湧別町百年史 付  録

昭和の小漁師topへ


その (1) 地域の開基と創成
    (2) 他村に編入された地区

(1)現存する地区
湧別(市街) 本町の開基立村にいたる沿革および村政基盤の形成当時の経過については、先史〜開拓〜行政の各編に記しているので、ここでは略述する。
 湧別原野に半沢真吉が来往して農耕をはじめたのが明治15年で、同17年には湧別駅逓所が開設され、同24年には殖民区画測設がなされて開拓の脚光を浴びるにいたった。明治29牛には早くも50余戸の湧別市街を形成するにいたり、翌30年7月15日に湧別村戸長役場の開設をみるにおよんで、村行政上の中心拠点としての地位が約束された。
  明30・6 湧別尋常小学校開設
  〃32   湧別港が定期航路寄港地となる
  〃33   湧別村農会結成
  〃34   網走警察署湧別分署設置
  〃39・4 2級町村制施行
と、行政、産業、教育の進展とともに中心地区(市街)としての形態が整い、大正3年には157戸789人の戸口をかぞえる市街地に成長した。
 さらに湧別市街の発展を促進したのは、第一次世界大戦による農村ブームの現出と、それに拍車をかけたかのような湧別線鉄道の開通と湧別駅の開業で、農産物の市場性が高まるという環境情勢の変化で、浜市街の衰微はあったものの、湧別市街の新たな形成が進み、大正6年には331戸2、655人)の大市街を形成するにいたり、村の中心拠点としての様態が充実したものとなった。

4号線(錦)  4号線の開基は、竹内文吉が利尻から移住して農業経営をはじめたときとされているが、竹内文吉の来往については、  明治24年佐渡入竹内文吉利尻ヨリ4号線付近二移住シー農園ヲ拓キ……<兵村誌>
  竹内文吉ハ単独ニテ26年ヨリ入り居レリ、上野氏ノ来リシ時ハ唯竹内ノミナリキ<河野常吉野帳>
  基線20番地46反6畝3歩明治30年11月26日付与竹内文吉<土地台帳>

などの記録があるが、明治30年付与からみて、成功検定期間を逆算すると、明治26年の入地が正しいようである。
 次いで、明治27年に岩内方面から、宮崎寛愛の誘致した13戸、翌28年には礼文島から上野徳三郎、渡部精司、横沢金次郎ら入植者が相次ぎ、57区画の植民貸付地は、たちまち満たされ、開拓は順調に進展した。
 明治31年に紋別道路の開さく開通が成って、4号線分岐点は、にわかに交通の要衝となり、旅館、飲食店、浴場、劇場、商店などの開業をみて小市街を形成し、奥地住民の市場として活況を呈するにいたった。さらに、明治36年にはマッチ製軸工場(3号線)、同43年には郵便局、大正2年には公設消防組の開設などがあり、110余戸の市街地を形成するにいたり、総戸数は200戸を上回る勢いであった。
 以後、湧別市街(浜市街)と比肩して推移したが、大正3年の湧別線鉄道の開通と湧別駅の開業により立地事情が著しく変化し、市街地が衰微した。
川 西








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 明治24年に西6線まで殖民区画された川西は、いち早く農業適地として着目され、貸与告示(明30)に先だつ同27年から集団移民が入地して開拓に着手した。その経過をまとめてみると、
県別
年次














明27
〃28
〃29
〃30
〃31
〃32
14
























15









10余
のような推移があって、明治33年ころの居住者名簿では63戸をかぞえており、明治27年入地者のりーダーであった河井豊吉と泰泉寺広馬、および同28年の西沢収柵らが開基の人といえよう。
 しかし、当時の貸付区画図をみると、95区画のうち91戸分に貸付者氏名が記載されていて、前述の63戸とひ
らきがあり、出願者のすべてが入地しなかったことを物語っている。また、経済基盤が貧困なため定着性に乏しく、転出入がはげしかったとも伝えられているが、明治40年の戸数割賦課名簿には64名が記載されていて、開拓の進展で明るい見通しを得たことを証明している。その後、
  明41 湧別小学校特別教授所開設
   〃43 馬頭観世音建立
   大4 川西神社造営

