第9編 教  育

昭和の小漁師top
百年史top

第1章 教育勅語時代の教育
第2章 民主教育への転換 
第3章 学校教育の進展  
第4章 社会教育の進展  


第3章 学校教育の進展           ここから先は何時になるでしょう・・・・頑張ります
(1)教育事情の転変
(2)学校の沿革

1)教育事情の転変
学校整備と統廃合 昭和24年までの新制中学校施設整備事業につづいて、同25年から学校施設整備計画が実施されたが、小学校12枚、中学校9校(うち小学校との併置校8校)をかかえての校舎施設、教材教具、体育施設などの整備充実は、経済復興による地域住民の教育に対する関心の高まりや、教育内容と教育技術の刷新に照らして、容易ならざる現実の連続であった。しかも、戦前戦時中から継続使用の老朽校舎、戦後の資材窮乏のときに建てられた劣悪校舎などの支障が表面化し、新学制発足10年にして教育施設の抜本的改革に迫られることになった。
 また、いっぽうでは人口動態に黙視し得ぬ兆候があらわれつつあった。経済復興とともに産業構造が著しく変容して、第2〜3次産業の進展に伴って、農村人口の都市への流出が姶動しはじめたのである。特に戦後開拓入植者をはじめとする営農立地条件の劣悪な地帯の離農転出が表面化した。さらに、戦後一時期のベビー・ブームがおさまり、家族計画の普及と核家族化現象から出生率の低下をみ、人口分布と学校配置の聞にアンバランスを来すことが展望されるにいたった。
 以上の2点をふまえて、昭和32年に「教育施設整備五ヵ年計画」が町議会の諮問に付された。町議会では文教、財政面常任委員会の連合審査が約一年間にわたって行われ、
 町財政の総合的な健全性と人口の移動による学級編成、教育効果の向上など、各般の問題点にわたって慎重審議・・・・
つまり、人口過疎の彫響から各校区間にアンバランスを生じた場合に、適正な学級規模が維持できないのみか、施没や教材などの投資効率問題、クラブ活動も含めた児童生徒活動の光き行き、さらに中学校では教科担任の弱体化など、確実に予想される問題について、財政と施設のかかわりだけでなく、教育環境と教育効果も含めて、本町教育体系のありかたを抜本的に見直す論議が出はじめたのである。その結果、本町の地理的条件(自然要素)と生活的条件 (人文要素)に立脚して、中学校を2校に統合することを骨格とする答申がなされ、昭和33年の町議会において、教育施設整備5ヵ年計画に併せて「町学校統合計画案」が承認されたのである。
 しかし、学校の統廃合問題は、どこの町村でも即実現とは運ばない底流が秘められていて、とかく曲折を件うものであった。それは既述したように、学校創設以来の地域と学校の精神的、文化的なつながりに起因するもので、地域の学校が消えるということは、地区住民の学校に対する限りない愛着の情とまったく背反する現実だからである。従って本町に・おける学校統廃合が緒についたのは、廃校では昭和35年の緑蔭小学校、統合では同37年の信部内中学校が最初である、
 ところが、昭和33年に策定された教育施設整備5ヵ年計画および町学校統合計画案は、始動早々にして見直しの必要に迫られることになった。それは経済復興につづく国の高度経済成長政策のあおりと、昭和36年に制定された農業基本法による農業構造の変革により、経済基盤の浅い農村の離農にいっそうの拍車がかかったことで、農村部の就学者動態の推定をあらためて見直す局面を迎えたのである。ちなみに町内児童生徒数は、小学校のピークが昭和33年の2、362名、中学校のピークが同38年の1、124名で、総体的な減少は昭和35年の3、229名(87学級)に対し、10年後の同45年は1、414名(58学級)と、実に56%の減少率を示した。
  こうした流れに処して、町議会、教育委員会、PTA、区長は統合促進のテーブルで審議を尽したのであるが、それらの経過については次項で小・中学校別に詳述する。
中学校の統合  本町の中学校は、9校のうち8校が小学校との併置校として経過していたが、昭和30年前後に芭露中学校について、生徒数や学級数からみて網走支庁管内における併置校としては規模が大きいことから、父母や教育関係者の間から独立単置校建設の要望が再三なされた経過もあった。
 そうした経過のうえに、前項で述べた社会情勢の変化もふまえて、中学校配置の見直しが行われ、統合による再編成を選択するにいたったわけで、湧別地区と芭露地区に各1枚の構想がまとめられたのである。この聞の各中学校規校の推移をみよう。
  年次
学校名
昭23 昭26 昭28 昭30 昭32 昭34 昭36


学級数
生徒数
教員数
8
318
1
9
360
14
9
340
13
9
377
15
9
344
13
7
335
11
10
446
15


学級数
生徒数
教員数
1
12
2
1
46
3
2
60
3
2
60
4
2
52
5
2
46
4
2
47
4


学級数
生徒数
教員数
1
21
3
1
39
3
1
49
2
1
46
2
1
36
3
2
42
3
3
42
4


学級数
生徒数
教員数
5
125
6
5

169
8
4
150
7
5
167
8
4
143
9
3
137
9
5
161
10


学級数
生徒数
教員数
2
42
4
2
84
4
2
68
4
3
68
4
3
75
6
3
80
5
3
102
5


学級数
生徒数
教員数
1
22
3
2
57
5
2
60
4
2
58
4
2
63
6
3
67
5
3
82
5
西

学級数
生徒数
教員数
1
9
1
1
45
2
1
45
3
1
38
2
1
34
4
1
36
3
2
45
4


学級数
生徒数
教員数
1
48
2
1
63
5
2
73
4
3
73
5
3
71
6
3
67
4
3
47
4


学級数
生徒数
教員数
3
66
3
3
113
7
3
110
6
3
105
5
3
97
7
3
90
6
3
121
5
学級数
生徒数
教員数
23
463
37
26
975
55
26
955
46
29
992
49
28
915
59
27
900
50
34
1.093
56
 この時点で信部内中学校の統合の議が具体化し、「昭和36年中学教育の充実のため、湧別中学校に統合する案が提示され、時の教育長と地区住民との間の数度に亘る熟議の結果統合に賛成し、同37年4月1日をもって湧別中学校に統合した」<しぶない六十年史>ことにより、中学校統合の第一歩が印され、昭和40年に登栄床中学校の湧別中学校への統合も実現して、町内中学校2枚の目的の一翼が達せられた。
 しかし、芭露、計呂地地区の統合は容易でなかった。昭和38〜39年に志撫子、計呂地両中学校の芭露中学校への統合がようやく実現したものの、上芭露、東芭露、西芭露3中学校の芭露中学校への統合は、地区住民に対する説得に時日を費し、合意を得て全校の統合を達成したのは昭和44年のことであった。しかも、この間の昭和41年に東芭露中学校が、上芭露を飛び越えて一足先に統合を実現するという異変もあった。統合にいたる間の対象校の規模の推移は次のとおりである。
 年次
学校名
昭37 昭38 昭39 昭40 昭41 昭42 昭43
登栄床 学級数
生徒数
2
43
2
55
2
55
志撫子 学級数
生徒数
3
68
計呂地 学級数
生徒数
3
112
3
115
東芭露 学級数
生徒数
3
82
3
74
3
65
3
59
上芭露 学級数
生徒数
3
97
3
102
3
90
3
75
3
66
3
59
3
45
西芭露 学級数
生徒数
3
40
2
37
2
30
2
33
2
32
2
32
2
30
ここで、難渋の統合にいたる経過をみた芭露、計呂地方面の当時の模様の一端を、関係者や古老の言から一部要約してみよう。
  議会や教育委員会から説明や説得に来て三回ほど地区住民と懇談したが結論が出ず、議会総務委員長から「もう、あとは知らんぞ、はっきりしろ」といわれ、賛否両派が各戸を署名運動して回るありさまとなった。ついに会合で採決する事態となり、開票結果は50対50で議長は票を投じなかった。1票でも多ければ多数決に従うという申し合わせも宙に浮き、賛成派は積極的に戸別訪門をはじめ、その間約1ヵ月、ようやく意外なほど署名を得て、38年1月になってほぼ次のような条件つきで統合に賛成することに決定し、当局側に申し入れた。
  1)統合は学年中途で行うことを避け、若干の準備期間をおき、39年4月を目途とする。
  2)通学列車を指定し、放課後列車時刻までの生徒管理は、責任をもって学校で行うこと。
  3)志撫子停留所を移転し、通学に便ならしめること。
  4)通学交通費の半額を町で助成すること。また、志撫子停留所までの交通機関として、自転車を無償貸与し、停留所には自転車置場を設置すること。
  5)将来、上芭露方面の統合を考慮し巡回スクールバスの運行、および上芭露方面への一般交通の便益を図るため、志露峠経由の道路を改良整備すること。
  6)近い将来(3年以内)、計呂地、上芭露方面の各中学校を統合すること。

 7)冬期間、通学に不便なため寄宿する必要が生じた場合、寄宿舎を設置し、舎監において管理すること。
 8)将来、他校が当校の条件より有利な条件で統合された場合は、その条件を当校にも適用すること。
 9)小学校の改築を優先的に行うこと。

 この結果、統合は昭和38年4月から名目統合、翌39年4月から実質統合となり、通学交通機関はスクールパスの巡行で結着し、冬の道路除雪が確保されることになって、統合は円滑に実施されることになった。なお、小学校の全面改築は昭和44年に完成し、屋内運動場を除く普通教室、職員室、音楽室、図書室、保健室、器具質、水呑場、便所などが新築となり、近代的校舎に生まれ変わり、寒風にこごえた薄暗い往時のおもかげはなくなった。<志撫子>
 44年になって町議会は、上芭露、西芭露中学校の強制統合にふみ切るにいたったが、これは開拓以来学校を中心として生活し発展してきた住民にとっては、大きな衝撃であった。両地区は強固な反対姿勢を打ち出し、湧別市街に2度にわたって統合反対の示威行動(注・むしろ旗を立てて)をおこしたが、結局は既定の事実として認めざるを得ない結果になってしまった。<西芭露>


ここで注目されるのは、志撫子が提示した条件付統合のケースであるが、これは、その後の中学校、そして小学校の統合にあたって、各地区が提示する条件に大きな影響をもつものとなった。すなわち、スクールバスの巡行とそれに見合う道路除雪、名目統合〜実質統合のシステム、小学校施設の改築などがそれである。
 また上芭露以奥の中学校統合が、このように曲折をみた裏には、さらに、区創成以来の歴史的な背景が根強く作用しており、それについては小学校の統合問題でより顕著なものがあるので次項にゆずることとする。ともあれ、念願の中学校統合を果たした経過を一覧表にまとめてみよう。なお、統合の過程で芭露中学校は、昭和38年5月1日に統合の行く手を考慮して、新設校らしく「湖陵中学校」と改称している。
    区分
学校名
廃校年月日 統合学校 廃校時生徒数(学級数)
信部内中学校
志撫子中学校
計呂地中学校
登栄床中学校
東芭露中学校
上芭露中学校
西芭露中学校
 昭37・3・31
 昭38・3・31
 昭39・3・31
 昭40・3・31
 昭41・3・31
 昭44・3・31
 昭44・3・31
湧別中学校
湖陵中学校
湖陵中学校
湧別中学校
湖陵中学校
湖陵中学校
湖陵中学校
34(2)
68(3)
115(3)
55(2)
59(3)
45(3)
30(2)
 参考までに統合課程期と統合後の湧別、湖陵両中学校の規模の推移を掲げ、統合が果たした意義を推測する資料としたい。
  年次
学校名
昭37 昭38 昭39 昭40 昭41 昭44 昭49 昭54


学級数
生徒数
教員数
10
464
16
11
491
16
11
453
16
12
495
18
11
431
18
9
342
16
6
254
12
7
194
13


学級数
生徒数
教員数
6
189
13
6
250
13
9
336
15
9
306
15
9
313
16
8
279
14
5
150
11
3
78
9

小学校の統合  縁蔭小学校の統合は早かったものの、他の小学校の統合再編が、すべて中学校の統合達成後になったのには、それなりの根拠があった。それは、
 1)中学校の場合は教科担任制なので、小規模化〜教員定数減は即、学力の低迷につながり、進学などに影響すること。
 2)小中学校統合の同時進行は、統合新校舎建設のうえで財政的に困難が伴うこと。
 3)地域の創成と小学校の開基が発生的に不離密接な関係にあり、小学校は歴史的に地域のセンター的な役割を果しながら経過しているため、小学校の統合を急ぐことは、いたずらに地域感情を刺激しかねないこと。
 4)いうならば、中学校の統合がテストケース的役割を果して好結果をもたらせば、小学校の統合が円滑に進むことが予想されること。

などであるが、統合の基本的な理念は中学校の場合と、なんら異るものではなかった。緑蔭小学校が立地条件の劣悪から離農者が統出して、学校存置の効果が薄らぎ、昭和35年3月で廃校となるまでの、各小学校の規模の推移をみよう。
年次
学校名
昭23 昭26 昭28 昭30 昭32 昭34


