第9編 通信と報道

第1章 郵便と電信電話


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第1章 郵便と電信電話

          (1)開拓期の通信事情 (2)郵便業務の推移  (3)電信電話の推移 (4)郵便局の沿革
         



(1)開拓期の通信事情  
御用状継立脚大  幕政時代に役所から出された御用状と称した触書、その他の文書は、漁場差配人が土人を使役して、無賃で名宛先に送達していたが、郵便制度の発足(次節参照)により郵便料金制となるに及んで、送達する上人に対しても、1里2銭7厘6毛の割合で賃金を支給するようになった。
 しかし、このころの北見地方の事情は、送達業務が漁場侍に委託されていたから、実際に土人に支払われる額は 「御用状侍土人1日賃米男1升」と、それに「介抱米トシテ7合5勺」が現物で支給されていた。 当時の米1升は玄米で6銭、白米で7銭5厘であったから、換算すると玄米にして10銭5厘、白米だと13銭1厘強相当が支給されていたわけで、距離計算をすると13銭1厘で1日4・7里余を担当していたことになるが、規定どおり支給されていなかったようである。 明治5年7月からは、  公状逓送脚夫従来一人ノ賃ヲ給シ、来ル七月一日ヨリ通常公状ハー人、至急ヲ要スル者ハー人半、時刻ヲ記シテ逓送スル者ハ二人賃ヲ給ス     と改善されたが、上人脚夫は濁酒を一杯多く馳走になる程度でヽ多くは漁場待のふところに人ったらしい。 明治8年に北見を巡回した松本判官の巡回誌には次の記載がある。
   御用状継立土人壱ケ年給
 米八升入 三俵半 紋別東湧別 六里三丁
        七俵半 湧別車湧沸 七里三十四町
        五俵   湧別東トコロ ー里三十町

郵便路線と逓送  最初は明治9年1月に天塩国苫前〜北見国宗谷・枝幸〜海岸線を斜里〜山道を根室国厚別の路線開通が決定され、北見国に紋別、網走、斜里の3郵便取扱所の開設をみた。 郵便物は根室から厚別経由で月2回、北見国に逓送されるとされたが、厚別以北は、「根室支庁布達」 (明9・3・8)に、
  冬天積雪氷海ノ節二至侯テハ、出稼ノモノ他方移転、海陸共特々人跡相絶シ、其為メ郵便物モ極メテ稀少、定期郵便ノ方法設ケルモ到底無益二相属シ可申
とあるように、交通途絶の10月〜3月の6ヵ月間は閉鎖された。
 明治15年になって郵便物の増加により、月3〜6回、閉鎖期間も1ヵ月短縮されて11〜3月に改善されて、 「根室県庁務概況原稿」 (明19)のころには、
  根室、北見間ハ逐日郵便物ノ夥多ナルョリ尚逓送度数増加ノ議ヲ駅逓局へ照会セシ二本年四月一日ョリ根室、網走間ハ隔日、網走、宗谷間ハ毎年十一月ョリ翌年三月迄閉線ノ処一ケ月三回年中開局セリ
とあるように、実情にあわせて逓送回数を確保している。 また、このころに郵便取扱所は郵便局に昇格したとみえて、紋別郵便局「局務原簿」には、
  明治18年11月1日 補3等取扱役
  明治19年5月25日 3等郵便局長二任ス、判任官十等


と記録されている。 同局は明治24年2月に郵便為替および貯金業務、同25年2月16日に電信業務を開始し、紋別郡唯一の通信機関であった。
 ちなみに、この郵便路線による逓送方式は、すでにあった駅逓所制度の上に築かれたものであったから、紋別、網走、斜里の郵便取扱所は、それぞれの駅逓所に開設され、駅逓取扱人が郵便取扱役の下命を受けていた。 従って中間駅逓所も逓送の面ではかかわりをもち、明治17年に開設された湧別駅逓所も、紋別〜網走間を往復する逓送の継立を行っていたのである。
 明治25年4月1日から紋別〜網走の郵便路線は三等小路線に格付けされ、郵便物は1日1往復の逓送が逓送夫によって行われるようになり、1人の運搬量は4貫目まで、1時間1里半の速度と規定された。同29年10月16日から騎馬逓送に変わり、運搬量も8貫目に倍加し、同31年には郵便物は稚内回りとなり、路線名も「稚内・湧別線」と改められ、小包も併送されるようになったが、この年に中央道路も郵便路線となり、野上〜湧別間も逓送夫が往釆するようになった。
 明治32年5月17日から小樽〜網走間の小包便は宗谷回りの汽船積みとなり、寄港の便利な紋別にも陸揚げされて、各地に分送されることになった。「紋別市史」には、

