものであった。
 製材工場の最初は、明治40年に宮崎正一が北兵村2区に、6馬力の動力を用いて開設したもので、当時の運輸事情から製材の移出販売は考えられず、ようやく住居用材の需要が芽生えたことから、自家用材の挽割を能率化した賃挽を主に行ったものとみられる。
 割柾製造業の初めは明らかでないが、大正15年の「村勢1班」に柾屋業3戸と記されてあり、製材の需要と同じ経過で、賃割からはじまって、製造販売へ移行したと思われる。 ただし、柾の場合は、製材のように機械設備の必要がなく、丸太の割台と割ナタ、それに割ナタを叩く木槌があれば事足りたので、工場という形にはいたらず、庭先の作業上程度のものであった。

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(2)北見国のマッチ軸木
軸木の道内生産  未開拓時代の北海道では、いたるところ白楊の植生がみられ、それが、日本工業の開花とともに時代の花形となった。 北見国一円のマッチ軸木生産がそれであり、北見国における本格的な工産の祖であるとともに、本町の工産の初期を画するものであった。
 花形輸出品の軸木の原料は「白楊」(はこやなぎ)で、のちに「橸」(和名シナノキ)「唐柳」(Z和名ドロノキ)も使われたが、それは白楊材が不足した後のことで、輸出マッチは白楊に限るとされていた。 この白楊材は、はじめ東北地方から丸太のまま阪神地方にまで輸送されていたが、原木不足を告げ、本州での供給が困難になったことから北海道に求めるようになり、マッチ工業の関連生産が本道にも勃興することになったのである。 道産の白楊材が原木のまま移出せず、軸木にして移出したのは、いたるところ原木の豊富な北海道では、地理的な事情や輸送上の問題もあって、軸木に加工して阪神方面のマッチ工場へ供給するほうが効率的であったからである。
 本道における軸木製造は、明治14年に茅部郡および札幌ではじまったとされているが、同19年には有珠郡にも工場が設けられ、道南地方に数工場をかぞえるにいたったという。 北見国に初めて進出をみたのは明治24年のことで、有珠郡で操業していたうちの一人である山田慎が、大曲(網走市)に山田製軸所を開設したのがそれである。
  網走〜止別間において、白楊樹30万本の10ヵ年期払下げを出願して許可された。 このような林木特売処分は、本道では最初のことであり、道庁の工業奨励方針に基づくものであった。<北海道山林史>
という大がかりなもので、それまでの道内の製軸の多くが人力や水力に頼った小規模なものであったのとは異なり、
  精巧なる機械を据えつけ、2個の蒸気機関によりで之を運転し、其の整備なる本道数10の製軸所に冠たり<殖民状況報文>
とあるように、道内最大の規模で最初の近代化工場であったが、その背景には、北海道山林史にもあるように、道庁が積極的に奨励したことと、北見国が道内では最大の白楊蓄積地帯であることに着目したという経過があった。

資源収奪のそしり  道庁の奨励、輸出産業の花形ということもあって、マッチ軸木の製造は年とともに北見国全域にひろがって、開拓に黎明をもたらす先駆の役割を果たした。 しかし、一面において、工場付近の白楊樹林が伐り尽くされると他に移動し、あるいは廃業するなど定着性がなく、しかも白楊だけを択伐するという伐採であったから、実質的に開拓に寄与したかどうか疑問を残すものであった。 本町においても、明治37年度決算説明書に、
  賦課の当時に於て製軸事業の盛況なりしを以て、来りて居住したるが一朝核事業の休するや、早く幾方へか退去し其の居住を知る由なく・・・・・・
と村税滞納の原因に製軸関係者の移動をあげている。 本町における製軸工場の足跡は次のとおりである。
■信太製軸所<明34・7,信部内川左岸>
  工員29名、初年生産90万把=5,400円、明治37年に休止。
■中沢製軸所<明34・瀬戸瀬>
  動力水車利用、2年ほどで休止。
■杜製軸所<明37・4,3号線>
  従業員75名、蒸気機関装備、日産25斤、芭露原野から集材、明治39年に乾燥室を焼失、同40年信太工場跡の施設に工員を分散し両所で操業、同43年両工場とも閉止。
■公益社製軸所<明40・7、南兵村3区>
  阪神地方の資本家が共同出資で開設。
■蛎崎製軸所<明40、北兵村2区>
■東洋燐寸株式会社床丹製軸所<明40、床丹>
  工員49名、8馬力石油発動機装備、大正9年休止。
■日本燐寸株式会社猿澗工場<明43、床丹>
  大正10年ころ休止。

 

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(3)基幹産業への道程
鉄道開通の刺激  大正4年に社名渕(開盛)まで、良く年に全線の開通をみた湧別線鉄道の実現は、物流動向を大きく変革し、特に第2次産業を勃興させた影響は大きかった。 そして大正10年の名寄選鉄道の全通が重なって、本町にも農産、水産、林産に次ぐ弟4の基幹産業として、工場生産的工業が形成されるようになった。
                                    <村勢要覧>
年次
区分
品目
大14 昭 6 昭 8 昭10
数量 価額
(円)
数量 価額
(円)
数量 価額
(円)
数量 価額
(円)
亜麻繊維
味   噌
醤   油
製材類
木製品
貝   灰
皮革製品
清   酒
その他
501.668斤
2.600貫
830石
-
-
80.000貫
-
160石
-
225.198
1.560
33.200
-
9.350
8.000
480
14.400
16.467
358.028斤
4.500貫
450石
1.952石
-
80.000貫
-
-
-
113.011
1.800
13.500
11.406
11.600
9.600
2.000
-
-
509.513£
5.000貫
800石
4.800石
-
11.800俵
-
-
-
131.275
1.750
24.000
28.800
9.440
8.300
250
-
-
240.515kg
5.200貫
850石
5.830石
-
218.890貫
-
-
-
136.800
1.820
25.500
43.340
12.059
10.945
300
-
-
308.655 162.917 203.815 230.764
ちなみに昭和10年の1戸当り生産額をみると、工業生産が抜群であることがわかる。
産 業 別
区    分
農  産 畜  産 水  産 工  産 林  産
戸    数
1戸当り(円)
1.096
530
984
49
143
6.373
19(2工場を含む)
12.145
25
5.379