学級数
児童数
教員数
14
384
15
14
570
16
13
596
15
13
631
16
14
661
19
15
707
19


西
学級数
児童数
教員数
2
66
4
2
89
4
2
93
3
2
99
3
3
109
5
3
112
4


学級数
児童数
教員数
2
40
3
2
57
4
2
63
3
2
64
3
2
70
5
3
60
5


学級数
児童数
教員数
2
49
2
2
100
4
3
110
3
3
113
3
126
5
3
132
4


学級数
児童数
教員数
3
57
4
3
119
5
3
113
4
3
110
3
3
117
5
3
116
5


学級数
児童数
教員数
9
294
8
9
340
11
8
330
10
8
324
9
9
347
11
11
363
13


学級数
児童数
教員数
4
98
4
4
154
5
3
169
4
4
162
4
5
181
6
6
185
7


学級数
児童数
教員数
4
93
3
3
128
5
3
136
4
3
153
4
3
166
4
4
166
5
西

学級数
児童数
教員数
2
58
3
2
76
5
3
76
2
3
75
4
3
79
4
3
80
3


学級数
児童数
教員数
3
85
3
4
148
4
3
151
4
3
143
1
3
153
4
3
136
5


学級数
児童数
教員数
5
161
7
6
216
7
6
198
6
6
226
7
6
242
7
6
263
8


学級数
児童数
教員数
1
19
3
1
26
3
1
13
1
1
12
1
1
10
2
1
9
1
学級数
児童数
教員数
51
1.404
59
52
2.023
73
50
2.048
59
51
2.112
57
55
2.261
77
61
2.329
79
 この時点では、緑陰小学校の単級を除いて複式校が7〜8校で推移したが、増勢ないし安定した児童数を保持していたので、昭和33年に町議会が承認した学校統合計画は、中学校ほど身近なものとは映らなかった。しかし、その後の12年の変動は、次のように激しいものがあった。
   年次
学校名
昭36 昭38 昭40 昭42 昭44 昭46


学級数
児童数
15
634
14
542
12
431
12
365
12
366
12
351

西
学級数
児童数
3
90
3
83
3
65
3
50
2
36
3
30


学級数
児童数
3
59
2
52
3
55
3
50
3
47
3
29


学級数
児童数
3
140
5
124
6
113
5
87
4
78
4
54


学級数
児童数
3
111
3
99
5
81
4
68
4
61
3
56


学級数
児童数
9
325
7
254
7
228
6
190
6
168
6
134


学級数
児童数
6
170
5
142
5
104
4
73
3
58
3
53


学級数
児童数
4
123
3
83
3
46
2
32
2
29
3
22
西

学級数
児童数
3
80
2
63
2
46
2
32
2
15
2
10


学級数
児童数
3
124
3
94
4
73
3
36
2
27
2
16


学級数
児童数
6
235
6
208
6
156
6
112
5
76
5
55
学級数
児童数
58
2.091
53
1.744
56
1.398
49
1.095
45
961
46
810
 ここにいたって、先に描いていた湧別、芭露、上芭露、計呂地の4小学校構想(拠点地区単位)は見直しに迫られ、町教育委員会と町議会文教常任委員会が中心となって、ほぼ中学校の統合に似かよった線で、次のような努力が重ねられた。

  昭46・6・18 教育委員会で統合基本方針決定
  昭46・6・22 町議会文教常任委員会で推進奉公を協議検討
  昭46・7・2  町議会正副議長、文教常任正副委員長、区長、PTA会長、教育委員により統合の基本方向と進め方を協議
  昭46・8・2〜21 各地区で統合の説明会を開き協力要請
  昭46・10・25 統合校下区長、PTA会長合同会議

この結果、昭和46年をもって信部内、川西、東湧、登栄床、湧別の5小学校を廃止して、これを統合し新しく湧別小学校を創設することとなり、新校舎ができるまで名目統合として分教場を存置し、昭和47年5月1日開校、翌48年4月1日に新校舎に移転して実質統合が実現し、湧別地区については小学校統合の目的が達せられた。
 しかし、芭露、計呂地方面の話し合いは思うように進まず、ようやく昭和52年に東芭露小学校の統廃合、同55年に志撫子小学校との統合が実現した。この間の各校規模の推移は次のとおりで、今後の統合正否に深いかかわりを感じさせるものがある。
年次
学校名
昭47 昭49 昭51 昭52 昭54 昭55


学級数
児童数
教員数
15
506
32
14
444
19
13
411
17
13
411
17
13
435
17
13
418
17


学級数
児童数
教員数
6
128
8
6
111
8
6
93
10
6
100
9
6
116
9
6
120
9


学級数
児童数
教員数
3
45
5
3
36
4
3
26
3
3
25
4
3
28
6
4
25
7


学級数
児童数
教員数
3
16
3
2
7
3
2
6
3
西

学級数
児童数
教員数
2
11
3
2
15
3
3
18
4
3
16
4
3
14
4
3
16
4


学級数
児童数
教員数
2
14
3
2
12
3
2
15
3
3
18
4
3
15
4


学級数
児童数
教員数
4
54
6
3
35
4
3
44
5
3
43
5
3
38
6
4
34
7
学級数
児童数
教員数
45
774
60
32
660
44
32
613
45
31
613
43
31
646
46
30
613
44
ここで、統合という現実に直面して、あるいは賛同し、あるいは反対をつづけた地区の模様の一端を閉校記念誌、および関係者の談話から一部要約して綴ろう。

 一時は70余名を数えた児童数も昭和43年より減少し、ついに20数名になるという状態になり、同46年8月教育委員会は統廃合案を提示した。しかし、地区住民の学校に対する愛着は断ちがたく、統合に対する強い反対があって、苦渋数カ月、ようやく「統合に反対はしないが、準備期間として数年先に実施を……」の線に落着したものの、その後の町、教育委員会との折衡はしばしば緊迫した状況がみられ、一時は騒然たる様相を呈したが、当局のねばり強い説得で、ついに統合案に同意することとなり、信部内校の歴史に終止符をうつにいたった。筆舌に尽せぬ哀愁の葛藤、それは地区住民と学校の強い絆であった。昭和48年3月20日廃校式と同時に開校60周年記念式典が挙行されたが、大正3年に特別教授所が開かれて幾星霜、時には戦場に教え子を送った教師の涙が、また炎天下を叫び回った子供達の声が、いま信部内の土にそして蒼穹に生き続きつつも、同窓生はもちろんのこと地区住民の断ち難い万感をこめつつ、静かに60年の歴史を閉じたのである。<信部内>
 廃校・・考えてもみなかった言葉が現実となった。地区住民にとっては児童ばかりでなく、父母全休の勉強の場所であり、社会的なつながりを持つ大切な場所でもあった。地域社会の学校が消える。しかも自分達で営々として子弟教育の築いてきた学校が、時代の要請とはいえ解消されることは、東湧のわれわれにとって耐え得ない現実である。時代の流れとは、かくも苛酷なものかとしみじみ思う。<東湧>                                芭露地区においても小学校一校の統合が計画され、特に昭和52年から積極的に地域の理解を求めるべく、志撫子地区でも53年3月7日に児童父母、区の役員が参集して懇談会が実施されたが、席上参会者から賛否両論があり、区長からの「いずれの結論を出すにせよ、避けて通れない問題なのだから、今後地域でも話し合うし、必要によって教育委員会は何度でも出向く」ということで散会、4月12日の区の役員会では父母の意見重視を第一義とし、PTAや将来入学予定の若い父母中心の話し合いを要請した。その結果、大多数の父ほが賛成ということで、6月24日の部落総会で統合賛成を決定した。そして6月27日大要次の要望書を町および教育委員会に提出した。
 一、学校林は区有林に名儀変更すること。
 二、旧校舎は町公民館志撫子分館とすること。
 三、学校住宅は町管理で存置すること。
 四、旧学校体育館は区に無償で払い下げること。
そして、児童については、新年度から通う芭露小学校の理解を得て、12月13日に同校を訪ねて交歓会、翌年2月13日さらに同校に一日入学して単式学級の学習を経験させるなどした。<志撫子>
 統合問題の話し合いは、過疎という現実に処して総論賛成、実施には難色というのが区民感情のようだが、東芭露では単級になるときは統合するという見究めはしていたので、昭和51年の地区総会で時期がきたら(もう1年で)統合することが、他地区に比して比較的スムーズに決まった。ただ、上芭露、西芭露とのひっかかりがあったが、その点については、もし遅延されるのなら単独ででもという腹を決めていたー−もっともこれには一時上芭露に統合したとしても、複式では不可という決意があったから、結局は中学校の時と同様に山越しの統合になった。統合に際しての条件としては、
 一、町営バスを福島団体二、三組に迂回運行させること。
 二、学校跡(グランドも含めて)を公民館施設ならびに集会施設とすること。
 三、区の負担でやっている冬の道路除雪を町が行うこと。
など、生活のわびしさを解消することを主とし、社会教育の面も学校中心の消滅を地区組織の自主的運営に転化する方向で・・・<東芭露・梶井正雄談>
 上芭露が統合に難色(反対)を示しているのは、歴史的な上芭露の元祖意識が底流にあって、芭露市街中心的な傾向への反発が働いている節がある。その昔、上芭露はハッカの集散地として料亭や旅館があり、商店も軒を並べ、下(芭露)よりも著しい繁栄をみせていたという地区の力を意識しつづけているわけで、昭和23年に農協が発足したときも本部は上芭露に置いたほどであった。従って上芭露の意図するところは、東西芭露小学校を上芭露小学校に吸収し、志撫子および計呂地小学校を芭露小学校に吸収して、芭露地区は小学校を2校にするというもので、芭露地区1校案には絶対反対を区で決議している。さらに教育環境として上芭露の高校進学率が芭露よりも上であることや、区やPTAがあげてクラブ活動(剣道)の助成をしていることなど 教育指導の徹底とPTA活動のよさをあげ、大統合によるスキンシップの欠如や非行の発生を警戒している。また西芭露は上芭露の動向次第というのが実情であり、計呂地は上芭露ほどではないまでも、市街住民は統合賛成、上方面は地区のセンターとして若干難色を示しているのが実情といえよう。しかし、芭露小学校の統合校舎が既に落成をみ、子を持つ父母の意識の変化もあり、また、これほどまで児童数が減るとは思わなかったという地区の目算違いもあったから……いちおう統合計画達成年度は昭和57年ということになってはいるが、多少の遅延はあっても、円満に統合は達成されるものと思う。<教育委員、押野健一談>


いずれにしても学校統廃合という問題が、これほどまでに町民の関心を集め、町民個々の胸の内で、また、区内で燃焼の度を高めたことは、本町の有史以来、学校の創設開基に、あるいは戦後の6・3制教育の発足に示した住民の熱意の延長以外のなに物でもなく、曲折はともあれ、将来のみのりが期待されるところである。
 次に、小学校の統廃合の経過を表にまとめてみよう。
     区分
学校名
廃校年月日 統合学校名 廃校時児童数(学級数)
緑陰小学校
川西小学校
昭35・3・31
昭47・3・31
信部内小学校
湧別小学校
12(1)
30(3)
信部内小学校
東湧小学校
登栄床小学校
東芭露小学校
志撫子小学校
昭47・3・31
昭47・3・31
昭47・3・31
昭52・3・31
昭52・3・31
湧別小学校
湧別小学校
湧別小学校
芭露小学校
芭露小学校
29(3)
54(4)
56(3)
6(2)
15(3)
統合学校名の(湧別)(芭露)は、いずれも統合による新校

統合校舎の建設  学校統合に当たっては、当然のことながら収容の受け皿づくりが課題となる。しかも、それは旧各校の施設環境よりも充実したものでなければ、統合の趣旨にももとるので、慎重な校地選定、設計施工、校具の調達が課題となる。竣工経過をみよう。
■ 湧別中学校
  昭35・11 校舎2,184u
  昭41・11 特別教室816u 
  昭45・11 体育館1,070u
    計 4,070u
    総工費 6,461万円
■ 湖陵中学校
  昭38・12 校舎第1期1,019u
  昭39・11 校舎第2期および体育館1,211u
  昭40・11 校舎第3期709u
    計 2,939u
    総工費 5,421万円
■ 湧別小学校
  昭48・3  校舎第1期
  昭48・6  校舎第2期 合わせて3,280u
  昭48・11 体育館788u
    計 4,068u
    総工費 3億4,132万7,000円
■ 芭露小学校
  昭55・8  校舎2,371・45u
  昭55・11 体育館692・1u
    計 3,063・55u
    総工費 4億3,596万円

スクールバス  学校統合により遠距離通学者の足をどうするかは、通学者や父母の大関心事であり、理事者側の対応のポイントでもあった。志撫子の例にみられる国鉄乗降場移設および乗降場までの自転車貸与などの条件提示が、そのあらわれであった。
 既存の交通網(交通運輸編参照)である国鉄湧網線、北見バス(湧別〜登栄床、遠軽〜上芭露)、北紋バス(中湧別〜福島〜上芭露〜東芭露、中湧別〜計呂地〜若佐、紋別〜信部内〜川西〜中湧別)は基本の利用体系ではあったが、志撫子の奥は自転車といっても冬期間の通学難が解消されないし、既存交通網ダイヤでは時刻と便数のうえで、学校活動のタイムテーブルと連動しない不合理もあったので、一部「スクールバス」方式を採用することとし、
  昭和39・12 スクールバス1号車運行=芭露〜志撫子(町費で購入、当初は北見バスに経営委託)
  昭和40・4  スクールバス2号車運行=芭露〜計呂地
  昭和44・4  スクールバス3号車運行=芭露〜上芭露〜東芭露

