第7編 交通運輸
第1章 未開地の交通事情
第2章 開拓期の交通運輸

第3章 鉄道時代の到来  

昭和の小漁師TOP

湧別町百年史


第1章 未開地の交通事情 
     (1) 先住民族の交通路  (2) 藩幕時代の交通 
第2章 開拓期の交通運輸 
     (1) 道路事情  (2) 陸上交通運輸機関  (3) 海上交通運輸機関  (4) 内水路運輸事情 
第3章 鉄道時代の到来 
     (1) 湧別線開通の軌跡  (2) 名寄線と石北線の開通  (3) 消えた鉄道 

     (4) 湧網線の中途開通  (5) 鉄道開通の波紋
 

(1) 先住民族の交通路  
踏み分け道  先住民であったアイヌの生活は天恵の資源を相手とする狩猟の営みが主であったから、季節により獲物を求めて生活圏内(部族の領地的な範囲)を移動することが多かった。つまり、コタンの住居のほかに、奥地のかっこうな川べりに粗末な仮住まいを設けて狩漁基地とし、男たちは女や子供をのこして、ひんぱんに出かけたのである。
 このコタンと仮住まいを往復する通路、さらには仮住まいから山野を跋渉する通路を、のちに和人が「踏み分け道」と称した。踏み分けとは湧別川やイクタラ川(生田原川)など湧別川水系の川べりに沿って奥地へ進むもので、熊や狐がその習性から横行の際に踏み分けた跡をたどったものでもあった。
 のちに、最初の奥地人植者たちは、この踏み分け道を通って人地することになるが、明治34年に駅逓所取扱人として佐藤文八がイクタラ原野に人地したときの模様が、
  人地するには全然道路がないので、アイヌの通行する足跡をたどることが多く、川の流れに沿って一歩々々、時には川を徒渉し、また岸によじ登り、昼なお暗い密林中をくぐりくぐって、ようやく目的の上地にたどり着いた。
と伝えられていて、「道なき道」にひとしい踏み分け道の一端をしのばせるものがある。

石狩領への通路  松浦武四郎の「近世蝦夷人物誌」に、湧別アイヌの豪勇ハウカアイノが「北はテシホ(天塩)、南はクスリ(釧路)、西は石狩の山々残りなく経歴し、水脈山脈を調べ………」と記されているが、アイヌの行動半径の中には隣接部族との友好交流もあったようで、明治5年6月に松本判官が北見国巡回の際、当時の本村役土人ハウカアイノから聴取したといわれる次の記録に、石狩頷への通行のほどをしのばせるものがある。
  湧別ヲ発シ川筋ヲ通ジ逆登、イタリベツ泊・ムレー泊・チフウエンー泊・ウシー泊・ミヨー泊・シユウベツー泊・ホロカユウ
ベツー泊・ルチシー泊、但此処石狩越山道下ナリ、之ヨリ山二掛カリ、山上二ー泊不相成故遅クトモ山ヲ下リ「タンネルフシベツ」ニテー泊・フエオマナイー泊・サンケシー泊・ウエンマクンベツー泊・アエベツー泊・ヒヒー泊・此処石狩頷二至リ、初メ
テ土人小屋アリ、家数十八軒アリト云フ、之ヨリヲユウベツ川上秋味番屋也、之ヨリ浜(石狩)迄九日路ナリ、総而山ハ只石狩領ヲ下ル処ノミ余ハ川或ハ沢合ヲ通行スルナリ。
実に、湧別〜石狩間23日を要して、川沿い、沢合い、山陵を跋渉する旅だったのである。

(2) 藩幕時代の交通
海  路  寛永12年(1635)に松前藩士の村上掃部左衛門が蝦夷地図製作の役目を帯びて、舟で島回りをしたのが、オホーツク海北見沿岸交通の最初とされている。 宗谷場所開設の50年前のことである。
 1685年に宗谷場所の開設をみて、オホーツク北海岸の一角に交易船か年に1〜2回みられるようになったが、当時の北見国は藩政の届かない未開の後進地として眠りフつけていた。それは以後100年を経て、次の踏査記録がみられることでうなづけよう。
 天明5年(1785)に幕府は、初めて幕吏による蝦夷地調査隊を派遣しているが、幕吏のー人てあった佐藤玄六郎は、
   コノ内地ヘハ古ヨリ松前人行クコト不能………<蝦夷拾遺>
    セウ屋ヨリ白所迄海上二百五十里程モ可有御座侯由申候………<津軽統誌>

と、宗谷より南下して厚岸に出たときの聴書状況を記しているから、船旅が主であったらしい。また翌6年に同じ経路を通った大石逸平が飛船を用いたとあるから、オホーツク海沿岸は陸路の開けぬままに、海路が主であったことを裏づけている。
 寛政2年(1790)に、宗谷場所から分離して斜里場所が開設されたころから、紋別や湧別にも漁場が開かれ、仕込船や交易船か年に数回の往復をするようになったが、北見国沿岸の交通事情は、さしたる開発のみられぬ僻遠の地におかれていた。

陸  路  前記の幕吏佐藤玄六郎の踏査については、海路主体であったらしいと述べたが、陸路についても「網走市史」に、次のような記述かおる。
 徒者一人をつれて宗谷を出発北見沿岸を南下した。特に八月二十三日、幕吏として最初の踏査であった。………海岸づたいに 道なき道を踏み越え、岬を回り川を渡り、エゾの部落から部落へ泊りをかさね、ようやく厚岸にたどりついたのが十月八日、エゾ地はすでに冬に人っていた。おそらく知床半島を船で迂回したのであろうが、それにしても宗谷〜厚岸聞にーケ月半を費し、その難行をまざまざと物語っている。
こうみると、かなり陸路主体であったとも受けとれるが、いずれが正しいのかは明らかでない。かりに陸路があったとしても、その状況は、天明調査隊に加わり、太平洋岸を回って国後島に渡った最上徳内の、
  蝦夷地二道路ハナキ事ナリ、得手勝手二通リテ、自然ト出来タル道路也。蝦夷人ノ風俗ニテ皆跣足ナレバ、其ノ路ノ広サワズカ六寸斗リナリヽ海キハユヘヽ多クハ砂浜ヲ道トス。<蝦夷草紙>
という記述が、北見国にもあてはまるものであったといえよう。
 それから12年後の寛政元年(1797)に、松前藩士高橋壮四郎が踏査して、「松前東西地利」なる報告書を上申しているが、その中に、
  ショコツヨリ是迄十一里程
   □ユウベツ 当所ヨリノヲトロ方角卯二当ル、此所○烽火有リ、此処ヨリ先キ
           アバシリ辺迄十八、九里ノ問大広野ナリ、当所川有り幅二十間位舟
           渡シ、砂浜行。