大戦景気と
経済恐慌の所産
 第1次世界大戦のもたらした農村ブームは、豆類とともに「澱粉」がその主役であった。 大正5年の1袋(25kg)4円が14円50銭まで高騰した澱粉ブームから、本町でも信太農場で製造をみるようになった。
 その後、反動不況と昭和初期の経済恐慌で澱粉ブームは沈静したが、昭和11年に上湧別村北兵村3区に澱粉工場の開設をみるにおよんで、どん底にあえぐ営農に馬鈴薯消流の道がひらかれ、再び曙光がもたらされた。
  当時の農産物価格は1俵当たり燕麦(12貫)2円前後、小豆(16貫)4円50銭〜5円、馬鈴薯(16貫)70銭で、反当り50〜60俵穫れる川西地区の馬鈴薯耕作は、反収35〜42円にもなり、きわめて有利な販売作物となった。
とは、当時を回想する古老の談で、このころから本町にも続々と澱粉工場が建設され、操業をみるようになった。

戦時国策と工産  日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)が進行する過程では、第1次産業同様に工業にも国策という重い負担がのしかかった。 農林漁村工業の場合は重工業ほどではなかったが、農業に時局作物があり、林業に軍需材伐出があったように、それらを原料とする工産が奨励された。 その代表的なものは、亜麻繊維、味噌、醤油、製材などで、
区   分
工産種目
数   量 価額(円)
亜麻繊維
澱   粉
味   噌
醤   油
製   材
木製品
貝   灰
皮革製品
砂   利

453.015kg
615.000kg
3.080l
1.416石

99.600kg

200立坪
401.737
155.814
16.200
64.600
48.527
13.785
12.948
1.500
768
715.879
亜麻繊維は軍需、製材は軍需及び重要産業向、澱粉、味噌、醤油は主食なみの配給統制品であった。 昭和15年の「村勢要覧」から工産の概要を表に抜粋しよう。

貝殻を原料にする工場  大正2年に近藤馬太郎が、海岸に放棄されている大量のホタテ貝殻に着目し、これを壁材料の貝灰にすべく、湧別市街のオセキ橋付近で製造に取り組んだ。 同年に工場は現在の漁業協同組合付近に移されたが、
  製品の良質なことから需要が多く、各地からの注文を満たすことができないほど、製造に追われた。
というほどの盛業となり、大正14年8万貫の生産が、昭和12年には21万8,890貫にもおよんだ。 しかし、戦後は一時原料不足に見舞われ、他方で壁体健在の開発が進んで減産を余儀なくされ、昭和36年で廃業した。
 ホタテと並ぶ名産カキの貝殻に着目したのは嘉多山寛で、昭和5年にテイネーで、粉砕して養鶏飼料として販路を開拓した。 同11年ころからカルシューム製造の研究に着手し、軍馬補充部の奨励もあって企業化することになり、同14年に湧別駅東側に施設を移し、カルシューム製造単一工場として操業した。 製品は「北農カルシューム」の名で販売され、馬の骨軟症予防剤として使用されたが、戦後はおおかたの家畜に用いられるようになって需要が増大したため、嘉多山吉郎が昭和22年に生産施設を拡充し、製品も動物用医薬品「ボレイカル」として登録し、年間2,000dペースの生産に発展した。 しかし、時の流れから昭和53年に工場操業を中止し、本州大手企業の製品を全国農協連合会経由で酪農家に販売する体制に転換して現在にいたっている。

伝統を築いた醸造業 大正3年にに南川吉太郎が創業した南川醸造工場は、2代にわたる南川父子の努力によって、 「ホシマルキチ」印の名を高め、既述の「亀甲冨工」印とともに、管内に誇る味噌・醤油のメーカーとなった。戦後、自由経済の波に乗って道内外メーカーが著しい進出を果したときも、昭和二六年に株式会社組織にして体制を整備し肴実に販路を広め、操業も年間生産が味噌四五万s、醤油63万gラィンを保ち、網走支庁管内全域および旭川方面に出荷し、本町の伝統工産の座を保持している。
 なお、戦後の一時期ではあるが、芭露市街でも味噌・醤油の委託醸造が行われていた記録がある。昭和二三年に大石橋正夫が小規模な工場を投けて、食糧不足と物資統制下の農家の委託を受けたものであるが、統制が解除され、豊富に市販製品が出回るにおよんで利用者が減少したため、同28年に廃業した。