などにみられるように、地域の団結と安定がみられ、村内一の沃土にも恵まれて、健全な農村集落が形成された。
 戦後、西6線以西の未墾地帯が解放されて農家戸数が増加し、村内一の農業生産地帯に発展した。
 なお、区名の「川西」は、湧別川の西の地域だから便宜的に、だれいうとなくいいだした呼び名で、それが行政上にも定荷したものである。

信部内  区の名が「信部内」として定着したのは大正3年のことで、他地区にくらべて歴史は新しいが、史実にここの地が名を止めたのは、湧別に次いで古く、寛政10年(1798)の谷口青山の「沿岸二十三図」に、
 シブンノツナイ コムケトウより2里、夷ヤ6,7平山木ナシ、沼アリ砂浜也沼尻川アリ、舟渡シ幅12,3間至テ深シ縄ニテ舟ヲクリ渡ル

と紹介されており、次いで、
  シユンノツ 小休所、夷家一<弘化3=1846、松浦武四郎[再航蝦夷日誌」>
  八月六日ヤシユウシ沼、チブンノチ沼を渉り、熊笹人丈も栄へたる所、馬道有り……<安政4=1857、島義勇「入北記」>

とある。開拓使が北見4郡の村名を定め(明5)たころから「シユブノツナイ」と通称されるようになり、それが転出して「シブノツナイ」となり、「渋野津内」と当て宇も用いられるようになった。その面影は現在も「シブノツナイ川」 「シブノツナイ湖」に残されている。明治12年の酒井忠邦の「北地履行記」には、
  シユブノツナイ 渡船場凡四十間 人七厘馬一銭
とあって、交通路として古くから知られていたことを物語っている。
 明治32年にシブノツナイ川両岸にまたがるシブノツナイ原野708町余 が、信太寿之ほか1名に牧場として貸付けられ、同34年に貸付地内左岸にマッチ製軸工場を設け、労務者を誘致したのが開発の端緒であったから、これが信部内の開基といえよう。     召
 信太寿之のマッチ製軸工場は明治37年に中止され、以後、牧畜主体の開拓に転じ、明治40年の戸数割賦課名簿には18名が名を達ねる地域となった。
 信部内の開拓と地区形成の特色は、一帯が信太寿之に独占され、その企業方針によって左右されながら推移した点にある。牧畜に転換すると同時に秋葉定蔵を管理人として居住させ、牛馬各20頭を放牧し、明治42年には牧場付与条件を満たすために牛200頭を買い集め、成功検定後に売り払って農場経営に転換し、
  明45 秋田県から5戸
   大2 道内尾幌の19戸を含む25戸

など小作人の誘致により農業開拓が開始され地区成立の基礎が形成された。
 大正3年9月に教育所が開設されるのに伴い、信太寿之の発案で「信太の信」を冠して「信部内」と定め、以来、
行政上も信部内と呼称された。
 大正8年に農場は水田開発に着手し、ダム建設に全財産をかけるほどの熱意を傾注したが失敗に帰して、昭和2年に信太寿之の所有地は、すべてが北海道拓殖銀行の手に移り、農家は銀行の小作人となったため、戦後まで小作農の不利な立場から脱出できなかった。しかし、大正10年の名寄線鉄道の開通は、農林産の伸展を促進し、一時は拠点小市街もみられるようになったほどである。

緑 陰  大正元年にハッカ栽培を志向した川西の横尾吉作、菅井藤次郎らが、中島宇一郎(上湧別村)の小作人として入地したのが、開拓の緒であり開基である。南東から北西に2条に走る山陵の狭間の緑蔭は、農耕適地の狭少な地帯であるが、その後、第1次世界大戦による農村ブームに乗って入植者の増加をみ、大正5年に特別教授所が開設されたが、曲折があって教授所は2回も休止している。
 しかし、大正8年に教授所が再興され、戸数もハッカ栽培や木炭製造で増加するにおよんで、昭和3年に信部内地区から独立して、行政区の形成となり、その後は、
  昭6=48戸  昭8=53戸
とピークを示した。
 ところが、ハッカ景気の停滞と狭少な農耕地という悪条件から、昭和10年は39戸に減少、以来、戦後にかけて離農転出が相次ぎ、区内は衰退の一途をたどった。
 地区名の「緑陰」は、新興の地域らしく、新鮮な語感をもっているが、特に難しい根拠によるものではなく、「豊かな山林の縁につつまれた山峡の里」の意味をこめたもので、盛期には西緑陰、中緑陰、東緑陰と呼ばれていたが現在は西緑陰区のみが残っている。

