第9編 教 育

昭和の小漁師top
百年史top

第1章 教育勅語時代の教育
第2章 民主教育への転換  
第3章 学校教育の進展    
第4章 社会教育の進展      


第2章 民主教育への転換    ここから先は何時になるでしょう・・・・頑張ります。

(1)戦後の教育改革
(2)6・3・3制の学校づくり

(1)戦後の教育改革
矢継ぎ早なGHQ指令  連合国軍紀司令部(GHQ)による占領政策が展開されたことから、教育勅語を典範とする教育行政や教育体系も、いやおうなしに改革の洗礼を受けることになった。しかもGHQ指令はすこぶる矢継ぎ早であった。終戦後1ヵ月の9月には早くもGHQ内に民間情報教育部(CIE)が設置されて、教育文化関係の民主改革のメスがふるわれ、
 一 軍国主義の考えと極端な国家主義の鼓吹と普及、および軍事教育の禁止
 二 教員および教育関係官公吏の適任調査による除外と認可に関する措置の実施
 三 教科目、教科書、教育指導書は、とりあえず用いてもよいが、可及的に調査のうえ、軍国主義および極端な国家主義をひろめるため作られた部分の削除
 四 修身、日本歴史、地理の三科の授業の禁止
 五 学校に杞られた神棚の撤去および祭式行事への児童引率参加の禁止
などを通告した。木銃や薙刀など武技用具の焼却、教科書の削除箇所の墨での塗り潰し、禁止3教科の教科書回収、極端な戦時教育を実践した教育者の追放などが進行した。さらに、昭和21年1月には天皇の神格否定(人間天皇)の宣言があって、御真影や詔勅の返還や奉安殿(奉置所)の撤去となり、矢継ぎ早な指令による急速な民主主義教育への転換で、教育現場では、かなりの混乱を呈したものである。
 こうした中でGHQは、昭和21年にアメリカ教育使節団を招請し、3月5日に27名からなる一行が来日した。使節団は、ほぼ1ヵ月を要して政策資料のとりまとめに当り、教育の民主化に関する具体案を報告書にまとめてCIEに提出して帰国した。
 日本政府においても同年9月に、総理大臣の諮問機関として「教育刷新委員会」を設置して、使節団報告の研究を進め、12月には使節団代表、CIE、教育刷新委員会の3者によって、GHQに対する報告書が作成された。報告書では日本教育の欠陥として、
    一、極端に中央集権化された教育制度であること。
    一、特権的な学校組織であること。
    一、画一的な詰め込み教育であること。
    一、官僚独善的な教育行政であること。
    一、非能率的な国語および国字を用いていること。
 を挙げ、これらの欠陥の底を流れるものは、「個人の価値と尊厳の承認の欠除」であるとした。以後、すべての教育改革は、この線によって進められることとなり、「当用漢字表」「現代かなづかい」にはじまり、教育基本法、学校教育法、教育委員会法、社会教育法などが逐次公布され、町村の教育行財政は困難を伴う変革の道を歩むことになった。
新憲法と教育基本法  民主主義教育の原典として、新しい奉公が明文化されたのは、昭和21年11月3日発布、翌22年5月3日発効の「日本国憲法」であって、その第二六条に、
 
 一、すぺての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
 ニ、すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。

と謳っている,旧憲法には教育に関する条項がなく、すべて勅令によってきたが、新憲法により教育もすべて法律によることとなり、教育関係立法が大変革をとげたのであった。
 この新憲法の精神に基づいて、昭和22年3月31日に公布された「教育基本法」は、教育の基本原則を明示したもので、いままでの教育勅語による教育に代えて、民主的、文化的国家建設と、世界平和および人類の福祉に貢献することをめざす日本国民の意志と英知を、教育の力によって達成することを定めたものであった。この教育基本法の施行により、「国民学校令」「青年学校令]「戦時教育令」「学徒動員令」ほかの一連の旧法制は、すべて消滅した。
学校教育法と新学制  教育基本法と同時に公布された「学校教育法」は、4月1日から施行されたが、その理念とするところは、