の路線と既存交通網で中学校統合による通学に対処した。その後、北紋バスの不採算路線廃止に伴い、
  昭和45 町営バス運行=湧別〜芭露〜上芭露〜東芭露
  昭和47 町営バス運行=芭露〜計呂地(スクールバス廃止)

で補い、昭和48年の小学校の大量統合に際しては、さらにスクールバス2台を増強し、登栄床線、川西・信部内線、東湧・福島線の運行を開始した。なお北見バスの不採算路線廃止に伴い、
  昭49 町営バス運行=湧別〜三里浜
で補い、現在はスクールバス5台(5路線)と町営バス3路線が、通学の足を確保している。
 バス通学者(当初の会社バス利用者も含めて)に対しては、町条例により定期券料金を助成しているが、これには学校統合に伴う遠距離通学児童生徒に対する国の補助も見込まれている。スクールバスについて、かって中学校統合でもめた西芭露の住民は、
 現在、生徒の通学にはスクールバスが配置され、朝夕、生徒のいる家の前まで送り迎えしてくれ、また、このバスには、上芭露保育所へ通う幼児をはじめ、一般住民も利用(昭51から)することができるようになっている。かつ、このスクールバス運行により、冬期間、すみやかな道路の除雪も確保され、地区住民に有利な一面も見られるようになり、長い年月の間に、昔日の怨しゅうを超えた親睦もみられるようになった。
ともらしている。
学校給食  現在の学校給食(完全給食)とはくらべものにならないが、給食の歴史は断片的ながら50年前に遡ることができる。主な給食の記録は、
  昭7〜8   昭和6〜7年の冷害凶作による要保護児童に対する給食(産業編=災害とのたたかい参照)
  昭31〜32 昭和29,31年の冷害凶作による輸入放出物資での給食
  昭40     昭和39年の冷害凶作による欠食児童生徒対策事業としての給食

など、農村災害に起因したもののほか、戦後復興による地域発想のものがあり、それらは学校単位のささやかな施設での営みであった。求め得た資料でその経過をみると、
  昭8・10・19 国費を以て栄養補給の目的で全児童に給食実施40日間<志撫子>
  昭32・2・19 ユニセフ粉乳給食開始<志撫子>
  昭32・3・8  クラッカー給食開始<志撫子>
  昭35・2・6  婦人会奉仕で温食開始=3月まで<東湧>
  昭36・12・1 婦人会出費おつゆ給食開始=3月まで<東湧>
  昭39・5・10 学校給食開始<湧別>
  昭39・12・1 婦人会報誌で温食開始=3月まで<東湧>
  昭40・5・10 全町一斉に学校給食開始(パン、牛乳、ジャム、マーガリンによる)

とあり、多少の各校単位の営み(全容不詳)を経て、昭和40年全町的な給食開始となった。
 この間、昭和22年3月31日に「学校給食法」が、児童生徒の心身の健全な発達と調和を図ることを趣旨として制定されたが、戦後の混乱期とて財政的にも学校給食への取り組みは困難で、農山漁村での実施はかなり遅延せざるを得なかった。学校給食の目的とするところは、
  一、日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を養う。
  二、学校生活を豊かにし、明るい社交性を養う。
  三、食生活の合理化、栄養の改善および健康の増進を培う。
の3点で、このことは前記各校戦後の給食に理念として生かされたことは確かである。
 本町では昭和43年になって、上湧別町との一部事務組合方式での学校給食法に則った完全給食実施を決め、給食センター方式により給配送構想による体制整備に着手した。
  昭43・4・25 組合設立
  昭43・5・30 北海道知事認可

によって組合議会、組合教育委員会が設置されPTAおよび学校長代表で構成する「学校給食運営協議会」がもうけられて教育委員会の諮問機関となっている。
 給食センターは昭和43年9月に、3学期からの給食開始を目途に着工され、上湧別町字中湧別914番地に、
  構 造 鉄骨ブロック、補強コンクリートブロック、木造モルタル各平屋建
  建 坪 計3棟524・03u
  工 費 3,430万円
  施 設 配送車3台、自動洗浄機2基、ライスボイラー4基、ガス回転釜1基、消毒保管庫6基、
       ボイラー、冷蔵庫、冷凍庫、フードミキサー、フライヤー、合成調理器、自動食品切裁機、
       ハムスラスサー、大型缶切機、球根皮むき器など
の規模で完成し、昭和43年1月21日に19校3,256食で完全給食が開始された。給食センターは保育所への給食も兼ね、週5日の給食を実施しており、近年米飯給食の要望にもとづいて、週2日は主食に米飯をとり入れている。
網走地方教育研修センター  昭和46年9月に網走市字駒場37番地に、「網走地方教育研修センター」が開設されたが、これは網走支庁管内の市町村が共同して行う学校教職員の研修や、教育に関する調査研究などを実施するための施設で、本町も加入している一部事務組合事業であり、財政面のみでなく、過疎〜教員定数減で人的にも弱体化しつつある町村教職員の研修に寄与し、現場教育の効果向上に一役かっている。
特殊学級  心身障害児童生徒の義務教育就学については、その特殊性から対応について検討を重ねていたが、教育の機会均等の見地から、湧別小学校の完成(昭48・統合校)を待って、昭和49年度から同校に「特殊学級」を1学級設置し、同51年から湧別中学校にも特殊学級1学級を設置した。
 特殊学級開設に際しては、先だつ昭和48年9月1日に「特殊学級入級判定委員会」が設けられ、教育長、特殊学級設置校教職員、医師、保健婦、学識経験者を委員に委嘱し、慎重を期している。
視聴覚ライブラリー  教育効果を挙げる方向として、戦後、GHQや国際連合の援助で、学校教育でも社会教育でも視聴覚教材および機材の利用が活発となり、本町においても充実の方向にあったが、財政投資と運用面の効率拡大のため、近隣町村の共同管理利用を志向し、
 一、学校教育および社会教育施設などに対する視聴覚機材および教材の供給
 二、視聴覚機材および教材の利用の指導
 三、視聴覚教育の振興のために必要な展示会、講習会および研修会の開催
進学率の向上  湧別高等学校開設以来、中学校卒業者の進学率が上昇し、昭和38年4月の高等学校進学状況は、湧別高等学校81名、各地実業課程高等学校17名、家政高等学校12名と110名をかぞえ、中学校卒業者の35%を占めるにいたった。その後、社会問題として「進学希望者の高等学校全員入学」(高校全入)が唱えられる時世となり、本町における中学校卒業者の進学率は年を追って次のように上昇している。
 区分
年次
中学校
卒業者数
進学者 就職者 その他
生徒数 進学率 生徒数 就職率 生徒数 率(%)
昭40
昭43
昭45
昭48
昭50
昭53
347
243
178
159
134
107
157
133
118
111
97
90
45・3
54・7
66・3
69・8
72・4
84・1
106
55
35
27
15
6
30・6
22・6
19・6
17・0
11・9
5・6
84
55
25
21
22
11
24・1
22・7
14・1
13・2
15・7
10・3
進学者には就職進学者(定時制)を含む

福岡基金  昭和32年9月の湧別小学校開校60周年記念行事に、東京都の福岡ヤエ(明36本町基線番地で出生、湧別尋常高等小学校に学ぶ、旧姓=武藤)がピアノ購入資金として20万円を寄贈した。夫の没後その事業を経営する愛郷心の厚い実業家で、特に教育の振興に意を寄せ、「困窮家庭の児童教育のために」と同34年以降も毎月2万円ずつを、欠かさず本町に寄せているが、町教育委員会では、福岡ヤエの篤志を生かす方途として、寄金による奨学資金制度を昭和43年に樹立し「福岡基金」と名付けた。
 奨学金は高等学校生が月額6,000円、大学生が同じく1万5,000円で、現在までの福岡基金による奨学金の恩恵を受けた高等学校生とは16名、大学生は1名をかぞえている。
 さらに昭和55年、56年と連続して、本町の青少年教育振興資金として多額の篤志を寄せており、教育関係者はもちろん、町民一般から感謝されている。

昭和の小漁師top 百年史top (1)

(2)学校の沿革
湧別小学校
 
(廃校)
 明治26,7年ころから漸増した入植者は、学齢期児童の教育について模索していたが、当時は篤志者が主催するか、あるいは入植者が篤志者に依頼して、寺子屋式教育を施したのが実情であった。
 湧別小学校沿革誌をみると次の記録がある。
  明27・6  浜市街26番地の民屋を借り入れ山梨県人中狭某私塾を開き児童8名を集め教育せり
  明28・9  4号線に西本願寺の僧侶鑓水冬堅氏私塾を開き児童12名を教授せり
  明29・10 吉田喜久馬氏をして私塾を開かしむ・・・風越信導氏教育の任に当る児童22名

また「明治32年9月4号線の横沢金次郎が青年塾を開設」<土井重喜談>もみられた。このように年ごとに増加する学齢児童の教育のため、紋別村外9カ村戸長役場当時の明治30年6月1日に「湧別尋常小学校」 (当初4年制)の設置認可となり、同月13日の湧別村戸長役場設置告示=7月15日開庁で村立学校となった。沿革詰では当時の模様を、
  明治三十年六月一日、湧別村戸長ノ下二設立セラルヽヤ同六月二日付ヲ以テ高島郡稲穂尋常高等小学校訓導松永嘉一氏任命同月十四日着任、同十六日ヨリ校舎ナキタメ浄土真宗大谷派説教場(注=現真宗寺)ヲ教場トシテ教授ヲ開始ス、九月六日基線十八番地(注=四号線)二有地康一氏所有ノ民屋ヲ仮校舎トシテ授業ス、児童一年一八名、二年一九名、三年一一名、四年八名、計五六名
と伝えている。
 独立戸長役場は早速校舎建築計画に取りかかり、明治0年度のものと思われる決算書に、臨時教育費予算額847円2銭3厘、決算額812円25銭9厘(校舎新築費)が記載され、その決算説明に、
 此ノ決算ノ負担額ヲ以テ予算二比シ金参拾四円七拾六銭四厘ヲ滅ジタルハ決議ニヨリ新築費第三期支払ヲ翌年度支出トナシタルニ出ル
とあり、沿革誌でも、
 明治三十一年三月九日基線六番地即チ現在ノ地(注=総合体育館一帯)ニ教室二十坪職員室四坪住宅十九・五坪の校舎完成
となって、この年の4月20日に第1回の卒業者5名を送り出している。その後は、
  明32 在籍児童九四名にふえ、一一月教員二名となる
  明34 在籍児童一三一名二学級編成となり、七月一○日初代校長に菅原繁蔵を任命

と増勢を示し、学校らしい体裁が整ったとはいうものの、開校60周年記念特集「学校だより」によれば、
  教具参考書もなく授業は不便をきわめた。校門の両側には天を摩するが如き巨木がそびえ立ち、周辺は笹、ヨシ、イタドリ、ヨモギなどの雑草で藪をなし、夜間には狐の叫ぶ声が聞えることもあり、また熊の棲家となっていたこともあった。このような環境でありながら発らつたる発展ぶりは校の内外に溢れ、開拓の思想が村内に満ちていた。<菅原校長談>
という状況で、いまも記念木が、そのなごりを伝えている。以後の経過をみよう。

 明35・3 父兄の寄付金により屋内運動場新築(役場施設完備まで村会会議場にも使用)=三学級一五六名
  ″35・9・1 本校所属馬老簡易教育所開設
  ″37 二部授業解消のため増築=四学級
  ″38・7 二年制高等科を併置し「湧別尋常高等小学校」となる=五学級二八四名
  ” 40・9・1 本校所属計呂地簡易教育所開設
  ” 41・1 馬老簡易教育所が昇格独立し計呂地簡易教育所は馬老尋常小学校所属となる
  ” 41・12 低学年のため本校所属川西特別教授場開設
  ” 42 逐次増築して学級増に対応=この年九学級
  ” 43・12 低学年のため本校所属東特別教授場開設(大13廃止)
  大3・9 本校所属信部内特別教授場開設
  ” 4 屋内運動場新築(七二坪)
  ” 4・10・30 御真影奉載
  ” 5・9・8 奉置所落成(11・21奉遷式)
  ” 5・10 本校所属緑陰特別教授場開設
  ” 5・11 川西特別教授場が昇格独立
  ” 6・7 緑陰特別教授場が川西尋常小学校所属となる
  ” 9・4 信部内特別教授場が川西尋常小学校所属となる
  昭3・4 本校所属中番屋特別教授場開設
  ” 3 校舎増築(五六坪)=児童数約六○○名
  ”15 校章および校歌制定
  ”16・4 国民学校令により「湧別国民学校」となる
  ”21・8・21 GHQ指令で奉置所撤去
  ”22・4 新学制により「湧別小学校」となる
  ”28 映写室設置
  ”29 学校図書館設置
  ”32・9・14 開校六○周年記念式典
  ”37・10・13 町営プール付設
  ”39・5・1 子供憲章「わたしたちの誓い」制定
  ”40・5・12 応援歌制定
  ”42・9・14 開校七○周年記念式典
  ”47・4・30 学校統合により廃校