の道程が記され、これが調査あるいは探険の道筋と定められ、国防上(対ロシア)設定された海岸道路となった。
 翌10年に幕吏三橋右衛門成方の率いる西蝦夷地調査隊180名の一行も、このコースを踏査通行し、同隊に随伴の絵師谷口青山は高島から斜里までの沿岸風景23図を描いたが、その一つに「ユウベツ絵図」があり、 それには、当時のサロマ湖に触れて、
  トキセ 夷ヤ六七、海岸より五、六丁西へ林中ヲ行トキセニ至ル、シヤルマトウ也、清水アリ、中ヲ舟ニテ行八里、海岸ヲ行ハ砂浜也、兼テ沼中ヘトコロより舟ヲ回シ置クナリ。
と付記されていて、舟を併用していたことを物語っている。また、享和元年(1801)に宗谷〜斜里を踏査した磯谷則古も、「蝦夷道中記」の中でサロマ湖について触れ、
  六月九日ユウベツニ泊ル、十日即刻ユウベツヲ出テ、壱里半計ニテトクセイト云所ノ浜ヨリ右ノ方林中二入ル事四、五丁ニシテサンルトウ有、南北ハセマリテ東西六里余南二連山連重シテ、北ハ戸林ナリ。 眺望モタダナラズ、此所二図合船蝦夷船ヲ兼テアハシリヨリ回シ置ヌレバカモヰトノ是二打乗為二舟多カラネバ残リノ人々ハ蝦夷ニトリ海岸ニソウテ行二………
と、舟使もあったことを記しており、概してサロマ湖では上役人は舟を用いることが多かったようである。

休息施設と馬  谷口青山の描いた「ユウベツ絵図」の付記に番屋止宿のことがある。 番屋は場所請負人の漁業経営の拠点施設であって、同時に通行者の宿泊所としての使にも供していたもので、弘化3年(1846)の松浦武四郎の北見国踏査のときの記録(「再航蝦夷日誌」)には、宗谷〜知床聞に番屋17ヵ所、小休所22ヵ所が記されており、本町内にはユウベツ番屋のほか、シュブノツナイ、トエトコに、それぞれ小休所が置かれていた。
 その後、里程標=1里塚も建てられ、渡し場にも渡守が置かれるなど施設が整えられたが、それらは、すべて場所請負人の負担によるものであった。 さらに、幕府や松前藩では、警備と視察の使に供するため、主要箇所に「会所」を設けさせ、宿舎の提供および集会場の機能に併せて配馬の管理を行わせるようになり、のちの駅逓の前身となった。
 次に交通機関としての馬は、文化4年(1807)のロシヤ人の蝦実地来襲による掠奪事件に端を発した蝦夷全島の幕府直轄から、配馬されるようになり、同年北見国では斜里に初めて配馬された。もともと配馬については、松前藩の管轄時代に「伝馬宿次制」というのを藩が施行し、藩吏や藩士の視察の使に供していたようであるが、元禄4年 (1691)三月の藩主の公文書に、
  私領分百姓伝馬宿次無遅々様急度可申付候事
とあるように、僻遠の北見国にはおよばなかったのである。 従って、文化4年に白糠から斜里に配されたのが最初となったわけであるが、幕末に北見国入りした幕吏や藩士が馬を利用したのは、すべて、この制度によるものであった。安政4年(1857)に北見国を通った島義勇は、「入北記」の中で、騎馬通行の模様を、
  八月六日ヤシユウシ沼、チブンノチ沼ヲ渉リ、熊笹人丈モ栄ヘタル所、馬道有リ、一歩モ歩行様子而ハアルケン所ヲヨク馳シル、馴レタルモノナリ、ユウベツ通行家二泊ル。
と記している。 しかし、山道悪路のところは乗馬も容易でなく、
  馬二度蹟テ転タレド、鞍ニアリテ落ズ、鐙下深泥ナル処二至り又転タリ、鞍二安ズル事ヲ得ズ、泥中二落チ直二跨リテ行<成石修「東檄乱筆」>
   北辺ハ山中険坂多ク且路程滑泥ニシテ動モスレバ転倒シテ極難路ナリ、尤馬行六ケシク戦々タリ<玉虫佐太夫「人北記」>

などの紀行が、その困難さを物語っている。
 ちなみに配馬は場所請負人が預って管理し、利用者から駄賃を徴して貸与する仕組みになっていた。

渡し船と橋  先住民(アイヌ)の時代から、湧別川やサロマ湖では舟(丸木舟)や筏が用いられていたようで、天明5年(1785)の佐藤玄六部の検分録「蝦夷拾遺」には、
  ユウベツ川有り暫く蝦夷の川舟通ず
とある。しかし、漁場開設にはじまる北見国の開発は、場所請負人が地域支配者の立場から、道路も、橋も、舟も自費で設けるようになり、渡し場も幕府や松前藩の要請を受けて、場所請負人が経営するようになり、渡守をおいて、渡賃を徴していた。
 架橋がみられるようになったのは、幕吏のひんぱんな往来に起因したようで、徒足渡りの困難な深い川や山道の谷川に架設された。 安政3年(1856)の松浦武四郎の「竹四郎廻浦日記」に、
  フシコベツ ユウベツ川ヲ東へ渡リ、ユウベツ通行家へ入ル手前ニアリ、川幅六、七間悪水遅流ニシテ深シ、橋ヲ架ス
と、本町最初の架橋がみられる。この橋は翌4年の成田修の「東徴乱筆」によると、
  ユウベツ川幅三十間程、舟渡シヲ過テ、浜沙五、六丁ニシテ舟橋ヲ渡リ、ユウベツ番屋二着タリ
とあるところから、川のほとんどを渡し舟で渡り、あとの部分に舟を並べて板状の物を渡して通行させたものであったと思われる。