亜麻繊維工場  鉄道開通に伴う大企業進出の好例が亜麻繊維工場の出現であった。大正6年に日本製麻株式会社が創設した湧別工場で、当時としては、網走支庁管内では2番目(1番目は野付牛=現北見)の開設操業で、大型工業の偉容を誇るものであった。 その後、
  昭2・8  帝国製麻株式会社に合併され同社湧別工場となる
  昭20・10 日本繊維株式会社に買収され同社湧別工場となる
と移ったが、特に戦時中は時局産業として軍需に応ずる立場にあって全盛を誇った。その実積は既掲の統計が示すところてある。
 しかし、戦後は軍需が消え、さらに化学繊維の著しい問発が進んで需要が減退し、経営合理化が行われ、昭和29年18名、同30年63名、同37年52名の従業員整理が行われるなど企業縮小が進行し、昭和三七年には概要次のような操業状況となった。
  従業員34名 臨時工40名余(繁忙期)
  生 産 正線32万4000s 粗線21万6000s
 そして、昭和39年で一市七力町村と深くかかわった亜麻耕作に終止符がうたれ、翌40年を以って工場は閉鎖された。

委託精穀製粉の伸び  開析が一段落を告げ、本格的な農業生産が具体化してくると、販売産物の取引価値が当然のごとく関心の的になり、特製の手を加える必要に迫られた。 従って、自家消費産物の受託加工に止まっていた従来の精米、精麦、製粉などの加工業は、一躍受託量の増大をみることとなった。さらに鉄道の開通で、その傾向はますます助長されるにいたった。
  大5  小野宿太郎が中島文三郎の施設(既述)を譲り受け操業=山形県から水車大工を呼び径18尺の水車完成
   大12  大口丑定が5馬力の蒸気ボイラーで精麦精粉事業開始=小野富太郎が施設管理
   大15  村内の精米所四ヵ所<村勢一班>
   昭7  上芭露に佐々木精米所
   昭11 計呂地に斎藤精米所

 また、精米、精麦、製粉などについては産業組合や農業会でも施設した経過があるが、それらについては農業の章(関係団体および機関)を参照のこと,

澱粉工場の勃興  第一次匿界大戦以来のブームに乗って、確固たる商品価値を形成した澱粉は、北海道特産品(馬鈴薯澱粉)として、馬鈴薯生産農家をうるおすことから、村内の馬鈴薯生産熱とともに澱粉製造熱も高まり、
  昭6  北川宇三郎が川西で加工販売(4〜5年間)=動力は水力と足踏み
   昭8  羽田文内が動力機械で3年間加工販売
   昭10  内山繁太郎が芭露6号線に7馬カガスエンジンの工場開設
   昭12  川西に小池澱粉工場(翌13年に電力導入により設備拡充)と区の共同澱粉工場開設=それぞれ区の生産馬鈴薯の35%、65%を委託加工
    伊藤澱粉工場開設
    床丹澱粉工場開設=床丹地区耕作者組合が設立
    湧別中央澱粉工場を4号線に開設

と相次いで操業をみて、秋に工場の運転がはじまると、昼夜兼行の機械の音がひびき、馬鈴薯を搬入する馬車が工場近辺の道路に列を成したという。 生産高は次のようであった。
年   度
区   分
昭12 昭13 昭15
数   量
価額(円)
904.504斤
2.315斤
933.525斤
3.353斤
453.015kg
155.814kg
                      <昭12〜13は北海道統計誌より>
なお、戦争末期のこと、食糧不足を捕うため当局の指定で小池武男が「澱粉米」製造を行い、苦心の末に生産の域に達したが、戦後不要となり製粉工場に転換した記録がある。

木材工業の台頭  開拓の一段落は食生活の改善に次いで住居の修築を志向するようになり、建築材の一般需要が除々に増加するいっぽう、鉄道開通(湧別線、名寄線、西湧網線)による駅周辺の市街地形成に伴う需要が見込まれて、村内はもちろん、村外にも移出されるようになった.。
 大正5年に造材業者の横山清が湧別市街オセキ橋付近に、35馬力の蒸気機関を備えた木工場を建設し、従業員8名を雇用して、同年4,725石を製材し、従来の委託加工から販売製材へと踏み出した.その後、同工場は本町唯一の木工場として次の経過をみた。

  大7・4  名寄の河村米三郎、武田寅三郎に譲渡=阿武薄板工場となる(最盛期の従業員20余名、年間生産3万2,000石程度)
   昭元・12 阿武工場は和田収に譲渡
   昭15・3  戦時下労働力の減少、原木入手の窮迫で経営困難となり下生田原(現安国)に移され、和田工場は廃止

 和田工場の顛末とはうらはらに、戦時増産は至上命令となり、西湧網線鉄道の開通もあって、豊富な芭露方面の森林資源が着目され、昭和13年に芭露市街に大沢本工場が創設されて木材王国北見の製材の一翼を担った。 その後、着々と強化された木材統制と業界統制の波で、戦後にいたるまで新規の工場の出現はみられなかった,そのほかの記録としては、

  大11 内山牧場がボイラーを動力源として丸鋸で製材部を運営=のち芭露市街に移し福原甚作の個人経営としたが、永続せず
  昭IO  ボン川で平間造材部が移動製材機で枕木を製材
  昭9  鉄道開通をひかえて福原甚作が、いまの大沢工場のところでガスエンジンによる丸鋸製材施設をしたが、地盤軟弱で失放に終る

があるが、いずれも泡沫と化している。
 いっぽう建築用材に付随する製柾工業は、大正14年に柾屋業3戸であったものが、その後、業とするものが増加して、昭和13年ころには6戸をかぞえ、戦時体制が強化された同15年には労働力の減退を補うために、上湧別村の業者と合議して『製柾工業組合」を結成し、機械力を備えた工場設置を計画したが、戦時統制で実現にいたらなかった。