なお、歴代校長は次のとおりである。
 菅原繁蔵(明34・7)、鈴木三郎(明35・5)、神尾久吉(明36・9)、川添健次郎(明39・5)、海江田金(大5・6)、横尾恒(大8・9)、石原伝平(大10・3)、石丸信次(大13・9)、島野寿美男(昭3・3)、細木秀次郎(昭7・10)、合田尭助(昭15・4)、角田韓一(昭17・4)、立山重雄(昭19・7)、村上重吉(昭21・4)、伊藤鶴吉(昭22・4)、岩崎幸七(昭26・5)、大畠繁利(昭31・11)、高尾正(昭42・4)、西山日出男(昭46・4)

 以後は統合校に
湧別小学校
 (統合校)
小学校の統合が検討され、湧別地区の統合が具体化したのが昭和46年で、湧別、信部内、川西、東湧、登栄床の5校を廃止して統合し、新たに「湧別小学校」を創立することとなった。
  昭46・12・12 統合新校舎の校地決定=字錦二一一番地の一
  ”47・4・30 五校の校舎(名目統合)を行い旧五校を分教場とする
  ”48・3・22 新校舎第一期工事落成
  ”48・4・1 実質統合で新校舎へ移転
  ”48・5・1 開校式
  ”48・6・30 新校舎第二期工事落成
  ”48・11・10 屋内体育館落成
  ”48・12・17 新校舎落成式(4,068?=3億4,132万7,000円)
  ”49・4 特殊学級1学級を設置
なお、歴代校長は次のとおりである。
 西山日出男(昭47・4)、小笠原武男(昭49・4)、岩崎弥(昭52・4)、宮沢亮(昭56・4)

緑蔭小学校
 (廃校)
 緑蔭小学校の発祥は、農場主であった中島宇一郎が、小作農家の子弟教育のため、自費を投じて18坪の教場を建てて開設したことが起源となり、大正5年に特別教授場の設置につながったという経過を秘めているが、大正5年以前の詳細は明らかでない。
 開校した緑蔭特別教授場の推移は、下記のように多難な曲折をたどっているが、そこにみられるのは、教育費の圧迫に悩んだ村財政事情の影響と、最後まで辺境にたたずまった奥地開拓という条件下の学校事情を、典型的に映し出していることである。

 大5・10・18 湧別尋常高等小学校緑陰特別教授場設置
  ”5・11・23 児童20名で授業開始
  ”6・3 村財政事情により休校
  ”6・7 川西尋常小学校所属特別教授場として再開設
  ”7・3・31 村財政事情により廃校

という不遇な事情下におかれ、近接校に通学する児童の負担がかさなり、過半数は欠席の状況に陥った。このため学校常置は父兄の一大関心事となり、地区の事業で木原幸太郎から寄付を受けた48・5坪の建物を中ノ沢2131番地に移築して、大正8年11月1日に川西尋常小学校付属緑陰特別教授所として再興した。
その後は、
 昭5・10 信部内尋常小学校所属となる
 ”16・4 国民学校令により「信部内国民学校緑陰分校」となる
 ”16・11 2126番地の25に校舎78・5坪を新築
 ”17・4 昇格独立し「緑藻国民学校」となり、初代校長に岳上徳市発令
 ”22・4 新学制により「緑陰小学校」となる
の経過をたどり、しかも一貫して1学級編成の単級校として存続してきた。
 しかし、昭和24、5年を契機としての農業構造の著しい変転に伴い、立地条件の劣悪な中ノ沢、東ノ沢一帯は離農転出者が続出し、学校存立が危ぶまれる状態に陥いった。そして、児童数も10名を割るにいたって、昭和35年3月末で廃校となり、信部内小学校に統合された。 なお、歴代校長は次のとおりである
 丘上徳市(昭17・4〜32・1・16死去)、信部内小学校長兼任(昭32・1)、尾張吉男(昭32・4)

信部内小学校
 (廃校)
シュプノツナイ原野の地主信太寿之は農牧場の開拓に際し、立木中に白楊が多いのに着目し、マッチ軸木製造を志し、明治36年に工場を建設して多くの授業員を抱えていたので、その授業員の子弟教育のため、シュプツノナイ川左岸にあった工場内草ぶき小屋を教場にあてて教授場を開設し、同40年9月には35戸の児童を収容する渋野内特別教授場の認定にこぎつけた。当時の信太寿之の牧場は本町と紋別市にまたがる地域で形成されていたが、教場所在地はいちおう本町に属し、両村の児童が通学していた。
 ところが明治41年に村界が明確になって教場所在地が紋別の管轄となり、41年度予算村会では、所在地が村内でないため村立学校から除外された。しかし、原木皆伐による製軸工場の閉止後の信太寿之は本来の農牧場開拓に力をそそぎ、明治45年5戸、天正2年25戸の小作人が本町域に入植したため、再び教育施設を要望する気運が高まった。それが実現にいたる経過を信部内小学校沿革誌にみると、
 
 児童数モ二十余名ヲ算スルニ至リ、茲ニ初メテ学校創立ノ急ヲ告グルニ至リス、而ト雖モ当時ノ村財政ハ到底本地区ニ一校ヲ増設スルノ財源ヲ得ル能ハサルノ状態ニシテ、部民ノ希望ヲ満タスルヲ得ス、然レドモ教育ノ事ハー日モ空シウスベキニアラズ遂二ー同ノ決起ヲ促シ、地区住民総会ヲ開催シテ熟議ヲ重ネタルノ結果、村ヨリ教員俸給ノミ支出承諾ヲ得、校舎ハ勿論其他施設上ノ経費一切ヲ1ヶ年間地区ヨリ寄付スル事ニ一決シ、本地区農場主信太寿之氏ニ懇願シテ敷地3500坪及建築費ノ大半ノ寄付ヲ仰ギ、猶残余ハ地区住民ノ金品努力等ヲ以テ之ニ充テ、総経費404円13銭也ヲ計上、大正3年8月1日起工ヲナス、落成ヲ見ルニ至ルノ間幾多ノ曲折アリ・・・・着工後1ヶ月ノ短時日ニ校舎平屋木造建17坪5合ノ玄関及6坪ノ教員住宅計25坪ノ工事完成ス。此ノ経費347円50銭ヲ要ス、尚他ニ便所2坪井戸掘削屋外運動場ノ制作及通路ノ開削等ノ為メ56円23銭ヲ費消シ・・・・然シテ大正3年9月1日湧別尋常高等小学校所属信部内特別教授場トシテ落成祝ヲ兼ネ開校式ヲ挙グ。
という、苦心の積み重ねがあった。また、当初の校舎周辺の模様については、
 ナラの大木が密生しグランドの用を足すものではなかった。従って運動会はナラの大木に縄を張り、その囲りを走るといった状況で、これでは競馬にひとしいとささやき合った。
というエピソードが伝えられている。創世後の経過を沿革誌から抜粋しよう。
  大3・9・1 開校、児童26名(うち紋別村委託児童9名)
  ”8 児童数67名となり2部授業開始
  ”9・4 川西尋常小学校所属となる
  ”10・1・3 校舎47坪増築(1,974円)落成式
  ”12 特別教育規定適用の「信部内尋常小学校」に昇格独立、校長は川西尋常小学校長が兼任
  昭2 2学級編成(翌年1学級に戻る)
  ”4 校舎改築(事務室、裁縫室整備)
  ”5・9 専任校長配置
  ”5・10 緑陰特別教授場を所属する
  ”13・11・25 開校25周年記念式典
  ”15・11・3 奉安殿落成式と御真影拝載式
  ”16・4 国民学校令により「信部内国民学校」となる、2学級65名
  ”17・4 緑陰分校独立により分離
  ”18・12・11 校舎158坪と屋内運動場=旧校舎改造39坪新改築(3万9,610円)落成式
  ”19・3 高等科併置認可(4・1より授業開始)
  ”21・8 奉安殿撤去
  ”22・4 新学制により「信部内小学校」となる
  ”32・10・20 屋内体育館など67・7坪および特別教室落成式、校旗および校歌制定
  ”38・9・20 開校50周年記念式典
  ”47・4・1 学校統合により「湧別小学校信部内分教場」となる
  ”48・3・20 開校60周年記念式典ならびに廃校式(4・1実質統合)

こうして、卒業生591名を送り出した信部内小学校の歴史は幕を閉じたが、この間、戦後の不安と混迷のさ中、資材窮乏の世相を映したかのように、
 昭和21年9月5日夜陰に乗じ、窓ガラス盗難事件があり、その数は270枚にもおよび、学校の内外をあわてさせた。
という戦後史の一端もあった。なお、歴代校長は次のとおりである、
 川西小学校長兼任(大12)、堀川幸太郎(昭5)、寺沢宋英(昭7)、宮沢松太郎(昭8)、菅家秀夫(昭16)、堀川幸太郎(昭18)、三好茂三太(昭26)、佐賀井右近(昭29)、飯島薫(昭36)、前田一郎(昭39)、西尾幸重(昭41)、今村猛夫(昭43)

川西小学校
 (廃校)
 湧別尋常高等小学校の通学区域であったが、入植者の定着が多く、明治40年には60余戸に達して住民の教育への関心も高まり、特に低学年児童の遠距離通学緩和のための学校設置が望まれるようになった。明治41年3月17日の議案に「川西特別教育所」の件があり、41年度予算書に人件費12ヵ月分が計上されていて、設置機運の進行がうかがえるが、校舎については、
  伊藤爪吉からの四〇〇坪の学校敷地の提供により、地区の共同事業で三八・五坪の校舎を建築し、学校開設を要請するところとなった。
とあって、人件費以外はいっさい地区でまかなわなければならないのが、開拓期の行財政の実態であった。従って、学校建設は苦労と曲折が伴い、開校は予定より遅延せざるを得なかった。同年の役場決算書にある、
  教授場ノ新築遅レ従ツテ教員任命十二月中ナリシヲ以テ五十五円五十四銭ヲ減ジ……
が、そ机を物毎っている。
  明41・19・1 湧別小学校所属川西特別教授所設置(尋常科三年生まで)
   ”41・12・8 開校式=児童四二名(12・16授業開始)
   ”44・7・7 分教場に昇格
   大4〜5 尋宿料四年までを収容
   ”5・11・4 川西尋常小学校に昇格独立、校長は湧別小学校長兼任
   ”6・4・1 尋常科全入で2学級編成(105名)、部の寄付で1教室26・5坪増築、選任校長配置
   ”6・7 緑陰特別教授場が本校所属となる
   ”8・9 三木弥太郎より学校敷地として3反歩購入
   ”9・4 信部内特別教授場が本校所属となる
   ”13 部の寄付で屋内運動場37坪落成
   昭5・9 信部内特別教授場が尋常小学校となり独立
   ”5・10 緑陰特別教授場の所属を信部内尋常小学校へ移管
   ”10・10 校舎改築落成
   ”15・10 奉安殿落成(10・29御真影奉載)
   ”16・4・1 国民学校令により「川西国民学校」となる
   ”21・1・15 御真影返還(その後奉安殿取こわし)
   ”22・4・1 新学制により「川西小学校」となる
   ”28・12 敷地90坪を伊藤代助と黒田真次郎より区が購入し、屋内運動場60坪改築(上芭露校から移築)
   ”32 3学級編成=児童104名
   ”33・11・16 開校50周年記念式典、校章および校歌制定
   ”36 特別教室26・75坪増築
   ”47・4・1 学校統合により「湧別小学校川西分教場」となる
   ”48・3 廃校式(4・1実質統合)

こうして、762名の卒業生を送り出した川西小学校の歴史に終止符が打たれた。歴代校長は次のとおりである。
 湧別尋常高等小学校長兼任(大5・4)、島村戎三郎(大6・4)、伊藤鶴吉(昭13・4)、塚本政喜(昭19・5)、小松孝寿(昭21・4)、辰田保徳(昭31・5)、星幸男(昭35・4)、岩淵一男(昭32・4)

  
登栄床小学校
 (廃校)
サロマ湖内のカキ漁を目的に大正6年から中番屋に定往者をみ、同8年からは三里浜にも来往者があり、同12、3年ころには15、6戸となったが、当時は湧別市街の知人宅に子供を寄宿させて湧別尋常高等小学校へ通学させる道しかなく、住民の悩みの種であった。
 さらに戸数の増加をみて、学校設置は住民の定着を左右する根本問題となり、住民の設置要望は日増しに強まった。このため昭和3年2月の村会では、「中番屋特別教授場」の設置を決定したが、校舎は区で建設するという条件であったため4月開校には問に合わず、三里浜の横山理三郎所有番屋を借り受けて、仮教室として開設をみた。
  昭3・4・13 湧別尋常高等小学校中番屋特別教授場開設=児童二一名
   ”4 区の寄付で校舎34・5坪落成
   ”9 湖口開通後の戸口増で校舎50坪増築
  ”11・2 特別教育課程適用の「登栄床尋常小学校」の設置を村会で決定
  ”11・5 専任校長配置され湧別尋常高等小学校より独立(7月二学級編成)
  ”16・4 国民学校令により「登栄床国民学校」となる
  ”19 高等科併置で3学級編成
  ”19・6・25 新校舎153坪と屋内運動場64坪(旧校舎改造)落成
  ”22・4 新学制により「登栄床小学校」となる
  ”27 併置中学校の学級増で1教室19・25坪増築落成
  ”39 この年の校舎191坪、屋内運動場97坪、校地3,768坪
  ”47・4・1 学校統合により「湧別小学校登栄床分教場」となる
  48・3 廃校式(4・1実質統合)