  本州方面ならびに道内から集荷された行のうは小樽港から船便をもって、一週一回定期的に紋別港に陸揚され、常時二百個から三百個を数えた。 ここに陸揚された行のうは一部は小向の竹内駅逓で遠軽方面のものと受授をはかり、一部は渚滑や興部、滝上方面と受授を行っていたが、山道が非常に悪かったため、馬車の輪が泥にうずまり、往復でもすると馬車の心棒までが、めちゃめちゃになるほど逓送は困難であった。
と記されている。また、古老の遺話には、
  熊の出没に備えてラッパを吹きながら、通行人の稀な悪路を往来していたが、逓送夫の吹くラッパの音は静寂な自然に人の動きを伝え、また、あてどもないどこからかの音信に、淡い期待をかける生活のうるおいでもあった。
といったいい伝えかおり、往時の郵便事情を支えた苦労のあとがしのばれる。
 明治36年9月に名寄まで道路が開通すると、翌37年10月16日から郵便路線は「名寄・湧別線」に変更され、逓送回数も1日2便にふえ、うち1便は駄馬送となり、運搬量も24貫目となった。また、冬は馬橇が用いられ48貫目までの郵便物が逓送された。 ところが、名寄〜湧絹線の実現は、
  名寄道路全通による中央道路逓送変更され沿道閑散たり。 <上湧別村誌>
とあるように、中央道路郵便路線を廃止に追い込む結果となった。
 その後、ハツカ耕作などで市場集落を形成しつつあった上芭露方面で、小山春吉らが駅逓所および郵便取扱所の設置運動を起し、これが認められて大正9年5月に駅逓所設置(加藤政千代)が認可となり、郵便継立を兼ねるようになった。

郵便局の開設  郵便路線の創設とともに設置された3つの郵便取扱所(のち郵便局)が、北見国の郵便業務を取りしきり、各駅逓所が郵便の継立集配を下請けする形で、住民の通言に対処していたが、開拓の奥地への進展で着発郵便物がふえてくるとともに、わざわざ紋別まで出向かなければ用を足せない不便も表面化し、村内に郵便局の開設が望まれる状況となって、明治25年に湧別郵便取扱所が設けられ、本町初の郵便局となった。 以来、開拓の進展拡大とともに村内の各主要集落単位に順次開設され、住民の利便に資するようになった。
 明29・7  湧別郵便局に昇格
 明32・2  学田郵便局開設
 明38・4  湧別屯田郵便受取所開設
 明43・6  四号線郵便局開設
 大5・11  芭露郵便局開設
 大9・5   上芭露郵便取扱所開設(大10・2郵便局に昇格)
 昭5・1   計呂地郵便取扱所開設(昭7・4郵便局に昇格)
なお、郵便局の管轄区域は必ずしも村行政区域と一致しておらず、床丹地区は佐呂間郵便局管下であったし、緑蔭・信部内地区は大正11年から沼ノ上郵便局管下に移管された。

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(2)郵便業務の推移
郵便制度の変遷  明治4年3月に東京〜京都間に信書郵便が政府事業で実施されたのが、わが国の近代郵便制度の源流であり、この年の8月に本道でも函館に郵便役所が設置されている。 翌5年10月には函館〜室蘭〜札幌〜小樽に郵便路線が設定され、さらに同7年12月に苫小牧〜浦河〜根室の路線も開通しているが、全国的な郵便取扱が開始されたのは明治6年からで、今日の郵便制度が確立されたのは、明治18年に内閣に「逓信省」 (いまの郵政省)が設けられてからである。
  明4 最初の切手発行
  明6 最初のハガキ発行、郵便料金の全国均一制実施
  明25 小包の取扱開始
  大8 切手別納郵便の取扱開始
  昭12 速達郵便の全国取扱開始
  昭24 郵政省および電気通信官設置、お年玉つき年賀ハガキ発行
  昭43 郵便番号制実施
  昭50 郵便物日曜配達を全国で廃止
 次に参考までに郵便料金(ハガキ)の推移を掲げて、時代の流れを回想する資料とする。
  明32=1銭5厘、昭12=2銭、昭19=3銭、昭20=5銭、昭21=15銭、昭22=50銭、昭23=2円、昭26=5円、昭41=7  円、昭47=10円、昭51=20円、昭56=40円

郵便函  湧別村一円全域を集配区域として設置された湧別郵便取扱所〜湧別郵便局ではあったが、集配量がふえたとはいえ、なお開拓途上であったため、
  区分
年次
年間取集数 年間配達数 1日平均配達数
明 28
明 29
10.849
23.213
12.003
27.757
32・9
76・0
と、屯田兵村建設で人口が急増した明治29年でさえ、1日平均80通にみたない配達量に過ぎず、発信(取集め)は湧別郵便局まで出向くか、配達人に依頼するかの不便を伴っていた。
 この不便を緩和するため、郵便函を要所に設けることとし、明治30年に第一号が兵村本部付近に設置されたのにつづいて、
 明34=4号線、シュブノツナイ、明39=芭露、明42=計呂地、明43=床丹、明44=上芭露、明45=川西
と、地域の開拓状況に応じて増設された,
 郵便所の設置してあるところを、当時は「函場」と呼び、現在の郵便ポストの元祖に当るもので、その後の郵便局開設で廃止されたところもあるが、函場では切手類の売捌きも行われて、発信の不便は大いに緩和された。 なお、現在ては形を変えた赤いポストと、郵便局の委託を受けた切手頚の売捌店が、伝統の影を伝えている。 参考までに、2、3の函楊を紹介しておこう。