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第2章 開拓期の交通運輸

(1) 道路事情
刈り分け道  踏み分け道から馬道へと通行者の便をわずかに増したものの、明治初期にいたっても、産業未開発時とて、当時なりに、これが道路交通といえる域には遠くおよばなかった。 わずかに官吏の巡視の都度改修されたもののようで、明治5年の紋別郡と常呂郡の郡界決定に際して、藩幕時代末期の、
  松前藩吏巡回のさいは道路修理のために各村土人が出役、それぞれ持場持場を定めて改修にあたる<網走市史>
という旧習を尊重し、持場境界をもって松本判官が郡界としたという伝えがあるのが、住民夫役による改修策を官吏の巡視の都度改修に置き換えた措置とみることができよう。 こうして改修されたのが「刈り分け道」で、
  笹を刈り、雑木や雑草を取り払い、地形に合わせて曲りくねった通路をつくり、小さな浜川には丸本の橋を架けて………
といった程度のものであった。
 この刈り分け道に類したものは、のちに奥地に開拓者の入地が道んだころ、踏み分け道になやむ開拓者たちが数少い地域の人々の手で開いて、地域間をつなぎ、湧別港方面への所用に役立てたように思われる。 しかし、開墾の合い間をみての作業であったから、その苦労はたいへんであった。 そのあたり、川西方面と芭露方面の往時を辿ってみよう。    明治三十年から大正初期には二、三の踏み分け道があった。最も長いのは西三線十七番地中央から西四線十八番地と十六番地の聞をぬけて同十七番地の東北をかすめ、同十五番地の東南角より西北にS字を長くした形に通りぬけて、同十三番地中央を下り、西五線十二番地で古川側を通りぬけ、同十一番地の東北三分の一のところを通り九番の中央を径て三号線西六線十番地にぬけるものであった。 次に西四線五線間四号より古川西側を通り五号までぬけるもの。 西三線四号以北に入るには西二線十七番地より北へ通り、川辺の比較的乾燥して通りやすいところを通って二号線の各地に入るのであった。<川西>
  入植はサロマ湖上が唯一の通路であり、農場事務所と住い、農場間は自然にできた「踏みつけた道」を通り、つづいて浜湧別へ行くための山麓に沿い五鹿山を抜けてコタン(いまの中湧別)に通ずる踏分け道ができ、奥農場閉鎖後、本間沢と六号線に通ずる踏分け道ができ、さらに奥地への通路は芭露川沿いに往来したが………<芭露>


冬の道  開拓入他者にとって、冬期間の積雪と寒さは、たいへんな苦難であった。 深雪と吹雪はささやかな通行路を壮絶させ、乏しい衣食住の中で、孤島的な隔絶感と寂りょう感、そして厳しい寒さに耐えなければならなかった。 それは体力的にも、精神的にも重圧であった。 しかし、そうした厳しい環境の中にも生活の智恵が働いて、順応するだけではなく、利便を見出すようになった。 その一つに、カンジキの着用がみられるようになり、一面の雪原は夏の道筋とは関係なく短絡通行することができるーもちろん難儀は伴ったが、ささやかな利便だったのである。これが春さきの堅雪状態になると、朝夕はカンジキがなくても縦横に通行できる利便があった。
 さらに、馬橇が導入されるようになると、踏みかためた雪道は利便この上なく、馬橇が当時としては大量高速輸送の利器として、入や荷物の運送に利用されるようになった。 現在、主要道路の路肩に、冬になると紅白の標柱が一定間隔で立てられ、除雪や通行の目じるしにしているが、当時すでに、この標柱の源流といえる仕草がみられたのである。 それは、一度踏みかためた雪道の路線の両わきに、木の柱をさして、以後の積雪晴の除雪や踏み固めの際の「道しるべ」(目じるし)にしていたことである。

中央道路と基線道路  明治19年に3県が廃止されて、北海道庁が置かれてから、本道の統一的な拓殖計画が進められるようになり、北見国開発のための幹線道路開さくが緒についたが、国際状勢も微妙に作用していた。
 明治22年に北海道庁が策定した「中央道路」 (旭川〜根室)は、その背景に軍用道路としての緊急性が秘められていた。 当時の北海道庁長宮永山武四郎(さきの屯田兵本部長)が明治21年にシベリヤを視察し、徳川幕府末期以来のロシアの千島進出と考えあわせて、ロシアの東進(極東進出)に対処する軍用道路として計画を命じたもので、しかも明治24年内の完成が厳命されていた。 北見国を通過する部分は、「釧路道路」(釧路〜網走)と「網走道路」(網走〜北見峠)の2工区があり、網走道路は北見峠で「上川道路」(忠別〜旭川〜北見峠)と結ばれる大工事であった。
 明治23年に開通した釧路道路の延長として、翌24年4月に着工した網走道路39里23間は、囚人を駆使しての突貫工事で、同年12月に開通したが、当時の村域であった5号峠〜下生田原〜遠軽〜瀬戸瀬〜丸瀬布〜白滝を経由したこの道路は、当時としては本町の本格道路第1号であった。
 次いで明治25年に、中央道路(網走道路)の野上から分枝して湧別原野の中央を北に縦走し、浜湧別(現港町)にいたる「基線道路」6里20町が開さくされた。 基線道路という呼び名は、湧別原野殖民地区画の基線に開さくされたことによるもので、のち「湧別街道」とも別称されたが、道筋の、直線部分が長いことと幅員の豊かなことから街道と連想を生んだものであり、改良された現在でも、往時を連想させるたたずまいを伝えている。
 本格道路第2号となった基線道路も、囚人の労役によるものであったが、それと同時に、4年後の屯田兵村設置工事のことを考え合わせると、やはり拓殖以外に軍用道路の性格がにじんでいたといえよう。

囚人哀史  中央道路と基線道路の開さくに囚人が動員されたことから、後世「囚人道路」と記述された刊行物がみられるようになったが、そこには想像に絶する囚人哀史が秘められていたのである。 中央道路の「釧路道路」を開さくしながら北上して網走に達した釧路集治監(標茶所在)の囚人たちは、着工の年に分監として設置された「網走集治監」 (のちの網走刑務所)に拘置され、引きつづき「網走道路」の開さくに酷使されたのである。 「網走刑務所沿革史」から、その概要を校章しよう。
  本工事は、北海道拓殖計画に基く道路として、明治二十四年四月空知分監は旭川方面より網走の囚徒は網走を起占として着手、網走は囚人八百名を逐次増員して千百名余に遂した。なお工事は竣工の急を要するのと最難工事であったので、次のような作業督励の方法を採った。終点まで十三区域に分け、一区間に看手長一名、監督補助二名(看守部長)、看守十二名を配置、囚人二百名を以て一組とし、一区間は二里乃至三里とし、仮前回を設け、分担区域は双方から着手し、必ずその中央に於て成功を 期することとし竣工すると直に前進し、次の区域に移り、国境まで遂するようにした。
  このような督励方法を採ったために、各分担区域では激烈な競走心を煽り、殆んど昼夜兼行の作業を敢行し、一区間僅かーカ月余で竣工した個所も少くなかった。殊に第七、八及び十二、十三の四区は峻嶮な鎔谷連り本工事中の最難関であったので工事竣工期日の遅延をおそれ、特に爆薬使用の認可を得て全員苦闘、これまたニカ月余の短時日で開通するなど実に予想外の進捗完成を遂げたのである。
  しかしながら右のような分担督励による競争作業の弊害は、戒護検束の厳正を失わしめ過激な重労働は囚人の健康を極度に害し、疾病者多数を出し、逃走着もまた続出するに至った。加えて工事の進行に伴う仮泊所の移転も頻繁であったので、糧食補給の円滑を欠き、挽割麦の欠乏によって白米食を給食したことと、時恰も盛夏の候で霖雨連日に亘り湿気甚しく、粗雑極まる仮舎に多数雑居する等、医療環境衛生の不備と相まって殆んど全員に一種の水腫病が発生し、数カ月間に二百名近い死亡者を出す惨状を呈したことは(出役者千百袷五名、病者九百袷四名、死亡者百八袷六名)、当時の衛生施設の不備と行刑思想の相違がもたらした大きな犠牲であり後世への教訓でもあった。                       このような犠牲を払い工事の急速完成を敢行したのは、北海道庁がその権限下にあった集治監に命じて本道開発の速成を期する政策の一端として、この種工事の囚人労務を強制利用せしめたからであるが、北海道開拓の地下に眠る誠に尊い犠牲であると共に、先人のその労苦に対して感激の新たなものがある。この北辺開拓の尊い犠牲となった霊は、札幌市西本願寺別院に建立した納骨堂に安置され、永く本道開拓に尽した功績を偲ばせている。