こうして、590名の卒業生を送り出した登栄床小学校の歴史は幕を閉じた。なお、歴代校長は次のとおりである。  川口益夫(昭11・5)、横山隆博(昭20・4)、古川翠(昭24・4)、山口武雄(昭25・4)、加藤勘三郎(昭30・5)、富士幸二郎(昭33・4)、窪田勝三(昭37・4)、奥昌道(昭42・4)、伊藤利明(昭45・4)

東湧小学校
 (廃校)
明治24年に殖民区間された湧別原野6号線以北は、東7線から46線にわたる東西相半ばする地域で、貸付告示(解放)
後は続々と入他者をみたが、湿潤地帯を擁する東側は定着する者が少く、西側の開拓の進捗とはくらべものにならなかった。従って教育施設も、明治43年に低学年のために湧別尋常高等小学校所属東特別教授場の設置をみたものの、農業開発の停滞から大正13年に廃止されて、湧別尋常高等小学校通学区に戻された。また、大正6年に入植者をみた福島団体地区およびその周辺は、中湧別に近いので、中湧別尋常高等小学校に委託通学措置を講ずる実情にあった。なお、昭和15、6年ころ学校設置の議が起ったことがあったが、戦時中のこととて立ちの形になってしまった。              太平洋戦争終結後、福島地区7線以東約370町歩と東地区7線以東約360町歩の未開地が、農地改革の対象となって、入植戸口は逐年増加をみるにいたった。また、太開発の将来性の見通しのうえからも学校設置の必要を生
じ、学校住設の議が再燃した。このため昭和23年に「開拓地学校設置国庫補助金」を得て、東7線6号に2教室ほか90・25坪の開拓学校校舎の落成をみたのである。

  昭23・10・1 東湧小学校開校=二学級六九名(うち中湧別小学校委託児二〇名)
   ”.23・10・15 校舎落成式と開校式
   ”27・12 校舎四一・五坪増築落成
   ”32・10 校章制定(創立一〇周年記念)
   ”37・9・25 教室ほか二三一五坪と体育館六三・五増築落成式
   ”40・4・1 六学級編成(昭28三学級、″37四学級、″38五学級、″42五学級、″44四学級、″46三学級)
   ”42・7・19 校歌制定
   ”42・9・28 校旗制定
   ”42・10・1 創立二〇周年記念式典
   ”47・4・1 学校統合により「湧別小学校東湧分教場」となる
   ”48・3・19 廃校式(4・1実質統合)

こうして、戦後誕生の東湧小学校は428名の卒業生を送り出して、25年の歴史を綴り終えた。なお、歴代校長は
次のとおりである。
 川内忠告(昭23・10)、加藤牛太郎(昭35・4)、炭谷繁松(昭38・4)、見野久光(昭40・4)、坂本武春(昭43・4)

芭露小学校
 (廃校)
 明治33年に殖民区画側設が行われ、翌年貸付告示がなされてからバロー原野への入植者が増加し、同35年には33戸を数えるにいたった。このため教育熱心な本間省三(臭農場管理人)、新井松吉(部長)らが率先して簡易教育所(4ヵ年課程)の設置運動を開始した。その結果、施設費を部の寄付に求める条件で容れられたが、入植直後の住民の経済力では、負担に耐えられない実情にあったから、字芭露基線28番地の岩見光馬所有の建物(現越智修所有地内)を3ヵ年の期限付契約で借り受け、村費70円13銭で校具を整え、明治35年9月1日に湧別尋常小学校所属「馬老簡易教育所」の開設となった。初代教員であった和田義一 (当時17歳、初任給8円17銭)の次のような述懐が遺されている。
 一年から四年までわずか一八名が入学したが、初めて教壇に立った私は、教授の方法も事務処理も何も知らないので、日曜日ごとに湧別校に通って校長さんの指導を受けながら務めた。ふだんでも少し雨が降ると学校周辺に水が溜り、四〜五日臨時休校した。家が遠い(兵村五ノー)ので本間さん方に下宿(下宿料四円)していた。
なお、当時の通学区域は芭露全域、志撫子、計呂地、床丹と広域であったが、これは芭露以外には入植者が少なかったからである。明治40年になると児童が100名にふえたが、教室不足と通学距離2里以上という悩みを生じたため、次の経過があった。
  明41・1・20 尋常小学校に昇格独立し「芭露尋常小学校」と改字改称、計呂地簡易教育所は本校所属となる
  ″41・1・21 芭露一二号を境界に通学区域を分割し、芭露尋常小学校所属「バロー簡易教育所」(上芭露)を開設(児童数は本校五八名、バロー四二名)

なお、バロー簡易教育所は建物を借り上げての開設であった。ところが、明治41年4月から義務教育年限が6年間に延長されたため、校舎の狭溢が問題となり、3月に本校とバロー両校舎の新築を決め、寄付金を募り531円90銭を募金し、村費375円の補助を得て、本校(現神社の地)35坪、バロー簡易教育所46・5坪を完成した。5月27日に両校の落成が行われたが、芭露小学校沿革誌には当日の模様を、
  其日ヤ天候清朗ニシテー点ノ雲ナク、村長……ヲ姶メ其他有志ノ参列頗ル多ク約百人ト称ヘラル、,実二開村未曽有ノ盛典ナリキ。
と記録している。翌42年に6年金課程の完全編成となり、地区人口の増もあって、
  明42・9 二学級編成
  ″43 床丹特別教授場開設(本校所属)
  ″44 部の寄付三五〇円で教室一六坪を舎む校舎二七塚を増築

となったが、大正2年に児童減少で再び単級となり、同5年に92名となって2学級に復した。以後の経過を沿革誌にみよう。
  大2・2 上芭露教育所が尋常小学校に昇格独立
   ”3・10 志撫子特別教授場開設(本校所属)
   ”6・4・1 計呂地簡易教育所が尋常小学校に昇格独立
   ”6・6 床丹特別教授場が計呂地尋常小学校所属となる
   ”9・4・1 志撫子特別教授場が計呂地尋常小学校所属となる
   ”11・10・30 開校20周年記念式典
   ”12 児童数165名となり部の寄付による校舎23坪増築=翌年3学級編成
   ”14・12 1,282円(うち部の寄付538円)で1教室増築
   昭2 4学級編成206名
   ”4 芭露4218番地に校舎287坪を新築
   ”4・12・1 高等科併置により「芭露尋常高等小学校」となる=6学級228名
   ”7〜9 天理教芭露分教会の奉仕作業により池の造成整備
   ”15 高等科1学級増で7学級編成
   ”16・4・1 国民学校令により「芭露国民学校」となる
   ”22・4・1 新学制により「芭露小学校」となる=7学級344名
   ”24・11 4教室123坪落成(中学校用)
   ”26 屋内体育館120坪落成
   ”27 校舎28坪(職員室など)増築
   ”31・12 音楽室27・5坪と付属校舎(中学校用)15坪増築
   ”32・11・15 開校55周年記念式典
   ”36・12 鼓笛隊編成
   ”47・12・10 開校70周年記念式典
   昭52・4・1 東芭露小学校を統合

なお、歴代校長は次のとおりである。
 桑原清太郎(明41・3)、弦巻千代三(大9・4)、蔦西栄作(大14・4)、高玉二八(昭5・8)、井上森太郎(昭7・10)、工藤栄(昭13・4)、中島俊雄(昭16・12)、伊藤鶴吉(昭19・5)、本保常雄(昭22・4)、松田徳四郎(昭27・5)、森透(昭29・8)、田上豊(昭36・4)、加賀森太郎(昭41・4)、青木駒一(昭47・4)、山崎達(昭50・4)、松木三郎(昭55・4)

芭露小学校
 (統合校)
湧別地区の小学校統合よりも遅れた芭露地区であったが,昭和50年代に入って統合が始動し、その手だてとしては、芭露地区内の各小学校を廃校して、新たに統合小学校として「芭露小学校」を創設する道がとられた。統合校舎は、とりあえず旧芭露小学校校舎があてられ、早急に新校舎を建設する運びとなった。

  ”55・4・1 芭露小学校と志撫子小学校の統合
   ”55・11・18 統合校舎落成式(3,063・55?=4億3,596万円)

なお、歴代校長は次のとおりである。
 松木三郎(昭55・11)

 
上芭露小学校  馬老簡易教育所に通学していたころは、道路が悪く、ようやく車馬が通れるに過ぎず、雨天や融雪時には泥んこ道に膝まで没するありさまで、真冬の通学は言語に絶する困難が伴っていた。
 しかも通学距離は約2里にも達する悪条伴下に置かれていた。
 しかも奥地方面への入植者が増加したので、明治40年3月の村会ではバロー地区簡易教育所の増設を決め、施設費の部の負担を条件に、9月開設の計画で予算措置をしたが、寄付が容易にまとまらず、やむなく翌41年1月21日から10号69番地の上伊沢伝所有の民家を借り受けて児童42名を収容して「バロー簡易教育所」の開設となった。ようやく寄付金の目途がつき、村費と合わせて校舎新築の運びとなった(芭露小学校の項参照)が、工事の遅延は、
  薄荷不作ノタメ寄付金容易こ纏り兼ネタルタメエ事建築ノ競走入札ヲ除ケ坪十円ノ予算内デ部ノ請負デ行フ
とあるように、厳しい農家経済によるものであった。
  明41・4・I 教育規程改正により「バロー教育所」と改称
   ”41・5・27 一三号に三六・五坪の校舎落成
   ”41・12 部長規則改正で一二号以南一帯の分区に伴い「上芭露教育所」と改称
   ”44 一教室増築
   ”45 二学級編成=児童九四名
   大2・4 尋常小学校に昇格独立し「上芭露尋常小学校」となり、東の沢と西の沢の所属特別教授場開設認可

の経過をみたが、ハッカ景気を背景に進展する耕地開発で地の利を得た17号は、商業者も入り込んで市街地を形成し、現在の上、東、西の芭露3地区の集散市場として、拠点的な活況を帯びるにいたり、17号方面に学校移転の気運が強まった。その後の経過は、
  大4 バロー原野二七九五番地の一町六反二畝を校地として野村丈太郎寄付
  ”4・11・7 御真影奉戴
  ”4・12 村会で「位置偏在通学不便」を理由に校舎移転決定
  ”5・6・5 一六号市街地高台に移転費部の負担で移転改築=落成式
  ”6 校舎三八坪増築=翌七年四月より三学級編成
  ”7・10・2 高等科に準ずる補習科(二年課程)併置
  ”7・11 東ノ沢特別教授場が尋常小学校に昇格独立
  ”9 御真影奉置所新築
  ”12 補習科が高等科に昇格し「上芭露尋常高等小学校」となり、教室二七・五坪増築=四学級編成
  昭3 開校20周年記念式典
  ”4・4 高等科二学級で五学級編成
  ”4・9 大正一四年増築以外の校舎の全面改築落成式=一七七・五坪
  ”12 職員室二○坪増築
  ”14・7 西の沢特別教授場が尋常小学校昇格独立
  ”14 一教室ほか三六坪増築
  ”16・4 国民学校令により「上芭露国民学校」になる
  ”22・4 新学制により「上芭露国民学校」となる
  ”25・12 屋内運動場六○坪新築落成
  ”27・12・27 現在地にブロック造校舎二六九・六九坪が新築され落成式
  ”28・12 屋内運動場八○坪新築落成
  ”29・10 校旗制定
  ”32・10・13 開校五○周年記念式典および校歌制定
  ”33 一教室ほか二八坪増築
  ”42・10 開校六○周年記念式典
  ”49・7・14 屋根付プール施設
  ”52・10・13 開校七○周年記念式典
で、歴代校長は次のとおりである。
 渡辺末彦(大2・1)、山崎純義(大7・3)、桑原清太郎(大9・4)、星川常義(大12・10)、金井保富(大13・6)、桐谷泰(大14・11)、菊地益延(昭8・3)、和田民吉(昭10・8)、青木清司(昭16・6)、高橋泰雄(昭21・4)、古川翠(昭25・8)、葛西譲(昭30・10)、江尾裕吾(昭37・4)、佐藤勇喜(昭41・4)、鈴木広嗣ぐ(昭44・5)、西与作(昭47・4)、後藤革光(昭49・4)、松田茂昭(昭55・4)。

東芭露小学校
 (廃校)
明治42年に開拓者の入地をみたバロー原野東ノ沢では、入植間もない同44年から地区住民が教授場役置運動をつづけ、上伊沢伝部長と土田石五郎総代が村長と交渉を重ねていた。
 その結果、大正2年3月24日に学校位置を26号に決定し、部では開拓の歳月なお浅く、経済的に辛酸をなめる生活の中から血肉を裂く思いの寄付金を募り、浄財320円に労力をプラスして起工し、4月30日に校舎31・5坪と教員住宅11・5坪
の落成をみた。
 これにより刈分け道3里余の通学の苦難がやっと緩和されることとなった。
  大2・5・1 上芭露尋常小学校付属「東ノ沢特別教授場」開校=四年制一学級、児童三八名
  ”3・6 六年制認可で全学年収容
  ”6・9 校舎二六坪増築
  ”7・11 学級編成となり、特別教育規程による「東ノ沢尋常小学校」に昇格独立(校長は上芭露校長兼任)
  ”11 創立一○周年記念式典