登栄床  登栄床の地が記録に止められたのは、湧別に次いで信部内とともに古く、寛政10年(1798)の谷口青山の「沿岸二十三図」と、武藤勘蔵の「蝦夷日誌」に、
   トキセ 夷ヤ六、七海岸ヨリ五、六丁西へ林中ヲ行トキセニ至ル、シヤルマトウ世清水アリ、中ヲ舟ニテ行八里、海岸ヲ行ハ砂浜也、兼テ沼中ヘトコロヨリ舟ヲ廻シ置クナリ。<沿岸二十三図>
 ユウベツより一里四丁トイトコ野立御小休あり、ユウベツより一里トクセ御野立あり<蝦夷日誌>

と記され、次いで享和元年(1801)の磯谷則吉の「蝦夷道中記」にも、
   ユウベツを出て壱里半計にてトクセイと云所の浜より右の方林中に入る事四、五丁にしてサンルトウ有、南北はせまりて東西六里余南に連山連重して北は戸林なり・・・・此所にアハシリより舟廻し置ぬれば……舟多からねば残りの人びとは蝦夷にとり海岸にそうて行に……トクセイニ戸、トイトクニ、三戸……
と記されている。
 登栄床の開基と思われるのは、明治33年に(夸)を屋号とする小樽の藤山要吉が、トクセイに海産干場の所有権を登記したときで、
  蹴揚由之助(夸)番屋の番人として冬季聞越冬せしに始まる。同氏の頃は対岸バローの未だ開発せぬ以前にて汽船より荷物を外海に荷揚されしを、更に湖上船にて運びし事ある由にて……<登栄床小学校沿革誌>
という記録がある。
 次いで、ホタテ漁の勃興で、明治35〜45年ころに本町の漁業が著しい発展をみたのに併行して、各所に番屋が開設され、越冬居住者もあったと思われるが、実情は明らかでない。その後、
  大正6年4月17日播摩栄之助信部内方面より、牡蛎採取の目的にて当地に来り、永住の意志を固め一家を建設する。前年外海に住んで12月来の大暴風雨の大波を受けて、損害甚だしかりし漁業者は湖岸に出づる者多く、大正6年中に約20戸を数う、然れども何れも冬季は他に移住したるものなり。<登栄床小学校沿革誌>
と、湖内漁業や居住環境への役目から、地域形成が緒につき、播摩栄之助がカキ氷曳き漁法を考案するにおよんで、冬季間の漁も可能となって定往昔が増加し、昭和3年に特別教授所の開設とともに、湧別市街管轄から分離されて、行政的にトエトコ区が誕生した。
 昭和4年4月の悲願の湖口開通は、漁業基地としての展望をひらき、昭和6年は69戸、同8年75戸、同10年98戸と戸数が増加して、集落の様態が充実した。

 明治24年に植民区画測設が実施された東1線以東地区は、同27年に貸付戸数117戸の移民が計画され、翌28年に貸付告示されて、同29年から入地者をみた。明治30年ころと推定される貸付者氏名入りの図面によると、貸付許可戸数は151戸に達しているから増区画されたものと思われるが、実際には、かなりの未入他者があって、
  明28 八木徳太郎が大地=開基
   〃30 高橋長四郎がハッカ栽培をはじめる
   ″31 松下栄五郎(徳島県)と佐藤善蔵(山形県)の団体移住者入地、山田光治がテイネーで漁場を開設し回漕業を兼ねる。

など、このころに11戸ほどの入植があったに止まり、その後、東三線排水溝および道路、東5線と6線の排水溝が明治36年に開さくされ、同40年に2号道路が開さくされて、9戸ほどが入植し、湧別川東岸側の地域の基礎が形成されたのである。そして一般に「東殖民地」と呼ばれるようになった。
 明治43年の第1期北海道拓殖計画の発足とともに、入植着が増加したが、地味がやせていたため定着する者が少く、大正5〜6年ころになっても35、6戸に過ぎなかった。この間、
  明43 特別教授場開設
   大2 馬頭観世音を祀る
   〃3 青年会結成