仮定県道  中央道路と基線道路を国道または県道に位置づけして、それの枝となる幹線道路網を仮定県道とする拓殖計画の交通施策は、明治30年代になって始動し、次の3路線が「仮定県道」として開さくされ、拓殖と警備上の重要幹線となった。
 @ 4号線〜紋別 6里17町54・5間(稚内〜根室=北海岸線道路の一部)=明31竣工
 A 7号線〜ケロチ川 4里4町44間(湧別〜網走道路の一部)=明35竣工
 B ケロチ川〜トップシ 2里2町59間(湧別〜網走道路の一部)=明41竣工
しかし、仮定県道といっても、踏み分け道に毛の生えた程度で、路床ははっきりしていたが砂利が敷かれたわけでなく、4号線〜紋別間を例にとってみれば次のようであった。
  シブナイ大谷地(三〜四線間湿地)は川西〜信部内の中間地帯にあって、当時もっとも難所といわれたところで、道の形にはなっていたが容易に固まらず、両側の木を倒し込んで、ようやく人馬の通行を可能にするありさまであった。<土井重喜談>

殖民道路  開拓期の北海道の道路事業は府県と異り、開拓使時代以来、里道も含めて大部分が「殖民道路」の名のもとに、いっさいが国費(拓殖計画による拓殖費)によってまかなわれていた。これは、移住者の定着を図ることが急務であったことと、膨大な道路建設費を負担するには本道の地方財政(町村財政も含めて)が、あまりにも未熟で貧弱であったことによるものであった。本町でも入他者の増加とともに殖民道路の開さくが進み、次のように開さくをみた。
路  線  名 開さく
年度
区         間 里     程
湧別原野道路 明30 西4線4号〜東10線サロマ湖畔 1里32丁57間7
湧別市街道路 明35 7町5間
バロー原野道路 明37 湧別・網走道路〜14号 1里33町58間42
バロー原野道路 明40 14号〜19号 1里20間
イクタラ原野道路 明40 湧別原野東8線〜イクタラ原野基線2号 1里30町15間4
湧別原野2号線道路 明40 字遠軽〜野上第6号 1里9丁37間6
ケロチ原野道路 明41 湧別、網走道路〜11号 1里4町35間
トコタン原野道路 明41 湧別、網走道路〜東1線10号 1里5町15間5
サナブチ原野・川沿岸道路 明42 3里24間4
バロー原野道路 明43 16号〜23号 1里
バロー原野・志武士川沿岸
道路・シブシ原野道路
明45 シブシ川沿岸道〜南16線 1里23町30間
これらの殖民道路は国道や仮定県道と結んで原野奥地に伸び、逐次延長されて現在の道路網の基礎を形成し、のちの道道(地方費道)や主要町道(村道)の原型となったのであるが、仮定県道同様に、開通当時の通行事情は次のようであった。
  道路とは名ばかりで、いたる所穴だらけの、又排水も悪く歩くだけの道で、車馬の通行には非常に苦労した。特に東四線から 東十線のサロマ湖畔までは、泥炭地の湿地帯が多く、車馬は何度も荷を積み替えなければならなかった。部住民の暇な時期に共同作業で、立木を切り出し割木にして、道路に敷き詰めて通行した。<湧別原野道路>
  明治四十三年、東の沢入植者総出で十七号(上芭露市街)に通ずる道を刈り分けした。道路が開かれたといっても仮道のことで、側溝があるわけでもなく、湿地帯にはタモの割木を敷きつめ、川には丸太を投げ渡した見るからに未開地の道であった。<バロー原野道路>

  雨が降ると私どもは道端の畑を通るので、これを阻止するため糞尿を撒かれたが、いっこう平気なもので裸足でその上を歩いた。それほど降雨時には悪路になった。<北湧校通学生のいい伝え>

渡し場  先に場所請負人が藩幕の要請で、自費で開設した渡し場は、明治2年の開拓使設置による場所請負制廃止により、一部が官営に組みこまれ、民営と官営の間で、あるいは各地域間で運営がまちまちになっていたが、同6年末全道的に統一し、渡守の任命による請負制度にした。
 明治15年に3県1局時代となってから、根室県では駅逓所と同様に、通行人が少なく維持困難な渡し場には補助金を交付するようになり、さらに国道および県道筋の渡し場はすべて官設とし、交通に交障のないように改善された。このときの本町の渡し場は次のようであった。
人の渡賃(1人) 馬の渡賃(1頭)
湧別川
渋  津
1銭2厘
7厘
2銭0厘
1銭0厘
次いで、北海道庁時代に入って、明治28年8月に「渡船場規則」が制定され、従来、各県で区々に定めていた制度を統一し、官設と私設の区分を明らかにして、それぞれの渡船業務を規定した。 さらに同31年10月に「渡船取締規則」および[渡船取扱規程」の制定があって、渡船場の設備内容、業務上の心得、料金が詳細に規定され、渡船の充実がはかられたが、湧別と社名渕(開盛)の渡船場は、この規則規定によるものとなった。

架  橋  開拓使時代になって拓殖道路開さくに目が向けられたが、財政的に架橋には手が回らず、前時代の渡船によるところが多かった。明治12年に通行した酒井忠郁の「北地履行記」にも、
  湧別川二流二分レ海二注グ、一八十間程ノ板橋アレドモ馬通ズルヲ得ズ。
と、ようやく人が通行できる1橋をみるに過ぎなかったことが記されている。
 道庁時代になって道路施策は大きく改善され、中央道路や基線道路などの幹線道路の河川には本橋が架設されて金山橋、巌望橋、社名渕橋、開盛橋120b)などがお目見得し、4号線〜紋別道路にも開さくの翌32年に湧別橋が完成して、交通運輸の様相は一変した。 以後開さくの殖民道路も、ほとんど架橋を伴い、渡船や徒渉の不便はみられなくなった。
 しかし、当時の架橋はすべて本橋であり、中には簡易な丸木橋式の構造のものもあったようで、洪水でしばしば流失するありさまであった。主な橋の流失の記録としては、
  昭31・9 巌望橋、金山僑、社名渕橋
  昭39・春 開盛橋
  昭44   湧別橋
などがあり、このうち開盛橋の復旧については、仮橋架設費2,000円が計上されたものの、財源に半額地方費補助を見込むものであって、補助見通しがたたぬまま実現しなかった。このため39年12月末に再び官設渡船場が開設され、大正15年12月に橋の建設をみるまで渡船がつづいた。 また、湧別橋は大正10年、昭和14年にも流失していいるが、再建橋梁のいずれもが木橋であった。