と草創の歳月が流れたが、開校当時の思い出を地区の古老は次のように語っている。
  校舎は外が土壁、屋根は三尺の割柾でふき、すき間だらけで、冬は風や雪が吹き込み、とても寒かったのを覚えている。教科書はあったがノートはなく、石板に石筆で字を書いていた。学校ができた年によそから越してきた入で、よそで四年生や五年生まで修業してきた人の中には、六年生までの学校になるまで一年ないし二年休んでから入学した人もたくさんいて、年令の違う同級生が少くなかった。また内地から来て間もない者が多く、それぞれの出身地なまりで話すので、よくわからず困ったものだ。
その後、地区の発展とともに児童もふえ、大正14年には「報国禁酒会」から校門(現存)の寄贈を受けるというエピソードを添え、
  昭2 青年会館を利用して三学級編成=児童一五四名(三月専任校長発令)
   ”4・9・10 現公民館のところに一六三・五坪の校舎新築落成式
   ”5・6 字名変更にあわせて「東芭露尋常小学校」と改称
   ”11 奉安殿落成し御真影奉載
   ”16・4 国民学校令により「東芭露国民学校」となる
   ”20・4・1 高等科併置四学級編成
   ”21・10 校舎二○坪増築
   ”22・4・1 新学制により「東芭露小学校」となる
   ”24 教室一九・五坪増築(中学校用)
   ”27 屋内運動場八○坪落成式ならびに開校四○周年記念式典
   ”32 校章および校歌制定
   ”33 教室三五坪の増改築
   ”38 開校五○周年記念式典
   ”44・11・8 新校舎(木造モルタル平屋建六○三・八五五?=一、二六一万五、○○○円)落成式
   ”48・7 簡易プール完成
   ”51・3 芭露小学校へ統合のため廃校式

と60余年の歴史を綴って幕を閉じたが、歴代校長は次のとおりである。
 上芭露尋常小学校校長兼任(大7・11)、桑原彰(昭2・3)、堀尾利一郎(昭6・1)、渡辺寿雄(昭7・5)、佐藤剛男(昭8・3)、桑田仁慶(昭12・9)、今井正敏(昭14・3)、野村辰雄(昭19・6)、国枝栄(昭22・4)、堂坂尚文(昭26・5)、杉谷鉄次郎(昭33・4)、所茂雄(昭39・4)、小関広(昭42・4)、舘野憲章(昭47・4)、秋元守(昭50・4)

■ 桑原彰氏頌徳碑
 選任初代校長桑原彰は、特別教授場開設とともに教員として赴任し校長昇任後の昭和5年11月24日病没するまでの間、学校草創期の礎づくりに傾注するかたわら、地区の青年会、処女会を組織して活動を助長し、また夜学の指導に当たるなど社会教育にも尽瘁して、地域のよき理解者、指導者として住民の敬慕の的であった。同窓生が提唱し、愛惜の情をこめて遺徳を後世に伝えるため、昭和6年に頌徳碑が建立された。碑には、
           桑原彰氏頌徳碑
 師自大正二年執教鞭於本校 茲了々諄々薫育之功者 焉昭和五年得疾而没
 我等慕其徳胥謀る建碑 以祭其英霊云称
        昭和六年十一月二十四日
                                   東芭露部落民一同
と刻まれ、旧校庭の一隅に現存している。
西芭露小学校 バロー原野西の沢も東の沢と同様に、明治42年に初の入植者をみ、ハッカ栽培を中心に伸展をみたが、当初は戸口が僅少で開墾に忙殺され、生活経済力にも余裕などあろうはずもなかったから、学齢児童はやむなく2里余も離れた上芭露に通学させた。しかし、川岸の苅分け道、どろんこ道、雪に閉ざされる道、熊の出没は不安このうえない状況下にあった。
 戸口が漸次増加すると、地区住民の間に学校施設の議がおこり、当時の貧困な村財政から、かなりの住民負担(負担についての資料不詳)を覚悟したのは、他の地区と同様であった。ともあれ要望がみのって、
 大2・4・28 上芭露尋常小学校所属「西ノ沢特別教授場」開設
  ”2・7 西九線二二号一三四番地に教員住宅併置の校舎二九・五坪(四九円四円五○銭)落成
  ”2・7・28 開校式=四年課程(一学級、児童数二七名)

の運びとなったが、学校の位置のことで、ちょっとしたトラブルがあったと伝えられており、上芭露小学校沿革誌に
は、                     
  宇山三平の骨折りによって、学校敷地を松村岸太の土地に決め、建築材の一部を運び込んだが、奥地の人々に異議がおこり、村会議員上伊沢伝の努力により、高橋久之肋所有の未墾地五反歩の寄付を受けて敷地を決定したという経緯があった。
  この年は大凶作であったといわれているが、子弟の教育熱に燃える地区住民は、挙げて資金や労力を出し合い、建設に汗を流したものである。

と記されている。その後、児童数は大正4年45名、同10年53名、同12年64名、同14年には75名と漸増して、  大14・7・7 尋常小学校に昇格し「西ノ沢尋常小学校」として独立=二学級編成となり青年会館を仮教室に充当(8・31専任校長発令)
   ”14・11・9 教育勅語拝戴
   ”15・11・28 住宅付校舎一一一・五坪(四、五〇〇円一五銭=うち部の寄付一、五〇〇円)の新築落成式
   昭5・6・27 字名改正にあわせて「西芭露尋常小学校」と改称
   ”8・4・29 開校ニ○周年記念植樹
   ”16・4・1 国民学校令により「西芭露国民学校」となる
   ”21・5・6 高等科併置認可

と経過したが、高等科の併置はノ翌年4月から新学制となったので、3月に第1回卒業生8名を送り出しただけで幕を閉じる結果となった。
  昭22・4・1 新学制により「西芭露小学校」となる=二学級
   ”24・10・25 一教室増築(中学校用)
   ”30・12・25 普通教室・特別教室・体育館など新校舎二九二坪落成式

新校舎建築に際しては、その位置について学校はあくまでも区の中心にという願いが強く、区総会で熟議され、  上は現墓地付近から下は現校合付近までと限定されたが、地形が悪く適当な校地を決定することは困難であった。そのとき、種々な経緯はあったが、結局、須藤清三郎に転出願って、それに小池勝の畑の一部を合して校地とした。また校舎の設計は、時の建築学の権威者であった北海道大学の落藤教授によるものとなった。
という余話がある。以後、
  昭35・3・3 校歌制定
   ″36・7・7 校章制定
   ″38・10‐18 開校五〇周年記念式典
   ″48・10・11 開校六〇周年記念碑を校庭に建立

と歴史を綴って現在にいたっている。
 なお、歴代校長は次のとおりである。
  笠原郡治(大14・8)、大和田豊(昭7・4)、今井義雄(昭16・3)、高願清(昭22・4)、菊地幸治(昭25・3)、佐藤美晴(昭34・5)、吉田豪(昭40・4)、遠藤正信(明45・4)、河原田昭二(昭49・4)、高橋哲(昭53・4)、原田富彦(昭57・4)

志撫子小学校
 (廃校)
明治33年の畑田赤松の定往にはじまり、同44年のシブシ川沿原野の貸付告示とともに愛知や静岡から団体入植があり、個人来往も増加して、集落戸口が増え、学齢児童も増加する中で、部の有志は学校設置を建議して奔走した。その結果、とりあえずバロー原野番外地(現志撫子浜)の尾張蔵之肋所有の建物18坪を借り受けて仮校舎とし、
  大3・10・1 芭露尋常小学校所属「志撫子特別教授場」設置認可開校式=一学級二八名
の運びとなり、それまでの計呂地簡易教育所への通学の不便が、いちおう解消されたが、志撫子小学校沿革誌(以下沿革詰)によれば、
   三屏立せる山嶽をめぐらし千古斧賊の森林とて、刈り分け山道をたどり、川を越え、伐り倒したる木を越え、丸木橋を渡って通学した児童の苦衷が……
と、通学の難儀は推測以上のものがあったらしい。その後、地区の開発は年とともに進展し、児童数も増加の一途をたどったことから、奥地事情も勘案しての学校の新築移転の声が強まった。地区と村理事者との協議の結果は、
     学校移転理由 <沿革誌より>
  一、当特別教授場は、志撫子地域全体の学令児童を通学せしむるものにして、旧来の地点にては東北に遍して児童通学不能の者あり。
  二、旧来の校舎は仮校舎にして、学校及び教室は学校たるの要素を具備しおらざること。
  三、仮校舎は公用のものにあらずして、私人の借家たること。

の認識にたって、新築経費を部が負担することで、バロー原野南8線公共用地(現公民館のところ)に新築することに快足したが、この理由書と前節の学校統合の際の条件提示を読み合わせると、なんとなく志撫子地区の住民気質のような伝統を感じさせるものがある。その後の経過は、
  大5・4・25 新校舎三三坪落成移転開校式
   ”7 児童七二名、校舎狭隘で八坪増築
   ”8 児童八七名二学級編成
   ”9・4・1 計呂地尋常小学校所属となる
   ”9・7・26 教室一六坪を含む二〇坪増築
   ”9・8・1 特別教育規程による尋常小学校に昇格独立し「志撫子尋常小学校」となる=二学級編成公認、専任校長発令
   ”9・10・9 校歌制定(歌詞のみ)
   ”11・10・30 教育勅語奉載式
   ”11・12・8 開校一〇周年記念式典
   昭2・10・7 増築費(ハ坪)は村費・移転費は区の負但による校舎移転増築落成式
   ”3・11・5 御真影奉置所落成式
   ”5 御真影奉迎
   ”7・10・20 教室二五・四坪増築落成式=二学級編成一四二名(工事中青年会館使用、増築に一五〇円を区より寄付)
   ”8・10・1 開校二○周年記念式典
   ”8・11・3 校旗入魂式(区寄贈)
   ”10 校舎八六・五坪増築(三、八九二円五〇銭=三八九円を区より寄付)落成式=児童数一六八名、校舎坪数一五八坪
   ”16・4・1 国民学校令により「志撫子国民学校」となる
   ”18・4・1 高等科併置(一学級三六名)=青年会館を教室に充当
   ”22・4・1 新学制により「志撫子小学校」となる
   ”25・12・4 教室など六一坪増築落成式(中学校用)

  ”26・12・21 体育館八〇坪新築落成式
   ”31・3・21 校歌制定(作曲完成)

と続いたが、体育館の建設については、
  本校永年の宿願であった屋内運動場の建設は、当時国では僻地教育振興のため「僻地集会室建設に対する助成」制度を実施していたので、それを適用して建設する運びとなったが、制度基準には六〇坪と定められていたので、狭小ということで村に拡張を陳情した結果、区の負担二六万円で八〇坪になった。
というエピソードがあり、校歌については、
  大正九年一〇月九日、かつての当校生徒であり、当校の旧職員である大塚盈より「心をこめて我が巣立ちせし其校に贈る」と添書した歌詞を寄せられたが、その後久しく作曲の機会を得ず、たまたま昭和三〇年秋に計呂地小学校でピアノ披露演奏会があり、酒井武雄(作曲者)がきたのを好機として……
という30数年にまたがる珍しい余話があった。
  昭35 流行性灰白慰炎多発生で全校閉鎖八日間(死亡二名=うち児童一名)
   ”36・11・30 開校五〇周年記念式典
   ”37・10・2 開校五○周年記念式典
   ”44・11・6 体育館を除く校舎全面改築落成式(工事中は体育館が仮教室)
   ”48・8・15 開校六〇周年記念式典
   ”55・3 芭露小学校と統合のため閉校記念式

こうして、67年間の伝統と歴史を秘めて志撫子小学校は廃校となったが,昭和30年代の次の記録は永久に志撫子小学校の余韻を伝えるものであろう。
  昭34・12 .25 本校児童作文を映画化した「かきむく浜」がNHKテレビで全道放送
   ”34・12・30 同作品好評につき、本校児童出演しNHKテレビで全国放送
   ”34 NHKこどもニュース放送校となり}六回放送
   ”35・12・30 生徒作文より脚色してNHKテレビに出演
   ”36・11・4 児童作文「白樺をひろう子」をNHKテレビで全国放送
   ”36・11・14 同作品をHBCテレビで全国放送
   ”40・4・28 NHK北見放送局より「サロマ湖の春」のテーマでラジオ放送のため来校

なお、歴代校長は次のとおりである。
  桑原宗英(大9・7)、蝦名孫次郎(昭2・4)、小島一光(昭8・3)、新沼保治(昭H・11])、桑原宗英(昭14・7)、今井義雄(昭22・4)、久能栄(昭30・5)、愛洲松次郎(昭34・5)、吉長周才(昭37・4)、大関真(昭40・4)、島田恒正(昭44・4)、目黒博(昭46・4)、藤井寅松(昭50・4)