   大正初期湧別郵便局より信田農場事務所に一括配達されて、各戸ではそれぞれそこより持ち帰った。 大正三年市街地形成に伴ない、同年五月十一日より真坂浅吉商店に郵便の受箱が設置され、同時に切手、ハガキ頚の依託売捌も行った。 同十一年七月六日沼ノ上郵便局の開局により従来の湧別局の集配より沼ノ上局の区域に変更され、真坂商店取扱いの業務は同十二年七月五日中止した。 然し地区内の郵便差出しの不便解消のため信田農場事務所前の佐藤辰三郎宅に集配箱が設置されたが、昭和二年一月十五日中止された。 <信部内=これは先述の明治三四年のとは別のものである>
   先人の入地当初には、はがき一枚出すにも湧別郵便局に行かねばならず、通信上の不自由は推して知ることができるが、明治三十四年四号線の中川商店に郵便函が掛けられて、今までより二十丁近くなった。 <川西>
   明治三十九年芭露橋の扶にあった本間旅館(本間千代治)に郵便箱が掲げられ、同所で切手るいも売捌かれ便利となったが、これは大正三年十一月芭露郵便局の設置と共に廃止された。 奥地の開発に伴ない明治四十四年上芭露十七号の山本栄三商店に郵便箱が掲げられ切手るいを売捌かせ便を図っていたが、昭和二年に廃止された。<芭露、上芭露>
   四号線郵便局廃止の頃(大9)、湧別局では川西にあった宮田商店に郵便函を設置し、初めて川西で投函が可能となった。<川  西>



車橇逓送の消滅  湧絹綿鉄道が遠軽〜下生田原(安固)〜社名渕(開盛)〜湧別と開通が伸びて、郵便物の車樋逓送は大正五単一一月で遠軽方商法綿系統が、大正一〇単に名省線が開通して名寄〜湧別系統が鉄道輸送にかわり、車樋逓送は中湧別郵便局?芭露郵便笥〜上芭露郵便局の系統のみとなった。
 さらに、西湧網線が中湧別〜計呂地〜中佐呂間と伸びて、昭和11年10月でこの系統も車橘逓送が姿を消してヽ残ったのは芭露〜上芭露だけとなって、昔なつかしい逓送の面影を継続していたが、戦後の自動車の普及とともに、
 昭29・5 芭露〜上芭露を路線バス託送に切り替え
 昭37・7 上芭露〜遠軽に路線バス託送スタートし、芭露〜上芭露廃止
となって、車橇逓送はすべて消滅した。その後、昭和47年10月になって、バス託送は赤い郵便車の運行に変わり、現在は遠軽〜上芭露を1日2往復している。

集配区域の変遷  本町の郵便局は、開局以来毎日の集配を実施して、住民の利便に供してきた。 最初は湧別郵便局が村内全域を担当していたが、実態はテイネー以東にはおよばなかったようで、郵便函の設置年次からも、そのことがうかがえるし、
 芭露奥地の開拓が進み戸数の増加した明治四十二年二月芭露在住の小野鶴治が湧別郵便局の集配人を命ぜられた。これがテイ ネー以東集配人の初めである。
という記録も、そのごとを物語っている。 ただし、この記録と郵便函設置年次(芭露)がかみ合わないのは、シュブノツナイの函場も含めて、比較的集落形成の進んだ地域以外の集配は、通過する逓送人が兼ねていたものと思われる、その後、郵便局の新設で区域が、
  芭露郵便局 テイネー以東の集配(福島の一部を含む)
  上芭露郵便局 上芭露、東芭露、西芭露の集配
  計呂地郵便局 志撫子、計呂地、床丹の集配
と分割され、集配人が置かれるようになって今日にいたっているが、昭和26年当時の4局合計のポスト数は18、切手売捌所数は6であった。

 奥地の開拓につれて配達世帯数がふえ、集配距離も延びたが(信部内、緑蔭は沼ノ上局の区域)、昭和30年代後半からの過疎現象は、集配事情、とくに配達の面で大きく様相を変え、計呂地郵便局によれば、
  農漁村後継者のUターンのない家は、やむなく離業流出して極端な過疎化とな り、遠く離れた1戸の新聞のため、毎日配達に行かなければならない事態がある。 とても現行の郵便料金ではまかないきれない。 また戸日源で窓口収入や貯金、保険の面でも苦しい局面に立だされた。
と嘆きが聞かれる。 次に昭和54年3月現在の集配事情を掲げよう。
  区分
局名
区域面積(平方q) 世  帯  数 集配延粁程(km)
市 内 市 外 市  内 市  外 直轄市外 請負市街
湧   別
芭   露
上 芭 露
計 呂 地
1・0
1・0
5・0
1・3
74・4
67・0
96・0
83・3
658
121
65
42
507
173
104
271
10





50

日曜配達の廃止  昭和40年5月に帯広郵便局が日曜配達を廃止したのをきっかけに、年々道内にひろがり、伝統の毎日配達は時代の波に洗われるようになり、湧別郵便局でも、昭和46年7月1日から日曜配達の廃止にふみ切り、他の各局も昭和50年8月31日をもって廃止(全国一斉)した。