 一、教育の機会均等の実現
 二、学制の単純化
 三、普通教育の普及向上と、義務教育年限の延長
の3点で、学校教育体系の整備を図るものであり、これによって、
 一、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年の6・3・3・4制。
 二、男女共学。
 三、就学困難な考に対する援助。           
 四、高等学校以上における定時制、通信制課程の設置。
 五、特殊教育の振興。
が実現することになった。
 ここで特記すべきことは、小学校6年に加えて中学校3年が義務教育になったことで、これは「国民学校令」第八条で、
 保護者ハ児童ノ萬六歳二連シタル日ノ翌日以後二於ル最初ノ学年ノ姶メョリ満十四歳二連シタル日二属スル学年ノ終マデ之ヲ国民学校二就学セシムルノ義務ヲ負
 と定め、付則で昭和19年度から実施するとしていたものの、戦局の変化で立ち消えとなった義務教育年限延長が、敗戦という契機によって実現したわけで、画期的であった。
 これによって、本町の各国民学校は小学校に衣替えし、新しく湧別、芭露、上芭露、計呂地の4中学校が開設されることになった。
教育委員会法  教育行政の民主化と地方分権および自主性確立を根幹とする「教育委員会法」は、昭和23年7月に公布施行されたが、教育委員会については行改編で詳述したので省略する。
社会教育法と関連施策  終戦後の極度に混乱した社会情勢の中で、昭和20年「青少年団伴設置要領」「一般壮年層に対する社会教育実施要領」などが示され、軍国調ないしは極端な国家主義のための教化的な社会教育からの脱皮が図られ、おぼろげながら社会教育の新しい方向をのぞかせはじめた。
 昭和24年6月1日に学制改革と併行して「社会教育法]が制定されて、ここに社会教育は画期的な変容をみることになった。従来はとかく学校教育の従属的地位にあった社会教育の位置づけが著しく明確になり、さらに同25,2ねんと改正強化され、町村にも条例による社会教育委員が置かれるようになった。その後、昭和34年4月に一部改正が行われて、社会教育主事の町村設置が義務づけられ、地方公共団体の補助金支出禁止の解除が明示されたため、社会教育活動は大きく前進することとなった。
 ほかにも「図書館法」(昭25・4)、「博物館法」(昭26・12)、「青年学級振興法」(昭28・8)などが制定され、社会教育行政の根拠が次々と整備されていったが、社会教育法を頂点とする一連の法制の中で特記すべきことは、社会教育法全五七ヵ条のうち二三ヵ条を占める「公民館」に関する条項で、社会教育における公民館の意義の大きいことを示している。

昭和の小漁師top 百年史top (1)

(2)6・3・3制の
学校づくり
国民学校から小学校へ  国民学校は「小学校」と改められ、高等科が消滅して6ヵ年の単置校となり、校舎その他は旧国民学校のものを継続使用し、教職員の資格呼称も、訓導、準訓導、代用教員から、教諭、助教諭に改めたれた。
小学校発足当初の動向をみよう。
 要項
年次
学校数 学級数 教員数 児童数 備考
昭23
昭26
13
12
56
52
66
73
1.535
2.023