計呂地小学校 明治37年の入植で開拓の第一歩を踏み出したケロチ原野(当時はシブシ湖畔を含む)は、3年ほどで10数戸となったが、学齢児童が通学するとしても馬老簡易教育所まで遠距離通学しなければならなかった。
 そのため住民の要望により明治40年3月の村会で簡易教育所の設置を決め、認可手続きがとられたが、
 たまたま校地に選定した基線三○番地の敷地は個人貸付地であることが判明したので、四〇年八月の村会で、校地を基線三二番地とし、新たに「特別教授場」設置に変更して認可申請を行ったが認められず、同年九月一二日の村会で特別教授場設置取消議決が行われ・・・・・
という曲折があった。この間、地区住民の協力で、19坪余の掘立草ぶき小屋が校舎として基線32番地に建てられ、
  明40・9・1 湧別尋常高等小学校所属「計呂他簡易教育所」開設=一学級一四名収容
となったが、初代教員であった後藤徳三郎は、当時の状況について次のような回想を遣している。
   湧別から赴任したが、ケロチは道路も満足になく離島のようであった。兎道のような処を通学する児童は朝露で着物が濡れ実にみじめであり、ストーブもなく濡れた着物を乾かすこともできなかった。校合も丸太造りの草小屋で机もなく丸太をすえた上に板を渡して代用し、床は草を敷き詰めると云ふ粗末なものであった。閑寂な環境は忍び寄る冬を控えて一肩身に迫る思いで、若年でもあったことからこれに耐えられずー〇月辞職して家へ戻った。
しかし、その後も交通不便が地域の開拓を渋らせ、児童数も大正2年36名が翌3年は志撫子特別教授場開設で25名と減少をみ、施設の改善も停滞を余儀なくされていたようで、大正4年12月に提出された校合新築の議には、次のようにうたわれていた。
  計呂地教育所現在ノ校舎ハ従来民有地借受ノ土地二仮設シタル草葺小屋ニシテ目下大破ヲ来シ倒潰ノ虞アリ、且其ノ位置ハ北方二偏シ現在ノ区画移住ノ状態ヨリスレバ児童通学上不便アルヲ以テケロチ原野八号公共用地二校舎ヲ改築スルモノトス。
これにより、部の寄付金を一部(結果は90%)財源とする新校舎建築が行われ、
  大5 新校舎三三坪八号線公共用地に落成(五七二円三一銭九厘=うち部の寄付大正五年二〇六円、同六年三一四円)
をみた。このころ大正4年のケロチ原野増区画地貸付告示で、入他者の漸増をみていたが、第一次世界大戦の勃発による農産ブームで入植が加速し、同8年には戸数121戸をかぞえるにいたった。この前後の学校の推移は、
  大6・4・1 教育規程改正で「計呂地尋常小学校」に昇格独立
   ”6・6 床丹特別教授場を芭露尋常小学校より本校に所属替え
   ”8 二学級編成一二〇名
   ”9・4 志撫子特別教授場を芭露尋常小学校より本校に所属替え
   ”9・8 志撫子特別教授場が尋常小学校となり独立
   ”12・7 床丹特別教授場が尋常小学校となり独立
   ”12・11 教室その他三四・五坪増築=二学級編成一六四名

であった。次いで昭和年代に入って計呂地の学校としては最盛期ともいえる時代を迎えることになる。
  昭4・4・4 校舎新築一六○坪および移築二七・五二坪(現校舎前のところ)落成式
   ”4・5・7 高等科併置で「計呂地尋常高等小学校」となる
   ”9・11・15 奉安殿落成
   ”10・10・24 御真影拝戴
   ”14 一教室増築=尋常科四学級二一三名・高等科一学級五六名
   ”16・4・1 国民学校令により「計呂地国民学校」となる
しかし、戦時中の教育費節減で学校施設の荒廃は厳しいものがあり、「校舎の補修はもとより、机の補充も行われず、箱を代用する児童もあった」という。戦後は次のようである。
  
昭22・4・1 新学制により「計呂地小学校」となる
   ”24 校舎五五坪増築(中学校用二教室)
   ”25 一教室(中学校用)と職員室で五三坪増築
   ”26 屋内運動場八〇坪落成
   ”30 普通教室六、特別教室三ほか四〇〇・四一坪(一、一九一万四、九八〇円)新改築落成
   ”40・10・16 新校旗入魂式
   ”41・9・5 中学校の統合廃校に伴い普通教室一と特別教室一を区に無償払い下げ

なお、歴代校長は次のとおりである。
  南場宇之吉(大6・4)、伊藤友範(大8・4)、鈴木彦佐(大10・4)、宮田定次郎(大11・9)、忠島加東太(昭2・5)、横関善蔵(昭4・4)、安藤憲治(昭8・3)、高井三郎(昭16・4)、成中永勝(昭25・11)、大畠繁利(昭27・5)、佐藤丑之肋(昭31・11])、清川璋一 (昭38・5)、由利資朗(昭44・4)、北村英夫(昭49・4)、高井栄作(昭53・4)宇田克巳(昭57・4)

床丹小学校
(佐呂間村に編入)
 明治41年に海岸道路が完成し、それから分岐してトコタン原野を縦断する殖民道路一里余の開削で、農業移住者が稀にみられるようになったが、学校開設の直接的な動機となったのは、同43年にサロマ湖畔に建設されたマッチ製軸工場の操業であった。従業員の集団来往があり、その子弟教育のため、工場主が教場を提供したのにはじまっている。
  明43・7・22 芭露尋常小学校所属「床丹特別教授場」開設=児童一三名
 大正年代初期になって、計呂地と同様に農業移民の入植が増え、工場関係者を対象とする学校の位置では通学に不便を感ずるようになったうえ、製軸工陽が他村に移転して、校舎も転売されるなど、校舎新築の必要に迫られ、これを機会に位置変更を要望する声が高まり、校地決定をめぐって地区内に意見の相違を生じ、奥側と湖畔側の激しい対立をみるにいたった。この間、大正4年に校舎建築促進のため寄付金の申し出があり、翌5年に30坪の校舎建築費として、指定寄付金450円の予算を計上したが、住民の意見が統一されぬため執行できなかったという事態があり、村理事者が強制調停に乗り出した同6年、奥地開拓に重点をおく一派によって、単独に校舎建築が行われ、完成後寄付採納方を申し出るという事態に発展した。申し出を受けた理事者の対応は慎重で、採納の可否が村会に訪問された。
    諮問案第一号 大正六年八月二十四日提出
   計呂地小学校所属床丹教授場校舎ハ楠瀬浩一所有ノ建物ニシテ頗ル狭溢ヲ告ゲ児童収容上困難ヲ来シ滝川工場モ他二移転シ其位置モ目下偏在シ適当ノケ所二移転建築ノ場合二際シ昨今ハ奥方面へ団体又ハ個人ノ移住トナリ続々増煙シ其位置二関シ住民間ノ協議纒ラズ当場二於テ其位置ヲ指定シタルニ不拘奥方面二於テ既二九号二校舎ヲ建築ノ上該物件ノ寄付ノ申出アリ児童教育二関シ其熱烈ノ情察スルニ余アルモ軽挙妄動ノ膀リヲ免レズ依テ其位置併セ寄付受領ノ可否ヲ問フ

というもので、これに対する答申は、
    議 事 録
  本件解決ヲ告グル迄現在校舎ヲ充用スルコトニシテ九号仮設ノ校舎ヲ七号近傍二移転セバ採納スルモノト答申スルコトニ決定本件ハ読会省略セラレタシ

としているが、床丹小学校沿革詰によれば、
   大6・9・1 校舎移転
と記録しているので、結局は9号校舎が使用されたものと思われる。また、同沿革誌には、
   大7・9・10 床丹第二教授場新築設置(旧教授場付近)
とあって、2つの教授場の形跡がみられるが、真相は次のようであった。なお、この間の大正6年6月に計呂地尋常小学校所属となった。
  大正十年二月村会提出議案(第七号)
     教授場廃止ノ件
   床丹第二教授場ヲ廃止シ児童ヲシテ第一床丹教授場二通学セシメ教育上遺憾ナキヲ期セントス
 理  由
  床丹第二教授場ハ東洋燐寸会社床丹工場ノ開業二依り著シク就学児童増加シタル而己ナラズ該教授場教育費ノ内へ年額百弐拾円寄付ノ条件ニテ大正八年度ヨリ開始シタルモノナルモ今ヤ同工場モ閉鎖シ且ツ条件タル百弐拾円ノ寄付ナク開始当時二比シ就学児童半数以下二減ジタル而已ナラズ財界ノ不振二加へ農作及ビ漁業不良ニシテ村民疲弊シ能ク負担二堪ヘザルニヨリ同教授場ヲ大正十年三月三十一日限り廃止シ其就学児童ハ床丹第一教授場二収容シ以テ教育上遺憾ナキヲ期セントス

こうして大正10年4月1日に第2教授場が吸収合併され、児童数61名の世帯となった。
  大12 戸数一五〇余戸児童数九九名となり校舎一六坪増築=一学級編成
   ”12・7・1 尋常小学校に昇格独立し「床丹尋常小学校」となる
   ”15 三学級編成一〇四名
   昭5 校舎八四・七五坪改築
   ”6 不況による財政緊縮で二学級編成
   ”8 三学級編成一四八名
   ”16・4・1 国民学校令により「床丹国民学校」となる
   ”17 高等科一学級を併置
   ”22・4・1 新学制により「床丹小学校」となる
   ”23 校舎四七坪増築(中学校用)
   ”25・11・15 佐呂間町に編入

で、本町所管から離れたが、この間、特殊教授所以来496名の卒業生を送り出している。なお、歴代校長は次のとおりである。
 計呂地尋常小学校長兼任(大12・7)、多田義一 (大13・1)、宮田定次郎(昭2・5)、小野郡太郎(昭4・5)、菊地益延(昭6・4)、蝦名孫次郎(昭8・4)、川越有(昭15・4)、尾形真男(昭16・4)、吉村光二(昭21・5)

北湧尋常高等小学校
(上湧別村に編入)
 明治30年5月に入地した屯田兵の家族の中には、相当数の学齢児童があったため、各中隊ごとに一舎の簡易教場を設け、仮称ながら、
  明31・2・15 第二湧別尋常小学校(北兵村=第五中隊)開設
   ”31・5・10 第一湧別尋常小学校(南兵村=第四中隊)開設

となり、教員は兵村家族の中から委嘱し、特別の俸給は支給せず、児童父兄が毎月1日ずつ「償夫」といって、教員の農耕を助ける仕組みであった。
 翌年、第2次の屯田兵入地で学齢児童が急増したので、屯田兵移住給与規則第14条によって、尋常科4年、高等科4年の学校建設(178・5坪)が行われ、2つの簡易教場を統合(94名)し、新入生99名を加えて、
  明31・12‐1 「北湧尋常高等小学校」開校=尋常科一七〇名、高等科二三名で六学級編成
となった。その後、就学児童の増加や制度改正などで施設の充実がはかられ、
   明33 屋内運動場六六坪付設
    ″34 教員室など二〇坪増築
    ″35 水呑場八坪付設

など官費創立の学校らしく、湧別尋常小学校などくらべものにならない充実をみせた。開拓の進展とともに通学区域も拡大したため、
   明38・11 南兵村二区に二年生までを収容する仮教室開設(出張授業)
    ″39・ I 北兵村三区に二年生までを収容する仮教室開設(出張授業)
    ″41 南兵村二区と北兵村三区に各四〇坪の分教場を建設し仮教室廃止、ともに三年生まで収容

となったが、これらの設置および維持の経費はすべて地区住民の負担でまかなわれ、旧兵村出身者と一般入植者の豊かさの差をうかがわせるものであった。また、就学率も、
  「学事奨励二関スル規程」(明34・3庁令第一五号)に、学区内の児童就学率ならびに出席率がともに九〇%以上に達した公立小学校には、長官から栄誉旗が授与される規定があるが、本校は明治三五年九月二七日に道内一九の授賞校に選ばれた。
など、管内屈指の充実した学校といわれるにいたったが、兵村解体(明36)後の明治41年1月17日午後8時半火災が発生し、
  別棟タリシ物置ヨリ俄然発火シ遂二本家二延焼約四十分ニシテ不幸全部烏有二帰セリ・・・・図書器具ノ全部及ビ机腰掛等ノ大半ハ其災ヲ免ルヲ獲タリ
というように272・5坪の校舎を焼失し、復旧まで465名の児童は仮施設に分散して授業を行った。
 校舎の新築復旧が村会で議決され、総工費8、283円をもって同年10月着工し、翌42年8月30日に352・5坪の落成をみて、9月1日から新校舎で授業が再開されたが、復旧が速やかで、しかも大規模であったことは、本
校の基本財産蓄積金という財源があったからで、村財政の乏しかった当時としては驚異に価することであった。
 明治43年4月1日の上湧別村分村とともに、北湧尋常高等小学校も新村に編入されたが、歴代校長は次のとおりであった。
  下野熊太郎(明31・11)、鈴木三郎(明32・4校長代理)、高橋斌(明32・6)、千葉定雄(明42・4)、柳橋末吉  (明42・10校長代理)
 