風景入通信日付印  サロマ湖の風景や特産をテーマにした郵便局の記念スタンプ「風景入通信日付印」が、2つの局に備えられた。
 昭40・9・25  湧別郵便局
  昭52・10・20 芭露郵便局

この利用者は観光シーズンに多く、湧別局では年間平均約1,000通を数えている。

取扱郵便物の推移  次に町内4郵便局の1日平均の郵便物取扱合計を掲げるが、過疎定着のもようと電話架設の影響の一端がうかがえる、局ごとのものは局の沿革参照のこと。
    区分
年次
引  受  数 配  達  数 切手類
 売捌枚数
通常 小包 通常 小包
 昭  49
 昭  51
 昭  53  
  1.679
1.366
1.317
    24
20
15
  3.119
2.545
2.667
    39
33
44
912
513
424

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(3)電信電話の推移
電信の取扱い  明治25年に紋別郵便局が電信業務を開始して、電報が故郷から届いたり、あるいは故郷へ電報をうったりできるようになったが、着信する電報はめったになく、配達人の「電報」という声は、故郷の近親者の死亡通報が主であったから、不吉なものと感ずるほどであったという。また、当時は電報を発信するほどのこともなく、一般には、よほどのことでない限り紋別まで出向いて電信を依頼することはなかった。
 しかし、屯田兵村建設事業が開始されることになって電信の必要に迫られ、屯田兵入地後の電信の重要性からも必須のものとされ、明治29年12月16日に湧別郵便局で電信取扱が開始され(湧別郵便電信局)で、利便は大幅に向上した。郵便同様に村内一円全域を担当区域としていたが、その後、電信電話が延長されるにつれ、各郵便局が郵便集配同様に電信業務を扱うようになった。

 明42・10  網走〜遠軽に電信電話線架設され遠軽郵便局が電信業務開始
  明45・    四号線郵便局が電信業務開始
  大9・2    湧別〜芭露に電信電話線架設され芭露郵便局が電信業務開始
  昭10・2   沼ノ上郵便局が電信業務開始
  昭10・8   地域住民の熱意と協力で電信電話線が延長され上芭露郵便局が電信業務開始、 電報配達区域は志撫子南12線以南におよぶ。
  昭13・12  計呂地郵使局が電信業務開姶

電話が普及するまでの電報は、至急通報の手段として、現在の電話同様の価値をもって経過したが、頼信紙(多少様式の変遷はあるが)に電信文を書いて申し込むことは、いまも昔も変わりない。近年は電話の普及で電信利用は激減したが、慶弔電報、祝電、激励電報、選挙戦用などは、けっこうもてはやされている。なお、電話の普及で電報の申込みと受信が、電報電話局との間の電話でできるようになったのも近年の特色である。

加入電話のはしり  明治10年にアメリカから輸入された電話は、同23年に国営事業となったが、開発途上の本町方面には及ぶべくもなかった。電信業務が開始されるようになって電信電話線が開通し、郵便局間の業務用電活が姿をみせたが、一般の加入電話の架設は、それよりかなり遅れて次のようである。

 大10・8 鉄道開通による市街戸数の激増をみて市内電話架設<湧別>
  昭11・9 鉄道開通で市街地が発展し市内電話架設9戸<芭露>
  昭23・3 市内在往者13戸が加入<上芭露>


 こうした加入電話の実現は、計呂地郵便局にみられるように、郵便局内に交換台が設けられ、交換手による電話交換業務の開始となるが、交換業務というのは、
  送話者が交換手に受話者の電話番号を伝えると、交換手が交換台で双方の加入線をさし込み式のコードでつなぐ ことによって、通話が可能になる。
というもので、加入電話の番号は加入申込順に付されていた。いまも芭露市街へ行くと、古い建物に当時の電話番号札が取り付けられたままになっているのを見ることができる(芭露舘=4番、旧病院跡=1番など)。
 この交換方式は市内の場合は即待通話か可能であるが、市外通話の場合は申込局交換台から市外局交換台を経て受話者を呼び出すという手数がかかる(遠隔地の場合は数局の交換台を経由)ため、交換手から、
 「一度お切りになってお待ちください」
といわれたものである。ちなみに昭和26年当時の加入電語数は4局合わせて114で、役場関係の電話番号は次のようであった。
  下湧別村役場=下湧別局32番、62番
  芭露出張所=芭露局11番
  上芭露出張所=上芭露局15番
  計呂地出張所=計呂地局9番

公衆電話のはしり   電信業務の開始は電信電話用架線により、電話で「アサヒのア、イロハのイ、スズメのス」といった調子で頼信紙のカナ文字を送信するものであったが、同時に局内に電話室を設けてつなぎ、一般の市外通話の便に供していたようで、現在流のいいかたで「郵便局にしかない公衆電話」といえるもので、郵便局では電話事務と称した。
  電話の利用は沼ノ上の局でやっと果たせる状態であり、緊急用務には甚だ不便を感じていた。<信部内>
   相場もの故に上芭露市街の薄荷仲買人達はじめ農民も電信電話の必要を求め・・・・大正11年・・・・不況等のため遅延のやむなかった。昭和8年再度架設の声が高まり・・・・陳情の功を奏し、昭和10年8月3日電信・電話事務が開始された。<上芭露>