水産食品の生産   大正13年に山本常次郎がサロマ所産のチカを原料にして、佃煮製造を開始した。その後、ガヤなど他の小魚も手掛けたようで、生産の推移は断片的であるが、
  大14 7,000貫
   昭6  チカ500貫   790円
   昭8  チカ700貫 1,540円
   昭11 1,218貫
                <村勢要覧>

の記録があり、漁獲量の多寡に左右されたらしいあとがうかがえる。戦時中は砂糖、醤油など昧付材料の厳しい統制で減少し、戦後復興とともに再興を図ったが、各地に大手食品工場が台頭して佃煮生産が行われるようになったため、昭和27年で閉鎖した。
 かつて、幾人かが試みて企業化にいたらなかった缶詰生産は、昭和9年に胆振の稲見弥一郎が湧別市街に近代設備の工場(稲見缶詰所)を開設して、本格的な操業をみるにいたった。製麻工場に次ぐ外部資本の進出によるもので、ケガニ缶詰に主力がおかれ、その生産は、
  昭10 1万2,541貫 4万4,144円
  昭15 1万7,302貫 8万5,500円  <村勢要覧>
を記録している。 その後、経営者がしばしば変わり(昭10=イリサクラブ商会、昭11=北洋水産工業梶A昭15=北洋缶詰梶A昭17=日魯漁業梶j、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には梶原三次が経営し、軍の指定により菅藻(海藻)を原料とする繊維工場(昭20=日本新興梶jに転換したが、製品化されないうちに終戦となり廃止された。

いまでこそ冷凍食品は日常茶飯のことになっているが、戦時中に魚貝の冷凍貯蔵を試みたという例は、本町の水産工業史上特筆すべきものであった。魚貝の保存といえば乾物、塩蔵物、缶詰や佃煮の二次加皿品以外にみられなかった昭和17年、石川保重や若尾文平らが中心となって、ホタテの冷凍を主目的とする[湧別低温倉庫株式会社」を設立したのがそれで、112坪の冷凍庫施設を建設して注目されたが、漁獲物の戦時統制強化で漁業会の一元集荷が施行されるにおよんで経営困難となり、昭和19年に湧別漁業会事業の傘下に吸収され、同23年には施設一切を漁業会に譲渡した。その後昭和34年出雲久冶、横尾健寿ら数名によって漁業組合から引受け湧別冷蔵株式会社を創立同44年まで継続した。

鉄工場の出現  大正9年に石原与七が馬車製造を目的として、5号線に鉄工場を開業し、既述の窪内源吾の馬橇製造とあわせて、村内での馬車、馬橇の製作供給の道がひらかれたが、翌10年3月に石原与七は名寄線鉄道の全通を機として中湧別に工場を侈転した。
 いっぽう農林漁業に使用される鉄製の小器具類の製作および修理は、開拓の進展に伴う需要増に併行して、[鍛冶屋」の愛称で登場した,ふいごと金床と研ぎ場程度の小規模な施設と2〜3人の職人で、客の注文にこたえる便利な手工業であったが、農機具でいえば鍬、鎌のたぐいから、次第にプラオ、ハローなど各般にわたるようになって、逐次、製作機具も充実をみて生産能率が向上した。
   大2 落合五助(上芭露)=和泉鉄工場の前身開業
   大10 村上喜代松(芭露市街)開業
   大12 和泉鉄工場開業(上芭露)=農林業器具
   昭5 佐藤鉄工場(計呂地)開業〜戦後廃業
   昭6 今野鉄工場(計呂地8号)開業のち転出
   昭9 山田鉄工場と蔦保鉄工場(湧別市街)開業=漁業器具
   戦時 小倉義男(芭露)開業〜戦後廃業
   昭20 高木鉄工場(3号線)開業〜機械修理

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(4)戦後の復興
混迷からの脱出  敗戦と統制経済の動揺著しい世相の中で、産業界全般が平和産業を模索し、統制経済から自由経済への転換必至の観測が聞かれるようになると、第二次〜第三次産業の分野にも再起復活、あるいは新生の息吹が波立ち、昭和23年後半から24年にかけて各種工産が活発になり、次のような操業状況を示した。
区  分
種  別
工場数 従業者数
製  材
木製品
カニ缶詰
食  塩
造  船
機械器具
澱  粉
  飴
味  噌
醤  油
その他