地域の道直し  悪路の改修は住民の最大の関心事の一つであったが、財政力を伴わない開拓期にあっては、一度設定された公道の維持補修は、地域住民の労役による共同作業にまたなければならなかった。例えば、
  基線道路の兵村地区では、農産物搬出に共同出役で路傍の砂利を振出し、モッコで運んで路面の穴を埋めた。
という。他の地域でも関係住民によって、自主的に補修作業が行われたことはいうまでもない。
 明治37年に行政上の措置として「道路掃除受持区域」を定め、区域標識を建て、関係住民に分担区域の補修責任を負わせる仕組みが施行され、以来、「道直し」と称する地域の共同作業は年中行事化し、7月下旬に一斉出役し、側溝の浚渫、路面補修、路傍の雑草刈払いが行われるようになった。 しかし、交通量の増大は道路の破損度を上昇させ、関係住民の「道直し」の限界を超える事態も生ずるようになった。

道路工事の夫役制  「道直し」の限界を超える困難な工事や新設道路工事など、村当局の施工によらなければならないものも少くなかったが、村財政に余裕がなく、道路関係は橋梁を除き村費の支出がなかったから、もっぱら関係住民の出役によって工事が行われた。
 それは「夫役制」というもので、いいかえれば税金の代りに労力を換算して提供する形で行われたのであり、学校建築に際して地域の寄付行為がなければ、建築が認められなかった事情と相通ずるものであった。 しかし、開拓初期の農民は開墾と食生活に追われて、夫役の実施が困難な状況下にあったから、継続されず、止むを得ない場合のみに限られていたようである。 この事情は大正時代になっても進展はなく、大正5年に町村制にもとづいて夫役制の立案をみたが廃止となり、翌6年に設定した「夫役賦課法」は、戸数割を基準として1〜6等に区分し、1等10人、以下8、6、4、2、1人としたが、実効があがらず1〜2年で中止されている。
 なお、年代は飛ぶが、昭和6、7、9、10年をはじめとして、凶作時に救農土木工事などの補助事業が行われるようになってからは、必ず道路工事が中心事業として実施され、村費支弁の効果的運用がみられたのは、労務収入(救農)を伴ってはいたものの、夫役方式の流れを汲んだ発想であったといえよう。

北海道道路令   第一次世界大戦で自動車が鉄道の補助手段として、重要な役割を果したという教訓が契機となって、道路交通の整備が現実的な問題として認識され、大正8年4月に「道路法」が公布されて、わが国の道路行政は画期的な進展をみることになった。
 道路法では、従来の国・県・里道にかえて国・府県・郡・市・町村道に区分するとともに、路線の認定基準を設けて格付し、管理者を定め、費用の負担区分を明確にした。
 しかし、北海道の場合は殖民道路の項で述べたと同じく財政力の貧困がつづいていたので、道路法公布の年の11月に勅令で「北海道道路令」が特例として公布された。 これにより道内の道路は国・地方費・準地方費・区(のち市) ・町村道に格付区分されて、準地方費道以上は長官が、他は区長、町村長が管理者と定められ、費用負担も国・地方費道は国費負担として拓殖費から支弁され、他は、それぞれの管理者が掌握する財政からとされたが、道庁長官が拓殖のため必要と認めた場合は、期間を定めて拓殖費から支弁できるものとされた。
区分
年次
道    路    延    長 橋梁延長
地方費道 旬地方費道 村   道
大15
昭 6
昭 8
昭11
昭15

8里11軒
8里11軒
8里11軒
8里02軒
8里11町
20町
20町
20町
20町
152里06町
127里33町
127里33町
127里31町
140里03町
160里17町
136里28町
136里28町
136り26町
148里05町
309間
380間
380間
380間
386間
 立法そのものが、国防上の見地から自動車の運行を基底においていたから、このころからの道路は幅員の面で拡幅されたことはもちろんであるが、砂利を敷き込む方法がとられるようになり、当時としては、現在の舗装に匹敵するほどの道路革命となった。 また、自動車通行ということは、必然的に橋梁の耐重性も考慮され架橋法も政善された、
 本町における道路および橋梁の、その後の推移を前頁の表にみよう。<村勢要覧>

道路保護組合  大正初期に、「開拓の進捗に伴う道路延長の増大と、地域住民生活の安定化を図る」ことを目的に、「信部内道路河川愛護組合」が発足し、
  春秋の道路補修、河川清掃と橋の補修を主なものとし、冬期間における通学路、牛乳輸送路の確保に甚大な努力を………
を主な事業として道路の維持に寄与しているが、川西でも「地域には道路愛護組合があるので、これが適正な運営こそ………」とあって、この時代に道路愛護組合が自主的に各地域に誕生したものと思われる。
 名称がどうして変ったかは不明であるが、昭和年代になると、「村勢要覧」<昭7、9、11>に「道路保護組合15」と記されている。 組合数15というのは、当時の村内行政区15区編成と符合するから、村内全域を網羅していたわけで、
  若干の助成は村よりあったが、その大部分は地区住民の奉仕であった。
という信部内の記録から推して、村当局の行政指導と地区住民の自主性による合作で全村にいきわたったものと思われる。 そして、路傍の草刈、路面の凹凸補修、砂利敷に定期的に奉仕していたことを思えば、前々項の「地域の道直し」の改訂版的な色彩をもって組織されたものともいえるが、当時、毎年7月25日が「道路愛護デー」であったことも、大きくかかわっていたといえよう。
 話は飛ぶが、戦後復興を経て道路行政は大きく様変りして、夫役的な奉仕事業は激減したものの、組合は継続され 「昭和30年代に道路愛護組合の協力で、トラック輸送の川砂利をもって延長271粁余の町道補強」 「昭和35年西の沢道路拡幅工事(2、100b)の成果が認められ、知事から努力賞を受賞」など、各区道路愛護組合の寄与するところ大なるものがあった。