が、その経緯を物語っている。

辺地電話   戦前、戦時中の電話の普及は市街地域に限られていたが、戦後の行政機構改革により、電信電話業務が郵便業務から分離され、昭和24年電信電話公社(電々公社)発足となって、電話の需要が大に開拓されることになり、郵便局の電話交換業務は電々公社の委託業務となった。
 昭和29年に東芭露地区が電話誘致導入計画をたて、電話架設期成会(中原円次郎会長)を結成し、上芭露郵便局長の協力のもとに資料を調べ、北見電通局に交渉して実現したものが、辺地電話のはしりであった。
  工期 11月〜12月8日
  加入 7基(簡易郵便局、学校、商店など)
  工費 一四八万五、四〇〇円(借入金六五万円、町費助成四〇万円、農協補助金八万五千円、地区負担二ー万余円、施役者負担一四万円)
 開拓以来40全年にして、受益者負担という厳しさを乗り越えて私財を投じ、ついに電話を地域に導入した喜びを次のように語っている。
  急病で医者を頼むにも、家畜の疾病で獣医師を呼ぶにも、徒歩或は自転車で、積雪深い冬期間は馬そりを駆って上芭露まで、又湧別へ遠軽へと、昼夜の別なく自らが出かけなければならなかった事実を思う時……この架設によって、医療関係は勿論、町役場、農協との連絡、電報の発信等大いに利用されるようになった。

農村委託公衆電話  昭和30年代になって電々公社では、「農村委託公衆電話」制度を策定し、へき遠地域住民の利便と、学校の連絡体制整備および行政連絡を向上するための電話架線の道がひらかれた。
  昭33 川西一基(五月)、計呂地二基(七月)、東芭露二基(一〇月)、信部内、東、テイネー、中番屋、登栄床、志撫子(以上一一月各一基)
  ″34 西芭露一基(六月)
  ″36 芭露一基(五月)


地域団体加入電話  電々公社の電話利用拡大方針により、「地域集団化加入電話」制度が実施されたことから川西地区では、戦後の酪農転換の進展に照らして、乳牛の管理の面で獣医師との危急の連絡が必要であり、また、酪農経営上農協など開係団体との連絡もひんぱんになったことも合わせて、電話施設の要望が高まり、清原松太郎区長が先進地を視察して同志とはかり、「川西地域団体加入電話組合」を結成して17名の実行委員とともに実現に努力した結果、111万円(うち町費助成12万円)の工費で、昭和38年12月に地域全戸(80戸)に電話が架設され、通話を開始した。
 この電話の方式は、交換所(交換機設置)を地区内に設けて、枝交換を行うもので、経営管理業務は電話組合が担当するものであったから、施設費、営繕費、基本料金、交換業務など、一般加入電話よりも割高であった。

地域集団電話  電電公社が企画した「地域集団電話」 (農集電話)は、前項の団体加入電話の不備を改善したもので、設置運営主体者と電電公社の間で電話利用に関する契約を結び、主体者において管理業務を推進することや、いくぶん割高な料金などは以前と変らなかったが、交換機による局線交換方式であったものが区域内自動交換方式となったこと、施設維持の面でも条件が緩和されたことなど、施設利用が大きく改善されたものであった。
 (一) 湧別地区(1)

  昭和40年1月14日に川西地区に電話が導入されたのに刺激され、東地区でもと期成会(伊藤金一会長)が結成されたが、豊原正一局長から2年後になれば交換手の不要な自動交換方式の農業電話が実現する可能性があると助言され、また羽田農協組合長からも湧別農協管下の本設置区域を包括することが望ましいとする助言かあり、東、福島、基線、西一線、尾萩の各地区を網羅した期成会とした、そして2年、昭和42年8月11日に遠軽地区では最初の農集電話の開通式となった。
  設置主体 湧別農業協同組合
  加入戸数 199戸
 (二) 登栄床地区(漁村電話)
 農集電話に対して、さしあたり「漁集電話」と称されるもので、施設および管理方式も農集電話に準じている。
昭和43年2月の完成である。
 設置主体 湧別漁業協同組合
 加入戸数 80戸
 (三) 湧別地区(2)
 営農のための連絡打ち合わせが多岐になり、共同聴取施設の一方通行的な連絡では即応できなくなり、信部内では区民の要望をもとに、昭和44年に豊原正一局長を介して、関係機関と折衝を始めたが、川西地区でも既設電話を廃して架設に合流することとなり、同年8月に両地区合同の期成会(白崎政名会長)を発足させた。運動が実り翌45年10月に着工し、翌年2月25日に待望の開通式となった。
  設置主体 湧別農業協同組合
  加入戸数 108戸
(四) 芭露地区
 農業経営の近代化と生活様式の変革に伴い、個人電話架設の要請が高まり、湧別地区の例に準じて、計呂地、志撫子、芭露、上芭露、東芭露、西芭露のテイネー以東を区域とする農業電話設置を進めた結果、昭和46年3月に開通を果した。
  設置主体 芭露農業協同組合
  加入戸数 213戸