床丹地区分割後 

新制中学校  義務教育年限の3年延長によって、新制中学校が設置されることになったという事実は、文化国家建設のため喜ばしいものであったが、一面で国民学校から小学校への衣替えのように運ばない困難な条件に立ち向かわなければならなかった。
 義務教育であるから、町村に設置義務が賦課されたことは当然であるが、独立校舎を持つことが建前とされていたことで、当時吹き荒れていた食料拠出問題とならんで、町村行政を大きく揺さぶる結果となったのである。建設資材欠乏に加えて悪性インフレーションという経済状況下では、資材確保も財政の見とおしも立たず、かといって、本町には旧学制時代の中等学校の残存校舎があるわけでなく、最初から施設に頭痛鉢巻きのありさまとなり、中学校の校舎建設の財源と資財をどこに求めるかが村理事者の緊急な責務となったのであった。
 また、教員の面では、ほとんどが国民学校からの転任であったが定員の確保がままならず、しかも必要免許状を持たない教員も多数いるという実情にあったから、いかに教員を確保するかで村外まで駆けめぐるのが、校長たる者の最大の責務であった。
 こうした苦難の新制中学校の発足を物語るものとして、「4月10日仮入学式」(湧別中学校)があり、開設内定の他校のスタートもまちまちな記録を残しており、昭和22年4月1日から開校との施行規則から大なり小なりずれ込んだ経過があった。さらに議会が中学校設置案を次のように議決したのが、昭和22年6月27日というのも、その間の消息を物語るものである。
 湧別中学校ー信部内分校、登栄床分校
 芭露中学校
 東芭露中学校
 上芭露中学校ー西芭露分校
 計呂地中学校ー志撫子分校
 床丹中学校
校舎は、とりあえず従前の国民学校高等科教室を充当し、小学校に間借りという形で開校し、整備計画については「教育審議会」が設けられて関係区の協力を求めることとし、校舎は村費、教員住宅は区負担で建築するという大綱が決定されて、校舎については、次のように建設が進行した。
  昭22 床丹小中学校―増築四七坪
  ″23 湧別中学校―新築三二七坪
  ″24 芭露小中学校ー中学校舎として増築一一八坪
      計呂地小中学校ー中学校舎として増築五九・五坪
      東芭露小中学校ー増築二七一五坪
      西芭露小中学校ー増第二七・五坪
これら学校建築費は、ほとんど起債および補助金てまかなわれ、床丹校を除く5校の建築費総額同87万8,000円に対し、起債額は344万円(70%)に達しており、湧別中学校新築に際しては、住民の「愛村教育債」協力ということもあった。
 次に、新制中学校の入学状況についてみると、昭和22年が669名、同24年が1、073名と記録されているが、この急増の裏には、次のような事情が秘められていた。
 最初の2年間は、いわば完全義務化への移行期間であって、初年度は1年生は国民学校初等科修了生全員の入学であったが、2〜3年は国民学校高等科1〜2年修了者および旧制中等学校(中学校、高等女学校など)1〜2年修了者中の編入希望者で編成するという措置がとられ、なお、高等科2年修了者については、卒業してもよく、中学校3年に編入してもよいというものであり、旧制中等学校通学を継続したい者は、そのまま通学を続けることができた。従って669名の内訳は1年生385名、2年生218名、3年生66名であった。
 3年目の昭和24年度になって、はじめて小学校卒業者の全員入学が3年生にまでおよび、26学級1,073名となり、この年を完全実施の初年度を呼んでいる。なお同年9月に各分校は独立の中学校となった。
 区分
年次
学校数 学級数 教員数 生徒数 備考
昭23 本 校
分 校
 計
6
4
10  
21
4
25
33
8
41
413
90
503
昭26 9 26 55 975 床丹地区分割後

高等学校  昭和25年の朝鮮動乱を契機に日本経済は急速に立ち直り、生活に明るさがよみがえり、その一端が教育への関心となって開花しはじめ、高等学校進学希望者が上昇線をたどるようになった。このような社会状勢の変化から、勤労青少年を対象とする高等学校教育の必要性が痛感され、本町にも村立高等学校が誕生した。主な沿革は、
  昭26・12議会で上湧別高等学校(定時制)の分校設置を決定
  昭27・4湧別中学校に分校開設
  ″27‐11独立して湧別高等学校となる(校長は中村良平上湧別校長が兼任)
  ″28・4校名を下湧別高等学校に変更(組合立湧別高等学校設置による)
  ″31・3第一回卒業生14名を出して廃校(在校生は組合立湧別高等学校定時制課程に吸収)
 組合立湧別高等学校設置の気運が醸成されたのは、朝鮮動乱、中学校整備の一段落、高校進学者の漸増という背景に加えて、進学者の全日制普通課程志向が高まったことによるものであった。それまで全日制普通課程をめざすのには遠軽まで通学しなければならむうえ、遠軽高等学校の収容間口は狭いという憂いがあり、教育の機会均等という新学制の精神にももとるということが懸念されたからである。
昭和27年初めにいたって大口丑定村長が組合立高等学校設立を提唱するところとなり、時を経ずして、下湧別村と上湧別村を包含した設立委員会の設置をみ、両村の熟慮協議の結果、
 一、中湧別に新設校設置を計画する。
 二、画材学校組合を設けて運営する。
 三、全日制普通課程三学級編成で開校する。
ことで合意し、同年8月25日に下湧別村議会が、同月29日に上湧別村議会が、それぞれ設立を議決し、同28年4月中湧別中学校の一部を仮校舎として、「北海道湧別高等学校」の開校となり、初代校長に平野貞が着任した。ちなみに、組合立高等学校開設により、本町からの全日制普通課程進学省は、昭和25年の34名(遠軽へ)が同28年は64名と、ほぼ倍増を示したが、ここにいたる聞には、
 湧別高校役立問題は、賛否両論が入り乱れ、各所で公聴会や村民大会が開かれ、村内の対立は極点に達し、その設立は危まれている。
といった新聞報道がなされる一幕もあった。
次に沿革の概略を記そう。
 昭28・4・1 設置認可(全日制普通課程3学級、定員150名)
 昭28・4・5 開校式ならびに入学式(第1回入学者159名)
 昭28・5・22校地(上湧別村宇北兵村2万1、797坏)の整地開始
 昭28・12・1湧別高等学校一部事務組合の設立認可(組合長大口丑定で実質的には4月発足)
 昭28・12・13第一期工事(二階建木造636・75坪)竣工
 昭29・10・27第二期工事(特別教室および体育館など610坪)竣工
 昭30・10・1上湧別高等学校廃止により定時制を吸収併腹
 昭31・3・31道議会において道立移管議決され道立となる