など、地域づくりの営みが進んでいたが、その生活は農外所得依存度が高く、湧別港の荷役や鉄道敷設工事に全戸が出役したという。
  「東」と紆ばれるようになったのは、昭和4年12月の行政区の改称のときからであるが、開拓の遅れから、その後も「殖民地」の呼び名が通用されたという。なんとか転機をという願いは、昭和6年の湧別土功組合設立による水稲栽培で活路をひらき、小作人が続々入地して一時は84戸を数えるまでになったが、相次ぐ冷害凶作で窮乏のどん底に汲閨A昭和11には37戸に減少した。
  「東」の暗雲が拭い去られたのは戦後のことで、昭和20年に土功組合の負債が政府助成で整理され、不良土壌地帯として放置されていた7線以東の636町歩余が、戦後緊急開拓地に選定されて、昭和24年以降、新規入植者59戸と既存農家(増反)46戸による開拓が進み同39年水田廃耕による酪農への切替により安定した。
  「東」という呼び名は、川西とまったく同じ命名で、湧別川の東の地域ということで、川西に対する川東の意味で
ある。

福島団体(福島)  大正5年に10号線東7〜10線の81町歩余に殖民区画が行われて、売払い処分が告示され、福島県から佐藤源治、杉本祐進、西川藤二郎ら13戸の集団入植をみたのが、開基で、昭和6年に通称の「福島団体」を正式呼称として、東から分離して行政上の独立区となった。
 いっぽう、6〜9号線の上湧別村界〜湖畔の一帯は兵村給与地として、上湧別村財産に帰属し、開拓の行われない土地であったが、昭和6年に民有未墾地として解放されることになって、同9年に上川方面から木下宇八、横関治平、若松卯吉ら13戸が7号線国道沿いに入植した。
 昭和9年の20戸以来、徐々に発展し、昭和11年には29戸をかぞえ、戦後は周辺が緊急開拓地区に選定されて19戸の入植をみた。しかし、昭和30年の52戸をピークに営農形態の変容に伴って、戦後入植者のほとんどが離農するなど減少傾向をたどった。
 なお、呼称が福島団体から「福島」に変更されたのは、昭和33年8月の「区設置条例」公布のときである。

芭 露  明治29年に東京の奥三十郎が、バロー原野100万坪の貸付を受けて農場開設を計画して、岐阜県および福井県から小作移民を募集し、翌30年に16戸64人の入植をみたのが、テイネー以東の開拓のはじまりである。
  芭露発祥の地
  昭治二十元年奥三十郎氏が川舟でこの地に上陸せしことをもって芭露の開基とす
   開基八十周年を記念し之を建つ
  昭和五レー年十月一日

と刻まれている。長屋藤肋、武藤留肋らは勇躍して奥農場に入地したが、資力に乏しい入植者らは小作契約により食糧、農具など一切を地主から支給を受けて開拓に従事したものの、湿潤地で農耕の見込みがたたず、このため地主は計画を放棄して、小作者に無断で事務所を閉鎖し、引揚げてしまった。帰国する旅費もない小作者は不遇の中で、この地で生きぬくことを決意し、農耕適地を物色して、食糧自給にいたるまでは、山菜や川魚で飢をしのいで定着の努力をしたという。
 明治33年に殖民区画測設が行われ、翌34年に貸付告示がなされるにおよんで、入植する者が相次いで、同35年には33戸をかぞえ、
  明35 七号線〜計呂地川沿いの網走道路(現国道二三八号線)開さく、簡易教育所開設
   ″37 芭露原野道路(殖民道路)開さく