電話の自動交換化  昭和44年5月に本町および上湧別町、佐呂間町を管轄区域とする中湧別電報電話局が設置され、電話普及がさらに促進されたが、電話回線がふえ加入利用者がふえてくると、電話交換業務が多岐となり通話能率に影響を生じかねないことから、電話施設の近代化が進められ、無人自動交換局が設置されて、電話の形式もダイアル式に改められ、自動交換方式が実現した。
  昭44・5 湧別郵便局委託地区
  ″51・9 芭露郵便局委託地区
 これにより、各郵便局が委託されていた電話交換業務は廃止となったが、計呂地郵便局の交換業務廃止は、網走支庁管内では最後の局であり、全道的には後から二番目であった。こうしたダイアル式自動交換化は、これまでの本町の電話事情を大きく変容させたが、主な点は次のとおりである。
 @ 加入電話番号が、すべて四桁になった。
 A 相手方の市外局番と電話番号を連続してダイアルすると、国内のどことでも自動交換されて即時通話ができる。(本町の市外局番は01586) 
 B 郵便局交換のときは、町内でも他局は市外扱いであったが、町内一円が市内通話となった。

街頭の公衆電話  「赤電話」と呼ばれて登場した店頭や街頭の公衆電話は、買物客やドライバーの利用に供するもの、役場など公共施設にあるものなどで、公衆電話全体の近年の設置状況は次のようである。
  区分
年次
 店  舗   街  頭   農村委託   郵便局     計   
 昭 52 
 昭 54
23
15



30
24

集団電話の一般加入化   地域集団電話の普及で、ほぼ全町的な電話網ができたが、集団電話の名のとおり一回線を八〜九戸で利用する共同回線であるため、その中のだれかが通語中のときは通話できない不便(特に長電話のとき)があったし、割高な利用経費のこともあって、直通式の一般加入電話への切り替えを希望するようになったので、切替工事により次のように一般化がなされた。
  昭51・9 芭露局地区(一〇四基)
  昭54・3 上芭露局および計呂地局地区(一九八基)
  昭54・12 湧別局地区(354基)
  年次
地区別
昭50 昭52 昭54 昭56
一般 農集 一般 農集 一般 農集 一般 農集
湧  別
芭  露
上芭露
計呂地
579
109
63
43
794
357
106
91
107
661
936
215
154
150
1.455
710
275
84
54
1.123
357

91
109
557
1.067
275
175
163
1.680
713
287
174
171
1.345
356



356
1.069
287
174
171
1.701
1.206
282
171
169
1.828




1.206
282
171
169
1.828

漁業無線局  昭和四一年六月一〇日に湧別漁業協同組合では、漁業無線局を開局した。漁労する漁船との交信により海難防止に資するとともに、漁模様の連絡を交すなど漁業の近欧化に大きな動きをしている。免許は、
  二七KHZ−W 二万七、九三一メガサイクル
 なお、付言すれば、同漁業協同組合では、昭和五三年に陸上レーダー施設を設置して、さらに近代化をはかっている。

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(4)郵便局の沿革                                                                                    
湧別郵便局  駅逓取扱人の和田麟吉を初代局長とする湧別郵便局の設置は、明治二五年一一月一日といわれているが、これについては、
 (1) 「北海道統計綜覧」によれば明治二五年、二六年の北見国管内の郵便局は三局(紋別、網走、斜里)となっている。
 (2) 「紋別郵便局局務原簿」の集配区に、「市外一区 モベツ村 明治二十五年四月一日改正、字コムケヨリ同十一月一日湧別区へ組替 湧別村 右二同ジ」と、集配区の独立とみられる記述がある。
 (3) 明治二五年に来往の細田三作談<河野野帳>によれば、同年の和人戸数は六戸であったという。
なとがら推測して、(2)の集配区改正による郵便取扱所的なものてあったと思われる。
  昭29・7・I 為替および貯金業務開始
   ″29・12‐16 電信取扱開始(湧別郵便電信局となる)

となって、「湧別郵便電信局明治二十九年度事務概要報告書」には、
  1 局員 電信二、兼務二、計四、集配人兼務二、逓送人三
  2 差立線路数 通常道路二
  3 郵便区内概況 戸数 市内六五戸・五三二人、市外五三二戸・四、二五三人
  4 集配ノ方法及ビ逓送ノ種別
   当局ハ局内ノ外売下所等無之故、集配人ハ只配達之一途二任ズルノミ、逓送ハ継立便ニシテ上下各毎日壱回トス。
  5 逓送路線難易ノ概要
    逓送路線八僅カニ一線之小径ヲ通ズルノミニシテ、其他ハ多ク砂浜二属シ足趾ヲ埋没シ歩行甚ダ難ナリ、且当局紋別    間ハ渡船場多ク暴風怒涛若クハ大風之トキハ多々交通ヲ遮断セラル。
  6 毎年季節二由リテ業務二非常ノ繁閑ヲ生ズレバ其季節及ビ概況
    毎年七月ヨリ五月迄ハ漁期ノタメ漁夫ノー時二来集スル者頗ル多ク誠二本年度ノ如キ屯田兵屋工事ノ為メ年中通シ     テ毎年ノ四倍以上二達ス。
  7 其他業務上二関スル事項ノ概要
    本年度二於テ郵便為替貯金之数多キハ漁商農之発達二依ト雖モーハ移民ノ来往ト屯田工事二依ル、実二郵便物数    及ビ其他事務之繁忙ハ平年ニ比シ差アリ、前年度ト比較スルトキハ倍数以上ニ達スルヲ以ッテ知ルニ足ル。
   郵便物数
         収集数 二万三、一一三
    本年度
         配達数 二万七、七三七
         収集数 一万〇、八四九
    前年度
         配達数 一万二、〇〇三 
         取集数 一万二、二六四 
     増
         配達数 一万五、七五四
 のように記録されている。以後は、
  明35       湧別郵便局と改称
  明43       局舎を港町から駅前通に移転(奥山商店のところ)
  大5・10・1   簡易生命保険業務開始
  大10・8      電話交換業務開始
  昭39・10・15   現局舎落成移転(神社前)
  昭40・9・25   風景入通信日付印設備
  昭44・5・23  電話交換業務廃止
  昭46・7・1   日曜配達廃止