遠軽尋常小学校
(上湧別村に編入)
 明治30年5月7日に第1次小作農民を入地させた学田農場は、キリスト教団私立大学設置の理想をもつ北海道同志教育会の事業であったことから、教育事業に対する理解が深く積極的であった。入植者を迎えると直ちに1O坪余の移民集会場を仮教場として教育係を設け、授業を開始しており、翌31年7月の農場経営状況報告には、次のように記されている。
   児童教育ハ秋葉定蔵氏之ヲ担任シ、移民ノ子弟ヲ集メ日々懇切二小学校科ヲ教授シ居レリ
その後、明治33年移住者の増加により、農場管理者信太寿之の発議で学校建築計画をたて、資金獲得のため、部の事業で兵村の排水工事を請負い、その賃金で33坪の校舎建築に着手し、同時に設置認可申請も行ったが、
   明治三十三年十二月十日学校設立授業開始の認可をうけたるも未だ校舎の竣工をみるに至らず、不得止して三十七号線にありし草小屋を借り受けて仮舎に充当し湧別小学校雇秋葉定蔵氏を教師として即日授業を開姶せり<遠軽小学校沿革誌>
といったありさまであった。その後は、
   明33・12・10 湧別尋常高等小学校所属学田分校の設立認可を受け仮校舎で開校=児童二五名
    ”34・1・16 新校舎竣工(六語○円=道補助金一○○円、村費一八○円、住民寄付三七○円)
    ”34・5 尋常小学校に昇格し「遠軽尋常小学校」となり独立=単級四二名
    ”36・10 住民の寄付で宿直室・便所など一八坪増築
    ”37 高等科に準じた補習科(二年)併置
    ”39・1 有志の寄付で教室二〇坪増築
    ”39・4・1 二学級編成一〇七名
    ”.41.4・1 学制改革で尋常科五年までを置く
    ”41・6・5 生野特別教授場開設(本校所属)=児童一二名
    ”42・4・1 六学年一五三名三学級で北見青年会館を仮教室に使用
    ”42・H・24 瀬戸瀬特別教授場校舎完成(本校所属・四月開校)
    ”43・1・19 屋内運動場三六坪など増築(六二七円)
    ”43・4・1 上湧別村分村で新村に編入

と経過し、歴代校長は、次のとおりである。
  安部清柔(明34・5)、遠藤隆(明36・2)、中島宇一郎(明37・2)
なお、生野特別教授場と瀬戸瀬特別教授場の開設に関する資料は、次のようである。
   イクタラ原野の学令児童が増加したことから、奥山吉之助らが中心となり、地区住民の総意による訴えが実って、明治四一年に東六線(現安国市街)に遠軽尋常小学校所属の生野教授場が誕生した。若杉浦太郎所有の小屋を改修した校舎は草葺板囲いの一三・五坪のもので、六月五日の開校にはて一名の児童が就学した。
               <生田原町史>
  瀬戸瀬方面の入植者がふえ、学令児童も一二人になったが、遠軽まで八〜一二q余の道を通学することは容易なことでなかったので、角谷政衛、中沢勝、市川梅太郎、小林七右衛門らが学校設立のため熱心な運動をなし、現在の瀬戸瀬西にー・六五fの校地寄付を受け、松村某の家屋を買い受け、地区有志の寄付(二六〇円)と労力奉仕で移転改築し、明治四十二年十一月二十四日に六九・三平方bの校舎を完成した。
               <遠軽町史>=・開校は翌年四月


湧別中学校  昭和22年4月1日の新学制施行で、新しく義務制3年課程の中学校が設置されることになったが、あわただしい事態の推移の中であったから、4月1日の開校はおよぶべくもなく、開校は6月1日にずれ込んでしまった。その間の経過は、
  昭22・4・10 仮入学式挙行=生徒数二ー四名(一年一一〇名、二年七五名、三年二九名)五学級編成
   ″22・4・11 湧別小学校より五教室を借り受けて授業開始
   ″22・6・1 開校式挙行

と湧別中学校沿革誌に記されており、あわただしさのほども、
   校長内示を受けた湧別国民学校長村上重言が中心となって創立準備を進め、教員は湧別小学校より四名、下湧別青年学校より三名、ほか一名に授業を嘱託・・・・四月一日付の校長辞令は五月二四日に交付され、教員任命は五月一日二名、五月こ二日五名で、従来高等科を収容していた教室を、そのまま中学校校舎に充当し、義務就学の一年生を主体とした編成で、ようやく六月一日に開校式の運びとなった。
と伝えている、また同時に、通学距離などの関係から遠隔地区に分校設置の希望が出たことから、次のように分校の設置をみた。
  昭22・7 登栄栄分校(昭24独立分離)
   ”23・3 信部内分校(昭24独立分離)

昭和23年度になると生徒数が318名に増加し、2部授業が行われるなど、学校経営上障害があらわれ、父母の
中学校教育に対する認識も「外見上生徒の帽子に巻かれた白線の標識のみが、学制改革を強く印象づけた」から、内実的なものへと深まり、同年学校建築促進委員会の結成となった。委員会は村の施策に協力し、校舎敷地の提供、財源供与(村に資金貸付)篤志寄付募金などに奔走し現在地に9月校舎建設に着工した。その後、
新校舎三二七坪(二八五万五、〇〇〇円)落成式
  昭24・3・28 新校舎三二七坪(二八五万五、○○○円)落成式
   ”25・9・25 屋内運勤場新築落成一二六坪
   ”27・12・27 普通教室一増築落成一九・二五坪
   ”28・11・1 音楽教室増築落成四○坪
   ”29・12・27 普通教室一増築落成一九・二五坪
   ”31・5・9 気象観測室設置
   ”32・5 校章および校歌制定

と、着々学校体制の充実がはかられたが、資材の乏しい時代に建築した粗悪な校舎事情は、烈風時倒潰の危険を胎むようになり、また、すき間風が激しく冬季間の生徒の学習や健康管理にも支障をきたしはじめて、道教育委員会からも危険校舎に指定されるにいたった。このため昭和34年に全面改築が決まり、2年継続事業で同年9月着工の運びとなった。
  昭35・10・20 現校舎六六一・二五坪(三、〇二六万金円)落成式
   ”37・4・1 信部内中学校統合
   ”40・4・1 登栄床中学校統合
   ”41・11・13 特別教室(音楽教室、理科教室、家庭科教室、技術科教室)二二一・五五坪落成
   ”42 バレーボールコート・テニスコート完成
   ”45・11・30 体育館落成(三、二三五万円)
   ”45・11・25 開校二五周年記念式典
   ”51・4・1 特殊学級一学級を開設

こうした経過を綴って、湧別地区の中等教育の殿堂として充実をみたが、歴代校長は次のとおりである。
  村上重吉(昭22・4)、新妻松雄(昭24・7)、元村琢磨(昭32・4)、高瀬隆資(昭38・4)、石崎瑛一 (昭46・4)、佐久間清(昭50・4)、岩間寅彦(昭54・4)

信部内中学校
 (廃校)
 昭和23年3月に湧別中学校「信部内分校」が設置されたが、分校では充分に所期の目的を達し教育効果をあげることが困難であるとして、「新制中学校促進期成会」が結成され、7月30日に発足した。
その結果、翌24年度から[信部内中学校」として独立をみた。
 以来、一貫して小学校に併置の形で経過したが、過疎による生徒数の減少と、教育効果の見直しから、昭和37年4月1日をもって湧別中学校に統合することとなり、同年3月22日廃校式を挙げて幕を閉じた。

登栄床中学校
 (廃校)
 湧別中学校の分校が開設されたのは、昭和22年7月19日のことで、初の入学者は1年13名、2年14名、3年4名の31名で、単級編成であった。
 良く24年11月1日に「登栄床中学校」に昇格し独立し、同27年には生徒数50名となって2学級編成となった、その後も一貫して小学校に併置の形で経過したが、信部内中学校と同様な状況から、昭和40年4月をもって湧別中学校に統合することとなり、同年3月廃校式を挙げて歴史を閉じた。

芭露中学校
 (廃校)
 昭和22年4月の6・3制の新学制施行とともに、旧芭露国民学校高等科の教室を利用して、芭露小学校に併置して開校し、同24年には6学級編成(校舎14坪新増築=芭露小学校参照)となったが、戦後の物資不足のときに建てた校舎は、その劣悪から15年を経て種々の面で障害を感ずるようになった。また、生徒数や学級数からみても、網走支庁管内では併置校としては、その規模が大きく、多角的で高度な教育を営むためには、条件を満たす独立校舎による独立経営の必要に迫られ、父母や教育関係者から、再三にわたり独立校舎の要望がなされた。
 しかし、当時「教育施設整備五ヵ年計画」の策定(前節の統合の項参照)が、これにかかわって進行していたこと
から、事態はテイネー以東の小規模併置中学校を解消統合する方向に進むこととなり、昭和38年3月31日をもって小学校に併置の芭露中学校は廃校して、統合を前提とした新しい「芭露中学校」として独立することになった。

湖陵中学校  新しい芭露中学校の創立は、当時の全国的な人口動態に処した文部省の施策(補助金交付などによる学校統合の促進)とも符合したもので、
  昭38・3・31 旧芭露中学校と志撫子中学校を統合のため廃校
   ”38・4・1 芭露中学校新設(当面芭露小学校に存置、志撫子は名目統合とし志撫子分室とする)
   ”38・4・16 初代専任校長発令
   ”38・5・1 「湖陵中学校」と改称
   ”38・8・20 芭露原野一二二五番地に独立新校舎第一期工事着工
   ”38・12・13 校章および校歌制定
   ”38・12・15 第一期光二落成三○九坪(一、七三五万九、○○○円)=一八日移転
   ”39・1・16 閉校式および校旗授与式

と経過して、統合中学校の基礎が整った。その後は、次の経過で現在にいたっている。
  昭39・3・23 志撫子分室を廃止し実質統合
   ”39・3・31 計呂地中学校廃校(4・1より計呂地分室となる)
   ”39・11・14 校合第二期工事三六七坪(二、二八六万円)落成
   ”40・3・18 計呂地分室を廃止し実質統合
   ”40・11・5 校舎第三期工事二ー五坪(一、四〇〇万円)落成
   ”40・11・22 校舎落成式
   ”41・3・31 東芭露中学校廃校(4・1即実質統合)
   ”44・3・31 上芭露中学校および西芭露中学校廃校(4・1即実質統合)
   ”44・5・27 NHK放送教育研究指定校
   ”46・7・27 プール開き(15×25b)

なお、歴代校長は次のとおりである。
  山田敏夫(昭38・4)、松原要(昭42・4)、西沢芳雄(昭45・4)、島田仁(昭49・4)、和仁健太郎(昭52・4)

上芭露中学校
 (廃校)
 昭和22年新学制による「上芭露中学校」の設置がきまり、上芭露小学校に併置の形で、旧高等科教室を利用して開設することとなった。
  昭22・5・3 開校(一年三一名、二年二三名、三年六名)=二学級
   ”22・4・1 西芭露に中学校分校設置
   ”24・11・1 西芭露分校が「西芭露中学校」となり独立
   ”42・10 開校二○周年記念式典

の歩みを記してきたが、昭和42年ころから湖陵中学校への統合問題がおこり、中学校統合問題特別委員会を設けて検討を重ねた結果、昭和44年3月31日をもって廃校することに決定し、昭和44年4月6日に閉校解散式ならびに離任式を挙げて歴史を閉じた。

西芭露中学校
 (廃校)
 昭和22年から西芭露小学校の旧高等科教室を利用して、上芭露中学校「西芭露分校」が開設されることとなった。最初の入学者は1年28名、2年11名、3年1名の単級編成であった。その後、
  昭2318・26 上芭露中学校より通勤授業開始(それまでは西芭露小学校教員によった)
   ”24・11・1 分校から「西芭露中学校」に昇格独立=一学級
   ”32・6・24 テニスコート設営

などの歩みを綴ったがヽ上芭露中学校と同様のすう勢からヽ昭和44年4月1日をもって湖陵中学校に統合することになり、昭和44年3月31一日廃校となった。

東芭露中学校
 (廃校)
 昭和22年4月1日施行の新学制で「東芭露中学校」の設置かきまり、東芭露小学校に併置の形で、旧高等科教室を利用して開校した。       
   昭22・5 ・1 開校=生徒四四名
しかし、全町的な学齢生徒の減少から、より高度な中学校教育のため小規模校の統合が進められ、昭和41年4月1日をもって湖陵中学校に統合することとなり、昭和41年3月31日に廃校し、19年の幕を閉じた。

志撫子中学校
 (廃校)
 昭和22年新学制施行に伴い、志撫子小学校に併設の形で、旧高等科教室を利用して、計呂地中学校「志撫子分校」が設置されることになった。そして、
  昭22・5・1 分校開校=一〜二年三八名入学
   ”24・9・1 「志撫子中学校」に昇格独立=二学級編成六七名
   ”35・10・24 国鉄志撫子乗降場の生徒による清掃奉仕に対し旭川鉄道管理局長より表彰
   ”34〜36 作文と放送活動(志撫子小学校の項参照)

の記録をとどめたが、学校統合という時代の潮流から昭和38年3月31日をもって廃校することとなり、
  昭38・4・1 名目統合により湖陵中学校志撫子分室となる
   ”39・3・22 分室廃止により閉校式

をもって栄光の幕を閉じた。

計呂地中学校
 (廃校)
 昭和22年4月1日新学制による「計呂地中学校」設置がきまり、計呂地小学校に併置の形で、旧高等科教室を利用して開校した。その後、
  昭22・5・1 志撫子分校開校
   ″24・9・1 分校が「志撫子中学校」に昇格独立

があったが、計呂地地区の中等教育の期待を集めて16年を経過したとき、志撫子中学校同様に学校統合の対象となり、
  昭39・4・1 名目統合により湖陵中学校計呂地分室となる
   ”40・3・18 分室廃止により廃校式

をもって、発展的解消をとげるにいたった。

床丹中学校
(佐呂間村に編入)
 昭和22年4月に新学制による「床丹中学校」が、床丹小学校に併置の形で、旧高等科教室を利用して設置されることになった。
 しかし、設置後間もなくの昭和25年11月15日、これから充実というときに、床丹地区の佐呂間への編入で佐呂間村に移管された。

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