で入植者が増加して、地域の基礎が形成され、明治39年には行政上の単位集落となった。
 明治41年に芭露川上流奥地の入他者の増加に伴い、12号線を境界(大9=11号線に変更)に地域を分割して「上芭露」 「下芭露」の呼称が生まれ、昭和4年末に「芭露」と改称されるまで下芭露と呼ばれていた。
分割後の下芭露は特有の湿潤地であり、小西平治が560町歩の牧場経営を企画(短年で内山之成に譲渡され大口丑定が管理)したことにより、自由移民の余地がせばめられ、仲びなやみの観を呈していたが、第1次世界大戦による木材産業の勃興をきっかけに市街地形成の機運が醸成され、各種公共施設の開設と相まって、湧別に次ぐ本町第2の集落に成長し、昭和10年の鉄道開通でさらに発展した。
 ここで「芭露」という名称についてふれると、アイヌ語の「パロー」が和人によって「バロー」と濁音化し、次のようにさまざまな変遷をみている。
   明30・7 奥農場発給の”通い”(物品買物帳)に「湧別村バロー」とある
    〃34・3 道庁発行「第二北海道移住手引草」に「バロー原野」、その添付地図に「パロー川」とある
    ″35・9 簡易教育所名を「馬老簡易教育所」としたが地区名はバロー
    ″41・1 簡易教育所の昇格を機に「芭露尋常小学校」とする(本間省三の提案)
    ″45・2 道庁発行の東・西ノ沢殖民増区画地図に「紋別郡パロー殖民地増画図」とある
    昭4・12 正式に「芭露」に統一


上芭露






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 いまの上芭露、東芭露、西芭露は、開拓以来、芭露とともに「バロー原野」と呼ばれ、昭和4年の字名改正で現呼称になったもので、農業開拓の歴史は共通した基盤の上にあった。明治34年の殖民地放下告示とともに、ぼつぼつ入植者をかぞえ、日露戦争が終結するとともに、同39〜40年に北兵村の戸主や分家を主体に、にわかに多くの入植者をみた。
 最初の入権者は、学田農場から転出の加藤作次郎、橋本亀太郎、市川清吉、楢崎勇五郎、西脇留五郎らといわれ、
次いで明治36年に野付牛屯田から上伊沢伝が入植、そして同39〜40年の入植で38戸に達し、
   明40   14〜19号殖民道路開さく
    〃41・1  簡易教育所を開設(仮校舎)
    ″41・12 12号線以南を分割して単独行政区を創設
    ″43   16〜23号殖民道路開さく
    ″44   東ノ沢、西ノ沢の殖民地増画側役

など地域の充実が図られたが、その開基は、明治41年5月27日に校舎新築がなって、開校式を挙げたときとされている。
 特作物ハッカの適地として、さらに奥地開発が進展するにつれて、17号付近が分岐点の地の利もあって地域の中心部となり、大正年代になってハッカ取引を主体とする産地市場を現出するにいたった。旅館、料理飲食店、雑貨店、呉服店、小間物店、文具店が軒をつらね、学校(移転)、郵便局、巡査駐在所、医院、駅逓所など公共施設も整って、100戸に余る市街地を形成し、さらに、この間、
  大6  志撫子、計呂地、床丹を結ぶ山道開さく。三菱が東ノ沢の造材に進出
  〃12 国有種馬所開設

があって、林産と馬産でも枢要な基地となり、名実ともに芭露原野の中心地(テイネー以東の主邑)として繁栄した。しかし、
  昭 8 産業組合設立で仲買商人減退
  〃10 湧網線開通で中心地が芭露市街に移行
  〃12 日華事変勃発でハッカの衰退
で、上芭露市街地は往時の盛況を失うにいたった。

東芭露  開拓期の東芭露は、バロー原野の「東ノ沢」と呼ばれ、村内でもっとも奥地に位置していたせいか、隣接地区にくらべると遅れて開拓の鍬が入れられた。明治42年に原野貸付告示がなされたが、同年9月の許可を待たずに出願者の矢崎保之肋、鬼頭平吉、鬼頭馬之劫、加藤定次郎の4人が4月に入地したのが東ノ沢開拓の第一歩であり、この年の12月には計呂地で小作をしていた中原庄兵衛が来往し、 東芭露開基の年となった。その後も入植が相次ぎ、
  明43 個人入植20戸
  〃44 個人入植8戸
  ″45 福島県団体(渡辺高裁団長) 10戸、鈴水定次郎(千葉団体長=先駆)、個人入植5戸
  大2 千葉県団体11戸(後続)、個人入植11戸
と、わずか5年で70戸をかぞえ、東ノ沢に集落の基盤が形成されたが、こうした和人の定住以前に、道路もない東ノ沢の原始林にアイヌが先住していたことが、
   アイヌの家が二戸あり、一戸は死亡してか空家であったが、もう一戸は夫婦と子供の三人が住んでおり、大正九年ころまで居住していた。名前は忘れたが、24号の山すそに住んでいた。<落合マサ談>
のように伝えられている。
  大2・5・1 東ノ沢特別教授場開設
   〃2・8・1 上芭露から分割し「東ノ沢」として独立
   〃2・10  独立記念に神社創建