10






25
85
15
40
36
15
15
77
15
60

45
62 403
上表のうち、いかにも戦後らしいのは漁業のところで触れた製塩と、甘味不足に即応した飴があることで、この二つは、やがて戦後復興とともに消滅する短命なものであった。
 木材工業のにぎわい 戦後復興と木材
のかかわりについては、林業のところで
も触れたように、特需的な需要の
木材工業のにぎわい  戦後復興と木材のかかわりについては、林業のところでも触れたように、特需的な需要の増大があり、木工場はフル操業をしても追いつかないほどの盛業となった。その後、一般住宅などの需要の仲びに加えて、昭和29年の15号台風による風倒水処理の時期がつづき、本町の本工場は次のように増加し、経営の多角化から製紙原料のチップ材の製造もみられるようになった。 しかし、風倒水処理が一段落して道内産原木が不足し、輸人材に依存せざるを得なくなるにつれて、整理廃業が進行した。
区 分
工場名
所在地 創業 生産品 昭56現在
大沢木工場
矢崎木工場
石渡木工場
鍵谷木工場
森林組合工場
小沢木工場
西木木工場
森林組合工場
山本木工場
湧別林産工場
芭露
上芭露
計呂地
4号線
湧別
芭露
計呂地
湧別
芭露
湧別
昭13
昭21
昭21
昭23
昭23
昭29
昭30
昭35
昭36
昭55
製材。チップ、鉛筆材、オガ炭
製材
製材、チップ
鉛筆材
製材
製材、チップ、フローリング、厚板
製材、チップ
チップ
カタン系駒、チップ
製材、チップ、ダンネージ
操業
廃止
昭36・8より木津木材株式会社
廃止
昭55破産
廃止
昭38・3より一成農林株式会社
昭55破産
廃止
森林組合から渡辺正喜が引受け操業
 いっぽう製柾のほうは、昭和21年12月に芭露に新親工場が誕生した。小沢虎一が建設した機械柾製造工場がそれで、従来の柾は原木がマツの類であったものを、広葉樹からの製柾も手がけるようになった。しかし、トタン屋根の普及により柾の需要が減少傾向となったことから、昭和29年で操業をやめて一般製材に転換した。 その後、存続した製柾業者としては、手割生産の、
  梅津義美(湧別)、池田幸雄(芭露)、福士古松(志撫子)
ら3工場があったが、やがて廃業している。
澱粉工場の盛況  戦後、馬鈴薯統制解除の機運と澱粉生産の有利性に着目して、澱粉工場建設を志す着が多く、前節であげた工場のほかに、上芭露に安藤勝市、矢崎次郎、芭露に島崎卯一、志撫子に深沢近則、計呂地に如沢元治、浅川某、福島に26戸の協同でなど、澱粉工場が操業され、内山工場は大沢義時に譲渡されるなど、湧別食糧検査所の統計では、
  昭24 11工場  163万5,438kg
  昭31 16工場  217万2,078kg
という急伸ぶりであった。
 しかし、昭和36年に後述のスノー食品工場が操業するにおよんで、原料入手に困難が見越される小規模工場は閉鎖され、
  昭36 4工場 142万9.820s
になった。さらに酪農の伸展で馬鈴薯耕作が局限されたため昭和30年代で姿を消した。

食品加工の多様化  戦後復興とともに昭和24年に出雲久治が、曙町でかまぼこ工場の操業を開始している。原料は地場資源のほか、通年操業のため、冬期間の原料を稚内や小樽方面から移入し、従業員5人ほどで年産約45dの実績をあげたほどであったが、生産流通の革命的な進展をみた時代相の中で、昭和42年をもって閉鎖した。
 同じ昭和24年末に、小池武男、西村章太郎が梶原三次所有の缶詰工場施設を譲り受け、翌25年に日魯漁業株式会社がそれを借り受けて缶詰製造を開始したが、これが、戦後における町外大企業の進出第1号であった。 その後の推移に⊃いては後節に詳述する。
次いで出雲久冶ほか数名が、昭和31年に湧別漁業協同組合から冷蔵庫の施設を譲り受け、同33年に「湧別冷蔵株式会社」 (横尾健寿社長)を設立して、海産物のほかに農産物の冷凍加工も手がけるようになり、昭和37年には従業員15名で年産約700dをあげるまでになった。その後、再三にわたる経営者の交代があり、施設の拡充も行われたが、昭和57年5月に会社解散手続が行われ終止符をうった。

建設資材の供給  戦後の建築様式の変革に防寒、耐火構造の開発普及があるが、木材資源の枯渇現象もあって、簡易な軽量プロックの製造研究が進歩した結果、上礫や炭殻などを用いたプロックの需要価値が高まり、中小建築物では、コンクリートやレンガに代って、経済的なプロ苦が使用されるようになった。本町では昭和26年に四号線の山本清が、豊富な砂を用いるコンクリートブロックの製造を開始し、技術や設備の改善研究を重ねて、10年を経た昭和37年には、従業員12名ほどで年間16万個ぐらいの各種プロ。クを生産するまでになり、現在の山本プロ。ク製作所にいたっている。
 また、耐久耐火構造の建造物や道路改良に要する砂利類の需要は年とともに増大し、湧別川水系に産する砂利や海浜に豊富に集積する海砂は、有望な供給資源となった。これに携わっているのは土井産業株式会社で、昭和38年に会社設立と同時に錦町に砂利プラントを設備し、昭和40年4月に「湧別川砂利協同組合」の組織後は、その本町事業所として現在にいたっている。 なお、土産業の創業については、次のような話題がのこされている。
   昭和22年に湧別海岸の自己所有地内で鉄道関係用達の砂を採集したのが創業の基であるが、鉄道用(滑り止め、整備工場での錆落し)として不可欠の良質な砂と評価されていた。
 次いで建築技術の進歩に伴い、「生コンクリート」と同一規格コンクリート製品の供給が、時代の脚光を浴びるようになり、昭和43年に株式会社ホッコンが東部工業団地に進出し、操業を開始した。

装幀業の消長   馬と蹄鉄は密接不可分の関係にあって、馬鹿王国であった本町に装蹄業が栄えたのは当然のことであった。一般には「蹄鉄屋」と呼ばれて親しまれ、馬匹飼養農家を大の得意先としていた。
  鍛冶屋と同じようなふいごと金床で蹄鉄を作り、繋留柵をしつらえて、大きな庖丁や鑢のような器具で鎔をそいだり削ったり して、器用に蹄鉄を釘でとめるのだが、灼いた鉄が鎔を焦がす匂いは独得の農村の匂いだった。<佐藤信雄談>
こうした装蹄業には、戦前〜戦後を通じて、若杉、伊藤、岡本、尾張、山畑、西岡、大塚、長野、近野各蹄鉄屋があったが、馬匹の減少で現存しているのは若杉と長野だけである。