この聞の本町の分担支出額は、校舎建築費の40%、学校経営費の45%で、しめて3、592万余円の巨額に達するという難事業であった。開校当時の元教諭は次のように回想している。
 
 北海道では珍しい組合立の高等学校として開校されたが、はじめは中湧別中学校の屋内運動場を仕切った3教室だった。古い建物の建て直しだったから、目をあげれば青空がすき間からもれ、床からは黒土がのぞかれ、おまけに北向だったから、11月に入ってからの寒さは格段であった。
 しかし、本校が数多くの競争校(19校)を抜き去り、創立3年にして懸案の道立移管を一挙に達成し得たのは、施設設備の完備こそ早期移管の極め手として、信念と終生をかけた大口組合長をはじめ両村理事者の尽力と、両村民の理解があったればこそである。


 また、湧別町史(昭40刊)では、組合立高等学校開校を果したことによる義務教育修了者の進学動向を、昔日のそれと比較して
「明治40年頃本村から吉田政治(旭川中学)赤繁秀雄・伊藤紋治(函館商業)ら7人くらい中等学校に進学した」<伊藤統治談>と言う特殊な一時期もあったようだが、社会条件などから大勢的には継続したとはみられず、実態を明らかにすることはできない。その後に大学卒業者の数名あることから断続的に恵まれた子弟の中に、中学校あるいは大学に進学した者のあったことは誤りない。しかし一般状勢は困難な進学事情から、高嶺の花としてあまり関心がもたれなかったとみられ、大正11年4月網走と野付牛に道立中学校が開設、管内中等教育に光明をもたらすものとなったが、本町からの進学者はきわめて少数であった。昭和3年町立遠軽実科高等女学校の開校は女子教育の門戸も開き、汽車通学可能な地域から進学者が漸次増加した。開校は同校は16年高等女学校に祖織変更、学級増加等に及び湧別市街地帯からの進学者数は男子を上回るものとなった。昭和15年町立遠軽中学校の開校(昭和19年北海道庁立に移管)で通学は容易になり、中等教育への関心は一層強まったにもかかわらず、戦時体制の進行により進学者はあまりなかったとみえ、湧別市街から5ないし7人くらい通学する者があったと言う。
 戦後の学制改革で男女共学制となり、23年遠軽高等女学校と遠軽中学校は統合、遠軽高等学校とかわり、同校の就学状況はつぎのとおりで、25年からいちじるしく増加したことがうかがえる。
   遠軽高等学校卒業者数調
 24年  11人(内女子4人)
 25年  22人(内女子7人)
 26年  19人(内女子13人)
 27年  24人(内女子24人)
 28年  34人(内女子16人)=25年入学者
 25五年朝鮮動乱を契機とする日本経済の急速な復興発展に伴い、社会構造はいちじるしく変化し、教育水準も従来の義務教育程度では社会的要請に適応し難いものとなった。このような一般状勢は増加の一途を辿る高校進学希望者の深刻を極める入学難となった。各地で教育の機会均等門戸解放の時代的要求に応えるために、町村事業で高等学校建設が意欲的にすすめられる状況となり、28年組合立湧別高等学校を創設、同年の入学者数は64人と大幅に増加した。学校収容力の限度から希望者の100%入学は出来なかったが、37年一学級増加に伴い85名と進学者は増加した。