(2) 陸上交通
   運輸機関
紋別駅逓所  幕末の「会所」は、開拓使設置の明治2年に「本陣」と改められ、さらに同5年1月に「旅籠屋並」、同年4月に「旅籠屋」と改称されたあげく、同年5月に駅逓を扱う族籍屋は「駅逓所」に改められた。 これを機に駅場賃銭の改定、人馬賃銭を定める一里単位を36町とするなど、駅逓運営の統一がはかられた。 しかし、当初は幕藩時代の慣習がつづいていて、官吏の巡回は漁場持に通告され、これを先導するアイヌは礼服を着用し、休泊所では酒肴、茶菓の供応を慣行として踏襲し、さらに官吏の出張規程には階級によって馬匹や案内人に定数があるなど、物々しさが弊風として残っていた。 このため開拓使根室支庁松本判官は、明治6年8月7日付で戒めの布達を管内駅逓所に出して、改善されるようになった。
 こうした行政施策の滲透と併行して、行政連絡の円滑化と一般旅行者の便宜のために、明治9年に北見国にも、斜里、網走、紋別の3ヵ所に駅逓所が開設され、紋別駅逓所が湧別原野地域とかかわりをもつようになった。 明治11年5月には開拓使根室支庁によって、経営困難な駅逓所に対して補助金を交付する保護策もとられることになった。
  当分ノ内駅逓補助金トシテーケ年金八十円ヅツ年手当差遣シ且駅逓付トシテ官馬牡弐拾頭ヅツ下附侯条兼テ相違置候規則遵守 公使ノ継立等不差文様可致猶下附ノ馬匹ニテ不足ノ駅ハ相当ノ代価ヲ以テ払下可致候条各駅取扱人へ可相違此旨相違候事。
がそれで、紋別駅逓所においても、
  明治十一年五月紋別へ官馬二十頭ならびに補助金八十円が給された<紋別市史>
という記録がある。

湧別駅逓所  明治16年に根室県では駅逓制度を拡充することとし、次の告示を発しているが、これによって北見国に新たに4ヵ所の駅逓所が増設されることになり、翌17年に湧別駅逓所の開設となった。
    十六年根布乙第百七十三号
      十二月六日                                         郡 役 所
  ………北見国斜里郡サシルイ、同国常呂郡鐺沸村、紋別郡湧別村、幌内村ノ各所へ駅逓新設侯条、右取扱方志願者ニシテ将来永続等確実ノ見込アル省二限リ、別紙手続二拠り資金貨与可致候条身元井二財産等取調願書可為差出此旨相達候事

こうして明治17年に和田麟吉が湧別駅逓所の取扱人を命ぜられ、根室県から施設費600円と駅馬25頭の貸下を受け、網走から大工を招き30坪の建物を建て、馬丁2名を雇用し、請負制によって同年7月に開業した。 開業の初期は経営が苦しかったらしく、「河野野帳」に、次のような一節が記されている。
    和田麟吉氏へ質問
  契約六百円貨下馬二十五頭五ケ年賦(百二十五円)返済、然ル二通行ノ旅客ハ官吏ノミ馬丁モ二名モ使ヒ、傍ラ農ヲナサシメルモ旅客少クーケ年ノ収入三十円位ノミ、各所ノ駅舎皆失敗セリ、十九年家屋焼失、二十一年馬代ハ皆済セシモ、六百円ノ内二百余円残り居リシモ、是ハ棄損頂戴ナリ。二十一年駅逓ヲ廃シ人馬継立ヲナス。
この末尾の「21年・:……」については、解釈に疑問が残るので次項で詳述するが、以後も和田麟吉による駅逓業務は続き、湧別郵便局開設による局長就任後は、駅逓業務は佃田三作、渡部精司、鷲見与三吉、堀川泰宗と継承され、昭和4年度の存続期間終了まで続いて廃止となった。
 駅逓所取扱人は開拓斯の移住者の水先案内人として相談相手になり、その後も住民の世話係的な役割を果したが、和田麟吉もその一人で、地域開発に意をくだき、人々の世話はもとより村総代その他の公職に推されるなど住民の信望が厚かった。 明治39年9月刊行の「移住者成績調査第一編」<道庁刊>には、誤記も見られるが、次のように紹介されている。(抜粋して掲げる)
  安政六年大阪府三島町高槻町に生る。父福山繁三郎は高槻藩家老を務む。和田家の養子となり、明治十二年東京に出て漢籍を修む、十七年渡道、函館、根室、一時網走郡役所に勤務す。十八年五月辞職、湧別に未開地九万坪及び宅地一、八〇〇坪の払下を受け開墾に就く。
  旧土人の小屋を借受け住居し、鍬の農法では事業が捗らぬ点から先往者長沢、徳弘と図り、根室県庁に趣き知事湯地定基に請願するに開墾資金五百円、牛馬三、四頭、プラオ、ハロー貸付のこと、知事の意見交通の完備の必要性から駅逓の設置として設備資金五百円と馬匹二十頭を五ケ年返還で貸与され、駅逓業を開始す。旅客稀にして収支償はず二十年に至り火災により燃失す、再建するも容易ならず行商をなして糊口を凌ぐ、酒を醸造販売して多少の収益あり、農収入あり永住の基礎を造る。二十一年鮭漁業を始め、二十二年五、六百の利益あり、之によって家族を郷里より呼寄せる。二十五年漁業失敗により廃止し専ら農及び酒造業を営む。二十六年郵便局を設けらるるに当り局長となる。二十八年一月隣家よりの失火により類焼家財及び酒七十石を烏有に帰す。成功の状態所有地一二町歩、四町歩自作、専ら郵便局事務を取る。


駅逓所の増設  中央道路および基線道路の開通、駅逓所の開設が相次ぎ、さらに仮定県道や殖民道路の開通で、奥地への駅逓所開設が進んだ。
 増設された駅逓所と取扱人は次のとおりである。
  明25・11 野上駅逓所(遠軽)=角谷政衛
   明26・4  滝ノ下駅逓所(丸瀬布)=亀屋宇之助
           滝ノ上駅逓所(白滝)=中沢謙三郎
   明33・4  小向駅逓所=竹内文吉
   明34・5  下生田原駅逓所(旭野)=佐藤文八
   明40・4  床丹駅逓所=長船慶喜(明42死去し後任に栄慶太郎)
   大 9・5  芭露駅逓所(上芭露)=加藤政千代(のち小山春吉)