鉄工場の消長  戦後復興期の昭和20年代に鉄工場の数は倍増した。戦前戦中からの和泉、山田、蔦保、高木各鉄工場に加えて、昭和22年に開業の佐藤(上芭露)、高橋(芭露・昭36鬼越勇に譲渡)各工場をはじめ、橋本(登栄床)、石原(4号線)、池田(同)、上伊沢(志撫子)、佐藤(計呂地)、小野(同)、渋谷(2号線)各鉄工場が鎚音をひびかせたもので、戦後派はいずれも農林漁業にかかわる産業機具の製作修理であった。
 しかし、高度経済成長と機械工業における技術革新がもたらした産業機械生産の著しい伸展は、農林漁業にも機械化の時代をもたらし、大手メーカーがめざましい勢いで販売攻勢をみせるにいたって、従来の鉄工場の機能する余地が年とともに侵蝕され、手工業的手法が通用するのは修理など限られたものになってしまった。 このため昭和39年に蔦保鉄工場が廃業したのを皮切りに転廃業が相次ぎ、同55年現在では山田、渋谷、高木、橋本、和泉、鬼越、鈴木と半減している。

車輌整備工場  昭和29年に上芭露で岡崎直義が保道車の製造および修理業を開業していたが、エンジン車輛の台頭と馬匹の減少で同39年春に廃業した。
 こうした鉄工関係などの衰微に代って登場したのが、自勣車やオートバイの修理整備工場で、新しい時代を反映したものである。現在開業しているのは渡辺(計呂俎)、東海林(芭露)、小野(同)、大槻(錦)の各工場である。
 
造船業  漁業や湖上舟運とのかかおりで、小型の舟の建造や修理を業とする者が出現したが、「舟大工」と呼ばれて重宝されたものである。 明治39年野沢卯三郎が新潟県から来村し手広く造船を行っていた。
  戦後、漁業の近代化の進展とともに機械化した造船業者が出現し、15d未満の本造船の建造や強化プラスチック船の組立などを手がけるようになった。一業者の造船能力は年間2〜3隻で、野沢は昭和36年に廃業したが、昭和55年現在の業者は次のとおりである。
  金川造船所(湧別)、柴谷造船所(登米床)

団体営の工場   農業協同組合が組合員に便宜を供与する目的で、加工工場(精米、精麦、製粉、製めんなど)や修理工場(農機具、自動車)などの利用事業を営んだこと、および漁業協同組合が付加価値事業として加工工場を営んだことについては、農漁業編の各組合の項に記述しているので省略する。

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(5)建設工業の推移
請負職人のころ  開拓が進んで集落地が形成され、鉄道が開通して市街地が充実し、道路網が徐々に整備され、公公共施設(官公施設、学校、集会施設など)の建築も進行しはしめた戦前の時代の土木建築の主役は、請負職人たちであった。
  「大工」 「鳶職」 「土方=土工」 「左官」 「柾屋」などと呼ばれた職人気質の人たちが個々人、あるいは組(グループ)で、工事を請負ったり、大工事であれば下請けをしたりして活躍したものであった。しかし企業体としての体質の整備がみられなかったせいか、足どりを明らかにする資料は見当らない。
 また、戦時中は、それら職人が兵役に召集され、あるいは徴用で重点産業や軍需生産基地へ出勤させられるいっぼう、建設資材の統制による建設一般の抑止策もあって、巷間の建設の槌音は沈滞をまぬがれなかった。
 そうした中て、昭和10〜13年の地綺組(現在の地埼工業株式会社)による湧別川築堤工事の際、その下請けに従事していた西村章太郎が、その後、独立して本町に居住し、昭和16年からは土木工事に取組んで湧別港の築港工事を手がけ、導流堤の建設など戦時の苦難の中にも工事を継続し、土木業者として着々と実力を蓄積したことは、特筆すべきことであった。

建設企業の台頭  終戦後の復旧は、多難な中にも大なり小なり建設関係者のかかわりは多く、請負人の世界にも息吹がよみがえった, さらに戦後が進み、社会全般が近代化路線に乗って質量ともに充実期に人ると、各種公共施設の新改築、一般住宅や店舗などの修築や新改築、道路網の改修、河川や港湾の改修など、公共事業および民需の建設が相次ぎ、いわゆる[建設工業」という字句がクローズアップされるようになったが、そこには、
 (1) 施工様態が技術的にも規模的にも著しく多様化し、従来の個人あるいは組といった体質では対応できなくなった。
 (2) 建設機械と新しい建設資材の開発が進行し、従来の職人的な能力以上の分野が加味されてきた。
 (3) 自由経済の建前から業者間の競争が厳しくなり、体質強化が要求されるようになった。
といった時代の要求が色濃くあらわれた。その結果、建設企業体としての整備を促進する風潮が高まり、次のような変革が本町でもみられた。
 (1) 個人あるいは同僚的な組としての職人的営業から組織企業(会社組織) への脱皮。
 (2) 一貫性および一連性を見込める総合請負体質の強化。