の経過をみて今日にいたっている。
    【一日平均郵便物取扱状況】
  区分
年次
引 受 数 配 達 数  切手類
売捌枚数 
 通 常   小 包   通 常   小 包 
 昭 49 
 昭 51
 昭 53
1.044
893
793
15

10
1.798
1.557
1.649
24
21
31
723
324
241
    【歴代局長】
 和田鱗吉(〜明40)、河野芳太郎(明40〜41)、福田栄蔵(明41〜昭18)、豊原正一(昭18〜51)、水越秀見(昭51〜55)、大井義悳(昭55〜)

芭露郵便局 大正五年一一月一日に設置した芭露郵便局は、湧別郵便局の集配区域にあったテイネー以東の集配業務を分割するための措置で誕生したもので、元山本多平商店の建物を改造して、同月十六日に業務を開始したが、初代局長の島筒卯一は当時の芭露を、
 道路ぞいに商家二戸、その他一〜二戸、農家二〜三戸に過ぎず、道路は極度に悪く、特に雨が降ると泥沼となり、馬腹に達するほどのぬかるみで通行は困難であった。未開の原野は狐狸の鳴き声に驚かされ、逃げ出そうと思ったことも、幾度となくあった。
と 回想しており、奥地戸数があったとはいえ、局舎周辺は原始の状態に近かったようである。第一次世界大戦による景気浮揚で農林業が伸びて市街戸数も増加し、鉄道開通で市街地形成が促進された。以来
 大9・2・21    電信業務開始
 大11・9・22  電話交換業務開始
 昭45・8・10  現局舎落成移転
 昭50・8・21  日曜配達禁止
 昭51・9・30  電話交換業務停止
 昭52・10・20 風景入通信日付印整備

の経過をみて現在に至っている。
   【一日平均郵便物取扱状況】
  区分
年次
引 受 数 配 達 数  切手類
売捌枚数 
 通 常   小 包   通 常   小 包 
 昭 49 
 昭 51
 昭 53
248
262
214


454
375
381


96
116
124
    【歴代局長】
島崎卯一(大5〜昭34)、黒川政太郎(昭34〜44)、鎌沢英一(昭44)、島崎正也(昭44〜)

上芭露郵便局  ハッカの取引を中心とした承認の出入りが多かった上芭露では、大正八年に小山春吉らが駅逓・郵便局設置運動を起こし、翌九年五月に駅逓認可とともに郵便取扱所の開設(加藤政千代が取扱人)をみたのが源流である。以来、
 大10・2・16 上芭露郵便局となる(無集配)
 昭2・2・26 集配局に昇格し芭露〜上芭露間騎馬逓送開始
 昭7・8 局舎新築
 昭10・8・3 電信電話業務開始
 昭23・3 電話交換業務開始
 昭37・2・3 局長宅より出火し局舎類焼(七月局舎改装)
 昭50・8・31 日曜配達廃止
 昭53・8 電話交換業務廃止

の経過をみて今日におよんでいる。
    【一日平均郵便物取扱状況】
  区分
年次
引 受 数 配 達 数  切手類
売捌枚数 
 通 常   小 包   通 常   小 包 
 昭 49 
 昭 51
 昭 53
125
67
80


272
178
162


43
53
29
    【歴代局長】
 渡部清司(大10〜15)、渡部精一(大15〜昭29)、渡部精三(昭29〜38)、川本政雄(昭38〜43)、吾妻蔵民(昭43〜48)、島崎正也(昭48・7兼務)、成田賢一(昭48・10)
計呂地郵便局  奥地の開発でしょうわ五年一月二0日に、七号線に計呂地郵便取扱所が開設されたが、七号線に開局したことについては、
 当時、七号線は鉄道開通時には駅をと予定し、計呂地地区の中心地とする思惑でことが進められ、郵便局、病院、学校などを付近に集約し、商店街を形成する構想のもとにあった。計呂地信用組合事務所もすでにあったが、開駅構想は空しく敗れた。
という経緯があった。以来、
 昭5・1・20   郵便引受および為替貯金業務開始
 昭7・4・1    計呂地郵便局に昇格
 昭12・12・11 計呂地駅前に移転し集配局に昇格
 昭13・12・10 電信電話業務開始
 昭24・2・1   電話交換業務開始
 昭35・10・1  現局舎落成移転
 昭50・8・31  日曜配達廃止
 昭53・9・27  電話交換業務廃止