 貨物の運送は主に駄馬によったが、後には荷馬車を使い、冬は馬橇も利用され、貨物の多少と距離によって料金に相違があったようで、明治42年7月の「殖民公報」によれば、野上駅逓所の取扱いについては、
   宿泊料は二食付で一泊七五銭と五五銭に分かれている。逓送は騎馬送又は人夫送で小包、郵便の併送で、一時間の所要行程は およそ六キロメートルと決められていた。荷物の運送重量は騎馬の場合は三〇キログラムまで、人夫のときは一五キログラムま で背負うことになっていた。
と報じられているが、標準的には1泊55銭(当時の酒1升相当)、取扱人手当支給は月額8円(当時の米一俵相当)であったという。
 この聞の駅逓所に関する施策の変遷としては、1つには明治28年6月に「官設駅逓所取扱規程」が定められて、利用者が少く経営の困難な駅逓所に補助金を支給する道が開かれ、2つには明治33年6月に「駅逓所規則」が改正されて、駅逓所の改廃・新設は人馬継立業者の有無にかかわらず、公益上必要と認められる場合に限るとされ、官設駅逓所取扱人に対する駅逓所廃止後の保証も明示されたことがある。 2つめの改革については、翌34年5月25日に下生田原駅巡回新設にもわせて湧別、野上、滝の下、滝ノ上各駅逓所が再登録的に設置告示がなされたという経緯があった。ここで小向駅逓所と竹内文吉について触れておこう。
  小向は明治四一年に現在の村界が確定するまでは、湧別村小向といわれたところで、小向駅逓所は湧別と紋別の中間駅逓として利用度も大きく、湧別にはもっともかかわりの深い隣接駅逓であった。竹内文吉(新潟県人)は明治三三年四月に、この小向駅逓所の取扱人を命ぜられ、爾来二〇余年間駅逓所経営に当った人で、この間、明治三六年七月に湧別村基線二〇番地に入植し、開拓の先駆者として農業にも従事し、徳弘正輝と二人しかいない農業者とも記録されている。この小向駅逓所は大正一〇年の名寄線鉄道開通と同時に廃止されている。<土井重喜談>
なお、床丹駅逓所は昭和7年に、芭露駅逓所は同16年に、時代の波とともに廃止となった。

人馬継立所  湧別駅逓所の項で「河野野帳」の一節の、「21年駅逓ヲ廃シ人馬組立ヲナス」を掲げたが、これは明治21年4月11日の告示第32号の、
  釧路、根室、北見、千嶋四ケ国ニアル駅逓所八本年六月三十日限り之ヲ廃止ス。
に起因するものである。しかし、これらの記述資料のみでは駅逓所が消滅し、明治34年の駅逓所設置告示までの間が杜絶えていたと受けとられるので、若干補足しておこう。告示第32号の「廃止」というのは、
 (1) 三県時代の駅逓所関係諸規則が、各県ごとに区々であり、同じ県内でも地域状況によりばらばらであったもの  を改め、全道的に統一した官設制度とする。
 (2) 拓殖計画による旅行者の増加により官馬だけでは応じきれない状況がみられるようになったので、勧業的に人 馬継立業を制度化する。
 (3) 人馬組立所は駅逓所にも併置し、駅逓所取扱人の経営経済上の一助とする。
といった借置にもとづいた旧制度による駅逓所の廃止であって、「改廃」のための第1次的経過であった。 次いで第2次的経過として、告示第32号と同時に定められた「人馬継立営業規則」施行に関連する告示第33号で、「人馬継立所設置駅逓所」として湧別駅逓所も指定されていて、駅逓所が廃止されたのではなかった。その後に開設された野上、滝ノ下、滝ノ上の各駅逓所も、もちろん、れっきとした官設駅逓所である。
  「人馬継立所」は前述したように勧業施策として発想されたもので、現在風にいえば、貨客運輸業を営むものであって、駅逓所が官営的性格であるのに対し、民営企業的性格のものであったが、駅逓所への併設が優先されていたのは、前記告示第32号の補足(3)によるものであった。 湧別駅逓所の人馬継立が、どの程度の営業規模であったかは不詳であるが、                
 廃止時の川西の付属牧場200(70〜80の説もある)町歩は取扱人に無償交付………
で、一端をうかがうことができよう。なお、この無償交付という措置は、前項で述べた「官設駅逓所取扱人に対する駅逓所廃止後の保証」 (明33)を意味するものである。
 本町における人馬継立所の駅逓所併置は、湧別駅逓所に次いで、「二十四年新設ノ継立所ハ……北見国紋別郡湧別村字『ヌッパ』外ニケ所二各一……」<24年勧業年報>とあり、ヌッパ(野上)、滝ノ下(丸瀬布)、滝ノ上(白滝)の三ヵ所に開設されているが、この3ヵ所は人馬継立所が先行し、あとから駅逓所が設置されて併置の形となっている。 すなわち野上は明治25年、滝ノ下と滝ノ上は同26年に駅逓所が開設されたのである。
 駅逓所併置とは別に、民営の人馬継立案者も、旅行者の増加とともに出現し、「北海道殖民状況報文」の湧別村の項には、
  明治二十八年俄二市街ノ形成ヲ成シ、目下戸数五十余戸、旅人宿四人、人馬継立四………
と記されているが、それよりさきに「明治19年運送業ヲ営ム者2戸」<北海道統計総覧>という記録もあって、人馬継立制度以前に早くも1戸(1戸は駅逓所かもしれない)の営業がみられたようである。その後、明治33年6月に「人馬継立営業取締規則」が設定されて、駅逓所以外の営業者は許可、検査によって監督取締りが行われるようになったのは、民営継立所の競合的開業に対して、公的企業としての体面や内実を重視したあらわれであった。
 ちなみに、明治26年12月刊行の「北海道実業人名簿」には、人馬鎧立業和田鱗古の名が掲載されている。

徒歩と駄馬  用具的な交通機関を書く前に、その前提として、最初は「徒歩」と「駄馬」という原始的な交通運輸手段しかなかったことを書き留めておこう。
 馬が導入されるまでは徒歩と入の肩以外に頼るものはなかった。 奥地に入地した入たちは、湧別港に定期船が入るたびに、生活物資や農耕用品を買うために、悪路を浜市街まで出向くのであった。明治40年にイクタラ原野に入植した恩田信次の遺稿に、
  明治四二年春のこと、種馬鈴薯三俵を運ぶのに遠軽から先は、まず一俵を背負ってー〜二`歩いてそれを置き、引き返して次の一俵を同じところに運び、
 また引き返して三儀目を遠ぶ、これを何回もくり返して、やっと家に運んだ。

という苦労話がある。これが10里を距てた奥地の実情であり、もちろん泊かけてあった。
 入の肩に代って馬の背が輸送力の主役となり、荷物は駄鞍で、入は騎乗(馬の背を跨げない子供は鞍上の箱)で運ばれたが、それでも10里の道は泊りがけの往復だったという。

地車と土橇  やがて馬を介した運搬用具が考案され、馬力運送は能率の向上をみた。 「遠軽町史」によればヽ馬車や馬橇の導入の先駆のころヽ経済的に乏しい農民たちが、次のような工夫をこらしていたことが記録されている。