西村組のあゆみ  本町に根をおろした西村章太郎は、先見進取の気概に燃えて着々と人材を集め、それまで人力に頼っていた工事を機械化するため、ブルドーザーやトラックなど重機の導入を積極的に進め、昭和31年には法人組職を実現し、株式会社「西村組」の旗挙げを果したが、その背景には、戦後の内政目標に挙国的な国土の開発が掲げられ、その重点施策のーつとして昭和23年に「北海道開発法」の制定があり、建設業の存在価値と果すべき役割の重要性が社会的な認識を高めたという時代の流れがあった。
 昭和32年ころ経営不安の一時期があったものの、町民の期待に見守られて建て直しを果し、以後、港湾土木の新分野を積極的に開拓して新しい工法を駆使するなど、順風に乗って社業を高めた。その結果、網走支庁管内はおろか、道東、道北を軸に道内全域に受注がひろがり、昭和33年の完工高は、実に40億円という企業に成長した。
  資本金 4500万円
  従業員 常勤役員以下305名
  本  社 湧別町栄町133番地
  営業所 紋別営業所、札幌営業所
  事業内容 港湾工事70%、土木工事30%で、オホーツク沿岸が主休
が昭和36年度の現況である。

建設業協会  業界の向上と安定、社員や従業員の技術研修、そして協調の機関として、建設業者を中心に建設関連業者を網羅した「湧別町建設業協会」 (窪内康人会長)が発足しだのは、昭和47年のことで、それまでは業者が少なかったので上湧別の協会に合流していたものである。
■正会員
  叶シ村組、葛{本組(以上栄町)、北新産業梶i縁町)、湧別小型運送梶i曙町)、樺川組、樺ゥ倉組、富井建設(以上錦町)、長谷川建設梶A鰹髞興業所、鎌田組(以上芭露)、挙n辺枝研工業(計呂地)

■賛助会員
  石井塗装店、川畑板金工業所、土井産業梶A給g田設備工業(以上錦町)、刈谷電気設備工業、児玉電設(以上緑町)、鈴木板金店(栄町)、為広電気商会(芭露)

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(6)経済成長による変革
中小企業の危機   戦後復興後の工業の流れの中で、本町の工業関係者が直面しなければならない一つの動揺があった。それは自由経済の著しい活況と高度経済成長政策により、神式景気(昭31〜)、岩戸景気(昭34〜)、イザナギ景気(昭42〜)を現出し、社会一般の消費動向が多様化と高級化の道を急速に歩んだときであった。 大企業が輸出ばかりか国内需要に対しても量産と広域消流を推進し、中小企業は自衛策として、体質および生産施設設備の近代化により消費志向に即応しようと、懸命の対応を示し、中小企業ゆえの危機感がみなぎったときであった。
 従来の家内工業的生産はもちろんのこと、小規模経営の零細企業、設備投資や資本蓄積の貧弱な小企業では、遅れをとることが目に見えており、さらに農山漁村の過疎化が進行して、地場消費の減退を余儀なくされ、移出生座品も大手の量販作戦に押されるという内憂外患に対処して、課題となり急務となったのは、企業体質の改善による経営の近代化合理化であり、それは社会の通説であり、時代の要請でもあった。その結果、一部に転廃業、一部に協同化や協業化がみられ、町勢要覧によれば次の推移をみている。
年     次
区     分
昭 36 昭 38 昭 40 昭 42
工  場  数
従 業 員 数
出荷額(千円)
23

447.081
22

529.820
19
333
680.000
15
303
714.000

工業開発と企業誘致   過疎現象による町勢減退を抑止し、産業生産の拡大による回生の重点施策のーつとして、工業開発を掲げ、工業団地の造成と企業誘致および地場工業の誘発を図ったことは、行改編で既述したので省略するが、その眼目には、
 (1) 第一次産業の生産と関連して、地場資源の高度有効利用を促進する。
 (2) 付加価値加工により消費の拡大と市場性の向上を図り、第一次〜二次産業の相関的発展に資する。
 (3) 工場施設従業者の地元供給による雇用と就職の安定を図り、労働力の流出を防止し過疎の歯止めに資する。
区    分
誘致企業名
設置年 所在地 備荒
スノー食品工業株式会社
株式会社ホッコン北見工場
港町水産加工場
カラマツ利用センター湧別工場
登栄床水産加工場
湧別産業株式会社
昭36
昭43
昭46
昭46
昭49
昭50

東部工業団地
港町
東部工業団地
登栄床
上芭露
(次項参照)
昭54改称「北見ホッコン」(次項参照)
漁業協同組合経営(漁業の章参照)
道森連経営(林業の章参照)
漁業協同組合経営(漁業の章参照)
(次項参照)
年     次
区     分
昭 44 昭 46 昭 50 昭 53 昭 55
工  場  数
授 業 員 数
出荷額(千円)
21
333
1.253.870
17
425
1.620.140
20
488
2.974.220
21
249
4.024.810
17
177
2.880.100
年     次
製造企業別
昭45 昭51 昭55
工場
工場
生産額
(千円)
工場
工場
生産額
(千円)
工場
工場
生産額
(千円)
食料品加工製造
木材・木製品製造
土石コンクリート製品製造
輸送用機械器具製造
家畜飼料製造




301
120
31

711.390
347.840
49.680
1.130
19.690
12



302
105
25

5.435.010
478.900
181.790
15.350
-




102
44
25

2.371.050
241.430
241.820
25.800
-
18 465 1.129.730 23 442 6.111.050 17 177 2.880.100
という側面が秘められており、産業界はもちろん、町民の注目するところであった。その結果、着実な関係者の奔走がみのって、前頁の表のような成果をもたらすにいたった。