の経過をみて今一におよんでいるが、集配区域は「志撫子、計呂地、床丹」を担当、その後、床丹の佐呂間村編入があり、若里と地名の改正はあったが、集配区域に変動はない。
   【一日平均郵便物取扱状況】
  区分
年次
引 受 数 配 達 数  切手類
売捌枚数 
 通 常   小 包   通 常   小 包 
 昭 49 
 昭 51
 昭 53
246
144
230


595
435
475


50
20
30
    【歴代局長】
 栄慶太郎(昭7〜24)、栄重義(昭24〜48)、村口初男(昭48〜)

簡易郵便局  昭和二六年三月二〇日に二六号に東芭露簡易郵便局が開設され、佐藤幸三郎が取扱人となった。これは地区住民の要望により、町が上芭露郵便局と契約し受託する形で設置されたもので、郵便と電報引受、切手類売捌、貯金、振替、為替など郵便局取扱業務の限られた一部が取り扱われたが、住民は上芭露まで行かなくても、郵便が出せ、電報も打て、貯金もできる利便を喜んだ。しかし、過疎化とともに取扱量が減少したため、昭和五〇年八月一日に廃止された。
 東芭露簡易郵便局と同特に開局したのが、登栄床簡易郵便局で、ここは湧別郵便局が湧別漁業協同組合に委託し管轄している。同組合登栄床支所内で業務を取り扱っており、登栄床方面の漁民に利便を与えて現在にいたっている。
 次に昭和三八年三月一日に、湧別錦町簡易郵便局が開設され、取扱いを開始した。ここの場合は湧別農業協同組合が受託契約者で、湧別郵便局が管轄しており、業務は同組合事務所内で行われている。委託業務は切手・印紙頚売捌、郵便引受、貯金、為替、振替、国民年金と幅広いもので、錦町と付近住民および農協組合員に大きな利便を与えて現在にいたっているが、かつて四号線郵便局が四号線市街にあったことを想起すれば、なにか有縁の糸のようなものを感ずる。

屯田郵便局  明治三一年当時の湧別郵便局の集配区域は一区=市内、二区=下湧別殖民地、三区兵付五中隊、四区=兵村四中隊、五区=学田に分かれており、集配方法は一〜二区に集配人各一名、四〜五区を兼ねて一名が配置されていたが、「湧別局事務概要報告書」に、
  四、五両中隊及本部ノ配達ヲ兼ネテ四中隊四区ノ函場迄大集配ヲナサシム
とあるように、四区(屯田市街)に函場が置かれて集配の中継所とされていた。これが超因となって、明治三七年に郵便受取所の開設となり、さらに翌三八年四月一日に屯田郵便局(無集配)の設置となった。

四号線郵便局  農産物集散に支えられて発展した四号線市街に、明治四三年六月に四号線郵便局(無集配)が設置された。局長は小池正人で、同四五年には電信業務も取扱うようになったが、鉄道開通によって市街が衰退したため事務量が減少し、大正九年一〇月に中湧別郵便局の開局とともに廃止された。

遠軽郵便局  明治三一年に中央道路が郵便路線となり、基線道路にも逓道がはじまり、「湧別、野上間ハ人夫送ナリ」<湧別掲事務概要報告書>と、野上に郵便継立所が開設されたのが起因となって、明治三四年二月一一日に遠軽郵便局が設置されたが、

 (1) 「逓信五十年史」には三二年二月一一日設置
 (2) 「上湧別兵村誌」には、
   明治三十五年遠軽二初メテ郵便三等局ヲ開設シ爾来兵村部落ヲ中分シテ配達区域ヲ定メ、即チ基線十五号以北ヲ湧別局区域トシ、其ノ以南ヲ遠軽局(元学田局ト称ス)区域トシテ集配ヲナセリ

などの記録があってまぎらわしい。しかし、ここは遠軽町史の三四年二月一一日を正当としておこう。強いて付言するならば、明治三二年に郵便取扱所または無集配郵便局、同三四年に集配局に昇格という過程があったのかもしれない。

 また、学田郵便局というのが当初の呼称であったという点については、遠軽町史に、
この年(注・明34)学田市街に郵便局を設置するため、札幌郵便局管理課の上野良夫が状況視察に来て、角谷栄政らの案内で轍望岩に登って周囲の景色を賞賛、「アイヌがここをインガルシと名付け、すばらしくながめが良い所である。と言ったことは故あるかな」と感嘆して、たまたま局名のことに話が及んで、この「巌」の名を付けることになって、「エンガル」となった。
とあって、その事実のほどをとりあげていないが、二月開局であるから事前視察は真冬の一月であり、景色を賞賛というには腑に落ちないうらみも残る・・・・
明35・5・25 若咲内に郵便継立所設置(明37・11廃止)
明42・10 電信業務開始

なお、明治四二年ころの遠軽局の集配は、市街付近は隔日に一回、生田原、白滝は三日に一回であった。

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