があって、単位地区の発足をみ、以来、
  大8 23〜30号の道路開さく  
   ″10 千葉団体に通ずる支線(二六〜二九号)道路開さく
   大11 26号〜西芭露の道路開さく
   昭4 千葉団体〜若佐41号沢の道路開さく

など交通路も逐次開さくされ、昭和4年12月に区名を「東芭露」に改められたが、この聞、農業開拓以外にも、大正6〜7年にはじまったシャクシバローの造材(三菱美唄炭坑など)などが、地域の隆昌にあずかるところ大であった。

西芭露  西芭露は東芭露とほぼ同様の開拓の過程をたどった地域で、開拓期にはバロー原野の「西ノ沢」と呼ばれておりヽ明治42年に東ノ沢、西ノ沢の原野貸付告示がなされ、その年の11月に高橋忠兵衛、高橋秀太郎、千葉仲肋ら7名が入植して、開拓の鍬かおるされ、西芭露開基の年となった。当時の殖民区画は西3〜西9線の聞で、そのうち西3〜西7線の間は村有地とされていたが、それを知らない入植出願者は手近な下流の土地を申請し、支庁に出向いて初めて事情を知り、改めて西7線より上流の上地を出願して入植するという一幕があった。次いで、
  明43=4戸 明44=9戸
と入植をみたが、明治44年に山火があって、地区のほとんどが焼け出される(2戸だけ残る)という災難をこうなり、苦難の開拓がつづいた。しかし忍耐強く定着し、同45年にはさらに入植者がふえて、29戸をかぞえるまでになり、地域形成の基盤ができた。このため、
  大2・7・28 西ノ沢特別教授場開設
   〃2・10・5 部の独立総会を開き上芭露地区から独立し「西ノ沢」となる
   〃2・10   独立記念に神社創建

があって、単位地区の発足となり、以来、
  大6  西4〜7線の道路開さく
   ″7  三菱美唄炭坑が道材開始(大11まで)
   ″10  上芭露境界〜8線18号および8線18号〜遠軽の殖民道路開さく
   ″14  8線18号から奥への道路開さく

など道路開さく、林産事業があって文化と経済面に好結果をもたらし、大正14年には53戸をかぞえるにいたり、昭和4年12月に区名が現在の「西芭露」に改められたが、一貫して地域の開発発展の原動力となったのはハッカ耕作であった。そうしたハッカの伝統は、戦時〜終戦直後のハッカ耕作減退期を経て、再び峯田繁蔵らによりハッカ再興運動の組織的(耕作者組合)な推進となり、ハッカ専業の面影を西芭露によみがえらせた。佐藤信雄が作詞した郷土讃歌の一節に、
  風雪ここに五十五年 たゆまぬ生気花と咲く
  薄荷の匂ふこの郷に 高く歌はんいざ我等