あけぼの食品の工場  昭和25年に操業を開始した日魯漁業株式会社の工場は、翌26年に同社の系列子会社として「北日本缶詰株式会社」が設立されたのに伴い、その湧別工場となった。
 当初の製品は海産原料を主とし、カニ缶詰を主体に、ホタテなど輸出製品本位の操業であったが、昭和29年にアスパラガス、同35年にスイートコーンなど農産資源を原料とした缶詰を主体に、ホタテなど輸出製品本位の操業であったが、昭和35年にスイートコーンなど農産物資源を原料とした缶詰製造にも着手し、同37年には、
  操業期間 4〜10月
  従業員 80名(うち臨時60名)
  生産量 力二=3,000箱、ホタテ=1,000箱、サンマ=1,000箱、アスパラガス=2万7000箱(70%は輸出向け)、スイートコーン=1万箱
の実績を示した。その後、昭和39年からカニ缶詰が減じ(やがてゼロ生産)、農産缶詰主体に変り、輸出本位であった製品の流通も、次第に国内消費が多くなるなどの変化があったが、社業は着実に伸び、昭和44年には社名を変更して「北海道あけぼの食品株式会社」となり。道内の同社三工場の中の湧別工場となった。昭和56年の操業実績は、
  従業員  140名(うち臨時100名)
  生産量  アスパラガス=7万箱、スイートコーン=5万箱、ホタテ=6,000箱、その他(カボチャなど)=5万箱
であり、道内の缶詰メーカーとしては大手の貫禄を示し、特にアスパラガス缶詰生産では道内25工場中2〜3位に入る実績となっており、本町の畑作農業におけるアスパラガス、スイートコーンを代表的作物にのしあげている。 なお、同社「あけぼの印」缶詰は日魯漁業株式会社の商標で、伝統的に消費者に親しまれている。

スノー食品の工場  誘致運動のすえ注目を浴びて実現した工場で、大阪の日綿実業株式会社の資本進出に、地元資本も参加(町および各農業協同組合などで30%出資)して、資本金2,500円の「スノー食品工業株式会社」が創立され、昭和36年6月に工場建設に着手した。同年10月に工場完成とともに操業を開始した。当初の概況は、
  製造工場  902・20平方b(マッシュポテト製造)
  付属建物  2,274・71平方b(昭37より「はるさめ」製造工場を増設)
  従業員数  職員7,工員50(うち臨時25)




種別
年次
マッシュポテト(t) はるさめ(t) 澱  粉(t)
昭37
昭38
1.200
1.403
300
42
500
229
てあったが、その後、石油危機脱出後の輸入物との競合で低迷をみた。しかし昭和55〜56に待ち直して、昭和56年の概況は、
  従業員数 43(うち臨時30)
 【生産状況】
区   分
種   別
生産量(t) 供給先
マッシュポテト
春     雨
1,200
30
東京圏(50%)主体に全国
道内
  原料生産地  湧別町、上湧別町、佐呂間町、生田原町
となっている。

北見ホッコンの工場  工場誘致による第2号として東部工業団地に「北海道コンクリート株式会社」 (本社深川市)が進出しだのは、昭和43年のことで、その北見工場として操業を開始し、地元産の砂利と砂による規格コンクリート製品の製造を開始した。昭和54年に「株式会社北見ホッコン」と改称し、独立して現在に至っており、あけぼの食品と双璧を成す町外資本企業として着実な歩みをつづけている。昭和56年の概況は次のとおりである。
  従業員数  22







  生産状況
生  産
種  別
生産量(t) 供給先
護岸ブロック
中央分離帯縁石
       13,000
(護岸ブロックが主)
北見、常呂、遠紋地区、地元
生コンクリート 4300 遠紋地区(昭56・6スタート)

湧別産業の工場  昭和50年6月に小谷啓(社長)らによって[湧別産業株式会社」が設立され、同時に上芭露に用地を得て工場建設が行われ、同年10月完成とともに操業を開始した。工場施設の概要は、
   工場面積 1,683平方b(工事費2億5,000万円)
   従業員数 100名(うち女子85名)
   主力製品 海産物冷凍(力二、ニシン、ホタテ、ツブ、タラ、サケなど)、
   農産物冷凍(スイートコーン、南瓜など)
   冷凍能力 20〜30d/1日
   冷蔵能力 810d
で、従業員の休憩所、食堂、集会所施設のほか、工場周辺を公開化した近代的加工工場として期待を巣めた。
 この工場が、浜から離れた上芭露の一角に建設されたことについては、河川水利、女子工員の確保、環境条件の面から英断したもので、働く場所がなく過疎になやんでいた上芭露地区にとって大きな福音となった。また、農家にとっては原料用農産物の生産の面で、反収にしてスイートコーンが5〜6万円、南瓜が4〜5万円になり、他の作物に比して肥料と手聞か少くてすむので喜ばれ、さらに関係農家は株主であり、役員を出して経営に参画するという安定感があった。

 昭和52年度には工員80名で年商約8億円(水産加工70%、農産加工30%)をあげて前途を期待されたが、親会社である湧別冷蔵株式会社の不振から連鎖的に経営が悪化し、昭相53年5月に閉鎖された。
 小谷商店鰍ヘ昭和37年水産加工業として創業以来現在に至っているが、同44年湧別冷蔵鰍フ経営を引受け更に同50年湧別産業経営と業績を拡大した。しかし、前記の如く湧別冷蔵鰍ェ閉鎖し解散となり、同57年あらためて湧別冷蔵施設を小谷商店が買い受けて操業をつづけている。
 ほかに水産加工場としては、寺本、福島、樋口、河井、福田の各商店等およびサロマ水産が操業している。

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