  一般に″地車″(どんころ馬車)と言うものが使われ、手作りでできるのでヤチダモなど堅木の直径六〇センチメートル前後の丸太を一二センチメートル位の厚さに輪切りにしたものを車輪にして、心棒にはイタヤを使、たが、心棒は後に 鉄になり車輪にもかま金をはめるようになった。この″地車″は、夏季に木材運搬など相当重量のある物の運搬にも使われた。
  又、馬車のない農民は簡単なそりを作って物を運んだ。これを″土そり″と呼んでいた。


馬  車   明治29年に創立された学田農場では、初めから馬車が使用されていたし、農場の馬耕請負にきた人たちも馬車を持ってきたという。 また、同年春からの屯田兵村建設工事の際、湧別浜からの諸物質輸送のため、工事請負業者が馬車6台を持ち込んで使用したという記録があり、これらが、本町に姿をみせた最初の馬車であった。
 屯田兵村建設に使われた馬車のうち4台は、翌30年入他者の荷物運搬に使用され、請負人引揚げのときは、破損が著しく捨てられたという。 同じく30年の屯田兵入他のときには、阿部寛太郎(永山駅逓所取扱人)も荷物の運搬を請負い、荷馬車30台を投入し、終わってから農家に1台3円ぐらいで売り払ったといわれている。
 次いで学田移民の高尾定平、奥山吉之肋ら資本主で大地した人たちが、事務所の世話で明治32年に札幌から馬車を買い入れている。 この馬車は「札幌馬車」といい、台本と腕木が一本の木でできており、鉄心棒の車輪も木製で着地面に鉄の輪をはめたもので、車輪の幅は2寸であった。 軽快な反面、負荷力が少なかったが、道路事情と土産馬の体格から、この程度のものが手ごろであった。しかし、
  当時は道路が軟弱で砂利が敷かれていなかったから、わだちがめり込んで、ひどいときは車軸までぬかって立往生したり、転覆したりした。

という苦難のほども伝えられている。
 その後、路面を著しく破損するということで、2寸幅車輪のものは使用禁止となり、4寸幅のものが使用されるようになって利用面が拡大され、修理製造の面でも、それを業とする者があらわれた(産業編参照)から、湧別方面における普及のテンポが早まり、大正2年79台、同3年95台と増加し、収獲物や薪炭材の搬出に活躍したが、当時としては大量輸送機関として重宝がられたものであり、同時に馬匹の品種改良も促進された。

手橇と馬橇  橇は雪上で使うため、道路の良否にあまり関係なく、滑らせるという原理が曳く労力を省かせ、斜面は自動的に滑降するという利点があったから、積雪地帯から移住してきた関拓者たちは、すぐに手橇を利用して、自家用薪炭材の集荷や造材搬出を行った。
 本町に馬植の導入をみたのは、明治32年に学田の高尾定平が札幌から買い求めて使用したのが最初のようで、次いで野上に入地した佐藤多七が、主にアカダモの本で馬橇を作ったという記録がある。 当時の手橇や馬橇の製作について、「遠軽町史」から引用してみよう。
  馬そりの初めは、馬を多く持っている者が曲木(まがり木)で手製の”しば巻きぞり”を使用した。・・・・立木を3分の2近くのこで切り、それを倒すとのこの切り目から裂けて切株に付いたままちょうど馬そりの鼻のように曲る。そのまま一年近くも置いて曲りが固定すると、それを切り取ってそりを作った。農民が冬の雪道に使う左側に腕木を付けた物や、腕木のない手ぞりが利用されていた。
 また明治36、7年ころ4号線の窪内源吉が馬車とともに馬橇製造を行い、学田の奥山吉之助もナラの本で手製の物を作ったという。いずれも高尾定平の買った札幌製の馬橇を見本にして作ったもので、奥山吉之助の場合は1台7七円ほどで付近の者に7〜8台売ったというが、この技術が見込まれて、窪内原吉から冬季農閑期の手伝いを頼まれたことがあったというエピソードも残されている。
 こうして普及をみた馬橇はヽ当時としては馬車以上に簡易な大量高速輸送機関として重宝され、冬季農閑期の出稼ぎ(木材運搬)のこともあって、馬車を数等上回る普及をみせ、大正2年には385台を数えた。
  馬橇の用途は収穫物の搬出入や木材運搬に限らず、構造を軽快にして旅客輸送業者にも使用され、農家でも普通そりに箱をつけて乗用とし、農家の所用に欠くことのできない役割を果すようになった。その後、農家に限らず物資の運搬や住民輸送の機関として、多く使用されるにいたった。

自転車  明治36年ころ浜市街の楠瀬彦九郎が、1台の中古自転車を小樽から買い求めたのが本町初の自転車であった。 しかし、故障するたびに、小樽まで修理に送るという不便があったという。 小川市十の談に、
  何台かになったころ、スピードに興味を持った人々によって自転車競走が催され、急ごしらえの場所で3台で行われたが、慣習は包み金を選手に投げて喜んだ。
というエピソードがある。
 上芭露でも明治43年に横山武一が金輪の中古自転車を買い、翌年にはタイヤの中古自転車を求め、越えて大正3年に横山武一と山木辰次が、ともにアメリカ製のブリジストン自転車数台を導入したという。 また車芭露でも鬼頭平吉が自転車に乗ったという記録があるが、それでも大正3年の村内台数は15台と普及度は極めて低く、当時の経済事情の反映ともみられるが、生活意識が、それほど速度を必要としなかった一面もうかがえる。

小運搬業  開拓が進展して物資の流通量が増加するに伴い、人馬継立所の機能ではまかないきれないようになったころ、当然のごとく小運搬業の発生をみ、馬車、馬橇による運送業が活発になった。
 俗に「馬車追い」と呼ばれた運送屋は、明治40年度地方税営業税商業第一種運送業者として、次の9名の名がある。
  赤繁助太郎、田沼為四郎、安立勇七、本間梅吉、佐野好次郎、小松文太郎、伊豆田忠七、中嶋利信、飯野仙太郎
このうち、同年度の課税対象となったのは6名で、うち3名は2等級(年収500円以上700円未満)に査定されている。以来、自動車時代にいたるまで、陸上輸送は小運搬業と農家の副業的稼働で行われたが、大量の物資を扱う商店や生産業者などでは、専属の運送屋を雇用したり、特約形式の方法をとったりするのが一般的になった。また、季節的な冬山造材の運搬は、農家の副収入源として好個のものとなった。

(3) 海上交通
   運輸機関

(4) 内水路運輸事情

昭和の小漁師TOP     第1章     湧別町史TOP


第3章 鉄道時代の到来

(1) 湧別線開通の軌跡

(2) 名寄線と石北線の
         開通


(4) 消えた鉄道

(4) 湧網線の中途開通

(5) 鉄道開通の波紋

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