とあるのが、地区とハツカのきずなを余すところなく歌いあげている。

計呂地  明治33年に志撫子の湖畔から11号にいたる106万4、554坪が区画測設され、翌34年に86区画に線引きされて貸付告示をみたが、開基のもようは、
  明37 測設に従事したといわれる上川の藤永栄槌が7戸分を出願し入地
  〃38 長屋熊太郎が来住、北兵村の渡辺由太郎と伊藤常吉が通い作
  ″39 湧別市街から如沢元蔵か転住
と入他者は少かった。明治40年7月に行政上の単独地区として芭露から分割独立し、同年9月に簡易教育所の開設をみて地域の基礎が定まったものの、戸数は13戸(戸数割賦課名簿)の小集落であった。このことは、農業生産物は市場に遠く、運賃がかさむので買人がなく、作付の選択の必要もないため、
 開墾地ぜんぶに麦を作付し、もっぱら自家用に備えることにした。主人が木挽職だったので床丹浜などに出稼ぎして賃金を得て、家計をまかなった。<如沢スミ談>
という交通事情の未開に起因していた。
  明41 計呂地殖民道路(11号まで)開さく
で漸次入植者の増加をみて、明治43年には床丹地区を分離し、同44年の戸数は42戸をかぞえ、商店の開業もみられるようになった。さらに、翌45年に志撫子川沿いの開拓が緒について、大正2年に志撫子地区を分離し、現在の区域となった。
 大正3年に874町歩の増画測設が行われ、翌4年に貸付告示がなされるにおよんで、第一次世界大戦の農村ブームの好影響もあって入植者が急速に増加し、豆類の耕作を主体として開発が著しく進展した。そのあたり、学校児童数をみれば、
  大3=25名 大6=95名 大11=164名
と増加したことが雄弁に証明している。その後、
   大10 11号〜佐呂問道路問さく
    昭3 産業組合設立
    ″5 郵便取扱所開設

など、地域の充実に資する経過があったが、延長3里余に散在する辺地農業の不利は、容易に報われなかった。しかし、昭和10〜11年の湧絹綿開通により、駅前市街の形成が進み、計呂地駅と駅前市街が拠点(基地)機能を帯びるにいたって、10号付近を中心とする地区構想とは噛み合わなかったものの、地域の核ができて主要集落に成長した。

志撫子  明治29年末にシブシの浜にきた畑田春松が、翌年から湖内の漁業権を得て、2年ほどテイネーから舟で通い漁に来たのが、シブシに人跡を印した最初といわれ、畑田春松は同33年にシブシ浜に定住し、人煙第一号でもある。前後して同32年から尾張蔵之劫も通い漁をはじめ、同34年に兄弟の尾張蔵吉、深沢倉助とともに入植した。
このころが志撫子の開基と思われるが、なぜか、志撫子の開基は明治36年になっている(昭48=開基70周年記念祝典)。
 志撫子開拓のいとぐちは、明治33年のシブシ湖畔を含む計呂地原野の殖民区圧制設、翌34年の区画貸付告示、同35年の網走道路開さくによって開かれ、先述の尾張蔵之助は漁業、尾張蔵吉と深沢倉助は農業移民であった。その後、
  明38=野崎勇吉(農業) 明39=桑田万次郎(同) 同40=水島徳太郎(同) 水島熊八ら2戸(漁業) 明41=木戸福二郎ら2戸(農業) 同49=今井八五郎ら2戸(同) 明43=高橋徳治郎(商業)
と入植者が相次いだか、漁業は産業編で述べたように専業化にはいたらず、農業も栽培技術の幼稚なことと、野うさぎや縞ねずみなどの跳りようで、徒労に終ることが多かったという。そのため、
  4〜5戸の孤立した農家では成り立たないことから開拓の拡大を計るため、奥地の調査を行い、区画設定を当局に陳情し、その結果・・・・<畑田幸五郎談>
といった働きがあって、シブシ川洽いの原野区画がなされ、明治44年に貸付告示されて、次のように開拓が促進された。
  明44 静岡団体(岡田金七団長)13戸入植
        愛知団体(小島春吉団長)5戸入植
   〃45 シブシ川沿植民道路開さく
        深澤武康(商業)、中野川栄吉(農業)来住

この結果、大正2年になって、計呂地地区から分離され、行政的にも独立の区域となり、翌3年には志撫子特別教授場も設置され、
  大5 (丸わ=屋号)の沢の造材開始(大7・3まで)
   〃6 上芭露〜志撫子〜計呂地^床丹の間道が開さくされ地区の中央を横断
   〃7 社名淵団体(図子甚助ら)5戸および星野農場6戸が入植