PTA組織  児童生徒の父母の連帯、父母と教員の連帯、父母と学校の連帯を民主的に確立して、教育の実効を助長しようとする動きは、GHQ(CIE)やアメリカ教育使節団の勧告に基づく文部省の勧奨により、昭和22年半ばころから「父母と先生の会」(PTA)の組織に向けられた、PTAの趣旨は、
  戦前戦時中の保護者会、父兄会、後援会などの父兄組織の、ともすれば学校の協力団体あるいは連絡機関に据えられ、あるいは運営が一部の有力者によってぎゅうじられるなどの封建的な性格から脱皮し、積極的な父母の参加により、平等な立場で教育を考え、学校と密接な連携のもとに、円満な子供の成長発達を助長する組織・・・・
というもので、本町では昭和23年5月に湧別小学校後援会長武藤源久らを中心にPTA結成が計画され、8月に創立をみたのが最初である。その後、各校にPTAが誕生し、特に母が教育に参加する姿勢を助長したことは、大きな変容であり、収穫であった。
 当初のPTAは、どこの学校の場合も、村教育費の極度の窮迫で学校施設や学校経常費が乏しかったから、会費や寄付でそれらを補う会計状態がみられたが、積極的な村の教育施策への協力など、父母側の活動による教育の民主化も一段と推進された。
 昭和25年になって、目的や事業の共通するところから、全村的な視野に立って共通の問題を協議したり、各PTAが連帯して実施することに意義のある事業展開のため、村内各PTAを網羅した連合PTAが発足した。
 本町のPTAの進歩的な運営は、網走支庁管内町村の模範として高く評価され、網走支庁管内連合PTAの結成に際しても主動的役割を果したものである。初期PTA活動については次項に記すこととする。
学校の地域差解消のために   昭和25年に「学校施設整備計画」がスタートしたか、この年に連合PTAの発足をみたことは、大きな意義をもつものであった。中学校施設(既述)につづく芭露小中学校、湧別中学校の屋内運動場教付設にはじまった各校の屋内運動場建設、さらには計呂地小中学校(昭30)、西芭露小中学校(昭31)の改築に際しては、効率的な事業推進のため連合PTAが協議の場をもち、各校の無益な競争を避け、施工順位の意見を理事者に具申するなど、学校施設の地域差解消に適切な民意を反映する営みがつづけられた。
学校名 植林面積(km) 摘  要
湧別中学校
川西小学校
東湧小学校
芭露小中学校
上芭露小中学校
東芭露小中学校
西芭露小中学校
志撫子小中学校
計呂地小中学校
信部内小中学校
   計
6・50
3・22
4・11
12・58
14・74
6・98
6・37
6・36
5・45
3・19
69・50









団体有地
 また、全村(町)的な事業計画についても連合PTAの場で話し合われ、主体的に次のような事業を展開し、辺他校や小規模校の児童が落ちこぼれないようにとの活動もみられた。主な事業としては、
  視聴覚巡回教育=昭20開始
  児童体育記録会=昭25開始(会場は湧別小学校と芭露小学校交互に)
の記録がある。また、教育財源の不足に処して、山積する学校側の要望事項の長期解決策を研究して植林による財源蓄積を企画し昭和31年に町と分収林設定契約を結び、各校PTAの協力により児童生徒の造林事業を行い、ほぼ10年で上表の植林面積が造成された。
 こうした事業は、その後、種々の局面の変化(教育委員会の設置、過疎と学校統合など)とPTAによる公費負担に対する批判が出るなどから、教育委員会に引き継がれたり、あるいは廃止されるなどの変遷をとげたが、大きく影響したのは、昭和28年以降の国庫補助立法「義務教育費国庫負担法」「公立学校施設費国庫負担法」の実現で、町内教育行財政が窮迫から徐々に脱出したという背景であった。こうした時の流れは、PTA活動を会員研修や実践活動など、PTA本来の姿の確立に向かわせ、今日の発展をみている。

昭和の小漁師top 百年史top (1)