など、集落化が進行し、開校当時28名であった教授場の児童数も、大正9年には90名をかぞえるまでになり、村内ではめずらしい農業と漁業の2面性をもつ集落に成長した。

(2) 他村に編入された地区                        topへ

屯田兵村(上湧別)  屯田兵については開拓編で詳述したので、ここでは省略するが、屯田兵村が本町の開拓に大きな影響をもっていたので、そのあたりを略述する。
 屯田兵村の形成は、一般開拓地区とは異なり、厳然とした制度と統制の上に成立したのが大きな特色であり、兵村建設工事による受け入れ準備(明29より)が成されたところに集団入地した点にも、他との差異があった。明治30年に200戸、翌31年に199戸と、大集団で入村し、わずか2年で南兵村と北兵村を合わせて399戸の密居制大集落が実現したのであり、さらに、明治32年には兵村構想の仕上げとして、17号線を中心に市街区画が設定され、屯田市街の形成が促進されて、開拓地としては、一般開拓者がうらやむばかりの充実した集落形成となった。
 明治36年3月に屯田兵制度が廃止されたが、制度と統制で他より開拓が著しく先進していた屯田給与地は、一般行政地に編入されてもゆらぐことなく、村づくりへの意欲も先進的なものがあった。
学田(遠軽)  明治24年に中央道路が開通し、翌25年に基線道路が開さくされるにおよんで、明治24年に植民区画地に選定された湧別原野奥地は、にわかに時代の脚光を浴びるようになった。
 この地域に着目した北海道同志教育会は、キリスト教の理想郷建設を志し、教団の大学開設を目的とする学校基本財産造成のため、学田創設を計画し、明治29年に貸与を出願した。当時の状況は、同29年10〜11月に調査の「北海道植民状況報文」の湧別村の項に次のように記されている。
      第4小作植民地
  サブナラ川以南野上駅舎に至る間は明治29年押川方義外4名へ各賃下予定地として許可す。其地積各々81万坪合計405万坪之に入るべき小作270戸とす。蓋し此出願は5筆に分ると雖も其の実は一団の耶蘇教が学田として開墾する所なり。
未だ事業に着手せざるを以て成績と云う能はず。

この地に第1陣として入植したのは、明治30年5月7日に新潟県から移住した約30戸であったが、同年は天候に恵まれず、農場の給与も不十分であったため窮乏に陥り、開拓意欲は挫折して、農場側の違約を理由に離散者が続出し、残留者は7人ぐらいであったという。次いで翌31年5月3日に山形県から70余戸の入植があったが、早々に大水害にあい、居小屋の流出、水死者も出るという事態に前年以上に困窮し、農場側の救済も行きとどかぬままに、離農者が続出した。
 小作人の離散、水害の打撃で経営資金も不円滑となって同志教育会の計画は挫折を余儀なくされたが、残留者の不屈の開拓とハッカ栽培の成功で基盤が形成され、明治末期には市街地が形成されて急速に発展した。

床丹(佐呂間)  床丹方面の植民計画はケロチ原野と同じ明治33年で、124万9,200坪が翌年貸付告示されたが、特に辺地であるったためかえりみられなかったとみえ、
  明40 床丹駅逓所設置(取扱人=長船慶喜)
  〃41 海岸道路(網走仮定県道)および原野植民道路開さく
  〃42 村の戸数割賦課人名簿に長船慶喜と小関丑松の名がある
  〃43 前年に杉本善太郎、楠瀬彦九郎、宮崎覚馬、橋本与三吉が貸付を受けたが、橋本のみが入植(120町

と開拓は遅々としていた。しかし、明治43年6月に日本燐寸株式会社猿澗工場が湖畔に建設されて、軸木製造の開始により、従業員30余戸の入地があり、7月には早くも床丹特別教授場(湖畔側)の開設をみ、行政的に計呂地地区から分離し、独立の部となった。そして翌44年には農家戸数も10戸前後になり、部内戸数は45戸をかぞえた。その後、
  大3 植民増画測設(437町歩)
   〃4 増画地の貸付および売払処分告示
   〃5 床丹川上流川沿い道路開さく
       吉野団体入植

などがあって入植者が増加し教授場はさらに1ヶ所設置(中央部)され2校となったが、マッチ軸木工業の衰徴で、大正10年に学校は中央部に統合されて1校に戻り、農業主体の集落が進行した。
 昭和11年に湧網線の開通をみて、交通や流通事情が好転し、床丹駅周辺に小市街が形成され、地区の機能が充実したが、地理的に佐呂間町に近接し、佐呂間市街への依存度の高い旧来の伝統は不変であった。このことが昭和25年に佐呂間村に分割編入する導火線となった。

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